中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第二部 わが肥後偉人点描

第八話 ウィリアム・モリスと第五高等学校の英語教師たち
    ――ハーン、漱石、白村のモリスへの関心(4)

八.「ウイリアム・モリスの話」に感銘を受けた厨川白村

富本憲吉が『美術新報』寄稿した「ウイリアム・モリスの話」に強い感銘を受けた人物がいました。その人物とは、東京帝国大学でラフカディオ・ハーン、夏目漱石、上田敏のもとで学び、漱石の転任の一年半後に第五高等学校に赴任した経歴をもつ厨川白村でした。山崎貞士の『熊本文学散歩』(一九七六年刊)には、厨川について、こう書かれています。

 厨川白村が五高教授として来熊したのは、漱石が去って四年目の明治三十七年(一九〇四年)九月であった。彼はいわゆる銀時計組の一人で、東大英文科をトップで卒業したばかりのまだ二十五才の俊才であった。……熊本には東京の学生時代から交誼のあった古田正雄氏(故人肥後古流茶道宗匠)がいた。古田氏は熊本駅前に学生服で現われた白村を迎え安巳橋筋にある一下宿に案内した。まもなく三軒町(濟々黌付近)にうつり、さらに西子飼町一番地に転居した。……白村も漱石と同じく非情な勉強家で、階上十畳の書斎にこもり、ひたすら本を読み、或はものを書いた

おそらく白村も、ハーンと漱石の伝統を引き継ぎ、講義のなかにイギリス一九世紀の英詩を取り上げていたものと思われます。同じく山崎貞士は、『熊本文学散歩』のなかで、このように述べています。

 白村は課外講義として、ブラウニングやキーツ、ロセッチーの恋愛詩を好んで教えた。そのさいの白村先生の粋にくだけた態度は、ふだんの教室の厳格さと打って変わって、朴訥な五高生を面食わしたという

白村が課外講義で論じた詩人には、「ブラウニングやキーツ、ロセッチー」だけではなく、おそらくスウィンバーンやモリスも含まれていたにちがいありません。

その後白村は、一九〇七(明治四〇)年から第三高等学校へ転任し、富本の「ウイリアム・モリスの話」を目にしたのは、そのときのことでした。白村の反応は早く、「ウイリアム・モリスの話」が発表されて三箇月後、一九一二(明治四五)年六月号の『東亜の光』に「詩人としてのヰリアム・モリス」を寄稿し、そのなかで、こう述べたのでした。

この頃美術新報の紙上に、『ヰリアム・モリスの話』といふ甚だ興味ある有益な一篇の紹介を讀むだ。英國近世の藝苑にかくれなき一大巨匠として、またひろく應用美術の方にまで手を擴げて、欧洲一般の藝術趣味に至大の影響を與へたといふ點に於いては、同じ英吉利のラスキンやロゼッチィやホヰスラアをすらも凌駕するこのヰリアム・モリスの名は、その死むだ頃即ち今から十五年ほど前から既に我國にも傳へられてゐた。しかし此モリスの事を日本でモノグラフィックに書いたものと云へば私の知ってゐる限りでは美術新報所載の此一篇が最初である

これを枕詞として、白村は、モリスの詩歌作品である『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』『イアソンの生と死』『地上の楽園』『ヴォルスング族のシグルズ』について、讃美の言葉を織り交ぜながら熱く語るのでした。おそらくここで語られている内容が、彼の五高時代の課外講義にも、現われていたものと思われます。

日本の英文学研究におけるモリスへの関心の人的鎖、わけても五高に連なる人脈は、ハーン、漱石、厨川から、さらに長く伸びてゆきます。厨川が五高で教鞭を執っていたときに生まれた長男が、のちに慶應義塾大学で英文学を教授する厨川文夫で、その教え子に江藤淳がいました。『倫敦塔 幻影の楯 他五篇』(岩波文庫、一九九五年版)の巻末の「解説」のなかで、江藤は、『吾輩は猫である』に続く漱石の二番目の著書となる一九〇六(明治三九)年刊行の『漾虚集』の装丁について、次のように指摘します。

 扉と目次、カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは橋口五葉、挿絵を描いたのは中村不折で、漱石はその出来栄えに大層満足であった。いうまでもなく、『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたのは漱石自身の意図で、彼はこの本をその頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに試みられていたような、文学と視覚芸術との交流の場にしたいと思っていたのである

『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は、実際には、モリスが亡くなってすでに一〇年が立った時期であり、したがって、「その頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試みられていた」とする江藤の指摘は、明らかに誤認です。しかし、漱石の関心が、この時期「文学と視覚芸術との交流」、つまりは、モリスが唱えていた「理想の書物」に向けられていたことは確かです。たとえば漱石は、英国に上陸する二年前に世に出た一八九八年版のモリス本人のデザインによる布装丁の『地上の楽園』【図一】を手にして、このような書籍装丁をもって、その好例とみなしていたかもしれません。以下は、一九一二(大正元年)年一〇月四日の木下杢太郎に宛てた手紙の一部です。

拝啓先日は高著和泉屋染物店恵送にあづかり有難存候あの装釘は近頃小生の見たる出版物中にて最も趣きあるものとして深く感服仕候拙著彼岸過迄御覧の如く意匠万端粗悪に出来上り甚だ御恥かしくは候へども……

漱石が「意匠万端粗悪に出来上り甚だ御恥かしく」思っていた『彼岸過迄』の装丁を担当したのは、橋口五葉でした。一方、漱石が、「近頃小生の見たる出版物中にて最も趣きあるもの」と絶賛した、この木下杢太郎の『和泉屋染物店』の表紙デザイン【図二】を担当したのが富本憲吉でした。その図版は、翌年の『美術新報』(第一二巻第五号)の中絵としても発表されます。これが、富本が試みた最初の書物装丁でした。そして、この木版によるデザインは、モリスの最初期の壁紙である《デイジー》を、あるいは、『善女伝』シリーズのプュリスを主題にしたステインド・グラス・パネルである《ペネロペ》【図三】を彷彿させるに十分なものでした。富本が英国留学中に日参したときのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館には、前者の作品はまだ所蔵されていませんでしたが、後者の作品は一八六四年に購入され、展示されていました。この《ペネロペ》は、富本のお気に入りの作品のひとつでした。エドワード・バーン=ジョウンズがデザインし、モリス・マーシャル・フォークナー商会によって製作されたものです。漱石も見ていたにちがいありません。

九.富本憲吉の夏目漱石との出会い

慶応三(一八六七)年生まれの漱石と富本との年齢差は、一九歳ありました。正確に年月を特定することはできませんが、『和泉屋染物店』が世に出て少しのちのことかと思われます、富本は実際に漱石に会っています。ともに英国留学を経験した、文豪と称される小説家と新進気鋭の美術家との出会いでした。自分が京都市立美術大学の学生だったころ、師の富本本人から直接聞かされた漱石との出会いの場面について、柳原睦夫が、次のように回想しています。

富本先生は夏目漱石の知遇を得ています。イギリス留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません。漱石の思い出話は、リアリティーがあり秀逸のものです。先生は煎茶好きで、仕事の手を休めては、「おい茶にしよう」と声がかかります。この日のお茶うけは、当時貴重な羊羹でした。漱石の話はここから始まるわけです。「夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や。僕に一切れ羊羹をくれて、残りは全部自分で食べよった。あんなことをしたら胃病になるわなあ」。まるで昨日の出来ごとのようです

以上は、『週刊 人間国宝』(二〇〇六年刊)に所収されている柳原睦夫の「わが作品を墓と思われたし」から引用しました。しかし、柳原は、誰が富本を漱石に引き合わせたのかは述べていません。

誰が富本を漱石に紹介したのかは、証拠となるものがなく、正確にはわかりませんが、木下杢太郎のほかにも、漱石と富本を結び付ける可能性をもつ人物として、西川一草亭、その弟の津田青楓、そして、水落露石がいます。三人とも漱石と面識があり、一方で富本は、一九一二(明治四五)年四月に京都市岡崎町の図書館上階において開催された「津田青楓氏作品展覧會」において賛助出品するとともに、続く六月の、京都の西川一草亭が営む生花洋草店二階のグリーンハウスでの「小藝術品展覧會」にも、作品を並べています。また、大阪に住む水落露石は、一九一五(大正四)年の大和の安堵村での富本の初窯のときに招待され、そのとき、「土を玉に安堵の友が窯はじめ」の句をつくっています。この時期の漱石との手紙のやり取りの頻繁さや、漱石に絵の指導をしていたことなどから判断すると、富本を漱石に引き合わせたのは、津田青楓だったのではないかと思われます。おそらくそのとき、漱石と富本は、ふたりの共通の関心事であったと思われる、モリスのこと、本の装丁のこと、『ザ・ステューディオ』のこと、そして、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のことなどを話題にしたにちがいありません。そしてこのとき、小宮豊隆も同席し、その話題に加わったものと思われます。そのあと津田は筆を執り、「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」と題した一文を、一九一四(大正三)年九月の『藝美』(第四号)に寄稿するのです。そこには、小説家としての漱石と図案家(今日にいうデザイナー)としての富本について、次のような指摘がなされていました。

 自分は今日我々の日常生活に觸目する、一切の工藝品や、或はいろいろの工藝品に付いてゐる模樣に不快を感じない事がない。何を見ても氣に喰はないものが多い。殆んど氣に喰はないもの許りと云つていゝ位のものである……自分は斯云ふ點からも職人主義を絶對に隠滅させ度い。何日か小宮君も斯云ふ意見を話された事があるが。職人主義を排した結果を一口に云へば、圖案界を今日の文藝界の樣にしたいと思う……漱石氏の小説は漱石氏の自己を語るもので、漱石氏の愛讀者があり……富本憲吉の圖案の好きなものは、富本憲吉の圖案に依つて出來たもので日常生活の一切のもの――茶碗、皿、或は椅子机、それから女や子供の着物の模樣に至るまで一切を富本模樣によつてそろへる事が出來……る樣に成ればいゝと思う……「職人主義の圖案家を排す」と云ふ事を逆に考へて見ると「藝術的圖案家の排出を望む」と云う事に成りそうである

「藝術的圖案家の排出を望む」ことを高らかに宣言した、この『藝美』掲載の津田の一文が、まさしく祝砲となってとどろきわたるなか、同年の同月、東京竹川町にある田中屋美術店において「富本憲吉氏圖案事務所」が開設されます。『卓上』(第三号)に掲載された広告【図四】には、この事務所の営業品目として、「印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案」が挙げられていました。ここに、一九世紀英国に設立されたモリス商会、さらにそれを源泉として興ったアーツ・アンド・クラフツ、その一連の流れに範をとった、日本における「藝術的圖案家」によるデザイン事務所が誕生するのです。

近代日本のデザインの扉を開けたのが富本憲吉であるとするならば、近代文学の扉は、夏目漱石によって開かれたといっても過言ではありません。そして、概略見てきましたように、扉を開けるに際して両者の背中を押す大きな力となっていたであろうと推察されるものが、詩人であり、デザイナーであり、社会主義者のウィリアム・モリスの思想と実践だったのです。漱石の前にラフカディオ・ハーンがいました。後ろに厨川白村がいました。とりわけ詩人たるモリスの、一九世紀英国から二〇世紀日本へと通じる最初の水路は、こうした第五高等学校の英語教師たちによって主として築かれていったのでした。

おわりに

この小論におきまして私は、明治から大正へ移る時期の日本におけるモリス受容の観点から、富本憲吉を主軸に置きながら、当時第五高等学校で英語の教師をしていたラフカディオ・ハーン、夏目漱石、厨川白村について述べてきました。この三人の教師が、五高でどのようなモリス講義をしたのかにつきましては、資料の不足や不在もあり、残念ながら、十分に具体的に論述することはできませんでした。しかし、ハーンが東京帝国大学でモリスに関する講義をしたことや、留学中の漱石が、モリスと密接な関係にあったヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ何度も足を運んでいたことや、白村が「詩人としてのヰリアム・モリス」を執筆したことにみられるような、五高での職を離れたのちの三者三様の行動に着目しますと、ともにこれらの英語教師たちが、その少し前まで教鞭を執っていた五高時代にモリスへの関心を高めていたことがはっきりと浮かび上がってきます。そこで、もちろん確たる証拠があるわけではありませんが、授業後の五高生が、三々五々浄行寺へと向かう大路をわがものに、高下駄を鳴らしながら、次のようなモリスの『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』のなかの片々を大声で歌い上げる姿を想像するのも、一興かもしれません。

Her great eyes, standing far apart,
Draw up some memory from her heart,
And gaze out very mournfully;
Beata mea Dominal!

遠く離れて位置する、彼女のふたつの大きな瞳は、
心の記憶を探り出し、
いと悲しげに見つめる。
美しきわが貴婦人よ![執筆者訳]

今日、カーテン地や壁紙から便箋やクッションなどのさまざまな小物に至るまで、日本にあってモリスのデザインは大きな人気を呼んでいます。また、毎年のようにモリスやラファエル前派の展覧会が、この日本にあって開催されています。その魅力とは、何なのでしょうか。それへの熱狂は、いつから生まれたのでしょうか。その源流をたどるならば、夏目漱石や富本憲吉の英国での果敢な研究にみられますように、明治時代にまでさかのぼることになるのです。なかでもモリスの詩や物語は、五高の英語教師を務めたハーン、漱石、厨川に強い影響を及ぼしました。ハーンが五高に赴任したのが、一八九一(明治二四)年で、厨川が五高を離任するのが、一九〇七(明治四〇)年です。途中若干の空白期間がありますが、それでも、まさしくこの一六年間、熊本の地が、明治期の日本におけるひとつの大きなモリス研究の中心になっていたのです。この拙論から、改めてこの地とモリスとの深いかかわりを感じ取っていただければありがたく思います。

なお、「三.夏目漱石の英国留学とモリス――美術館訪問」において、当時ナショナル・ギャラリーが管理していたミルバンクの新しいギャラリー(現在のテイト・ブリテン)、セント・マーティンズ・プレイスのナショナル・ポートレイト・ギャラリー、そして、サウス・ケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の三館について、少し長めに記述しました。蛇足に過ぎたかもしれませんが、ロンドン訪問の際のご参考になればと思います。もっとも今日にあっては、わざわざ英国に行くまでもなく、各館のホームぺージにおいて、ここで取り上げました作品はすべて画像として閲覧することができます。一二〇年前に漱石が見たであろうと思われる作品が、実は現在の私たちの身近なところに存在するのです。

四回にわたって分載しました「ウィリアム・モリスと第五高等学校の英語教師たち――ハーン、漱石、白村のモリスへの関心」は、これをもって終了とさせていただきます。稚拙な文にもかかわりませず、ご高覧いただき、ありがとうございました。感謝します。

(二〇二一年七月)


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図1 1898年版の布装丁の『地上の楽園』。ウィリアム・モリスによるデザイン。出版はロングマンズ社。

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図2 富本憲吉の装丁による木下杢太郎の『和泉屋染物店』。1912年。

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図3 サウス・ケンジントン博物館のステインド・グラスのパネル《ペネロペ》。1864年。

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図4 『卓上』第3号の巻末に掲載された「富本憲吉氏圖案事務所」の広告。1914年。

(1)山崎貞士『熊本文学散歩』大和学芸図書、1976年、159-160頁。

(2)同『熊本文学散歩』、162頁。

(3)厨川白村「詩人としてのヰリアム・モリス」『東亜の光』、1912年6月号、69頁。

(4)江藤淳「解説」、夏目漱石『倫敦塔 幻影の楯 他五篇』(岩波文庫)岩波書店、 1995年、237-238頁。

(5)『漱石全集』第二十四巻/書簡(下)、岩波書店、1997年、[書簡1734]94頁。

(6)柳原睦夫「わが作品を墓と思われたし」『週刊 人間国宝』朝日新聞社、2006年、18頁。

(7)津田靑楓「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」『藝美』第4号、1914年9月、1-7頁。

図版出典

【図1】Lewis F. Day, ‘William Morris and his Art’, Great Masters of Decorative Art, The Art Journal Office, London, 1900.

【図2】『美術新報』第12巻第5号、1913年、中絵。

【図3】Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.

【図4】『卓上』第3号、1914年8月25日。