「ある批判」とは、二〇二三(令和五)年二月刊行の『大東文化大学紀要 人文科学』(第六一巻)に所収されている、渡邊澄子執筆の「富本一枝におけるセクシュアリティ」と題された「論文」のなかにおける次の言説です。
一枝におけるレズビアニズムを辻井喬の『終りなき祝祭』、時代錯誤ぶりに呆れ哄笑するしかない中山修一の「著作集3・4・11巻」は一枝を性的堕落者と決めつけて猥褻に描いているが、一枝は中山が決めつけているような猥褻な「性的転倒者」だっただろうか1。
この渡邊澄子の「富本一枝におけるセクシュアリティ」は、大東文化大学機関リポジトリにおいても公開され、以下のとおり、オンラインで読むことができます。
https://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/54259/AN00137137-20230228-025.pdf
他方、批判の対象とされている「著作集3・4・11巻」は、私がウェブサイトで公開しています次の著述物を表わしているものと思われます。
https://www2.kobe-u.ac.jp/~shuichin/pdf/nakayama_work3_full.pdf https://www2.kobe-u.ac.jp/~shuichin/pdf/nakayama_work4_full.pdf https://www2.kobe-u.ac.jp/~shuichin/pdf/nakayama_work11_full.pdf
なお、現在のところ、巻として完結しています著作集3と4の二巻につきましては、以下のとおり、神戸大学学術成果リポジトリでの閲覧も可能となっています。
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100476416 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100476417
それではこれより、渡邊澄子「富本一枝におけるセクシュアリティ」の一文に関しまして、批判的に検討してゆきたいと思います。
私の著述に対しましての、上記の批判的文言が含まれる、渡邊澄子の「富本一枝におけるセクシュアリティ」の最初の頁の上部には、見てわかりますように、「論文」という文字が印字されています。これは、この文が研究論文(学術論文)であり、形式と内容とにかかわってそれにふさわしい作物として、掲載誌の編集委員会において査読ののち、受理されたことを意味します。
それでは、「研究論文」とは、一体どのようなものなのでしょうか。以下に、その要件につきまして私見を述べます。一般的にいって、とりわけ人文系の主として文献や資料に根拠を置いて過去の事象を考究しようとする研究論文は、形式上「はじめに(導入/意図)」、「本論(実証/分析)」、「おわりに(結論/考察)」の三つの要素から構成されます。「はじめに」において、取り扱う主題にかかわってその背景や問題の所在などを明確化し、次に、同じ主題を扱った過去の論文を時系列に沿ってリヴィューし、最後に、本論文がどのような歴史上の文献や資料等に則り、いかなることを明らかにしようとするものであるのかを、つまりは、研究の手段や目的にかかわる新規性等について明示することになります。「本論」にあっては、全体的構成を念頭に幾つかの論点に分節化したうえで、証拠(根拠)となりうる一次資料を使って、主題の内容や構造や意味などを対象に論証なり実証なりを進めてゆき、「おわりに」において、明らかになった事柄をまとめて結論としたうえで、それに依拠して、その含意するところや、その主題に備わる将来的意義などを考察します。そして末尾において、引用に使用した一次資料の出典(検証に際して必要となる、たとえば、著者名、論文名、掲載雑誌名、発行所名、発行年、引用頁などにかかわる正確なデータ)を「注」として一覧にするとともに、あわせて、関係する、あるいは根拠となる視覚資料である図版を一括して整理することになります。こうして、より精緻な科学的手続きをとることにより、次に来る研究者はみな等しく、同じ主題について同じ一次資料に基づいて分析した場合には、ほぼ同じ結論に達することが予見され、研究者間にあってその後共有されることになるであろう、検証可能な学術的知見なり普遍的真実なりの産出が可能となるのです。いうまでもなく、以上概略的に述べた研究論文の執筆上の手法は、おおかた大学における卒業論文の段階から適応されます。
それでは、渡邊澄子の「富本一枝におけるセクシュアリティ」が、そうした「論文」の要件を満たしているかどうかを見てみたいと思います。結論からいえば、渡邊の文は、私が考える「論文」の要件から大きく逸脱した、単なる作文か感想文の類になっているといわざるを得ません。それでは、渡邊の文の弱点につきまして、ふたつの観点から少し検証します。
まず一点目の弱点は、「はじめに」「本論」「おわりに」という、論文に不可欠な構成要素が、はっきりと区分けされていないことです。そのため、この研究の目的と方法が判然とせず、本論も、漠然と一枝の生涯をなぞったにすぎず、したがって、そこから得られる結論も、極めてあいまいなものとなっています。具体的に見てみます。渡邊は、この「論文」をこのような言葉で書き出します。
尾竹紅吉から富本一枝となって流さねばならなかった涙について「ジェンダー・セクシュアリティ研究」における「クイア研究」の視点を視野に収めながら考えてみたい2 。
一般的にいって、一枝の「流さねばならなかった涙」の分析をこれから執筆する「論文」の目的に選び、それについて論究しようとするのであれば、「流さねばならなかった涙」について一枝は、実際にどう告白しているのかを、つまりは、これから分析に供しようとする研究対象を、著者はまずもって特定し明示しなければならないと、私は考えます。しかし渡邊は、それについて何も書いていません。つまり、「涙」の存在を明らかにしないまま、明らかに「涙」があったかのごとくに、それを身勝手にも前提として、延々と一枝の生涯を書き継いでいるのです。一言でいえば渡邊の文は、研究対象なき、ただの漫然とした散文となっているのです。
しかしながら、一枝が書き残したものを私が調べる限りでは、一枝は、以下のとおり、一箇所において、自分の流す涙について語っています。
あきらめてあきらめてたそこから生まれてくるよろこびを見るとき、自分ひとりの心に深くしりぞき、しづかに、あつい泪をながします。若い頃に比べて、なんと云ふちがつた心のもちかたか、思いかへしてみると不思議なものですね3。
一枝が書いた最初の小説である「貧しき隣人」が、一九二三(大正一二)年の『婦人公論』三月号に掲載されます。「貧しき隣人」が公表されてから間を置くことなく、同年の五月二九日に、一枝は、「あきらめの底から」という題をもつ短いエッセイを書き上げ、同じ『婦人公論』が企画する特集「生の歡びを感ずる時」へ寄稿します。上の引用文は、その文のなかの一節です。明らかに、この「涙」は、「あきらめの底から」小説が書けたことに対する「生の歡びを感ずる時」に流した「涙」でした。渡邊は、この「涙」について、いっさい触れていません。
もっとも、私の知る限りでは、一枝は、別の次元での「涙」と対峙していました。それは、生涯抱え持っていた自身のセクシュアリティーにかかわるものでした。「涙」という文字は使われていませんが、それに関連する深刻な言及が、一枝について書き残されたもののなかや、一枝本人の書き残したもののなかの、至るところに表出されています。ここでは、そのうちのふたつの例を紹介します。
最初の事例は、一九一四(大正三)年一〇月二七日に、富本憲吉と尾竹一枝(青鞜社時代に使用した雅号は「紅吉」)は結婚しますが、その直後に雑誌に掲載された暴露記事です。これは、一二月一日発行の『淑女畫報』一二月号に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」という題がつけられた記事で、そのなかで、ふたりの結婚の陰にあって、紅吉に愛された月岡花子と大川茂子のふたりの女性が悲しみの涙を流していることが暴露されます。その経緯を詳述したあと、その記事は、「紅吉女史は女か男か」という見出し語に続けて、このように、紅吉のセクシュアリティーを描写するのでした。
紅吉女史は女か男か?この質問ほど世に笑ふべき、馬鹿らしい、不思議な質問はありません。然しそれ程紅吉といふ女は不思議な女とされてゐるのです。彼女は勿論女である、而も立派な女性であることは争はれない事實です。然し彼女の一面に男性的なところのあるのも事實です。先づ第一にその體格の如何にもがつしりとして、あくまでも身長の高い所に『男のやうだ。』と云ふ感じが起ります。セルの袴に男ものゝ駒下駄を穿いて、腰に印籠などぶら下げながら、横行闊歩する所に、『まるで男だ。』と云ふ感じが起ります。太い聲で聲高に語るところ、聲高に笑ふところ、其處にやさしい女らしさと云ふ點は少しも見出すことは出來ません。男のやうに女性を愛するところ、その女性の前に立つて男のやうに振舞ふところ、それは彼女が愛する女と楽しい食卓に就いた時のあらゆる態度で分ると云つた女がありました。甘い夜の眠りに入る前に男のやうに脱ぎ棄てた彼女の着物を、彼女を愛する女が、さながらいとしい女房のやうにいそいそと畳んだと云ふことを聞いたこともありました。 實際彼女は男のやうに我儘で、男のやうにさつぱりとして、男のやうに無邪氣で粗野な一面を持つてゐるのです。それがやがて彼女を子供のやうだとも云はしめ、新しい女といふ皮肉な名稱を彼女に與へた動機ともなつてゐるのです。そしてまた彼女が同性を惹き付ける點もおそらく其處にあるのです4。
この暴露記事が世に出て数箇月後、ふたりは東京での生活を切り上げ、憲吉の生家のある大和の安堵村に居を移すのでした。若くて美しい女性に向かう一枝の「落ち着きのない心」を二度と惹起させないための転居だったものと思われます。
ふたつ目の事例は、一枝が書く自身のセクシュアリティーについての描写です。以下の引用文は、一九二七(昭和二)年一月刊行の『婦人之友』に掲載された「東京に住む」のなかの一節です。一枝の「落ち着きのない心」が再燃して、その結果、富本一家は、安堵村から東京の千歳村への転地を余儀なくされます。
かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た5。
一枝は「心の轉移」という言葉を用いています。一枝が女性同性愛者(レズビアン)であったとすれば、彼女にとってこの言葉は、同性愛から異性愛へと性的指向を「轉移」させる試みを示唆する心的な用語法だったのかもしれません。それとは違って、一枝が、肉体的には明らかに女性でありながらも、心の性を男性として自己認識するトランスジェンダーであったとするならば、一枝の女性に向かう性的欲求や恋愛感情は当然異性愛ということになり、したがってこの言葉は、心の性を体の性へと「轉移」させことを意味する彼女の内に秘められたキーワードであったにちがいありません。しかし、どちらにしてもそれは、「並大抵の力では出來るものではなく」、過度の心身の葛藤と衰弱を伴うものでした。一枝の、生涯を通じての「涙」は、ここに存在していました。そしてまた、その「涙」にかかわって、東京から大和へ、そして大和から東京への移転はなされてゆくのです。
しかしながら渡邊は、これについても完全に言及を避けています。これでは、研究対象が闇に隠され、「尾竹紅吉から富本一枝となって流さねばならなかった涙」を分析しようにも、分析できるはずもないのです。そしてまた、一枝と憲吉の生涯にとって極めて重要な意味をなす二度の転居の、その理由もまた、分析の対象から遠ざけられてしまうことになるのです。
一枝は本当に「涙」を流したのかどうか、そうであるとすれば、それは、いつ、どこで、何ゆえなのか、研究の対象にしようとする「涙」の所在そのものが明確にされていないこと、つまりこれが、渡邊の文の、一点目の大きな弱点であり、「論文」の体を成さない理由なのです。
次に、二点目の弱点を挙げてみます。渡邊の文においては、何を明らかにしようとするものなのか、その目的もさることながら、それをどのような方法で達成しようとするのか、その方法もまた明示されていません。そのことは、この文の主題であると思われる「富本一枝におけるセクシュアリティ」に関する分析にとって、大きな問題をはらむことになります。実際本文を見ますと、主題の分析に当たって、文献も資料もいっさい使用されることなく、ただの思弁的な自身の思い込みの羅列となっているのです。これでは、書かれていることの検証はできず、真偽の判断が不可能となります。この文は、一枝の生涯を描いた一種の伝記の様相を呈しています。伝記とは、実在したひとりの人間の生涯を扱った歴史書であり、書かれる内容は、あくまでも真実に肉薄しなければならず、決してフィクションなどであってはなりません。つまり、そこに書かれていることが真実であってこそ、人はそれを信じ、安心して一枝の人生を追体験する喜びを得ることができるのです。ところが、渡邊の「富本一枝におけるセクシュアリティ」は、いかなる一次資料にも根拠を置かないまま、断定的な論述が全編を覆います。まさしくこの文は、あたかも、自分の心情が吐露されたエッセイなり、あるいは、おもしろおかしく描かれた小説なりの領域に属するかのような、単なる読み物と化しているのです。
以上、ふたつの観点から、渡邊の文の重大な弱点を指摘し、したがって、その文が「論文」と呼ぶに値しないことを論じました。それでは次に、そのような性格をもつ渡邊の文のなかにおいて書かれてある、私の既存の論述への批判内容について検討します。
いま一度以下に、「富本一枝におけるセクシュアリティ」と題された渡邊澄子の「論文」のなかに現われている、私への批判箇所を引用して、確認します。
一枝におけるレズビアニズムを辻井喬の『終りなき祝祭』、時代錯誤ぶりに呆れ哄笑するしかない中山修一の「著作集3・4・11巻」は一枝を性的堕落者と決めつけて猥褻に描いているが、一枝は中山が決めつけているような猥褻な「性的転倒者」だっただろうか。
私がウェブサイトで公開しています「著作集3・4・11巻」は、「富本一枝におけるセクシュアリティ」の先行研究に相当しますので、本来であれば著者は、「論文」の冒頭に「はじめに」を起こし、そのなかで批判的に検討すべきであったと思量します。他方、「時代錯誤ぶりに呆れ哄笑する」といった、自己の感情の横溢を制御できないような猥雑な文言や、「猥褻」といった、実態が明瞭に把握できないような極めて情緒的で主観的な文言は、研究論文にはふさわしくなく、むしろ本来的になすべきであったことは、具体的な頁を示して、そこに書かれてある内容を特定したうえで、自身独自の批判の根拠を明らかにし、その観点に立って論理的に吟味することであったと愚考します。そうしたあるべき手続きがとられていないことは、極めて遺憾なことでありますが、この際そのことは横に置き、述べられている当該箇所に見受けられる「猥褻」の一語に着目して、以下に少し検討してみたいと思います。
渡邊は「猥褻」の語を定義していませんので、その意味するところは定かではありません。そこで、どの場面にあって渡邊は「猥褻」という語を使っているのか、その使用例を見てみたいと思います。それに先立ちまして、まず、辻井喬の『終りなき祝祭』のなかの一節を、以下に引用します。
床まである上部がガラスの戸が開いたままになっている。善吉は留守のあいだに草がずいぶん伸びたと思った。部屋のなかには中空に上った月の光の奥になっていてよく見えない。蚊帳が吊ってあるのが分った。夜具が白く浮上ってくる。人が浴衣を着て寝ている姿がぼんやりと見えてきた。声を掛けようと一歩踏み出して善吉は思いとどまった。彼女の動きが不自然なのだ。と、腕のようなものが、白い浴衣の肩を捕えた。寝ているのは一人ではない。小さい呻き声が聞え、それを制止するような囁きが続いた。……「誰ですか、あんたは」文の怯えた声があがった。……隣の部屋から誰かが起きたらしく、そっと、部屋の奥に入ってきた。壮吉らしかった6。
ここに登場する「善吉」が富本憲吉、「文」が富本一枝、「壮吉」が、ふたりの実の息子の富本壮吉であることは明らかです。著者の辻井喬と壮吉は、少年時代から大学時代に至るまで信頼できるみぢかな友人同士でした。映画監督を職業とする壮吉は、自身の両親を映像化することを望んでいましたが、その夢はかなわず他界します。その遺志を継いで書かれたのが、『終りなき祝祭』です。引用の場面は、勤務していた美術学校の生徒を連れて飛騨高山に疎開していた善吉が、途中で一度東京の自宅にもどり、そっと庭先に回ってみたときの場面です。
上で引用した、まさしくこの箇所ではないかと思われますが、これを、自著の『青鞜の女・尾竹紅吉伝』において渡邊は、「辻井喬が『終りなき祝祭』に猥褻をにおわせる描きかたをした場面」7と書き、ここに「猥褻」という語の用例が認められます。このことから判断しますと、渡邊にとっての「猥褻」とは、女性同士の性的関係を指すものと思われます。しかし、『終りなき祝祭』は、壮吉が死に向かう病床で書き残した手記が土台になっていますので、小説といえども、書かれているこの描写は、おそらく決して虚偽ではなく、ほぼ真実に近いものではないかと思われ、したがいまして、これが「猥褻」であるかどうかの判断は、決して一般性はなく、ひとえに渡邊個人のあいまいな主観に帰されるものとしかいいようがありません。
それでは、私の「著作集3・4・11巻」は、どうでしょうか。私は小説家ではありませんので、こうした性描写は、自分の文のなかでいっさい行なっていません。他方、渡邊は、「一枝は中山が決めつけているような猥褻な『性的転倒者』だっただろうか」と書きますが、私自身は、一枝に対しまして一度も「性的転倒者」という用語を使ったことはありません。これは、平塚らいてうが、一枝のことを「私の近い過去に於て出逢つた一婦人――殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人」8と称して書いた文を引用した際に、使用した文言なのです。それでは、渡邊の目に映っている「中山が決めつけているような猥褻な『性的転倒者』」は、何に由来するのでしょうか。それは、そう書いている本人しかわからないことですが、先に指摘した「猥褻」の用例から類推しますと、私が過去のさまざまな資料から引用した、一枝の性自認と性的指向に関する、本人あるいは他者による記述についての箇所ではないかと推量されます。その事例は多数ありますので、ここでは、それに該当する箇所を、結婚に先立つ青鞜社時代のころの本人の口によって語られた数例に限って、以下に引用します。
私は苦しい苦しい心の病氣を、少しでも慰めるために、十二階下にゐつた。銘酒やの女を見に行つた。…私は立派な男で有るかの樣に、懐手したまゝぶらりぶらり、素足を歩まして、廻つて來た、その気持のいゝ事。あの女の一人でも私の自由に全くなつて來れたらなら…とあてのない楽しみで歸つて來た9。 [吉原での]私の花魁は榮山さんと云ふ可愛い人でしたよ……私は眞實に身受がしたくなり茶屋へ歸つてから聞きますと千兩は掛かると云ふんです……若し男だつたらと男が羨ましくなりました、浅草の銘酒屋もよう御座いますネ、今度は呼れたら上つて見やうと思ひます10。 私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです。……人が知つたら恐らく危険だとか狂人地味た奴だとか一種の病的だろうとか位いで濟ましてしまうでしよう11。 私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが12。 私にはちいさな時分から美しい女の人をみることが非常に心持のよいことで、また、大變に好きだつたのです。それで私の今迄の愛の對照( ママ ) になつてゐた人のすべては悉く美しい女ばかりでした13。
おそらく渡邊にとりましては、こうした引用文が「猥褻」に映り、どうしても認めることができなかったのではないかと思料します。こうした資料に残る文を引用した私をもって、「時代錯誤ぶりに呆れ哄笑するしかない」と、渡邊は批判しますが、むしろ、真実に率直に向き合うことができない、渡邊の硬直した偏見的差別精神が、問題なのです。
以上の引用文から見えてくるのは、一枝はレズビアンではなく、トランスジェンダー男性だったのではないかということです。「トランスジェンダー」というのは、今日的用語で、当時は「男女( おとこおんな ) 」や「おめ」という隠語で呼ばれていました。また一枝は、「死ぬる時に遺言状の中には書くかしれません」といっていますが、これは、生きているうちはカミング・アウトしないということを言い表わしているのかもしれません。しかし、「カミング・アウト」という用語も今日的なものであり、上の五つの引用文が実質上の「カミング・アウト」を構成しているとも受け取ることができます。それでも、「男女」や「おめ」という用語を使って、本人が明確に意識してカミング・アウトしていない以上、一枝をして決してトランスジェンダー男性であったと断定することはできません。しかしながら、だからといって、上の引用の事例を隠蔽してしまえば、一枝のセクシュアリティーは完全に闇に閉ざされ、ひいては、一枝の真実の生涯そのものも永遠に見えなくなってしまいます。ところが渡邊は、「富本一枝におけるセクシュアリティ」において、上に挙げた引用文はおろか、一枝の性自認や性的指向に関する、歴史に残るすべての資料から目を遠ざけ、いっさい口をつぐんでしまったのでした。
渡邊は、「富本一枝におけるセクシュアリティ」のなかで、一枝のセクシュアリティーについて、以下のように結論的に書いています。
女を愛するとはどういうことか。同性愛には性的堕落を伴う「遊戯的な愛」と「真っ当な愛」があり、「真っ当な愛」は女性解放思想に結びつく。一枝における女同士の親密な関係を検証するとどの場合も精神性が重視された「真っ当な愛」で女性の能力発揮、換言すれば女性の地位向上に結びついている14。
渡邊は、「一枝における女同士の親密な関係を検証するとどの場合も精神性が重視された『真っ当な愛』」であったごとくに書きますが、見てのとおり、「富本一枝におけるセクシュアリティ」のなかで、そのことが、妥当な一次資料を使って検証された形跡は何ひとつ残されていません。つまり、渡邊がいうところの、一枝が女性間の同性愛者であったことも、同性愛には「遊戯的な愛」と「真っ当な愛」との二種類があることも、そのなかで一枝の同性愛は「真っ当な愛」であったことも、そして、一枝の「真っ当な愛」が「女性の地位向上に結びついている」ことも、動かしがたい証拠(エヴィデンス)に基づいて実際に証明されているわけではないのです。したがって、渡邊の「富本一枝におけるセクシュアリティ」から引用した上の言説は、こうあってほしいと思う、単なる渡邊の恣意的な思い込みによる虚妄的決めつけでしかないのです。こうした過程のなかにあって、虚飾された富本一枝像が「論文」という名を借りて捏造されてゆくのでした。
そこで、蛇足になることは十分承知のうえで、渡邊が強調する、同性愛にかかわる「遊戯的な愛」と「真っ当な愛」の二分法と、同性愛が「女性解放思想に結びつく」とする所見との二点に関しまして、ここに私見を書き残しておきたいと思います。
まずは、同性愛にかかわる「遊戯的な愛」と「真っ当な愛」の二分法に関しての私見です。
私は、ウェブサイト上で公開しています著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』の第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」におきまして、一九一一(明治四四)年八月一一日の『婦女新聞』に掲載された第一頁(一面)の社説を部分的に引用しました。「同性の愛」という表題がつけられ、女性間の「不可思議な」セクシュアリティーについて論じていた、その社説の書き出しの部分を、いま一度ここで、以下に引用します。
『女同士の情死』と題して、二人の女工が手を携へて投身したりし新聞紙に報せられたる事あり。最近に一博士の令嬢と、一官吏の令嬢とが共に高等女學校卒業の敎育ある身にして、同じやうなる最期を遂げたるあり。新聞紙は之を同性の愛、世俗に所謂オメの關係なりとして審しまざる樣子なるが、同性間に、果たして異性間の如き愛の成立し得るものなりや否や。容易に信じ難けれども、若し眞に成立し得るものとせば、娘持つ母及び女子敎育家は、最愛なる子女の監督法に就て新なる警戒を加へざるべからず。かゝる問題は人生の機微に關し、紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども、又それだけに重大な問題なるを以て、眞面目に研究する必要あり15。
この社説では、女工の例と令嬢の例を、ともに「オメ」の関係とみなしながらも、前者については、女性相互の「熱烈な精神的友情」に基づく関係とし、後者については、男性的な女と女性間の「肉的堕落」との烙印を押します。社説は、二種類の「同性の愛」の内的違いを、このような文言を使って解説するのでした。
後者の所謂オメなるものは、實に不可思議の現象にして、今日の生理學心理學にては殆んど説明しがたし。然り、説明はせられざれども、事實の存在は否定すべきにあらず。恐らくは是れ病的現象ならん。……前者に於ては、關係ある二人の境遇年齢性格等が相似たるを要するに反し、後者は、一人が必ず男性的性格境遇の女子にして、他を支配するを要す。前者は熱烈なる精神的友情に因て成立するに反し、後者は不可思議な肉の接觸を俟ちて成立するが如し。前者は死を共にするまで互い同情すれども、後者は、元來が肉的堕落なれば、さまでに双方の精神が一致せず。即ち一方的男性的の女は、常に巧なる一種の手段を弄して他を操縦するなり。されど、いかにしても不可思議なるは、操縦せらるゝ女が、全然對手の術中に陥りて、眞の戀愛状態に陥ること、異性に對すると殆んど差違なき事なり16。
一九一一(明治四四)年八月という早い段階にあって、『婦女新聞』の社説において、すでに二種類の「同性の愛」についての指摘がなされていたのでした。著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』に所収されている第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」において私が引用していた、上のふたつの文を、渡邊が読んでいることは、明白でしょう。であるならば、渡邊が指摘してみせた、同性愛にかかわる「遊戯的な愛」と「真っ当な愛」の二分法の根拠が、ここにあったことは、もはや疑いを入れません。もっとも渡邊は、それについて全く口を閉ざします。しかし、いずれにせよそれは、何と一〇〇年以上も前に述べられていた過去の古い言説だったのです。
今日にあっては、性的少数者を指して、LGBTQ の表現が一般に使用されます。L がレズビアン(Lesbian)、T がトランスジェンダー(Transgender)を表わします。トランスジェンダーの人は、生まれたときに割り振られた性別に違和感をもち、社会・文化的には、それとは反対の性別において生きることを求めようとします。そして、身体的には女性でありながら、性自認(Gender Identity)においては男性である人を FTM(Female to Male)、逆に、身体的には男性でありながら、性自認においては女性である人を MTF(Male to Female)という語でしばしば言い表わされます。一方、性的欲望や恋愛感情の対象が、異性なのか、同性なのか、その指向を示す呼称として、性的指向(Sexual Orientation)という用語が使用されます。たとえば、レズビアンの場合は、当事者双方は、身体的に「女」であり、性自認も「女」であるものの、性的欲望や恋愛感情の対象である性的指向が、異性ではなく、同性である「女」へと向かいます。そこで問題なのが、FTM のトランスジェンダーの性的指向が「女」だった場合です。外見上は、女性間の同性愛者(レズビアン)のように見えるものの、実際には、「男」を性自認する者が「女」を愛することからして、したがってこの場合は、「同性愛」ではなく、「異性愛」とみなされることになるのです。
見てきましたように、渡邊は、同性愛にかかわって「遊戯的な愛」と「真っ当な愛」のふたつに分類します。この二分法は、一方の「遊戯的な愛」が FTM のトランスジェンダーの愛を、もう一方の「真っ当な愛」がレズビアンの愛を指しているように読めます。ここで問題になるのは、自身の口から自分は「男女」であるとか「おめ」であるとかは公言していないものの、資料的にはっきりしていることは、一枝の愛は、レズビアンの愛ではなく、FTM のトランスジェンダーの愛であり、決して「同性愛」などではなく、「異性愛」であるということです。そして、渡邊の言説でもうひとつ問題となるのは、「性的堕落を伴う『遊戯的な愛』」という表現を使っていることです。トランスジェンダーの愛は、決して医学上病例として認定されるものでもなく、まして、「性的堕落を伴う遊戯的な」ものでもなく、この地に生きる人間の紛れもない自然な愛の一形態であり、誰ひとりとして、そのことに疑念を挟む余地は残されていません。もし渡邊が、トランスジェンダーの愛を「猥褻」とみなしているのであれば、その視点は、トランスジェンダー人間の排除につながりかねない不当な偏見を生み出す温床となりかねず、性差別にかかわる重大な問題をはらんでいることを、あえてここで指摘しておきたいと思います。
それでは次に、同性愛が「女性解放思想に結びつく」とする所見に関しての私見を書きます。
この『婦女新聞』が発行された翌月の九月に、平塚らいてうの手によって『青鞜』創刊号が世に出ます。それからおよそ二年半後の一九一四(大正三)年四月に、「女性間の同性戀愛――エリス――」が『青鞜』に掲載されました。私は、同じく著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』の第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」におきまして、この「女性間の同性戀愛――エリス――」と題されたハヴロック・エリスの抄訳について、論評しています。その一部は、次に引用するとおりです。
エリスが描写する、「女は家の中の陰氣な倉の内で嘆息しながら、決して來る事のない男を待たねばならないと云ふ樣な舊い敎へに對する嫌悪」――これが、女性の解放や独立を叫ぶ、近代の婦人運動の原点となる思いであろう。エリスはいみじくも、この近代運動が「間接な原因」となって「性的轉倒を惹起した」とみなす。であれば、近代日本の婦人運動の原点に位置づく青鞜社の運動には、これ自体に、「性的轉倒」を招来せしめる力が必然的に最初から内在していたことになる。そして、その歴史的主人公が、まさしく、紅吉、その人だったのである17。
「紅吉」は、尾竹一枝(結婚後「富本」に改姓)が青鞜社時代に使用していた雅号です。ご覧のとおり、すでに私ははっきりと、「女性の解放や独立を叫ぶ、近代の婦人運動の原点」に位置する「歴史的主人公が、まさしく、紅吉」であることを論じているのです。しかしながら渡邊は、同性愛が「女性解放思想に結びつく」ことを指摘するに当たっては、いっさい私の言説には触れていません。あたかも自分の独創的着想であるかのごとくに、自説として語っているのです。渡邊は、何の根拠も示さず、「時代錯誤ぶりに呆れ哄笑するしかない中山修一の『著作集3・4・11巻』」という表現を使って、私を批判しました。しかし、渡邊が強弁する、同性愛にかかわる「遊戯的な愛」と「真っ当な愛」の二分法にしても、同性愛が「女性解放思想に結びつく」とする所見にしても、元をただせばそれらは、私の著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』に、すべてその根拠を置いているのではないでしょうか。
一九二六(大正一五)年の秋、富本憲吉と一枝の家族は、大和の安堵村から東京の千歳村へ転地します。このことに関しまして、私はかつて、渡邊澄子が自著の『青鞜の女・尾竹紅吉伝』のなかで記述していた箇所を取り上げ、以下のように批判しました。長くなりますが、引用させてください。
最後に、渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、2001年)についても、言及しておきたい。安堵村から東京への移転の理由について、著者の渡邊は、折井がすでに示した憲吉の「女性問題」をそのまま踏襲したうえで、こう述べる。 「一家は一九二六年一〇月、東京へ移住することになるが、それには、晩年にまで水面下で尾を曳き、結局、二人の間を離隔させることになったが、その根に憲吉の女性問題をみることができる。私が紅吉に魅せられ、紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる。私はこの間、生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業を仕事の合間の折々に続けてきたが、憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった、と複数の方の証言を得た。子どもも生まれていてこの子は里子に出されたはずと明言した人もいた。しかし一方で、そんな事実はない、田舎は狭いのでもしそのようなことがあったら、誰知らぬ者なく広まってしまうはずだ、という人もいた。しかし、夫である男性が妻とは別の女性と特別の関係を持つ例は、ほとんど日常茶飯事としていわば公認されていた時代状況下では、事実があってもそれは大問題にならないということもあるのではないだろうか。夫を愛している妻である女性がそのことでどれほど傷つくか、その痛みの深さを感じ取れない男性社会だったのだ。」(210-211頁) 残念ながら、この本にも注などは存在せず、そのように断言するうえでの根拠となる証拠も何ひとつ示されていない。「生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業」をしているのであれば、いつ、どこで、誰に、何を聞き、その聞き取った内容を相手に確認してもらったうえで公表の了解を得て、そのすべてを開示すべきであったと愚考されるものの、そのような学問的配慮に欠けるため、このままでは、単なる風聞か噂話の域を出ない状態に置かれているといわざるを得ない。井出秀子とは、丸岡秀子のことを指しているのであれば、紹介者としての当事者である丸岡に、事の真相を直接問い合わせるべきだったのではないだろうか。「紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる」というが、この本が出版されたのが二〇〇一(平成一三)年、そこから逆算すれば、一九八一(昭和五六)年ころから聞き取り調査をはじめていたことになる。丸岡が亡くなるのが一九九〇(平成二)年であることを勘案すれば、著者の渡邊は、その意思さえあれば、丸岡本人へのインタビューを試みることも、あるいはまた、書簡による問い合わせも可能だったはずである。 丸岡秀子自身は、生涯、憲吉の生き方に強い共感を示し、敬愛の念を持ち続けた。晩年に至ってまでも、丸岡はこういった。「いま、若い人たちにとって、二人[憲吉と一枝]は名前さえ知られてはいないであろう。だが、京都、奈良めぐりの旅行の中に、“世紀の陶工”富本憲吉美術館を入れてもらいたいと、私は願う。法隆寺からすぐなのだから」(丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、28頁)。 もし、「憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった」のであれば、紹介者自身も深い傷を負い、憲吉に強い怒りと不信を向けたにちがいなく、晩年のこうした丸岡の憲吉に寄せる信頼と讃美の言葉を目にするとき、著者の渡邊の言説をそのまま受け入れることには、大きな違和感が生じ、もし仮に、それが真実であると主張するのであれば、どうしても、それを裏づけるにふさわしい証拠となる資料を明示すべきものと思われる。とりわけ、「井出秀子が世話したお手伝いさん」が、いつどのような経緯で富本家へ入り、いつ妊娠し、いつどこで出産し、いつどのような経緯でその子が里子に出されたのかを明確な根拠に基づき実証すべきであろう。またその情報を提供した複数の人物とは誰と誰なのか、これについても、歴史的証人として本人たちの了解を得たうえで、明らかにするべきではないだろうか。「生前の二人を知る人」と渡邊はいうが、「女性問題」が持ち上がった一九二六(大正一五)年前後のあいだの安堵の富本家の生活の様子を日常的に知ることができ、渡邊が「聞き書きをとる作業」をする時期まで存命していた人物は、そう多くはないはずである。この時期一枝も妊娠していた。丸岡秀子の奈良女高師の先輩で友人と思われる若い女性教師が円通院で教鞭をとっていた。そうしたこととの混同や取り違えはないのか、あるいは、どこかの段階で誰かが、一枝の「女性問題」を憲吉の「女性問題」と聞き違えたり、伝え違えたりしているようなことはないのか、慎重な対応と吟味が必要とされるところであろう。もし、以上に述べてきたような学問上の基本的手続きに立ち返ることができなければ、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』に対してはすでに上で指摘しているが、そこでの指摘と同様に、反論することも、弁明することも、真実を語ることも、何もいっさいできないまま、憲吉の「女性問題」は永久に歴史のなかに刻印され、かくして「虚偽の歴史」ないしは「歴史上の冤罪」が構成されかねない事態にいまや立ち至っているのである18。
ここで私が指摘した内容は、今回の渡邊の「富本一枝におけるセクシュアリティ」において、どう反映されているのでしょうか。見ることができるとおり、あれだけ明白に、家族の東京移転の原因を憲吉の「女性問題」に帰し、「憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった、と複数の方の証言を得た。子どもも生まれていてこの子は里子に出されたはずと明言した人もいた」と書いていた渡邊でしたが、この文にあっては、それが後退し、いっさい触れられていません。これを証左として、渡邊が『青鞜の女・尾竹紅吉伝』で書いていた憲吉の「女性問題」は、虚偽であったと断定しても差し支えないかもしれません。しかし、「何度もの話しあいで一枝は憲吉を許す気になったのだろうか」19という曖昧模糊とした表現によって、それでも執拗に、東京移転の原因に憲吉の「女性問題」があったかのごとくほのめかすのでした。
渡邊の「富本一枝におけるセクシュアリティ」のなかに見出される、憲吉の「女性問題」に触れた言辞が三つあります。しかし、いかなる証拠(エヴィデンス)も示されていません。前後の文脈からも逸脱しています。そしてまた、実体にかかわる、それ以上の記述もありません。それでは、本文に挿入されている三箇所の文言を、以下に引用します。
夫の女性問題を知ったのは何時だったのか20。 一枝が愛し信じきっていた憲吉の裏切りを知ったのは何時だったろうか21。 信頼の度や愛が深ければ深いほど裏切りから受けた傷の痛みに時効はなく深い22。
ここから判断できますように、結局のところ、『青鞜の女・尾竹紅吉伝』で憲吉にまとわせた、「虚偽の歴史」も「歴史上の冤罪」も、「富本一枝におけるセクシュアリティ」のなかにおいて書き改められ解消されるようなことはなく、それどころか、完全に上書きされ保存されたのでした。
実際渡邊は、憲吉の「女性問題」が、いつ、どのような経緯で発生し、どういうかたちで終息し、その間一枝は、それに対して、どのような態度を示したのか、「富本一枝におけるセクシュアリティ」のなかで具体的に何も書いていません。いうまでもなく、私の調べる限り、それを例証するにふさわしい、信頼できる一次資料は、何も存在しないのです。
渡邊が、その文の冒頭に書いていた、「尾竹紅吉から富本一枝となって流さねばならなかった涙」とは、渡邊にとって、「裏切りから受けた傷の痛みに時効はなく深い」という文言と重なるのかもしれません。しかしそれは、論証も実証も、完全に置き去りにされている独断的な言説である以上、実態を離れた、単なる渡邊の絵空事といわざるを得ません。つまり、換言すれば渡邊は、「富本一枝におけるセクシュアリティ」と題された「論文」にあって、一方で、自分の論稿の「主題」を「富本一枝におけるセクシュアリティ」の分析に見せかけては、一枝の同性愛を、女性解放思想に結び付く「真っ当な愛」と一方的に断じ、そのまた一方で、自分の論稿の「目的」を、一枝が「流さねばならなかった涙」の解明のごとくに装っては、その「傷の痛み」を「憲吉の裏切り」によるものと一方的に決めつけ、実に巧妙に、二重螺旋の虚構空間を練り上げたのでした。
上記内容が、決して絵空事でも虚構なるものでもないと、どうしても主張したいのであれば、研究者の真の責務として進んで渡邊は、事実関係を立証すべく、証拠となる一次資料をすべからく明示し、他の研究者の検証に供すべきであって、それができないのであれば、渡邊の文は、個人的に捏造された単なる妄言として一蹴されたとしても、それは、致し方ないものと愚考します。
この小論で私が示した一次資料が語るところによっても明らかに、一枝のセクシュアリティーは、レズビアンのそれではなく、トランスジェンダー男性のそれであり、一枝が流した涙は、憲吉の「女性問題」にあったのではなく、自身のセクシュアリティーの違和感に起因していたのでした。
それでは最後に、渡邊が、妻を裏切った夫として根拠なく断罪する憲吉という人物は、どのような男性で、どのような夫だったのでしょうか。以下に、参考のために、少し描写しておきたいと思います。
まず、結婚に際しての憲吉の言葉を紹介します。憲吉は、一枝にこう語っています。
アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい23。
ここには、「家」に拘束されない、対等の個人たる両性の結び付きとしての結婚観が示されています。しかし結婚すると、すでに紹介しています、「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」という題がつけられた暴露記事に遭遇します。ふたりが東京を離れ、憲吉の実家のある大和の安堵村に住まいを変えるのは、それから数箇月後の、一九一五(大正四)年三月のことでした。新しい生活がはじまると、一枝は、「結婚する前と結婚してから」を草し、青鞜社時代の自分を、こう振り返ります。次は、その文からの引用です。
評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと悶躁( もが ) いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした24。
振り返って内省してみると、青鞜社員のときの自分は、寂しく、もがき、そして、うそをつき、人をだまし、またあるときは、人をいじめ、人を愛する一方で、「どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと悶躁( もが ) いてゐた」のでした。一枝は、この「結婚する前と結婚してから」のなかで、こうも書いています。「都會を出立して田舎に轉移した彼と私は彼の云ふ高い思想生活を私達の爲めに營むべく最もよい機會をここに見出したことに強い自信とはりつめた意志があつた」25。そしてさらには、「彼は、都會は、私を必ずや再び以前に歸すことを、再び私の落着のない心が誘起される事をよく知つてゐた」26。憲吉は、一枝の「落着のない心」の内実を知っており、理解者でもあったようです。憲吉と一枝の夫婦は、結婚をひとつの好機ととらえ、一枝のいうところの「落着のない心」、つまり同性へ向かう性的指向が二度と誘発されることがないことを強く望んだのでした。
他方、実際の家庭生活における憲吉の振る舞いも、一枝に対して協力的でした。それについて、このように一枝は書いています。
二三日雨が降りつゞいて洗濯物がたまる時がある。そんな時、私と女中が一生懸命で洗つても中々手が廻りかねる[。]それを富本がよく手傳つて、すすぎの水をポンプで上げてくれたり、干すものをクリツプで止めてくれたりしてゐるのを見て百姓達はいつも冷笑した。「いゝとこの主人があんな女の子のやる事をする」といって可笑しがる27。
憲吉の行動は、当時おおかたの家庭において引き継がれてきていた男にとっての伝統的な役割を否定するものでした。それは、授かったふたりの娘、陽と陶の教育にも現われます。学齢期になると、公教育を否定し、富本家の菩提寺に「小さな学校」を個人的につくり、そこに娘たちを通わせるのです。しかし、そこで問題が生じます。奈良女子高等師範学校を卒業し、一年間地方の女学校に勤務したあと、三代目の教師として、ひとりの若い女性が「小さな学校」へ赴任してきます。この女性は、奈良女高師に在籍していたときから、ほかの多くの女生徒に交じって、一枝のもとにしばしば顔を出していましたが、一枝は、この女生徒に特別の感情を抱き、ふたりは、まさしく意気投合した仲となっていました。しかし、赴任してしばらくすると、突如として安堵村から姿を消すのです。ふたりのあいだに何かが起こったことが想像されます。
次の新任教師と同じ関係が生じる可能性も排除できませんし、さらには、これから以降も奈良女高師の女生徒たちが、一枝の魅力に惹かれて集まってくる可能性も、全く否定することができません。そう考えれば、一枝の性的指向を再度惹起させないためには、前回東京から安堵村へと転居したように、転地しか、道はないのです。荷造りがはじまりました。以下は、東京移転について記述されている、一枝の「東京に住む」からの引用です。
かうして幾十日か過ぎた。自分に頼む心の弱々しさを知らねばその間すら過すことが出來ない程もろい自分であつた。夫に勵( はげ ) まされ、荷をつくりかけてゐてすら、さて何處に落着くかその約束の地を見ることが出來なかつた。夫の仕事のためには陶器を造るために便宜多い土地を撰定しなければならなかつた。土を得るに、磁器の料を採るために、松薪を求めるためにも、その他仕事する上には繪を描く人、文筆をとる人々のやうに軽らかに新しい土地に轉ずることは出來ない色々の困難があつた28。
「夫に勵( はげ ) まされ」、荷造りをしているところから判断すれば、憲吉の一枝に対する同情の気持ちが見えてきます。一方の一枝は、転地先を選ぶにあたって、製陶に必要な薪や土などの入手に際しての利便性について憲吉を思いやります。そうした夫の仕事上の特殊な条件を考えると、落ち着くべき約束の地がなかなか見つかりません。それに、娘たちの今後の教育のことも、考慮に入れる必要がありました。一枝は、同じく「東京に住む」のなかで、こう語っています。
夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら、琉球にでも北部朝鮮にでも、九州の山深くある片田舎にでも容易に決定することが出來た。さうして私は夫を愛してゐる。その仕事を思ふことは夫についでゐるものである。しかしながら、すでに女學校へ入學しやうとする程たけのびた上の子供、まもなく姉の後につかうとする妹兒[。]それも四[、]五年の間家庭にあつて特殊な方法で敎育されて來た子供達であつたから、今後の教育方法について考へることが實に多かつた29。
ところが渡邊澄子は、上の「五.果たして私がかつて行なった渡邊批判は生かされているのか」において示していますように、『青鞜の女・尾竹紅吉伝』のなかで、このとき憲吉に「女性問題」が生じ、安堵村を離れなければならなくなったと断言しているのです。何の証拠も示していません。さらに加えて、こうもいいます。
憲吉に女性問題が生じていたことを知った一枝は、ほとんど一カ月にわたって、睡眠らしい睡眠をとることもできない状態にあって、憲吉と話し合う夜が続き、一時離婚も考えたらしい30。
一枝本人がはっきりと語っているように、一枝は、「夫に勵( はげ ) まされ」、荷造りをしています。そしてまた、一枝は、「夫を愛してゐる」のです。それから判断しますと、渡邊がいう、「憲吉に女性問題が生じていたこと」も、「一時離婚も考えたらしい」ということも、渡邊の妄想であることが明らかになります。どうしても、一枝が書く文と、渡邊が書く文のあいだに、整合性をとることができません。証拠となる一枝が書き残した文を越えてでも、こうであったにちがいないという強引な想像や、こうあってほしいという個人的な願望が、渡邊をしてこう書かせているのかもしれません。
一枝の「東京に住む」のなかに、わずかではありますが、自分のセクシュアリティーについて間接的に言及している箇所があります。そのひとつが、こうした文言です。
この久しい間の爭闘、理性と感情この二つのものはいまだにその闘を中止しようとはしない。そうしてそのどちらも組しきることが出來ない人間のあはれな煩悶を冷酷にも見下してゐる。平氣でゐる感情に行ききれないのは自分が自分に似合ず道徳的なものにひかれてゐるからで、といって理性を捨切つて感情に走ることをゆるさないのは根本でまだ×に對して懀惡や反感と結びついてゐるために違いない。……本當にこの心の底には懀惡しかないのか、それでは偽だ。あんまり苦しい31。
この文章を読み解くうえで最大のポイントとなるのは、伏字となっている「×」にどの一字をあてるかということになるでしょう。あえて「性」をあててみます。自分のセクシュアリティーを憎悪する。しかし、それだけでは、偽りであるし、あまりも苦しすぎる。ここに、セクシュアリティーの解放を巡る理性と感情の激しい対立の一端をかいま見ることができます。自己の特異なセクシュアリティーに向けられた憎しみと、憎みきれない苦しみとが、混然一体となって一枝の心身を襲うのです。一枝が神を見るのは、そのときのことでした。
神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。 こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた32。
聖書にあるごとく、キリスト教にあっては、同性愛も異性装も厳しく禁じています。こうして、「自分の心を捨てゝ」信仰心に帰依することにより、富本一家の東京移住が最終的に決定されました。おおよそ一一年半の安堵村生活でした。このとき、満年齢で憲吉四〇歳、一枝三三歳、陽一一歳、そして陶は、まもなく九歳になろうとしていました。東京から安堵村に来たときには、一枝のお腹には陽がいました。今度の上京には、まもなく生まれてくる壮吉が一緒です。この二例が意味することは、一枝の女性に向かう性的指向を断ち、憲吉が自分に向けさせた結果の現われかもしれません。大正から昭和へと改元される二箇月ほど前の秋の日の出来事でした。
上京してまもなくすると、一枝は、長谷川時雨が創刊した『女人藝術』に寄稿をはじめ、多くの女性たちとの交わりがはじまります。のちに、近代文学研究者の尾形明子は、『女人藝術』を調査するうえから、この雑誌の編集に携わっていた熱田優子に聞き取りを行なう機会をもちます。以下は、尾形が聞き書きした、富本一枝に関する熱田の発話内容です。
すらっとしていたけれど筋肉質でしっかりした体型でね。芸術家の奥さんというより、富本さん自身が芸術家。着物をきりっと粋に着こなしていて、感性が鋭くて趣味もよかった。……女の人が好きで、横田文子がかわいがられていたわね。それで長谷川さん、私たちにひとりで祖師谷に行ってはいけないよって言っていたけど、大谷藤子さんも親しかったのではないかしら33。
もし長谷川が、「ひとりで[一枝の自宅のある]祖師谷に行ってはいけないよ」といって、生前、周囲の人間に注意を促していたことが本当に事実であるとするならば、一枝のセクシュアリティーは、すでに「公然の秘密」となっていただけではなく、美貌と才能をもつ女性にとっては、「危険な存在」になっていた可能性さえ残ります。
しかしその一方で、その発話内容は、一枝が女性にとって頼れる味方であることを示唆しているようにも読むことができます。事実一枝は、多くの女性の才能を発掘しては、それを誌上で発表し、彼女たちを勇気づけていたのでした。たとえばこの時期、『婦人文藝』に「福田晴子さん」(一九三五年一月号)を、『中央公論』に「宇野千代の印象」(一九三六年二月号)を、『麵麭』に「仲町貞子の作品と印象 手紙」(一九三六年二月号)を、さらに『婦人公論』に「原節子の印象」(一九三七年四月号)を寄稿し、彼女たちの美質なり作品なりを紹介するのでした。
もっとも、一枝の性的指向に、変化が訪れることはありませんでした。次のように、本人が語っています。以下は、一九三八(昭和一三)年に発行された『新装 きもの随筆』に所収されている一枝の「春と化粧」からの引用です。
私は化粧を否みはしない。却つて化粧せぬことを嫌ひさへする。しかし、化粧といふものは、いよいよ美しくするためのものである。或ひはむしろ、缺點を覆ひ、美點を一層に補ふものだといふ方が、本當かも知れない。流行の如何ではないのである。…… 私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである34。
「私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである」という最後の語句は、どういう意味なのでしょうか。「私は、夜街を歩くときはいつも、そうした化粧の乙女に出会うことを密かに願っている」くらいの軽い意味でしょうか。それとも、「私は、そうした化粧の乙女を見たいという思いをどうしても抑えきれず、夜になると街に出て、歩き回る」といった、積極的な意味が含まれているのでしょうか。一枝の女性への関心の度合いがどの程度にもとれる、解釈の幅の広い表現であるといえます。しかし、いずれにしましても、この言い回しは、自分のセクシュアリティーについての、とりわけ性的指向についてのこれまでに全く明かされることのなかった具体的な行動様式を自ら進んで開示するものであったといえます。
アジア・太平洋戦争に日本は突入します。一九三五(昭和一〇)年の『中央公論』一二月号の「新人傑作集」に所収されている「血縁」が、大谷藤子の作家としてのデビュー作のひとつといえます。大谷は、一九六三(昭和三八)年に憲吉が亡くなると、ただちに筆を執り、「失われた風景」と題するエッセイに仕上げ、富本家を訪問していた当時を懐かしみます。
私は戦争中から戦後にかけて、しげしげと富本家を訪ねた。陶芸家として第一人者である先生を訪ねたのではなく、夫人と親しくしていたからだった。ときどき泊まり込んだりした35。
『終りなき祝祭』において辻井喬が描写している、ふたりの女性の性的絡み合いの箇所をすでに私は引用により示していますが、それが、大谷が「泊まり込んだ」ある夜の場面であった可能性もあり、必ずしもそれを否定することはできません。
終戦を迎えると、憲吉は、独り家族から離れ、安堵村の旧宅に一時寄寓したあと、京都の地で作陶を再開するのでした。一九四八(昭和二三)年の夏に、陶の夫の海藤日出男に宛てて、憲吉から出された手紙が残されています。以前憲吉が仕事場としていた工場( こうば ) を少し改装して、自分たちの生活空間として使わせてもらえないかという陶夫婦の問い合わせに対する返事のようです。
要事から書きます 工場は勿論 あの家に附属したもの故、諸君のうち誰が使用され様とも結構であります 私は去年八月申し送りました通り家の半分を一枝に その残りの半分を三人におくりましたから私のものではありません、あの家には私の書物や衣服がありますが帰へって行くのがいやでモウ一切捨てるつもりで居ます36
憲吉は、家を出るに当たって、財産を夫婦で折半することは考えなかったようです。この手紙から、家の半分を一枝に、残りの半分を陽、陶、壮吉の三人の子どもに分与したいとする意向が、すでに家族に伝えられていたことがわかります。これにより、祖師谷の家屋敷と工場はもちろんのこと、家具調度品から作者留め置きの作品に至るまで、さらには預貯金や野尻湖の別荘も含めて、すべて家族に残したまま、まさに無一文の裸一貫、生まれたままの姿で東京を離れたものと推察されます。同じくこのとき憲吉は、教授を務めていた東京美術学校に辞表を提出し、帝国芸術院の会員からも身を引きます。たとえ間接的であろうとも、自分が関与する組織が戦争に加担したことに対する、自分なりの責任のとり方だったのではないでしょうか。
それでは、なぜ憲吉は家を出る必要があったのでしょうか。一九六九(昭和四四)年九月の『婦人公論』(第五四巻第九号)に掲載された、女性史研究家の井手文子による「華麗なる余白・富本一枝の生涯」のなかに、以下のようなことが書かれてあります。
なぜ、憲吉は一枝のもとを去ったのであろう。その別離の理由を水沢澄夫はある日彼から聞いた。長くためらったのち、憲吉は「あの人はレスビアンだった」と言ったという37。
水沢澄夫は美術評論家であり、憲吉との交友は長いものの、一九五七(昭和三二)年一〇月の『三彩』(第九二号)に「富本憲吉模様選集」と題してその書評を寄稿しているので、憲吉からこのことを聞かされたとすれば、おそらくはこのころの時期だったのでないかと思われます。憲吉が語ったとされる「あの人はレスビアンだった」という言葉が表に出るまでには、水沢と井手というふたりもの人物が介在します。したがって、この言説が絶対的に正確かどうかについての確証は何もありません。しかしながら、憲吉も一枝も、本人たちは直接何も語っておらず、この水沢と井手を経由した憲吉の言葉が、現段階にあって唯一、ふたりの離別の理由を知るうえでの手掛かりを与えているのです。これが事実であるとするならば、憲吉は、結婚以来の一枝のセクシュアリティーにかかわる問題に、もはや耐えかねて家を出たことになります。それでは、憲吉が家を出たあとの一枝の心的状況はどうだったのでしょうか。晩年に一枝は、いとこの尾竹親にこう語っています。「戦後、私は一時死のうと思って、古い手紙など、身のまわりのものを焼き捨てたことがありました……」38。
京都での作陶をはじめると、みぢかにいて憲吉の世話をするひとりの女性の姿が、世間の目に止まるようになりました。一九四九(昭和二四)年一〇月二五日の『毎日新聞』(大阪)に目を移しますと、「秋深む温泉郷 女弟子と精進の絵筆 夫人と別居の陶匠富本憲吉氏」という見出しをつけて、憲吉が石田寿枝という女性とともに奥津温泉に遊ぶ様子を報じています。記事のなかには、憲吉が記者に語った談話の内容が、次のように引用されています。
石田君は郷里が島根県なので帰り道に一寸寄つてもらい仕事の手助けを頼んだのがつい長くなつてしまつた。妻とは性格が合わぬので別居したが戸籍はまだ切れていない。東京の祖師谷で“山の木書店”というのを経営しているらしいが生活は相当苦しいと聞いている。石田君とは仕事の上だけのつながりであるが私が石田君と奥津に来ていることがわかれば世間は決してそうは思わぬだろう。二、三年のうちにははつきりしたいと考えている39。
島根県の出身の石田とは帰省の帰り道にここで合流し、仕事の手助けをしてもらいながら、長期の滞在になったようです。「先生」「石田君」と互いを呼び、かいがいしく世話をする夕食の際の石田の振る舞いを織り込みながら、さらに記事は続き、石田の経歴について、こう記述します。
東京の女子美術を中退。当時官吏であつた父と一緒に朝鮮の京城に渡り戦後引揚げて来た石田さんは在籍中からずつと絵画の創作を続けていたという。いまでは父母とも他界し三高を卒業して大学受験準備中の弟さんと京都で一緒に暮しながら現在富本氏が仮寓している松風氏の元で陶芸の勉強をしているそうだ……石田さんは名を寿枝といい年は三十三、京都左京区川端丸太町に住む人で昭和二十三年、富本氏が京都松風陶歯会社内に窯を築いたとき、松風工業研究所で輸出陶器の研究を続けていた石田さんは助手になり、同年十二月松風工業を退いて富本氏の身のまわりの世話などをするにいたつたもの、一方、一枝夫人は平塚雷鳥女史の青鞜社に尾竹紅吉のペンネームで活躍した女性解放運動の先駆者である40。
こうした内容をもつ本文のあとに、「別れようと思わぬ」という小見出しをつけて、次のような一枝の談話が続きます。
ことしの三月ころ松風さんから主人が助手の女の方と結婚する意志があるらしいと聞きましたが信用しませんでした。私は別れようとは夢にも考えたことはありません。朝夕、富本の作品を眺めて暮しておりますが、富本の心の奥には私があることと確信しています。富本の幸福のためによく話合つて見ましよう41
本文記事のなかの「二、三年のうちにははつきりしたい」という憲吉の言葉は、今後離婚にかかわる協議に決着をつけ、正式に籍を入れて、石田と結婚したいという意味のことを示唆しているのでしょう。ところが一枝は、「私は別れようとは夢にも考えたことはありません」という明確な意思表示をします。なぜ別れようとしないのでしょうか。また一枝は、「朝夕、富本の作品を眺めて暮しております」ともいいます。憲吉が、「妻とは性格が合わぬので別居した」と、性格の不一致を離別の理由に挙げ、率直に記者に語っているのに対して、一方の一枝は、「富本の心の奥には私があることと確信しています」と言明します。どこからそのような自信は生まれてくるのでしょうか。いずれにしても、事の推移から判断すれば、談話のなかで、「富本の幸福のためによく話合つて見ましよう」とはいいながらも、結局のところ、離婚という結末へ向かうことはなかったのでした。
以上、残された信頼に足る資料に根拠を置きながら、離別後の憲吉と一枝の動向を見てきました。これに対しまして渡邊澄子は、「富本一枝におけるセクシュアリティ」のなかで、その間の事情をどう書いているのでしょうか。少し比べてみたいと思います。渡邊は、こう書いています。
そこに突如、衝撃が一枝を襲う。憲吉が、一枝と藤子との関係を、肉体的堕落関係の同性愛・レズビアンと触れ歩いたというのだ。井出文子は水沢澄夫から、憲吉が「あの人はレズビアンだった」と語ったと聞いている42。
述べていますように、憲吉が水沢に「あの人はレスビアンだった」と語ったのは、おそらく事実ではないかと思います。しかし、それを語るに当たっては、「長くためらったのち」と、井出は書いています。おそらく憲吉は、妻のセクシュアリティーについて口外することを躊躇したものと思われます。しかし、別れた理由を問われれば、何も語らぬわけにもゆかず、余計な誤解を避ける意味もあって、「長くためらったのち」、つまり、内密をもって、あえて告白に至ったのではないでしょうか。私は、そう判断します。
また、渡邊は、憲吉が語ったという、「あの人はレスビアンだった」の意味内容を、「一枝と藤子との関係」にあった「肉体的堕落関係の同性愛・レズビアン」と、独善的に解釈していますが、そうしたことを示す一次資料はどこにもありません。おそらく、憲吉がいう「あの人はレスビアンだった」は、結婚以来終戦までの家庭生活に現にその姿を現わしていた一枝のセクシュアリティーを指しているものと思われます。もっとも、正確にいえば、一枝のセクシュアリティーは、レズビアンのそれではなく、トランスジェンダーのそれでした。つまり、「同性愛」ではなく、実質的には「異性愛」だったのです。
そして、さらに渡邊は、「憲吉が、一枝と藤子との関係を、肉体的堕落関係の同性愛・レズビアンと触れ歩いた」と書きますが、憲吉が妻の性的指向を他者に「触れ歩いた」ことを示す一次資料も存在せず、これもまた、渡邊特有の妄想の類ではないかと思料します。
加えて、「富本一枝におけるセクシュアリティ」の別の箇所で渡邊は、戦後のふたりの離別にかかわって、こうしたこともいっています。
この状況を井出文子はじめ誰も彼もが一枝を「捨てられた妻」と書いている。……一枝の晩年は自足していたと思う。捨てられたのは憲吉の方だった43。
男女の別れを「捨てる」「捨てられる」の表現に置き換えて、一方の優位性を説こうとする渡邊の姿勢には、同意しがたいものがあります。それにしても、すでに引用で示していますように、一枝は、「戦後、私は一時死のうと思って、古い手紙など、身のまわりのものを焼き捨てたことがありました」と語っています。それに対して渡邊は、「一枝の晩年は自足していたと思う」と書きます。この渡邊の言説は、一体何に由来しているのでしょうか。これでは、正しい一枝の実像を描くことはできません。
他方、「捨てられたのは憲吉の方だった」と断定する根拠は、どこにあるのでしょうか。仮に一枝が憲吉を捨てたとして、夫を捨てた妻が、どうして、「死のうと思って、古い手紙など、身のまわりのものを焼き捨てた」りする行動をとるのでしょうか。また一枝は、「私は別れようとは夢にも考えたことはありません」とも、「朝夕、富本の作品を眺めて暮しております」ともいいますが、これを、夫を捨てた妻の言説として、果たして読むことができるでしょうか。明らかに一枝は、憲吉に対してこころからの敬意をもって接し、婚姻の継続を望んでいるのです。
夫婦が別れるには、どちらにとっても言葉に出して説明しがたい微妙な思いがそこには存在するものと推量されます。しかし、それでもやはり、この夫婦に関していえば、憲吉がいうところの「妻とは性格が合わぬので別居した」、「あの人はレスビアンだった」、というふたつの文言が、真実を語っているように思います。といいますのも、一枝も別れた理由を友人に語っているようですが、それは明らかに虚偽であるように判断できるからです。それではその事例を、以下に紹介します。
神近市子の文のなかに、富本憲吉と石田寿枝の出会いについて言及した箇所があります。神近は、一枝とは青鞜社時代からの親友で、戦後、参議院議員を務めます。「富本一枝 相見しは夢なりけり」と題したエッセイにおいて、神近は、このようなことを記述しているのです。一枝が亡くなった翌年の一九六七(昭和四二)年の文です。
ある日憲吉氏は、小さなカバン一つ持ってフラリと家を出られ、その儘帰られなかった。若き彼女が京都に待っていたかどうか、それは私には分からない44。
さらに神近は、別のエッセイ「朋友富本一枝」では、こう回顧します。こちらは、それから六年後の一九七三(昭和四八)年に執筆されたものです。
彼女[一枝]の末路は悲しかった。それはどうしたことか、富本氏が別の女の人のところに行ってしまわれたからだった。岐阜あたりのどこかで出張焼物をしておられた時季に知合った婦人だとかで、富本氏は夫人のところに帰らず、行き切りになってしまった。そしてその行先で死亡された45。
上のふたつの引用文は、何を語っているのでしょうか。生前一枝が神近に漏らした内容に基づいて書かれたものであることは、ほぼ間違いないと思われます。そうであるならば、このことについての一枝の理解は、東京美術学校の教授をしていたときの岐阜県(飛騨高山)への作品疎開のための出張の際に憲吉はこの女性と知り合い、戦争が終わると、駆け落ちでもするかのように小さな荷物ひとつを手にしたままふらりと家を出て、この女性の住む京都に向かい、それ以降一度も帰宅することなくその地で死亡した、ということになります。しかし、前述の『毎日新聞』の記事は、「当時官吏であつた父と一緒に朝鮮の京城に渡り戦後引揚げて来た」あとの「昭和二十三年、富本氏が京都松風陶歯会社内に窯を築いたとき、松風工業研究所で輸出陶器の研究を続けていた石田さんは助手になり、同年十二月松風工業を退いて富本氏の身のまわりの世話などをするにいたつた」と、伝えています。この記事の記載内容が全き事実であるとするならば、戦時中の疎開先の飛騨高山でふたりが出会っていた可能性は、皆無に等しいと断言せざるを得ません。であるならば、飛騨高山で知り合った女性を追って憲吉は家を出たとする一枝の理解内容は、あろうことか、創作された虚偽ということになります。なぜ一枝は、真実と異なる理由でもって憲吉の大和出奔を説明しなければならなかったのでしょうか。おそらく一枝は、自身のセクシュアリティーが引き起こす「女性問題」が原因で夫は家を出たとは、どうしても神近にいえなかったのでしょう。端的にいえば、自分が「男女」であるとか、自分が「おめ」であるとか、口が裂けてもいえないのです。自己のセクシュアリティーに関してカミング・アウトできなかったことに起因する、やむを得ない発話だったのではないかと推量されるものの、それでも、朋友の神近市子をしてそう信じ込ませてしまった一枝の妄言の罪は極めて重いといわざるを得ません。
しかしながら、これが、ある意味でひとつの一枝の真実の姿であったことも、疑いを入れないのです。といいますのも、すでに私は、一枝の「結婚する前と結婚してから」の文から一部を引用して紹介していますが、そのなかで一枝は、かかる早い段階において自分のことを、「僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした」と書いているからです。つまり、一言でいえば、人にうそをつくことも、人を愛することも、生涯を貫く、一枝自身のひとつの本性だったのです。
改めてそのことを念頭に置いて、大和の安堵村から東京の千歳村へ移転したときの事情を、いま一度振り返って、考察してみたいと思います。
富本一枝の最初の評伝が、高井陽と折井美那子が著わした『薊の花――富本一枝小伝』です。高井陽は、富本憲吉・一枝夫妻の長女で、この本が上梓されるときには、すでに亡くなっていました。したがいまして、この本の最終的な記述は、もう一方の共著者である折井美那子の手にゆだねられていたものと思われます。それでは、この評伝には、富本一家の安堵村生活の終焉と東京移転に関して、どのように書かれてあるのでしょうか、以下は、その箇所からの引用です。
その頃になると長女の陽も成長し、中等教育をどうするか考えねばならなくなっていた。理想をもって始めた小さな学校は、十全とはいえなかったし、子どもたちに一層よい教育環境をと考えた時、それは安堵村では無理だった。子どもたちのために東京へ、そんな話が夫婦の間で何度か出たが、容易に解決できないでいた。 そんな時、憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する。憲吉にとってはほんの一瞬の気の迷いであったろうし、当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない。しかし一枝は深く傷ついた。一カ月に及ぶ、二人の夜ごとの話し合いの末、大正一五年三月、東京への移転が決められた46。
このような記述をするに際して、書き手の折井は、いっさい注釈を施していませんし、また、最も肝心な証拠となる資料も明示していません。したがいまして、ここに述べられていることが真実なのかどうかを再検証する方途がいまや完全に奪われているのです。
共著者である陽が、生前に、上のような内容を折井に漏らしていた可能性がないことはありません。しかし、たとえば、別の箇所では、「……と陽さんは語っている」47とか、「陽さんの回想に詳しく書かれているが……」48とか、「……という陽さんの記憶で」49といった表現形式でもって、情報の提供者が明らかにされているにもかかわらず、ここの箇所に関しては、陽によって情報が提供されたことをうかがわせる注釈は残されていないのです。そのことから判断しますと、この記述内容は、折井の独断的な想像と判断によって練り上げられたストーリーであるといわざるを得ません。
記述の内容にも疑問が残ります。「憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する」と、著者の折井は書いていますが、その相手は誰であったのか、いつのことであったのか、これらについては、何も語っていません。さらに、「当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない」「女性問題」がなぜ、「東京への移転」という、一般的にはあまりありがちとは思えない特殊な「決意」を一枝にさせてしまったのか、その理由についての言及もありません。
仮に、憲吉の身に「女性問題」が存在したとして、なぜそのことが、家族そろっての東京移住につながるのか、裏を返せば、なぜ一枝は離婚を考えなかったのか、あるいは、なぜ娘たちを連れての一枝単身の転居や実家への寄宿とはならなかったのか――こうした一般的に考えられそうな対応についても、何ひとつ説明がなく、ひたすら疑問だけが残ります。もしふさわしい資料が手もとにあるのであれば、もっと積極的にそれらの資料に真実を語らせるべきだったのではないかと考えます。
しかし、私がこれまでに調査した範囲でいえば、憲吉の「女性問題」を示す資料は、いっさい存在しません。したがいまして、東京移転の理由としての憲吉の「女性問題」は、いまだ折井個人の強引ともいえる仮説の域に止まっていると判断するのが妥当でしょう。このことを実証するためには、たとえば、憲吉と一枝の当事者たちを含め、周りの関係者たちの手紙や日記などに記述されているかもしれない、動かすことのできない何か新しい資料の発掘が必須の要件となるにちがいありません。もしそのことができなければ、憲吉にかけられた「女性問題」の嫌疑は、誰ひとりとして事実かどうかの再検証ができないまま独り歩きし、今後永遠に語り継がれてゆくことになるのです。これでは「冤罪」を構成しかねません。すでに鬼籍に入っているとはいえ、実在した人物である以上、その名誉と人権は、当然ながら、尊重されなければならないのです。
この記述問題につきまして、私は、次のように推量しています。この情報は、おそらくは母親の一枝から娘の陽に伝えられた内容でしょう。こうしたストーリーを持ち出すことによって、一枝は子どもたちに東京移転の理由を説明したものと思います。それが折井に伝わり、折井はその真偽を検証することもなく、そのまま、情報の提供者名を伏せたうえで、文にしたのではないでしょうか。それでは、なぜ一枝は虚偽のストーリーをつくらなければならなかったのでしょうか。性的少数者であることをカミング・アウトできないことに起因して、やむを得ず、真実とは異なるストーリーを捏造しなければならなかったものと考えます。つまりは、富本家の東京移住を、憲吉の「女性問題」に原因を置く折井美那子の言説もまた、すでに先に述べています、憲吉の京都行きを、憲吉の「女性問題」に原因を置く神近市子の言説同様に、明らかに、事実を隠蔽して一枝自らがつくり上げた創作的弁明だったのでした。
このときの一枝の「女性問題」につきましては、この小論ではわずかな示唆に止めています。詳細は、ウェブサイトで公開しています、中山修一著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』、および著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』に所収の第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」において述べています。そこでの記述のとおり、結論的にいえば一枝は、東京転地の原因を、自分の「女性問題」から憲吉の「女性問題」へと、見事なまでにうまくすり替えていたのでした。紹介していますように、「僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした」と、一枝は書いています。ここでも一枝は、愛する子どもたちであろうとも、彼らにうそをついて信じ込ませ、ひいては、それが、折井の文に反映されていったのではないかというのが、いま入手可能なほぼすべての関連する資料の範囲にあって、私が愚考するところです。
戦後すぐ東京を離れたことについて、憲吉は、次のような言葉でもって説明しています。
私にしてみれば、二十年間の東京生活の間に、船腹の貝殻のようにまといついたすべての社会的覊絆や生活のしみを、敗戦を契機に一挙に洗い落としてしまいたかったのである。すでに郷里の大和へ一人で引き揚げる覚悟もついていた。私は陶淵明の帰去来の辞の詩文を胸中ひそかに口ずさみながら大和へ発った。……あれもこれも投げ捨てて、とにかく裸一貫で私は大和へ帰った。東京でなにものかに敗れたというような、みじめな思いはちりほどもない。耳順六十歳にして、私はむしろ軒昂たる意気込みだった。ロクロ一台、彩管一本をかたわらに私は新しい制作への意欲に燃えていたともいえよう50。
大和の実家にもどった憲吉は、作陶の不便さに耐えかねて京都に向かい、そこで知り合った石田寿枝を内助者として借家住まいをはじめます。一九五五(昭和三〇)年に、色絵磁器で人間国宝の認定を受け、一九六一(昭和三五)年に文化勲章を受章し、京都市東山区山科御陵檀ノ後に新居が完成したのは、翌一九六二(昭和三七)年のことでした。続く一九六三(昭和三八)年三月に、京都市立美術大学を定年退職すると、その三箇月後、七七年の人生に幕を閉じるのでした。
一方一枝は、戦争が終わると、中村汀女の句誌『風花』の創刊に尽力し、その後、大谷藤子との縁で「山の木書店」を創設するも、経営に行き詰まり、晩年は主に『暮しの手帖』に童話を寄稿する日々を送ります。
一枝は、結婚前の若いころ、取材のために自宅にやってきた『新潮』の青年(記者)が、「それで貴方は、貴方自分を世間の云ふ『新しい女』と自認して居ますか」と問うと、それに答えて、次のように話しています。
いゝえ、――世間で云ふ新しい女と云ふものは、よく分りませんけれども、不眞面目と云ふ意味が含まれて居るやうですね[。]私は不眞面目と云ふことは大嫌ひです。私は寧ろ、世間で言はれて居るやうな『新しい女』と云ふものが實際にあるならば、『新しい女』を罵倒して遣り度く思ひます。『新しい』『舊い』と云ふことは意味の分らない事ですけれども、舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます。そして、私自身はどちらかと云ふと昔の女で、私の感情なり、行為なりは、道徳や、習慣に多く支配されて居る事を感じます51。
ここから明らかなように、なぎ倒してでも「新しい女」を乗り越えて、自分も昔の多くの優れた女のようになりたい――これが、このときの一枝が求める女性像だったのです。
そして、晩年には、一枝はこういっています。
ですから、私自身、まるで草履と下駄を片方づつはいて道を歩いているような人間だと言えましょう。 それにしても、同じ明治のあの時代に生きながら、平塚[らいてう]さんは全く別です。自分の考えを立派に育てて守り、見事に結実し、今日に至ってなお成長をとめることのない平塚さんを、私は友人として心から尊敬しています52。
一枝は、自分のことを「まるで草履と下駄を片方づつはいて道を歩いているような人間」だったといいます。「草履と下駄」の二足とは、旧い女性像と新しい女性像との葛藤を意味するのでしょうか、それとも、体の性と心の性の乖離を暗に意味するのでしょうか。あるいはその双方を指しているのでしょうか。いずれにしても、「草履と下駄」という表現から、四方に入り乱れて渦を巻く苦闘の実相が容易に連想できます。一枝は、この晩年にあって、「自分の考えを立派に育てて守り、見事に結実し、今日に至ってなお成長をとめることのない」、らいてうにみられるような姿を、自己の姿として見出すことはありませんでした。一枝にとっては、己の生と性にかかわって、すべての問題が、まさしく未決着だったのです。ここに、らいてうをはじめ、周囲の交流があった女性たちと違って、一枝が自伝を書かなかった、あるいは書けなかった理由が潜んでいたものと思料します。こうして、憲吉が亡くなった三年後、一枝は黄泉の客となります。享年七三歳でした。
繰り返しになりますが、渡邊澄子は、「富本一枝におけるセクシュアリティ」と題する「論文」のなかで、以下のように私の著述を批判しました。
以上これまで、この批判に対する反批判として、私の見解を述べてきました。そこでこの「あとがき」にあっては、渡邊のその「論文」の罪悪性につきまして、五点にまとめます。
一点目として―― 冒頭、先行研究の検討もなく、執筆の目的も方法も明示せず、本文にあっては、いっさい一次資料に依拠することなく思弁的に叙述し、したがって、最後に至っては、実証された結論も論理的な考察も不在となる、こうした文は、「論文」の名に値せず、真実や真理を探求しようとする学術研究にとって一利もなく、極めて有害な虚妄の作であると判断します。
二点目として―― 一次資料に基づく論証や実証を完全にないがしろにした「富本一枝におけるセクシュアリティ」についての叙述は、個人好みの思い付きや思い込みによる恣意的なものにすぎず、真実の富本一枝のセクシュアリティーを大きく歪曲するとともに、強引に変質させ、ひいてはそれにより、富本一枝の生涯は見誤られ、曲解的な描出に終始していると判断します。
三点目として―― 富本一枝の苦悩と悲痛の原因が自身のセクシュアリティーにあったにもかかわらず、そのことに全く目を伏せ、いかなる証拠も示さず、一枝のこころの痛みが、あたかも夫、富本憲吉の「女性問題」にあったかのように蒙昧的に断言したことは、すでに鬼籍に入っているとはいえ、実在した人物である以上、その名誉と人権を著しく毀損するものであると判断します。
四点目として―― この文において渡邊は、「同性愛には性的堕落を伴う『遊戯的な愛』と『真っ当な愛』」の二種類の愛が存在すると一方的に論じ、前者の「性的堕落を伴う遊戯的な愛」をトランスジェンダーの愛に重ねては、それを「猥褻」とみなすその視点は、トランスジェンダー人間を不当にも排除しようとする偏見であり、見過ごすことのできない性差別であると判断します。
最後に五点目として―― 渡邊は、私の「著作集3・4・11巻」を「時代錯誤ぶりに呆れ哄笑するしかない」と罵倒していますが、具体的箇所もその理由も何も示していません。また、渡邊は、「一枝は中山が決めつけているような猥褻な『性的転倒者』だっただろうか」と書いていますが、私は一度たりとも一枝のセクシュアリティーを「性的転倒者」という用語で表現したことはありません。他者の著述に対しての、根拠なき全否定も、事実を無視した決めつけも、真っ当な研究者にあって許される行為ではありません。もし、真っ当な研究者を自認するのであれば、渡邊は、それにふさわしい良心と見識に基づいて、該当箇所すべてをすみやかに削除するよう求めます。
以上の五点をもちまして、渡邊澄子「富本一枝におけるセクシュアリティ」の読後感の骨子といたします。渡邊と私の、どちらの視点が正当であるかは、そのすべてを読者のみなさまの判断にゆだね、これをもって私は、ここに筆を置きます。
(二〇二四年九月)
(1)渡邊澄子「富本一枝におけるセクシュアリティ」『大東文化大学紀要 人文科学』(第61巻)、2023年、391(44)頁。
(2)同「富本一枝におけるセクシュアリティ」、400(35)頁。
(3)富本一枝「あきらめの底から」『婦人公論』第8巻第7号、1923年、24頁。
(4)「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、35-36頁。
(5)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻、1927年1月号、112頁。
(6)辻井喬『終りなき祝祭』新潮社、1996年、200-202頁。
(7)渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』不二出版、2001年、269頁。
(8)「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』第4巻第4号、1914年4月、1頁。
(9)「編輯室より」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、124頁。
(10)「女文士の吉原遊」『萬朝報』、1912年7月10日、水曜日。
(11)紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、131頁。
(12)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。
(13)尾竹一枝「Cの競争者」『番紅花』第1巻第3号、1914年5月、107頁。
(14)前掲「富本一枝におけるセクシュアリティ」、390-389(45-46)頁。
(15)『婦女新聞』第586号、1911年8月11日(金)、1頁。(「婦女新聞 第12巻 明治44年」、不二出版、1983年3月15日/復刻版発行、265頁。)
(16)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)
(17)中山修一著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』所収の第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」、2018年9月、19頁。2024年8月30日に閲覧。URLは、以下のとおりです。 https://www2.kobe-u.ac.jp/~shuichin/pdf/nakayama_work11_full.pdf
(18)中山修一著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』、2018年3月、91-92頁。2024年8月30日に閲覧。URLは、以下のとおりです。 https://www2.kobe-u.ac.jp/~shuichin/pdf/nakayama_work4_full.pdf なお、この巻は、以下の神戸大学学術成果リポジトリにおいても閲覧が可能です。 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100476417
(19)前掲「富本一枝におけるセクシュアリティ」、395(40)頁。
(20)同「富本一枝におけるセクシュアリティ」、396(39)頁。
(21)同「富本一枝におけるセクシュアリティ」、395(40)頁。
(22)同「富本一枝におけるセクシュアリティ」、同頁。
(23)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、75頁。
(24)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、71頁。
(25)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、72頁。
(26)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。
(27)富本一枝「私達の生活」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、56頁。
(28)前掲「東京に住む」『婦人之友』、109頁。
(29)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(30)前掲『青鞜の女・尾竹紅吉伝』、211頁。
(31)前掲「東京に住む」『婦人之友』、110頁。
(32)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。
(33)尾形明子「富本一枝と『女人藝術』の時代」『彷書月刊』2月号(通巻185号)、弘隆社、2001年、17-18頁。
(34)富本一枝「春と化粧」『新装 きもの随筆』双雅房、1938年、279頁。
(35)大谷藤子「失われた風景」『學鐙』第60巻第12号、1963年12月号、42頁。
(36)海藤隆吉「祖師ヶ谷の家」『富本憲吉のデザイン空間』(展覧会図録)、松下電工汐留ミュージアム編集、2006年、6頁。
(37)井手文子「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』第54巻第9号、1969年9月、346頁。
(38)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、264頁。
(39)『毎日新聞』(大阪)、1949年10月25日、2頁。
(40)同『毎日新聞』、同頁。
(41)同『毎日新聞』、同頁。
(42)前掲「富本一枝におけるセクシュアリティ」、393(42)頁。
(43)同「富本一枝におけるセクシュアリティ」、同頁。
(44)神近市子「このひとびと③ 富本一枝 相見しは夢なりけり」『総評』、1967年10月20日、4頁。
(45)神近市子「朋友富本一枝」『在家佛教』第234号、1973年9月、54頁。
(46)高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、149-150頁。
(47)同『薊の花――富本一枝小伝』、126頁。
(48)同『薊の花――富本一枝小伝』、137頁。
(49)同『薊の花――富本一枝小伝』、147頁。
(50)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、223-224頁。[初出は、1962年2月に『日本経済新聞』に掲載。]
(51)「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、107頁。
(52)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、178頁。