今日は最近話題になっておりますウィリアム・モリスにつきましてお話をさせていただきたいと思います。ご承知のように、ウィリアム・モリスは、一八三四年に生まれ、一八九六年に亡くなった、イギリスのヴィクトリア時代を代表する芸術家のひとりであります。近年日本におきましても、モリスを扱った書物が積極的に刊行されるようになりましたし、さまざまな雑誌のイギリス特集のなかにも、しばしばモリスは顔を出しています。また、一週間後には愛知県美術館で「ウィリアム・モリス」展が開催されることになっていますので、いまからその展覧会を楽しみに待っていらっしゃる方も多いことと思います。そこでこの講演では、モリスにつきまして、次のようなふたつの観点から話題を提供させていただきたいと考えています。最初は、デザイナーとしてのモリスの歩いた道をたどり、あわせて彼の芸術や社会思想などについて見てみたいと思います。いわばこれは、公人としてのモリスの顔に相当します。次にモリスの私的な側面、すなわち家族や友人のなかにあっての私人としてのモリスの感情の動きや行動に触れてみたいと考えています。そして最後に、もし時間が許せば、現代に生きる私たちにとりまして、ウィリアム・モリスの思想と実践がどのような意味をもっているのかをみなさまとご一緒に考えてみたいと思っております。
それではさっそく、デザイナーとしてのウィリアム・モリスの公的な側面につきましてお話をさせていただきたいと思います。
学位試験に合格すると、一八五六年にモリスはオクスフォード大学を去り、ゴシック・リヴァイヴァルの建築家として当時嘱望されていたG・E・ストリートの建築事務所に徒弟として入所します。彼に与えられた仕事は、カンタベリーの聖アウグスティヌス教会の扉の図面を模写することでしたが、決して楽なものではなく、モリスには退屈な仕事だったようです。わずか九箇月間しか続いていません。しかしそこでの経験は、建築に対する目をモリスに開かせただけではなく、終生の友となるフィリップ・ウェブと出会ったという点においても、その後のモリスにとって重要な意味をもつことになりました。
ストリートの事務所の移転に伴い、オクスフォードからロンドンへもどったモリスは、そこで、大学時代からの友人で、絵の勉強をしていたエドワード・バーン=ジョウンズと一緒に下宿生活をはじめることになります。ここにモリスにとっての大きな転機が待ち受けていました。バーン=ジョウンズをとおして知り合ったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティに、「建築の道に進むよりも、お前も画家になるべきだ」との強い激励を受けたからです。すでにロセッティはラファエル前派の指導的画家として名を馳せ、モリスやバーン=ジョウンズのような芸術を志す若者にとっては、まさに太陽のような存在でした。モリスはすぐさま、活動的で開放的で、しかも優しくてウィットに富むロセッティの魅力のとりこになりました。
翌年の一八五七年、ロセッティの誘いを受けて、モリスは新築なったオクスフォード大学学生会館の討論室の壁面と天井に、マロリーの『アーサー王の死』の諸場面を描く計画に参加しました。のちに「愉快な作戦」とあだ名されたように、本人たちにとってはその体験はひと夏の楽しい出来事だったかもしれませんが、計画自体は、ロセッティのフレスコ画に対する経験不足から成功しませんでした。しかし、その後のモリスの人生を決定づけるふたつの大きな要素がその出来事には含まれていたのでした。ひとつは、人物を描くのにほとんどいかんともしがたい困難を覚えたことでした。つまりこの経験は、画家としての将来性に自らを見出すことを妨げてしまったようです。もうひとつは、ロセッティの絵のモデルを務めていた、当時一七歳の娘であったジェイン・バーデンと出会ったことでした。のちにこの女性がウィリアム・モリス夫人となるのです。
モリスはジェインとの結婚に際して、新居の設計をストリートの建築事務所で知り合ったフィリップ・ウェブに依頼しました。その家は、その地方で生産される赤味がかった煉瓦でできており、それがこの屋敷を〈レッド・ハウス(赤い家)〉を呼ぶようになった所以です。ロンドンからこの〈レッド・ハウス〉のあるケント州の田舎に引っ越したモリスは、そこで思わぬ事態に遭遇しました。ロンドン中のどの店を探しても、自分の新居にふさわしい調度品を見つけ出すことができなかったからです。モリスには、どれもが世俗的で不誠実な品物に思えたのです。しかし幸いにも、モリスにはたくさんの芸術家の友人がいました。ウェブ、バーン=ジョウンズ、ロセッティといった人たちです。そこでモリスは、こうした友人たちと協同して自ら家具や調度品をデザインし、製作する企てを考えつきました。
まずモリスは、古い刺繍技術の復活にかねがね関心をもっていたこともあって、新妻のジェインとふたりで、中世に起源をもつともいわれていた伝統的な刺繍の技法を自分たちなりに実験して、学ぶことからはじめました。ジェインはそのときの様子を次のように記憶していました。
刺繍をするために購入した最初の材料はたまたまロンドンの店で見つけた藍染のサージだった。……私がそれを家にもって帰ると、彼[モリス]は喜んですぐに花の図案を描きはじめた。……仕事はすぐに終わり、完成すると、〈レッド・ハウス〉の寝室の壁にかけてみた。私たちは大喜びだった1……。
いまは、色あせた断片しか残っていないとのことですが、これがオリジナルの《デイジー》と呼ばれる壁掛けです。こうしてふたりは、一緒になって、〈レッド・ハウス〉の壁や天井に模様や絵を描いたものと思われます。家具や金属細工品やガラス器もこの家のために特別にデザインされ、飾り付けには友人一同が参加しました。バーン=ジョウンズは、チョーサーの『女修道院長の物語』の場面を描いた衣装戸棚をこの新居のためにプレゼントしました。ウェブは、一階の庭に面した通路の窓ガラスに動物や鳥をデザインしました。またロセッティは、二階の客間に置く大きな長椅子の羽目板に、ダンテから想を得た絵を描きました。こうした〈レッド・ハウス〉を装飾するうえでの協同体験から、その後のモリスのデザイナーとしての活動の拠点となる「商会」は誕生することになるのです。
正式名を「モリス・マーシャル・フォークナー商会」というこのデザイン会社は、モリス、バーン=ジョウンズ、ロセッティ、ウェブ、フォード・マドックス・ブラウン、チャールズ(チャーリー)・フォークナー、それにP・P・マーシャルの七人の共同事業として一八六一年に発足し、工房がロンドンのレッド・ライオン・スクウェアの地に設けられました。一八六五年には会社はクウィーン・スクウェアに移転し、一八七五年にはモリスの単独経営による「モリス商会」に改組はされたものの、幾多の壁紙や織物や刺繍、ステインド・グラスや家具がそれ以降この会社から生み出されてゆきました。さらに晩年には、モリスは活字のデザインや書物の印刷に情熱と精力を注ぎ込み、亡くなる五年前の一八九一年には私家版印刷工房である「ケルムスコット・プレス」がモリスの手によって設立されるに至っています。
さて本来ですと、ここでその間に「モリス・マーシャル・フォークナー商会」や「モリス商会」、それに「ケルムスコット・プレス」をとおしてデザインされたモリスの幾多の作品のなかから代表的なものを選んで、解説を加えるのがふさわしいかもしれませんが、この二五日から「ウィリアム・モリス」名古屋展が開かれ、実際の作品に直接触れていただく絶好の機会が与えられていますので、ここでは、モリスの作品解説は割愛し、そうした作品を生み出すにあたってのモリスの芸術観や社会観、あるいはそれに基づいてどのような政治的活動を彼が行なったかにつきましてお話をすることにいたします。
しばしばモリスは中世主義者と呼ばれることがあります。それではどのようにしてモリスは中世の芸術と社会に対して強い関心と愛着をもつようになったのでしょうか。一九世紀に入ると英国では、ゴシック・リヴァイヴァルという建築運動が展開されました。その主たる人物は、A・W・N・ピュージンという建築家です。彼はゴシック様式でできている現在の英国国会議事堂の細部をデザインした人物としても有名ですが、彼は建築をおおよそ次のように考えていました。つまり、正しい建築は正しい精神から生み出されるものであり、彼にとっての正しい精神とは中世のゴシック建築を生み出したローマ・カソリック教でありました。彼は、『対比』という書物のなかで、幾つもの煙突が突き出した当時の町並みと、尖塔が天に向けてそびえ立つ中世の町並みとを比較して、どちらの町並みが美しいかを問いただしています。カソリック教への改宗を要求したピュージンの思想は確かに実践のうえで困難性を含みもつものではありましたが、その思想は、当時芸術評論や社会批評の分野で著名であったジョン・ラスキンへ影響を与えました。モリスは明らかにこのラスキンの思想、とりわけラスキンが書いた『ヴェニスの石』のなかの「ゴシックの本質」という章に恩恵を受けているのです。
決してモリスは宗教心に篤い人ではありませんでしたが、それでも彼が中世に着目したのには、理由があります。カセドラルの建設に加わった職人たちに認められるように、誰もがみな、神の栄光をたたえるという連帯意識に支えられながら、自らの高い技量を誇りに思い、労働そのものを楽しむことができた、そうした共同体が中世の社会だったからであります。つまり、モリスにとっての芸術とは、中世の芸術がそうであったように、労働の喜びの産物だったのです。モリスは、すべての仕事が芸術と結び付いているわけではないというのであれば、一体われわれは、どのような仕事をもてばよいのであろうか、と問うています。この彼の言葉は、壁紙や家具、タペストリーや書物といった生活に必要なものを生み出す共同体のなかにあって、つくる人にとっても、また使う人にとっても、ともに喜びとなるとき、真の芸術は立ち現われてくることを意味しています。
しかし残念なことに、一九世紀中葉のイギリス社会は、そうしたモリスの芸術観から程遠いところにありました。一八世紀の半ばから展開された産業革命の結果、伝統的な職人技は衰退し、多くの工場から安価で醜悪な製品が生み出されていました。そうした品々は、多くの場合、労働の喜びの所産としてではなく、貪欲な金銭の追求の結果に由来するものでありました。モリスが機械生産を否定し、手仕事の回復を要求した理由も、実はここにあったのでした。中世主義者としてのモリスは、したがって当然ながら反産業主義の立場に立つことになるのです。
一八五一年、ハイド・パークで大博覧会がアルバート公によって開催されました。この展覧会は現在の万国博覧会の一回目に相当するもので、明らかに産業国家としての英国の地位を国の内外に誇示することを目的としていました。開会式に出席したヴィクトリア女王は、いままでに列席したどのような礼拝式にも勝って、帰依の念に満たされた、と書き記し、会場となった〈クリスタル・パレス(水晶宮)〉と呼ばれた建物と、そのなかに収められていた展示物を賞讃しました。また夫君のアルバート公も、あるスピーチで次のように述べています。
……全地球上の産物はすべてわれわれのもとに集められ、われわれのなすべき唯一のことは、われわれの目的にとって最良かつ最廉価なものを選択することだけとなり、生産力は資本と競争という刺激を受けて発展しているところであります2。
ニコラウス・ペヴスナーという歴史家は、「この疑問の余地のない楽天主義、負けを知らないこの猛進ぶり、そして悲観的な問題には目もくれない無邪気さ、これらすべてが一八五〇年の精神であった」と述べています。
一七歳のとき、モリスは家族とともにこの大博覧会をハイド・パークに見にいっています。しかしある伝記作家によりますと、そのときモリスは、座り込んでしまい、中に入るのを拒んだということです。すでに青年モリスの目には、当時の産業がもたらしていた結果が耐えるに耐えられないものとして映っていたのかもしれません。
しかし歴史にはときとして謎めいたことが起こります。アルバート公を補佐して、この大博覧会を成功に導いたのは文化行政官のヘンリー・コウルという人物でした。そしてその展覧会の収益金をもとに一八五七年にサウス・ケンジントン博物館、つまり現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が設立されるわけでありますが、その館長にコウルが就任することになります。そしてコウルは、動き出してまだ数年と立っていない「モリス・マーシャル・フォークナー商会」にサウス・ケンジントン博物館の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉の装飾の依頼をすることになるのです。設立後まもない会社が、なぜサウス・ケンジントン博物館のようなところから重要な仕事の注文を受けることができたのか、またどうして、思想的に大きく異なる、産業主義者であり功利主義者であったヘンリー・コウルからの依頼をモリスは受け入れたのか、ともに謎のままになっています。しかし理由はどうであれ、その仕事の受注があったおかげで、現在私たちは、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館において、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」が手掛けた〈グリーン・ダイニング・ルーム〉を目にすることができるのです。
ところで、モリスがコウルの依頼を受けてサウス・ケンジントン博物館の仕事をしたからといって、モリスがコウルの思想的立場に回ったというわけではありません。その後、モリスの中世主義と反産業主義は、社会主義への道へと彼をいっそう駆り立ててゆくことになるのです。
モリスは「商会」を経営するれっきとしたビジネスマンでもありました。これまでモリス研究者は、デザイナーや詩人としてのモリスを強調するがあまりに、ビジネスマンとしてのモリスの側面を等閑視する傾向がありました。しかしやっとその方面のモリス研究が現在進みはじめたところです。〈レッド・ハウス〉の装飾に端を発した「モリス商会」は、モリスにとっては、中世社会のギルドに倣った、友愛を基盤としたひとつの共同体でありました。そうしたロマン主義的共同体意識がモリスの活動の基底をなすものであったことは確かであるとしましても、現実には、利益の追求から逃れることのできないビジネスマンとしての立場も同時に彼は兼ね備えていたのです。そこにも彼にとってのひとつの大きな苦悩があったようです。モリスとバーン=ジョウンズがサー・アイザック・ロウジアン・ベル邸の室内装飾を手掛けているとき、ぶつぶつと独り言をいうモリスを見た顧客は、その理由を尋ねてみました。すると突然モリスは、「ただ金持ちの豚のようにいやらしい贅沢の手助けのために自分の一生を費やすだけなんだ」といい放ったとのことです。
すでにモリスは、オクスフォードの学生のころから、旺盛な読書や論議を通じて、現代には何ひとつ満足すべきものはなく、俗物といんちきが支配している時代であるという認識に到達していました。そこでモリスは、当時の多くの学生がそう考えていたように、聖職者としての道を歩み、宗教の世界からそうした俗物といんちきに戦いを挑もうと考えたこともありました。しかし結果的にモリスが選んだのは、当時のオクスフォードの学生としては大変異例のことに芸術の道でした。しかもそれは、絵画のような純粋芸術ではなく、生活にかかわる装飾芸術の道でした。モリスの目には純粋芸術つまり大芸術は、「有閑階級の人びとにとっての無意味な虚栄を満たす退屈な添え物」と映っており、彼は、装飾芸術である小芸術こそが、俗物といんちきを追撃し、友愛と正しい精神に基づいた真に人間らしい生活を取りもどすことを可能にする道であると確信していたのです。つまり「モリス・マーシャル・フォークナー商会」設立以降のモリスは、芸術をとおしての生活の変革という闘いを当時の醜悪な社会に対して挑み、孤軍奮闘しているところだったのです。しかしそれは、どう見ても簡単に勝利する闘いではありませんでした。そこに、中産階級の出身で企業の経営者であったにもかかわらず、モリスに、政治的社会変革の道を選ばせた大きな理由が潜んでいたものと思われます。
そういうわけで、モリスが社会主義者になったのは、単なる気紛れや偶発的な出来事ではなく、一生涯をとおしてあるべき理想社会を求めたモリスの精神の一貫性を示すあかしとして私たちは受け止めることができるのです。モリスはマルクスの理論がよく理解できなかったともいっていますし、自らをマルクス主義者と呼ぶこともありませんでした。モリスは明らかに自らの芸術の実践のなかから社会主義を手に入れたといえます。初期のモリスの政治的関与は、東方問題協会や古建築物保護協会を舞台に進められましたが、一八八三年にはH・M・ハインドマンの率いる民主連盟(翌年に社会民主連盟に改称)に加わるも、意見の対立から翌年社会民主連盟を脱会したモリスは、次の一八八五年に社会主義同盟を結成し、機関紙『ザ・コモンウィール』の創刊にも積極的に携わっています。さらにこの時期、社会主義や、芸術や労働についての講演や演説をモリスは英国の各地で頻繁に行なうことになります。そうして最終的に、一八八二年の『芸術への希望と不安』に続く、第二講演集である『変革の兆し』を一八八八年に出版し、一八九〇年には、モリスにとっての理想社会を描いた「ユートピア便り」を『ザ・コモンウィール』に連載してゆくことになるのです。モリスが亡くなってしばらくのあいだは、モリスの社会主義は、芸術家にありがちな空想的なものと考えられてきましたが、近年のさまざまな研究から、モリスがいかに革命的な社会主義者であったのかが実証されるようになったことも、最後に付け加えておきたいと思います。
それでは次に、私的な場面でのモリスはどのような人物であったのでしょうか、そのへんのところを少しさぐってみたいと思います。
ウィリアム・モリスは、一八三四年三月二四日ウォルサムストウの〈エルム・ハウス〉で、九人兄弟の三番目の子どもとして生まれています。父親は株の取り引き会社の共同経営者をしていました。六歳のとき、エッピングの森のはずれにある〈ウッドフォード・ホール〉へ引っ越し、モリスは中世の騎士さながらに、よろいかぶとを着てその森のなかを小馬で乗り回しました。一八四七年に父親が亡くなると、翌年モリス一家はウォルサムストウにある〈ウォーター・ハウス〉に再び引っ越します。現在のウィリアム・モリス・ギャラリーとして一般に公開されている屋敷です。そしてここで、父親の残した財産のおかげもあって何不自由ない生活を送ることになります。その間モリスは、早熟な子どもであったらしく、読書に耽り、古い教会の建物や田園を愛しました。新興の学校であったモールバラ校を離れると、モリスはしばらくのあいだ、F・B・ガイ師というアングロ・カソリックの聖職者に個人指導を受けました。このことが、モリスが中世への思いを形成するうえで重要な役割を果たしたといわれています。こうして受験準備が整ったモリスは、一八五三年に、オクスフォードのエクセター・カレッジに入学することになるのです。
親しい友人たちのあいだでは、モリスは「トプシー」とか「トップ」というあだ名で呼ばれていました。それは、彼のもじゃもじゃした、まとまりにくい巻き毛に由来するものでした。性格は、とてもお人好しで欲のないたちでしたが、その特有の髪の毛に似て、落ち着きがなく、じっとしていることができないタイプでもありました。突然爆発しては突然静まり返る、人騒がせで始末におえない性向の持ち主でした。しばしばトプシーは、周りの友人たちのからかいの的になり、そしてしばしば、そうした挑発にのって激怒していたようです。話し方もつっけんどんで、ぶっきらぼうでした。また女性に対しても仲間内では名うての付き合い下手で有名でした。
かくして、学生会館の壁画計画に参加するためにオクスフォードに滞在していたときに、トプシーはジェイン・バーデンと出会いました。彼女の家庭は貧しく、父親は厩番をしていました。彼女は、壁画製作のモデルとして、たまたまオクスフォードの劇場でロセッティによって見出された女性でした。背が高く、手足も大きく、髪の毛は縮れた黒髪で、血の気のない顔色をしていました。したがって、当時の理想の女性の体つきとは大きく異なっていたのですが、しかし、ロセッティをはじめ、ラファエル前派の画家たちのあいだでは、ジェインのような女性が「スタナー(絶世の美女)」と呼ばれ、偶像視されていたのでした。壁画の仕事が進行しているあいだジェインはロセティのモデルを務めました。思いやりがあり、礼儀正しく、穏やかなロセッティのモデルをしながら、男性に接することがほとんどなかったこの若い女性が、何らかの特別な感情をこの画家に抱くようになったとしても、何ら不思議はありません。またロセッティもその間、ジェインに一枚の肖像画を贈っています。
しかしロセッティには約六年ものあいだ非公式の婚約を続けていた病弱の女性がおり、彼女の呼び出しを受けて、突然ロセッティはオクスフォードから姿を消すことになります。そうしたなか、モリスはジェインに求婚するわけですが、その理由は憶測の域を出ません。ロセッティによってその美しさが空高くほめたたえられたあげくに、再び貧困の世界へもどらなければならないジェインの悲しい宿命をモリスは敏感にとらえ、騎士道精神からジェインに思いを募らせていったのかもしれません。モリスの立場に立てば、自分より階級の低い女性と結婚することはロマン主義的でドン・キホーテ的であると思われたかもしれませんが、一方、身分の上昇が強く求められていた当時の労働者階級の女性としてのジェインには、トプシーからのこの求婚を断わる理由はどこにもなかったのでした。しかしこの時点でトプシーの求愛を受け入れたとしても、本当にジェインが思いを寄せていたのはトプシーではなく、ロセッティだったようです。このことが、結婚後のモリスの人生に大きな影を落としてゆくことになるのです。
ロセッティとジェインは、その後に訪れたそれぞれの局面や段階を経て、再び画家とモデルという役割を演じる運命をたどります。そしてそれは、男女のより深刻な愛情関係へと発展していったのです。この時期モリスは、激しい感情と苦悩のはけ口を詩の制作に求めました。その代表となるものが『地上の楽園』という物語詩です。この作品は、詩人としてのモリスをいやがうえにも高める傑作として社会に受け入れられてゆきました。モリスは自分の内面をあらわに他人に語るような人ではありませんでしたが、それでも心を許したひとりの女性が身近にいました。それは、モリスのオクスフォード以来の親友バーン=ジョウンズの妻のジョージアーナでした。ふたりともそれぞれの結婚が危機に瀕していたこともあって、ジョージアーナとモリスは、相互に助けを求めて思いを寄せるようになりました。一八七〇年の七月、ジョージアーナの三〇歳の誕生日を祝ってモリスから彼女に贈られたのが、『詩の本』と題された手製の詩集だったのです。
ロセッティとジェインの愛はさらに深まり、仲間内のよく知るところとなりました。そこで、このことを社会的に公然化しないためにも、あるひとつの妥協がモリスとロセッティのあいだではかられたのです。それはある田舎家を男同士の共同名義で賃貸することでした。こうすれば、ロセッティとジェインの逢瀬は不義の密会として世間から糾弾されずに何とかすますことができるのです。そこでモリスがそのために見つけたのが、〈ケルムスコット・マナー〉と呼ばれるオクスフォードシャーにあるテムズ川上流に沿った別荘でした。一八七一年のことです。賃貸契約書に署名をすると、ロセッティとモリスの妻子はすぐさま〈ケルムスコット・マナー〉でひと夏を存分に楽しみ、一方モリスは、エディンバラから船でアイスランドに向けて旅立ってゆきました。その地でモリスは北方人の不屈の精神を見出し、そのおかげで結婚の失敗に耐えることができた、と多くのモリスの伝記作家たちは書いています。そのころモリスは次のようにいっています。「満たされぬことがひとつあるからといって、多くを求めようとしてはいけないし、そのことによって自分の人生の楽しみがいつもいつも損なわれるわけでもない」。またモリスは一八七三年の二度目のアイスランド旅行のあとで、自分の「小さきこと」を嘆き、こうもいっています。「何としてでも、世界を自分の身の丈に縮めたくない。事物を大きくしかも優しく見詰めたいのだ」。結局ロセッティとジェインの関係は、ロセッティが精神の異常をきたしたことにより、一八七六年に終止符が打たれることになりました。
悲しいことに、この年さらなる不幸がモリスを襲いました。モリスとジェインのあいだにはジェニーとメイというふたりの娘がいましたが、一五歳の姉のジェニーにてんかんの発作が起きはじめたのです。これは本人にとっても、家族にとっても、過酷な打撃であり、終身刑を宣告されたのも同然のことでした。といいますのも、てんかんには治療の方法も、病状を和らげる方法もいまだなかったからです。いつ発作が起こるかわからず、そのため患者をひとりにしておくことはできません。その一方で、発作が繰り返し起こるたびに、徐々に脳は損傷を受けてゆくのでした。これは、勉強がよくできていた聡明なジェニーから、将来の学問的成功を奪い去ることを意味しました。また結婚の可能性も、これによって奪い取られてしまったのです。ジェニーはいうまでもなく、両親にとっても、毎日が恐怖であり、悲しみの連続だったにちがいありません。しかし、娘のてんかんに対処しなければならなかったことにより、〈レッド・ハウス〉での楽しい日々以来希薄になっていたモリスとジェインの結び付きは、次第にいっそう強固なものになっていった可能性もあります。また娘の病気に対するモリスの悲嘆には、ある種の怒りの気持ちが含まれていたかもしれません。一八七六年以降モリスは、ますます政治的な運動へと精力を注ぎ込んでゆくのです。
それからの約二〇年間、モリスはデザイナーとして、政治活動家として、さらには出版人として、これまでにもまして実に多彩な活動を展開します。しかし一八九五年の冬、政治活動上の仲間の葬式に出席して体を冷やしたモリスは、それ以降めっきり病弱になってしまいます。そしてついに翌年の一〇月三日、幾つかの病気が重なり、モリスはハマスミスの自宅〈ケルムスコット・ハウス〉で亡くなりました。治療にあたった医者のひとりは、病気の原因を次のようにいったと伝えられています。「病気はウィリアム・モリスその人にあり、一日に一八時間働くことが原因であることは疑いない」。ひつぎはレッチレイド駅から干し草用の荷車に乗せられて、ケルムスコットの教会墓地まで運ばれました。そこで、ジェニーとメイを加えた三人が喪主を務め、簡素ながらも感銘を与える葬式が執り行われたということです。モリスの結婚に際しての新居である〈レッド・ハウス〉を設計したフィリップ・ウェブが墓石のデザインにあたりました。こうしてモリスは永遠の眠りについたのでした。
(一九九七年)
(1)Jan Marsh, Jane and May Morris, Pandora, London, 1986, p. 41.[マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、70頁を参照]
(2)Nikolaus Pevsner, Studies in Art, Architecture and Design: Victorian and After, Princeton University Press, New Jersey, 1982, p. 42. (First published in the United States in 1968 as Volume 2 of Studies in Art, Architecture and Design by Walker and Co.)[ペヴスナー『美術・建築・デザインの研究Ⅱ』鈴木博之・鈴木杜幾子訳、鹿島出版会、1980年、60-61頁を参照]