中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第二部 わが肥後偉人点描

第四話 石牟礼道子の死去から一年
    ――ハナシノブ考あるいは「沖宮」考

一.はじめに――ハナシノブと石牟礼道子さん

去年の話になりますが、二〇一八(平成三〇)年の六月一七日に「第一回 みなみ阿蘇 野の花コンサート~はなしのぶ~」が、阿蘇郡高森町にあります休暇村南阿蘇の阿蘇野草園で行なわれました【図一】。この前身となるコンサートは、一九八一(昭和五六)年から二〇一四(平成二六)年までの三四回にわたり開催された「はなしのぶコンサート」で、今回は、その復活第一回のコンサートでした。出場したのは、地元の高森中学校と高森高等学校の合同の吹奏楽部や熊本市内にあります尚絅中学校・高等学校のギターマンドリン部をはじめとする、合唱や演奏のグループでした。野外でのコンサートです。天候にも恵まれ、緑の風が吹く自然環境のなかで美しい音や声の響きを楽しむことができました。また会場には、鉢植えのハナシノブ(花忍)が所々に設置され、目も、楽しませてくれました【図二】。

それでは、ハナシノブとは、どのような花なのでしょうか。当日の専門家のお話をまとめますと、だいたい次のようになります。ハナシノブは、まだ九州が大陸と陸続きであったころ渡来した種で、暑さに弱く寒さに強く、草丈五〇センチ前後の先端に淡い青紫の花を毎年この時期に咲かせます。この草花はこの阿蘇を中心に自生しているそうですが、なぜこの地に生育するようになったのでしょうか。ハナシノブは森林のなかの日陰は好まず、草原の日当たりのよいところを好みます。阿蘇はその昔、何度も火山噴火により溶岩が流れ出し、森林を高原へと変えてゆきました。そしてその高原は、野焼きなどにより、人の手によって今日まで守られてきました。これが、阿蘇の地がハナシノブを育ててきた大きな理由なのだそうです。しかし、いまや希少植物のひとつに数えられるまでに激減しています。植物にとっての生育環境が、近年大きく変化しているとのことでした。私たちはここにも、環境保全の重要性をみてとることができますし、「みなみ阿蘇 野の花コンサート~はなしのぶ~」は、演奏楽曲のすばらしさだけではなく、そのこともまた、聴く人に静かに伝えているのかもしれません。

沖宮 おきのみや 」(一四八―一五九頁)が所収されています『石牟礼道子全集 不知火 第一六巻』(藤原書店、二〇一三年)を開いていました。すると偶然にも、「いのちの切なさ 美しさ」と題したエッセイが目に留まりました。これは、石牟礼さんが、一九八四(昭和五九)年七月二八日に北海道で講演したときの記録です。そのなかにハナシノブの話が出てきました。

 今晩は死んでしまおうかしら、と思ったりする時に、私はちょっと山へ出かけるんです。ここへ来るまでに見たような、景色の所へ車をたのんで連れていってもらうんです。

 九州の屋根のようなところがありまして、その屋根の所に行きますとね、いろんな雑草がはえているのです。

 そこで、葉っぱが美しいので机の上にでも置こうかしらと思って、なんでもない、そこらへんのその葉っぱを持って帰りました。

 最近、あーんなに嬉しかったことがないんですが、見たことのない草だったものですから、山の上から持って帰って来て鉢に植えておきました。(四三三―四三四頁)

すると驚いたことに、一週間が過ぎたころ、つぼみが現われ、小さな青紫色の花が咲き出したではありませんか。植物図鑑で調べてみると、その植物はどうやらハナシノブというらしい。続けて石牟礼さんは、そのときの気持ちをこう語っています。「蕾がだんだんになっていて、どんどん花が咲いていくんですよ。はじめて見たものですから、もう嬉しくて嬉しくて。私が非常に落ち込んでいた時でしたから、今度は『はなしのぶ』という山の花に助けられました」(四三四頁)。

このとき石牟礼さんが遭遇したハナシノブは、阿蘇のどのあたりの草原だったのでしょうか。ひょっとしたら、高森の野草園だったのかもしれません。火山活動という自然の力と、野焼きという人間の力がうまくあわさって阿蘇のハナシノブは生き続けました。しかしもはや、希少種の草花となっています。もしこのことを人から聞かされていたら、不知火の海を見つめ、水俣病と闘った石牟礼さんは、どのような感想をもつことになったでしょうか。ハナシノブのなかにもまた、「いのちの切なさ 美しさ」を見出していたにちがいありません。

二.「沖宮」の世界

『石牟礼道子全集 不知火 第一六巻』を、再び手にしてみます。大地に山があり、雨が降って川になり、その一条が大海へと流れ込む。こうした日常の風土の至る所にかつては人影があり、言葉があり、魂といのちがあり、精霊たちが息づいていました。しかし「近代」という善と悪とのふたつの仮面を同時にかぶった魔物が登場し、それを変質させ、破壊してしまいました。本も新聞も読まなかった石牟礼さんの叔母さまが、かつて、こういいました。「道子、この世はいまただごとじゃなか、長うはなかぞ」(六五七頁)。石牟礼さんご自身の文章のなかにも、「近代」への憎悪の感覚が随所に染み出ています。社会や芸術、家族や婚姻等々の封建的で強圧的な諸制度から「近代」のそれへと向かう変革の思想と実践のすべてを、一方的に矮小化して断罪することはできませんが、産業至上主義や人間中心主義、そして何よりも企業の社会的責任の欠如は厳しく問われなければならない「近代」が含み持つ重大な負の側面でした。失われようとする人びとの生活の、理のある美しき原像を懸命に救い出そうとして、石牟礼さんは筆を握り続けました。残された文から、怒りにも祈りにも似た悲痛な叫びが、時代に抗う純粋で自由な精神の発露の一端として、いまも聞こえてきます。

この全集(第一六巻)の巻末に、詩の表現形式を借りた「無へ――あとがきにかえて」が掲載されています。そのなかに、次のような語句がありました。「人類は滅亡するのだろうか 滅亡するのだったら/末期のうるわしさをつくりたいものだ」(七四八―七四九頁)。ここから推量すれば、石牟礼さんは、「末期のうるわしさ」、すなわち、人類の終末的世界の「うるわしさ」を象徴する作品として、「沖宮」を描きたかったのではないでしょうか。しかしその一方で、この「沖宮」は、石牟礼さんご自身の最期を彩る「うるわしさ」の一大絵巻の世界であったとも考えられます。

昨秋の一〇月六日、新作能「沖宮」が水前寺成趣園能楽殿【図三】で上演されました。しかしながら、この初演が、残念なことに、石牟礼さんを追悼する舞台となってしまいました。燃え盛る薪の明かりに照らし出された野外から、観客の目は舞台へと注がれます。第一部は朗読で、常味裕司さんのウード演奏を背景に、アナウンサーの山根基世さんが「沖宮」を朗読しました。そして、金剛龍謹さんが天草四郎の霊を演じるシテとして、また、豊嶋芳野さんがあやを演じる子方として登場する第二部の新作能「沖宮」へと続いてゆきます。ふたりが着用した能装束は、染織家の志村ふくみさんの監修によるものでした。物語が進んでゆきます。するとどうでしょう、くしくも途中で、小さな雨粒が一瞬降ってくるではありませんか。偶然ではありますが、まさしくこの物語のハイライトを強調するにふさわしい、天の配剤によるところの、見事なまでの演出でした。

原作に従うと、あらすじはだいたい次のようになります。場面は、過ぎし昔の彼岸花の咲くころの島原・原の廃城跡。先の島原・天草の乱で散った天草四郎が登場し、次に四郎の乳母のおもかさまとその夫の佐吉が現われ、さらに、その夫婦の娘のあやが続きます。あや以外はすべて霊界の人で、あやは亡き四郎を慕う、わずか五歳に過ぎない童女です。あやは四郎のことを「 あん しゃま」と呼ぶ。久しぶりの再会をみなで喜び、昔の思い出に浸る。こうして登場人物たちによる導入の会話が終わると、場面が切り替わり、いよいよ物語が進行します。天草下島の村人たちは、死に絶えんばかりに干ばつに苦しんでいました。そこで、雨を司る竜神への 人身御供 ひとみごくう として選ばれたのが、乱で両親を失くし、もともと竜神の姫でもあった孤独の身の幼子・あやでした。村の女房たちが涙ながらに縫った緋の衣裳に身を包み、彼岸花で飾られた小舟に乗せられたあやは、独り、夕陽が沈む茜色の沖へと波の合い間を進んでゆきます。浜辺では、「神代の姫となって、沖宮の かところ」へ赴く「あやしゃま」を愛おしみ、雨乞いの村の衆が手をあわせる。やがて天空から恵みの雨粒が降り注ぐも、雷鳴がとどろき、稲妻が炸裂するや、ついにそこで舟影とともに緋の色が視界から消えてしまいます。するとそのとき、あやがひたすら心を寄せる、霊界の天草四郎が、みはなだ(水縹)色の衣をまとって、その姿を現わすのです。四郎の乳母の娘があやであることからして、ふたりは 乳兄妹 ちきょうだい の関係にあります。こうして、雨水をこいねがう村の民を救うための 人柱 ひとばしら となってゆく悲運のあやと、受苦の身にあるあやを決然と迎え入れ、手をとって導いてゆく守護精霊者としての四郎との、切なくも美しいふたつの魂の道行がはじまるのです。向かう先は、竜神と、いのちたちの 大妣君 おおははぎみ とが住むという 海底 うなぞこ の〈沖宮〉。ふたりの道行の舞いを慰めるように、あるいは祝うかのように、何か読経や讃美歌にも似た音響が高らかに鳴り渡るなか、この物語は終わりを迎えます。

島原・天草の乱で落命した、総大将をはじめとする数万の蜂起した下層民たち、そして親を失い孤児となった子どもたち、さらには、乱ののちも、いまなお干ばつや飢饉にあえぎ苦しむ村人たちと、彼らが差し出す人身御供――多くのいのちの苦しみと悲しみがこの物語の背後に漂っています。石牟礼さんは、こうした人たちの心の救済を願って、この能を書いたものと思われます。そう考えますと、作家であり詩人である石牟礼さんは、時代に抗いきれずに倒れてゆく人びとに強い共感を覚え、その魂を鎮めることに全霊を傾ける、ある意味で宗教者に近い精神の持ち主だったのかもしれませんし、石牟礼さんが抱えたテーマは、生命の消滅と再生の永久の連鎖という一種哲学的な課題だったのかもしれません。そうしたことがおそらく背景にあって、小説や詩といった言葉の世界だけではどうしても十分に表現することができない状況を乗り越えるために、石牟礼さんは、別のさらに実践的で説得的な鎮魂と祈祷の表現形式に着目し、能という伝統的な舞台芸能の世界に向かっていったものと思われます。

導入部分の登場人物たちによる会話の箇所を別にすれば、この「沖宮」には、言語ではなく、多様ながらも統一された、五感を強く揺り動かす音と色があります。明らかに、このふたつの刺激的要素がこの作品の特徴をなす部分です。耳を澄ますと、波の音、雷鳴や雨音が確かに聞こえてきます。目を開くと、小舟を飾る彼岸花の赤、夕陽の茜、そしてあやが身にまとう衣の緋、まさしく「紅」(あるいは赤絵)の色調が見えてきます。他方、天と海の青、四郎の装束であるみはなだ色と紫紺、こちらは「藍」(あるいは青磁)の諧調です。このようにジェンダー上の性別表現も実に明快ですし、このふたつの対比的な色使いのうえに、稲妻の閃光が、金銀彩のごとくに強いアクセントとして加わるのです。あるのは地謡とコロスのみで、物語を先導します。あやと四郎のふたりについては発話も会話も全くありません。無言の、つまりは魂と魂のかかわりです。言葉をはるかに超えた、音と色の空間がふたりを支えます。人間が言葉を獲得する以前の原初的世界が、おそらくはこうだったのでしょう。痛みと怒りのなかにあった人びとのいのちの「美しさ」を、こうした聴覚と視覚だけの非言語の象徴世界に一度連れ戻して、そのなかで、その「切なさ」を石牟礼さんは救済したかったにちがいありません。そうした意味において、この「沖宮」は、先に紹介した北海道での講演の題目に使用されています「いのちの切なさ 美しさ」の内実を実にうまく主題化した、そして、「無へ――あとがきにかえて」のなかの「末期のうるわしさ」を表象するにふさわしい舞台作品として受け止めることができるのではないでしょうか。

三.「沖宮」の誕生

四郎とあやのふたつのいのちにまとわされることになる能衣裳のデザインは、晩年、書簡を通じて交流を深めていた朋友の染織家・志村ふくみさんの手によるものでした。ふたりの対談と書簡を集めたものが、『遺言――対談と往復書簡』(筑摩書房、二〇一四年)です。本誌前号(第二五号)に寄稿した拙論「石牟礼道子の能衣裳を監修した志村ふくみの原風景」のなかですでに少し引用していますので、部分的に繰り返しになりますが、再びここから「沖宮」の成立事情に関連する箇所を幾つか拾ってみます。手紙での交流がはじまったこの年にあって、石牟礼さんは八四歳、志村さんは八七歳でした。まず、二〇一一(平成二三)年九月八日に石牟礼さんが志村さんに宛てて出した手紙の一部です。

わたくしは今、最後の作品と思う新作能「天草四郎」を構想中でございまして、シテの四郎の装束をこの「みはなだ色」で表現したいと思うに至りました。……

 不躾に急な話を持ち出しまして恐縮でございますが、あいなるべくはお引き受け願いたいと思います。能の台本は三分の二くらいまできております。(一四頁)

この手紙を書いた日、志村さんの発案による往復書簡に関する申し出が、筑摩書房の編集者から舞い込みました。次は、その三日後の九月一一日にしたためられた石牟礼さんから志村さんへ宛てた書簡の一部です。「往復書簡のお申し入れ、望んでもめったに得られないご縁でございます。ただちにお引き受けすべきでございますけれども、このところ私、長年のパーキンソン病が進行しまして歩くのもままならず、箸とペンがうまく握れないのが一番苦痛でございます。この度の新作能を最後の作品と思うのは、そのせいでございます。何としてもこれを仕上げてから往復書簡にとりかかれればと思いますが、それでよろしゅうございますでしょうか」(一六頁)。続く九月一五日、今度は志村さんが石牟礼さんへ、このような返信を書きました。

思いがけない新作能の能装束のおはなし、胸がとどろく思いで拝見いたしました。石牟礼さんが渾身の力をこめて「天草四郎」という新作能をおかきになっていらっしゃいますことは何という素晴らしいことでしょう。……能装束を織りたいのは私の終生の念願です。まして天草四郎という霊性の高い美しい男性の衣裳とは、私に果たして織れますかどうか不安な思いもいたしますが、何かあたえられた仕事のように思われ、心からよろこんで織らせていただきます。(一七―一八頁)

この間石牟礼さんは、四郎とあやの性格づけがどうしても明確に定まらず、苦悶と模索のなかにあり、執筆の手が進まなかったようです。次は、石牟礼さんが志村さんに送信した、一一月一三日の書簡の一部です。「ここしばらくペンが止まっておりまして、と申しますのは、四郎と農民との関係、双方が立ち上がっていく過程で集団相互憑依がおきたと思うのですが、そこがまだうまく書けておりません。それに(あや)の緋色の装束につきましては、始めからお願いするつもりでしたが、(あや)のイメージが今一つのびのびと描けておりません」(二二頁)。そして年が変わると、二〇一二(平成二四)年一月二〇日に、石牟礼さんは志村さんに次のような手紙を出します。

 天草四郎の能装束を早々とお願いいたしましたけれども、その後体調を悪化させ、一度書いた台本を破棄して初めから書き直しております。……

 その中で頭に閃いて止まらないのは、この世ならぬ恋の相手、四、五歳くらいの「あや」の装束の緋の色(紅の色)でございます。(二六頁)

そうこうするなか、次第に「沖宮」は形をなしていったようです。一箇月を少し過ぎた二月二四日の書簡の末尾に、「まだまだ不出来でございますが、『沖宮』をお送りいたします。御笑覧くださいませ」(三一頁)の文字を読み取ることができます。

ところで、この往復書簡がはじまるおよそ一二年前の一九九九(平成一一)年に、志村さんは、『母なる色』という書物を求龍堂から上梓しています。そのなかに、「処女マリヤの衣――受胎告示」と題された一節があり、とりわけ、次の一文が目を引きます。志村さんは「処女マリヤ」の衣装の色について、こう述べているのです。

ここ数年、ヨーロッパの美術館を訪れるたびにマリヤの衣裳が印象にのこった。フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、ロレンツェッティ、ダヴィンチ、ラファエロ、必ずといっていいほど処女マリヤの衣は青と真紅だった。怖れを抱きながら厳粛に告知を受けとめるマリヤの衣に青と真紅しか考えられないのだ。(五一頁)

ここに引用した「処女マリヤの衣――受胎告示」からの一文は、『母なる色』という書籍の題名とあわせて、「沖宮」の全体的な構想にとって何がしかの暗示的なものを含んでいるようにも感じられます。「沖宮」の原作を読むと、この新作能には、場面や情景を語り、そして登場人物の内面を伝えることを主な役割とする地謡とは別に、古代ギリシャ劇における合唱隊で、劇の背景や要約をわかりやすく観客に解説することをその一般的な役目とするコロス(コーラス)が設定されています。歌い手であり解説者である、地謡とコロスという洋の東西の両者が、ひとつの能の進行において同席する必要性の理由、あるいはその役割分担など、私にはまだ十分に理解ができていないところが多々ありますが、志村さんが指摘している「処女マリヤの青と真紅の衣裳」と、石牟礼さんが登場させた「古代ギリシャ劇の合唱隊であるコロス」とのあいだには、西洋的文脈における何か意味のあるつながりがあるのでしょうか。さらには、「処女マリヤの青と真紅の衣裳」と、「四郎の衣裳のみはなだ色とあやの衣裳の緋の色」とのあいだには、色彩的に明白な対の関係が存在しているのでしょうか。もし、みはなだ色の装束が、「天の真実」を象徴する聖母マリアの青のマントに、他方、緋の色の装束が、「神の慈愛」を象徴する聖母マリアの赤の衣服に、それぞれが対応しているのであれば、石牟礼さんは、四郎とあやとの、この分かちがたき合一された一体の存在をもって、聖母マリアに見立てていたということになるのですが――。

そのように考えを進めてゆきますと、石牟礼さんは、この遺作「沖宮」をとおして、単に、乱の犠牲となった四郎のいのちのよみがえりを願うだけではなく、図像学上聖母マリアを象徴する青と赤の衣装を四郎とあやにまとわせることによって、敬虔にも四郎が信じたキリスト教そのものの復活を夢見て、密かなる祈りを捧げようとしたのではないかとの思いに駆られます。すでに述べていますように、石牟礼さんの心の内には、「近代」に介在する、弱者を切り捨てようとする合理主義や官僚主義への不信感のみならず、海や田園を荒廃させ、人間を含む生き物すべてを葬り去ろうとする都市化や文明化への嫌悪感が渦巻いています。そこで石牟礼さんは、かつて理不尽にも弾圧と迫害を受けた農民一揆とキリスト教をいま一度歴史の闇から救い出し、権力に抗う民の力と、その民を救済しようとする神の力の、その正当性を、この作品に託して蘇生させようとしたのではないでしょうか。

あるいは、こうも考えることができるかもしれません。聖母マリアと同色の衣を着た四郎と「あや」の道行は、海底の〈沖宮〉へと導かれます。そしてここで、キリストの誕生ならぬ、もうひとりの「あや」の、つまりは原作者自身の内なる「あや」の、いのちの再生が果たされたことを、暗に石牟礼さんは伝えようとしているのではないかという解釈です。原作では「あや」は、もともとは竜神の姫として設定されていますが、おそらくこのことは、竜神が住む〈沖宮〉を生家として「あや」は誕生したことを告げているのでしょう。このように考えてゆきますと、原作「沖宮」は、五歳にして死をもって海底の〈沖宮〉へ嫁いだ「あや」の、そのいのちの再生が主題化された物語として読むことを可能にします。つまり、この物語は、原作者が生まれるにあたっての事情と背景とを示した秘話であり、その後の視覚化されえない「あや」の人生こそが、実は原作者自身の実際の生涯であることを意味するのです。こうした私の読みにおいては、確かに「沖宮」は石牟礼さんの最晩年の作品ですが、扱っている内容は、石牟礼道子というひとりの人間がどこから生まれてきたのか、何をなすために生を受けたのか、まさしく迫りくる死期のなか、この世にいのちを授かるにあたっての根拠を何としてでも探ろうとする、石牟礼さんご自身の「出生の自叙伝」となっているのではないかという見解が、当然ながら含まれることになります。そしてまた、それと表裏をなして、苦を宿し四郎と〈沖宮〉へ道行をする「あや」、その〈沖宮〉でいのちの再生を果たす「あや」、そしてその後、苦の一生を閉じるにあたって、再び四郎に導かれて〈沖宮〉へ流されてゆく「あや」の、その受苦と生死にかかわる連関と連続とがともに暗示されている作品でもあるように読むことができるのです。

ここに示しました現時点でのひとつの仮説が、キリスト教の図像学的な分析を含めた、今後の実証研究において明確化されるならば、上で紹介した往復書簡のなかで述べられている形式的な説明を超えて、「沖宮」執筆へ向けての深層部に存する動機や主題とあわせて、いまだ閉ざされている、この作品の成り立ちと構造が、さらにはっきりしてゆくことになるものと思われます。すべては、これからの学術研究の成果を待たなければなりません。

いずれにいたしましても、この新作能は、熊本に住む作家の石牟礼さんと京都に住む染織家の志村さんとの遠隔共同作業として、緊密な協力のもとに、その後完成していったものと思われます。新作能「沖宮」の誕生へ向けて、石牟礼さんからのたっての依頼を受けて、一途の思いでもって志村さんが染め上げたのが、「みはなだ色(天青の色)」と「緋の色(紅花の色)」でした。いうまでもなく、このふたつの象徴色ないしは主題色が、この「沖宮」の成否のひとつの鍵となる生命線でした。残念ならが石牟礼さんご自身は、初演のこの舞台でこの色でできた能装束を実際に見ることはできませんでした。もし観客席に座ることができていれば、いかなる感想が口をついて出てきたでしょうか。それはわかりません。しかしながら、一方の染織家としての志村さんご自身にとってのこのふたつの色は、まさしく「母なる色」であり、そしてまた「いのちの色」であり、会心の「しむらのいろ」として仕上がっていたものと推量されます。

四.「沖宮」私論

それでは、上で述べた、この作品を「出生の自叙伝」とする仮説から一度離れて、今度は別の観点から、書き手である石牟礼道子さんと原作「沖宮」の内容につきまして、さらに踏み込んで考察を進めてみたいと思います。

どうしても最初に取り上げたいのは、神高き幼子として登場するあやの置かれている境遇についてです。おそらくこの小さな女主人公に、石牟礼さんご自身の奥に秘めた思いやこれまで生きてきた姿の幾部分かが象徴的に投影されているのではないかと、ついつい考えてみたくなります。もしそうであるならば、民の苦しみを自分のものとする一方で、敬愛する兄のような美少年が助けにやってくるその瞬間を密かに待ち望む、ロマンティストにしてナルシスト的な、死さえも夢見るけがれなき乙女心が、「沖宮」を執筆する最晩年に至るまで、石牟礼さんの精神のどこかに存在し続けていたことになるのですが――。果たして、真実はどうだったのでしょうか。

しかしその一方で、あえて別の見方に立てば、構想段階の初期の題名に「天草四郎」の字句が用いられていることから判断すると、石牟礼さんの思いが投影されていたのは、あやというよりは、むしろ四郎その人だったのではないかとも考えられます。あるいは、このことをとくに強調したいのですが、あやも四郎も、実はともに石牟礼さんの分身であり、そこに働く相互的な愛と献身がひとつとなって、「よみがえり」ないしは「生き返り」が展望されていたのではないでしょうか。言葉を換えるならば、執筆時の石牟礼さんの脳裏には、単に一方が「救う」側で、一方が「救われる」側といった二分化された役割分担のような関係が二者のあいだにあるのではなく、二者の結合や合一の地平の彼方に、宗教それ自体の復活をも暗に含む、魂の真の救済と再生が生み出されるのではないかといった洞察が形成されていたのではないかと思うわけです。

こうして想像の翼を広げて考えてみますと、「沖宮」を表現する手法としては、必ずしも能という形式だけに止まらなくてもいいようにも思えてきます。確かに能は、霊魂を招き入れる空間にふさわしく、身体性や臨場性に優れ、観る者を圧倒します。しかし一方、もしマンガであれば、どうでしょう。抽象性をその性格にもつ能とは違い、物語性が一段と具体的に明確になりますし、鑑賞方法の容易さという点で大衆性も増します。それではその場合、たとえばどのような物語性が考えられるのでしょうか。

同じひとりの女性の乳を飲んで育てられた、島原・天草の乱に散った総大将の兄と、農民を救うために人身御供として死に向かう孤児の妹との、近親婚にも似た悲恋を主題化した物語が、一例として、まず考えることができるでしょう。あるいは、戦いで数万の一揆の民を犠牲にさせてしまった兄の総大将としての無念さを一身に引き受け、生き残った民が望む人柱となって、雨水と引き換えにこの世から消えてゆこうとする妹の、兄へ向けられた敬慕的愛を主題とした物語も考えることができるかもしれません。さらには、のちの妹の世話を乳母から託されるも、それを果たすことなく先に散り去った兄が、村の犠牲者となって〈沖宮〉の海底に沈みゆく妹を見て、その不憫さに耐えかねて救済の手を差し出す侠気的愛といった主題もまた、物語の可能性として残されていそうです。

このように、原作「沖宮」のストーリーに対しての解釈に幅が出てくるのには理由があります。といいますのも、原作では、なぜあやが人身御供として選ばれなければならなかったのか、農民一揆に加わった親の罪を子に背負わせようとしたのかどうか、あや本人は人柱という無二のいのちの消滅をどう受け止めていたのか、流されてゆくあやの眼前に立ち現われる天草四郎の思いの真実はどこにあったのか、そして、四郎とあやの道行は結局のところ何を意味するのか、いのちの再生なのか、それともキリスト教の復活なのか――そうしたことが直接鮮明に語られていないからです。さらに加えれば、「むごきこの世に生きるより、いのちたちの大妣君のおらいます沖宮へ行くがよい。あな、かなしや」(一五八頁)と嘆きながらも、自分たちのいのちを守るために、あやを暗黒の海底へと無惨にも突き落とす村人たちの残忍さのみならず、残された娘子たちの次の番を恐れる、身も凍るかのような警戒心についても同じく、実は何も詳しく言及がなされていないのです。そうしたことに起因して、想像と解釈の余地が幅広く残されているのです。

石牟礼さんは、すでに紹介しましたように、執筆途中の段階にあって、志村さんに宛てた書簡のなかで、「四郎と農民との関係、双方が立ち上がっていく過程で集団相互憑依がおきたと思うのですが、そこがまだうまく書けておりません」とも、「(あや)のイメージが今一つのびのびと描けておりません」とも、書いています。最終的な原作を読んでも、必ずしもその箇所が十分に描かれているとは思われません。石牟礼さんにとってみれば、心ならずも「未完」の状態にあるのかもしれません。あるいは、一線を越えて書き進めてゆけば、ストーリーにおいて矛盾や破綻を来たしかねず、また一方で、抽象的な秘話が具象的な実話に変移する恐れもあり、そこであえて石牟礼さんは、その箇所を心のなかに深くしまい込んでしまったのかもしれません。他方、読者にとりましては、その部分を補完するという意味において、多次元的な理解の絶好の機会が与えられたことになるのです。

それでは次に、アニメであれば、どうでしょう。マンガとはまた違い、物語が動画となり、音と色のもつ効果が最大限に発揮され、本来的に「沖宮」に備わる音響的で色彩的な特質が存分に引き出されることが期待されます。物語性という点でいえば、原作者としての石牟礼さんの思惑がどのようなところにあったのかは正確にはわかりませんが、もしこの作品の主題が「末期のうるわしさ」や「いのちの切なさ 美しさ」であるとするならば、物語のなかで、誰が誰に、どのような言葉でもって「いのちの切なさ」を語りかけるのかにかかわって、作者としてというよりも、生きたひとりの人間としての石牟礼さんご自身の救われ方も、また多様に変化するのかもしれません。そしてそのときの「うるわしさ」と「美しさ」のアニメ的表現が、最大の見どころになるものと思われます。

さらにもう一度、「無へ――あとがきにかえて」を読んでみます。そこに次のような一節があります。

光りが遠くへ引いていくごとに

自分の存在が「無」というものになってゆく

小さくなった自分を起点に

さらに宇宙がひろがる 音階が変わる

さきほどの妙音が色彩になる

世界はそうやって刻々と生まれ替わる(七四八頁)

「無へ――あとがきにかえて」と「沖宮」(改訂稿)とは、二〇一三(平成二五)年の正月をはさんだほぼ同じ時期に書かれていますので、あえてこの詩のなかに現われている心的風景を「沖宮」に重ねてみましょう。すべてが遠くへ引いてゆき、自分さえも「無」の状態となる。いままでの妙音が色彩になって刻々世界が再生されてゆく。おそらく再生された「沖宮」には、もはや登場人物も物語性もいつのまにかその姿を消し、これまで奏でられていた心地よいサウンドもまた、耳元から次第に遠のいてゆくことになります。最後は、残像の世界のみです。天草下島の浜辺に咲いた彼岸花、海と空の果てしない広がり、夕陽が水面を染める。そこへ、沖へ漕ぎ出す一艘の小さな舟。彼方には島原のシルエットが揺れる。すると雨雲が立ち込め、突然の夕立と稲光。小舟は、木の葉さながらに波に飲み込まれる。海底では、竜宮城のごとき岩肌に、緋の色とみはなだ色の衣裳をまとった魚たちが仲よく群れて泳ぐ。このように次から次へと流れゆく情景をつなぎあわせてみますと、最終的にたどり着く「沖宮」は、原作性さえもが溶けて「無」となり、限りなく夢と幻とによって構成されるような映像作品へと生まれ変わってゆくような気もします。

すでに言及していますように、作品「沖宮」は、言語によって論理的に構築されているというよりは、どちらかといえば、音や色によって情景的に構成されています。執筆当時の石牟礼さんは、志村さんへの手紙のなかで、「歩くのもままならず、箸とペンがうまく握れない」苦痛について書いています。体力も気力も、そろそろ限界に近づいていたのかもしれません。そしてまた、一連の書簡からは、色に対する強い執着心も感じ取れます。ことのほか色彩が霊感を喚起するのでしょうか。そのような心身の状態にあったことから推測しますと、天草を生まれ故郷にもつ石牟礼さんのこの作品は、自らの手によって、残る力を懸命に振り絞りながら、走馬灯のように網膜に映し出されたうぶすなの原風景を、あたかも記憶を再生するかのごとくに写生した、土着的な一枚の妣なる絵画作品だったかもしれません。より鮮明な別の言葉に置き換えるならば、この作品は、自分の生涯と生命のすべてを四郎とあやにゆだね、おそらくはいまだ満たされぬ己の内なる闇の部分の最後の救済を願って描き出した「辞世の自画像」だったということになるのではないでしょうか。

私は、この論考の前半において、「沖宮」は、石牟礼さんが、何のために生まれてきたのかということを根拠づけようとする「出生の自叙伝」ではなかったのかという仮説をつくりました。そしていま、一見それとは異なる、どのように死んでゆくのかという情念を色彩的に表現した「辞世の自画像」ではないかとの推論に至りました。人は死期を迎えるとき、自分がどこから来て、何をなして、これからどこへ行くのかを、一瞬のうちにそのすべてを夢想するのであれば、その一瞬とは、紛れもなく、生と死の合一の瞬間ということになるのではないかと考えます。その意味で、「出生の自叙伝」と「辞世の自画像」とは、決して相容れないものではなく、最期の夢想の表裏をなす混然一体の実質であり、それが文学的に結実したのが、まさしく「沖宮」という作品だったのではないでしょうか。その意味で「沖宮」は、生から死までの切なくも美しいいのちを閃光のごとき一瞬に凝縮させた、最期のうるわしさを彩るのにふさわしい、自己存在の物語ではないかと推量します。つまり、そのことをより具体的にいえば、ひとつには、四郎とあやが背負った受苦のなかから私(あるいは私たち)は生まれ、私(あるいは私たち)が生涯にわたって背負った受苦を再び四郎とあやに預けて死ぬという苦悩と生死の二重の輪廻が、そしていまひとつには、おそらくは高群逸枝の著作へのこの時期の関心と重なるのでしょうが、あやを母として私(あるいは女たち)は生まれ、あやを娘として私(あるいは女たち)は死ぬという母娘の生命相続の流転が、石牟礼さんご自身の心の海底に深く眠る、光の届かない隠された〈沖宮〉となって、この作品にいのちを吹き込んだのではないかと、私は思慮するのです。石牟礼さんを創作へと向かわせた深層の心的力学をこのように措定するとき、それを基底に据えて実際に描き出された「沖宮」のストーリーとそのディテールは、いうまでもなく、その表象性において実に複雑に錯綜し、限りない読みの広がりと深さとを呈することになります。

それでも、茫漠とした幻影のなかに、ひとつの輪郭をなす、おぼろげな情景が見えてきます。当然ながら、これまでの考察の内容が情景を支える根拠となりますが、その情景とは――四郎とあやがまとう能装束は、石牟礼さんにとっての産着であり、そして同時に死に装束であり、原作の記述が示すように、村の古家の蔵に長くしまい込まれていた古い布切れを水で洗って縫い直してできたものであり、したがって思うに、この道行に使われる衣装は、歓喜に満ちた婚礼などにみられる光り輝く新調の晴れ着のようなものではなく、生と死の、まさしく生まれ変わりのための巡礼の旅路にふさわしい、おそらくは歴史のなかで積み重なった血と涙の無念と悲痛とが無言のまま染み込んだ土着色の青紫と紅彩の衣であるにちがいないという情景であり、他方〈沖宮〉は、宗教の消失をしきりと嘆く石牟礼さんにとっての生地であり、そして同時に墓所であり、ある意味で修道院や孤児院にも似た、生死を司る礼拝堂であり神殿であり、そこで想像するに、原作にはありませんが、もし、生きる場を失った神高い小さな魂たちを迎え入れようとして登場してくるのであれば、家父長的な権力を象徴するような城主の竜神ではおそらくなく、等しくいのちを守り育てる慈愛の大妣君であるにちがいないという情景です。

昨年一〇月六日の水前寺成趣園能楽殿での「沖宮」の初演を、主に私は、このふたつの視点から関心をもって観覧しました。しかしながら、実際はそのとおりではありませんでした。といいますのも、ふたりが身に着けた装束は、思いのほか明るく鮮やかで(つまり、たぶんに明度と彩度が高く)、華美なものでありましたし、そしてまた、ふたりの道行を迎えたのは、大妣君ではなく、予測していなかった、何と竜神だったからです。伝統的な能に固有の形式と手法がそうさせたのかもしれませんが、原作に対する解釈の違いがあったことも明白です。こうして私自身は、この夜の舞台に、何か、全体を総合的に統括する指揮者を欠いたドラマのパフォーマンスのような印象をもちました。

手もとにあるごく一部のテクストだけを手掛かりに、実証も論証も十全とはいえない、おおかたを想像と直観に頼って述べてきたこの私の「沖宮」考に、どれほどの妥当性があるのかは横に置くとしまして、いずれにせよ、原作の「沖宮」が、ジャンルを問わず、それぞれの表現媒体のクリエイターたちによって最適の解釈と演出がなされ、多くの人びとが多様な感覚を自在に駆使して楽しむことができるような、重層性と多義性とに富んだ魅力ある作品であることは、間違いないようです。そして、そうしたなかにあって、石牟礼さんの事実上の絶筆となるこの「沖宮」は、石牟礼さんご自身の、その生涯にわたる混沌とした生命のありようの住みかとして、つまりは、「末期のうるわしさ」と「いのちの切なさ 美しさ」の化身が息づく本人にとっての〈沖宮〉として、いよいよ漆黒の闇から解き放されて、あたかも一枚のマンダラのように、あるいはあのシスティナ天井装飾のように、今後、自分自身の〈沖宮〉を探し求めようとする万人に向けて、永遠に発光し続けるものと思います。

五.おわりに――ウィリアム・モリス、そして再びハナシノブへ

歴史を見ると、どの時代であれ、どの地域であれ、人間としての尊厳や魂が耐えがたく抑圧された状況に、人は避けがたくしばしば遭遇しています。たとえば一九世紀の英国では、産業革命の結果を謳歌する人たちがいる一方で、醜悪な機械製品が氾濫し、手仕事による労働の喜びが機械によって奪い去られたことに強い抗議を示す人たちがいました。そのひとりが、詩人で、デザイナーで政治活動家でもあったウィリアム・モリスという人でした。彼は、一三八一年にイングランドで起こった農民一揆であるワット・タイラーの乱に想を得て、一八八六年から社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に「ジョン・ボールの夢」を連載しました。そのなかで著者のモリスは、民衆の前に立つジョン・ボールに、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である」と語らせました。

二〇世紀から二一世紀に向けて生きた石牟礼さんは、水俣病の元凶とみなされる、経済発展を優先させた産業至上主義や、環境への負荷を顧みない人間中心主義や、社会的責任を放棄した企業の利益追求主義に強い衝撃を受け、一六三七年から翌年にかけての天草四郎を総大将とする農民一揆である島原・天草の乱へと、関心を遡行させてゆきました。モリスはデモの隊列に加わり、一方石牟礼さんは、冷たいアスファルトの上に座り込みました。私は、両人とも、時代に抗い、抗議の姿勢を明確に示し、苦界の先例を過去の歴史に求め、そしてその思いを文学的作品に託した人であると考えます。違いは、モリスは社会の変革に、石牟礼さんはいのちの再生に、最終的な解決をゆだねようとした点ではないかと推量します。

ワット・タイラーの乱のもうひとりの指導者であるジョン・ボールの夢を、五〇〇年後に再びモリスが夢見ました。そしてモリスの夢の一部は、遥かこの熊本の大地の一角「武夫原頭」においても語り継がれていったようです。といいますのも、『ラフカディオ・ハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』(恒文社、一九九三年版)によりますと、第五高等学校在職後の東京帝国大学でのハーンの講義録のなかにモリスの詩が登場しますし、また、『倫敦塔 幻影の楯 他五篇』(岩波文庫、一九九五年版)の巻末の「解説」のなかでは、江藤淳が、夏目漱石の一九〇六(明治三九)年刊行の『漾虚集』の装丁について、「彼はこの本をその頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに試みられていたような、文学と視覚芸術との交流の場にしたいと思っていた」(二三八頁)と指摘しているからです。実際にはこの時期、すでにモリスは亡くなっているのですが、生前モリスが試みた理想の書物への江藤の認識は間違いありません。その漱石のあと、五高で教鞭をとったのが厨川白村でした。彼は、一九一二(明治四五)年六月号の『東亜の光』に「詩人としてのヰリアム・モリス」を寄稿しています。私は、熊本で生まれた厨川の長男の文夫が、長じて、慶應義塾大学で江藤淳にモリスについて教授したのではないかと想像します。このように、世紀転換期の五高の英文学の授業内容に少し関心を向けてみますと、ハーン、漱石、白村が、学生たちを相手に、あるときは教室や武夫原頭でモリスの詩歌を吟詠し、またあるときはモリスの書物論を講じていた可能性に気づかされるのです。

他方、島原・天草の乱の指導者である天草四郎の夢の続きを相続したのが、石牟礼さんの「沖宮」だったのではないかと考えます。眠りについていた夢の時間は三世紀半に及びます。それでは、四郎の夢を覚醒させ、一文字一文字にその思いを込めて綴った、道子さんご自身の筆と夢の力は、文学研究者や歴史家、そして伝記作家に、今後どのように学問的に分析され、継承されてゆくことになるのでしょうか。モリスの夢想と行動の主要な側面であるところの、文学と装飾芸術(工芸およびデザイン)と社会主義が英国の人びとのなかにあってのみならず、日本においてもまた、今日に至るまでたゆみなく引き継がれてきていることに思いを馳せながら、いま私は南阿蘇の小庵に蟄居し、五〇年後、一〇〇年後の石牟礼道子研究に、淡くも尽きることのない、白雲のごとき流れゆく夢を見ているのです。

石牟礼さんが帰らぬ人となってこの二月一〇日で一年が過ぎました。今年も六月になるとハナシノブの花が阿蘇の草原に咲き、「みなみ阿蘇 野の花コンサート~はなしのぶ~」も開催されることでしょう。このコンサートと石牟礼さんとを結び付ける実際の糸は、歴史のなかには何も残されていません。しかしハナシノブは、すでに述べてきましたように、死を思う苦しみのなかにあった石牟礼さんを、実に純朴で可憐な花を咲かせて救いました。 きずな とか えにし とかいうものは、ある場面では、時空や人知を超えるものかもしれません。そうであれば、このコンサートは、「いのちの切なさ 美しさ」を主旋律とした、見知らぬ次の若い世代の人たちが一心に奏でる石牟礼さんへの寡黙な鎮魂歌となるのではないでしょうか。ハナシノブの花言葉は「お待ちしています」というらしい。このたびはじめて石牟礼道子さんの文と能に接しながら、没後一年にあたり、あたかも四郎のよみがえりを連想させるかのような青紫色の、この清楚で小さな花々こそが、この人に捧げるのに最もふさわしい野の花のように感じました。改めて、生前の文筆活動に敬意を表しますとともに、ご冥福を心から祈りたいと思います。


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図1 2018年6月17日に阿蘇野草園で開催された「第1回 みなみ阿蘇 野の花コンサート~はなしのぶ~」。(執筆者撮影)

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図2 画面手前がコンサート会場に設置された鉢植えのハナシノブ。(執筆者撮影)

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図3 2018年10月6日の「沖宮」の初演舞台となった水前寺成趣園能楽殿。(執筆者撮影)


【初出:「石牟礼道子の死去から一年 ハナシノブ考あるいは『沖宮』考」『KUMAMOTO』No. 26号、くまもと文化振興会、2019年3月、172-189頁。】