中山修一著作集

著作集7 日本のウィリアム・モリス

第二部 富本憲吉とウィリアム・モリス

第二節 芸術論とデザイン

帰国後富本は、「ウイリアム・モリスの話」を書き、それは、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)と第五号(三月号)に分載されました。この評伝の最後の箇所に、富本の芸術論の端緒を認めることができます。それは、次のようなものでした。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します

この評伝は、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』に依拠するものでした。「ウイリアム・モリスの話」の執筆に際して、ほぼ間違いなく、富本は、この本のなかの次の一節を読んだものと思われます。

いずれにしても、モリスは次のように述べている。「明らかなことは、中世に見受けられたような悲惨さと、私たちが生きるこの時代の悲惨さとでは、本質的に異なっていた。こうした結論は、ひとつの証拠によってひたすら私たちにもたらされることになる。つまり中世は、本質的に 民間 ・・ 芸術[popular art]の時代、つまり民衆芸術[the art of people]の時代だったのである。その時代の生活状態がいかなるものであったにせよ、民衆は、目で見て、手で触れることができる莫大な量の美を生み出していたのであった……」

この一節でヴァランスが引用しているモリスの言説は、自分たちがいま生きている一九世紀という時代が、有閑人に奉仕する芸術がひたすら残り、資本家に加担する芸術が新たに出現し、そして、中世の共同体に存在していた民衆による豊饒な民間芸術がすでに枯渇してしまっている、そんな悲惨な時代であることを指摘している部分です。おそらく富本は、こうしたヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』のなかで描き出されていたモリスの生涯を参照しながら、「民間芸術」ないしは「民衆芸術」という概念と用語法にたどり着いたものと思われます。

それではここで、富本とモリスのふたりの「民間芸術」論を対比してみたいと思います。まずは、「民間芸術」の領域について――。富本は、一九一四(大正三)年の『藝美』に掲載された「百姓家の話」のなかで、こう述べています。

 私の見た處百姓等は立派な美術家であります。特に彼れ等の社會に殆むど國から國に傳へられた樣な形で殘つて居る歌謡、舞踏、織物、染物類から小道具、棚、箱類等を造る木工に至る迄、捨てる事の出來ぬ面白みを持つたものが多い事は誰れも知つて居られる事でしよう。私は此れ等のもの全體に「民間藝術」と云ふ名をつけて、常に注意と尊敬を拂つて参りました

それに対して、一八七七年にモリスは、「装飾芸術」(のちに「小芸術」に改題)と題した講演で、民間芸術(あるいは民衆芸術)に相当する芸術を「日常生活において慣れ親しんでいる事柄をいつでも、いくらかでも美しくしようと努力してきた人びとによって展開される多くの芸術の一団」とみなしたうえで、具体的な例として「住宅建設、塗装、建具と大工、鍛冶、製陶と硝子製造、織物などなどの職業で構成される事実上の一大産業」を挙げています。

それでは、「民間芸術」を実践する、とりわけ家を建てる人については、どう考えていたのでしょうか。富本は、「それ等[民間藝術]のうち彼れ等の住宅は最も力を籠められた主要な藝術品であると考へます。勿論家を建てるのは村の大工ですが、此れも半農者で誰れか家を建てると言はねば矢張り鎌を持つて居る連中で、大工の技術としては實にヒドイものです。その大工と手巧者な中年者と家を建てる百姓、それ等の友達、親類のものが手傳つて屋根も葺けば壁も塗る譯で、大工と云つても大工以外の仕事も致します」と述べています。同じくモリスも、一八七九年の「民衆の芸術」と題された講演において、「[人びとが毎日住んでいた家や、人びとが礼拝をしていた、もはや顧みられることもない教会を]デザインし装飾したのは誰だったのでしょうか……ときにはおそらく、それは修道士、すなわち農夫の兄弟であったであろうし、たいていの場合は農夫の他の兄弟、すなわち、村大工、鍛冶屋、石屋、その他いろいろ――つまり『普通の人』だったのです」との認識をすでに示していました。

モリスは、少数者によって享受される芸術を「民衆の芸術」の講演で、こう断罪しました。「少数者[a few]によって少数者[a few]のために公然と培われた芸術……このような芸術の一派の将来的見通しに多言を費やすのは悔いの種となるでしょう。この一派は……旗印として『芸術のための芸術』というスローガンを掲げています。それは、一見無害なようですが、実はそのようなことはないのです」。モリスによれば、芸術は特定の一部の階層の人にしか理解できない特殊な表現ではなく、普通の人びとが、生きるために製作し、同時に普通の人びとによって生活のなかで使用されるような、まさしく万人のために存在するものでなければなりませんでした。一方「装飾芸術」の講演では、大芸術と小芸術が分離することの危険性を次のように分析しています。

小芸術は取るに足りない、機械的な、知力に欠けたものになり……一方大芸術も……小芸術の助けを受けず、両者は互いに助け合わなかったために、必然的に民間芸術としての権威を失うことになり、一部の有閑階級の人びとにとっての無意味な虚栄を満たす退屈な添え物、すなわち巧妙な玩具[toys]にすぎないものになっている10

一方の富本は、一九一一(明治四四)年の南薫造に宛てた書簡のなかで、「[美術]新報にテコラティブ、アーティスト[装飾芸術家]にもインディビジアリテー[作家の個性]云々と書いておいた」11とも、また、一九一三(大正二)年の『美術新報』に掲載された「半農半藝術家より(手紙)」のなかでは、「繪よりも彫刻よりも、日常自分等の實際生活に近くある工藝品を、ナイガシロにされて居る事に腹が立つ」12とも、述べています。そして、さらに鋭く、一九一七(大正六)年の『美術』に掲載の「工房より」のなかで、モリスと全く同じく「少數人(=少数者)」や「オモチヤ(=玩具)」といった言葉を使って、こうも断言するのです。

今迄の工藝品と名のつくものは只に少數人のために造られたオモチヤの樣なものでないでしようか13

一方、サウス・ケンジントン博物館については、ふたりは、次のように受け止めていました。モリスは同じく「民衆の芸術」の講演のなかで、このように話しています。「私同様に、みなさまの多くも……たとえば、あのすばらしいサウス・ケンジントン博物館の陳列室をお歩きになり、人間の頭脳から生み出された美をご覧になると、驚きと感謝の気持ちで一杯になられたことでしょう。そこでどうか、これらのすばらしい作品が何であり、どのようにしてつくられたのかを考えていただきたいと思います」14。そして、それに応えるかのように富本は、一九一二(明治四五)年の『美術新報』の「工藝品に關する手記より(上)」において、「繪と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンジントン博物館で、その考へで並べてある列品によつて、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります」15と、隠すことなく、この博物館への「驚きと感謝の気持ち」を告白するのです。(富本が訪問したときは、サウス・ケンジントン博物からヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へと、すでに名称が変更されていましたが、いまだ人びとのあいだでは、サウス・ケンジントン博物館という旧称も使われていたようです。)

以上のように見てゆきますと、モリスと富本の言説のなかに、幾つもの類似した認識や表現を見出すことができます。疑いもなく、ふたりの芸術観や製作態度は、それほどまでに時空を超えて重なり合っていたのです。これは、産業革命を経て近代社会へと向かう両国の文明史的発展段階における共通の通過点がもたらしたひとつの必然的な結果であるとみなすことができる一方で、明らかに富本のモリス受容の一端を示すものでもありました。

驚くべきことに、モリスが死去していまだ二〇年を経過しない早い段階にあって、富本の芸術論は、モリスのそれと多くの点で肩を並べていたのでした。そして、もうひとつ注意を払うべきことは、モリスの芸術論の中心となる民間芸術(あるいは民衆芸術)の存在意義について富本が到達したのは、柳宗悦の民芸論に先立つ、一〇年以上もの前のことであったということです。のちに柳が唱道することになる民芸運動に対して一定の理解を示すうえでの、富本にとっての論理的実践的基盤が、すでにこの段階において確たるものとして形成されていたのでした。

ところで、柳が、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司との連名でもって「日本民藝美術館設立趣意書」を発表するのは、一九二六(大正一五)年のことでした。しかし、いつ、どのような経緯で富本が署名したのかは、富本の書き残したもののなかには見当たらず、それは判然としません。いずれにしましても、柳が民芸に共感を覚えるこのころの富本の芸術論は、もはや民間芸術への固執に止まるものではありませんでした。それは後述にゆだねます。

「工藝品に關する手記より(上)」において、「工藝品と名の付く、繪彫刻以外の美術品にも、繪や彫刻に拂ふ敬意と異はない程度の貴重さを持つて向はねばならぬ事は勿論と考へます」16と主張する富本は、すでにこのとき、明らかに、絵画も彫刻も工芸も同等の価値をもった芸術であることを確信していました。かといって工芸は、一部のお金持ちの所有欲や目利きの鑑賞眼を満たすためにあるのではないこともまた、同じく確信していました。「半農半藝術家より(手紙)」における、「自分には出來ないが、出來れば模樣を繪や彫刻と同じ樣に自分のライフと結び付けて書いて見たい」17という言説からして、富本が考える工芸や模様は、普通の人びとの日常の生活のなかから立ち現われ、同じく生活のなかに息づくものでなければならなかったのです。たとえば、農村部において伝承されてきている「民間藝術」や、いまだ文明化されていない土着の人びとがつくり出す芸術のように――。

明らかに富本の芸術思想は、すべてを西洋の規範にゆだねているわけではありませんし、すべてを日本の伝統につなぎとめようとしているわけでもありません。富本は、一方で、はるかに先行するモリスという巨人の哲学と実践につきながら、その一方で、継承されえるべき「民間藝術」という土着性を援用しつつ、西洋の絵画や彫刻に認められるような表現上の諸価値を、日常生活という現実世界における製作と使用の形式である工芸や装飾美術にも等しく見出そうとしているのです。これが、帰国から、バーナード・リーチと知り合い、本格的な作陶の道に入る前後までの、富本憲吉の芸術論の核心部分となるところでした。

「民間藝術」の発見に加えて、もうひとつ、この時期の富本にみられる、英国留学の成果を挙げておきたいと思います。それは、「分業」の発見でした。すでに述べていますように、富本の「ウイリアム・モリスの話」は、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を参照して書かれた評伝でした。「ウイリアム・モリスの話」は上下の二回に分けて『美術新報』(一九一二年の二月号と三月号)に掲載されますが、両号をあわせて二〇枚の図版が転用されています。それぞれの図版にはキャプションもつけられており、おおかたのキャプションには、作品名に続けて、「(ウイリアム)モリス案」「モリス事務所製作」「モリス下圖」という製作にかかわるデータが記載されています。これは、ヴァランスのキャプションをそのまま翻訳したもので、それぞれに対応する原綴は、‘DESIGNED BY WILLIAM MORRIS’ あるいは ‘SKETCH DESIGN BY WILLIAM MORRIS’、‘EXECUTED BY MORRIS AND CO.’、‘CARTOON BY WILLIAM MORRIS’ です。つまりここで重要なことは、モリス作品と呼ばれるものは、多くの場合、その作品のデザインやスケッチや下図がモリスから提供され、それに基づいて「モリス事務所」が製作して生み出されたものであるということです。

富本自身、晩年にこう述懐しています。

 私は工芸の図案については音楽の場合に楽譜をつくる作曲家と、実際に楽器で演奏するプレーヤーとがあるのと同じような関係を考えているんです。……私なんか模様をこ[し]らえる側のコンポジ[シ]ョンのほうに固執しているんじやないか18

つまり、富本はここで、音楽における作曲家と演奏家の関係に着目したうえで、自分は、どちらかといえば演奏者ではなく、作曲家の領分に位置していることを認めているのです。富本は、こうもいっています。

私の知って居る約五十年前の英国では、既に図案者と製作者との名が別々に記されている事が普通であった19

おそらく富本のこの言葉のなかには、「(ウイリアム)モリス案」「モリス事務所製作」「モリス下圖」という、デザインと実製作とにかかわるヴァランスのキャプションにおける使い分けが念頭にあったものと思われます。ここで注意を払わなければならないことは、こうした早い段階で、デザイン(図案や計画や設計を含む)と実製作との分離、つまりは分業に対する理解が、富本のなかに生まれていたということです。かかる認識は、手という手段のなかにあってデザインと製作が一体化される工芸から、機械という手段を通してデザインが実体化されるインダストリアル・デザインへの原初的萌芽を、同時に含みもつものでありました。

今日では、‘Morris and Co.’(正式には ‘Messrs. Morris and Co.’)に対しては、「モリス商会」という訳語が使われるのが一般的でありますが、富本は、この用語をキャプションでは「モリス事務所」と訳し、一方本文においては「モリス圖案事務所」という訳語もあてています。おそらく、このことと、「ウイリアム・モリスの話」の発表から二年後の一九一四(大正三)年に美術店田中屋内に本人が設立した「富本憲吉氏圖案事務所」とは、決して無関係ではなかったものと思われます。こうして、今日的表現に置き換えれば、「富本憲吉デザイン事務所」が誕生したのでした。

八月二五日、美術店田中屋が発行する『卓上』第三号に「富本憲吉氏圖案事務所」の広告がはじめて掲載されました。これには、「來る九月一日から富本氏の圖案事務所を當店内に設置し、各種圖案の御依頼に應じます」と案内されています。加えて、製作品目として、印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案が挙げられていました。

この「富本憲吉氏圖案事務所」が、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」(のちの「モリス商会」)に倣ったものであることは、ほぼ明白です。エドワード・バーン=ジョウンズの娘婿で、モリスの伝記を執筆したJ・W・マッケイルは、その本のなかで、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」の設立に際して作成された趣意書に言及していますが、以下は製作品目に関する箇所の引用です。

一.絵画かパタン作品による壁面装飾。あるいは、住宅や教会や公共建築に用いられるような、もっぱら配色による壁面装飾。

二.建築に用いられる彫刻一般。

三.ステインド・グラス。とりわけ壁面装飾との調和を考慮したもの。

四.宝石細工も含む、すべての種類の金属細工。

五.家具――デザインそのものが美しいもの、これまで見過ごされてきた素材が適用されたもの、あるいは、人物画なりパタン画なりが結び付けられているもの。この項目には、家庭生活に必要とされるすべての品々に加えて、あらゆる種類の刺繍、押し型皮細工、これに類する他の素材を用いた装飾品が含まれる20

比べてみてわかりますように、「富本憲吉氏圖案事務所」と「モリス・マーシャル・フォークナー商会」における営業品目に、大差はありません。富本が目指したのは、まさにモリスのデザイン活動に就くことでした。この時期富本は、こういっています。

 工藝家にして繪畫を談じたるを、卑下したる口調を以て批評したる人あり。詩人にして哲學を談じたりとて笑える類か、われはむしろ詩人にして政治を知り財政を論じ得る人を待つものなり21

ここで富本がその出現を待ち望んでいる、「詩人にして政治を知り財政を論じ得る人」とは、どのような人でしょうか。おそらくこのとき富本には、詩人にして政治活動家であり、モリス商会のれっきとした経営者でもあった、デザイナーのウィリアム・モリスのことが念頭にあったものと思われます。しかし富本の目からすれば、世の美術家と批評家の大多数は、「工藝家にして繪畫を談じたるを、卑下したる口調を以て批評したる人」たちでした。ましてや、詩人とデザイナーと政治活動家と企業経営者のすべての側面がひとつとなって、ひとりの人間のなかに凝縮して宿る――そのようなことが理解できる人は、この時期の日本にあっては、皆無といっていいほど、限られていたものと思われます。

そうしたことが、モリスと富本の明らかな違いとなって現前化します。それはひとえに、協同者の有無にかかわることでした。『美術新報』主筆の坂井犀水(雪堂)や美術店田中屋のような、よき理解者には巡り会うことができましたが、残念ながら、富本の周りには、製作を協同して行なう芸術家の仲間がいませんでした。それから六年が立った一九二〇(大正九)年に執筆された「美を念とする陶器――手記より」のなかで、富本は、次のような言葉を漏らします。

 ウィリアム・モー(ママ)リスにつき私の最も関心する處は、彼れのあの結合の力、指揮の力である22

この言葉は、モリスに倣った実践形態が富本にとっての理想の姿であったにもかかわらず、しかしそれがいかに困難であるものかを示す語句として理解することができます。富本のいう「結合の力、指揮の力」は、ここでは、モリスのいう「フェローシップ」に置き換えて考えることができるにちがいありません。モリスの哲学と実践によれば、人と人とが人間的に結び付いて成立する共同体にあっては、「フェローシップ」は、芸術的にも政治的にも、極めて重要な原理をなすものでした。すでにモリスは、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である。つまり、フェローシップは生で、その欠如は死なのである」23ことを表明していたのでした。

帰国から「富本憲吉氏圖案事務所」の設立までの四年間にあって、富本は、木版画、捺染、刺繍、織物、吉野塗、楽焼などの幾つもの工芸分野において実践していました。しかしこの間、富本を悩ませたのは、自分のデザインが過去の作品に倣うものであり、個性や独創性が欠如していることでした。そのことに気づいた富本がたどり着いた造形の原理が、「模樣より模樣を造る可からず」というものでした。これは、先人によってつくられた模様や、雑誌などに掲載されている模様の踏襲や模倣を強く戒める言葉です。富本の生涯の道しるべとなったのが、この警句でした。のちにそれは、写しへの批判、骨董趣味への批判、そして民芸運動への批判として立ち現われてゆきます。

「富本憲吉氏圖案事務所」が設立されたのが、一九一四(大正三)年の九月です。そして、翌一〇月二七日に富本は、日本画家の尾竹越堂の長女であり、平塚らいてうによって創刊された『青鞜』のかつての同人でもあった尾竹一枝と結婚します。そのとき憲吉は二八歳、一枝は二一歳でした。しかし、次の年の三月に、二人は東京を離れ、憲吉の生まれ故郷の安堵村へと転居します。なぜこのようなことが起こったのでしょうか――資料に基づいて正確にそのことを実証することは困難ですが、ひとつの可能性として、一枝のセクシュアリティーにかかわる問題が、そこには潜んでいたものと思われます。つまりこの転居には、東京という都会を逃れ、トランスジェンダーである一枝の落ち着きのない心を誘発しかねない才能ある女性や美しい女性があまり住んでいない田舎へ移動することによる、一種の転地療法が企てられていたのではないかと、推量されるのです。

いずれにせよ、こうして「富本憲吉氏圖案事務所」は実質的な活動をしないまま、幕を閉じてしまいました。安堵村に帰還した富本は、ここに窯を築き、楽焼から離れ、本焼きの丈夫で実用的な陶器づくりへと入ってゆきます。モリスもそうでしたが、富本も全くの素人からの出発でした。そしてまた、いつの日か、ほかの工芸の分野に手を染めることも夢見ていました。富本は、後年こう書いています。

私は[初めて陶器に親しみ出した]その頃から、染物や織物や木工の事或は家具建築の事について忘れた事なく、陶器の一段落がすめば又、別の工藝品に手を染めて見たい考へで居た。命が短く恐らく望みだけ多く持つて私は下手な陶器家として死んで行かねばならぬ運命にあるだらう。それでもその位決定的になしとげ得ぬ望みであつても、私はその望みを捨てずに此の儘で進むで行く24

この言説から推し量ることができるように、たとえ具体的な活動をなしえないまま、すぐにも自然消滅したとはいえ、この「富本憲吉氏圖案事務所」こそが、富本のデザイナーとしての原点となるものであり、事務所開設にあたって見受けられたあらゆる工芸領域へ向けての製作願望が、晩年に至るまで、生き生きたるものとして富本の内面に残存していったようです。しかし、結果としては「なしとげ得ぬ望み」となる運命にありました。その意味で、これに関する富本の志は、道半ばで潰えてしまったということができます。

もうひとつ、富本にとって「なしとげ得ぬ望み」となった志があります。それは、安価で丈夫な陶器の量産という問題でした。亡くなる一年前の一九六二(昭和三七)年二月に『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」に、富本はこう書き残しています。

 私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを広く大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた25

この富本の言説によれば、「安価な複製」への強い意欲は、モリスの影響によってもたらされたようです。確かにモリスは、少数者のための教育も少数者のための芸術も望みませんでした。しかし必ずしもモリスは、「安価な複製」を唱道したわけではありません。すでに引用で示していますように、モリスは、自分たちが生きる一九世紀英国のヴィクトリア時代の悲惨さを乗り越えるために、「目で見て、手で触れることができる莫大な量の美を生み出していた」中世の民衆芸術への回帰を唱えました。しかし富本の考えは、一九世紀から二〇世紀へと向かう世紀転換期における日本の物質文化の悲惨さを乗り越えるために、日常用陶器の「安価な複製」へと向かいました。ともに共通しているのは、産業革命後のデザイン改革の一環という点です。

安堵村での築窯以降、富本が目指していたものは、安くて丈夫な陶器を大量に生産することでした。しかし、いきなりそれができるわけではありません。それには、資金、設備、協同者、技術といった克服すべき多くの問題が介在していました。陶技についての知識も技術ももたない初心者の富本にとって、すべてがはじめての体験であり、試行錯誤の連続でした。これよりのち富本は、孤高のうちにあって、白磁から染付へと、そして後年には、色絵から色絵金銀彩へと階段を上ってゆきます。別の言い方をすれば、富本にとって、これしか方法はなかったともいえます。こうして富本は、一面的には、その努力の結果、日本を代表する「陶芸家」として大成してゆくのです。しかし、ここまでの階段は、あくまでも「安価な複製」へ向けての試行のための前段にすぎません。富本がたどった約半世紀の陶工人生の道筋を概観しますと、残念ながら道半ばにして、「安価な複製」という最終目標を完全に達成することはありませんでした。富本は、『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」を、こう締めくくっています。

 若いころからの私の念願であった“手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう”という考えは、いろいろな事情で思うにまかせないが、いま私は一つの試みをしている。

 それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといった日用雑記を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである。……すでに市販もされて、なかなか好評だということだが、価格が私の意図するほど安くないのが残念である。だが、これも、まだ緒についたばかりだから、やがて、コストダウンの方法が見つかるかもしれない26

同じく最晩年に、富本は、後進に向けて書いた「わが陶器造り」のなかで、次のような一節を残しています。

美術家にいたっては食器のような安価品は自分ら上等な美術品を焼くものには別個の問題としているようにみえる。しかし公衆の日常用陶器が少しでもよくなり、少なくとも堕落の一途をたどりゆくのを問題外としておいてそれでいいのだろうか。私は大いに責任を感じる。一品の高価品を焼いて国宝生まれたりと宣伝するよりは数万の日常品が少しでもその標準を上げることに力を尽す人のいないのは実に不思議といわねばならない27

以上に挙げた三つの引用文から明らかなように、富本がその生涯にあって身を置いた「陶器造り」の世界で目指したことは、「一品の高価品を焼いて国宝生まれたり」とする「純正美術に近い」作品の製作ではなく、「公衆の日常用陶器が少しでもよくなり」「その標準を上げることに」心血が注がれた、「応用美術とか工業美術とかいう」領域に属する量産品への挑戦だったのです。具体的な言葉に置き換えるならば、「私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといった日用雑記を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうこと」だったのです。実にうまく富本は、ここにデザインのモダニズムの内実を語っています。これらの言説からうかがえることは、富本は、紛れもないモダニストのデザイナーだったということです。

しかし、これまで富本の業績は、大輪の花を咲かせた「芸術家」の部分が主として喧伝されてきました。そのため、富本の真の志は、その陰に隠れてしまった観がありました。なぜそのようなことが起こったのでしょうか。それは、モリスも富本も否定していたはずの「絵画や彫刻のような大芸術」を高く見て、「工芸や装飾美術のような小芸術」を低く見る、いまにあっても支配的なわが国における旧弊で偏向した芸術観によるところが大きかったと思われます。富本本人が主張する芸術観に従っていま回復しなければならないことは、「芸術家」としての大成の道ではなく、富本が生涯を通じて求めてやまなかった「安価な複製」へ向けてのデザイナーとしての苦難の道ではないでしょうか。この部分に目を覆うようでは、富本の真の業績の理解はおろか、日本における工芸からインダストリアル・デザインへと向かう近代の歩みについての理解もおぼつかないものとなってしまいます。そこで以下に、存命中に完結せず、富本の未完のプロジェクトとなってしまった「安価な複製」について書いておきたいと思います。ここで私が念頭に置いているのは、モリス以降の英国におけるアーツ・アンド・クラフツ運動からデザインの近代運動へと至る経緯と、富本個人におけるそれからそれへと至る経緯の類似性です。

富本が「富本憲吉氏圖案事務所」を開所したのは、一九一四(大正三)年のことでした。この年、英国にあっては、ドイツ工作連盟を手本として、デザイン・産業協会が発足しました。デザイナーや工芸家、教師や企業人などによって構成され、「新しい目的をもった新しい団体」を標榜するこの組織は、アーツ・アンド・クラフツの理念と実践から巣立ち、二〇世紀という新しい時代にふさわしいデザインを模索することがもくろまれていました。こうしてこの時期、英国におけるデザインの近代運動が開始されたのでした。英国におけるデザインの近代運動の主要テーマは、社会構造の変革と、それに伴う視覚言語の新たな創造でした。求められたのは、これまでのような一部の裕福な特権階級の人たちのためのデザインではなく、多数の普通の人びとが享受できるデザインでした。そのために、過去の特定階級の視覚言語として機能していた歴史的装飾が否定され、その一方で、少量生産としての限界性をもつ手工芸が片隅へと追いやられました。こうして、万人にとって受容可能な表現形式が模索されるなか、視覚的な装飾に代わって物理的な機能が重視され、他方で、さらにこの時期、機械を生産手段とする量産の問題が、論点として浮上してきたのでした。

英国におけるデザインの近代運動は、第一次世界大戦の勃発とほぼ時期を同じくして、その幕を開けることになります。しかし、最初のおよそ一〇年間は、それまでのアーツ・アンド・クラフツの強い影響が残り、後ろへももどれない、かといって前へも進めない、まさに沈滞期にありました。一九二六年版の英国の美術雑誌『装飾美術――ザ・ステューディオ年報』を見てみますと、「今日の家具と銀製品」と題された評論文があり、そのなかに、デザインの近代運動の黎明を告げるような、次の一文を読むことができます。

 確かにうまくつくられてはいるが、古い家具の模倣では、ほとんど本質的な価値を備えているとはいえない。……

 すでに変化の兆しがある。国中が、偽造された家具や骨抜きにされた過去の作品の模倣であふれかえっている。しかし、そうしたやり方に対して、知的な人びとのあいだでは、嫌悪感のようなものが確かに生まれつつあり、何か動きが始動するのに、そう時間はかからないかもしれない。もし変化が起きるとするならば、そのときの新しい流儀は、ヴィクトリア時代の家具を模すようなかたちをとることはないであろう、といったことが期待されているのである28

この評論文が発表されたのは一九二六年です。モリスが亡くなって、ちょうど三〇年が経過していました。英国にとってのこの時代は、一九世紀からのアーツ・アンド・クラフツの伝統が徐々に衰退しつつも、しかしいまだにモダニズムが明確に出現していない、そのような過渡期の重苦しい時期にあたり、オランダのデ・ステイルやドイツのバウハウス、フランスの純粋主義といったような、大陸における近代運動の高まりからすれば、明らかに英国は大きな遅れを余儀なくさせられていたのでした。そうした遅延を解消し、英国の近代運動に明快な指針を提供するうえで、極めて重要な役割を演じたのが、一九三四年に刊行されたハーバート・リードの『芸術と産業――インダストリアル・デザインの諸原理』でした。そのなかでリードは、モリスとその追従者たちについて、こうも決然と断罪したのです。

 今日われわれがモリスの名前と業績を思い浮べるとき、そこに非現実感がまつわりつく。こうした非現実感は、彼が設定したそのような目標が間違っていたことに起因しているのである。……

 私は、……今日にあってはモリスも、機械の不可避性を甘受するであろうと信じているのであるが、ところが、失われた主義主張を取りもどすための戦いを起こそうとしている昔からの彼の弟子たちが、いまだに見受けられるのである29

リードは、モリスとその後に続くアーツ・アンド・クラフツ運動が理想に掲げた、手工芸の美の宝庫である中世への回帰を否定し、現代社会における「機械の不可避性」を主張したのでした。

富本が展開した近代的な思考と行動は、「富本憲吉氏圖案事務所」の設立を挟んで、その前半は、モリスのデザイン活動に極めて類似した傾向を示しますが、後半の道筋は、モリス没後の、英国を含むヨーロッパ諸国におけるデザインの近代運動の推移とほぼ合致します。

「富本憲吉氏圖案事務所」を閉じて、東京から大和の安堵村に富本夫婦は帰還します。そして、ここに本窯を築きます。安堵村での活動期間中、富本の脳裏を占めていたのは、次のようなことでした。一九一七(大正六)年の言説です。

 大仕掛に安いものを澤山造るには可なりの資金が必要であります、私は今その資金を何うすれば良いか、せめて陶器だけでも何うにかして見たいと思ひますが私の貧しい財産では一寸出來兼ねます。若し私の望みが少しでも達せられて安い陶器で私の考案模樣になつたものが澤山市場に現はれて今ある俗極まる普通陶器と値でも質でゞも戰つて行ける日があるならば大變に面白いと思ひます。私は今、日夜その事を思ひつゞけます30

続く、一九二六(大正一五)年の秋に、富本一家は安堵村を出て、東京の千歳村へ移住し、築窯します。窯出しのときには、多くの知人や友人でにぎわいました。そのなかに、日本画家の小倉遊亀がいました。晩年小倉は、こう回顧しています。

 大分前にきいたことであるが、富本憲吉先生が「使って非常に使いよいと思う器はね、形も非常に美しいよ」それからまた、「これはその作家からきいた話だが、もっとも性能のよい機械を作ってゆくと、形も美的になってしまうということだ」と伺った覚えがある。工芸品や機械までがそうだということは考えさせられる31

明らかに富本は、工芸品や機械の美しさは性能や機能に由来することを指摘しているのです。この時期富本が挑戦していたのは、量産陶器の試作的実践に止まるものではありませんでした。小倉が耳にしたように、あわせて富本は、この両大戦間期にあって別の課題にも挑戦していたのです。それは、モダニストとしてのデザイン思考のさらなる展開と深化にかかわるものでした。それではここで、その一端について見ておきたいと思います。

轆轤で形をつくります。そうして出来上がった二、三〇個の皿や鉢や壺を戸外の干し台の上に一列にならべます。

そのうちから最も形の整った約三分の一を白磁に選ぶ。次の三分の一を彫線や染め付けに用いる。最後の三分の一を色絵の素地とする32

その理由は、「染め付けや色絵は、いわばほかに見どころがあり、形の欠点を補うことができるが、白磁の形は、いっさいゴマカシのきかない純一のものでなければならないと考えている」33からにほかなりません。富本は、白磁の美しさを、人間の裸体の美しさになぞらえます。

 模様や色で飾られた衣服を脱ぎすて、裸形になつた人體の美しさは人皆知る處であらう。恰度白磁の壺は飾りである模樣を取り去り、多くの粉飾をのぞきとつた最も簡單な、人で言へば裸形でその美しさを示すものと言へよう。……私は白磁の壺を最も好んでいる34

このように、いっさいの模様や彩色を排除した、純粋な形態の美しさだけで成り立つ白磁に、富本は心を奪われます。白磁同様に、全く無駄のない美しさをもったものが、確かに富本の少年時代にありました。それは時計という機械でした。

 私は時計の裏をひらき機械を見ることを一つの楽しみとしてゐる。今はあまりやらないが、少年時代にはこのことに熱中したあまりに時計師にならうと本氣に考へたものだ。……私が少年であった時代には勿論、飛行機も自動車の玩具もなく、手に持つていじることの出來たものと言えへば、この時計だけであつた。……もし私の現在が少年期であつたなら、私は自動車のエンヂンを楽しみ、その美しさに心をうばはれてゐよう35

すべての造形美術が、時計や飛行機や自動車のような機械のもつ美しさに倣うとするならば、美というものは、装飾という美術的要素に由来するのではなく、その形態に必要不可欠な構造という工学的要素から発生することになります。富本は、こう明言するのです。

 今私は、建築及び工藝を通じて、必要缺くべからざる構造が必然的に美をうむと言う理論の根本的な問題に達した。すくなくとも装飾は第四第五次的のものであつて、殆んどすべての既成造型美術に對して感興をひかなくなつてゐることは本當である36

これこそ、まさしくモダニズムの論理です。富本がこの論理に到達する以前にあっては、「模樣より模樣を造る可からず」37とも、「繪は繪の世界、彫刻は彫刻の世界、模樣も亦それ特別な世界」38とも、いっていました。つまりは、「模様」の絶対的存在性を信じ、その刷新に日々努力を重ねてきていたのでした。しかし、いまここに至って、構造そのものがまさしく美であり、その観点からすれば「模様」や「装飾」は無意味なものと化し、それゆえに、それらはすべてはぎ取らなければならないことを自覚するのです。おそらく、社会制度の変革も同時に起きることが想定されていたのでしょうが、まさしく富本のデザイン思考の進化のなかにあって、視覚制度にかかわる大きな変革がいまこの時点で起きているのです。ここに、アーツ・アンド・クラフツから離れてモダニズムへと向かう革命的陣痛を見ることができます。富本ははっきりと、こうも言い切るのです。「装飾の遠慮と云う語が建築にあるが、装飾の切り捨てを私は要求する」39

それでは、美と用途の関係については、どう考えていたのでしょうか。それについて富本は、「陶器に詩はない、然し實用がある。美も用途という母體によつて生み出された美でない限りは皆嘘の皮の皮といふ感がする。用途第一義」40を唱えます。明らかに、機能主義に立っています。一方、機械についてはどうでしょうか。

古い道具時代から研究され發達し切つた陶器といふ技術が、今の機械時代の實用工藝品としては見捨てられ過去のものとして扱はれるのもさう遠くはないと確信する、私はさう信じて私の道を進める41

富本の展望するところが、工芸からインダストリアル・デザインへと向かっていることは、明瞭です。このようにして、富本のモダニストとしての思想形成がなされてゆきました。

 所謂趣味ある陶器が床や棚に列び、讀む書物、着る衣服から室までを、現代のものを使はずに金にあかし心を勞してよせ集めた古いもので飾りたてて住む人がある。この種の人々に限つて、味といふことをやかましくいふ。私より見ればこれこそ憫むべき俗物の一種であると斷定する。現代を本當に考へるならその人のいひ望む工藝の殆どすべては死んだ殻に同じく、決してこの現代に生きてはをらぬことを知るであろう42

死んだ古い殻に横たわるのか、それともこの真実の現代に生きるのか――この時期、富本が選び取ろうとしていた世界は、明々白々、いうまでもなく、後者の世界でした。

ル・コルビュジエの『新しい建築に向って』の原著初版がフランスで出版されたのが一九二三年で、フレデリック・エッチャルズによるフランス語から英語への翻訳書の初版がロンドンで刊行されたのが一九二七年のことでした。この時期、『ザ・ステューディオ』を愛読していた富本が、もしこの本も目にしていたとするならば、富本を魅了したのは、次のような一節だったかもしれません。「量産住宅」の章は、次の語句ではじまるのです。

 偉大な時代がはじまっている。

 新しい精神が存在する。……

 私たちは大量生産の精神を創り出さなければならない。……

 もし、住宅に関する死せるすべての観念を心の底から葬り去り、批判的で客観的な視点からこの問題を眺めるならば、私たちは、「住宅-機械」、つまりは量産住宅へとたどり着くであろう。それは、私たちの生存に随伴する作業用の道具や器具類が美しいのと同じように、健康的で(道徳的でもあり)、そして美しい。

 それはまた、厳格で純粋な機能的要素に対して芸術家の感性が加わるとき、全く生き生きとして美しい43

一九二〇年代から三〇年代にかけての英国にあっては、モリスの思想と実践に影響を受けたアーツ・アンド・クラフツの限界を乗り越え、新しい近代精神に誘発されたデザインの近代運動が展開されていました。つまり、家具、陶器、織物、印刷物などの旧来の工芸は、手から機械へと、その生産手段が置き換わりながら、そのための新しいデザインの模索が進行していたのです。しかしその一方で、旧来の工芸品は、生活用品から美術作品へと、その目的を変えて生き残り、新たな別の道を選択しようとしていました。

そうした状況下にあって、ウェスト・エンドの多くのギャラリーは芸術家としてのステューディオ・ポター(個人陶芸作家)に着目し、機械生産の近代陶器とは別の相に属するステューディオ・セラミック(個人陶芸作品)を積極的に取り扱いはじめていたのでした。そのなかの代表的なギャラリーのひとつが、ボザール・ギャラリーでした。『二〇世紀英国の工芸』の著者のターニャ・ハロッドは、こう書いています。

ブルートン・プレイスにあったフレデリック・レッソーアが経営するボザール・ギャラリーは、短い期間ではあったが、とりわけ陶器に寛大な姿勢を示した。……バーナード・リーチは一九二八年と一九三三年に展覧会を開いたし、一九二九年には彼の日本の友人である河井寛次郎が、そして、一九三一年には、リーチと富本憲吉が合同展を開催した44

このリーチとの合同展のための富本の渡英は実現しませんでした。どのような作品が展示されたのかも、その全容は正確にはわかりませんが、おそらくはそのときのものと思われる作品が、現在ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に収蔵されています。それは、深皿(ディッシュ)、壺(ジャー)、平皿(プレイト)の三点です。博物館の所蔵番号およびクレジットから判断して、深皿と壺は一九三九年に現代美術協会によって寄贈されており、平皿については、寄贈者名がなく、一九三一年の所蔵を表わしていますので、展覧会の会期中にこの博物館が直接購入したものと思われます。深皿は土焼芍薬模様で、壺は土焼刷毛目鉄絵模様、平皿は「曲る道」模様の染付の磁器です。富本は、若き日のイギリス留学中、毎日のようにこの博物館に通っては、展示作品のスケッチをしました。ボザール・ギャラリーでの二人展で、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が「曲る道」を購入したことは、富本にとって格別の喜びとなったものと思われます。

この時期柳宗悦は、一九二五(大正一四)年に、雑誌『木喰上人之研究』に研究成果を寄稿し、翌年(一九二六年)の四月には、「日本民藝美術館設立趣意書」を公表し、九月には地方紙『越後タイムス』に「下手ものゝ美」を発表します。また、一九二七(昭和二)年に大熊信行の『社會思想家としてのラスキンとモリス』(新潮社)が世に出ると、柳は、書評でこう書きました。

 私は最近多くの悦びと尊敬とをもって大熊信行氏の近著「社會思想家としてのラスキンとモリス」とを讀了する事が出來た。……

 何人も今日ラスキン、モリスの考へに、考へを止める事は出來ないであろう。(私もその一人である)。しかし何人も彼等の偉大な精神が見ぬいた社會の正しい目標について、思慮を拂はずして自らの考へを進める事は出來ないであろう。私達は幾多の批判を彼等の上に加へるべき資格を有つてはゐるであらうが、同時に尊敬をもつて彼等を顧みるべき義務と愛慕とを持つてゐるのである。こうしてこの事實をこの著書程われわれによく示してくれるものは稀であろう45

この書評を読む限りでは、柳は、モリスを尊敬の対象とこそすれども、その思想と実践に倣うつもりはなさそうです。英国のアーツ・アンド・クラフツ運動の日本での後継が民芸運動であるといえないのも、この書評の言説から明らかです46。実際のところ、その二年後の一九二九(昭和四)年に柳は英国を訪れますが、そのときの数箇月の滞在期間中に、〈ケルムスコット・マナー〉を訪問した形跡はあるものの47、本格的にモリスを研究したり、調査したりした形跡は残されていないようです。ここからも、モリス評価を巡る富本と柳の見解の相違が浮かび上がってきます。

柳がはじめて富本宅を訪問したころの様子を、晩年富本は、以下のように回顧しています。この箇所では、モリス評価についてではなく、機械生産の妥当性についての論議が回想されています。

その時分に私がおぼえておりますのは、柳君に向って、君が民芸は工芸の一部だというのなら承認しよう、しかし全部の工芸を民芸だけにしてしまうということには不賛成だ。私は手の工芸が、水が下に流れていくように、機械になっていくのをせき止めるようなことはだめだ。もし君がこれから民芸をどんどん盛んにしていくと、その流れに対してうしろで戸を押しているようなものだ、その押し手がなくなるとさっと流れてしまう。手の工芸といえども機械生産を認めながらやらなければいかぬ、これが私の考えだった48

富本と柳のあいだの見解の相違は、単に機械の問題だけではありませんでした。個性や個人主義といった問題についても、見解が異なっていました。民芸論は、没個性、没個人の意義を強調するものでした。こうしたことが背景としてあって、富本が創設し、一九二八(昭和三)年から公募が開始された国画会工芸部では、その後、極めて変則的な運営が強いられるようになります。それは、立場や考え方が異なる民芸派の人たちの参入に起因するところが大でありました。『国画会 八〇年の軌跡』には、このように記述されています。「ここに、もう一人工芸部に大きな影響を及ぼしたのが柳宗悦であった。柳は民芸運動の指導者で宗教哲学者であったが、美術についても造形が深く……その後河井寛次郎、芹澤銈助、柳悦孝、外村吉之助、舩木道忠、棟方志功らの民芸運動の作家たちが工芸部に加わり活動を続けた」49

一九三四(昭和九)年の四月、リーチが来日しました。リーチが富本の仕事場を訪れたとき、富本は、「安い陶器を焼く理由、器機製の陶器、圖案のオリヂナリテーについて、經濟組織の事等々」50を話題にしたであろうと思われます。しかしながら、返ってくる言葉は、必ずしも好意ある肯定的なものではなかったにちがいありません。むしろそれよりも、リーチの口をついて出たのは、富本と柳とのあいだに存する工芸思想上の隔たりの穴埋めにかかわる提案だったようです。以下はリーチの回想です。

はじめのうちは、柳と富本はかなりうまくやっていたが、しかし、のちになって、工芸のあり方に関する柳の考えが美術館や工芸品店で具体的なかたちをなすようになったころから、だんだんと相違点が目立ちはじめてきた。性格の違いも一因としてあった。遅きに失した感はあったが、柳は私に、二人の溝を埋めてもらえないかと頼んできた。私は実際努力してみたが、失敗に終わった。富本はせっかちだった。極めて鋭敏な知覚力をもつ彼の眼識は、柳の意見に常に共鳴するわけではなかったし、また同時に、これこそ民芸であると主張する工芸品店の多くを認めてもいなかった。柳が宗教的な間口の広い見解をもっていたのに対して、わが友人である富本は、ある種見事なまでの品格を備えていた51

リーチが指摘する富本に備わっていた「ある種見事なまでの品格」とは、どのようなものだったでしょうか。この文脈においてふさわしいと思われる富本の言説から、以下に三点拾い出して引用しておきます。まずは、骨董趣味への批判――。

 私はこれまで古いものをかなり見てきたが、その見たものを出來得る限り眞似ないことに全力をあげてきた。それでもその古いものがどこまでも私をワシヅカミにしてはなさない。私は自分の無力を歎きかなしみ、どうかしてそれから自由な身になつて仕事をつづけたいために、或時は美しい幾十かの古い陶器を打ち破り棄て、極くわづかな私の仕事の上での一歩をふみ出したことさへある52

次に、下手物愛好への批判――。

 亡びかけた民族の數人を読んで來て、都の楽堂に着飾つた男女が輝く電燈の下で彼等の歌をきく程馬鹿げた腹立たしいものはない。彼等の歌はかかる場所でかかるドギマギする心の有樣のものを聞く可きものでない。下手ものも人々に此の調子で玩ばれない樣私は心から祈る53

そして、富本が信じる真の芸術とは――「眞正の藝術はその生活より湧き上つたものでなければならぬ事を私は堅く信じる」54

この間、工芸を巡る複雑な立場や見解の対立は、そのまま国画会工芸部の運営において影を落としていました。そこで、ひとつの妥協案が生み出されました。以下は、一九三六(昭和一一)年三月二五日の「洋画の春 上野と銀座から」と見出しがつけられた『東京朝日新聞』の記事の一部です。

[國畫會]工藝部は同會長年の懸案を解決して、帝院第四部會員富本憲吉氏と濱田庄司、芹澤光次郎(染色)两氏とが工藝部を两分して富本氏が第一部、濱田、芹澤两氏が第二部を行ふこととなつた55

そして、その年(一九三六年)の一〇月に、東京駒場に日本民藝館が開館し、初代館長に柳宗悦が就任しました。『国画会 八〇年の軌跡』には、このように記されています。「一九三七年(昭和一二年)に富本と民芸派の工芸観の対立や、民芸派の拠点となる日本民芸館の設立をめぐり、柳宗悦に意を一つにする民芸派の会員が国画会を退会した。それから約一〇年、富本を中心とした工芸部が続くことになる」56。民芸派と呼ばれる集団の眼目が、過去の民衆芸術の収集と再生であったのに比べて、富本憲吉という個人作家が求めたものは、同時代の生活芸術の創造と普及にあったのでした。

しかし、アジア・太平洋戦争が終わると、退会したはずの民芸派の作家たちが再び国画会への入会を求めてきたのです。富本の目には、理不尽な行為と映りました。そこで、話し合いがもたれます。結果は、歩み寄りはみられず、決裂しました。富本は、こう回想します。「民芸は他力本願の芸術を説くが、私は自力本願ですよ。梅原(龍三郎氏)を仲介に入れて柳(故宗悦氏)と一晩けんかをしたが、合うはずがない。それで国展を飛び出して戦後に新匠会を結成した」57

戦後富本は、東京を出て、京都に移り住みます。そして、戦後の再出発に際して、こう論じています。「日本は、敗戦によつて有史以來はじめての社會革新をなし、民主々義國家として、文化國家として再出發の途上にある。この時に當つて工藝にたづさはるものとして我々も亦、幾多重要な問題をもち、その解決を全く新しい立場に於いてしなければならぬことは當然である」58。この「幾多重要な問題」のひとつに図案権の問題がありました。以下は、それについての富本の認識です。

 私は今よりおよそ三十年前、欧洲の工藝圖案および工藝對社會等についての學習を終り、歸朝第一に感じたことは、この國には著作權同様の圖案權の法律もなく、人々は勉強のために歴史的な作品を模倣する他、自分の作品としてその模倣したものを平氣で發表出來ることに驚いた。その頃から圖案權の法律を作る必要があることは、雜誌その他で幾度か述べたが行われることなく今日に及んでいるのは残念である59

富本にとって、図案権というデザインに関する法的保護の制度の確立は、同時代の生活芸術の創造と普及を保障するうえで極めて重要な鍵となるものでしたし、とりわけ量産を考える場合には、必須の要件となるものでした。それでは富本は、量産について、どう考えていたのでしょうか。中村精は、「富本憲吉とモリス」というエッセイのなかで、工芸の仕事に関して、かつて富本が『東京日日新聞』へ一文を寄稿していたことを、以下のように紹介しています。「氏は東京日日新聞(後に毎日新聞と改題)に執筆した『一工芸家の提言』のなかで、工芸の仕事には次の三つの方法があるとしている。(一)工芸家自身が一切の仕事を初めから終りまでやる工法 (二)一個の見本を自分で造り上げ、それを助手なり職人に渡してその見本に最も接近した複製を造る方法 (三)器機力により全然職工の手のみで工芸家が一指もふれずに作りあげる方法」60。私は、この『東京日日新聞』に掲載された富本の「一工芸家の提言」は未見ですが、他方で富本は、最晩年に書かれた『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」のなかで、以下のように締めくくっています。この一節はすでに示していますので繰り返しになりますが、いま一度ここに引用してみたいと思います。

 若いころからの私の念願であった“手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう”という考えは、いろいろな事情で思うにまかせないが、いま私は一つの試みをしている。

 それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといった日用雑記を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである。……すでに市販もされて、なかなか好評だということだが、価格が私の意図するほど安くないのが残念である。だが、これも、まだ緒についたばかりだから、やがて、コストダウンの方法が見つかるかもしれない。

この内容から推測すると、最終的に富本がなしえた量産の段階は、「(三)器機力により全然職工の手のみで工芸家が一指もふれずに作りあげる方法」までには到達せず、「(二)一個の見本を自分で造り上げ、それを助手なり職人に渡してその見本に最も接近した複製を造る方法」に止まったものと思われます。しかしながら、「若いころからの私の念願であった“手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう”という考え」こそが、まさしく富本の真骨頂であり、その意味で、これまでに「陶芸家」富本憲吉の作品として高く評価されてきた、白磁、染付、色絵、色絵金銀彩へと進む陶技の各段階で製作された個々の作品は、あくまでも、「(一)工芸家自身が一切の仕事を初めから終りまでやる工法」にすぎなかったということができるのではないでしょうか。

「芸術論とデザイン」を締めくくるにあたり、改めて、富本の原点と初心とを想起しておきましょう。以下は、憲吉が製陶の世界に身を投げ出したばかりのときの妻一枝の言葉です。

どうして彼の模樣がもつとよく人々等に解つてくれぬか。……總てこんな事が彼に孤獨の感じを起させてゆく、彼の道は寂しい、しかも、苦しい。けれど、それは總ての「先驅者」の運命ではなかつたろうか。いきほい彼は、沈黙で心の感激を抑えてゐる。……これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう。けれ共、不幸にして、そんな時期は、まだまだめぐつて來まい。……何故、正直な方法によつて勝つことがこんなに困難なのか、私は眞當に考へずにはおれなくなる61

これ以上の富本憲吉という生き方に、とりわけ量産に対する憲吉の熱望に、理解を示した言辞はないでしょう。孤独と沈黙、確かにそれは、「豊富に生産されてくる」ことを見つめる「先驅者」が宿す運命だったにちがいありません。この文の表題は、「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」です。ここに、モダニストたる富本の困苦のすべてを見る思いがします。

富本は、確かにモリスに学びました。そして、それを実践しました。しかし富本が生きた時代は、モリス亡きあとの時代です。モリス亡きあと英国では、モダニズムの思想と実践が展開されてゆきます。富本も、同時並行的に進んでゆきました。これまでに述べてきました富本の「芸術論とデザイン」を一言で総括するならば、富本こそが、英国におけるモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動からその後に続く近代運動までの「芸術論とデザイン」を、まさしく正統に体現した日本におけるただひとりのデザイナーだったということになるでしょう。このことを別の言葉に置き換えるなら、英国留学の成果である「民間藝術」の発見から「分業」の発見までを、愚直にも理論と実践において遂行したところに、モダニストの「先駆者」としての富本憲吉の真の姿があったということになります。

(2)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年3月、27頁。

(3)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, Longwood Press, Boston, 1977, p. 326. (reprint of the 1898 second edition, published by G. Bell, London, and originally published by George Bell and Sons, London, 1897.)

(4)富本憲吉「百姓家の話」『芸美』第1巻第1号、1914年、7頁。

(5)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 4.[モリス『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、10頁を参照]

(6)Ibid.[同『民衆のための芸術教育』、同頁を参照]

(7)前掲「百姓家の話」、同頁。

(8)May Morris (ed.), op. cit., p. 41.[前掲『民衆のための芸術教育』、53頁を参照]

(9)Ibid., pp. 38-39.[前掲『民衆のための芸術教育』、50頁を参照]

(10)Ibid., pp. 3-4.[同『民衆のための芸術教育』、10頁を参照]

(11)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、28頁。

(12)富本憲吉「半農藝術家より(手紙)」『美術新報』第12巻第6号、1913年、29頁。

(13)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。

(14)May Morris (ed.), op. cit., p. 40.[同『民衆のための芸術教育』、52頁を参照]

(15)富本憲吉「工藝品に關する手記より(上)」『美術新報』第11巻第6号、1912年、8頁。

(16)前掲「工藝品に關する手記より(上)」、同頁。

(17)前掲「半農藝術家より(手紙)」、同頁。

(18)座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、10頁。

(19)中村精「富本憲吉と量産の試み」『民芸手帖』178号、1973年3月、36頁。

(20)J. W. Mackail, The Life of William Morris, Volume I, Longmans, Green and Co., London, 1899, pp. 151-152.

(21)富本憲吉「東京に來りて」『卓上』第4号、1914年9月、22頁。

(22)富本憲吉「美を念とする陶器――手記より」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、48頁。

(23)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 230.

(24)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、36頁。

(25)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、219頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]

(26)同『私の履歴書』(文化人6)、229頁。

(27)『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、43頁。

(28)DECORATIVE ART, 1926 “THE STUDIO” YEAR-BOOK, The Studio, London, p. 87.

(29)Herbert Read, Art & Industry: The Principles of Industrial Design (1934), Faber & Faber, London, edition of 1956, pp. 47-50 and 51.[リード『インダストリアル・デザイン』勝見勝・前田泰次訳、みすず書房、1957年、50および54頁を参照]

(30)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。

(31)小倉遊亀『画室の中から』中央公論美術出版、1979年、145頁。

(32)前掲『私の履歴書』(文化人6)、214頁。

(33)同『私の履歴書』(文化人6)、214-215頁。

(34)前掲『製陶餘録』、64-65頁。

(35)同『製陶餘録』、139-140頁。

(36)同『製陶餘録』、140-141頁。

(37)同『製陶餘録』、104頁。

(38)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、130頁。

(39)前掲『製陶餘録』、107頁。

(40)同『製陶餘録』、109頁。

(41)同『製陶餘録』、108頁。

(42)同『製陶餘録』、134頁。

(43)Le Corbusier, Towards a New Architecture, translated from the French by Frederick Etchells, The Architectural Press, London, first published 1927, reprinted 1978, p. 210.
 なお、翻訳書として、ル・コルビュジエ『建築をめざして』(吉阪隆正訳、SD選書21、鹿島出版会、1967年初版)があります。また、この本の巻末にある訳者による「あとがき」には、「日本では早くも一九二九年に宮崎謙三氏の訳で『建築芸術へ』として訳出されている(構成社書房刊)」(210頁)との注釈がみられ、富本憲吉がこの訳書を手にした可能性も否定できません。

(44)Tanya Harrod, The CRAFS in BRITAIN in the 20th Century, Yale University Press, 1999, p.128.

(45)『柳宗悦全集』第十四巻、筑摩書房、1982年、520-522頁。

(46)しかしながら、工芸運動の内部にあっては、柳をモリスに見立てる考えが存在していました。壽岳文章は、一九三五(昭和一〇)年に『工藝』に発表した「ウィリアム・モリスと柳宗悦」のなかで、こう述べています。
 「モリスが、工芸の領域で、わが国に与えた影響はどうであろうか? ジャーナリズムのうえでは、明治の末ごろからしばしば「美術家」モリスの名が、書物や雑誌へかつぎだされているが、明治四十五年二月発行の、「美術新報」第十一巻第四号に載った富本憲吉氏の一文、その他二、三をのぞき、工芸家モリスの仕事に、深い理解を示したものは、まず少ないといってよい。まして、作品のうえに、モリスの意図がとりいれられた(とりいれられることの可否は別問題として)顕著な例を私は知らない。しかし、私たちはいま日本に、欧米のどの国においてよりもモリスにちかい、ひとりの熱心な工芸指導者と、その指導者に統率される工芸運動とをもっている。それは、柳宗悦そのひとと、その提唱による民芸運動とである」。(壽岳文章『壽岳文章書物論集成』沖積社、1989年、475-476頁。[初出は、「ヰリアム・モリスと柳宗悦」『工藝』50号、1935年])
 柳の思想と実践に強い共感を覚えていた壽岳は、この論文で、富本の「ウイリアム・モリスの話」について、まず枕詞的に短く触れ、それに対比するかのように、柳をモリスに擬したうえで、その偉大さを賞讃するのです。富本が日本に最初に紹介した工芸家モリスの偉大さが、ここに至って、柳の偉大さへと置き換えられた観がありました。壽岳のこの論文は、発表された時期と内容からして、富本と民芸派とのあいだに薄っすらと存在していたこれまでの溝がまさしく決定的なものになる、その瞬間と化す役割を担ったようにも推量されます。

(47)濱田庄司は、一九二九年の五月から八月までの柳宗悦の短い英国での滞在中に、連れ立って、「テームス川上流のケルムスコットに、モリスの旧居を訪ね、まだ健在だったモリスの妹さんから、モリスの日常をいろいろ聞いている」、と書き記しています。このとき応対した「モリスの妹さん」というのは、「モリスの娘さん」のメイだった可能性も残ります。(濱田庄司『無尽蔵』講談社、2000年、60-61頁を参照)

(48)前掲、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』、12頁。

(49)『国画会 八〇年の軌跡』国画会、2006年、11-12頁。

(50)前掲『製陶餘録』、176頁。

(51)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 76.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、71頁を参照]

(52)前掲『製陶餘録』、129頁。

(53)同『製陶餘録』、80-81頁。

(54)前掲『窯邊雜記』、47頁。

(55)『東京朝日新聞』、1936年3月25日、11頁。

(56)前掲『国画会 八〇年の軌跡』、12頁。

(57)「文化勲章の人々(5) 富本憲吉氏 つらぬく反骨精神」『朝日新聞』、1961年10月25日、9頁。

(58)富本憲吉「工藝家と圖案權」『美術及工藝』第1巻第1号、1946年8月、8頁。

(59)富本憲吉「圖案に關する工藝家の自覺と反省」『美術と工藝』第2巻第3号、1947年10月、16-17頁。

(60)中村精「富本憲吉とモリス」『民芸手帖』63号、1963年8月、18-19頁。

(61)富本一枝「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』第1巻第6号、1917年、29頁。