中山修一著作集

著作集2 ウィリアム・モリス研究

第三部 「冬の時代」のウィリアム・モリス讃歌

第一章 富本憲吉の「ウイリアム・モリスの話」

はじめに

東京美術学校(現在の東京芸術大学)の図案科に入学し、建築と室内装飾を学んでいた富本憲吉(一八八六―一九六三年)は、翌年三月の卒業を待たずして、早めに卒業製作《音楽家住宅設計図案》を提出すると、ただちに渡英の途についた。一九〇八(明治四一)年一二月一九日のことである。この地で彼は、ロンドンの中央美術・工芸学校の夜間クラスでステインド・グラスの実技を学び、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館ではウィリアム・モリス(一八三四―一八九六年)の作品に実際に触れ、一方、南薫造や白滝幾之介とともに、ロンドン郊外のウィンザーへの写生旅行をも楽しんでいる。滞在末期の一九〇九(明治四二)年の一二月(あるいは翌年の一月)には、農商務省から派遣された 新家 にいのみ 孝正の助手として回教建築様式の調査のためにエジプトとインドへ向けて出立し、四月に一度ロンドンへもどるも、五月一日に三島丸に乗り込み、日本への帰路につく。神戸への上陸は、六月一五日のことであった。そして、イギリスからの帰国後の一九一二(明治四五)年に、富本は、「ウイリアム・モリスの話」と題する評伝を二回に分けて『美術新報』に投稿することになるのである。

これまで、この「ウイリアム・モリスの話」は、日本へまとまったモリス像を紹介した最初期の文献のひとつとして高く評価されるとともに、富本自身のモリス受容を指し示す貴重な資料として位置づけられてきた。

本稿は、これまでの富本研究において全く言及されることのなかった、「ウイリアム・モリスの話」の成立事情を明らかにし、その評伝のなかで富本が記述している〈レッド・ハウス(赤い家)〉への彼自身の訪問の可能性についても検討し、全体として、この評伝の記述内容に関して新たな視点から読み解くことを目的としている。果たして当時の富本にとって、詩人であり、デザイナーであり、社会主義者であったウィリアム・モリス、そして彼の結婚に際しての新居であった〈レッド・ハウス〉はどのような意味をもっていたのであろうか。本稿をとおして、少しでもその点を明確にしてみたいと思う。

一.「ウイリアム・モリスの話」を巡るこれまでの言説

富本憲吉は、一九一二(明治四五)年に刊行された『美術新報』第一一巻第四号に「ウイリアム・モリスの話(上)」を、そしてそれに続く第五号に「ウイリアム・モリスの話(下)」を発表した。一九三四(昭和九)年に東京ヰリアム・モリス研究會により編集、出版された『モリス書誌』に従えば、それに先立って、ラファエル前派の紹介にかかわって上田敏が簡単にモリスに言及し、『平民新聞』においては社会主義者の詩人としてのモリスが紹介され、またモリスの『理想郷(ユートピア便り)』が堺利彦により抄訳され単行本として出版されていたので、全く最初のモリス紹介というわけではなかったが、詩人や社会主義者としてではなく、美術家としてのモリスを日本へ本格的に紹介したものとしては、富本のこの「ウイリアム・モリスの話」と題された評伝が最初のものであった。

その後、この評伝を巡ってさまざまな位置づけがなされてきた。この第一節では、その幾つかを紹介するとともに、その評伝にかかわる解釈や論点をまず整理しておきたいと思う。

ウィリアム・モリス生誕百年を記念して一九三四(昭和九)年に出版された『モリス記念論集』のなかで「書物工藝家としてのモリス」と題する一文を寄稿した壽岳文章は、翌年、続けてモリスに関連して「ウィリアム・モリスと柳宗悦」を『工藝』に発表した。この論文は、その表題にも示されているように、モリスをも凌駕する柳宗悦の偉大さを賞讃するために書かれたもので、富本の「ウイリアム・モリスの話」については、枕詞的に、短く次のように触れられている。   

モリスが、工芸の領域で、わが国に与えた影響はどうであろうか? ジャーナリズムのうえでは、明治の末ごろからしばしば「美術家」モリスの名が、書物や雑誌へかつぎだされているが、明治四十五年二月発行の、「美術新報」第十一巻第四号に載った富本憲吉氏の一文、その他二、三をのぞき、工芸家モリスの仕事に、深い理解を示したものは、まず少ないといってよい。まして、作品のうえに、モリスの意図がとりいれられた(とりいれられることの可否は別問題として)顕著な例を私は知らない。しかし、私たちはいま日本に、欧米のどの国においてよりもモリスにちかい、ひとりの熱心な工芸指導者と、その指導者に統率される工芸運動とをもっている。それは、柳宗悦そのひとと、その提唱による民芸運動とである

この論文が書かれた翌年の一九三六(昭和一一)年には、東京駒場に日本民藝館が完成し、それにあわせて「新作工芸展」が開催された。さらに次の年には、国画会から民藝派が離脱し、富本と民藝派とのあいだに存在していたそれまでの溝が決定的になるのである。壽岳のこの論文は、そうした推移の予兆となるものであったように思われる。

しかし、こうした戦前の高揚したモリス研究は、それ以降、戦中から戦後のしばらくのあいだをとおして、日本の論壇にあっては後景に退いた感があった。富本の評伝「ウイリアム・モリスの話」についても、同様のことがいえた。そうしたなか、一九六三(昭和三八)年六月に富本が死去すると、富本への追悼文が幾つかの新聞や雑誌を飾り、そのなかにあって、中村精が「富本憲吉とモリス――工芸運動家としての生涯」を発表し、改めて富本とモリスについての論点を浮かび上がらせたのであった。「富本氏は、ある意味においては、モリスの理想――大衆のためにいかによい工芸品をつくるかという問題を陶芸家としての生涯を通じてかかえつづけていた、とみることができよう」と、富本とモリスの関係を指摘したうえで、中村は、その二年前の一九六一(昭和三六)年に東京高島屋で開催された「富本憲吉作陶五〇年記念展」の一環として出品されていた量産品について言及し、追悼文を次のように締めくくるのである。

 こういう試みは、すでに高い地位を占めている作家にとっては甚だ冒険であると思うが、あえてこれを試みなければおれなかったところに富本氏の真面目がある。また、これこそ若いころ近代工芸運動の先駆者といわれるモリスに傾倒し、その精神をうけついだものの信念であったのであろう。
 今さらモリスでもないかも知れないがこれを富本氏追悼の言葉としたい

中村は、白磁、染付、色絵、金銀彩の個人作家として大成した富本ではなく、その一方で、生涯にわたって量産陶磁器の製作に信念をもって取り組んだ富本の真摯な姿勢を、モリスからの影響としたうえで、この追悼文のなかで賞讃しているのである。

一方、一九七〇年代になると、明治期の日本美術とイギリスの関係に関する貴重な研究が中村義一によって進められた。『美術新報』第一一巻第四号に掲載された、時言「工藝美術家と其本分」に着目した中村は、それとの関連で「ウイリアム・モリスの話」にも触れ、以下のように述べている。

……時言「工芸美術家と其本分」では、純正美術と応用美術の区別について、由来職業に尊卑の別あることなしという観点から論じており、工芸問題がすくなくとも「美術新報」に、重要な美術問題のひとつとして扱われていたことがわかる。この同じ号に、富本憲吉の「ウィリアム・モリスの話」が出ているのも示唆的である。モリスの作品写真をたくさん使った、サウスケンジントン博物館でのモリスの仕事の見聞をもとにした文章であって、工芸家モリスの日本での最初の具体的な紹介として注目すべきものであろう

この「時言」は、富本の「ウイリアム・モリスの話(上)」が掲載された同じ号の巻頭で述べられているものである。執筆者名が記されていないが、中村は、当時、東京美術学校の教授を務め、『美術新報』の編集にも深くかかわっていた、富本の恩師でもある岩村透の手になる一文であることを示唆している。そのなかで「工藝美術家の本分」が以下のように求められているのである。

純正美術と應用美術と両者相比較して、必ずしも一を以て尊とし、一を以て卑となすべき理由なし。……純正美術家の應用美術家たるは易く、應用美術家の純正美術家たるは易からず。工藝美術家の此點を辡へて過無らん事を望む

因習的な工芸品や工芸観に対峙しようとする空気は、この一文の執筆者だけでなく、当然ながら若き富本憲吉も共有していたにちがいない。技巧がことさら誇示された工芸品。絵画や彫刻の下位に置かれる装飾。過去のものが再使用され、海外のものが翻案されることで成り立つ図案。果たして工芸家の真の本分とは何か。富本のイギリス留学の動機も、そうした関心事と無関係であるはずはなかったであろう。そして帰国後に発表した評伝「ウイリアム・モリスの話」も、全体として控えめにモリスの生涯を語ってはいるものの、日本の工芸界に対する少なからぬ疑問とそのなかで今後生きることになるであろう己に対する、決して十分とはいえないまでも、モリスをとおしての富本自身のひとつの回答だったのではないだろうか。先に紹介した「時言」と実にうまく符号するかのように、この評伝の最後の部分にそのことが、おおよそ以下のように集約されている。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します

中村義一が「ウイリアム・モリスの話」に触れた一九七〇年代には、それを追うかのように、続いて小野二郎が富本の〈レッド・ハウス〉訪問について言及している。少し長くなるが、第六節で詳述するテーマとも関係するので、ここであらかじめ、重要と思われる言説を以下に断片的に引用しておきたい。

 私が「レッド・ハウス」を訪れたのは、一九七四年の二月だったと思う。ロンドンから南へ約一〇マイル、ケント州ベックスリ・ ヒル ママ の地を踏むと、写真で見馴れたその建物の姿を目にする前に、六〇年以上も昔、ここを訪ねたであろう一日本人青年のことが、どうしても思い出された。その青年とはのちの陶芸家富本憲吉である10

これが、小野の「『レッド・ハウス』異聞――フィリップ・ウェッブとモリス」の書き出しである。次の段落で、東京美術学校教授で美術史と建築史を講じていた岩村透が、当時学生であった富本にあやまたぬ文脈においてモリスの思想と運動を教授した可能性を示唆したうえで、続けて小野は次のように書くのである。

 富本は一九一一年(二五歳)に帰国するが、翌年、『美術新報』二、三月号に「ウイリアム・モリスの話」(上・下)を発表した。これは日本でモリスの装飾芸術の実際に即して書かれた最初の、そしてその後も書かれることの少ない文章であった。そしてそのなかでの「レッド・ハウス」についての記述が興味深いのである11

こう述べたあとで、「ウイリアム・モリスの話」のなかで富本が〈レッド・ハウス〉に関して記述した部分を全文そのまま引用し、引用が終わると、「この家が計画されたのはそれより前だが、実際デザインされたのは一八五九年、モリスがその四月に結婚した年である。完成したのは翌六〇年。富本のここへの訪問はおそらく一九〇九年前後であろうから、丁度半世紀経ている。私のはさらにそれから六五年ほど間があいてからである」12と結んでいる。

しかし、富本の〈レッド・ハウス〉訪問についての記述はここまでで、いっさいこれについて立ち入った論評は加えられていない。それ以降の節は、〈レッド・ハウス〉をデザインしたフィリップ・ウェブで主に紙面が埋められているのである。ただ最後に、再び岩村と富本、そしてバーナード・リーチに言及することになる。以下はその部分の引用である。

 岩村透は第四次の外遊後、一九一六年東京美術学校教授を解職になった。富本の「ウイリアム・モリスの話」には社会主義の「社」の字もない。後年の述壊では、それをしたら、到底芸術作家活動を出来なかったろうという。しかし、富本がなぜ陶芸家になっていったかということは、このことと無関係ではあるまい。アーツ・アンド・クラフツ運動はモリスを矮小化した。リーチはさらに狭いいわゆるステューディオ・ポッター(一品制作を目指す個人工房の陶芸家)の世界に閉じ込めた。楽天的に、無意識に。だが富本の陶芸作家としての自己限定に、むしろ民芸作家と距離をおいて、 個人 ・・ 陶芸作家としての自己限定に、私は何かウェッブの「孤独」に通ずる「闕語」を感ずるのである。そうだ、最後に一言、モリスは終生、ウェッブの建築については口をつぐんだ13

小野はこの「『レッド・ハウス』異聞」を書くにあたって、なぜ富本を持ち出したのか、そして、持ち出しただけで、なぜいっさいの論評を加えず、ウェブと同様の「孤独」に通ずる「闕語」を富本に見出していることだけを吐露したのだろうか。今後、帰国後の富本の苦悩の内容や陶芸の道を発見する過程を考察するうえで欠かせない論点であると思われるので、もう一文、小野から引用をしたいと思う。小野自ら「大槻憲二のモリス研究」と題された短い文のなかで、そのことに若干触れているからである。

 私は岡倉天心、ラフカディオ・ハーン、岩村透、富本憲吉という私の勝手に作ったモリス受容の理想線上に大槻憲二をのせたいと思う。それは柳宗悦の民芸運動とは違うモリスの日本での生き方を暗示するものであろう。またそれはおそらく、「芸術教育運動」のなかにひそかに受継がれて行ったものだと思う。すべてはこれからの研究にまつ。……モリスと日本という問題の重要な背景を分析した ママ 「レッド・ハウス異聞」においては、富本憲吉のモリス勉強の具体例をのぞき、富本のある「断念」の構造を見えるようにした14

しかし、いま読み返してみても、「『レッド・ハウス』異聞」において「富本のある『断念』の構造」が十全に分析されているわけではない。「断念」の構造が示唆ないしは直感的に把握されているにすぎないのである。推論を交えていえば、小野はこの論文のなかで、岩村の解任劇をも念頭に置きながら、富本が社会主義者としてのモリスを自らのものにすることを「断念」しなければならなかったことの「構造」が、民藝運動の柳やリーチと違って、いかに深刻で意識的なものであったか、その後の富本の陶芸家としての生き方に照らしてその構造を明らかにしたかったのではないだろうか。別の言葉でいえば、ウェブとモリスにあった関係、つまり、あえていえば「寡黙をとおしての他者理解と自己限定」の関係が、富本とモリスのなかにもあり、その関係の構造が、イギリス文化と日本文化の基底のところであい照らし感応していることを描き出したかったのかもしれない。もしそのことがこの「『レッド・ハウス』異聞」で十分に分析されていたならば、日本におけるモリス受容という文脈における富本と民藝派の質的違い、さらにはそれを越えて富本独自のモリス受容の形式が、より明確に描写されていたにちがいなかったのである。

一九八六(昭和六一)年は、富本憲吉生誕一〇〇年にあたる年であった。記念の展覧会が開催され、乾由明は、その展覧会カタログに「富本憲吉――その陶芸の思想」と題した論文を寄稿した。そのなかで、「ウイリアム・モリスの話」の記述内容に言及したうえで、今泉篤男がすでに規定していた「一つの思想をもった作家」15という観点に従いながら、「アマチュアリズム」「模様」および「大量生産」にかかわる富本へのモリス思想の影響をさらに詳しく論じることになるのである。

ここでとくに注目しておきたいのは、論じられた内容の重要性はいうまでもないが、論が展開されるに先立って乾が述べている次のような認識である。「敢然と近代工芸のもっとも核心的な問題と対決し、独自な仕方でひとつの豊かな成果を生み出したところにおいて、この作家の仕事は測り知れないほどの重みをもっている」16という言葉に続けて、こう述べているのである。

 したがって富本憲吉の仕事の意味をあきらかにし、その業績を正しく評価しようとすれば、日本の近代陶芸のさまざまな問題点、そこに内在する矛盾や ひず みに、どうしても行き当たらざるを得ない。つまり近代陶芸史のなかにおいて、この作家の仕事を的確に位置づけることが必要なのである。……そしてこの富本の仕事の歴史的な位置づけは、また日本の近代陶芸をどのように考察し、批判するかということに つな がっている。それは、明治期以降における陶芸の精密な実証的研究を基礎として、はじめて成しとげられる大きな課題であろう17

富本の業績を適切に測る尺度は何か。乾は、「明治期以降における陶芸の精密な実証的研究を基礎として」今後記述されなければならないであろう「近代陶芸史」のなかに富本を再配置することの必要性を正当にも要求しているのである。そのことでいえば、まさに富本がモリスの評伝を書いたように、富本憲吉自身の公私双方の側面を含みもつフル・スケールの伝記の出現も、同時に今後期待されてよいであろう18。こうした通史や伝記といった全体的なパースペクティヴに富本を位置づけてはじめて、真の意味での富本とモリスの関係、そのなかでの「ウイリアム・モリスの話」の意味と価値は、個別研究の限界を越えて、さらに明確に理解されることになるのではないだろうか。

さらに一九九〇年代になると、「ウイリアム・モリスの話」は、富本のモリス受容の根拠としての単なる資料的扱いから離れ、そのなかで描かれている内容に即しながら、より詳細な受容内容が検討されるようになった。

土田真紀は、日本の国家主義的な近代的政策への批判が高まるとともに、それに取って代わる自由や平等、個人といった精神が萌芽した一九一〇年代特有の文化的かつ社会的コンテクストに着目し、そこから富本の「ウイリアム・モリスの話」を読み直そうとする。土田によると、一九一〇年代はさまざまな造形美術の領域において新たな展開を探ろうとする機運が高まった時期にあたり、富本が『美術新報』に「ウイリアム・モリスの話」を発表した当時、まだ東京美術学校の学生であった高村豊周の以下の回想を引用して、その当時の日本の工芸が置かれていた状況の跡づけを行なう。  

 明治四十五年から大正の初めにかけて、つまり私が三年から卒業する時にかけて、日本の新しい工芸の運動の発生といおうか、新興工芸の胎動といおうか、全体にもやもやしていたものが、だんだん固まるようになってきた。
 丁度その頃、富本憲吉がイギリスから帰って来た。富本さんの帰朝は日本の新しい工芸の啓蒙にとっても、また私に新しいものの見方を教えてくれたことからいっても、非常に意味の深いことであった19

そうした社会文化的土壌にあって、「ウイリアム・モリスの話」を発表する前後に富本が、木版画や楽焼、更紗、家具、木彫、千代紙やカーペットのデザインに幅広く手を染めていたことを指摘したうえで、土田は、富本のこの評伝を次のように再解釈するのである。

……富本が帰国直後に最も熱心に取り組んだ木版画や楽焼は、日本に昔からある技法であると同時に、技法のプリミティヴな性格ゆえに文化の国境を越えて各地に同様のものが見られるという、一種の普遍性を有している。この時期、富本の中には、自ら育った環境を精神的支柱にしながら、和洋の区別を越えた普遍主義を通して、日本の工芸に全く新しい世界を開くことができるのではないかという一筋の光が見えていたと思われる。
 一九一二年の富本が『美術新報』に二回にわたって発表した「ウィリアム・モリスの話」もまたそうした観点から捉えられるべきであろう。このテクストのなかで、富本は再三再四モリスの工芸家としての姿勢に触れている。……社会思想家やモリス商会の経営者である以上に、富本にとってモリスは一人の工芸家であり、作品以上にその姿勢について語ろうとしている20

土田の論点は、「ウイリアム・モリスの話」は富本にとっての工芸家としての「個の確立」を促すものであったという点にあり、一九一〇年代の文脈に照らして、富本を「工芸の個人主義」の先達のひとりとして位置づけるのである。

確かに帰国後の一九一〇年代にあって、土田が指摘するように、「個人主義」なるものの胎動を富本のなかに認めなければならない。したがってその指摘は重要である。富本自身が、「ウイリアム・モリスの話」の最後の結論部分で「作家の個性の面白味」に言及していることは、すでに引用によって紹介した。しかしその背景にあるのは、既存の工芸界を支配していた価値観や因習に対する近代的な批判精神であり、その一方で、少なくとも一九一〇年代の前半にあっては、富本は、「個人主義」というよりは、そうした初期の近代精神の視野に映し出された「民間芸術」、つまりは、モリスの用語法にしたがえば「 世俗の ・・・ 芸術」ないしは「民衆の芸術」を擁護する立場にあったことも事実なのである21。そこで、今後さらに問題にされなければならないのは、土田のいう、「モリス的工芸家から求道的陶芸家へという彼[富本]自身の生き方に関わる変貌」22に関連しての諸点なのである。つまりは、その「変貌」が、一方では「個人主義」ないしは「個人作家」という文脈、もう一方ではモリスの芸術・社会観への傾倒あるいは「民間芸術」という文脈、その双方に照らして、帰国後の一九一〇年代のみに限定することなく、日本民藝美術館設立趣意書へ連署した一九二六年を経て、さらには三〇年代の民藝派との決別をとおして、いかにして進行していったのかという問題の解明なのである。

もともと、富本と民藝派との工芸を巡る見解の相違は部分的には存在していた。そして一九三一(昭和六)年には、柳宗悦は、「個人工藝家」ないしは「工藝美術家」に向けて、その製作態度を強く批判し、こう述べているのである。

 想うに個性の表現が藝術の目的の如く解され、個性美が最高の美の樣に想はれるのは個人主義の惰性による。……「俺達は個性があるのだ」などゝ高飛車に出ても、頼りないいひ草である。つまらぬ個性、奇態な個性、そんなものが如何にこの世には多いことか23

帰国後以降、富本にとって、旧弊な工芸のあり方を脱皮させるには「個人」の力を信じるしか方法はなかった。そしてすでに二〇年代から三〇年代をとおして、富本の「個人作家」としての成果は社会の認めるところともなっていた。しかしそれでも、工芸の本来的あり方に対する信念を富本は放棄することはなかった。それは、モリスから学んだ、富本の用語法に従えば、「民間芸術」という視点を、さらに同時代的に発展させた視点でもあった。つまり、大衆へ向けての量産という集団的製作への志向が常に富本には内在していたのである。製作における「個人主義」と「集団主義」のいずれがどの時期に表面に現われるかは別にしても、また同じく、小野二郎のいう「闕語」がそこに介在しているかどうかは別にしても、土田が指摘する「変貌」が、必ずしも時間軸にそった直線的なものであったとはいいきれず、特定の社会的ないしは個人的状況にある程度規定されながら、両義的な要素を含みもつ進行が、この時期には存在していたように思えてならない。

一九二九(昭和四)年には富本は、信楽において、帰国後以降の念願であった量産陶器に取り組んでいる。そのときの気持ちを晩年、こう告白しているのである。

 私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを広く大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた。信楽に行ったときは、その考えを実行に移したもので、このときの大皿は絵だけを私が描いたものだから、安く売ることができたのである24

こうした量産へ向けての展開は、必ずしも日常的な製作行為ではなかったとしても、信楽以降も、晩年に至るまで断続的に試みられており、そこには、「個人」のなかにあってすべてが完結する「陶芸作家富本憲吉」とは異なる、「社会」の一部となってはじめて完結をみる「図案家富本憲吉」、つまりは今日にいうところの「デザイナー」としての富本憲吉の姿が確かに見受けられるのである25。富本は、まったくのアマチュアから出発して、確かに「個人作家」であることを優先させた。しかし、それに止まることなく、その一方で、その成果を「デザイナー」として大衆に還元しようと常に試みてきた。このことは、富本自身が述べているように、「若いころからの私の念願」26であった。したがって、このふたつの側面は、間違いなく、富本の生涯を通じての両輪になるものであったといえるし、理念上は、後者にみられる製作が、富本の工芸家としての当初から思い描いていた最終目標であったことを指摘することも可能なのである。

そして同時に、次の第二節以降の論点と関連して、信楽に関する先の引用文において注意を喚起しておきたいのは、こうした考えを「深く[富本の]胸にきざみつけていた」ものが、決してモリスのデザインしたものではなく、「ウイリアム・モリスの書いたもの」だったという点である。

続いて二〇〇〇(平成一二)年には、富本個人に焦点をあわせた展覧会においても、新たな展開が試みられた。「モダンデザインの先駆者 富本憲吉展」がそれである。一般的にいって、従来個人作家を紹介する展覧会にあっては、社会的文脈が捨象され、その作家の偉大さが喧伝される傾向が強かった。しかしこの「モダンデザインの先駆者 富本憲吉展」では、その作家の偉大さを一面的に切り取り強調するのではなく、富本が製作を開始する時代に広く見受けられた日本の社会文化的状況にいま一度富本自身を還元しながらその出発点を探り、これまで周縁的活動として等閑視されてきたきらいがあった模様集や図案集の製作、さらには量産のための試みもあわせて紹介することによって、富本の全体像に迫ることが意図されていた。

この展覧会のカタログには、「モダンデザインの先駆者・富本憲吉」と題された論文が掲載され、そのなかで「ウイリアム・モリスの話」が詳細に吟味されている。執筆者の山田俊幸は、「ウイリアム・モリスの話」の冒頭に書かれてある、サウス・ケンジントン博物館(正確には、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)訪問の体験に関する一文を引用し、そのあとに続けて、まず次のように述べるのである。

 日本における最初期のモリス紹介と言われるエッセイ、富本憲吉の「ウィリアム・モリスの話」……は、こうして書かれることになった。何度も通ったサウス・ケンジントンの博物館での思い出を語りながら、紹介が始められたのだ。
 だが、この二度におよぶモリス紹介に、何と感動が少ないことか。教科書的と言うか、あるいは概説的と言おうか、モリスの伝記的紹介に終始してしまい、残念ながらモリスの思想にはまったく触れていないようにさえ見える。この紹介の主旨を推測するならば、富本はモリスが時代に対して取った姿勢だけに興味があるようだ27

ここで山田は、富本の執筆意図が、モリスの伝記的紹介にあったのでも、またモリス思想の紹介にあったのでもなく、その記述をとおして、工芸家としてのモリスがいかにヴィクトリア時代の醜悪さに挑戦したのか、単にその姿勢を明瞭化することだけにあったのではないかと推量しているのである。もし、富本の真の執筆意図がそこにあったのであるとするならば、この後の批評家たちが富本をしてモリスの実践と思想のよき理解者であり同調者であるとする視点は、当然ながら修正されなければならないことになる。その点について山田は、次のように述べている。

 たしかに、この時代においてのモリスの全体紹介としてはこれは十分価値があった。だが、一歩踏み込んで、富本がモリスの何に対してどのような興味をもったのかはこの文章だけでは捕らえにくい。ところが、である。この富本のモリス紹介はしばしば一人歩きして過大な評価を受けてしまう。また、富本にこのモリス紹介があるために、初期の富本憲吉にとってモリスのみがそのすべてであったかのような誤解も生んでいる。そのため、後年、富本がモリスについて多少否定的な言辞を弄すると、富本が自己韜晦しているかのように思われたりもする。……二回に及ぶ長いモリス紹介だけに、その長さについつい富本の執心を語りたくなってしまいそうだが、富本の本当の執心はこのモリスの伝記にはない28

この評伝が、最初のまとまった全体的なモリス紹介の一文であったがゆえに、その後独り歩きし、富本の本来の執筆意図以上の意味が読み取られて富本に付与され、富本の真意を歪曲しかねない言説までもが生み出されてきた、と山田は指摘しているのである。モリスの紹介者が必ずしもモリスのまったき信奉者や追従者であるとは限らない。そこで山田は、長い時間のうちに堆積した富本とモリスとをつなぐ虚なる部分を振り払うためにも、改めてこの「ウイリアム・モリスの話」における富本の執筆の動機を探ろうとする。

そのためにまず山田は、「ウイリアム・モリスの話」の翌年に安堵久左の名前で『美術新報』に発表した「拓殖博覧會の一日」という一文に着目し、その展覧会を「富本憲吉とバーナード・リーチはひじょうな興味をもって見学し、近代(とうぜん彼らには『現代』であった)という時代のなかの『低層文化(ロー・カルチャー)』つまり『野蛮』に引かれている自分たちを、彼らはここで発見した」29ことを指摘し、富本が当時必ずしもモリスだけに執着したわけではなく、モリスを相対化する眼差しを一方でもっていたことを論証しようとするのである。さらに山田は、「ウイリアム・モリスの話」のなかで富本が使っている「大變面白いものであると考へて居りました」という文言の意味を探り、これは「『小芸術』を支える『図案(模様)』であったと考えてよい」30と述べ、「ウイリアム・モリスの話」のなかの富本の主たる関心が「模様」にあったことを主張するのである。そして、最終的に山田は、モリスのなかのオリエンタリズムにも触れたうえで、この時期の「富本にとって大事なことは、単にモリスの思想を知ることでも、また、モリスの真似をし、モリスのように仕事を行うことでもなかった。それはさまざまなところに応用されているモリスの『模様』だったのだ。それも、オリエンタリズムに触発され、西洋と東洋(中近東)がクロスオーヴァーしたところにあらわれた『模様』だったのだ」31と結論づけるのである。これまで紹介した一連の山田の分析は、果たして妥当なものであろうか。

以上に引用した幾つかの論点に関しての個別の検討は、あえてここでは横に置くとしても、山田が指摘するように、この評伝において富本は、モリスの思想については触れていない。その点は確かである。もし触れようとするならば、モリスの社会主義にも触れなければならなかったからである。しかし、富本はその部分は、明らかに放棄している。

 [イギリスから]帰ってきてモリスのことを書きたかっ ママ んですけれども、当時はソシアリストとしてのモリスのことを書いたら、いっぺんにちょっと来いといわれるものだから、それは一切抜きにして美術に関することだけを書きましたけれども32

そして、同じく一九六一(昭和三六)年の「富本憲吉の五十年」と題された座談会において、富本は、モリスの作品につては、こう述懐しているのである。

 あれの作品を見たときは失望しました。ことに図書館で植物のものを見たら、そっくりそのまま使用しているんですからね。古い西洋のものですけれどもね。それでモリスという人は理屈だけをいう人で、オリジナリティのない人だと思いました。オリジナリ ママ のない人は、こっちはもうひどくいやなんですからね33

このふたつの回想から判断すると、当時はモリスの思想にまで踏み込んで書けるような社会的、政治的状況にはなく、一方モリスの作品自体は、古い因習的な図案であったがために、見た当初から期待を裏切るものであったということになる。それでは、富本は、「ウイリアム・モリスの話」を通じて、誰に対して何を訴えたかったのであろうか。明らかに富本は、誰ひとりとして気づかぬ時代に、民衆が日常的に使用するさまざまな工芸に着目し、その改良に情熱を傾けたモリスの勇気と誠意に感動し、それを賞讃しているのである。そうしたモリスの生き方こそ、その当時の日本の閉塞した見せかけの工芸界の状況に照らして必要とされるものであり、そのための貴重な栄養分を確かにモリスから吸収したことを、評伝「ウイリアム・モリスの話」をとおして、単に工芸に携わる人びとだけではなく、自分自身に対しても明言しようとしたのではないだろうか。

一般論として図式化していえば、そうした近代精神は、過去のデザインの踏襲を拒絶し、それの代償として、地域土着的な表現への関心を招来するとともに、さらにそれを越えて新しい形式をもったデザインの創造へと向かわせ、最終的には、量産という機械の問題へと突き進むことになる。富本は、柳宗悦との交友関係を回想するなかで、機械の問題について、次のように述べている。

 民芸というものは柳君がはじめて私のところへきて、フオーク・アートこういうことをやっていこうと思うんだけれども、なんと訳すべきかと、きくくらいのものでしたね。私ははじめっからそういうものをやるとどうも狭まくなるからだめだ、というていた。その時分に私がおぼえておりますのは、柳君に向って、君が民芸は工芸の一部だというのなら承認しよう、しかし全部の工芸を民芸だけにしてしまうということには不賛成だ。私は手の工芸が、水が下に流れていくように、機械になっていくのをせき止めるようなことはだめだ。もし君がこれから民芸をどんどん盛んにしていくと、その流れに対してうしろで戸を押しているようなものだ、その押し手がなくなるとさっと流れてしまう。手の工芸といえども機械生産を認めながらやらなければいかぬ、これが私の考えだった34

一九三六年にニコラウス・ペヴスナーは、『 近代運動 モダン・ムーヴメント の先駆者たち』という題の本(一九四九年の第二版において『モダン・デザインの先駆者たち』に改題)を書き、デザインにおける近代運動の系譜を明らかにした。そしてその本の副題が、「ウィリアム・モリスからヴァルター・グロピウスまで」であった35。上に引用した富本の言説を、まさしくモリスからグロピウスまでを一気に駆け巡った言説として読むことはできないだろうか。富本は確かにモリスから学んだ。しかし拘泥したわけではない。富本はモリスから出発して、地域土着の「民間芸術」に関心を抱き、さらに同時代の大衆社会と市民生活に焦点をあわせて工芸を考えた場合、機械は受け入れなければならないとの認識に、早い段階でたどり着いていた。二〇〇〇年にそごう美術館で開催された展覧会の名称に、「モダンデザインの先駆者 富本憲吉展」が採用されたことは、主催者側の真意はわからないが、その名称においても、その後の富本理解に大きな示唆を与えるものであった。

二.「ウイリアム・モリスの話」の執筆経緯と底本の存在

前節において検討した「ウイリアム・モリスの話」を巡るこれまでの言説では、等しく、この評伝が、富本自身のイギリス滞在時の経験や見聞に基づき書かれたことが含意ないしは前提とされていた。しかし、富本は、この評伝の執筆に精を出していたころに、ロンドン時代以降も交友が続いていた南薫造に宛てて書かれた、明治四四(一九一一)年一一月三〇日の日付をもつ書簡のなかで次のように述べているのである。   

夜大抵おそく迠モリース[ウィリアム・モリス]の傳記を讀むで居る。バアン、ジョンス[エドワード・バーン=ジョウンズ]との関係、当時の連中がたがひに一生懸命だった事が今の自分に大変面白い36

そしてその年の内には脱稿したのであろう。明治四五(一九一二)年一月一二日付の、同じく南に宛てた書簡の冒頭に、こう記している。  

ママ 「モリスの話は二月号に出るそうだ。」37

この二通の南薫造に宛てた富本の書簡から判断できることは、モリスの伝記を読んでおり、それをまとめたものが「モリスの話」であり、それが『美術新報』の二月号に掲載されることになったということである。さらにそのことを裏づけるように、後年富本は、自らのイギリス時代に触れて、以下のように述懐しているのである。

 モリスの芸術はどうもオリジナリティが乏しいので期待はずれでした。それでも彼の組合運動などを調べてきました。後の話ですが岩村 とおる 氏の美術新報に大和から原稿を送ったことがありました。それに美術家としてのモリスの評伝を訳して出しましたが、社会主義者の方面は書きませんでした。あの当時もしも書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません38

これまでの富本憲吉に関する研究者や批評家たちは、「モリスの芸術はどうもオリジナリティが乏しいので期待はずれでした」あるいは「社会主義者の方面は書きませんでした」という文言については指摘ないしは言及してきたものの、そのふたつの文言にはさまれた「それ[『美術新報』]に美術家としてのモリスの評伝を訳して出しました」という一文に着目し、富本の「ウイリアム・モリスの話」がモリス伝記の翻訳として成り立っていることを明らかにしたうえで、その前提に立ってこの「ウイリアム・モリスの話」という評伝の意味と価値を論じた者はいなかった。その理由は何か。あえて推測をすれば、実際にモリスに関心を抱いて英国留学をした富本その人がひとつの帰朝報告としてモリスについて書き、それが日本における最初の本格的モリス紹介であった事実の前には、この「ウイリアム・モリスの話」が翻訳として成り立っているか否かは、さほど重要視する必要がなかったのかもしれない。さらには、編年的に記述されているモリスの人生にかかわる伝記的知識よりも、多くの研究者や批評家たちにとっては、その記述のあいまにちりばめられている、若き芸術家富本憲吉の、先達モリスの工芸家としての姿勢に対する見解やモリス作品に対する解釈の方が強く関心をそそる対象と化し、富本自身が述べている「モリスの評伝を訳して出しました」という言説については、意識的であろうと、無意識的であろうと、目を伏せてきたと考えることもできるであろう。

しかし後述することになるが、大槻憲二のように、戦前においては、この「ウイリアム・モリスの話」には底本があることを知り得た人たちがいたことも確かであり、そう考えるならば、おそらく戦中から戦後の六〇年代のあいだにあって、つまり、日本におけるモリス研究が衰微し、停滞する時期にあって、富本とモリスを結ぶ関係はおおかた忘れ去られ、七〇年代以降、つまり偶然であるかもしれないが、富本の死去以降、日本における最初の本格的なモリス紹介文としての資料的価値が独り歩きを開始し、さらに強固に固定されていくなかで、評伝「ウイリアム・モリスの話」の執筆経緯や成立事情が十全に明らかにされる機会が得られないまま、今日に至ったというのが、真実に近いのではないだろうか。

それでは、富本が南薫造に宛てた書簡のなかで「傳記を讀むで居る」と書いた、また後年、「モリスの評伝を訳して出しました」と本人が述懐した、その「傳記」ないしは「評伝」とは一体何だったのであろうか。

そして前節において、「深く[富本の]胸にきざみつけていた」ものが、「ウイリアム・モリスの書いたもの」だったという点をすでに引用し、指摘したが、この「書いたもの」のなかに、上記の「傳記」ないしは「評伝」も含まれていたのではないだろうか。

三.J・W・マッケイルとA・ヴァランスのふたつのモリス伝

学生であったころから、ロンドン滞在を経て、一九一二年に『美術新報』に「ウィリアム・モリスの話」が掲載されるまでのあいだに、富本憲吉が入手可能であった、モリスに関する伝記は、一八九九年に出版されたジョン・ウィリアム・マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』と、それに先立つ二年前の一八九七年に出版されていたエイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』の二冊だったにちがいない。

一八九六年にモリスが亡くなると、すぐさま遺族や親しい友人たちのあいだで、モリスの伝記について話し合われた。彼らにとっての関心は、今後心ない書き手によってモリスの人生や作品、さらには家族や交友関係が興味本位に解釈され、暴露されることを避けることにあった。そこで彼らは、モリスの終生の友人であり、仕事上のパートナーであり、かつまた双方の家族にとって相互に信頼を寄せ合っていた、バーン=ジョウンズ家の娘婿のJ・W・マッケイルにその任を負わせることにした。マッケイルはオクスフォード大学の教授で古典学者であり、その能力という点においてはいうまでもなく、同時に、モリスを取り巻く人びとの思いを反映させることができる立場にあったという点においても、最もふさわしいモリスの公式伝記作家としての役割を担うことになるのである。当然ながら、その執筆にあたっては、エドワード・バーン=ジョウンズとその妻のジョージアーナ・バーン=ジョウンズが協力し、積極的に資料の提供も行なった。しかし、これも当然なことではあるが、その伝記には、幾つかの重要な注文がつけられることになった。それは、モリスについては、彼が積極的な政治活動家であったこと、また彼の妻のジェインについては、その貧しい出自やラファエル前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとの愛情問題、そして夫婦にとっては長女ジェニーがわずらっていた病気に関することであった。つまりバーン=ジョウンズ夫妻と遺族は、そうした世間に対して表ざたにしたくない問題の記述にかかわっては極力和らげるようにマッケイルに配慮を求めたのであった。マッケイルは序文のなかで、この伝記の成り立ちをこう述べている。

この伝記は、サー・エドワード・バーン=ジョウンズから私への特別の依頼に基づいて、着手されたものである。したがってこの伝記が、彼の導きや勇気づけにいかに多くを負っているかはいうまでもなく、また同時に、この伝記が、そうした援助がなかったために、いかに不完全なものとなっているかについても、言を待たないであろう39

マッケイルは、自分に課せられた問題を実にうまく処理し、機敏にも三年後の一八九九年にこの伝記を上梓するのである。

しかし、モリスが亡くなる以前にあって、モリスの伝記を書くことを熱望していた人間がいた。それが、エイマ・ヴァランスである。スティーヴン・キャラウェイは、自著のなかで、ヴァランスがオーブリー・ビアズリーをモリスに引き合わせる場面を記述するに際して、ごく短く次のようにヴァランス自身の経歴を紹介している。

エイマ・ヴァランスは旧弊な高教会派の美学者であり、教会の調度品と古い刺繍に特別の関心をもっていた。そのようなことから彼は、すでにある程度ウィリアム・モリスとつながりができていて、のちに彼に関する最初の重要な評伝のひとつを書くことになるのである40

ヴァランスの経歴については、ほとんど詳しい記録が残されていない。一八六二年生まれの彼は、学者であると同時に牧師であった。また唯美主義者でもあり、資産家でもあったらしい。しばらくすると芸術に傾倒し、教会の仕事をあきらめ、『ザ・ステューディオ』に寄稿するようになる。ヴァランスがモリスにケルムスコット版の挿絵画家としてビアズリーを紹介し、そっけなく断わられたのは、一八九二年のことであるが、さらに二年後の一八九四年には、今度はヴァランス自身が、伝記を書きたい旨の申し出をモリスに行なっている。しかし、そのときのモリスの返事は、以下のようなものであったと、ヴァランスは回想している。

……彼[モリス]は率直に次のように私にいった。あなたであろうと、ほかの誰であろうと、自分が生きている限り、そのようなことはしてほしくありません。もし死ぬまで待ってもらえれば、そうしていただいてもかまいません41

こうしてヴァランスは、モリスの死後、伝記を書き進めることになるが、すでに公式伝記の執筆をマッケイルに依頼していたバーン=ジョウンズ夫妻にとって、ヴァランスの伝記がどのようなものになるのかについて心を痛めたにちがいなかった。そこでバーン=ジョウンズ夫妻は記述内容に制限を加えたものと想像される。つまり、デザイナー、製造業者、詩人、政治活動家といった公的側面に限ると。そのことは、明らかに、この伝記の表題にも表われることになるのである。ヴァランス自身、その事情をこう説明するのである。

慣例にしたがって序文を書くことは、私の意のあるところではないけれども、事情があって、そのようにしなければならない必要が生じた。まず、この本にこのような書名をわざわざ選んだ事実に注意を促したい。このことは、この本がモリス氏の個人的な問題や家族の問題についての評伝ないしは記録として成り立っているものではないということを示している42

おそらくバーン=ジョウンズ夫妻の指示に従ったのであろうが、ヴァランスは、わずかな例外を除いてはモリスの私的側面にいっさい触れることなく、したがって十全な個人の伝記としてではなく、公的側面の一記録として、この『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を書き上げることになるのである。

そのような事情から執筆されたものであったため、このヴァランスの本は、使用可能な資料が制限され、与えられた資料を引用でつなぐ形式で構成されている。したがって、その後のモリス研究者たちは、内容的にも、また記述の形式においても、伝記というには異質であるがゆえに、引用箇所の資料的価値は認めながらも、また、よりシステマティックな手法で記述されていたにもかかわらず、全体としては大きな価値をこの本に与えることはなかった。一九七五年にジャック・リンジーは、自らのモリス伝記の序文に、これまでに刊行された伝記をかえりみて、次のように述べている。

ウィリアム・モリスに関する書物やそれぞれの彼の仕事についての出版物は大変多く、この十数年以上にわたり確実に増加している。その一方で、伝記として十全に論じられた大著は三冊にすぎない。それらは、マッケイル(一八九九年)、エドワード・トムスン(一九五五年)、そしてフィリップ・ヘンダースン(一九六七年)によるものである。いずれにもそれぞれの長所が見受けられる。最初の伝記は貴重な作品で、家族の評伝としてのすばらしい一例である。最後のものは、マッケイルが築いた土台の上にさらに生き生きと描き出された労作となっている。二番目に挙げたものは、モリスの政治的活動の重要性をついに打ち立てることに成功し、ペイジ・アーノットの先駆的な指摘があったにもかかわらず、この伝記の登場以前に支配していた、さまざまな誤謬を覆すものであった43

ここには、マッケイルよりも二年も早く出版され、モリスの伝記ないしは記録としては、最も早いものであったにもかかわらず、ヴァランスの書物は登場していない。これも、ヴァランスの書物のもっている成立事情が反映し、七〇年代のモリス研究者たちにとって幾分魅力を欠いたものになっていたひとつの証左としてみなすことができるであろう。

「ウイリアム・モリスの話」を書くにあたって底本として利用した伝記を富本憲吉が入手したのが、美術学校在籍中なのか、ロンドン滞在中なのか、それとも帰朝後なのか、入手時期ははっきりしない。また同時に、自ら購入したものなのか、岩村透なり、『美術新報』の編集部なりに貸し与えられたものなのか、その入手の経路も現時点では判然としない。しかし、次の第四節で詳述するように、底本に使用されたのは、明らかにヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であった。富本が入手できたものが、ヴァランスとマッケイルの双方だったのか、ヴァランスだけだったのかも、明確にすることはできない。もし、双方の伝記を読み比べたうえで、ヴァランスを選択したのであるとすれば、デザイナーとしてのモリスについてテーマが絞り込まれているヴァランスの伝記の方が、執筆にあたって利用しやすかったことが考えられるが、当時のイギリスにあっては、マッケイルの伝記に比べ、ヴァランスの伝記は人気がなく、限られた人びとのあいだでしか流通していなかったことも事実なのである。しかしどちらにしても、この本をはじめて手にし、その著者名を見たとき、学生時代から英国の美術やデザインの動向についての主たる情報源として『ザ・ステューディオ』を読んでいたであろう富本にとって、その雑誌にしばしば論考を投稿していたエイマ・ヴァランスの名が思い起こされて、おそらく、何か格別の親しみを覚えたにちがいなかった44

四.A・ヴァランスと富本憲吉の両評伝――テクストについて

エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』【図一】と富本憲吉の「ウイリアム・モリスの話」【図二】【図三】の類似点は、とくに〈レッド・ハウス(赤い家)〉についての記述の箇所に明確に認めることができる。

周知のとおり、〈レッド・ハウス〉とは、ジェイン・バーデンとの結婚に際しモリスの求めに応じて友人の建築家フィリップ・ウェブが設計し、一八五九年から一八六〇年にかけてケント州ベクスリー・ヒースに建設された個人住宅のことで、赤い煉瓦づくりであるためにそのような名称で呼ばれている。モリスは、この新居の室内装飾を、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやエドワード・バーン=ジョウンズを含む彼の仲間の芸術家たちと協同で行ない、この経験が、その後のモリスに工芸家ないしはデザイナーへの道を準備したといわれている。その意味において〈レッド・ハウス〉は、モリス自身にとっての、さらにはその後に続く英国のアーツ・アンド・クラフツ運動にとってのまさに揺りかごとなるものであった。

富本は、〈レッド・ハウス〉についての記述を、「ウイリアム・モリスの話」の二番目の章に振り当てている。ただし、番号だけで章題はない。この二番目の章は、大きく分けて三つの部分から構成されている。最初の部分(前段)で、主として〈レッド・ハウス〉が建設されるにあたっての経緯が述べられ、次の部分(中段)で、この家の室内が詳細に描写されている。この部分は、インデントが施されたうえに、かぎ括弧がつけられているのが特徴である。しかし、それに対する注や引用文献に関する付言はいっさい存在しない。そして最後の部分(後段)で、ロセッティやバーン=ジョウンズとの協同の様子が手短に触れられている。

この第二章は、ヴァランスによる〈レッド・ハウス〉の記述がすべて完全に逐語訳されて成り立っているわけではないが、全体をとおして見た場合、ヴァランスの部分訳と要約でおおかた構成されており、さらには記述の流れも、基本的にヴァランスのそれと一致している。

以下は、室内の様子を記述している中段の書き出しの部分である。

「大きい重い瓦の屋根、赤煉瓦の厚う見える壁[、]四角い窓、低い大きい出入口、大きい重い戸、等を使つた家が、古い果樹や種々な草花をうまく取り合はした庭に圍まれ ママ ドッシリと建つて居る、先づ見た處一幅の良い繪の前に立つた時と同じ樣に整つた、良くバランスの取れた感じをあたへる、入口を入ると普通の家と同じ樣に一度狹つた廊下の樣な玄關から直ぐに廣間に續く、其處に赤い煉瓦を敷いた上に重い樫の大きい机を置いてある、其れを越えて見える爐の飾りは廣い全室を押さへる樣にシマリを付けて居る、入口の直ぐ左りにある楷段の橫に古代趣味を見せた無地の硝子を張つた木製の衝立を置いてあつて、之れが廣間と玄關とを區分する用をして居る、其所から庭に出る戸の横に二つの窓があつて一方に「愛」一方に「運命」と云ふステインド グラスを入れてある、……」45

それに対応する、ヴァランスの記述箇所は、次のとおりである。

“. . . The deep red colour, the great sloping, tiled roofs; the small-paned windows; the low, wide porch and massive door; the surrounding garden divided into many squares, hedged by sweetbriar or wild rose, each enclosure with its own particular show of flowers; on this side a green alley with a bowling green, on that orchard walks amid gnarled old fruit-trees; ― all struck me as vividly picturesque and uniquely original.” In the grass-plot at the back of the house is a covered well, with a quaint conical roof. “Upon entering the porch, the hall appeared to one accustomed to the narrow ugliness of the usual middle-class dwelling of those days as being grand and severely simple. A solid oak table with trestle-like legs stood in the middle of the red-tiled floor, while a fireplace gave a hospitable look to the hall place.” To the left, close to the foot of the stairs, is a wooden partition, panelled with leaded panes of plain glass of antique quality. This screen divides the main hall from a lesser hall or corridor, which leads, at right angles, into the garden and is lighted by windows of glass quarries decorated with various kinds of birds and other devices. In the centre of two of these windows are single figure panels; the one representing Love, in a rich red tunic, flames of fire at his back, and a stream of water traversing the flowery sward at his feet; the other, Fate, robed to the feet in green, with a wheel of fortune in her hand46. . . .

おそらく富本は、このヴァランスの〈レッド・ハウス〉の室内の様子についての記述箇所を読み、日本語に訳すにあたって、戸惑いを感じたにちがいなかった。というのも、ヴァランス自身、この〈レッド・ハウス〉の室内の様子を、ある人から与えられた情報に基づいて記述していたからである。

以下に述べる記述は、昔この家をしばしば知りえる立場にあったある人物によって提供された覚え書きに基づくものである。その書き手は、「一八六三年にレッド・ハウスをはじめてみたとき、それは私に強い感銘を与えた。……」と述べている47

こうした断わり書きを最初に述べたうえで、ヴァランスは、上で引用したような、〈レッド・ハウス〉の室内の記述に入るわけであるが、記述の構成が、「ある人物によって提供された覚え書き」を部分的につなぎあわせる形式になっているために、当然引用符号が多用されることになる。つまり、「覚え書き」が引用として多用された記述内容を、今度は富本が翻訳することになるのである。富本を悩ませたのは、ヴァランス自身の文章と引用文とをどう訳し分けて、日本語に置き換えるかという問題であったと思われる。富本は、第二章を構成する二番目の部分、つまり室内の描写にかかわる部分(中段)にかかわって、ヴァランス自身の文章とある人物から提供された「覚え書き」からの引用箇所とを一括してかぎ括弧でくくり、それを自分の文章のなかに引用文として独立させ、こうして引用にかかわる独自の処理を行なったのである。そういうわけで、第二章を構成する最初の部分(前段)と最後の部分(後段)は、ヴァランスからの引用であると思われる形跡が認められるものの、いっさいかぎ括弧は用いられていない。

こうした事情から記述されていたため、ヴァランスが引用を用いて描写した箇所の〈レッド・ハウス〉は、一八六三年ころのその家の室内の様子であり、一方、引用を用いないで記述している部分、つまりヴァランス自身の文章は、おそらくこの本が刊行された一八九七年より少し以前の〈レッド・ハウス〉の様子ということになるだろう。したがって、富本が描写している〈レッド・ハウス〉は、一八六三年ころのその家の様子と一八九七年より少し以前のその家の様子とがない交ぜになっているのである。

それでは、ヴァランスに「覚え書き」を提供した「ある人物」とは誰なのであろうか。残念ながら、いまだこの人物は英国の研究者のあいだでも特定されていないようである。しかし、ある研究者は、その人物をジョージ・キャンプフィールドではないかと推量している。

覚え書きを書いた人物は特定されていない。これは謎となっている。私が最も確かな人物として推量するのは、ジョージ・キャンプフィールドである。彼は、一八六一年からレッド・ライオン・スクウェアのモリス・マーシャル・フォークナー商会でガラス絵師の職工長として働いており、したがって、一八六三年に(おそらく仕事にかかわってであろうが)〈レッド・ハウス〉に招待されて訪問することができたはずである。そして彼は、一八九〇年代にあってまだマートンで雇用されていた48

ヴァランスが伝記の執筆に関してモリスに許可を得ようとしたのが、一八九四年であり、同じ年に、ヴァランスはマートンでのタペストリー製造にかかわってモリスにインタヴューを行ない、その記事が『ザ・ステューディオ』に掲載されている49。したがって、おそらくこの時期の前後に、将来モリスの伝記を書くことを念頭に置きながら、当時マートンで働いていたジョージ・キャンプフィールドに近づき、建設された当時の〈レッド・ハウス〉の様子を知りたかったヴァランスは、それを可能にする「覚え書き」を彼から入手しようとしたのではないだろうか。いずれにしても、当時の様子をさらに詳しく知っていた、当事者のモリス夫人やエドワード・バーン=ジョウンズ夫妻に直接情報の提供を求められなかった事情が、こうした匿名の「覚え書き」に頼らざるを得ない事態を引き起こしたものと思われる。

「ウイリアム・モリスの話」のなかで富本が〈レッド・ハウス〉を描写するに際して底本として使用したヴァランスの伝記は、その後、再び日本人によって引用され、利用されることになる。

一九二四(大正一三)年、大槻憲二は『住宅』に「井リアム・モリスの『赤い家』」を寄稿している。そのなかで大槻は、出典は明らかにしていないが、ヴァランスが記述した〈レッド・ハウス〉を一部引用することになるのである。

當時、この『赤い家』に終始出入してゐた或る人の手記にかう書いてある。『一八六三年に、私は、始めて『赤い家』を見たが、恐ろしく氣持ちがよかつた。……總ては、生々として、繪のやうな趣きがあつて、いかにも獨創的な感じがした。』50

この論文の執筆から一〇年のちの一九三四(昭和九)年に、さらに大槻は、ウィリアム・モリスの生誕一〇〇年を記念する展覧会を日本橋の丸善において組織するとともに、展覧会カタログに相当する『モリス書誌』の編集に携わることになる。この展覧会は、モリスがデザインした工芸品の実作によって構成されたものではなく、それは、モリスの著作や関連の研究書、さらに加えて、モリスについての日本語で書かれた文献などによって構成されていた。そしてそこには、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』、富本憲吉の「ウイリアム・モリスの話(上)」、大槻憲二の「井リアム・モリスの『赤い家』」も出品されていた。『モリス書誌』によると、ヴァランスの著書(出品目録番号一六二)は、一九〇九年刊行の第四版であることが明記され、富本のモリスの評伝(出品目録番号五九)には、「二回連續したものの如くであるが、次の號は出品者の手許になし」51という注が付け加えられている。前者の出品者は岩倉具榮で、後者の出品者は石橋武助であった。つまり、「ウイリアム・モリスの話(下)」は、この展覧会には展示されていなかったことになる。探そうと思えば、探し出せたはずであり、なぜ「ウイリアム・モリスの話(下)」が不出品となったのかは、わからない。また、出品者名簿に柳宗悦の名前はあっても、富本憲吉の名前はない。富本がモリス関連の何かをイギリスから持ち帰っていた可能性があったはずなのに。こうしてみると、富本が日本における最初期の本格的なモリス紹介者であったにもかかわらず、富本とモリスのきずなは、この展覧会においては、極めて薄いものであったといわざるを得ない。しかし、ヴァランスの著書と並んで、富本の「ウイリアム・モリスの話(上)」と大槻の「井リアム・モリスの『赤い家』」が出品されていた以上、詳細に読み比べることができた当時の人びとにとっては、富本の評伝の底本がヴァランスの伝記にあったことを知りえる立場にあったわけであり、少なくとも大槻がそのひとりであった可能性は高い。しかし、前後の動きから推量して、底本があることがわかったからといって、そのことがとりたてて問題や話題になるようなことはなかったようである。こうして、底本の存在を確認する機会があったにもかかわらず、公的には、富本のモリスに関する評伝の成り立ちについてついに厳密に触れられることもなく、戦後の研究へと引き継がれていくことになるのである。

五.A・ヴァランスと富本憲吉の両評伝――図版について

一九一二(明治四五)年に公表された「ウイリアム・モリスの話」の二番目の章のなかの二番目の部分、つまり、〈レッド・ハウス〉の内装について描写された、かぎ括弧でくくられた箇所(中段)を読んだ読者は、その家の室内の様子をどのようにイメージしたのであろうか。当時、限られた数名を除いては〈レッド・ハウス〉を訪問した日本人はいなかったはずであるので、おおかたの読者は、このテクストからのみその家の室内をイメージせざるを得ず、その記述からどれほど正確な外観【図四】【図五】や間取り【図六】、さらには家具、調度品の特徴を読み取ることができたのであろうか。今日においても、〈レッド・ハウス〉を訪問した経験をもつ人やこの家について何かほかの知識をもつ人は別にしても、このテクストだけを手掛かりにこの家の内部の様子を正確に再現することができる人はどれだけいるだろうか。そのような疑問を抱かせるほどまでに、富本の〈レッド・ハウス〉記述は理解しにくいテクストとなっている。

その理由は何か。利用した底本が、過去の「覚え書き」を断片化し、それらを再構成するといった形式で〈レッド・ハウス〉が描写されており、そうした形式をもつテクストの翻訳であることに由来して読みにくくなっていることは、当然であるとしても、この富本のテクストには〈レッド・ハウス〉に関する図版がいっさいつけられておらず、そのことも、この家についての正確な再現を妨げる一因となっているように思われる。

ここで指摘しておかなければならないのは、底本のヴァランスの著作には〈レッド・ハウス〉について七葉の図版が挿入してあるにもかかわらず、富本のテクストには、それが全くないということである。

まず、ヴァランスのテクストに挿入された図版について。このなかで〈レッド・ハウス〉に関しては、外観や室内を描写した七枚のイラストレイションが用いられている。製作者はサインから判断して、すべてH・P・クリファッドという人物であるが、この芸術家については、ほとんど詳細はわかっていない。しかし、ヴァランスは第二版の序文において、図版の提供者であるチャールズ・ホウムへ謝意を示しており52、そのことから判断すると、このイラストレイターは、ホウムに近い人であったと考えられる。ホウムは、一八九〇年から一九〇三年にかけての〈レッド・ハウス〉のオーナーかつ居住者であり、一八九三年には、グリースン・ホワイトとともに、雑誌『ザ・ステューディオ』を創刊している。したがって、ホウムが、この雑誌編集にかかわって知りあったと思われるイラストレイターに自邸を描かせ、その作品をその雑誌の常連執筆者であったヴァランスの求めに応じて提供したという可能性が高い。しかし、それを裏づける確かな証拠は残されていない。

それでは、なぜ富本は、〈レッド・ハウス〉の理解には欠かせないこれらの図版を自分のテクストに利用しなかったのであろうか。富本のテクストのなかには、上下の双方の号をあわせて、二〇枚の図版がつけられている。なかには、縮小されたものや、縦位置から横位置に変えられたものが含まれてはいるが、いずれの図版も、ヴァランスからの複製であることは明らかである。他の記述に関してはテクストの内容に即して図版が用意されているにもかかわらず、なぜ〈レッド・ハウス〉に関する記述に対応する図版だけが、複製されることなく、欠落しているのであろうか。奇妙な現象といえば、実に奇妙な現象である。富本自身によるこのことを説明した資料が残されていない以上、その理由の分析はすべて推論になるが、富本の〈レッド・ハウス〉訪問の可能性の有無とも幾分関連するので、詳述は次の第六節に譲りたいと思う。

一方、図版のキャプションについてはどうであろうか。富本のテクストには、先に述べたように、上下の両号をあわせて、二〇枚の図版が挿入されているだけでなく、それぞれの図版にはキャプションもつけられている。そして、おおかたのキャプションには、作品名に続けて、「(ウイリアム)モリス案」「モリス事務所製作」「モリス下圖」という製作にかかわるデータが記載されている。これは、ヴァランスのキャプションをそのまま翻訳したもので、それぞれに対応する原綴は、‘DESIGNED BY WILLIAM MORRIS’ あるいは ‘SKETCH DESIGN BY WILLIAM MORRIS’、‘EXECUTED BY MORRIS AND CO.’、‘CARTOON BY WILLIAM MORRIS’ である。ところが、第一節において言及した「モダンデザインの先駆者・富本憲吉」において、執筆者の山田俊幸は、このキャプションにかかわってこう述べているのである。

……富本はこのように「下図」「案」「事務所製作」と、モリスと図案との関係を明確にする。このことは、富本自身のなかに、この仕事の差異を明確にしたいという意識があったからだろう。この図版すべてを、「モリス製作」としなかった理由は、けっして富本の厳密さからではない。これは、モリスのデザインにとうぜん内在していた分類なのだろうが、この分類を富本は積極的に自分と作品とのスタンスとして顕在化させたのである。モリスの思想が富本に何を与えたのかは分からない。だが、モリスのデザインと、デザインのプロデュースの方法は富本のその後に影響を与えた。ここに、デザインの事務所の計画が浮上してくる53

ここで述べられている前段は、そういうわけで、ヴァランスからの直接的な訳であり、富本自身がつけたキャプションではない以上、全く正確さを欠いた指摘であるが、しかし、このキャプションに関連して後段の「モリスのデザインと、デザインのプロデュースの方法は富本のその後に影響を与えた」という指摘は、重要である。富本自身が、晩年にこう述懐しているのである。

 私は工芸の図案については音楽の場合に楽譜をつくる作曲家と、実際に楽器で演奏するプレーヤーとがあるのと同じような関係を考えているんです。……私なんか模様をこ[し]らえる側のコンポジ[シ]ョンのほうに固執しているんじやないか54

そしてまた富本は、別の箇所ではこうもいっている。

私の知って居る約五十年前の英国では、既に図案者と製作者との名が別々に記されている事が普通であった55

おそらく富本のこの言葉のなかには、「(ウイリアム)モリス案」「モリス事務所製作」「モリス下圖」という、デザインと実製作とにかかわるヴァランスのキャプションにおける使い分けが念頭にあったのであろう。ここで注意を払わなければならないことは、こうした早い段階で、デザイン(富本のいう、計画や設計)と実製作との分離、つまりは分業に対する理解が、富本のなかに生まれていたという点である。

今日では、‘Morris and Co.’(正式には ‘Messrs. Morris and Co.’)に対しては「モリス商会」という訳語が使われるのが一般的であるが、富本は、この用語をキャプションでは「モリス事務所」と訳し、一方本文においては「モリス圖案事務所」という訳語もあてている。おそらく、このことと、「ウイリアム・モリスの話」の発表から二年後の一九一四(大正三)年に美術店田中屋内に本人が設立した「富本憲吉氏圖案事務所」とは、決して無関係ではなかったものと思われる。

ところで、ヴァランスの本のなかで使用された〈レッド・ハウス〉に関する七枚の挿画は、その後日本にあって複製され、紹介されることはなかったのであろうか。いや、そうではない。実は、七枚のすべての図版が、前の第四節で言及した大槻憲二の「井リアム・モリスの『赤い家』」の挿画として使用されているのである。大槻は、明らかに、テクストにおいてもヴァランスから部分的に引用するとともに、図版に関してもヴァランスのものを複製しているのである。彼は、〈レッド・ハウス〉に関する富本のテクストに図版が欠けていたことをおそらく知っていただろうし、また、図版を挿入することが、読者の〈レッド・ハウス〉理解に対しての重要な視覚的一助となることも十分に承知していたのであろう。

こうして結果的に、ヴァランスの著書の〈レッド・ハウス〉にかかわる部分は、テクストに関しては一九一二(明治四五)年の富本の「ウイリアム・モリスの話」において、また図版に関しては一九二四(大正一三)年の大槻の「井リアム・モリスの『赤い家』」によって、時をまたぎ、別々の雑誌をとおして、日本に紹介されたことになるのである。しかし、こうした紹介の経緯は、おおかたの当時の読者やこれまでの研究者たちにとっては、ほとんど関心の外に置かれていたにちがいなかった。ちなみに、、第三節において言及したJ・W・マッケイルによる伝記の抄訳は、佐藤淸訳で「井ィリアム・モリス傳」と題して二回に分けて、雑誌『想苑』の一九二三(大正一二)年八月号(第三巻第三号)および九月号(第三巻第四号)に掲載されている。もっとも、この抄訳は、原著第一章のはじめの部分を訳出したものにすぎなかった。

六.富本憲吉の〈レッド・ハウス〉訪問の可能性

すでに第一節において、小野二郎が一九七七(昭和五二)年に書いた「『レッド・ハウス』異聞」から次の一文を引用した。

富本のここ[レッド・ハウス]への訪問はおそらく一九〇九年前後であろうから、[この家が建設されてから]丁度半世紀経ている。

それ以降、幾人かの研究者の仕事をとおして、富本憲吉の〈レッド・ハウス〉訪問を断定する論調が現われてきた。以下は、その幾つかの事例である。まず、一九八六(昭和六一)年に乾由明は、展覧会カタログに所収された論文のなかで、次のように、富本の〈レッド・ハウス〉見学について述べている。

……富本は二年足らずのあいだのロンドン滞在中に、しばしばビクトリア・アンド・アルバート美術館を訪れ、モリスの壁紙の下絵、染織、ケルムスコット版の書物などを熱心に観察し、スケッチをして研究した。またロンドンの南、ケント州ベックスリ・ ヒル ママ にあるモリスの有名な家、レッド・ハウスへも見学に行っている56

続いて、一九九七(平成九)年には、菊池裕子が、イギリスの雑誌『クラフツ』のコラム記事のなかで富本憲吉を取り上げ、彼の〈レッド・ハウス〉訪問を、こう紹介することになる。

彼[富本憲吉]は、モリスとホイッスラーについての研究をさらに深めるために一九〇八年にロンドンに到着し、中央美術・工芸学校の夜間の課程で3箇月間、ステインド・グラスを学んだが、しかし、ほとんどの時間は、郊外でのスケッチ、レッド・ハウスへの訪問、サウス・ケンジントン博物館での独習に費やされ、その博物館では、数百点もの作品を彼はスケッチしている57

さらに、一九九九(平成一一)年刊行の辻本勇の『近代の陶工・富本憲吉』においても、富本のその家への見学が、以下のように明示されているのである。

……憲吉は夏の間、一人で西海岸のイルフラコムという景勝地や、中部の水郷ハンティンドンに滞在、また南部のデヴォンシャーにも出かけており、なかなか写生旅行だけでも忙しそうである。その上、モリス研究のためにモリスゆかりのレッドハウスなどの見学旅行も間にはさんでいるのだから、またたくうちに月日が経つように感じられただろう58

こうした論調にみられる富本憲吉の〈レッド・ハウス〉訪問についての断定は、どれも、彼が帰国後発表した「ウイリアム・モリスの話」の存在がその根拠となっていると考えていいだろう。しかし、これまでに詳述してきたことから明らかなように、この富本のモリスについての評伝は、エイマ・ヴァランスの著書に基づく翻訳によってその骨子が形成されており、そうした事実を踏まえて、再度この「ウイリアム・モリスの話」を読み直した場合、とりわけ〈レッド・ハウス〉にかかわって問題にしようとするならば、当然ながら、その家への彼の訪問の真実性が改めて問われなければならないことになる。果たして富本は、本当に〈レッド・ハウス〉を訪問したのであろうか。

そのことを検討するために、再度ここで、〈レッド・ハウス〉が記述されている、富本のテクストの二番目の章へともどらなければならない。第四節で紹介したように、この章は、大きく分けて三つの部分から構成されている。〈レッド・ハウス〉が建設されるにあたっての経緯が述べられている最初の部分(前段)。この家の室内が詳細に描写されている二番目の部分(中段)。この部分には、インデントが施され、かぎ括弧がつけられている。そして、ロセッティやバーン=ジョウンズとの協同の様子が手短に触れられている最後の部分(後段)。この第二章の構成は以上の三つの部分である。

最初に注目されてよいのは、この第二章全体を通じて、〈レッド・ハウス〉に対する富本自身の記憶や感想がいっさい述べられていないということである。たとえば第一章においては、「サウスケンシントン博物館の裏門から這入つて二階に上がつた左側の室を通つて左に廻つた室が諸種の圖案を列べてある處と記憶します、私は其處で初てモリスの製作した壁紙の下圖を見ました」59と、自らの体験をはっきりと述べているにもかかわらず、〈レッド・ハウス〉に関しては、それに類似するような記述が全くないのである。ただ一箇所だけ、前段において、「誰れもコウ云ふ事を心付かぬ時代に、只美しい良いものを造ると云ふだけの目的だけを見あてに今迄の惡い習慣を打ち破つてやつた勇氣と、自分を信用して居た點だけでも實に感服の外ありません」60という、この家がつくられた意義についての富本自身の感想が述べられているが、それは前の文章内容を受けての感想であり、その文章がヴァランスからのものである以上、〈レッド・ハウス〉から直接受けた印象を表現したものではない、と考えるのが妥当であろう。

富本は、美術学校時代、建築と室内装飾を学び、卒業製作として《音楽家住宅設計図案》を提出している。そうした経歴をもつ富本が、留学以前から強い関心を抱いていた工芸家の住宅である〈レッド・ハウス〉を目の前にして、何もそれについて自らの印象なり、感想なりをもたずにいられたとは、どうしても考えられないし、また一方で、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館において幾多のスケッチをしている富本が、スケッチブックにペンを走らせようとする衝動に駆り立てられなかったとしたら、それもとても考えにくいことなのである。

次に注目されるのは、前段最後の、つまり中段へ移行するにあたっての次の文章表現である。

 此の家の外觀と室内の有樣を、此處で書き現す事は困難な事ですが、大略次ぎの樣に書くより外仕方ないと考えます、下手な私の書き振りが尊敬す可きレッド ハウスの偉大な事を充分に云ひ現す事が出來ないのを恥ぢます61

ここから、インデントが施され、かぎ括弧がつけられ、〈レッド・ハウス〉の室内の描写がはじまるわけであるが、この断わり書きは、自分の文章の表現技術に対する謙遜の域を越えた言い回しのように思えてならない。とくに、なぜ「恥ぢます」とまで書かなければならなかったのだろうか。富本が「恥ぢる」という用語を使用する場合、この時期、どのような意味で使われていたのだろうか。この用語法に関するひとつの事例を、以下の引用文のなかに認めることができるであろう。

学生時代の事を思ひおこすと先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る……全体見たあとで好きな少し衣を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様と考へ[て]居た事もある……人も自分も随分平氣でそれをやった。近頃は一切そむな事が模様を造る人々にやられて居ないか、先づ自分を考へるとタマラなく恥かしい62

この引用文は、「ウイリアム・モリスの話」の翌年、雑誌に投稿するために書きはじめたものの、うまくまとめることができず、結局、友人の南薫造へ宛てて富本が郵送した原稿の一部である。原稿用紙に書かれてあり、「模様雑感」という題がつけられ、一九一三(大正二)年一一月六日の日付が封筒の裏に残っている。この時期、苦悩の末に富本は「模様から模様を造らない」という創作理念へとたどり着くわけであるが、当時の富本にとって、過去のものや他人のものを模倣することが最も「恥かしい」ことであり、そうせざるを得ないとき、富本は、そのことを「恥ぢます」という表現を使用しているようである。この解釈が妥当であるとすれば、「下手な私の書き振りが尊敬す可きレッド ハウスの偉大な事を充分に云ひ現す事が出來ないのを恥ぢます」という表現は、直接的な自分の観察に基づくことなく、事情があって他人の文章を下敷きにせざるを得ず、そのために正確な描写ができないことを「恥ぢます」という意味になる。また、そうした富本独自の「恥ぢる」心が、中段における室内の記述に際して、あえてインデントとかぎ括弧を用いさせているのではないであろうか。

もしこの一連の推論が成り立つならば、前の第五節において、〈レッド・ハウス〉に関する図版だけが欠落していることを指摘したが、その理由も、こうした仮説からある程度説明をつけることができる。つまり、ヴァランスからの借用に依存するかたちで〈レッド・ハウス〉を記述せざるを得ないこと自体が「恥かしい」行為であると考える富本にとって、さらにそのうえに、自分が見てもいない絵柄の図版までをも無頓着に挿入することは、模倣や盗用や再利用を戒める自らの強い信念がどうしても許さなかったのではないだろうか。富本が、生涯をとおして安易な妥協を自らに許さなかったことは、よく知られている事実であるが、そう考えるならば、すでにこの早い時期にあって、富本の高潔な態度の一端は、一見些細とも思える文章表現や図版処理のなかに現われていたことになる。

三番目に注目されなければならないことは、中段において〈レッド・ハウス〉を記述するに際して富本が用いている「 衝立 ついたて 」という用語の使用に関してである。この用語が、先の引用文からも明らかなように、ヴァランスのテクストにみられる ‘partition’ ないしは ‘screen’ に相当する訳語として使用されているのは明白である。もちろん言葉のうえでは適切な訳語であり、問題はない。しかし、この「衝立」という訳語は実態を正確に表わしていないのである。一般的にいって、日本人が「衝立」という用語を使う場合、それは、視線を遮ったり空間を仕切ったりするための主に玄関や座敷で用いられる一種の屏風のようなものをイメージするのではないだろうか。しかし、この ‘screen’【図七】は、広い玄関ホールと庭へ通じる廊下とを仕切るために造作された、碁盤格子の木枠に何枚もの透明のガラス板がはめ込まれた、天井に達する一種の間仕切り壁の役目を果たすもので、その大部分は開閉可能な両開きの扉となっているのである。したがってこの部分は、英語では ‘wall’ ではなく、‘glass screen’ とも ‘glazed screen’ とも表現される。もしこのようなガラス扉を実際に日本人が見た場合、それを「衝立」という言葉で言い表わすであろうか。

このように、推論を含みながらも、テクストにそって検討してみると、富本が〈レッド・ハウス〉を訪問したことを裏づける証拠は何ひとつ見当たらず、どちらかといえば、逆に、訪問していないのではないかと思わせる痕跡の方が、より多く認められるのである。

それでは、テクスト以外ではどうだろうか。富本の〈レッド・ハウス〉訪問を根拠づける何かが残っているのであろうか。

英語で ‘glass screen’ や ‘glazed screen’、必要に応じて ‘glazed door / partition’ とも表現されるこのガラス扉は、モリスが住んでいたころにはなかったが、採光を妨げることなく、寒風の進入を防ぐ目的でその後の居住者によって、おそらく一八九〇年ころに、付け加えられたものである。

それ[ガラス扉]は、〈レッド・ハウス〉訪問者の一種の芳名録としての役割を果たした。モリスの娘のメイ、アーサー・レイズンビー・リバティー、エイマ・ヴァランス(モリスの最初の伝記作家)、そしてジョージアーナ・バーン=ジョウンズのサインが、その上に記載されており、いまでもはっきりと読み取ることができる63

一八九六年にモリスが亡くなり、J・W・マッケイルがモリスの公式伝記作家に選ばれると、ジョージアーナ・バーン=ジョウンズとモリスの次女のメイ・モリスは、〈レッド・ハウス〉を訪れることになる。「マッケイルを励まし、また彼の仕事の主たる情報源となったのは、ジョージー[ジョージアーナ・バーン=ジョウンズ]だった。……[一八六五年にモリス]一家がクウィーン・スクウェアに引っ越したときメイはまだ三歳にすぎず、[〈レッド・ハウス〉についての]彼女の断片的な記憶は人から聞いたこととないまぜになっており、いまや彼女はそれを検証する必要性を感じていた」64。そのことが、ふたりのこの家への訪問の目的であった。また、「リバティー商会」の経営者であったA・L・リバティーは、一八九〇年から一九〇三年までの〈レッド・ハウス〉のオーナーであったチャールズ・ホウムと親しい間柄であった。ホウムは日本の伝統工芸の愛好家でもあり、リバティー夫妻と画家のアルフレッド・イーストとともに日本を訪問している。そのような関係からリバティーはホウムの住むこの家を訪問していたと思われるし、ヴァランスについては、第五節で触れたように、ホウムがオーナーを務める『ザ・ステューディオ』への投稿やモリス伝記の執筆にかかわって、ホウムを訪ねたものと思われる。

それでは、一種の芳名録として利用されていたこのガラス扉に、日本人訪問者の名前は刻まれていないのだろうか。確かに、D. Goh、Kosaku Iwamoto、M. Saito、H. Shugioの名前は残されている65。チャールズ・ホウムは、ロンドンにおいて一八九一―一八九二年に日本協会が設立されたとき、設立準備委員会の委員を務めるほど、深く日本協会に関与しており、日本人四名の訪問の目的や時期、同伴者などについてはいまだ不明な点も多く残されているが、いずれにしても、日本協会を通じての交友の一環としてホウムは彼らをこの家へ招待したり、転居後であれば、次の居住者へ紹介したりしていたものと考えられる。しかし、Kenkichi Tomimoto の名前はこのガラス扉にはない。当然といえば、当然かもしれない。もし富本自身がこのガラス扉にサインをしていたならば、「ウイリアム・モリスの話」のなかで、この扉を「衝立」という訳語でもって書き表わすようなことはなかったものと思われるからである。

富本がロンドンに滞在していた一九〇九年から翌年にかけての〈レッド・ハウス〉の住人は、ヘンリー・マフの一家であった。

 一九〇三年にその家はヘンリー・マフ(Muff)によって買い取られた。彼はブラッドファッド出身で、テキスタイルの商売から身を引き、病弱の身にあった。彼はまた、ジョン・ラスキンの信奉者でもあり、おそらくチャールズ・ホウムとも親しい関係にあったであろう。一九〇九年から一九一〇年にかけて、マフは、妻モード、そしてふたりの息子とひとりの娘とともにそこに住んでいた。一九〇九年に一家は、名字を Maufe に変えている。一九一〇年の二月にヘンリー・マフは亡くなったが、未亡人のモードは一九一三年までそこに住み続けた。息子のエドワード・マフは、建築家として一九三六年に〈ギルドファッド・カセドラル〉を設計することになる。マフ一家は、訪問者を実際歓迎していた。一九〇七年には[イラストレイターの]ウォルター・クレインが、また一九〇九年か一九一〇年には、建築評論家のローレンス・ウィーヴァーが訪問している66

富本は、一九〇九年の一二月(あるいは翌年の一月)には、新家孝正の助手としてカイロやインドでの回教様式の建築調査のため、翌年(一九一〇年)の四月三日までロンドンを一時期離れ、ロンドンへもどると、すぐにもほぼ一箇月後の五月一日には帰国の途についている。したがって、〈レッド・ハウス〉を訪問することができたとすれば、一九〇九年二月一〇日の日本からのロンドン到着時から、同年暮れ(あるいは翌年正月)のロンドンからインドへ向けての出発時までの可能性が一番高い。しかしその時期、住人のマフは病身で、死の一年前にあった。富本が訪問を強く希望したとしても、そのような理由から断わられた可能性も十分考えることができる。しかし、どちらにしても、この家を訪問するためには、紹介者が必要であった。富本をマフに紹介できる人物として可能性があったのは、当時誰だったのであろうか。一番可能性が高いのは、富本が夜間クラスに通っていた中央美術・工芸学校の教師、とりわけ、そこで刺繍を教えていたウィリアム・モリスの娘、メイ・モリスであったにちがいなかった。しかし、富本にとって不運なことに、彼女は一九〇八年にその学校を辞職し、以来外来講師となるも、その学校とは幾分疎遠になっていたのである。

このように、テクスト以外においても、富本の〈レッド・ハウス〉訪問を根拠づける証拠となるものは、現時点で私にとって利用可能な資料のなかには、残されていない。もし、本当に富本が〈レッド・ハウス〉を訪問しているとするならば、それを裏づける証拠は、今後発掘されることになる新たな資料に見出されなければならないだろう。そのようなわけで、結論的にいえば、現時点においては、富本のこの家への訪問を断定することは極めて困難であるといわざるを得ないのである。

七.結論と考察

本論文をとおして、私は、富本憲吉が一九一二(明治四五)年に『美術新報』に発表した評伝「ウイリアム・モリスの話」にかかわるこれまでの代表的な言説を紹介し、検討を加えたうえで、この評伝には底本が存在し、それが、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことを明らかにした。そしてさらに、その評伝のなかで富本が言及している〈レッド・ハウス〉にかかわって、この三〇年のあいだに富本の〈レッド・ハウス〉訪問が神話化されてきたことに対して、現時点では、富本のその家への訪問を断定することはできないことを、私の利用可能な資料の範囲にあって論証した。

富本の評伝に底本があったことが判明したことが、決してこの評伝の価値を下げることにはつながらない。そうではなくて、むしろ、富本のモリスについての勉強の実態の一端が明らかになったことにより、富本のモリス受容の内実を具体的に探るうえでのさらなる有効な手掛かりが得られたことを意味しているのである。

そのような観点に立って、今後まずなすべきことは、評伝「ウイリアム・モリスの話」をヴァランスの評伝『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』に即して、再度読み直すことである。本論文では、〈レッド・ハウス〉の記述に関して、そのような試みを部分的に行なったが、その作業を全文にわたって適用する必要があるのではないだろうか。次に行なうべきことは、ヴァランスの評伝に書かれている内容で、事情があって富本が公的に扱うことを放棄した部分、とくにモリスの社会主義にかかわる部分の富本の受容のあり方を、帰国後の活動に照らして実証的に再吟味することではないだろうか。もうひとつ加えるとするならば、富本のロンドン時代の再構成である。富本の製作活動の出発が、ロンドン時代の経験にあったことは、周知のとおりである。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのスケッチ、中央美術・工芸学校でのステインド・グラスの実習、地方への写生旅行、友人たちとのあいだでの意見交換、さらには、ロンドン滞在期間中のカイロとインドへの調査旅行――こうした若き日の富本のイギリス体験の全貌が一体となって明らかにされたうえで、その後の富本の製作活動と文筆活動が照合されるならば、さらに富本理解は進展をみることになるのではないかと思われるのである。すべて、今後の研究にゆだねられなければならない。

最後に、本論文の執筆の経緯について簡単に説明しておきたい。一八六〇年から一八六五年までモリス家の住まいとして使用された〈レッド・ハウス〉は、その後、幾人かの個人所有者に引き継がれていった。そして、最後の所有者であったテッド・ホランビーとドリス・ホランビーの夫妻が亡くなると、ナショナル・トラストはこの家を買い上げ、ただちに二〇〇三年から一般公開に踏み切った。一方、ナショナル・トラストは、その家の歴史についての本の執筆をジャン・マーシュに正式に依頼することになった。この家を国際的文脈に照らして記述する意向をもったマーシュは、この家の室内のガラス扉に記載されていた四人の日本人訪問者の特定をまず私に依頼した。さっそく依頼のあった訪問者の特定作業を急ぐとともに、そのときまで私は、富本憲吉が日本人としてはじめての〈レッド・ハウス〉訪問者であると思い込んでいたので、そのことをマーシュに伝えると、富本が最初の訪問者でないことはすぐに判明したものの、一九〇九年前後のこの家の室内の様子を記述した資料がほとんどないので、富本が〈レッド・ハウス〉を記述した箇所を送ってほしいという要望が返ってきた。そこで改めてその部分を読み直してみると、富本がどの場所に立って、どのような場面を見ているのかが必ずしも判然とせず、富本自身の実体験に基づく記述ではないのではないかという、かすかな疑問が生じた。そこで、誤謬を含んでいる可能性について断わり書きを付したうえで、第二章に相当する部分の全訳を送るとともに、この英訳に相当する記述をもった本なり雑誌なりが当時ロンドンで刊行されていなかったかどうかの確認をマーシュに依頼した。彼女はすばやくその仕事を英国図書館で行ない、私の英訳のセンテンスごとに、それに相当する英文の対照表を作成し、それが、エイマ・ヴァランスからのものであることを私に告げた。こうして、富本の「ウイリアム・モリスの話」に底本があったことを確証した私は、本論文の執筆に取りかかることになった。

そのような執筆にあたってのきっかけとその後の彼女からの貴重な情報の提供を考えると、本論文は、マーシュとの共同研究と呼ぶにふさわしいものとなっている。そこで、彼女によって与えられた情報を使用する場合は原則として引用扱いとしている。しかしながら、そのような箇所を含めて、本論文において記述された内容に関して思い違いや誤謬、誤訳等が今後見つかった場合の責めは、すべて私が負わなければならないことは、いうまでもない。

本論文を脱稿するにあたって、私は、今回の仕事の協力者であったジャン・マーシュさんをはじめとして、富本の輪郭を描くうえで欠かせない貴重な知見や資料を授けてくださった富本憲吉記念館副館長の山本茂雄さん、そして、関連する資料や情報の提供をいただいた友人のみなさんに、心からお礼を申し上げます。そうした温かい周りの協力と支援がなかったならば、おそらく脱稿への道のりは想像を超える険しいものになっていたであろうと思います。ありがとうございました。

(二〇〇五年)

fig1

図1 エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』の初版本の表紙。

fig2

図2 富本憲吉の「ウイリアム・モリスの話(上)」が掲載された『美術新報』第11巻第4号の表紙。

fig3

図3 富本憲吉の「ウイリアム・モリスの話(上)」の最初の頁。

fig4

図4 正面から見た〈レッド・ハウス〉。

fig5

図5 庭から見た〈レッド・ハウス〉。

fig6

図6 〈レッド・ハウス〉の間取り図。

fig7

図7 〈レッド・ハウス〉一階左手のガラス扉。手前が玄関ホールで、奥が庭へ通じる廊下。

(1)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14-20頁。

(2)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、22-27頁。

(3)東京ヰリアム・モリス研究會編『モリス書誌』、丸善、1934年、5頁。

(4)壽岳文章『壽岳文章書物論集成』沖積社、1989年、475-476頁。[初出は、「ヰリアム・モリスと柳宗悦」『工藝』50号、1935年。]

(5)中村精「富本憲吉とモリス――工芸運動家としての生涯」『民芸手帖』63号、1963年8月、18頁。

(6)同追悼文、19頁。

(7)中村義一『近代日本美術の側面――明治洋画とイギリス美術』造形社、1976年、103-104頁。

(8)「時言」『美術新報』第11巻第4号、1912年、1頁。

(9)富本憲吉、前掲論文「ウイリアム・モリスの話(下)」、27頁。

(10)小野二郎『ウィリアム・モリス研究』(小野二郎著作集1)晶文社、1986年、327頁。[初出は、「『レッド・ハウス』異聞」『牧神』第12号、1978年。]

(11)同書、328頁。

(12)同書、330頁。

(13)同書、335頁。

(14)同書、418-419頁。[初出は、「大槻憲二のモリス研究」『明治大学人文科学研究所年報』第20号、1978年。]

(15)今泉篤男「新しい思想と陶芸の出会い」、乾由明編『やきものの美 現代日本陶芸全集全14巻 第3巻富本憲吉』集英社、1980年、41-48頁を参照。

(16)乾由明「富本憲吉――その陶芸の思想について」『富本憲吉』(同名展覧会カタログ)朝日新聞社大阪本社企画部、1986年、172頁。

(17)同論文、172-173頁。

(18)すでに富本憲吉の伝記としては、次のものが公刊されている。 辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年。 また、富本の妻一枝の伝記には、以下のものがある。 高井陽・折井美耶子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年。渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』不二出版、2001年。 一方、田能村善吉(富本憲吉)とその妻文(一枝)の愛憎のなかで苦悩する息子壮吉(実名)の葛藤の軌跡を小説的形式で描いた作品に、次のものがある。 辻井喬『終りなき祝祭』新潮社、1996年。

(19)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、125頁。

(20)土田真紀「工芸の個人主義」『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代……光り耀く命の流れ』(同名展覧会カタログ)三重県立美術館、1995年、219頁。

(21)次の引用は、この時期、富本憲吉が「民間芸術」について述べているひとつの例である。
「私の見た處百姓等は立派な美術家であります。特に彼れ等の社會に殆むど國から國に傳へられた樣な形で殘つて居る歌謠、舞踏、織物、染物類から小道具、柵、箱類等を造る木工に至る迄、捨てる事の出來ぬ面白みを持つたものが多い事は誰れも知つて居られることでしよう。私は此れ等のもの全體に『民間藝術』と云ふ名をつけて、常に注意と尊敬を拂つて参りました」。富本憲吉「百姓家の話」『藝美』第1年1号、1914年、7頁。
富本がこの時期にその名を与えた「民間芸術」という用語は、ウィリアム・モリスが中世の芸術を指し示して使用した、popular art つまり the art of the people という用語法に倣ったのではないかと思われる。というのは、本文の以下の項で詳述するように、富本が次の本を読んでいたことは明らかであるからである。 Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, Longwood Press, Boston, 1977, p. 326. (reprint of the 1898 second edition, published by G. Bell, London, and originally published by George Bell and Sons, London, 1897.)

(22)土田真紀、前掲論文、223頁。

(23)『柳宗悦全集』(第14巻)筑摩書房、1982年、6頁。[初出は、「工藝美術家に告ぐ」『大阪毎日新聞』(京都版附録)、1931(昭和6)年1月6日および7日の紙面に掲載。]

(24)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、219頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(25)富本は「図案」を、その原義が Design であることを踏まえて、「計画」ないしは「設計」と同義に理解していた。たとえば、「図案」に対する自分の考えを述べるにあたって、まず、次のようにその字義について説明している。
「図案という語は、英語の Design という語から来たものと思う。……何か図案というと、絵でない模様風の染物等の平面に限られたもののように明治以来慣らされてきた。ここでは陶器を造る最初の計画、設計という意味の図案を書く」。富本憲吉「わが陶器造り(未定稿)」、辻本勇編『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、30頁。

(26)量産陶磁器について、富本憲吉は晩年以下のように述べている。
「若いころからの私の念願であった〝手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう″という考えは、いろいろな事情で思うにまかせないが、いま、私は一つの試みをしている。それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといったような日用雑器を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである」。前掲書『私の履歴書』文化人6、229頁。
ちなみに、京都の平安陶苑によって「富本憲吉先生創案に依る陶瓷頒布會」がはじめられるのは1950年で、この商品に記された銘は「平安窯」であった。また、1957年には、「富泉」を銘として、同じく京都の八坂工芸より量産品の頒布が開始されている。

(27)山田俊幸「モダンデザインの先駆者・富本憲吉」『モダンデザインの先駆者 富本憲吉展』(同名展覧会カタログ)朝日新聞社文化企画局大阪企画部、2000年、14頁。

(28)同論文、14頁。

(29)同論文、11頁。

(30)同論文、15頁。

(31)同論文、15頁。

(32)座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(33)座談会「富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号、1961年9月、44頁。

(34)前掲座談会「富本憲吉の五十年」、12頁。

(35)この本の原著および訳書のデータは、以下のとおりである。
Nikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Design from William Morris to Walter Gropius, The Museum of Modern Art, New York, 1949. (first published by Faber and Faber in London in 1936 under the title Pioneers of the Modern Movement from William Morris to Walter Gropius.)
ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開――モリスからグロピウスまで』白石博三訳、みすず書房、1957年。この訳書は、1949年にニューヨーク近代美術館から刊行された第2版(改訂増補版)が底本となっている。

(36)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、41頁。

(37)同書、43頁。

(38)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。序のなかに次の一文が見られる。口述されたのは、1956年。
「工芸技術編1の本冊子は、生前重要無形文化財保持者に認定された故富本憲吉氏の『色絵磁器』の技術につき、同氏の口述を故内藤匡氏が筆記した記録を中心に、当部無形文化課において編集したものであります」。

(39)J. W. Mackail, ‘PREFACE’, The Life of William Morris, Dover Publications, New York, 1995. (originally published in two volumes by Longmans, Green and Co., London, 1899.) なお、神戸大学附属図書館所蔵のこの書物の初版本は、稀覯本であると同時に幾分傷みがあるので、適宜参照するにとどめ、本論文執筆にあたっては、上記の初版の復刻版を主に利用した。

(40)Stephen Calloway, Aubrey Beardsley, Harry N. Abrams, New York, 1998, p. 37.[「オーブリー・ビアズリー展」日本語版カタログ、人見伸子訳、1998年、37頁を参照]

(41)Aymer Vallance, ‘PREFACE’, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, Longwood Press, Boston, 1977. (reprint of the 1898 second edition, published by G. Bell, London, and originally published by George Bell and Sons, London, 1897.) なお、神戸大学附属図書館所蔵のこの書物の初版本は、稀覯本であると同時に幾分傷みがあるので、適宜参照するにとどめ、本論文執筆にあたっては、上記の第2版の復刻版を主に利用した。

(42)Ibid., ‘PREFACE’.

(43)Jack Lindsay, ‘Foreword’, William Morris: His Life and Work, Taplinger Publishing Company, New York, 1979.

(44)たとえば、富本の渡英前後にあって、『ザ・ステューディオ』におけるエイマ・ヴァランスの執筆記事が多く認められるのは1906年で、そのリストは以下のとおりである。
‘Russian Peasant Industries’, The Studio, No. 157, April, 1906. (vol. 37, pp. 241-248, reprinted by Hon-No-Tomosha, Tokyo, Japan, 1997.) ‘Recent Lead-Work by Mr. G. P. Bankart’, The Studio, No. 161, August, 1906. (vol. 38, pp. 194-199, reprinted by Hon-No-Tomosha, Tokyo, Japan, 1997.) ‘The National Competition of Schools of Art, 1906’, The Studio, No. 162, September, 1906. (vol. 38, pp. 309-319, reprinted by Hon-No-Tomosha, Tokyo, Japan, 1997.) ‘Of Some Recent Plaster Work by Mr. G. P. Bankart’, The Studio, No. 164, November, 1906. (vol. 39, pp. 144-150, reprinted by Hon-No-Tomosha, Tokyo, Japan, 1997.)

(45)富本憲吉、前掲論文「ウイリアム・モリスの話(上)」、16-17頁。

(46)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, Longwood Press, Boston, 1977, p. 49.

(47)Ibid., p. 49.

(48)この引用は、私の質問に対するジャン・マーシュからの回答の一部である。彼女は、『ラファエル前派画集〈女〉』(河村錠一郎訳、リブロポート、1990年)、『ウィリアム・モリスの妻と娘』(中山修一、小野康男、吉村健一訳、晶文社、1993年)、『ラファエル前派の女たち』(蛭川久康訳、平凡社、1997年)などの翻訳書をとおして、その仕事が日本においてもすでに紹介されている英国の女性研究者である。

(49)Aymer Vallance, ‘The Revival of Tapestry-Weaving. An Interview with Mr. William Morris’, The Studio, No. 16, July, 1894. (vol. 3, pp. 99-101, reprinted by Hon-No-Tomosha, Tokyo, Japan, 1995.)

(50)大槻憲二「井リアム・モリスの『赤い家』」『住宅』第9巻第4号、1924年、34-35頁。

(51)東京ヰリアム・モリス研究會編、前掲書、6頁。

(52)エイマ・ヴァランスが、7枚のイラストレイションの提供に対してチャールズ・ホウムへ謝辞を述べているのは、1898年の第2版の序文においてであり、1897年の初版の序文には、それは見当たらない。これについては、ホウムからの抗議を受けて、第2版で謝辞が付け加えられたものと考えられている。
また、「ウイリアム・モリスの話(下)」(25頁)にみられる一対の《拜する天使の一列》の右側の図版は、1897年の初版の図版と同一であるが、1977年に出版された第2版の復刻版では、初版のその図版は左右反転されている。正しいのは初版の図版であり、第2版の復刻版における当該図版の左右反転は、単なる編集上の、ないしは印刷上の誤りであると思われる。しかし、1977年出版のこの復刻版には、1898年の第2版の完全な再版であることが明記されているので、第2版そのものにおいて、すでにこの誤りが生じていた可能性もある。その場合、富本が底本に使用したものは初版本であったことになりそうであるが、しかし、富本の執筆時までには、さらに版が重ねられているようであり、その段階でこの誤りが訂正されていれば、この図版の左右反転だけを理由にして初版本を利用したと断定することはできないことになる。

(53)山田俊幸、前掲論文、16頁。

(54)前掲座談会「富本憲吉の五十年」、10頁。

(55)中村精「富本憲吉と量産の試み」『民芸手帖』178号、1973年3月、36頁。

(56)乾由明、前掲論文、173頁。

(57)‘Yuko Kikuchi assesses the ideas and influence of Tomimoto Kenkichi’, Crafts, No. 148, September/October, Crafts Council, London, 1997, p. 22.

(58)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、41-42頁。

(59)富本憲吉、前掲論文「ウイリアム・モリスの話(上)」、14頁。

(60)同論文、16頁。

(61)同論文、16頁。

(62)宮崎隆旨「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵・金銀彩の世界』(同名展覧会カタログ)奈良県立美術館、1992年、11頁。

(63)Catherine Croft, ‘House proud’, Crafts, No. 185, November/December, Crafts Council, London, 2003, p. 38.

(64)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. 243.[ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一、小野康男、吉村健一訳、晶文社、1993年、327頁を参照]

(65)現在、ジャン・マーシュは、ナショナル・トラストからの依頼を受けて、〈レッド・ハウス〉に関する歴史書を執筆している。ナショナル・トラストのジェイン・エヴァンズとテッサ・ワイルドがガラス扉に記載されている名前のリストを制作し、マーシュは、2004年12月に、そのリストに載っているD. Goh、Osaku Iwumoto [Kosaku Iwamoto]、M. Saito、H. Shugioの4人の日本人訪問者について、ナショナル・トラストから与えられたそれぞれの人物に関する簡単な情報を付したうえで、その特定を私に依頼した。
調査の過程にあるため、いまだ不確定な要素が多々残されているものの、現時点で、ナショナル・トラストおよび複数の研究者から与えられた情報を参考にして総合的に判断すると、その4人の訪問者は、呉大五郎、岩本耕作、斎藤 まこと あるいは斎藤政吉、そして 執行 しゅぎょう 弘道ではなかったかと推定される。
呉大五郎は、日本協会の創設会員で、日本領事。のちにインドでの仕事に従事。日本を紹介した当時の彼の英語論文に次のものがある。
Daigoro Goh, ‘A Japanese View of New Japan’, The Nineteenth Century, No. 168, February 1891, pp. 267-278.
岩本耕作と斎藤実については、テムズ鉄工所(Thames Iron Works)で建造中であった一等戦艦「富士」の回航委員として、岩本は1896年3月25日から、斎藤は同年11月6日から英国出張。両名の日本帰着は、翌年の10月31日。岩本の階級は、英国滞在期間中、海軍大尉から少佐へ。斎藤は、当時は海軍少佐で、のちに内閣総理大臣を経て、1936年の「二・二六事件」で暗殺される。「富士」の艦歴については、下記の書物の第7巻(232-233頁)に、また斎藤と岩本の履歴については、第9巻(28-29頁および685-686頁)に概略的に記述されている。
海軍歴史保存会編集『日本海軍史』(全11巻)第一法規、1995年。
M. Saitoが斎藤政吉であった可能性もいまだ残されている。彼は漆器や銀細工を得意とする工芸家で、その作品は1900年のパリ万国博覧会、1904年のセント・ルイス万国博覧会などにおいて展示されている。執行弘道は、日本協会設立当時は、アメリカ在住の通信会員。「モリス商会」も出展に参加していた1904年のセント・ルイス万国博覧会での日本館の組織者で、「博覧会男」とも呼ばれていた。斎藤と執行の両名については、次の評論で当時『ザ・ステューディオ』において紹介されている。
Maude I. G. Oliver, ‘Japanese Art at the St. Louis Exhibition’, The Studio, No. 145, April, 1905. (vol. 34, pp. 242-252, reprinted by Hon-No-Tomosha, Tokyo, Japan, 1997.)
なお、チャールズ・ホウム、呉大五郎、執行弘道が会員となっていた日本協会の創設当時の様子については以下の書物に詳しい。
Transactions and Proceedings of the Japan Society, London. Volume I. London, 1893. Kegan Paul, Trench, Trübner and Co., Limited.

(66)この引用は、私の質問に対するジャン・マーシュからの回答の一部である。

図版出典

【図1】神戸大学附属図書館所蔵。著者撮影。

【図2】富本憲吉記念館所蔵。同記念館のご好意により著者撮影。

【図3】富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14頁。

【図4】1995年12月に著者撮影。

【図5】1995年12月に著者撮影。

【図6】Hermann Muthesius, The English House, translated by Janet Seligman, Blackwell Scientific Publications, Oxford, 1987, p. 18 (First published as Das englische Haus by Wasmuth, Berlin in 1904, 1905, 3 volumes) より著者複製。

【図7】グリーティング・カード(Busy Bee Cards by Peter & Nicole Bailey)より著者複製。