「私の著述に向けられたある批判に関連して」を擱筆しました。しかし、いまだ私の脳裏には残像が回遊しています。消えてなくなる前に、現在の私の心境を、「私の著述に向けられたある批判に関連して(その二)」と題して、ここに少し書き残しておきたいと思います。
デザイン史家としての私は、一九世紀英国の詩人にして、デザイナーであり社会思想家のウィリアム・モリスの研究からスタートしました。このモリスの思想と実践に関心をもち、日本で最初に英国に渡ったのが、のちに陶工となる富本憲吉でした。こうして私の研究に、新たに富本憲吉研究が加わりました。調べを進めてゆきますと、憲吉の妻の一枝が、結婚以前にあって、青鞜社の社員であったことがわかりました。その関係で、富本一枝研究の先行文献である、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』と渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』を読んでみました。読んで最初に驚いたのは、この間私は、英国で出版されたウィリアム・モリスに関する伝記や学術書を主として研究の素材としていまして、それには、どれも注や出典が詳細に明記されており、私のような後発の研究者はそれを頼りに記述内容にかかわって検証が可能となっていたのですが、この二冊につきましては、そうした学術上必要と思われる注も出典も何も付けられていないことでした。とりわけ、富本憲吉の家族が、大和の安堵村を出て、東京の千歳村に転居するに当たって、両書とも憲吉の「女性問題」がその背後にあったことが指摘されていましたが、しかし、そうは書かれてあっても、何を証拠に、どんな根拠があって、そう書かれてあるのか、何も明示されておらず、新参の研究者である私は、そのことにとても戸惑いました。そこで私は、一枝が寄稿していた『青鞜』や、一枝の主宰誌であった『番紅花』などを、時間軸に沿って順番に読み始めました。そうしたら、先行研究の二冊に叙述されている一枝とは異なる一枝像が次第に現像されてゆき、驚愕するというよりも、先行研究に書かれてある内容をひたすら信じていた私でしたので、何か恐怖心のようなものを感じるようになりました。果たして、先行する研究成果と、いま私の手もとにある情報との落差をどう埋めたらいいのだろうか――。いくら探しても、憲吉の「女性問題」を扱った一次資料は見当たらず、その一方で、自身を「男女」とも「おめ」とも本人は公言(カミング・アウト)してはいませんが、入手された幾つもの一次資料から、一枝は、当時の俗語にいう「男女」、今日の用語にいう「トランスジェンダー」のセクシュアリティーの持ち主であることが浮かび上がってきました。そこで私は、安堵村から千歳村への移転の原因は、憲吉の「女性問題」にあるのではなく、一枝のセクシュアリティーにその要因があったのではないかという思いに至り、さらに関連する資料の渉猟に入りました。すると、東京移転についてこの夫婦のあいだで話し合いがもたれるようになる直前に、富本家のふたりの娘の教育の場として設けられていた私設の「小さな学校」から女教師の姿が突然消えていたことが明らかになりました。こうして私の推論はさらに深められ、一枝とこの女教師とのあいだに発生した「女性問題」こそが、安堵村を出て東京へ向かわなければならなかった原因だったにちがいないという確信へと至りました。しかし、一枝の「女性問題」は、ただ単に、このときの大和出国というひとつの出来事に止まらず、一枝の全生涯に影を落としていた深刻な問題であることに気づくようになり、この夫婦の苦悩が、ひとえに一枝のセクシュアリティーにかかわって成り立っていることが見えてきました。男を自認し女を性愛の対象とする妻と、男である夫が営む家庭ですので、安定的な夫婦関係の維持に無理が生じないはずはありません。憲吉も一枝も、こうした家族空間のなかにあって、それぞれがそれぞれの立場から口に出しにくい苦痛を抱えて生きていたのでした。ここに新たに発見された家族空間を伝記という形式で叙述したものが、私がウェブサイトに公開しています、中山修一著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』と著作集5『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』の二作で、セクシュアリティーにまつわる一枝の苦しみという文脈に特化して描いた伝記が、著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』に所収の「第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」なのです。そして、これらの文のなかにおいて私は、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』と渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』の記述内容にかかわって、その問題点を率直に指摘したのでした。
それからしばらく歳月が流れ、最近偶然にも私は、渡邊澄子の「富本一枝におけるセクシュアリティ」と題された「論文」に出くわしました。先行研究である私の上記の論述を受けて、記述内容になにがしかの変化があるものと思い、読み始めましたが、いかなる変化も認められず、それどころか、以下のような批判を目にした私は、驚きと怒りを禁じえませんでした。
一枝におけるレズビアニズムを辻井喬の『終りなき祝祭』、時代錯誤ぶりに呆れ哄笑するしかない中山修一の「著作集3・4・11巻」は一枝を性的堕落者と決めつけて猥褻に描いているが、一枝は中山が決めつけているような猥褻な「性的転倒者」だっただろうか。
私はこの批判に対して、今後書く文の片隅にでも、「事実無根の批判は名誉棄損に相当する」くらいの一言の反駁を書こうかとも思いましたが、しかしながら、渡邊澄子の「富本一枝におけるセクシュアリティ」の内容をよく見ると、形式的には、「論文」の体を成さず、内容的には、『青鞜の女・尾竹紅吉伝』における記述から一歩も前に進まず、一枝のセクシュアリティーについては全くの誤認が、憲吉については、いまだありもしない「女性問題」が、傍若無人に闊歩しており、私は、このことがどうしても看過できず、ここに「私の著述に向けられたある批判に関連して(その一)」を草すことに至ったのでした。
一枝のセクシュアリティーについての誤認は、渡邊が最初ではありません。先行する、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』のなかに、意図的に真実を隠すかのような記述が見て取れます。以下の引用がその部分です。
一枝がまわりの人にできる限りの援助の手をさしのべるという生き方に徹するのはこの頃[『婦人公論』に「共同炊事に就いて」を寄稿した一九三〇年ころ]からである。それは、人に尽くすことは最高の美徳と教えた母の訓えでもあり、一枝自身の困っている人を見すごすことができないヒューマニズムでもあった。しかしその底には、天賦の素質をもちながら自己の芸術を完成させることのできない己に代って、他に尽くすことによる間接的な自己表現、あるいは代償行為といった心持が、無自覚的にひそんでいた。それは広い意味でいえば母の心ともいえる。しかし一枝は純粋なあまり、夢中になりすぎたし、若くて、美しくて、有能な女性には、理屈抜きで好意をもった。こうして、一枝の一生のうちで誤解されやすい同性への熱中が何度か繰り返される1。
以上のように、著者の折井美那子は、一枝のセクシュアリティーにかかわって、「同性愛」や「トランスジェンダー」といった用語には目もくれず、「誤解されやすい同性への熱中」という表現を駆使して、一枝の真のセクシュアリティーを隠したのでした。一方渡邊澄子は、本文で詳述していますように、一枝の「同性愛」は認めたものの、同性愛には性的堕落を伴う「遊戯的な愛」と「真っ当な愛」の二種類の愛が存在すると前置きし、一枝の「同性愛」を「真っ当な愛」とみなして、性的堕落を伴う「遊戯的な愛」から守ろうとしたのでした。渡邊が二分法に使う「真っ当な愛」とは、今日的用語で置き換えれば、「レズビアンの愛」で、一方の「遊戯的な愛」とは、「トランスジェンダーの愛」を指すものと思われます。なぜ、折井も渡邊も、数々の資料が語っているにもかかわらず、完全にそれに目を伏せてしまい、一枝をトランスジェンダー男性とみなそうとしなかったのでしょうか。おそらくそれは、ふたりの目には、性的少数者の愛が、とりわけトランスジェンダーの愛が、猥褻で気持ちの悪いものと映っていたからなのでしょう。そうした強固な偏見的視点があったために、折井は、一枝のセクシュアリティーを「同性愛」から遠ざけ、「誤解されやすい同性への熱中」とし、渡邊は一枝のそれを「トランスジェンダー」から引き離して、同性の「真っ当な愛」としたのではないかと思量します。加えて、幾多の資料が語るように、一枝の悲痛は、自身のセクシュアリティーにかかわるものであったにもかかわらず、折井も渡邊も、それを、あろうことか、憲吉の「女性問題」に起因させたのでした。明らかにこれは冤罪です。私がこの拙文「私の著述に向けられたある批判に関連して(一)」で試みたのは、まさしくその構造を明確化し、歴史的虚偽を払拭することにありました。その成否の判断は、すべて読み手のお一人おひとりの思いにゆだねたいと思います。
しかし、ここまで書いた以上は、駄文になろうことは十分に理解したうえで、もう少し、この問題に関連して、いま自分が愚考するところを書き進めることをお許しください。
私は、第二話「私の著述に向けられたある批判に関連して(その一)」におきまして、青鞜社時代の尾竹紅吉(のちの富本一枝)本人が語る、自己のセクシュアリティーを五例挙げて紹介しました。そのなかの二例を、改めてここに書き写します。折井も渡邊も言及していない紅吉の語りです。
私は苦しい苦しい心の病氣を、少しでも慰めるために、十二階下にゐつた。銘酒やの女を見に行つた。…私は立派な男で有るかの樣に、懐手したまゝぶらりぶらり、素足を歩まして、廻つて來た、その気持のいゝ事。あの女の一人でも私の自由に全くなつて來れたらなら…とあてのない楽しみで歸つて來た。 私にはちいさな時分から美しい女の人をみることが非常に心持のよいことで、また、大變に好きだつたのです。それで私の今迄の愛の對照( ママ ) になつてゐた人のすべては悉く美しい女ばかりでした。
一枝が自分のセクシュアリティーを語った文は多数残されています。とりわけ上記ふたつの引用文は、はっきりと自身の性自認と性的指向を告白した言説として、注目することができます。「男女」や「おめ」という用語を使って自身のセクシュアリティーを告白しているわけではありませんが、事実上、そのことを「カミング・アウト」した内容となっています。
そこで私がいま一番疑問に思っていることは、なぜ折井も渡邊も、一枝が語る性自認と性的指向をかたくなに隠してしまい、そして、そこにこそ一枝の苦しみが集約されていたにもかかわらず、それを憲吉の「女性問題」にすり替え、虚妄の物語をつくり上げたのだろうかという点です。意図的であったのか、そうでなかったのか、意識的だったのか、そうでなかったのか、それはわかりません。しかし、ひとりであれば単なる誤述ですますこともできますが、ふたりも続きますと、そういう理解で終わらせるにはどうしても無理があるように思われます。両人ともおそらく女性でしょうから、これには、共通した女性固有の視点が働いているものと愚考せざるを得ません。それではそれは、一体どのような視点なのでしょうか。それは、本人たち以外にはわからないことであり、第三者にとっては推論するしかありません。しかし、捨て去りがたい疑問として私の体内に存在する以上、それについて周辺の資料を頼って吟味すること自体、推論とはいえども、自由なる思考の一環として許され、必ずしも批判の対象とはなりえないものと思い、以下に論述させていただきます。
周知のとおり、日本における女性史学の創設者ある高群逸枝は、一九三一(昭和六)年七月、「森の家」と呼ばれる新築された自宅に移り、女性史研究の道に入ります。ここから、主に以下のような研究成果が生み出されてゆきました。
『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938(昭和13)年6月。 『招婿婚の研究』大日本雄辯會講談社、1953(昭和28)年1月。 『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。 『日本婚姻史』至文堂、1963(昭和38)年5月。
他方高群は、こうした研究成果を世に問うに先立って、一九三〇(昭和五)年の一月に無産婦人芸術連盟を結成すると、続く三月にその機関誌『婦人戦線』を刊行し、「森の家」にこもる前月の六月に廃刊にするまで、通算一六号を発行します。私が注目するのは、この無産婦人芸術連盟の創設の目的と、それを表わした「綱領」です。高群は、『婦人戦線』の創刊号(三月号)に「婦人戦線に立つ」を書きました。それは、婦人の「個人的自覚」から「社会的自覚」へと踏み出すことを強く訴える内容になっています。冒頭、高群は、こう書きます。
わが國における、婦人自覺史は、かの「青鞜」運動に、最初の頁を起した。それは、誰も知るやうに、婦人の「個人的自覺」によつたもので、その後、いく星霜かを経て、いま茲に、我々によつて、婦人の「社會的自覺」にもとづく、劃時代的の運動が、起こされようとするのだ2。
一方、高群の意思は、創刊号に掲載されている「創刊宣言」または「綱領」と呼ぶにふさわしい以下の文言に端的に凝縮されています。これが、無産婦人芸術連盟の旗印となるものでした。
一 われらは強權主義を排し、自治社會の實現を期す。 標語 強權主義否定!
二 われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。 標語 男性清算!
三 われらは新文化建設および新社會発展のために、女性の立場より新思想新問題を提出する義務を感ずる。 標語 女性新生!3
上の三つの標語のなかの「男性清算」と「女性新生」が、この文脈にあってとりわけ私の目を引きます。つまり、高群女性史学の根底には、「社会的自覚」によってもたらされるところの「男性清算」と「女性新生」が岩盤となって作動していたのではないかという思いに、私はどうしても駆られてしまうのです。さらにそうした思いを押し進めれば、私の思考の流れは、今日に至る日本における女性史研究の発展を支える土壌には、社会的な自覚の上に立って最初に高群によって蒔かれた「男性清算」と「女性新生」という種子がすべからく息づいているのではないかという独自の仮説の域へと、必然的に漂着することになります。そして、その仮説をして私に語らしめるのが、高群史学にその源をもつ共通の種子の一発芽形態が、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』であり、渡邊澄子の『青鞜の女・尾竹紅吉伝』ではなかったかという推論です。つまり私には、性的少数者を猥褻とみなし、その世界から一枝を隠しては「女性新生」を計り、他方、その悲しみを希釈し、代わって夫の「女性問題」を持ち出しては「男性清算」を企てる――これが、両書籍にみられる共通の種子のように見えているのです。そして、「男性清算」と「女性新生」が過度に強調される土壌にあって、その結果として、誤謬という不要な雑草が覆い繁ることになります。この雑草こそが、まさしく、一枝のセクシュアリティーにかかわる、ある種善意を装った誤認であり、憲吉の「女性問題」を刃に使った、隠れた一種の悪意なのです。もしこの論理に、一抹の真理が含まれているとするならば、雑草除去の機能が正常に働かない限り、女性史研究の内にあって、量の多い少ないは別にして、なにがしかの雑草が常に芽を出す可能性が示唆されることになります。果たして、どうでしょうか。もっとも、わずか二例をもって、その研究分野の全体的傾向とすることは、当然ながら厳に慎まなければなりませんが。
確かにそれはそうなのですが、もう少し私の周囲に目を移してみますと、高群逸枝の伝記それ自体のなかにも、「男性清算」と「女性新生」の二項で構成されていると思われる事例が認められるのです。
高群逸枝の夫で、『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集を行なった橋本憲三は、最晩年にあって、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」において、そして、戸田房子の「献身」において、小説という虚構空間のなかで、いわれなき汚名が浴びせられ、苦しめられました。これが、憲三の死期を早めさせた可能性さえあります。さらには没後に至っても、円地文子監修の『近代日本の女性史 第二巻(文芸復興の才女たち)』に寄稿した「高群逸枝」において、女性史研究家である著者のもろさわようこは、死者の霊を傷つけるような、こころない侮蔑の言葉でもって憲三を罵倒しました。そこでここで、「男性清算」と「女性新生」のふたつの項目が、この、もろさわの「高群逸枝」にどう反映しているのかを、以下に少し見てみたいと思います。
一九八〇(昭和五五)年の秋のある日、憲三の妹の橋本静子のもとに一冊の本が集英社から送られてきました。見るとそれは、集英社刊の円地文子監修『近代日本の女性史 第二巻(文芸復興の才女たち)』でした。これは、女性史に関する論集で、そのなかにもろさわようこが執筆した「高群逸枝」がありました。読み通した静子に、体の震えが止まらない、大きな憤りが吹き出してきたにちがいありません。何ゆえに、こうまで兄が罵倒されなければならないのか――。さっそく静子はペンを握り、もろさわに宛てて手紙をしたためました。これが、憲三の死去に伴い廃刊となっていた『高群逸枝雑誌』が息を吹き返し、「終刊号(第三二号)」として発刊されなければならなかった要因となる部分でした。この誌面に、その手紙は掲載されます。そして、静子の文は、次の言葉ではじまります。
集英社から『近代日本の女性史』第二巻が贈られました。この本のもろさわ様の御担当になる『高群逸枝』を拝見しましたので、初めてお手紙を差上げます。 兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「普選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました4。
こうした前書きのあと本論に入り、もろさわの文のもつ誤謬や偏見の数々を、その頁を明記しながら、指摘してゆくのでした。
それでは、もろさわが書いた「高群逸枝」とは、どのような文だったのでしょうか。内容的には、これまでに刊行された高群逸枝に関する二次資料をなぞったもので、何ら新規性はありません。形式的には、節の番号は付されてありませんが、「その死をめぐって」「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」の四節で構成され、後ろの三つの節が、逸枝に関する評伝になっています。もろさわは、最初の節である「その死をめぐって」のなかで、普選会館ではじめて見知ったころの憲三の風采を、このように描写していました。
憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、普選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった5。
この描写に、静子は度肝を抜かれたものと推量します。今日的な用語でいえば、明らかにこれは、「ルッキズム(lookism)」に相当します。もろさわは、他人の身体や容姿や服装に関して、何ゆえにかくも「外見差別」を行なうのでしょうか。私の目には、無謀なる「男性清算」の極みに映ります。一方もろさわは、最終節の「所有被所有をこえて」にあって、その末尾に、次の語句を当てます。
逸枝はらいてうの「忠実な娘」と自称しているが、その史的業績は、らいてうにまさるとも劣っていない6。
このようにもろさわは、高群逸枝の仕事を高く評価してみせます。もろさわは、このように書くことによって、一種の「女性新生」を醸し出そうとしているのでしょう。しかし、「史的業績」の比較考量など、そう簡単にできるものではないように愚考します。どういう基準で行なったのでしょうか。また、たとえそれが可能であったとして、そのことがどんな意味をもつというのでしょうか。もろさわは、それらについては何も書いていません。つまり、ここにみられる断定は、もろさわの、独り高みに立った実証なき蒙昧にすぎないのです。女性史家によるこの文が、研究論文として書かれたものなのか、単なる雑文の類として書かれたものなのか、それは私にはわかりませんが、いずれにしても、極めて問題を残す結論となっていると思料します。
しかし、問題はそこにあるのではありません。といいますのも、言及しました、「その死をめぐって」における憲三に対する「外見差別」と、「所有被所有をこえて」における逸枝に対する「業績礼賛」とのあいだには、大きな断絶が認められるからです。換言すれば、こうした叙述の構図に、夫と妻、つまりは男と女のあいだにくさびを打ち込もうとする、際立つもろさわの意図が感じ取れるからです。それが、「女性を善、男性を悪」とみなす、単純な図式が支配する、埋め込まれた固定概念、あるいは、刷り込まれた偏見に由来するものであったのかどうかは判断しかねますが、それを否定することもまた、同じくできないものと思われます。しかし、このもろさわの文は、それから四〇年以上が経過した今日の女性史研究者の言説(たとえば岡田孝子の言説)にも登場し、いまなお生き続けているのです。その事例につきまして、以下に触れます。
もろさわようこの「高群逸枝」以降も、高群逸枝と橋本憲三への周囲の関心は衰えを知りませんでした。自著の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』のなかで栗原弘は、高群の学問は史料改竄の結果であり、それは、日記や随筆などの高群の全著作に及ぶことを明言し、他方、その妻の栗原葉子は、『伴侶 高群逸枝を愛した男』を著し、そのなかで、憲三をその共犯者に仕立て上げました。静子の悲しみは、いかほどだったでしょうか。しかし静子は、もろさわようこのときと違って、それへの反論はいっさい行なっていません。すでに体力的に弱っていたとも、周りからの度重なる罵声に身を凍らせていたとも、考えられます。静子が死去すると、桜吹雪のなかその遺体を乗せた車が水俣川の土手を行くとき、独り石牟礼道子は手をあわせて見送りました。こうして道子は、遺された唯一の者として、憲三と静子の無念を、しっかりと胸に刻んだのでした。それから四年の歳月が流れました。
石牟礼道子の『最後の人 詩人高群逸枝』が藤原書店から上梓されたのは、二〇一二(平成二四)年一〇月でした。この本は、『高群逸枝雑誌』に連載されていた「最後の人」に加えて、補遺として、「森の家日記」「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死」「朱をつける人――森の家と橋本憲三」を含む旧稿の数編と、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」とによって構成されていました。
「最後の人」の取材メモとなる「森の家日記」には、「森の家」で橋本憲三と石牟礼道子が交わした、橋本静子を仲立ちとする「後半生の誓い」と、男女としての「聖なる夜」に関する記述が含まれており、その内容は、極めて衝撃的なものでした。さらに加えて、衝撃的なことが、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」のなかにも現われます。このインタヴィューは、二〇一二(平成二四)年八月三日に道子の自宅において行なわれました。聞き手は、藤原書店の藤原良雄です。
――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、[憲三さんのことを]そう思われたわけですね。 石牟礼 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。 ――「最後の人」というのはどういう思いで。 石牟礼 こういう男の人は出てこないだろうと。 ――憲三さんのことを。 石牟礼 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした7。
ここではっきりと道子は、自分にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告白するのでした。『最後の人 詩人高群逸枝』の刊行から六年後の二〇一八(平成三〇)年二月、石牟礼道子は帰らぬ人となりました。享年九〇歳でした。
それからおよそ四年が立ち、藤原書店から『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26、二〇二二年刊)が世に出ます。これは、多くの論者による論考を集めたもので、そのなかに、女性史研究家の岡田孝子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」が所収されていますので、ここに紹介します。
岡田は、「もうこれ以上の素晴らしい男性は出てこない、『最後の人』だと石牟礼道子にそこまで思わせた橋本憲三とは、どのような人物だったのか」8という問いを発します。しかし、『最後の人 詩人高群逸枝』に書かれていた記述内容は、岡田にとって驚きの連続だったようです。岡田が驚きの読後感を書き並べた箇所を、少し長くなりますが、以下に引用します。
「そこしか、わたしの身を置く場所はなかった」とはどういうことなのか。夫の弘や息子のいる水俣の「家」は、彼女の居場所ではないのだろうか。告白めいたことばでもある。しかも、この後さらに彼女は「その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評家であった」という。逸枝に対してと同じようなことを憲三は道子にしていたことになる。 「森の家日記」の十一月六日のメモは、なかなか衝撃的でもある。 「晴れ 弘より手紙、ガックリ、内容空疎」 当時の彼女の心境が実にリアルに記されていてドキッとさせられてしまう。それに、その前の七月五日には「彼女の遺品――帽子とオーバー――着てみよとおっしゃる。そのとおりする。鏡をみてみる。よく似ているとのこと。感動」。 七月十一日の日記は、さらに読む者に戸惑いを与える。「木立の中の深い霧。私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。沐浴。今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる」。 このような記述が随所にあり、また、道子は甲斐甲斐しく一人住まいの憲三の食事から身の回りの世話までしている。全体を流れる不思議な関係の、それもどこか悩ましささえ漂う雰囲気を私は感じてしまうのだが、これは考え過ぎだろうか。……彼女は何を思い、『最後の人』で伝えようとしているのか9。
岡田は、『最後の人 詩人高群逸枝』に書かれてある、「森の家」での憲三と道子の同棲生活がどうにも理解できないようです。これまでに自分が獲得した憲三像と、この本のなかで石牟礼が語る憲三像とが一致せず、混乱に陥ってしまったのではないかと思われます。ふたつの像の乖離を、もろさわようこの「高群逸枝」を引き合いに出して説明する箇所がありますので、同じく以下に示します。
一九五二年、初めての出会いの時、もろさわようこの目に映った憲三は「膝のつきでた古いズボンをはき、ちびた下駄をせかせか」と鳴らしながら歩き、「都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人」だった。十年余の後、病院で再会したものの、「大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった」し、「おもいを妻に密着させ、他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度」「偏屈な男」等々と描写していて、石牟礼道子が描く憲三像とはあまりにもかけ離れている。道子は「一人の妻に『有頂天になって暮らした』橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しい典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たせずにはいなかった」と記しているのだから10。
かつて、もろさわの「高群逸枝」を読んだ橋本静子は、すでに引用で示していますように、このように反論していました。
兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「普選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました。
しかし岡田は、もろさわの文に強く反駁した静子の「もろさわよう子様」にはいっさい触れていません。なぜなのでしょうか。憲三の妹の、しかも無名の女の文など取るに足らないものであるとして無視し、切り捨ててしまったのかもしれません。
実際のところ、憲三の死に際して、静子も道子も、心からの献身的対応をしています。以下は、道子の文からの引用です。病床にありながらも憲三を思う姉の藤野の気持ちも、よく伝わってきます。なかにでてくる「佐藤さん」という人物は、憲三の主治医で、佐藤の母親と逸枝が幼年時代の同期生でした。
静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。…… 佐藤さん、午後からほとんどつきっきり、いよいよフェルバビタール打たねばならぬようになったようですとおっしゃる。お悩みのご様子。 先生のお姉さんの藤野さんが、若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、 「憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ」 とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、 「おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな」 静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜11。
憲三とはわずか二回しか顔をあわせたことのないもろさわの言説を信じるか、静子とともに憲三の最期を必死に看取った道子の言説を信じるか、それは人さまざまでしょうが、比べれば、その信頼性なり信憑性は、明らかなように思われます。いや、むしろそれ以上に、私は、もろさわのこの「高群逸枝」の文にみられる憲三についてのルッキズム的描写は、明らかに人権侵害であり、名誉棄損であると考えますが、岡田はこれにいっさい意を用いず、平然ともろさわの言説と石牟礼のそれとを並置し論じており、私には、この方が、より問題的ではないかと思料されます。
一方、『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』には、女性史家で評論家の山下悦子の「小伝 高群逸枝」も所収されていますので、これについても、触れておきます。山下の文は、概略、逸枝の思いに理解を示さない自己中心的で欺瞞的な性格をもつ憲三をからませながら、疎外された逸枝の苦悩の人生を描きます。おおかたこれは、これまでしばしば逸枝の評伝や評論にみられた記述の観点と手法を踏襲したものといえます。山下の言説に対置するために、以下に、逸枝と憲三の夫婦に向ける石牟礼のまなざしを書き記します。
それにしても、憲三にむけてのみ終生積極的に愛を訴え、それを確認したがり、共に「完成へ」と歩んだのは、よくよくその夫を好きであったと思われる12。
そしてまた、石牟礼は、こうも記述します。
私どもが夫妻の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう13。
これらふたつの石牟礼の言説からもわかりますように、山下が理解する逸枝と憲三の夫婦像と、石牟礼の理解するそれとは、はっきりと完全に分かれるのでした。
本文を書き終えたところで山下は、こう書きます。「最後に、ここでは高群逸枝の死後、一二年間生きた橋本憲三に触れる予定だったが、枚数の関係で別の機会に譲りたいと思う」14。筆が止まった理由は、「枚数の関係」もあったのかもしれませんが、それだけではなく、石牟礼道子が『最後の人 詩人高群逸枝』のなかで書いていた、橋本憲三との親密な関係を理解することができなかったことに、多くの要因があったものと推量します。つまり、逸枝を抑圧する夫として憲三を見立て「小伝 高群逸枝」を草した自身の観点と、憲三をして典雅なわが恩師であり自身の「最後の人」とみなす石牟礼の観点との両極にあって、山下自身、どうしても折り合いをつけることができなかったのではないでしょうか。そこで、そのことにかかわって、高群逸枝、橋本憲三、橋本静子、石牟礼道子へ向けられた、著者である山下悦子のまなざしがよく現われている箇所を拾い出し、少し長くなりますが、以下に引用してみます。
「憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる」。「こういう男の人は出てこないだろうと」「高群逸枝さんの夫が『最後の人』でした」という石牟礼の言葉を読んだとき、石牟礼と橋本のワールドが見えてきたのだ。それは明らかに高群逸枝の世界とは別のものである。 夫と息子のいる石牟礼は三九歳、橋本六九歳の森の家での奇妙な同居生活(六月二九日~一一月二四日)。この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある……。馬事公苑へ行った時のこと、「先生」とわたくしの表現が「わたくしたち」、「わたくしたち」とかわる場面があったり、肉感的な表現も見え隠れする箇所があったりと、それが何を意味するのかというような意味深な表現も多々ある本が『最後の人』なのである。…… [憲三から道子は]眼鏡をプレゼントしてもらい、中村屋のカレーを食べといったような楽しいデートを森の家に籠ってからの高群は経験したことはなかったのではと思うと、なにか割り切れないものを感じる。橋本のために甲斐甲斐しく食事の世話もする石牟礼は高群とは違い、伸びやかな性を発散できるタイプの女性であり、橋本は石牟礼に高群を重ねるというより、三〇歳も年下の石牟礼との同居生活に楽しさを感じていたのではないだろうか。…… 高群の死後のこととはいえ、森の家での若い女性との奇妙な同居生活、しかもそれに協力した橋本の妹静子(高群にとっては小姑)という事実に対し、多くの女性はいい感情をもたないのではないか15。
「小伝 高群逸枝」の末尾にこのように書く著者は、本文の記述内容においてと同じく、あくまでも憲三を、妻に曲従を強いり、支配しては劣等感に陥らせようとする、理解しがたい異質の人間としてみなしているといえます。あたかも、自分にわからないものは否定し排除しようとするかのような視線です。自分の観点を死守するためかもしれませんが、そうしたまなざしは、周りの橋本静子にも石牟礼道子にも、同じく向けられるのでした。静子の役割、道子の思いへの共感は、ここには微塵もありません。
ここまで書いた私は、岡田孝子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」と山下悦子の「小伝 高群逸枝」のふたつの論稿に存する共通点を見出します。以下にそれを、短く三点にまとめます。
一点目は、静子の立会いのもと、憲三と道子が「森の家」で過ごしたことに対する理解が、完全に欠如していることです。岡田は、「彼女[石牟礼]は何を思い、『最後の人』で伝えようとしているのか」と疑問を発し、山下は、「この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある」と、静子の行為にも疑問を呈します。これらの疑問は、石牟礼道子研究を十全に行なった末の結論的な問いでしょうか。とりわけ、なぜ道子が「森の家」に向かったのか、その吟味はすんでいるのでしょうか。それとも、ただ一冊の『最後の人 詩人高群逸枝』の字面を追っただけの単なる読後の感想なのでしょうか。両者の文を読む限り、後者のような気がします。私はここに、知識の欠如から生まれるところの、人間存在の軽視ないしは蔑視という、ひとつの危険性を感じ取ります。
二点目は、憲三と道子の「森の家」での同棲生活における、性にかかわる関心のあり方です。岡田は、「全体を流れる不思議な関係の、それもどこか悩ましささえ漂う雰囲気を私は感じてしまうのだが、これは考え過ぎだろうか」と書き、山下は、「石牟礼は高群とは違い、伸びやかな性を発散できるタイプの女性であり、橋本は石牟礼に高群を重ねるというより、三〇歳も年下の石牟礼との同居生活に楽しさを感じていたのではないだろうか」と書きます。岡田も山下も、自身の内なる道徳律に照らし合わせると、憲三と道子のふたりの男女の行動が、どうしても許されないようです。これでは、極めて表層的な人間理解に陥りかねません。加えて、憲三と道子の立場からすれば、岡田にせよ山下にせよ、こころをあわせて営む自分たちの私生活に、身勝手にも興味本位に侵入しようとする、迷惑千万なよそ者にしか映らないのではないでしょうか。つまり、信頼するに足る研究者としての適切な書法が、ここに不在なのです。
三番目の共通点は、さながら女性的視点が表出されていることです。岡田は、「彼女[石牟礼]は『その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評家であった』という。逸枝に対してと同じようなことを憲三は道子にしていたことになる」と、いいます。一方の岡田は、「[憲三から道子は]眼鏡をプレゼントしてもらい、中村屋のカレーを食べといったような楽しいデートを森の家に籠ってからの高群は経験したことはなかったのではと思うと、なにか割り切れないものを感じる」と、いいます。ひとりの男性がふたりの女性に対して、同じことをしても、あるいは逆に、違ったことをしても、気になるのでしょう。こうした視点は、男性である私には、女性固有の独自の視点に映ります。それ自体は何も悪いこととは思いませんが、しかし、もしこれが転じて、思慮を欠いた単純な男性嫌悪につながるまなざしに変質するようなことがあれば、それは問題的であるといわざるを得ません。
しかし、問題なのは、以上の三点だけではないのです。岡田と山下の言説には、さらに重大な問題が含まれているように感じられます。
これまでおおかたの女性の女性史研究家が、逸枝の業績を高く評価する一方で、夫である憲三の役割や言動を低く見てきたことは、周知のとおりです。もっともそれは、必ずしも、正確な一次資料に基づくものではありませんでした。いまはそのことは横に置くとして、ところがここへ至って、憲三だけでなく、近くにあって憲三をよく知る妹の静子に対しても、また、憲三を師と仰ぐ道子に対しても、同じく理解不能な人物として排除されようとしているのです。わけても私は、山下の次の言葉に注目します。「高群の死後のこととはいえ、森の家での若い女性[である石牟礼道子と橋本憲三]との奇妙な同居生活、しかもそれに協力した橋本の妹静子(高群にとっては小姑)という事実に対し、多くの女性はいい感情をもたないのではないか」。このように山下は、「多くの女性」を味方につけて、自説の正当性を計ろうとするのです。
石牟礼道子は、水俣病に寄り添った作家として高名ですが、憲三との関係という文脈からすれば、その関係を知る人はほとんどおらず、明らかに無名の存在です。私の目には、岡田の文からも山下の文からも、無名の身である静子と道子を、自分の理解が及ばないがゆえに排斥しようとするある種粗暴な力が、いやおうなく映り込みます。言い換えれば、私には、多くの強い女たちが少数の弱い女たちをその力でもってねじ伏せては選別しようとする無言の視線が、ここに強く感じ取られてならないのです。こうして、いまや高群研究において、実証も論証も伴わない、女性による女性分断が、芽生えようとしているのではないでしょうか。これは、一種の差別行為と受け止めることもできます。私は、正直にいって、この点を危惧する者です。
ここまで述べてきました、「二.女性史と高群逸枝を巡って」と「三.高群逸枝の伝記のなかにも」のなかには、見方によっては、厳しい批判が含まれているかもしれません。したがいまして、受け入れることができない、見過ごすことができない、そう思う人がいるであろうことが、想像できます。そこで次に、かかる誤解の払拭に供するために、研究者としての私自身の立ち位置について、簡潔に述べさせていただきます。
これまで「歴史」といえば、男性が書く男性についての歴史でした。つまり、この「歴史」には、ほとんど女性は登場しません。書き手の男性のなかに、女性は書くに値しない存在であるという偏った見方が備わっていたのでしょう。そうした「歴史」に代わって、高群逸枝は、「歴史」に隠されていた女性を発掘することに挑戦しました。それが、高群が書く「女性の歴史」なのです。それは、誰もいままでに見ることのなかった光景でした。それゆえにまた、批判もありました。高群は、こう書きます。
巷にゆけばわがこころ 千の矢もて刺さる その矢、心に痛ければ われはいつもあこがれけり 去りゆかむ去りゆかむと いずこへか?16
それでは、千の矢がこころに刺さる痛みをこらえてまで、なぜ高群は、書かなければならなかったのでしょうか。高群は、こう書きます。
私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった17。
ここに、火の国の女がもつ正義感と義侠心が情動し、詩人としての熱い感性を携えて、学者固有の、冷徹なる知の産出へと向かう、高群の、その瞬間的契機を見るような思いがします。
私が渡邊澄子から批判を受けたのは何ゆえだったのでしょうか。それは、女が書く女の歴史に、男である私が口を出したからではないかと思量します。といいますのも、批判の文言のなかに「時代錯誤ぶりに呆れ哄笑するしかない」という文字が並ぶからです。「時代錯誤」とは、何を意味するのでしょうか。おそらくそれは、一枝の苦しみの原因を夫である憲吉の「女性問題」に求める渡邊にとって、それを否定しようとする私の態度を指しているのでしょう。そしてまた、一枝のセクシュアリティーを「真っ当な愛」の発露とみなす渡邊にとって、それについての私の叙述は「遊戯的な愛」のごとくに映り、猥褻に見えてならないのでしょう。換言するならば、私の一連の著述は、一枝の人生に託して「女性新生」に向けて起ち上がろうとする渡邊にしてみれば、それを妨害するものでしかなく、まさしくそれが、「時代錯誤」的行為に映じたのではないかと思われます。したがいまして、私への批判は、「反動的な時代錯誤の男性を清算」するための至極当然の手続きだったのかもしれません。しかし、私が叙述する手法は、実証主義に徹するものでした。「男性清算」と「女性新生」の二分法による論述と実証主義によるそれとは、必ずしも一致するわけではありません。二分法による論述に虚偽があれば、当然ながら激しく対立します。したがいましてこの対立は、「時代錯誤」から来るものではなく、「事実認定」から来るものでして、ここに、渡邊が書く伝記と私が書く伝記との決定的な違いが存在するのでした。
いうまでもなく、高群の筆の大きさには、はるか遠く届くことはありませんが、それでも、小は小なりの小さきものをもち、たとい偏狭なものであろうとも、そのなかには、高群の心意気を引き継ぐ、火の国男の正義感と義侠心とが含まれていることを私は自認します。年齢もいよいよ傾き、高群に倣って「去りゆかむ去りゆかむと」と思いながらも、煩悩に負け諦観に至らず、見苦しくもいま、「私の著述に向けられた批判に関連して(二)」を書いていることが、その証左となります。「千の矢もて刺さる」ことは先刻承知のうえで、たとえ敵が「千万人といえども吾往かん」の孟子の言葉に背を押され、いまここに、私はこの文を草しているのです。
私の研究対象でありますウィリアム・モリスの「最期の言葉は、世界から『迷妄』(mumbo-jumbo)をなくしたい」18というものでした。私が、実証主義を重んじるのも、まさしく、ここにあります。そして、これがまた、ユートピア的な詩作とアナーキズム的な政治信条における、モリスと高群をつなぐ、共通の近代の精神だったのではないかと私は感じているのです。できれば私も、この末席に連なりたいと思います。
モリスが話題に出たところで、視線を英国に移します。それでは、過去の人物を描く伝記とは、どのようなものなのでしょうか。まさしく「そもそも論」になりますが、伝記の本質にかかわる幾つかの論点を視野に、ここで、フェミニズムの先進国とされる英国の女性伝記作家たちに学ぼうと思います。どのような知見が手に入るでしょうか。これより、ウィリアム・モリスの伝記を例にとりながら、少し考えてみたいと思います。
モリスが亡くなったのは、一八九六年です。これを起点として今日まで、モリス研究は進んできました。マイナーな小伝や論評の類は数限りなくありますが、本格的なフル・スケールの伝記は、おおよそ以下のものではないかと思います。いずれも、その浩瀚さには瞠目すべきものがあり、ことに戦後出版された三番以降のもののレファランスの完璧さには、学術書の神髄を見るような気がします。
(1) Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897, 462 pp.
(2) J. W. Mackail, The Life of William Morris, volume I and Ⅱ, Longmans, Green and Co., London, 1899, 375 pp and 364 pp.
(3) E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary, Lawrence and Wishart, London, 1955, 908 pp.
(4) Philip Henderson, William Morris: His Life, Work, and Friends, Thames and Hudson, London, 1967, 388 pp.
(5) Jack Lindsay, William Morris: His Life and Work, Constable, London, 1975, 432 pp.
(6) Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, 328 pp.
(7) Gillian Naylor ed., William Morris by himself: Designs and writings, Macdonald & Co (Publishers), 1988, 328 pp.
(8) Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, 780 pp.
上記の伝記につきましては、ウェブ上に公開しています私の著作集9『デザイン史学再構築の現場』の第六部第一編の「伝記書法論(1)――モリスの伝記作家はその妻をどう描いたか」において詳述していますので、ここでは重複を避け、割愛します。ここでの文脈は、ウィリアム・モリスにかかわる英国の女性伝記作家の仕事観です。それに該当するのは、六番から八番までの最後の三つの作品ということになります。そこでまず、これらの著者について紹介します。私はこの三人の女性と面識がありました。ジャン・マーシュさんは、ヴィクトリア時代の芸術と女性の生き方に関心を寄せる現役の独立研究者です。独立研究者でデザイン史家でもあったフィオナ・マッカーシーさんは、先年亡くなりました。この間ふたりとも、ウィリアム・モリス協会の会長を務めました。ジリアン・ネイラーさんもすでに没していますが、長く客員教授として王立美術大学とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で教鞭をとったデザイン史家です。
私は最初に、リストの第六番に挙げていますジャン・マーシュさんの Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938 を取り上げて論じることにします。ウィリアム・モリスの伝記において、はじめてフェミニスト・アプローチを持ち込んだのが、この書物でした。ジェインはモリスの妻で、メイはその夫婦の娘です。以下は、「日本語版への序文」からの引用になります。
なぜ私はジェイン・モリスとメイ・モリスの生涯を書いたのでしょうか。その答えは二つあります。ひとつは、彼女たちの人生が歴史的に見て興味深く、そしてまた、彼女たちが知り合って愛した男性たちの人生と作品だけではなく、彼女たちが生きた時代がどういう時代であったのかを知るうえで、この二人の女性の人生がその手掛かりを与えてくれるからです。いまひとつは、本書がこの一〇年間の英国におけるフェミニズム復興の動きを反映したものであるということです。それ以来、家父長的な文化のもとに忘れ去られ、無視されていた女性たちの人生と仕事が再発見され、再評価されるようになりました19。
これまでのモリス伝記は、すべて男性伝記作家によって書かれ、そのなかにあっては、妻のジェインも娘のメイもほとんど語られることはありませんでした。ジャン・マーシュさんは、そこにくさびを打ち込みました。彼女は、この本のなかでふたつの作業をしています。ひとつは、画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと恋愛関係にあったジェインについて、これまで多くの男性伝記作家が決して好意を示すことのなかった偏見的記述に対して修正を求めたことです。もうひとつは、画家のモデルとしての、そして刺繡家としてのジェインの隠された業績に積極的に評価を与えたことです。他方で、メイについては、モリス商会の秀でたデザイナーであったことに加えて、モリス著作集の有能な編集者であったことに光をあてて讃美しました。こうした作業をとおして、闇に埋もれていたふたりの女性たちが発掘され、その再評価がなされたのでした。
この作業は、大変示唆に富んでいます。ここから何を学ぶことが可能でしょうか。
これまで男性の伝記作家がウィリアム・モリスという男性の生涯を書くなかで妻である女性の存在を無視したり侮蔑したりしていたことに対して、義憤をもつ女性の伝記作家であるジャン・マーシュさんは、無視され侮蔑されていた妻のジェインに焦点をあてて、その知られざる生涯を書くことによって、その生き方に共感し、歴史の闇から救い出したのでした。
このことをそっくり、完全に反転したかたちで日本に持ち込むとどうなるでしょうか。これまで女性の小説家や伝記作家たちが高群逸枝という女性の生涯を書くなかで夫である男性の存在を無視したり、侮蔑したりしていたことはないでしょうか。もしそうした理不尽さが残されているのであれば、そのことに義憤をもつ男性の伝記作家が、無視され侮蔑されていた夫の橋本憲三本人だけでなく、それによって同じく傷を負ったにちがいない、すでに黄泉の客となっていた妻の高群逸枝はいうに及ばず、身内の姉の橋本藤野と妹の橋本静子、それに加えて、憲三を師と仰ぐ石牟礼道子に焦点をあてて、その知られざる生涯を書くことによって、その生き方に共感し、歴史の闇から彼らを救い出そうとする試みが、この日本にあってもよいのではないでしょうか。存在を無視されていたジェイン・モリスが歴史のなかから発掘されたように、同じ状況にあった橋本憲三とその周辺の女性たちが同じく発掘されるならば、それは、それなりの意義をもつにちがいありません。いま私は、そうしたことに思いを巡らせているのです。
次に、リストの第七番に挙げていますジリアン・ネイラーさんの William Morris by himself: Designs and writings を取り上げて論じます。
これまで日本にあっては、富本一枝を主題とした伝記が上梓されました。それは、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、一九八五年)と渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、二〇〇一年)の二著です。あえていえば、このふたつの伝記には、幾分共通した難点が見受けられます。それは、一次資料に基づく実証的記述からしばしば離れ、書き手の私的な思いと判断が一方的に数多く盛り込まれているがために、主役となるべき一枝が随所で後景に退くとともに、加えて一枝の実像が必ずしも正確に描き出されていないという結果を招いている点です。
過去に実在した人物の生涯を描くということは、どういうことでしょうか。それは、あくまでも事実に肉薄した学問的作物でなければなりません。逆のいい方をすれば、決して虚偽を構成してはならないのです。そのために、関連する人物および事象にかかわって、限りなくエヴィデンス(証拠となる一次資料)を渉猟し、十全にそれを援用して描写することが、伝記作家に厳しく求められることになります。
それでは伝記は、どのような書法によって叙述されなければならないのでしょうか。単にエヴィデンスを並べるだけであれば、無色透明の年表になり、無味乾燥の年代記になってしまいます。単にそれだけであれば、実在した人物が生き生きとした画像でもって現像されることはありません。かといって、実在人物に余分なものまで恣意的にまとわせ、加飾してしまえば、どうなるでしょうか。この場合は、書き手にとって都合のいい主人公像が生み出されることはあっても、一人ひとり関心の異なる読み手にとっては、思考の自由が奪われ、脚色された主人公像が無理に押し付けられてしまいかねない危険性が残されることになります。そうした危惧される事態を避けるためには、どうしたらいいのでしょうか。
ジリアン・ネイラーさんの William Morris by Himself: Designs and Writings が、それへのひとつの解答となっているのです。書題を訳せば、『本人が語るウィリアム・モリス――デザインと著作』とでもなるでしょうか。実際、内容は、モリスのデザインと著作(書簡類を含む)とが多数援用されながら、その生涯がどのようなものであったのかが概観できるように工夫されています。伝記書法上の新鮮なひとつのモデルが、ここに提示されているのです。
その先例となるものが、リストの第一番に挙げていますエイマ・ヴァランスの William Morris: His Art, his Writings and his Public Life です。遺族に配慮して、いっさいの個人生活の記述は省かれ、ほぼ全文、モリスの書き残した言葉をつなぐかたちで構成されています。私は、これらふたつの伝記の記述手法に関心をもってきました。といいますのも、伝記文学の形式が確立しているといわれている英国とは異なり、これまで日本で出版された伝記にあっては、一般的にいって、歴史記述とも現代批評ともいいがたい、しかも虚実がない交ぜとなった言説が著者自身によって進んで開陳される傾向がしばしば見受けられてきたからです。しかし、上記の二著は、著者自身が多くを語るのではなく、モリス本人に自身の生涯を語らせようとしています。換言すれば、明らかに、客観性と真実性を可能な限り担保するために、著者による多弁と能弁が抑制され、本人が語る事実と現実とが優先されているのです。私が、ジリアン・ネイラーさんのこの書物から学んだのは、この点にありました。
最後に、リストの第八番に挙げていますフィオナ・マッカーシーさんの William Morris: A Life for Our Time を取り上げて論じてみます。ここから何を学び取ることができるのでしょうか。
「序文」のなかで、このように語る著者の一節がありますので、引用しておきます。
モリスに関する最近の書物は、専門家としての立場からモリスについて見解を述べる傾向にありました。私たちはすでに、マルクス主義からのモリス像、ユング心理学からのモリス像、フロイト派精神分析からのモリス像をもっています。そしていまや、モリスはグリーン主義者から賞讃されています。理論が積み重ねられてゆくことによって、モリスの「全体的な」パーソナリティーは見えにくくなっています。私は、このプロセスを逆転させて、彼を解き放し、そのうえで彼を記述したいと思いますし、もし可能であれば、モリスの最初の伝記作家であるJ・W・マッケイルが一八九九年に見事な二巻本として出版した『ウィリアム・モリスの生涯』以来、誰も試みていない方法でもってモリス神秘の一端を見定めてみたいと希望しています20。
このことが意味することは何でしょうか。伝記は、その主人公が芸術家であれば、芸術史の一部と考えることもできますし、主人公が女性であれば、女性史の一部と考えることも可能です。しかし、最も大きなくくりでいえば、社会史の一端を担う、重要な歴史研究としてみなすことができるでしょう。周知のとおり、とりわけ一九七〇年代以降の英国では、諸学の刷新が求められてきました。「新しい美術史」や「新しい博物館学」が唱えられ、新たな「デザイン史学」や「文化学(カルチュラル・スタディーズ)」も誕生しました。この刷新のうねりは、社会史にも押し寄せます。次の引用は、一九九三年に刊行された『社会史を再考する』のなかからの一節です。
イギリスの社会史研究は、およそこの四半世紀のあいだに歴史学のひとつの大きな分野として確立してきたものである。……イギリスの歴史学で用いられる場合「社会史」という用語は、異なるも関係しあう次の三つのアプローチを包含している。第一は、人びとの歴史。第二は、社会科学から導き出された概念を歴史的に適用することのなかに見出される、私が「社会=歴史のパラダイム」と呼ぶところのもの。そして第三が、「全体の歴史」ないしは「社会の歴史」と呼ばれている、全体化もしくは統合化の歴史への志向21。
ここからもわかりますように、このとき「社会史」に求められようとしたのは、「普通の人びとの歴史」であり、「全体化あるいは統合化された歴史」であったといえます。フィオナ・マッカーシーさんが「序文」に書いている、「理論が積み重ねられてゆくことによって、モリスの『全体的な』パーソナリティーは見えにくくなっています。私は、このプロセスを逆転させて、彼を解き放し、そのうえで彼を記述したいと思います」という文言は、明らかに、当時「社会史」に求められていた刷新内容と軌を一にします。本文を読むと、ジャン・マーシュさんが書くまでほとんど無名であった妻と娘の記述の多さが目を引きます。そして、出生、家庭環境、教育、勉学、恋愛、結婚、性生活、家事、家計管理、妊娠、出産、育児、イデオロギー、政治参加、仕事、労働、友人、趣味、介護、死、葬送などの、普通の人びとにとっての生涯にわたる項目が、そのときの社会的、文化的、政治的文脈に沿って、全体的に統合されて書かれてあり、そこにも私の知的関心は大きな刺激を受けたのでした。そこで私は、伝記というものは、個人礼賛に資するためにその人の仕事と人生にかかわって狭く描かれるよりも、その人を含む家族全体の諸関係を基礎に、統合された生涯が描かれることの方が、産出される情報の学問的価値は高いのではないかと考えるようになりました。実際、著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』の第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」の「跋」のなかで、私は、このようなことを書いています。長くなりますが、引用させてください。
それでは最後に、再びフェミニスト・アプローチについて少し振り返ってみたいと思います。たとえばイギリスにおいて、戦後、高等教育や成人教育が一気に拡大するなか、そこで学ぶ多くの進歩的な学生たちは、これまでに描かれていた「歴史」には、自分たちが属する階層の人間を含む弱者や少数者、あるいは被抑圧者や非特権者たちの姿が存在しないことに気づきはじめました。彼らが指摘するように、たとえば芸術史を例にとりますと、伝統的にその学問が扱ってきたのは、限られた例外を除けば、ほとんどが「偉大なる男性作家」であり、そこには、「普通の人びと」の芸術的行為も「女性芸術家」の作品も完全に抜け落ちてしまっていたのでした。彼らはそこに着目して不満と批判の声を上げ、既存の「歴史」の成立過程と記述内容に異議を申し立てました。 続くフェミニスト・アプローチの第二段階に入ると、両性の不公平さへの感情的なほとばしりは、冷静にも学問的作業の新たな道を開拓し、「普通の人びと」の芸術的行為や「女性作家」の作品が再発掘され、「歴史」のなかに再配置されてゆくようになりました。一九八六年のマーシュさんの著作(訳書題『ウィリアム・モリスの妻と娘』)も、そうした文化的、学問的状況のなかから誕生したといえます。そうした状況がさらに進展し、この分野の学問がすでに次の新たな段階に入っているかどうかは勉強不足でよくわかりませんが、私の個人的な実感としては、第二段階の「男性史」と「女性史」には、自ずと限界があるように感じてきました。といいますのも、「男性史」にあっては、ある種特別の調味料として「女性」を登場させ、「女性史」にあっては、多くの場合いまだに攻撃の材料として「男性」を登場させることが、ステレオタイプ化しているように感じられたからです。そこから脱却するため、いまや私は、ふたつの性に同等の敬意を表し、男と女をひとつの組みとして対象化し、その歴史を記述することの必要性を感じています。それは、名称的には、夫婦史、家族史、あるいは男女関係史ということになるのかもしれません。たとえば夫は家庭にあって、妻や子ども、あるいは使用人に対してどのように接したのでしょうか。一方妻は、どのような言動でもって周りの人間に対して振る舞ったのでしょうか。男女間にあって相互に働くさまざまな力の存在を見定め、その諸力にかかわる変移や実質について、思想的に、社会的に、そして文化的に実証分析することが重要なのではないでしょうか。それぞれの時代の諸次元的制約を受けた過去の行動空間の構造と、そのなかで男女が織りなす力学とが、順次再発見されてゆくことになれば、それを手掛かりにしながら、仕事や家庭における真の両性の平等を今後再構築するうえで必要とされる新たな視点や原理のようなものが萌芽するのではないかと、近年私は、このように考えるようになりました22。
こうした観点に立って書かれたものが、以下の著作でした。
著作集3 『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100476416 著作集4 『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100476417 著作集6 『ウィリアム・モリスの家族史』 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100476419
私が、この三つの巻を書くことができたのも、ジャン・マーシュさんの Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938 とフィオナ・マッカーシーさんの William Morris: A Life for Our Time のおかげであり、感謝の気持ちをいまも持ち続けています。つまり、このふたりの伝記作家の著作から私が得たものは、今後伝記は、社会史(あるいは社会文化史)の主要な一部として、ひとつの複合組織である男女ないしは家族に焦点をあてて描かれる、純正の歴史書となるにちがいないという新しい視座だったのです。
フィオナ・マッカーシーさんからは、さらに次のことを学びました。彼女は、モリスは「フェミニストであったにちがいない」23と書いています。ここで使われている世界的用語法としての「フェミニスト」とは、男性、女性、性的少数者を問わずいずれもの性が、いっさいの偏見も差別も受けることなく、その多様な生き方と諸権利において平等かつ対等でなければならないことを主張する人すべてを指します。したがいまして、「フェミニスト」は、女性だけに限定されて使用される用語ではないのです。まして「フェミニズム=男性批判」という図式も、ここではもはや成り立ちません。モリスは「フェミニストであったにちがいない」というフィオナ・マッカーシーさん言葉に接して以来、私は、富本一枝の夫の富本憲吉も、高群逸枝の夫の橋本憲三も、「フェミニストであったにちがいない」と直観するようになりました。しかし、富本一枝の伝記作家も、高群逸枝の伝記作家も、それを認めることなく、「フェミニズム=男性批判」という極めて矮小化された視点から、実に短絡的にそれぞれの夫を嫌悪していたのでした。私の義憤はそこにありました。かつて「フェミニズム=男性批判」という観念がこの狭い日本にあって一時期支配したことがあったかもしれませんが、しかしいまや、フェミニズムを巡る今日の世界の潮流からすれば、それはとっくに、過去の残滓となっているのです。あえていえば私も、ウィリアム・モリス、富本憲吉、橋本憲三の列に加わりたいと思っています。
加えてもうひとつフィオナ・マッカーシーさんの書物から学んだことがありますので、付言します。
一般的にいって、性の問題は、日本の女性伝記作家は避けて通る傾向にあるように思われますが、英国にあっては、男性であろうと女性であろうと伝記作家は、この問題を、もちろん一次資料に基づくことが前提になるわけですが、積極的に記述しようとします。性の問題は、人間の生活において切っても切り離せない極めて重要なファクターであることを認めているからでしょう。もっとも、遺族への配慮から没後五〇年くらいは触れないことが暗黙の了解事項になっているようです。他方、保管されていた故人の日記や手紙を博物館や図書館が公開するのも、だいたいそれくらい立ってからのことではないかと思われます。したがいましてこの時期、画期的な新たな伝記が上梓されることが多くあります。モリス伝記の場合は、リストの第四番に挙げていますフィリップ・ヘンダースンの William Morris: His Life, Work, and Friends が、それに該当します。
それでは、性の問題にかかわって、因みにフィオナ・マッカーシーさんはどう扱っているのかを、William Morris: A Life for Our Time の「索引」に求めてみようと思います。そこには、「性的指向、モリスの」を一次項目として、それを構成する二次項目が、一三個並んでいます。以下に、それらを列挙します。数字は、該当頁を表わします。ここから、性に関する問題が、いかに広範囲に、かつ詳細に触れられているかがわかります。
sexual orientation, Morris’s: animalism 545-6 bashfulness, Englishman’s 68, 102, 126, 135, 188-90, 221, 305, 451 bondage 128 celibacy 65-9 comrade sisters 50-1, 88, 129, 159, 163-4, 250, 547-8, 588, 636 courtly love 65, 102, 109, 134, 250 Guenevere factor, the 97, 101, 205-6 homosexuality 68, 105 prostitution 127-8 Pygmalianism 137-8 sadism 128-9, 191, 205-6 voyeurism 14, 205-6, 637 warrior women 160, 636-724
ロセッティに続くジェインにとっての二番目の愛人であったウィルフリッド・スコーイン・ブラントが遺した文書類には、自分たちの性にかかわる行為が詳細に描き出されていますが、他方、夫のモリスも妻のジェインも、控えめを徳とするヴィクトリア時代の流儀に従い、自分たちの性生活についてはほとんど語っておらず、事実上闇のなかにあります。そこで伝記作家は、明らかになっているほかの人の性生活に目を向け、そこから「類推」するという手法をとることがしばしばあります。英国特有の一種の暴露趣味といえば、そうともいえますが、たとえば、同時代の美術評論家のジョン・ラスキンは、「性的不能者」であったため、妻は裁判に訴え、離婚を勝ち取り、他の男性に走ります。その事実を踏まえて、モリスの伝記作家は、モリス夫妻にはふたりの娘が誕生していることからして、少なくともモリスは「性的不能者」ではなかったと「類推」するのです。
そこで、英国にみられる上の事例を踏まえて、唐突ではありますが、こうした「類推」の手法を、日本の富本一枝にあてはめてみます。一枝は、自分の特異なセクシュアリティーについて、「死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」25と語っています。これは、没後であれば公開してもいいということを含意します。また、見る限り、決して一枝は、存命中にいっさい自己のセクシュアリティーを口にせず、人に気づかれることなく墓場まで持って行こうとした閉鎖的な人間などではなく、どちらかといえば、存命中にその多くを語っており、開放的な精神の持ち主だったといえます。一方、すでに死後五〇年以上の歳月が経過しました。そこで、過去の歴史的人物としての一枝の実際的なセクシュアリティーに対して、「類推」の手法を使って、目を向けてもいいのではないかと思料します。
さらに別の見方をすれば、自身のセクシュアリティーについて伝記作家や研究者が事実(一次資料)に基づいて今後言及することを、他方で一枝は、待ち望んでいたのではないかとも思料します。その理由は、隠すのではなく明らかにすることによって、広く多くの人に、自分たちのような立場にある人間の苦しみを理解してもらいたいという思いがあったのではないかと愚考するからです。事実、一枝ははっきりと、自分のセクシュアリティーを、誰に遠慮することもなく、公的な雑誌のなかで、以下のように書いているのです。これを読むと、いつかは自身の性の実態が検討されることを一枝自身願っていたのではないかという推量さえできます。いま一度、引用します。これは、『婦人之友』に掲載された一枝の「東京に住む」のなかに認められる、自己のセクシュアリティーについて言及している部分です。
この久しい間の爭闘、理性と感情この二つのものはいまだにその闘を中止しようとはしない。そうしてそのどちらも組しきることが出來ない人間のあはれな煩悶を冷酷にも見下してゐる。平氣でゐる感情に行ききれないのは自分が自分に似合ず道徳的なものにひかれてゐるからで、といって理性を捨切つて感情に走ることをゆるさないのは根本でまだ×に對して懀惡や反感と結びついてゐるために違いない。……本當にこの心の底には懀惡しかないのか、それでは偽だ。あんまり苦しい26。
ここに、セクシュアリティーの解放を巡る理性と感情の激しい対立の一端をかいま見ることができます。自己の特異なセクシュアリティーに向けられた憎しみと、憎みきれない苦しみとが、混然一体となって一枝の心身を襲うのです。一枝は、掲載される雑誌をとおして、自分の心身について広く社会に訴え、理解を求めようとしているように、私には読めます。
とはいえ、一生涯一枝は、自分のセクシュアリティーの特異性について、「男女」や「おめ」といった当時の用語を使って正式に周囲にカミング・アウトすることはありませんでした。しかしながら、「私の著述に向けられたある批判に関連して(その一)」において詳述していますように、彼女が書き残している幾多の性自認や性的指向から判断しますと、ほぼ間違いなく FTM のトランスジェンダー男性であったと思われます。そこで参考になるのが、杉山文野の言説です。『ダブルハッピネス』の著者の杉山は、自身が FTM のトランスジェンダー男性であることをこの本のなかで広くカミング・アウトし、自己の性的行動についても率直に告白しています。紅吉(一枝)が、「栄山」のような紅灯のちまたの遊び女( め ) と、あるいは、青鞜社時代前後の当時、愛の対象としていた月岡花子や大川茂子のような女性たちと、どのような性行為を体験していたのかは、資料上、具体的には何も正確にわかりません。しかし、以下の杉山の自己体験が、「類推」するためのひとつの示唆的素材を提供します。少し長くなりますが、引用します。私は、社会文化史(とりわけデザイン史)を専門とする単なる駆け出しの学徒でしかありませんが、杉山文野さんの勇気に敬服するとともに、こころから感謝をし、ここにその言葉を使わせていただきます。
肌と肌が触れ合う気持ちよさ、好きな人と心がつながる安心感、あんなに楽しくて、気持ちいいものは他にない。しかし、セックスをすればするほど、自分の体が男ではないという現実を痛いほどつきつけられる。体が女だという、いまだに信じられない信じたくない現実を実感する。ところが、彼女を求める僕の気持ち、性欲は間違いなく男性的なものであり、自分の内側の男性的な部分を再確認するのだ。(中略) 最初は服を脱ぐことすらできず、とてもセックスなんて呼べないようなものだった。たとえ彼女であっても……いや、彼女だからこそ、自分の「女」である部分、こんな恥ずかしい体をさらすことなんてできなかったのだ。自分は服を着たまま、一方的に相手を脱がせ、一方的に攻めるだけ。彼女がイッてしまえばそこで終わり。相手に体を触られるのは苦痛だった。彼女さえ満足なら自分も満足だと思っていたし、そう自分に言い聞かせていた。けれど、もちろん満足できるはずがない。(中略) 大学に入る頃になってやっと服が脱げるようになった。最初はお酒の力を借りたり、電気が消えていたりしなければダメだったけど。触られるのにも、少しずつ耐えられるようになった。 何が一番苦痛なのか? 気色悪い自分のオッパイの存在もそうだが、やはり、一番辛いのはペニスがないということだろう。彼女たちの多くは「ペニスに頼って男の勝手なセックスなんかより全然いい」と言ってくれた。しかしそうは言われても、やはりペニスがなければ満足できないのではないかと思ってしまう。立たなくなってしまうという男性の機能障害は、男としてだけでなく人間としての自信も失ってしまうほどショックなことだと聞くが、もともとペニスのない僕に自信なんてものはかけらもない。自分の男としてのアイデンティティなんてズタズタだし、存在自体がコンプレックスなのである。 気持ちが高まってくると、あそこが勃起するような感覚になる。今まで一度も体験したことがないはずの「男体」のイメージが鮮明になってくる。しかし、そこにはペニスではなく、彼女と同じものが存在する。触れられるのにも慣れてきたとはいえ、やはりいまだに体の気持ちよさよりも心の気持ち悪さが先行して、気持ちよくなれない。ところがそんな時、彼女以上に濡れていたりすることがある。そうなると、もうただただ自分の体に呆れるしかない。いったいなんなんだこの体は……どんなシステムでできているんだ?自分が「人間」として不良品であり、その存在が間違っているとしか思えない。 自分は欠陥商品なのか? でなければこの矛盾や苦しさの意味がわからない。セックスをしている時ほど自分が嫌いになることはない。いろんな「壁」を乗り越えようと頑張っている自分がバカらしく思えてきて、もうすべてをあきらめたほうがよいと思ってしまう。生きる意味を失う。死にたい……。セックスをするたびに衝動にかられる。 僕のセックスは、気持ちが高まるだけ高まっても、終わりが来ない。高まった気持ちの行き場がない。相手に求めれば求めるほど手に入らず、すればするほど欲求不満になる。不満を満たそうとすればさらに不満はつのり、そんなことの繰り返し。それでも僕は手に入るはずのない「何か」を求め、またセックスをする27。
以上が、杉山文野の自らの性体験に関する言説です。紅吉(一枝)もまた、これに近い体験をしていたものと「類推」されます。全く同じではなかったかもしれませんが、すべてを否定することもできません。そして、「何が一番苦痛なのか?」「自分は欠陥商品なのか?」「死にたい……」と杉山が発する、それと同じような悲痛を紅吉(一枝)も感じていたのではないかと「類推」します。これまでの富本一枝の女性伝記作家は、この部分を「猥褻」とみなして切り捨ててきました。しかし、この部分が明らかにならない限り、一枝の悲しみも苦しみも、ひいては一枝の生涯も、その実像を得ることはできず、すべてが虚像と化してしまうのです。さらに問題なのは、そうした行為は、意識的であろうと無意識的であろうと、トランスジェンダー人間の存在を歴史から切り捨ててしまう結果を招くことになることです。むしろ歴史家である伝記作家は、弱者や少数者の声を積極的に集め、強者や多数者による抑圧から守らなければなりません。いま私は、虐げられた人びとの存在をしっかりと歴史的に確保することが、小さい自身の大きな務めであると考えています。
原則論になりますが、伝記作家が、実証や論証から離れて、作文や創作の形式によって虚像を作成すれば、主人公の尊厳を傷つけることになるだけではなく、真実を求める読み手さえも裏切ることになります。歴史家は、常に事実に対して謙虚に頭を垂れる責務があります。事実を、自分の好みや都合で身勝手に変質させてはならないのです。それは、歴史自身を冒涜する行為であると、私はかたく信じます。
実証主義を重んじる私にとっては、一部にみられる、日本のこうした風潮がどうしても看過できず、二回に分けて、この「私の著述に向けられたある批判に関連して」を書いてきました。いよいよ最後の「あとがき」で、ここまでの考察を踏まえての今後の自身の仕事を展望したいと思います。
私の手もとにある記録によりますと、二〇二三(令和五)年の年が明けたころから、著作集17『ふたつの性――富本一枝伝』の草稿を書き始めており、第三章第一節を書き終わったところで中断しています。当時構想していた「目次」は、次のようなものでした。
まえがき――新しい伝記書法の試み 第一章 生い立ちと学業(富山・東京・大阪・東京・大阪) 一八九三(明治二六)年~一九一二(明治四五)年 第一節 富山での出生と幼児期 第二節 離郷後の東京での学童期 第三節 転居後の大阪での学童期 第四節 夕陽丘高等女学校時代 第五節 女子美術学校入退学 第六節 『青鞜』の創刊を知る 第七節 一時帰阪と新境地の幕開け 第二章 青鞜社を舞台に(大阪・東京) 一九一二(明治四五)年~一九一三(大正二)年 第一節 ロダンの作品鑑賞とらいてう宅訪問 第二節 大阪での『青鞜』の手伝いと《陶器》の受賞 第三節 大阪から東京への転居 第四節 青鞜社同人のある夜のミーティング 第五節 「メイゾン鴻の巣」で「五色の酒」を飲む 第六節 吉原「大文字楼」にて花魁と遊ぶ 第七節 青鞜社内外からの非難の嵐 第八節 ある日のらいてうと紅吉の愛の再燃 第九節 ふたりの「同性の恋」の末路 第一〇節 社内での人的交流 第一一節 社外での紅吉の姿 第一二節 青鞜社退社の意向を表明する 第一三節 特異な自己のセクシュアリティーをほのめかす 第一四節 『青鞜』の表紙絵「アダムとイヴ」の製作 第一五節 第一三回巽画会絵画展覧会への出品作《枇杷の實》 第一六節 妹の福美への佐藤春夫の恋心 第一七節 青鞜社からの最終的な退場 第三章 青鞜社退社から富本憲吉との結婚まで(東京) 一九一三(大正二)年~一九一五(大正四)年 第一節 長野、新潟、秋田への傷心の旅 第二節 文展へ《竪琴》を出品するも落選 第三節 『番紅花』の創刊と富本憲吉による図案の提供 第四節 東京、奈良、大阪でのふたりの逢瀬 第五節 塩沢温泉へ憲吉が一枝を誘い出す 第六節 「富本憲吉氏圖案事務所」の開設 第七節 両家の結婚準備 第八節 結婚式と新婚旅行 第九節 一枝のセクシュアリティーについての暴露記事 第一〇節 東京から安堵村への転居 第四章 夫の生地での新生活とその崩壊(奈良県安堵村) 一九一五(大正四)年~一九二六(大正一五)年 第五章 新天地での生活再興とその破綻(東京府千歳村) 一九二六(大正一五)年~一九四六(昭和二一)年 第六章 夫の出奔と晩年の独り暮らし(東京都祖師谷) 一九四六(昭和二一)年~一九六六(昭和四一)年 あとがき 語りの出典と注記 索引
執筆するに当たって、私はこの巻を、伝記記述に関しての新しい実験の場となるよう構想していました。一般的に伝記というのは、伝記作家が、対象となる人物の生涯を、一次資料を駆使しながら、「自分の言葉」でもって叙述することによって成立するものですが、ここでは伝記作家は後景に退き、「本人と仲間たちの語り」でもって富本一枝という対象の人間模様を綴ってゆくことを目指しました。具体的にいえば、私は、富本一枝の生涯について叙述する本文のすべてを、本人と夫たる富本憲吉の言説はいうに及ばず、一枝の周辺に存する平塚らいてうや丸岡秀子のような、多くの友人たちによって書き残されている発話内容や、さらには新聞や雑誌等に散見されるところの関連記事、そうした一枝に群がる一連の揺るぎない証言によって構成したいと考えたのです。
その理由は単純です。できるだけ、いや完全に、虚偽記述をなくしたいという私個人の願望によるものでした。つまり、別の言葉に置き換えるならば、そこには、一枝にかかわる既存の伝記や小説にみられるような、語り手自身の恣意的な多弁性を、可能な限り排除するとともに、記述にかかわるいっさいの曇りのない客観性をしっかりと担保することによって、主人公の全き実像に迫ってみたいという、強い個人的な願いが横たわっていたのです。こうした一種の義憤のような思いのもと、伝記執筆上の新しい手法が醸成されてゆきました。それは、私の担う役割を、著者としてではなく編者としてのそれに限定することでした。つまるところそれは、私が関与するのは、一枝の生涯の分節化に伴い考案されなければならない章題、節題、そして各項目題についての名称設定に限られることを意味します。こうして、関係する幾多の証言を渉猟し、章や節にグループ分けをするなかから、富本一枝というひとりの女性の一生涯にかかわるストーリーとプロットが生み出されていったのでした。
しかしながら、あくまでも「本人と仲間たちの語り」だけで構成される本文ですから、語りの内容にかかわってその背景や行間をも含めて、必ずしも十全に読み手に伝わるとは限りません。その場合、あちこちで未消化の雑駁さだけが残されてしまう危険性が予想されます。そこで、巻末に「語りの出典と注記」を設けました。ここにおいて、今後の再検証に必要とされる、それぞれの資料の出典を明記するとともに、読者のみなさまの思考や判断の手助けになるにちがいないと思われる範囲に限って補足的に注釈を加えることにしました。
こうしてスタートした執筆ですが、三月の終わりころに筆が止まっています。そのころ私の関心が、あるきっかけから同郷人である高群逸枝と蔵原惟人に移ったためでした。はじめは短編のエッセイにまとめ、早く切り上げて進行中の富本一枝の伝記にすぐにももどるつもりでしたが、書き出すとなかなか終わりが見えず、とうとう年を越して、二〇二四(令和六)年の四月に擱筆するに至りました。何と一年を要す長丁場になったのでした。これが、いまウェブサイト上で公開しようとしている、著作集14『外輪山春雷秋月』を構成する「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」なのです。
しかし、この巻を書き上げた私には、濁流が流れていました。高群逸枝の死後、最晩年を生きる夫の橋本憲三に向けられた数々の非難や罵声が、消え去ることなく、残滓となって胸の内に沈殿していたのでした。いまだ存命中であるにもかかわらず、瀬戸内晴美は「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」において、一方、戸田房子は「献身」において、当時「伝記小説」とか「モデル小説」とか呼ばれていた虚構空間を使って、いわれなき汚名を憲三に浴びせ、苦しめていたのでした。さらには憲三没後にあっても、女性史研究家であるもろさわようこは、死者の霊を傷つけるような「外見差別(ルッキズム)」の表現でもって憲三を罵倒しました。
もろさわようこの「高群逸枝」以降も、高群逸枝と橋本憲三へ向かう周囲の関心に変わりはありませんでした。栗原弘は、自著の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』のなかで、高群史学改竄説を唱え、改竄は、それのみならず、日記や随筆などの高群が残した全著作に及ぶことを明言する一方で、その妻の栗原葉子も、『伴侶 高群逸枝を愛した男』を著し、そのなかで、憲三をその共犯者に仕立て上げたのでした。
その間、存命中にあっては橋本憲三本人が、その死以降は、妹の橋本静子が、そしてまた、憲三との後半生を誓っていた石牟礼道子が、反論の文を書きました。しかし、おおかた無視され、静子に続いて道子が他界すると、女性史研究家の岡田孝子が「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」を、そして、同じく女性史家の山下悦子が「小伝 高群逸枝」を書き、生前の憲三の言動のみならず、憲三にとっての静子と道子の存在のあり様についても、自らの理解が及ばぬがゆえに、冷たい視線を送ったのでした。
このことを知った私は、同郷人として単に通りすがっただけの、女性史とは異なる別領域に住む一学徒にすぎないにもかかわらず、その無慈悲と無見識を見て見ぬふりができず、一著を著わし、彼らの霊を慰めることを決意しました。以下に示すのが、これから取りかかろうとする、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』の目次構成です。
第一部 緒言 まえがき 第一章 本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて 第二章 本稿における「三つの巴」の構図について 第三章 本稿の目的と記述の方法について 第二部 「三つの巴」小伝 第一章 誕生――西に不知火、東に大阿蘇、「火の国」に出生 第二章 流浪――高群逸枝と橋本憲三との出会いから出京まで 第三章 幻視――「日月の上に座す」天才詩人高群逸枝の出現 第四章 闘争――『婦人戦線』に立つアナーキスト夫婦の陰陽 第五章 脱皮――「双頭の蛇」となり「森の家」で学問事始め 第六章 再生――戦後の高群女性史学の展開と学会等での評価 第七章 支援――憲三姉妹からの援助と「望郷子守唄」の建碑 第八章 最期――高群逸枝の臨終と一部の後援者たちとの軋轢 第九章 収穫――橋本憲三編集になる『高群逸枝全集』の刊行 第一〇章 寂滅――石牟礼道子の「森の家」滞在と生まれ変わり 第一一章 追慕――原郷の水俣で妻を顕彰する夫橋本憲三の情愛 第一二章 受難――高群逸枝巡礼者たちの水俣来訪と憲三の悲痛 第一三章 服喪――橋本憲三の死去と遺る橋本静子と石牟礼道子 第一四章 無常――高群逸枝と橋本憲三へのいわれなき罵倒数々 第一五章 道行――いざ妣たちが迎える天草灘海底の「沖宮」へ 第三部 結言 まえがき 第一章 「日月ふたり」における瀬戸内晴美の言説についての私見 第二章 高群逸枝の臨終に際しての市川房枝の言動についての私見 第三章 栗原弘の「高群逸枝論」と栗原葉子の「橋本憲三論」についての私見 第四章 橋本憲三の『高群逸枝全集』の編集手法についての私見 第五章 石牟礼道子の「沖宮」における四郎とあやのモデルについての私見 第六章 伝記執筆の要諦についての私見 注 図版 図版出典一覧 索引
ご覧のとおり、よく見かける伝記の構造とは異なっています。といいますのも、高群逸枝や橋本憲三についてこれまでに書かれた小説や小論、あるいは小伝が意図するものとは大きく違い、端的にいえば、それらの先行資料と対立する立場に立って書かれることになるからです。私の身は、瀬戸内晴美、戸田房子、もろさわようこ、栗原弘、栗原葉子、岡田孝子、山下悦子といった人びとの側にはありません。さらには、高群逸枝の死去の際に夫橋本憲三と確執が生じた相手方である市川房枝、浜田糸衛、高良真木らの女性たちの側にも、加えて、真偽は別にして、夫延島英一と高群逸枝のあいだに性的関係があったことを瀬戸内晴美に告げた妻の松本正枝(本名は延島治)の側にもありません。私の立ち位置は、そのような人たちから名誉を棄損され、雑言を並べられ、存在を無視されたりした、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の側にあります。加えて私の身は、逸枝の学問と道子の文学とその接点をなす憲三の役割、この三つの巴を献身的に支えた、橋本憲三の姉の橋本藤野と妹の橋本静子の側に立っています。つまり私は、虐げた強者の側でなく、虐げられた弱者の立場に立ち、彼らを歴史のなかから救い出そうとしているのです。その結果、つまりは、これから私が書こうとする伝記が、高群逸枝研究の主流と思しき流れの延長線上にないがために、幾つかの工夫が必要となり、それを受けて私の目次は、従来の一般的な伝記とは異なる、見慣れぬ独自の構造となっているのです。
もろさわようこの「高群逸枝」を読んだ橋本静子は、それに反論する手紙のなかで、こう書きました。
文筆とは無縁で一行の活字もありません。性質は父母からの血が流れており、理不尽に対しては正直に腹を立てますから、おとなしい方だとは申されないかも知れません。生来、お茶目だと言われています。地位、名声、職業、風采などでは人を見ず、品性や志、それと人柄のあたたかさ、詩情などの情感にひかれます。 もろさわ様は著者紹介によれば、女性史・婦人問題研究家とみえており、社会に裨益するお志の人だと推察いたしました28。
これが、静子の人となりを最もよく表わすものであると思われますし、私の胸を打ちます。藤野の文にも、同じく私の胸に迫るものがあります。次の引用は、逸枝の最期の入院に際して出された手紙からの一節です。藤野は、事実上「無文字世界」の人でした。
マイニチカミホトケニ、ネンジテイマス。/ヒヨウノシンパイワ、イリマセン。イクライツテモ、ミナマタカラオクリマス。/ビヨウキニ、マケズ、シツカリキバリナサイ、クンゾ[憲三]モアナタモ、ミナマタデオセワシマスカラ、アンシンシテ、ヨウジヨウヲシテクダサイ/イツエサマ/フジノ/テガフルエテカゝレマセン29。
それでは、石牟礼道子は、高群逸枝と橋本憲三の夫婦をどう見ていたのでしょうか。道子の文に、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」があります。一九七八(昭和五三)年の暮れ、道子は、沖縄の久高島に行き、その地に残るイザイホーの名で知られる祭儀を見学しました。イザイホーは、三〇歳を超えた島の既婚女性が神女となるために行なわれる、一二年に一度開催される一種の通過儀礼で、そのなかのひとつの儀式が、根人と呼ばれる男性主人が、ナンチュと呼ばれる巫女の額と両頬に朱印をつける神事です。道子の論考の題に用いられた「朱をつける人」は、そこに由来します。そして道子は、この文の最後をこう結ぶのでした。
深い感動の中にいて、「花さし遊( あし ) び」の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に、著者には高群逸枝とその夫憲三の姿は重なって視え、涙ぐまれてならなかった。 逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった30。
道子のこの一節に導かれ、私は、逸枝と憲三の真の本質的関係を知ったような思いにかられました。そして同時に、道子もまた、憲三によって朱をつけてもらった女性だったにちがいないという思いが胸に湧きたちました。というのも道子は、このような表現でもって、「森の家」において憲三との誓いをなしていたからです。以下は、道子が「森の家」に滞在したおりに書いていた日記からの引用です。
今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる31。
そして、このとき静子に宛てて書かれた道子の手紙には、次のような文字が並んでいました。
うつし世に私を産み落とした母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。…… つまり私は自分の精神の系譜の族母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ……そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。そして私は静子様のおもかげに本能的に継承され、雄々しいあらわれ方をしている逸枝先生のおもかげを見ます32。
この言説から判断するとすれば、〈沖宮〉に住むいのちたちの大妣君は、まさしく逸枝その人であり、周りでそれを支える妣たちが、藤野であり静子であるということになります。いうまでもなく、天草灘の底( うなぞこ ) に沈む〈沖宮〉は、道子にとっての「精神の系譜の族母」の住み家、つまりは神殿であり墓所なのです。その家へ手をとって案内する天草四郎(憲三)が、あや(道子)にとっての「最後の人」であり、「朱をつける人」であったことは、もはや言を俟たないでしょう。新作能「沖宮」が、道子の手によって書かれるのは、『最後の人 詩人高群逸枝』が上梓された同じ年の二〇一二(平成二四)年で、道子八五歳の、死去する五年前のことでした。
静子の「もろさわよう子様へ」が掲載された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の「編集室メモ」に、静子は、こう書いています。
あたたかい陽ざしの此の頃を、兄夫婦の墓家と下段の私どもの墓家を毎日訪ねています。レリーフによりかかりますと、途端に私は八才の少女になり「イツエねえちゃん。どうしよう?」とたずねます。「静子さん、もういいのよ。あなたもここへいらっしゃい」と声が返って来たように思いました。人は皆、死ぬことに決まっているのに。「お手紙」を書いたことにこころがいたみます33。
私はここに、静子の無念さと、その苦しみを手紙にする自分の所在のない移ろう気持ちとを見ます。私も、逸枝、憲三、道子、藤野、静子の無念さを、わかるといえば不遜になりますが、彼らが遺した証言(一次資料)に全幅の信頼を置いて、自分なりに描いてみたいと、いま思っています。しかし、静子同様、「人は皆、死ぬことに決まっているのに」――そう躊躇する気持ちがないわけではありません。しかし、道子の次の言葉が私の背を叩きます。
〈ゆき女瓔珞( じょようらく ) 〉という章を、苦海浄土第二部でいま想定しています。 わたくしの死者たちは遺言を書けませんから、死者たちにかわって、わたくしはそれを書くはめになるのです。 してみると、すでにわたくしは死者たちの側にいることになる。 いついつ、そのようなことになったのか。 どうもわたくしは心中をとげたらしい34。
逸枝がいう「千の矢もて刺さる」ことを覚悟のうえで、それでも私も道子に倣い、「わたくしの死者たちは遺言を書けませんから、死者たちにかわって、わたくしはそれを書く」ことにしました。どうやら私は、「死者たちの側にいる」ようです。そして、私も意を決して「心中をとげたらしい」のです。
著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』において、「三つの巴」である彼らに成り代わって、どう生き抜いたのか、どう苦しんだのか、つまり、彼らにとっての「遺言」に相当する、その生涯に流れる愛と孤独と苦悩とについての執筆が終わりましたら、やっともとにもどり、今度は、著作集17『ふたつの性――富本一枝伝』のなかで、一枝が生涯にわたって苦しんだ「ふたつの性」に向き合いたいと思います。一枝さん、お待たせしています。私はあなたが、最初期の日本の婦人運動の最前線に立った人であることをかたく信じています。私にとっての渾身の力を振り絞って文字にするつもりです。
(二〇二四年九月)
(1)高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、168頁。
(2)高群逸枝「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』第1巻第1号、1930年、婦人戦線社、8頁。
(3)『婦人戦線』第1巻第1号、4頁。
(4)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、3-4頁。
(5)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204-205頁。
(6)同「高群逸枝」、244頁。
(7)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、453-454頁。
(8)岡田孝子「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、200頁。
(9)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、201-202頁。
(10)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、203頁。
(11)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、63-64頁。
(12)石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、91頁。
(13)同「朱をつける人」、93頁。
(14)山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、51頁。
(15)同「小伝 高群逸枝」、51-53頁。
(16)高群逸枝著・橋本憲三編『高群逸枝全集』第10巻「火の国の女の日記」、理論社、1965年、2頁。
(17)同『高群逸枝全集』第10巻「火の国の女の日記」、62頁。
(18)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. 232. [マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、313頁を参照]
(19)マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、14頁。
(20)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. viii.
(21)Adrian Wilson ed., Rethinking Social History: English Society 1570-1920 and Its Interpretation, Manchester University Press, Manchester and New York, 1993, p. 1 and p. 7.
(22)中山修一著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』所収の第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」、2018年9月、100-101頁。2024年9月22日に閲覧。URLは、以下のとおりです。 //www2.kobe-u.ac.jp/~shuichin/pdf/nakayama_work11_full.pdf
(23)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. vii.
(24)Ibid., p. 775.
(25)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。
(26)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻、1927年1月号、110頁。
(27)杉山文野『ダブルハッピネス』講談社、2006年、178-181頁。
(28)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、3-4頁。
(29)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(下)朝日新聞社、1981年、350頁。
(30)石牟礼道子「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、99頁。
(31)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、247頁。
(32)同『最後の人 詩人高群逸枝』、248-249頁。
(33)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。
(34)『石牟礼道子全集・不知火』第四巻/椿の海の記ほか、藤原書店、2004年、524頁。