中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第二部 わが肥後偉人点描

第七話 ウィリアム・モリスと第五高等学校の英語教師たち
    ――ハーン、漱石、白村のモリスへの関心(3)

五.『平民新聞』による社会主義者モリスの紹介

英国留学を終えた夏目漱石は、一九〇三(明治三六)年一月に帰国します。そして、ちょうどその年の一一月一五日に、幸徳秋水や堺利彦らによる週刊『平民新聞』の創刊号が世に出ます。創刊一周年を記念して第五三号に「共産黨宣言」を訳載すると、しばしば発行禁止にあい、一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六四号をもって廃刊に追い込まれることになる、日本における社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした新聞です。発行所である平民社の編集室の後ろの壁の正面にはエミール・ゾラが、右壁にはカール・マルクスが、そして本棚の上にはウィリアム・モリスの肖像が飾られていました。『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」【図一】という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事においてでした。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載したものです。おそらくその間、この本は発行禁止になっていたものと思われます。それに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載を通して、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に連載されたモリスの News from Nowhere が、はじめて日本に紹介されることになるのです。それは、「理想郷」(今日では「ユートピア便り」の訳題が一般的です)と題され、枯川生(堺利彦)による抄訳でした。そこには、革命後の社会や人びとの暮らしがどのようなものになっているのかが描かれていました。

その『平民新聞』を奈良の安堵村で読んでいたひとりの若者がいました。大日本帝国憲法の公布を数年後に控えた、一八八六(明治一九)年の六月五日に生まれた彼は、その名を富本憲吉といいました。富本は郡山中学に通っていましたが、友人に畝傍中学に通う中嶋雄作がいました。のちに中央公論の社長を務める人物です。富本は、後年、当時をこう回顧しています。

私は友達に、中央公論の嶋中雄三[雄作]がおり、嶋中がしよつちゆうそういうこと[モリスのこと]を研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた。それにモリスのものは美術学校時代に知っていたし、そこへもつてきていちばん親しかつた南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行くとごまかしてイギリスに行った

こうして富本は、一九〇四(明治三七)年のこの時期に、確かにモリスの社会主義の一端に触れることになるのです。それはちょうど、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期であり、一七歳の青年富本が中学校の卒業を控え、美術学校への入学を模索しようとしていた、まさにそのときのことでした。

六.東京美術学校時代の富本憲吉

一九〇四(明治三七)年の四月、富本は東京美術学校に入学します。ここで富本は、住宅や日用生活品の図案(今日の用語に従えば「デザイン」)を学びます。そして一九〇七(明治四〇)年には、上野公園で開催された勧業博覧会に処女作となる《ステーヘンドグラツス圖案》を出品しました。しかしこれは、当時の美術学校の教育を反映してか、独創性という点からかけ離れた、英国の美術雑誌『ザ・ステューディオ』に掲載されていた図版をおおかた転写したものでした。卒業製作は、九枚の用紙に図面や透視図やステインド・グラス案などが描かれた《音楽家住宅設計図案》(《DESIGN FOR A COTTAGE》)でした。これは、音楽家が住むことを想定した英国の田園住宅がテーマとなっていました。

郡山中学校に在籍していたときに読んだ週刊『平民新聞』は、富本が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年一月二九日付の第六四号をもって、官憲の弾圧により廃刊へと追い込まれました。この新聞を通じてモリスの社会主義に触れていた富本は、その廃刊に接し、どのような思いを抱いたでしょうか。直接そのことを立証するのは難しいのですが、一九〇五(明治三八)年一一月一四日に富本が中学時代の恩師である水木要太郎に宛てて出した自製の絵はがきが残されており、そこから、当時の富本の政治的信条を読み取ることができます。この絵はがきの中央には「亡国の会」という文字が並び、その下の三つの帽子に矢が貫通しています。描かれている三つの帽子は、陸軍、海軍、官僚を象徴するもので、明らかに、当時の国家体制への批判となっています。この年、八月に日露講和会議が開始されると、合意内容に国民の不満は高まるも、陸海軍の凱旋がはじまると、一転して市中は異様な昂揚感に沸き返ります。富本のこの自製絵はがきは、ちょうどこの時期に出されているのです。

そのころ美術学校では、学生のあいだから短歌や俳句などの文芸に対する熱が高まり、五年前に発足していたものの、休眠状態にあった校友会文学部が再興され、その第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二〇日に、上田敏と夏目漱石を招いて開催されます。上田敏は、『帝國文學』創刊の発起人であり、すでに『太陽』においてラファエル前派の詩人としてモリスに言及していましたし、漱石は、ラスキン(社会改良家)、ロセッティ(画家で詩人)、モリス(詩人でデザイナーで政治活動家)、スウィンバーン(詩人)に代表されるようなヴィクトリア時代の文化人にかかわってロンドンで研鑽を積んでいました。この講演のなかで、ふたりがモリスに言及したかどうかはわかりませんが、富本がこの講演会に出席していれば、そのとき、文学と美術の関連性に思いを巡らした可能性が残されます。

のちに富本は、英国留学の動機にかかわって、「留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、……在学中に、読んだ本から英国の画家のフイスラーや図案家で社会主義者のウイリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある」と、述べています。留学中に関心をもった形跡は認められるものの、富本が在学中に「画家のフイスラー」について学習した形跡は認められませんので、英国留学の目的が、デザイナーで社会主義者のウィリアム・モリスの思想と実践に触れることにあったと限定しても、差し支えないと思います。それでは、モリスへいざなった富本が「在学中に、読んだ本」とは、一体何だったのでしようか。富本が在籍していた当時、美術学校の文庫(今日の図書館)は、『ザ・ステューディオ』を購入していましたし、それ以外に、モリスに関しては、以下の二冊(所収論文数としては三編)を所蔵していました。


William Morris, ‘The History of Pattern Designing’, Lectures on Art, Delivered in Support of the Society for the Protection of Ancient Buildings, Macmillan, London, 1882, pp. 127-173.

William Morris, ‘The Lesser Arts of Life’, Ibid., pp. 174-232.

Lewis F. Day, ‘William Morris and his Art’, Great Masters of Decorative Art, The Art Journal Office, London, 1900, pp. 1-31.

前者の『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』と題された書籍は、六つの講演録で構成されています。モリスに関しては、一八八二年の二月にロンドンで行なった「パタン・デザイニングの歴史」(講演五)と、同年の一月にバーミンガムで行なった「生活の小芸術」(講演六)のふたつの講演が所収されていました。講演録であるために、図版は存在しません。後者の『装飾芸術の巨匠たち』という書題をもつ本には、ルイス・F・デイの「ウィリアム・モリスと彼の芸術」と題された論文が所収されており、そのなかで、モリスの社会主義の輪郭も含め、モリスの主要作品が、図版とともに詳しく紹介されていました。いずれにしましても、留学にあたって富本が具体的にどの本なり、どの論文なりを実際に読んだのかを明確に示す資料は残されていません。しかしながら、少なくとも上記の二冊か、片方の一冊が、「在学中に、読んだ本」だったことは、間違いないと思われます。また、英国留学からの帰国後、富本が『美術新報』に発表する「ウイリアム・モリスの話」の底本がヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことを勘案すると、この本は当時文庫には所蔵されていませんでしたが、留学を前にして個人の書としてすでにこのとき読んでいた可能性もあります。こうして富本は、在学中にモリスの思想と実践について独習し、英国留学へ向けての夢を育んでいったのでした。しかし富本にとっては、この時期に海外へ行くことには別の意味が隠されていました。それは、短い言葉で本人も語っていますが、徴兵から逃れることでした。すでに漱石も、一八九二(明治二五)年に、徴兵を避けるために「分家届」を出し、「北海道後志国岩内郡吹上町一七 浅岡方」に籍を移し、北海道平民になる経験をしていました。

『平民新聞』を通してモリスの「ユートピア便り」を読み、美術学校に在籍中にモリスの作品と社会主義の一端を知り、そして、自製の絵はがきのなかにおいて政治状況への批判をにじませ、さらに、卒業を待たずして海外へ渡航することにより徴兵忌避の道を選ぶ――これが、富本をして、デザイナーで社会主義者であるウィリアム・モリスの思想と実践に触れるために英国へ向かわせた一連の経緯でした。英国には、美術学校に入学以来親交を深めていた、画家の南薫造が待っていました。富本の南との関係は、オクスフォード時代に知り合うモリスとエドワード・バーン=ジョウンズとの関係に重なります。また学生時代に、富本もモリスも、建築や室内装飾に関心を抱いています。この点も、ふたりに共通しているところです。

七.富本憲吉の英国留学と「ウイリアム・モリスの話」

一九〇九年二月一〇日、富本【図二】を乗せた平野丸は、ロンドンに入港します。桟橋には、一足先に渡英していた南薫造の姿がありました。英国の地での南の水彩画の評価は高く、すでに前年の五月号の『ザ・ステューディオ』(第一八二号)誌上において、次のように紹介されていました。

ヨーロッパ画家の流派に敬服の念を抱き、現在[サウス・ウェスタン・ポリテクニックの]ボロー・ジョンスン氏の指導のもとに人体画の教室で研鑚している、若き日本人芸術家である南薫造氏によって水彩で描かれた風景画は、その扱いにおいて全くヨーロッパ的であり、日本の影響の痕跡をいっさい示していなかった

こうして、富本のロンドン生活がはじまります。すでにモリスは亡くなっていましたが、日々通うヴィクトリア・アンド・アルバート博物館【図三】で富本は、モリスの実作にはじめて接し、強く心を打たれます。

 初めて見た時から勿論大變面白いものであると考へて居りましたが、追々と見なれるに連れて、たまらなく面白いと考へました、眞面目な、ゼントルマンらしい、英吉利風な作家の、けだかい趣味が強く私の胸を打ちました

その作品は、「刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)」だったものと思われます。また富本は、英国滞在中に、モリスにその源を発する、その後のアーツ・アンド・クラフツ運動の動きを目にしていますし、一方、決して具体的に述べているわけではありませんが、モリスの社会主義についても、このとき調べたことを後年語っています。主として昼間は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で作品のスケッチをし、夜間は、中央美術・工芸学校でステインド・グラスの実技を学び、その間、新家孝正に随行してエジプトとインドを旅し、その地の建築様式について調査も行ないました。英国を出帆し、神戸の地を踏んだのは、一九一〇(明治四三)年六月のことで、ちょうど二四歳になったところでした。

富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に出会わなかったならば、自分は工芸家になることはなかったであろう、と述べています。一方モリスも、大学時代にバーン=ジョウンズと一緒にフランスに行ったとき、アミアン大聖堂をはじめ幾つもの建造物に感銘を受け、このとき、バーン=ジョウンズは画家に、モリスは建築家になることを決意しています。こうして、工芸家になることを強く心に秘めて帰国すると、モリスの思想と実践に倣うべく、富本の本格的な模索がはじまります。帰朝二年後の一九一二(明治四五)年、富本は、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本に使い、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのモリス作品についての見聞を織り込みながら、「ウイリアム・モリスの話」【図四】という評伝にまとめ、『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に寄稿します。この富本の「ウイリアム・モリスの話」が、日本において最初に工芸家モリスを本格的に紹介した評伝となりました。この評伝の最後の結論部分は、以下のとおりです。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します

かくして、絵画や彫刻の下位に工芸が位置づけられることを否定し、同等なる別個の世界として工芸をみなし、その独自の美と個性を追求した人間としてモリスを紹介することにより、富本は、工芸家として自分がこれから歩もうとする姿勢を世に宣言するのでした。この富本の「ウイリアム・モリスの話」を読んで、感動し、心を躍らせた人物がいました。それが、漱石のあと五高の英語教師となった厨川白村だったのです。

最終回になる次の稿におきましては、厨川白村の「詩人としてのヰリアム・モリス」に言及するとともに、富本と漱石の出会いについてお話をします。

(二〇二一年七月)


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図1 『平民新聞』に掲載の記事「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」。1903年。

fig2

図2 明治41(1908)年12月14日付の水木要太郎宛富本憲吉写真はがき「渡英の記念として」。

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図3 1907-09年ころのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(撮影者はおそらく南薫造)。

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図4 富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」の最初の頁。1912年。

(1)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(2)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、198頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]

(3)The Studio, Vol. 43, No. 182, May, 1908, p. 340.

(4)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14頁。

(5)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年3月、27頁。

図版出典

【図1】『平民新聞』第4号、1903(明治36)年12月6日。(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、33頁。)

【図2】富本憲吉記念館(現在は閉館)のご好意により複製。

【図3】『美術』第1巻第9号、1917年、332頁。

【図4】富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14頁。