中山修一著作集

著作集7 日本のウィリアム・モリス

第二部 富本憲吉とウィリアム・モリス

第三節 詩とカリグラフィー

すでに述べていますように、一八五八年に、モリスの最初の詩集である『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』が出版されます。その後、苦悩と思索の日々にあって断続的に詩作は続きます。代表的な作品が、『イアソンの生と死』(一八六七年)、『地上の楽園』(一九六八―七〇年)、『愛さえあれば』(一八七三年)、『折ふしの詩』(一八九一年)です。こうしてモリスは、ヴィクトリア時代を代表する詩人として、その名声を確立するのです。

日本におけるモリスの詩の紹介は早く、最初の文献は、一八九一(明治二四)年に博文館から刊行された澁江保の『英國文學史全』で、「第二章 最近著述家」のなかの詩人の項目に「ウ井リアム、モーリス 一八三四年生」62という、名前と生年のみの記載が認められます。そしてモリスが死去した一八九六(明治二九)年には、『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し、次のように報じました。

老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃、思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲報に接せんとは。長く病床にありしウ井リヤム、モリス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開きし程もなく、俄然病革りて去る十月三日彼は六十三歳を一期として此世を辭し、同六日遂にクルムスコット墓地に永眠の客となりぬという。彩筆を揮て文壇に闊歩すると四十年、ロセッテ、ス井ンバルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず、まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり、或は過去の實物保存の為め、また將來社會民福の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ、其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し、併せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶるところあるべし63

ここからこの追悼文は、『地上の楽園』を中心としたモリスの詩の解説が讃美の基調でもってはじまるのです。執筆者は、島文次郎だったものと思われます。さらに一九〇〇(明治三三)年には、『太陽』において上田敏も、ラファエル前派の詩人としてのモリスに言及し、「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の徒なる歌人と自ら稱し、『地上樂園』(一八六八―七〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」64と、短く紹介しました。

その前年の一八九九(明治三二)年に村井知至の『社會主義』が出版されます。「第六章 社會主義と美術」が、モリスの社会主義を紹介した部分です。そこには、モリスは「美術家にして詩人なり、……常に職工の服を着し、白晝ロンドンの街頭に立ち、勞働者を集めて其社會論を演説せり……社会主義者の同盟の首領として、死に抵る迄運動を怠らざりき」65と、書かれていました。こうして富本は、今日にいわれる、詩人にしてデザイナーであり、そして政治活動家であるモリスの姿を知ったものと思われます。しかし、富本がこうした雑誌記事や書籍を確かに目にしたことを根拠づける証拠はなく、また、英国滞在中に詩人としてのモリスに関心をもった形跡も残されていません。そうしたことを勘案しますと、詩に関しては、モリスと富本を結ぶ糸のようなものは、現時点で見出せないのです。しかし、富本が詩作を全くしなかったかというと、そうではありません。断片的ではありますが、人生の節目ごとに「折ふしの詩」を書いているのです。量的には一冊の小さな詩集を編むにふさわしい点数があるのではないかと想像するのですが、ここでは、そのなかから、以下に六点の作品を紹介しておきたいと思います。

英国留学から帰った富本にとっての苦悩は、製作と結婚についてでした。富本は、先人の作品を模倣しない製作を、そして、家父長的な慣習を踏襲しない結婚を強く求めました。製作と結婚にかかわって富本が対峙した、このふたつの苦悩は、過去との決別という、まさしく同一の構造をもったものでした。この詩は、一九一三(大正二)年九月一七日付の南薫造に宛てた富本書簡にみられるものです。

ロクロすれば小さき
画室なりを ママ
女知らぬ馬鹿と云ふ声す
かなしきかなや66

富本は、尾竹一枝との結婚を決意します。日本画家の尾竹越堂の娘である一枝は、同じく日本画家として画壇で知られた存在であり、平塚らいてうの『青鞜』の同人を辞したあとは、自らが主宰する『 番紅花 さふらん 』を創刊し、憲吉は、この雑誌のために挿し絵を提供していました。憲吉は、家族や親族に結婚の承諾を得るために、一九一四(大正三)年九月一七日に東京を発って大阪へ向かいます。東海道を下る夜行列車のなかで、次の詩を一枝に宛てて書き送りました。

明日来る わが一生の
最強の言論 思ひ見つ
君もつよかれ
われも つよかれと
祈りて 眼をとづ67

憲吉は、結婚を間近に控え「落ちつかぬ、さみしさ」に襲われます。以下は、翌一〇月に「新居秋興」と題して憲吉が詠んだ詩です。

忍ばずの池にのぞむ、/小さき家に、/道具なき小さき家に、
拾五になる書生相手に、/ひとり寝むと/蚊帳に入れば、
なさけなや/落ちつかぬ/さみしさ、甚だし

小さく道具なき家に、/寝むものと電氣ひねれば
秋の夜の暗さ、/つめたく心を打つかな68

そして、準備が整い、一〇月二七日にふたりは結婚します。結婚すると、翌年の三月に、憲吉の生まれ故郷である大和の安堵村に居を移します。さらに、理由があって、一九二六(大正一五)年の秋、今度は安堵村から東京の千歳村へ転居します。そして終戦を迎えると、憲吉は、東京に家族を残し、独り安堵村へ帰還するのです。その翌年の一九四七(昭和二二)年の立冬、次第に秋が深まってゆくにつれ、富本に寂寥感が忍び寄ります。このときに書かれた詩が、次の切々たる詩です。

半ば枯れたる荻
風になびき倒れむとして倒れず
あゝ秋風になびく荻
窯なく放浪のわれに似たる
あゝ秋風になびく荻
われに似たる69

この詩のあとに「昭和二十二年立冬 大和國安堵村舊宅にて 憲吉寫並文」の文字列が続きます。この詩片と茶碗の絵は、水原秋櫻子が主宰する句誌『馬酔木』の一九四八(昭和二三)年正月号の巻頭詩に用いられました。富本は当時の自分を「窯なく放浪のわれ」として描き、安堵の枯れかけた荻の、「倒れむとして倒れず」にたたずむ、その姿に己を重ねるのでした。

その後富本は、製作の不便を解消するため、京都に出て、そこで作陶を本格化させます。他方で、民芸派との折り合いがつかず、自らが創設した国画会工芸部を脱会した富本は、新匠美術工芸会(のちに新匠会に改称)を創設します。その機関誌である『新匠』(第参号)に、富本は、このような一片の詩句を寄せました。

強き風よ/新匠を吹け/右より左より
吹く風よりはげしく進む/新匠を見よ
或は蛇行する如く/或は踴進する如く
新匠は進む70

この詩は、国画会や民芸派と袂を分かち、いまや「新匠」の名の下にあって清新な工芸の息吹を鼓舞してやまない富本の頑強な心情を吐露した一作といえるのではないでしょうか。

その後、『日本経済新聞』の「私の履歴書」への寄稿が終了してしばらくすると、「京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三」に新築中であった住まいが完成し、富本とパートナーの石田寿枝はそこへ引っ越しました。新烏丸頭町の借家は、二間ほどの居室と、上絵の仕事をするために増築された別室とからなる、実に簡素な設えでしたので、これをもって、長いあいだの幾分不自由な仮住まいの生活も終わりました。

富本は、新居の庭に竹の植え込みをつくりました。これを眺めていると、一一歳のときに失くした父豊吉のことが、しきりと思い出されるのでしょう、色絵竹模様の角陶板に、次のような自作の詩句を書いています。

新庭に竹を植えたり
六拾五年前、世を去りし/わが父を思はむ爲めなり
拾月の薄日さす庭に/石に腰して微風に動く影を見る
影は植えられたる杉苔と白河砂にあり
太き竹幹は動かず/風にそよぐ竹葉のみ動く
不肖の子われ/七拾歳を越して亡き父を想ひ
動中の静の影を見て楽しむ71

この詩句を富本がつくったのは、一九六二(昭和三七)年の「拾月の薄日さす」日のことでした。その翌年の六月、富本は、安堵村にある菩提寺の永眠の客となるのです。

以上、富本の六作の詩を紹介しました。出典からもわかりますように、富本の自作の詩は、私的な書簡のなかだけでなく、幾つもの雑誌のなかに見出すことができます。また、陶板や箱書きにも、多くの作例がみられるものと想像されます。こうした詩句と、モリスの詩歌とを比較考量することは、私の手に余りますが、いずれの日か、詩学を専門とする研究者によって、検討が進められることを期待したいと思います。

ただ一点、私が気になっているのは、ロマン主義的な詩情と初期社会主義の発生基盤との関係です。両者には、明確な関係があったのでしょうか。もしそのことが立証できれば、富本は、詩人モリスに特段の関心を示さなかったとはいえ、時空を越えて、モリスに倣う詩作を必然のうちに行なったということになるのですが……。

それとも、富本とモリスの詩作は、それぞれ個別の才能にゆだねられるものであり、共通する関係はなかったと判断するのが妥当なのでしょうか。その場合は、富本とモリスの関連性は切り離されたうえで、詩人としての富本の才能に限って、単独に検証が進められることになりますが、そこには、しかるべき新しい富本評価が生まれ出る可能性が残されていると推量されます。その一方で、視点を詩の解釈のみに固定せず、さらに進んで、富本の作陶と詩作とのあいだに存するであろうと考えられる関係性に照明があてられるならば、富本研究の地平は広がり、さらに豊饒なものになるのではないかと愚考します。

それでは次に、カリグラフィー(文字と書)の観点から、モリスと富本の製作活動を見てみたいと思います。カリグラファーのジョン・ナッシュは、モリスのカリグラフィーについて、こう述べています。

一八七〇年から一八七五年のあいだに、モリスが計画し、文字を書き上げ、(全部ないしは一部において)模様を彩飾した作品として、およそ二一点の手稿の本がある。これらのうちのわずか二点が、完成作品となっているといわれている。残りは、未完成の断片や試作の頁として現存する。しかしながら、通常すこぶる繊細で骨の折れるこれらの仕事が実行された時期を見ると、順調にビジネスを成り立たせ、居を移動し、アイスランドへ旅をし、アイスランド語を学んでは北欧伝説を訳し、そして、(とりわけ)妻のジェインと画家のロセッティの関係がもたらした大きな精神的苦痛と折り合いをつけていた時期と重なる。そのことは、モリスの驚くべき活動力が何であったのかを物語る72

モリスがカリグラフィーに関心をもつきっかけは、北欧伝説を読み、翻訳を試みたことによるものでした。ちょうどそのころ、モリスは、『地上の楽園』の執筆に取りかかっていました。そこでモリスは、この翻訳を原文として、その詩集の原稿の大部分を手書きするのですが、このときモリスは、今日にいうところの「ローマン」と「イタリック」に関する五つのスクリプト(手書き文字)を発展させることになります。こうして、カリグラファーとしてのモリスが誕生するのです。

モリスの完全なかたちの手稿本のひとつが、『詩の本』でした。これは一八七〇年の作品で、紙にインクで書かれ、水彩と金箔が用いられています。この本の作成は、ある意味で中世の伝統に倣って、共同作業で行なわれました。エドワード・バーン=ジョウンズ、チャールズ・フェアフェクス・マリ、そしてジョージ・ウォードルの三人が、イラストレイションや装飾の作業で協力しています。完成後、この本は、エドワード・バーン=ジョウンズの妻のジョージー(ジョージアーナ・バーン=ジョウンズ)に贈られました。これまでのモリス研究者のなかにあっては、『詩の本』の作成を、モリスからジョージーへの愛のしるしとみなしたり、後年のケルムスコット・プレス設立の前触れとみなしたりする人も多くいます。

それでは、富本憲吉です。富本が文字に関心を示す早い事例として、英国留学を前にして、卒業を待たずして東京美術学校に提出した卒業製作に見出すことができます。富本の卒業製作は計九点の図面と図案から構成されています。一枚目の透視図で外観が描かれた作品のなかの文字については、カッパープレート体の文字が使用されており、残りの八枚(SHEET 2からSHEET 9)を見ると、SHEET ナンバーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使用されている文字には、その当時の建築図面にしばしば見受けられるような、ローマン体を変形してアウトライン化した文字が用いられています。これがひとつ目の大きな特徴です。もうひとつの特徴を挙げるとすれば、これは一例にすぎないのですが、‘DESIGNED ■ DRAWN BY K・TOMIMOTO’のなかの、‘S’ ‘N’ ‘E’ に関する細部の文字が、あえていえば、いわゆるグラスゴー流儀に倣ってデザインされていることです。そして三番目の特徴としては、本来、■の部分には、‘AND’ ないしは ‘&’ が使われるべきところでしょうが、この箇所に、富本独自のデザイン化された一種のモノグラム(ないしは、マークと呼ばれるもの)が挿入されていることを挙げることができると思います。もっとも、モノグラムやマークそれ自体については、当時のひとつの流行でもあり、『ザ・ステューディオ』のなかにあっても紹介されていた経緯はあります。しかし、いずれにしても、この九点から構成される富本の卒業製作には、多様な文字やモノグラムにかかわる習作が含まれており、総じて、富本にとってこの卒業製作は、まさしく文字デザインの実験の場となっているのです。

後年の富本は、植物の連続模様だけではなく、文字模様にも力を入れています。好んで描いたのが、「風花雪月」や「壽」、それに「春夏秋冬」や「富貴」などの文字でした。一九四九(昭和二四)年の《常用文字八種図》(奈良県立美術館所蔵)のなかで、憲吉は「壽」の文字のデザインについて、このように書いています。

文字を模様として取扱ふ事は随分以前から考へて居た事であるが、それを考へ出すと欧州中世の装飾文字や、若い頃見たカイロ市回教寺院の建物前面に大きく彫られた回教文字に唐草模様を配されたのが頭に来て、全く手も足も出なかった。この寿文字は李朝期織物にあったもので多分古代支那から受けついだものと思はれる。それをヴァリエートしたもので横に長く帯模様にも、左右上下に連続模様にも使用に便利である73

上の引用からわかるように、卒業製作を完成させて渡英した富本は、ロンドン滞在中やそれに続くエジプトとインドにおける調査旅行中に、文字のもつ重みにかかわって、圧倒されんばかりの何か強い体験をしていたのでした。そして、「全く手も足も出なかった」状態を乗り越えて、ようやく晩年に至って、富本作品を特徴づける文字模様が完成してゆくのです。

私の記憶が間違っていなければ、ある資料のなかでリーチは、富本が優れたカリグラファーであることを指摘していました。同じく、富本自身は、ある別の資料のなかで、宮島詠士の書について言及していたように記憶します。しかし、残念ながら、それらの資料が何であったのか、いまになっては思い出せません。いずれにせよ個人的には、詩人のみならず、能書家(カリグラファー)としての富本の姿を、今後、学術的観点に立って浮かび上がらせることもまた、富本研究にとって重要な課題となるのではないかとの思いから離れることはできません。

(62)澁江保『英國文學史全』博文舘、1891年、218頁。

(63)『帝國文學』第2巻第12号、帝國文學會、1896年、88-89頁。

(64)上田敏「『前ラファエル社』及び近年の詩人」『太陽』第6巻第8号、臨時増刊「一九世紀」、博文舘、1900年、180頁。

(65)村井知至『社會主義』(第3版)労働新聞社、1903年、43-44頁。

(66)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、69頁。

(67)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、76頁。

(68)富本憲吉「新居秋興」『卓上』第5号、1914年12月、12頁。

(69)富本憲吉「繪と詩」『馬酔木』第27巻第1号、1948年、ノンブルなし。

(70)『新匠』第参号、1955年、3頁。なお、この詩の末尾に付けられた擱筆日は「1953・1・10」。

(71)『生誕120年 富本憲吉展』(展覧会カタログ)朝日新聞社、2006年、210頁。

(72)John Nash, ‘Calligraphy’, Linda Parry ed., William Morris, Philip Wilson Publishers, London, 1996.

(73)富本憲吉記念館編『富本憲吉の陶磁器模様』グラフィック社、1999年、124頁。