富本憲吉は、一八八六(明治一九)年六月五日に、奈良県生駒郡安堵村に生まれました。モリスが生まれたのは、一八三四年で、死亡したのが一八九六年でしたので、富本は、モリスが亡くなるちょうど一〇年前に誕生したことになります。富本家は代々続くこの土地の庄屋で、一一歳の時に父親が亡くなると、長男であった富本は、若くして富本家の家督を相続します。モリスも裕福な家庭に生まれ、父を亡くすのは一三歳のときで、生涯生活に困ることのない遺産を継承しました。
富本がはじめてモリスの存在に気づいたのは、郡山中学校の生徒のときでした。そのとき富本は、友人の勧めもあり、当時の社会主義の機関紙である『平民新聞』に連載された、堺利彦の抄訳になるモリスの「理想郷」を読んだものと思われます。『平民新聞』の編集室には、マルクスとゾラに加えて、モリスの写真も飾られていました。モリスは、一八八五年に社会主義同盟を結成すると、一八九〇年に、機関紙『ザ・コモンウィール』に「ユートピア便り」を連載します。News from Nowhereという散文ロマンスは、今日にあっては、「理想郷」ではなく「ユートピア便り」という訳題で親しまれていますが、社会革命後の新世界を描いたもので、モリスの社会主義を知るうえでの最も重要なテクストのひとつでありました。この物語の語り手(語り手はモリスその人と考えてよいでしょう)は、革命後に生まれるであろう新しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦わされた夜、疲れ果てて眠りにつき、翌朝目が覚めてみると、すでに遠い昔に革命は成功裏に終わり、理想的な共産主義の社会にいる自分を見出します。語り手が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働、汚染される自然、苦痛にあえぐ生活からは想像もつかない、全く新しい世界がそこには広がり、労働と生の喜びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んでいました。これを読んだ富本には、モリスが描き出していた革命後の理想社会はどのようなものとして映じたのでしょうか、それはわかりません。しかし、社会が変化することの可能性、そして、それを成し遂げるにあたっての時代に抗う力の生成、さらにはその一方で、そうした行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在、これらについては、少なくとも理解できたものと思います。
こうして富本は、一九〇四(明治三七)年のこの時期に、確かにモリスの社会主義の一端に触れることになるのです。それはちょうど、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期であり、一七歳の青年富本が中学校の卒業を控え、美術学校への入学を模索しようとしていた、まさにそのときのことでした。
一九〇四(明治三七)年の四月、富本は東京美術学校に入学します。ここで富本は、住宅や日用生活品の図案(今日の用語に従えば「デザイン」)を学びます。そして一九〇七(明治四〇)年には、上野公園で開催された勧業博覧会に処女作となる《ステーヘンドグラツス圖案》を出品しました。しかしこれは、当時の美術学校の教育を反映してか、独創性という点からかけ離れた、英国の美術雑誌『ザ・ステューディオ』に掲載されていた図版をおおかた転写したものでした。卒業製作は、九枚の用紙に図面や透視図やステインド・グラス案などが描かれた《音楽家住宅設計図案》(《DESIGN FOR A COTTAGE》)と題された、音楽家が住むことが想定された英国の田園住宅をテーマにした作品でした。
郡山中学校に在籍していたときに読んだ週刊『平民新聞』は、富本が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年一月二九日付の第六四号をもって、官憲の弾圧により廃刊へと追い込まれました。この新聞を通じてモリスの社会主義に触れていた富本は、その廃刊に接し、どのような思いを抱いたでしょうか。直接そのことを立証するのは難しいのですが、一九〇五(明治三八)年一一月一四日に富本が中学時代の恩師である水木要太郎に宛てて出した自製の絵はがきが残されており、そこから、当時の富本の政治的信条を読み取ることができます。この絵はがきの中央には「亡国の会」という文字が並び、その下の三つの帽子に矢が貫通しています。描かれている三つの帽子は、陸軍、海軍、官僚を象徴するもので、明らかに、当時の国家体制への批判となっています。この年、八月に日露講和会議が開始されると、合意内容に国民の不満は高まるも、陸海軍の凱旋がはじまると、一転して市中は異様な昂揚感に沸き返ります。富本のこの自製絵はがきは、ちょうどこの時期に出されているのです。
のちに富本は、英国留学の動機にかかわって、「留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、……在学中に、読んだ本から英国の画家のフイスラーや図案家で社会主義者のウイリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある」と、述べています。留学中に関心をもった形跡は認められるものの、富本が在学中に「画家のフイスラー」について学習した形跡は認められませんので、英国留学の目的が、デザイナーで社会主義者のウィリアム・モリスの思想と実践に触れることにあったと限定しても、差し支えないと思います。それでは、モリスへいざなった富本が「在学中に、読んだ本」とは、一体何だったのでしようか。当時の美術学校の文庫(今日の図書館)で購入されていた雑誌のひとつに、英国の『ザ・ステューディオ』がありました。それ以外に文庫には、『装飾芸術の巨匠たち』と『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』が所蔵されていました。前者の書籍には、ルイス・F・デイの「ウィリアム・モリスと彼の芸術」と題された論文が所収されており、そのなかで、モリスの社会主義の輪郭も含め、モリスの主要作品が、図版とともに詳しく紹介されていました。後者の書籍は、六つの講演録で構成されています。モリスに関しては、一八八二年の二月にロンドンで行なった「パタン・デザイニングの歴史」(講演五)と、同年の一月にバーミンガムで行なった「生活の小芸術」(講演六)のふたつの講演が所収されていました。講演録であるために、図版は存在しないのですが、この「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」は、現在においてもモリスのデザイン思想を理解するうえでの極めて重要なテクストとなるものです。他方、留学からの帰国後、富本は、「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に寄稿します。この底本となったものが、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』でした。この書籍が在学中に文庫に所蔵されていたことを確認することはできませんが、個人で所有していた可能性も排除できませんので、これもまた、「在学中に、読んだ本」のなかに加えることができるかと思います。いずれにしましても、留学にあたって富本は具体的にどの本を実際に読んだのかを、資料に基づいて明確化することはできません。しかし、その全部か、そのうちの何冊かが、「在学中に、読んだ本」だったことは、間違いありません。こうして富本は、在学中にモリスの思想と実践について独習し、英国留学へ向けての夢を育んでいったのでした。
しかし富本にとっては、この時期に海外へ行くことには別の意味が隠されていました。それは、短い言葉で本人も語っていますが、徴兵から逃れることでした。
『平民新聞』をとおして、モリスの「ユートピア便り」を読み、美術学校に在籍中に、モリスの作品と社会主義の一端を知り、そして自製の絵はがきにみられるように、政治状況への批判をにじませ、さらに、卒業を待たずして海外へ渡航することにより、徴兵忌避の道を選ぶ――これが、富本をして、デザイナーで社会主義者であるウィリアム・モリスの思想と実践に触れるために英国へ向かわせた一連の経緯でした。英国には、美術学校に入学以来親交を深めていた、画家の南薫造が待っていました。富本の南との関係は、オクスフォード時代に知り合うモリスとエドワード・バーン=ジョウンズとの関係に重なります。また学生時代に、富本もモリスも、建築や室内装飾に関心を抱いています。この点も、ふたりに共通しているところです。
一九〇九年二月一〇日、富本を乗せた平野丸は、ロンドンに入港します。桟橋には、一足先に渡英していた南薫造の姿がありました。こうして、富本のロンドン生活がはじまります。すでにモリスは亡くなっていましたが、日々通うヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で富本は、モリスの実作にはじめて接し、強く心を打たれます。
初めて見た時から勿論大變面白いものであると考へて居りましたが、追々と見なれるに連れて、たまらなく面白いと考へました、眞面目な、ゼントルマンらしい、英吉利風な作家の、けだかい趣味が強く私の胸を打ちました1。
その作品は、「刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)」だったものと思われます。また富本は、英国滞在中に、モリスにその源を発する、その後のアーツ・アンド・クラフツ運動の動きを目にしていますし、一方、決して具体的に述べているわけではありませんが、モリスの社会主義についても、このとき調べたことを後年語っています。主として昼間は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で作品のスケッチをし、夜間は、中央美術・工芸学校でステインド・グラスの実技を学び、その間、新家孝正に随行してエジプトとインドを旅し、その地の建築様式について調査も行ないました。英国を出帆し、神戸の地を踏んだのは、一九一〇(明治四三)年六月一五日のことで、ちょうど二四歳になったところでした。
富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に出会わなかったならば、自分は工芸家になることはなかったであろう、と述べています。一方モリスも、大学時代にバーン=ジョウンズと一緒にフランスに行ったとき、アミアン大聖堂をはじめ幾つもの建造物に感銘を受けます。このとき、バーン=ジョウンズは画家に、モリスは建築家になることを決意するのです。
いよいよ帰朝すると、富本のデザイナーとしての模索と実践が開始されます。それではここからは、富本とモリスの諸活動、ならびに彼らの家庭生活を相互に対比するために、「芸術論とデザイン」「詩とカリグラフィー(文字と書)」「建築と絵画」、そして「社会主義と家庭生活」の四つの項目に分けて考察することにします。
(1)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年2月、14頁。