中山修一著作集

著作集7 日本のウィリアム・モリス

第二部 富本憲吉とウィリアム・モリス

第四節 建築と絵画

モリスは、オクスフォードでの学生時代、中世史を専攻しました。とりわけモリスの関心は中世の建築にありました。この時期の概念では、建築と芸術は、ほぼ同じ意味をもっていました。一般的に、教会などの建造物は、その外観の芸術性はいうまでもなく、その内部においてもまた、天井、壁面、ステインド・グラス、柱などの表面は、絵や浅彫りで覆われ、壁龕には彫像が設置され、床には、装飾された家具調度品が並べられ、テーブルの上には聖なる書物や、皿や盃や燭台などといった聖具が置かれていました。つまり、一つひとつの輝く星が集まって、あの調和ある大天空が構成されているように、建築という空間は、すべての芸術が和して集う総合体として存在していたのでした。しかし、モリスが生を受けたヴィクトリア時代にあっては、かつて中世の時代に一体的に統合されていた大芸術(絵画や彫刻)と小芸術(装飾美術)とが、脈絡を失い、すでに無残にも分裂した状態にありました。モリスはそこに、芸術の危機を感じ取ったのでした。これが、モリスが、聖職者への道を諦め、建築家になることを決意した主たる理由です。卒業と前後してモリスは、ゴシック・リヴァイヴァリスト(中世復興主義者)の建築家であったG・E・ストリーの事務所に入所します。しかし、与えられた仕事の単調さに耐えかねて、しばらくすると退所します。次に、ラファエロ前派の画家のロセッティの勧めもあり、一八五七年にモリスは、オクスフォード大学の学生会館の壁面計画に参加し、『アーサー王の死』を題材にした等身大を超える人物像を描くのですが、ここでモリスは、ふさわしい描写力が自分に欠如していることを思い知るのでした。モリスの唯一の油絵の作品といわれているものが、《麗しのイゾルデ》です。この作品名は、かつては《王妃グウェナヴィア》と呼ばれていたこともありました。モデルは、このときの壁画計画で知り合ったジェイン・バーディンで、のちに妻となる女性です。かくしてモリスは絵画からは遠ざかり、一八六一年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立すると、その後は、主としてパタン・デザインの分野で才能を発揮することになります。こうしてモリスの芸術実践は、建築と絵画の分野からデザインの分野へと移り進むことになるのです。

それでは、富本憲吉における芸術実践の変化を見てみましょう。そこに何か共通することはあるのでしょうか。まず、建築に関して――。

富本は、東京美術学校では図案科に所属し、ここで主として住宅のデザインや室内装飾を学びます。卒業製作は《DESIGN FOR A COTTAGE》と題されたもので、音楽家が住むことが想定された田園住宅でした。指導教員は、建築家の岡田信一郎でした。美術学校の教授で建築史や建築意匠術を講じていた大沢三之助が、富本より一足早く、英国に渡っていました。このとき、大沢は、ロンドンに立ち寄った建築家の新家孝正に富本を紹介します。こうして富本は、新家に随行してエジプトとインドを旅し、回教国の寺院や神殿や墓地のデザインを調査するのです。英国留学から帰朝すると、定職に就かぬ富本を見かねてのことか、大沢は、京橋区南鞘町の清水組(清水満之助本店)を富本に紹介します。富本は、毎日製図に向かわなければならない単調な仕事について、「大沢先生は僕に見せしめの為めに此の事務所をショウカイして呉れたそうだ。此れを以て先づ一ケ月ほどは働いて来た。一日に一円や一円五〇銭で頭の中、脚の形ち迠くづされて、は、タマラぬタマラぬ」74と、述べています。富本も、モリスと同じように、図面を引くだけの仕事には耐えられなかったようです。

こうして富本は建築の実践から離れ、この時期に知り合ったリーチの熱に引き込まれるようにして、作陶の道へと入ってゆきます。しかし、生涯を通じて、建築論的な思考は、富本の製陶に大きな力となって作用します。

一九二五(大正一四)年一一月、富本のはじめての随筆集となる『窯邊雜記』が文化生活研究會から上梓されました。年が明けた一九二六(大正一五)年二月七日の『東京朝日新聞』を見ますと、卒業製作の指導教員であった岡田信一郎による「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」と題する長文の書評が掲載されています。そのなかで岡田は、富本の所説に、ウィリアム・モリスに倣う建築論を見出しました。

 建築家である私にとつては、彼の建築に對する一々の言葉が強く響く。……美術學校で學習し、欧米にも渡航し、印度にも見學した。然しウヰリアム・モリス、と、同じように、建築に對する研究は、彼を廣い工藝の理解に導いて、モリスが工藝に志したに對して、彼は陶器に走つた。それ故にモリスの言説がしばしば建築に觸れるやうにこの雜記の中にも、建築が時々引合に出される。しかして彼の深い理解が、職業的に堕し易い私達の心をおのゝかす事がある75

この書評が紙上に現われた一九二六年という年は、ヨーロッパに目を向けると、校長のヴァルター・グロピウスの設計によるバウハウスの新校舎がデッサウに完成し、モダニズムという新しい造形教育の理念を視覚的に象徴する建築デザインが誕生した、歴史的に見て特筆すべき年でした。今日にあってデザインの近代運動は、次に述べるふたつの段階に区分されて、考察されることが多いと思います。一九一九年の第一次世界大戦終了後から、一九三三年のヒトラー政権の誕生までの、バウハウスをはじめとする各地各国で展開された近代精神の発露としてのデザイン運動の時期を前半としますと、その後に続く後半が、一九三二年のニューヨーク近代美術館で開催された「国際様式」展から、反モダニズムないしはポスト・モダニズムの動きが顕著になる一九七〇年代の終わりまでの、モダニズムの視覚的な原理が国際的に浸透してゆく時期です。富本が、大和の安堵村で本窯をつくるのが一九一五年です。そして東京での生活を経て、京都で亡くなるのが一九六三年です。まさに富本は、ヨーロッパにおける近代運動の時期とほぼ同じ時期にあって、遠く日本で陶器をつくっていたことになります。

すでに引用によって紹介していますが、富本の言葉に、次のようなものがあります。「装飾の遠慮と云う語が建築にあるが、装飾の切り捨てを私は要求する」――これこそ、まさしくモダニズムの基本となる原理であり、富本は、この原理を建築から工芸へ移植しようとしていることがわかります。この時期、富本は、英国のデザイン雑誌である『ザ・ステューディオ』やル・コルビュジエの『新しい建築に向って』といった雑誌や建築関係の書籍を通じて、西洋の動向を知ったものと思われます。また最晩年には、のちに染織家として大成することになる志村ふくみに、こうもいっています。「工芸の仕事をするものが陶器なら陶器、織物なら織物と、その事だけに一しんになればそれでよいが、必ずゆきづまりが来る。何でもいい、何か別のことを勉強しなさい。その事がいいたかった」76。続けて富本は、志村にこう諭します。「あなたは何が好きか。文学ならば、国文学でも仏文学でも何でもよい。勉強しなさい。私はこれから数学をやりたいと思っている。若い頃英国に留学した時、建築をやりたいと勉強したが、それが今大いに役立っていると思う」77。このとき富本が志村に語った数学とは、幾何学のことだったのではないでしょうか。ヨーロッパのモダニストたちが、具象的な装飾を排除し、それに代わって、抽象的な形態を求めていたことに、富本は気づいていたものと思われます。

このように、富本の作陶には、明らかに西洋のモダニズムの原理が投影されています。その背景に、学生時代とロンドン滞在中に体得した建築についての知識が基礎となって存在していたことは、ここに特筆しておいてもいいのではないかと考えます。

それでは次に、絵画については、何かモリスと相通じるところがあったのでしょうか――それを見てみたいと思います。

富本は、東京美術学校時代、川端玉章の授業で日本画を学びました。しかし当時は、あまりいい印象をもっていなかったようです。富本は、こう回想しています。「あるとき『ちょっと起て』といって、私のいすに腰掛け、自ら筆をとって一気に一枚の絵を描いてくれた。そんなことは、めったにしない人なのである。それほどにしてくれても、私は先生の絵は少しも好きでなく、内心『こんな絵なんか描くもんか』と思っていたのである」78

すでに、水木要太郎に宛てた自製の絵はがき「亡国の会」につきましては前述していますが、こうした学生の時期、そして、それに続く英国留学中、富本は好んで絵はがきや絵手紙を書いています。留学中は一緒に写生旅行に出かけるほどに、画家である白滝幾之介と南薫造のふたりと富本は仲がよく、あるとき富本は、ロンドンから離れた旅先から白滝に宛てて自作の絵はがきを送っていますが、それを見た白滝が感動し、同じくロンドンに滞在していた南に「富本(トミー)は天才だ」と、はがきか手紙に書きました。その言葉が書かれてあるのがどの資料だったのかは、記憶が薄れていますが、いま私は、この文脈でその逸話を思い返しています。

帰国後、富本にとっての最初の作品発表の場が巡ってきました。それは、一九一一(明治四四)年の四月に〈吾楽殿〉で開催された新進作家小品展覧会でした。富本は、リーチとともに会場の装飾を行ない、しおりとして使える入場券を自らデザインし、会場には自分でデザインした椅子を配置しました。そしてそのとき、約四〇点の版画、一、二点の皿、加えて水彩画が一点売れました。富本は、「僕初めて水彩を一枚拾円で賣つた。何むだか変な気がする」79と、感想を漏らしています。

この展覧会が、富本の芸術家としての原点となるものであります。展示会場の装飾に携わったという点では、今日にいうインテリア・デザイナーとしての、椅子や入場券兼しおりをデザインしたという点ではプロダクト・デザイナーでありグラフィック・デザイナーとしての、楽焼きと木版画を製作したという点では陶芸家であり版画家としての、水彩を描いたという点では美術家としての――多様な能力の片鱗が、この展覧会で示されたことになります。しかし富本は、その多様な芸術的関心のなかにあって、偶然のいきさつから、その後陶工の道を歩むことになり、こうして、絵画的要素は、陶器の表面を飾る模様として追及されてゆくのです。しかしその一方で、富本の絵画的関心は、生涯にわたって、雑誌や書籍の表紙を飾る挿し絵となって展開されます。このことは、ついつい見落とされがちなので、ここで朱書きしておく必要があるものと思われます。すでに、絵はがきや絵手紙につきましては、一著に編集されて上梓されていますが、他方、富本が描いた挿し絵の一部始終を時間軸に沿って並べてみれば、同じくそこには、陶器の模様とは違った一大絵巻が出現するにちがいありません。この点からして、明らかに富本は、挿し絵作家、いまにいうところのイラストレイターでもあったわけです。

富本にとって陶器に模様を上絵することと、日本画を描くこととは、表裏一体の行為だったものと思われます。富本の日本画の個人展覧会として私の知る限りでは、「富本憲吉日本畫展覧会」が、一九三六(昭和一一)年の一月一九日から二二日まで、上野松坂屋で開かれています。このころのことではないかと思われますが、富本は、かつて美術学校の学生だったときに教わった日本画家の川端玉章のことを、次のように思い出しています。

戦前よく信州の野尻湖の別荘に秋の紅葉を描きに行ったものだが、あるとき、人々が東京に引き揚げた後の静かな境地で写生をしていた。ところがいままでと全然異なった墨色が出た。「オヤッ」と思ってかわくのを待って見たが墨色が変わらぬ。そのとき、こつ然として前述の[川端玉章]先生のことばとともに、ありし日の先生がうしろからのぞきこまれているような思いにかられてゾーッとした80

玉章は、退任前の最後の授業のとき、富本のところに来て、「ちょっと起て」といって、一枚の水墨画を描きました。そして、こういっていたのです。

ここに君の描いた絵と、僕の描いたものと二つある。この二つはどちらも、いま描いたばかりだが、僕のは墨がかわいても、いまのぬれたのと同じ効果を持つ。君のはかわくと[か]さかさになり、焼いたするめのようになってしまう。君と僕の絵のちがいはそれだけだ81

富本が描いた日本画が、何点現存するかわかりませんが、ここにも私たちは注目すべきであり、とりわけ、日本画に描かれたものと、陶器の模様として現われたものとを詳細に比べて分析することは、富本の創造のプロセスを知るうえで重要な知見をもたらすものと推測します。

振り返りますと、モリスは、建築家としての道も画家としての道も、早い段階で諦めています。しかし、モリスの周りには、建築家のウェブや画家のバーン=ジョウンズがいて、彼ら友人たちがモリスの仕事を支えました。つまり、モリスのデザインの多くは、多様な芸術家と専門職人との協同において成り立っていたのでした。そしてまた、装飾についての当時の考えがどうであったかというと、それは、一八八二年にデザイナーのルイス・F・デイが刊行した、『日常の芸術――純粋にあらぬ芸術に関しての短篇評論集』のなかの次の一節に、うまく集約されていますので、紹介します。

 装飾を愛することは、救世主御降世以来のこの年に固有の特徴ではない。装飾は人類の最初の段階にまでさかのぼる。もし装飾をその起源に至るまで跡づけようとするならば、私たちは自らの姿をエデンの園のなかに――あるいは猿の領地のなかに見出すことであろう。今日においても、装飾は、私たちのなかにあって無限の力を有している。したがって私たちは、装飾をもたない「来るべき人類」を心に描くことはほとんどできないのである82

一方、富本の場合は、モリスと同じように、職業建築家になることへの断念は早かったのですが、絵画、なかでも挿し絵や日本画の製作は、モリスと違って自身の独りの力によって、長く続きました。そして、三次元の陶器製作における理念上のひとつの到達点が、「装飾の遠慮と云う語が建築にあるが、装飾の切り捨てを私は要求する」というものでした。これは、モリスの時代にあっては、「心に描くことはほとんどできない」考えでした。しかしながら、モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に続く、二〇世紀の近代運動を遂行した、多くの西洋のモダニストたちは、形態の表面から絵画的要素も彫刻的な要素も追放し、それに代わって、形態を機能に従わせました。同じく、同時代に生きる日本の富本も、白磁を好み、機能を重視し、装飾否定あるいは反歴史主義という新しい理念との安定的関係を保とうとしました。しかし他方で、鑑賞者や使い手は、富本の絵や模様を好みました。ここに、陶器の絵画性を巡っての不安定な闘争が生じ、最後まで富本に付きまとったものと推量されます。

一九六三年の富本の死去以降の西洋を眺めてみますと、富本も読んだであろうと思われる『新しい建築に向って』を著わしたル・コルビュジエが一九六五年に、バウハウスの初代校長を務めたヴァルター・グロピウスが一九六九年に、相次いで「近代」の巨匠建築家たちが世を去ってゆきました。そして、あたかもそれを待っていたかのように、七〇年代に入ると、「反モダニズム」や「ポスト・モダニズム」といった用語のもとに、「近代」への懐疑と批判が現われるようになります。こうしてモダニズムが乗り越えたと思われた、世紀転換期前後のアーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーヴォーへの関心が高まってゆき、改めてここに、デザインにおける装飾や絵画の表現上の役割や視覚上の機能が問われることになるのです。

英国では、デザインの近代運動の崩壊以降、モリスの再評価が始動しました。日本にあっては、「近代運動の崩壊」という認識は、当時それほど自覚されたものではなかったかもしれませんが、今後の富本評価は、そうした日英双方の歴史的文脈から、再度試みる必要性があるのではないでしょうか。日本ではじめて、モリスの社会主義思想とデザイン実践に関心を抱き渡英、帰朝後、その研究成果を生涯のなかで展開していった富本憲吉への新たなまなざしが、いま、モリスの再評価と連動して、デザイン史家に求められていることを、私は強く感じます。

(74)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、16頁。

(75)岡田信一郎「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、1926年2月7日、6頁。

(76)志村ふくみ「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』美術出版社、1974年、229頁。

(77)同「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』、同頁。

(78)前掲『私の履歴書』、196頁。

(79)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、23頁。

(80)前掲『私の履歴書』、196-197頁。

(81)同『私の履歴書』、196頁。

(82)Lewis F. Day, Every-Day Art: Short Essays on the Arts Not Fine (reprint of the 1882 ed. published by B. T. Batsford, London), Garland Publishing, New York and London, 1977, pp. 5-6.