[1]出典/富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』講座女性5、三一書房、1958年、172頁。 富本家に残されている家系図によれば、一枝の父は尾竹熊太郎(画号は越堂)、母はウタ。熊太郎の両親は、尾竹倉松(画号は國石)とイヨ(旧姓小飯田)。熊太郎は長男で、次男に駒吉(北海道にて行方不明)、三男に染吉(画号は竹坡)、四男に亀吉(画号は國観)、そして長女に美香がいる。熊太郎、竹坡、國観は、尾竹三兄弟として、当時の画壇に名を刻む。 熊太郎とウタは、一枝(のちに陶工の富本憲吉と結婚)、福美(のちに画家の安宅安五郎と結婚)、三井(のちに画家の野口謙二郎と結婚)、栞(國観の養女となるも、家出により消息不明)、そして貞子(のちに武田家から婿養子を迎える)の五人の子女を儲ける。それ以外の四人は早逝。
[2]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、234頁。 母の嫁入り道具は、一枝の結婚の際に引き継がれる。一枝はこう述べている。 「結婚します時、私の母は、母が結婚の時に母の母から貰って来た先祖伝来の九寸五分の短刀を私に渡して、‶帰りたくなれば、これで死ね″と言いました」。(富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』講座女性5、三一書房、1958年、177頁。) なお、本書『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』の著者の尾竹親は、尾竹倉松とイヨの三男(事実上の次男)染吉(竹坡)の息子で、一枝にとっては、いとこに当たる。
[3]出典/富本一枝「愛者――父の信仰と母の信仰」『大法輪』第25巻第9号、1958年、59頁。
[4]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、234頁。 引用文にあっては、一枝の生年月日は、「明治二十六年四月二十日」となっているが、私が行なった調査では、一枝が在籍した根岸尋常高等小学校の生徒明細簿(尋常科ノ部)には、一枝の生年月日は「明治二六年三月二〇日生まれ」と記載されており、「三月二〇日」であった可能性が全くないわけではない。
[5]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、234頁。 海藤隆吉は、富本憲吉と一枝の次女である陶の息子であるが、彼の「尾竹一枝とその家族」は、次の文ではじまる。 「尾竹一枝は一八九三年(明治二十六年)四月二十日に、富山県富山市越前町総曲輪郵便局前で生まれた。現在の国際会議場前、市電(路面電車)が大きくカーブするあたりらしい。道路の拡張で現在はその場所を特定することはできないということだ。私は富山を訪ねるとき、国際会議場の隣のホテルの、お堀と路面電車の見える部屋に宿泊することにしているが、この辺りで祖母が生まれたのだと思うだけでなんとなく嬉しくなる」。(海藤隆吉「尾竹一枝とその家族」『とやま文学』第36号、富山県芸術文化協会、2018年、172頁。)
[6]出典/富本一枝「母親の手紙」『女性』、1922年12月号、150頁。 この文は、一枝がふたりの娘に語りかける手紙の形式をとっている。長女の陽は、一九一五(大正四)年八月二三日に生まれ、この文が発表されたとき、満七歳になっていた。次女の陶は、一九一七(大正六)年一一月八日の生まれで、このとき満五歳。 引用文のなかで一枝は、「母さんの故鄕が大火事で半分燒けて仕舞ひ、母さんは死なれた大おぢいさんや大おばあさんにつれられて東京に出た年です」と書いている。これは、一八九九(明治三二)年八月に富山市を襲った大火事を指しているものと思われる。このとき一枝は満六歳になっており、本人の語りから、父方の祖父母である尾竹倉松とイヨに連れられて上京したことがわかる。
[7]出典/富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』講座女性5、三一書房、1958年、172頁。 東京都台東区立根岸小学校から与えられた情報によると、学年別男女別で入級日順に生徒に関する基本事項が記載された生徒明細簿が残されており、尾竹一枝に関しては、明治三二年と明治三三年の生徒明細簿(尋常科ノ部)にその記載が認められる。まず、明治三二年の生徒明細簿には、「明治三三年四月二日入級、明治二六年三月二〇日生まれ」と記載されている。このことは、明治三二年の年度末である明治三三年の三月ころに保護者から入学の意向が示されたことをおそらく意味するのであろう。次に、明治三三年の生徒明細簿には、同じく「明治三三年四月二日入級、明治二六年三月二〇日生まれ」と記載されているほかに、「退」の印が書かれている。退校年月日は未記入ながら、成績が一学期分のみ記入されていることから判断して、二学期が終了する前までに転校ないしは休学したものと考えられる。なお、保護者については「祖父の尾竹倉松」、その職業については「画工」、住所は「中根岸三七番地」と記されている。 東京都台東区立根岸小学校から与えられたさらなる情報によると、一枝は、一九〇二(明治三五)年二月二四日に、大阪市東区北久寳寺小学校から、この根岸尋常高等小学校へ転入している。届けられている住所は「下谷区中根岸町壱番地」であった。この二度目の東京滞在が、どのような理由から行なわれたのかはわからない。しかし、「父の仕事の都合で、小学校三年まで、東京にいた父の祖父母に預けられていました」と、一枝が回想しているところから判断すると、このときの東京滞在には、何か「父の仕事の都合」が関係していたのかもしれない。大阪への転居のために、一枝が再びこの学校を退学するのは、保存されている記録によると、一九〇三(明治三六)年九月三〇日のことであった。これは、一枝にとって、尋常科四年の在学途中の出来事ではなかったかと思われる。しかし一方で、この学校の尋常科を卒業し高等科一年に当時在籍していたことをうかがわせる記述がなされた別の関連資料も残されており、一枝の退学時の在籍学年については、現時点では必ずしも明確にすることはできない。 以上のことをまとめると、一枝は、一八九九(明治三二)年の富山市の大火災のあと、「中根岸三七番地」の祖父母のもとに預けられ、一九〇〇(明治三三)年の四月からその秋まで、その家から根岸尋常高等小学校に通う。その後大阪に居を移すものの、一九〇二(明治三五)年二月二四日に再び根岸尋常高等小学校へ転入し、そこで約一年半を過ごしたのち、一九〇三年(明治三六)年九月三〇日に退学して大阪へ再度転居する。こうした経緯を経て、ここから一枝にとっての本格的な大阪での学童期がはじまる。このとき一枝は、満一〇歳になっていた。
[8]出典/『創立百十周年読本「根岸」』東京都台東区立根岸小学校、1985年、5頁。 祖父母に預けられ東京で過ごした期間、一枝が通った小学校は根岸尋常高等小学校であった。この学校は、現在の東京都台東区立根岸小学校で、一八七四(明治七)年二月に第五中学区五番小学根岸学校として開校していた。引用文は、それ以降明治末年に至るまでの発展の経緯である。
[9]出典/富本一枝「母親の手紙」『女性』、1922年12月号、150頁。
[10]出典/富本一枝「愛者――父の信仰と母の信仰」『大法輪』第25巻第9号、1958年、57-58頁。 引用文中に「私と妹は」とあるが、妹とは、あまり年の離れていない次女の福美だったものと思われる。そうであれば、祖父母に預けられていたのは、一枝と福美のふたりだったことになる。
[11]出典/富本一枝「愛者――父の信仰と母の信仰」『大法輪』第25巻第9号、1958年、56頁。
[12]出典/富本一枝「愛者――父の信仰と母の信仰」『大法輪』第25巻第9号、1958年、56-57頁。
[13]出典/富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』講座女性5、三一書房、1958年、172頁。
[14]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、234頁。
[15]出典/「『靑鞜社』のころ(二)」『世界』第123号、岩波書店、1956年3月、137頁。
[16]出典/富本一枝「愛者――父の信仰と母の信仰」『大法輪』第25巻第9号、1958年、57頁。
[17]出典/富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』講座女性5、三一書房、1958年、173頁。
[18]出典/富本一枝「母の像――今日を悔いなく」、日本子どもを守る会編『子どものしあわせ』6月号(第121号)、草土文化、1966年、3頁。
[19]出典/「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、130-131頁。
[20]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、234頁。
[21]出典/富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』講座女性5、三一書房、1958年、173頁。 一枝が入学した女学校は、正確には、一九〇六(明治三九)年三月に設立認可された大阪府立島之内高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)で、南区千年町の元千年小学校を仮校舎として四月二五日に一四七名の生徒を迎えて入学式が行なわれている。その後一九〇八(明治四一)年五月に南区天王寺夕陽丘の地に新校舎の建設が開始され、一一月末には四日間臨時休業して新校舎へ移転した。そして翌年の一月に校名を大阪府立夕陽丘高等女学校に改称し、四月八日に新築本校舎が完成すると、同月二七日に新校舎落成式が挙行された。一枝はこのとき、最上級の四年生になっていた。
[22]出典/富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』講座女性5、三一書房、1958年、173頁。
[23]出典/尾竹一枝「Cの競争者」『番紅花』第1巻第3号、1914年5月、106-139頁。 「Cの競争者」の「C」は、ほぼ間違いなく一枝本人で、内容は、美しい新任の女性音楽教師を巡っての競争相手との奪い合いの顛末記となっている。自身の女学校時代の体験が率直に語られている一種の独白としてみなしてもいいのではないか。また、書かれている内容から判断して、意識的か無意識的かは別にして、暗に自分の特異な性的指向を「カミング・アウト」している文として位置づけることも可能かもしれない。 なお、掲載誌の『番紅花(さふらん)』は、青鞜社を離れたのち、一枝本人が創刊した月刊文芸雑誌である。
[24]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、237頁。
[25]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、82頁。
[26]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、83頁。
[27]出典/「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、128頁。
[28]出典/『創立80周年記念誌』大阪府立夕陽丘高等学校、1986年、84頁。 引用文は、初代校長の伊賀駒吉郎が書き記した「新築落成記念帖」のなかの一節。
[29]出典/「文藝會と運動會」『大阪毎日新聞』、1909年11月7日、日曜日。 文芸会が開催されたのは、一九〇九(明治四二)年の一一月六日。『大阪毎日新聞』が伝える、この日「來會者を驚嘆せしめた」朗読対話とは、二年生による対話「二つの家庭」(演目八番)、三年生による朗読「乳母浅岡」(演目一二番)、そして、一枝が出演した四年生の朗読「酒匂の吹雪」(演目一七番)であったことが当日のプログラムから確認できる。(『夕陽丘百年』大阪府立夕陽丘高等学校、2006年、88-89頁。)
[30]出典/「春淺き夕陽丘――高等女学學校の運動會」『大阪毎日新聞』、1910年3月21日、月曜日。 同じ日付の『大阪朝日新聞』においても、この運動会の様子は取り上げられた。記事の大半は、割烹着を着て頭に手拭いを巻いた、いわゆる世話女房姿で四年生が行なった「簇(しんし)張(は)りの競技」の模様についてであり、写真入りで紹介されている。(「簇張りの競技」『大阪朝日新聞』、1910年3月21日、月曜日。) 運動会が挙行されたのは、一九一〇(明治四三)年の三月二〇日で、『創立80周年記念誌』(66頁)によれば、「観客二千を超え非常の盛況」であった。運動会の五日後の三月二五日に第一回の卒業式が行なわれ、九七名の卒業生のひとりとして、一枝はこの夕陽丘高等女学校をあとにする。
[31]出典/『創立80周年記念誌』大阪府立夕陽丘高等学校、1986年、94頁。 卒業証書の授与と卒業生学事報告のあと、学校長の式辞、大阪府知事の告辞、生徒総代の三年月組の吉原春江による祝辞朗読が続き、そして最後に、卒業生総代の牧こむめが答辞を読み上げた。引用文はその一節である。
[32]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、83頁。
[33]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、84頁。
[34]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、84頁。
[35]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、84-85頁。 一枝が入学した女子美術学校(現在の女子美術大学)は、一九〇一(明治三四)年に本郷弓町において開校するも、一九〇八(明治四一)年に校舎を焼失し、翌年、本郷菊坂町に新校舎が完成し、弓町校舎からこの地へ移転する。 私が、女子美術大学の歴史資料室に確認したところによれば、一枝は一九一〇(明治四三)年七月二〇日に入学している。籍を置いたのは日本画科であった。
[36]出典/『女子美術大学八十年史』女子美術大学、1980年、48-49頁。
[37]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85頁。
[38]出典/「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、34-35頁。 題にあるように、この文は、一枝が富本憲吉と結婚するに際して公開された、いわゆる「暴露記事」である。目次に記載されているこの文の執筆者名は「深草の人」。つまり「匿名」ということになろうか。しかし、この文には、一枝の幼少期の写真や婚礼の写真が併載されており、それらは、確かな情報源から得られたものと推量される。そのことを勘案すれば、書かれている内容もまた、信憑性は高いのではないか。 なお、この文において「紅吉」のルビはすべて「こうきち」。一箇所のみが「かうきち」となっている。
[39]出典/「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、38頁。
[40]出典/尾竹一枝「Cの競争者」『番紅花』第1巻第3号、1914年5月、107頁。
[41]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85頁。 私が、女子美術大学の歴史資料室に確認したところによれば、一枝は、「家事の都合」を事由に一九一一(明治四四)年一一月一日にこの学校を退学したことになっている。これが、一枝からの申し出による自主退学だったのか、「風紀良俗」を乱したことを理由にした学校側からの強制追放だったのかは定かではない。 一方『讀賣新聞』は、一枝が「紅吉」を名乗り、青鞜社に在籍していたころに発刊された特集記事のなかで、一枝が女子美術学校を離れるようになった理由について、こう書いている。 「又自ら少年と稱し『らいてう』の美少年と云はれ、頻りと鴻の巣の洋酒に浮れて可愛らしい氣焔をあげる紅吉(こうきち)も一時、此校の寄宿舎にゐたが、窮屈さに我慢が出來ず遂に逃出したものださうだ」。(「卒業後(十一)結婚と就職 女子美術學校」『讀賣新聞』、1912年7月10日、水曜日。) なお、この文においても、「紅吉」のルビは「こうきち」となっている。
[42]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85頁。
[43]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、247頁。
[44]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85頁。
[45]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85-86頁。 小林淸親は明治時代の浮世絵師で、その娘が哥津。以下は、尾竹親が書く小林哥津である。 「一枝の青鞜入社に口添えした小林歌(ママ)津氏は、かの有名な小林清親氏の娘さんで、その後一枝の仲立ちで、当時竹坡の門生だった小林祥作氏と結ばれた。そんな関係もあってか、青鞜同人のなかでもことに親しく、いかにも心を割った知己のごとくに、私に語るにも「歌津ちゃん、歌津ちゃん……」と呼んでいた」。(尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、239頁。) また、平塚らいてうは、小林哥津について、こう書いている。 「のちの富本一枝さんが大阪から上京して、曙町のわたくしの円窓の部屋に……一枝さんを案内してきたのは、社員の小林哥津(かつ)さんでした。小林さんは、発起人の一人の木内(きうち)錠子(ていこ)さんと学校がいっしょだった関係で、木内さんの紹介で創刊の年の十月に社員になった人でした。そのころ仏英和専攻科に在学中で、細おもての中高な浅黒い顔からうける印象は、きりっとした東京の下町娘といった感じ、書くものにも下町趣味が色濃く出ている人でした。……小林さんの遠縁にあたる早稲田の学生と一枝さんが知り合いだったことから、前に一枝さんが大阪から上京して、尾竹竹坡(ちくは)氏の家に寄寓していたときに、二人を紹介したのでした。そんなことから、二人は手紙のやりとりをするようになったのだそうです」。(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、23-24頁。) なお、上記のふたつの引用文において、小林の名について「歌津」と「哥津」のふたつの表記が用いられている。『青鞜』における小林自身の執筆者名には「歌津」が使用されている。
[46]出典/富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』講座女性5、三一書房、1958年、174頁。
[47]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、86頁。
[48]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、24-25頁。 この手紙の末尾には、「四十四年十一月三十日夕方」(26頁)とある。これが、らいてうに宛てて出された最初の一枝の手紙である。差出人の名は、「尾竹一重」や「尾竹紅吉」ではなく、おそらく「尾竹一枝」となっていたものと推測される。
[49]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、26-27頁。 「紅吉」につけられているルビ「こうきち」は原文のママ。これからもわかるように、青鞜社時代の一枝は、決して「べによし」ではなく、明らかに「こうきち」を自称していたのである。
[50]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、233頁。 この引用文中二箇所の一枝の発話部分に着目すると、その箇所には、「紅吉」の「紅」が生物学上の(身体上の)性を、「吉」が自己認識上の性を含意していることを暗にいわんとしている可能性が残る。男性装を好み、男子名を通り名に使用する性表現から判断すれば、一枝の性自認は、ほぼ間違いなく「男」だったものと思われる。このあとに続く、「五色の酒」や「吉原登楼」といった男性的な性行動の発露が、さらにそのことを裏づける。 他方、その箇所以外のこの引用文中の親の記述部分に着目すると、親のインタヴィューに応じて一枝は、「紅吉」の呼び名を「べによし」と語ったようである。最晩年にあって、なぜ事実とは異なる受け答えをしたのか、このことは、自分のセクシュアリティーにかかわっての自己認識の転向、つまりは、男性性の削除という問題を提示する。
[51]出典/『青鞜』第2巻第1号、1912年1月、172頁。 一九一二(明治四五)年の『青鞜』一月号の「編輯室より」において、「新に入社せられし方は」のひとりに、「尾竹一重(ママ) 大阪南區笠屋町五一」の文字を確認することができる。「重」が「枝」の誤植でなければ、このとき一枝は、「一重」の名も使用していたことになる。いずれにせよ、氏名と住所が掲載されたこのときまでに、平塚らいてうは、入社許諾の返事を尾竹一枝(あるいは尾竹一重、さもなくば尾竹紅吉)宛てに出していたことになる。
[52]出典/『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、85頁。 引用文中の「私信往復」とは、南薫造が、一九一二(明治四五)年の一月号(第三巻第一号)の『白樺』に寄稿した「私信徃復」と題する文を指す。内容は、個展の開催を夢見て上京したものの、東京の美術家たちや美術界に失望し、安堵村へ帰っていった富本憲吉を慰める南の往信と、それへの富本の返信である「友よりの返事」とで構成されている。「友よりの返事」は、以下のとおり。これを読んで、一枝は、富本に会うことを決意したものと思われる。 「[一九一一(明治四四)年一〇月]二拾八日夜、御親切なお手紙有りがたう、……個人展覧會は誰れにも解かりさうにもなかつたから止した、……今は東京人に(美術家にも)僕のやつたものを見せる時期で無いと云ふ事である。……東京で見るもの聞くものは皆な僕の感じ易い精神に針を差す樣なものであつた、……製作欲があつて仕事の出來ない時、胃病患者が物を喰い度いが喰へなくなつた時、コウ云ふ場合は誰にもある事と思ふ。……製作欲……暗い恐ろしい穴から逃げる樣な氣持……年老つた祖母や氣の毒な母が僕獨りの心がけで世間體は泣かずに涙を流がして居るのが見へる……兎に角く安堵村へ歸つて自然を見た時、總てが美しい秋の光線に包れて自分の眼に映つた。精神がトゲトゲの樣になつても、美しいものは美しく見へると思つた、嬉しかつた。此れで如何なる場合も死ぬ迄僕は如何んな迫害が有つても美しいものを見る僕の眼に變化は來ないと考へた。一日此の新らしい發見を試る為めに野に出たが實に聲を擧げて泣き度い程美しく見えた、此の新しき幸福を神に感謝する。……僕の展覧會は來年にならうが五年延び樣が一向に平氣だ」。(南薫造「私信徃復」『白樺』第3巻第1号、1912年1月、67-68頁。)
[53]出典/山本茂雄「富本憲吉・青春の奇跡――出会い・求愛・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、73頁。 一枝が憲吉に出した面会を求めるはがきは、残されていないようである。一方、憲吉から出されたこの返信には、一九一二(明治四五)年二月八日の消印がある。
[54]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、252-253頁。 引用文中、「英国の留学から帰った人」と、富本憲吉は記述されている。以下は、それまでの憲吉の大まかな足取りである。 富本憲吉は、一八八六(明治一九)年六月に大和の安堵村の旧家に生まれ、東京美術学校で図案(現在の用語法に従えばデザイン)を学び、ウィリアム・モリスの思想と実践に魅了され、卒業を待たずして英国に渡る。その地で親しく交わったのが、画家の白滝幾之介と南薫造。一九一〇(明治四三)年に帰国すると憲吉は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を参照しながら「ウイリアム・モリスの話」を執筆。擱筆後それは、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載される。これが、憲吉にとっての帰朝報告であり、工芸家モリスを紹介する日本における最初の評伝となる。一枝が憲吉を訪問するのは、「ウイリアム・モリスの話」が発表されるこの時期と重なる。
[55]出典/Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, pp. 113-114.
[56]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、252-253頁。
[57]出典/山本茂雄「富本憲吉・青春の奇跡――出会い・求愛・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、73頁。 この返信の日付は、一九一二(明治四五)年二月一五日。 憲吉が数日前の一枝の来訪を、不安定な精神状態のなか夢中になって受け入れていたことは、この文面からも明らかであろう。さらにその日、指輪をプレゼントしていることから判断して、憲吉の暗澹たる心の闇に一条の光が差し込んだのではないかと察することも、十分にできよう。憲吉にしてみれば、もっと多くを一枝に伝えたかったし、それをとおしてもっと自分を理解してもらいたかったであろう。そうした憲吉の切なる気持ちがこのとき一枝に伝わったかどうかはわからないが、少なくともそれを受け止めるだけの余裕はもはやなく、一枝の気持ちは、何ものにも代えがたい東京の待つ自由へとすでに向かっていたようである。憲吉二五歳、一枝一八歳の早春というにはまだ少し早い明治末年二月の安堵村での出来事であった。
[58]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、87頁。
[59]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、87頁。
[60]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、88頁。 小林哥津子の案内で一枝が平塚らいてうを訪ねたのは、一九一二(明治四五)年の「からツ風が烈しく吹いた二月十九日の午後だつた」。(らいてう「一年間(つづき)」『青鞜』第3巻第3号、1913年3月、9頁。)
[61]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、29頁。
[62]出典/らいてう「一年間(つづき)」『青鞜』第3巻第3号、1913年3月、13-15頁。 Kは一枝あるいは紅吉のイニシャルで、S社は青鞜社のイニシャルに間違いないだろう。さて、しばらくして、例の時計が一枝から送られてきた。それについてらいてうは、こう記している。 「私はうれしくないではなかつたけれど、そのうれしさには何處か快くない不安が添つてゐた。第一私にこんなものを送つてくる先方の氣が知れない。……物品で御機嫌を取らうとするのならば私はちつとばかり侮辱されたといふものだ。けれどそんなことは考へたくない。只私にくれたくてくれたんだと思つてよろこべるものならよろこんでゐたいとも思つた。……或日私はKのことをぼんやりと心に浮べながら、我れ知らず、その[時計の]音に耳傾けてゐる自分を見出した。ぢつと見詰めて居ると、心の影と音とが妙に絡みあつて、溶け合つて、一つのものゝやうになつて行く。……久振りで詩でも出來さうな氣分になつて來た。……氣分ばかりで思うように出來なかつた。で、私は其筆でKに時計の御禮を出した。そして近い中に時計に關聯した詩を御目にかけるかもしれないと書き添へた」。(らいてう「一年間(つづき)」『青鞜』第3巻第3号、1913年3月、18-21頁。) もらった時計の音に誘発されて詩情が湧き出たということは、らいてうの心が一枝に傾いたことを意味するのであろうか。
[63]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、86-87頁。 すでに一九一二(明治四五)年の『青鞜』新年号は、イプセンの『人形の家』を取り上げ、「附録ノラ」と題して「社員の批評及感想」を掲載していた。この引用文から、その後の大阪公演についての取材が紅吉に依頼されたことがわかる。紅吉がらいてう宅を訪れたのち帰阪してまもなくのことであったと思われる。 このときの劇評を、その年(一九一二年)の『青鞜』五月号に掲載された「赤い扉の家より」のなかに見ることができる。これは、三月号に掲載された「最終の霊の梵鐘に」に続く、尾竹紅吉の筆名をもつ、一枝にとって『青鞜』誌上二作目になるものであった。
[64]出典/尾竹紅吉「赤い扉の家より」『青鞜』第2巻第5号、1912年5月、48頁。 前号の四月号の表紙絵が、紅吉の描いた「太陽と壷」に差し替えられている。引用文は、この表紙絵についての紅吉の解説である。そのなかのBLUE-STOCKINGの日本語訳が実は「青鞜」なのである。平塚らいてうは『青鞜』という雑誌名の由来について、次のように述べている。 「生田[長江]先生も熱心にあれこれと考えて下さって、思いつく名を挙げているうちに、はたと膝を打って『いっそブルー・ストッキングはどうでしょう。こちらから先にそう名乗って出るのもいいかもしれませんね』ということになったのでした。わたくしは、このときはじめてブルー・ストッキングという言葉をしりましたが、そのときの生田先生の御説明や、あとでエンサイクロペディアで調べたところでは、ブルー・ストッキングという言葉の起こりは、十八世紀半ばごろ、ロンドンのモンタギュー夫人のサロンに集まって、さかんに芸術や科学を男たちといっしょに論じた婦人たちが、黒い靴下が普通であった当時青い靴下をはいていたことから、なにか新しい、いわゆる女らしくないことをする婦人にたいして、嘲笑的な意味で使われた言葉ということでした。それでわたくしたちの場合も、女が仕事をやり出せばきっと世間からなにかいわれるに違いないから、こちらから先に『ブルー・ストッキング』を名乗って、先手と打っておこうというわけでした。……わたくしたちは生田先生と相談して、これに『青鞜』の訳字を使うことにしました」。(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第1巻、大月書店、1992年、326-327頁。) この表紙絵のタイトルは「太陽と壺」である。もし「太陽」を平塚らいてうに、そして「壷」を富本憲吉になぞらえるものであったとするならば、たとえ、そのときの紅吉のささやかなる愛の心象を映し出していたにすぎなかったとしても、それが本当に現実のものとなってしまうことがわかれば、そういってしまうには余りあるものがこの作品にはあったと人は考えるのではあるまいか。
[65]出典/黒田鵬心「巽畫會展覧會を觀る(下)」『多都美』第6巻第10号、1912年5月20日。 『多都美』第6巻第8号(1912年4月20日)に、第一二回巽画会絵画展覧会審査委員長の河瀬秀治による「審査報告」に加えて、受賞者の名前と作品名が掲載されている。これによると、この展覧会の受賞者は、二等賞銀牌八名、三等賞銅牌一一名、褒状一等一六名、褒状二等二〇名、褒状三等二五名であった。 表紙絵「太陽と壷」の製作や劇評「赤い扉の家より」の執筆に先立って、すでに一枝は、第一二回巽画会の展覧会に出品する二曲一双の屏風《陶器》の製作に邁進していたものと思われる。これが、父とのある種の和解を意味するものなのか、あるいは、らいてうの諭しの言葉に従うものなのか、一枝は多くを語ってはいないが、この作品は三等賞銅牌に輝き、父越堂の作品はその下の褒状一等に止まった。こうして一枝は画壇への初登場を見事に果たしてみせた。黒田鵬心は、「巽畫會展覧會を觀る(上)」(『多都美』第6巻第9号、1912年5月5日)および「巽畫會展覧會を觀る(下)」(『多都美』第6巻第10号、1912年5月20日)の二回に分けてこのときの展覧会についての批評文を『多都美』の「畫壇時評」に書いている。引用文は、黒田鵬心による一枝の作品評である。 この父と娘の受賞の結果が公表される数日前のことであったのではないかと思われるが、越堂は、妻のウタと次女の福美を大阪に残したまま、一枝と貞子を連れ立って東京に上り、下根岸に居を構えた。ウタと福美の上京は、その数箇月後になる。
[66]出典/雜報「尾竹越堂氏東京に轉ず」『多都美』第6巻第9号、1912年5月5日。 越堂たちが転居したのは、一九一二(明治四五)年の四月九日であった。そしてすぐにも一枝のもとに福美からの手紙が届く。姉の《陶器》の受賞を大阪の地で知ったのであろう、そこには、「御立派な御成績をお喜びいたします」(尾竹紅吉「赤い扉の家より」『青鞜』第2巻第5号、1912年5月、51頁)というお祝の詞がしたためられていた。受け取ったのは、『青鞜』五月号に投稿するつもりで書いていた「赤い扉の家より」をちょうど脱稿した四月一五日のことであった。
[67]出典/山本茂雄「富本憲吉・青春の奇跡――出会い・求愛・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、73頁。 新居に落ち着くとすぐにも一枝は、転居を知らせるはがきを憲吉に出したものと思われる。するとさっそく、東京での展覧会を終えて安堵村に帰っていた憲吉から、春の大和に咲き乱れる野の花の美しさを告げる返信の手紙が届いた。日付は、四月一三日となっている。
[68]出典/尾竹紅吉「或る夜と、或る朝」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、116頁。 しかしながら、南薫造宛ての一九一二(明治四五)年四月七日付書簡には、富本は、この「黒い壷(木版)」をこの時点で一枝に送ったとは書いていない。以下のような文面から察すると、富本はまだ、一枝のことを南に知らせたくなかったのかもしれない。 「それで昨夜大いにカンズッてやった壷を此の手紙と一處(ママ)に送る。これで先づ壷を刻む事も一段落とする。此の試作は第一に材料を送って呉れた榮公、最も大き感化を呉れた長原先生と君に送ったぎり」。(『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、49頁。)
[69]出典/田澤操「雨の日」『青鞜』第2巻第5号、1912年5月、61頁。 越堂と一枝が上京する少し前、三月一五日から三一日まで上野の竹の台陳列館で美術新報主催の展覧会が開催され、富本にもひとつの部屋が与えられた。「美術新報主催第三回美術展覧会第三部富本憲吉君出品目録」によると、主として英国滞在中に描いたと思われる、時代と地域を越えた図案、金物、染織陶器、彫刻に関する大量のスケッチないしは模写と、帰国後に製作された木版や更紗やエッチングなど、総計一五一点の作品が富本の部屋に展示された。これが、本人のいうところの「モリスの気持ちでイッパイにしたもの」(『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、47頁)であり、評伝「ウイリアム・モリスの話」とともに、事実上、英国留学の帰朝報告に相当するものであった。
[70]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、29頁。
[71]出典/「編輯室より」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、121-122頁。
[72]出典/尾竹紅吉「或る夜と、或る朝」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、115-116頁。 この日のミーティングは泊まりがけになった。そしてその日の夜、らいてうと紅吉とのあいだに烈しい愛の衝動が走る。そのことを紅吉は、「或る夜と、或る朝」のなかで、誰にはばかることもなく率直に告白したのであった。
[73]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、93頁。
[74]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、93-95頁。 この手紙には、末尾に「四十五年六月三日」の日付が記されている。
[75]出典/「編輯室より」『青鞜』第2巻第7号、1912年7月、110頁。 これは美少年(紅吉)とらいてうの恋について、紅吉自らが書いた文章であろう。同号に掲載されている紅吉の「『あねさま』と『うちわ繒』の展覧會」という記事やその後の当事者たちの書き残したものをあわせて読むと、事情はおおよそこうだったようである。六月下旬のこと、紅吉は、『青鞜』の広告を取るために、当時若い文士や美術家のあいだで知られていた「メイゾン鴻の巣」(『青鞜』誌上の広告にみられる正確な店名)というレストラン兼バーへ行き、見学した展覧会のことを思い出しながら、出された「五色の酒」の鮮やかさに無邪気にも心を躍らせた。「五色の酒」とは、色の異なる五種類の酒を順次比重の重いものから注ぎ足してできる、虹のような色彩豊かな一種のカクテルだったようである。果たしてこれをそのとき紅吉が実際に飲んだのか、また、その晩らいてうの自宅の書斎である「円窓」を本当に訪れたのかまでは定かでないが、どうやらこの一文は、そのような事実に基づいて書かれたというよりもむしろ、青鞜社の仕事に自分も参加しているという高揚感、あるいは、憧れのらいてうに愛されているという充足感のようなものがない交ぜになって膨れ上がり、その結果、こうしたたわいもない、現実から遊離した表現になったものと推測される。
[76]出典/「所謂新らしき女(二)」『國民新聞』、1912年7月13日、土曜日。
[77]出典/Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, pp. 114.
[78]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、229頁。
[79]出典/「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、129頁。 引用文中、吉原には「五、六人で参りました」と、一枝は述べているが、これは、事実かどうかは疑わしい。というのも、注[80]の『國民新聞』の書くところによれば、登楼したのは、「雷鳥の明子(はるこ)と尾竹紅吉(こうきち)(數枝子)中野初子の三人」となっているからである。
[80]出典/「所謂新らしき女(二)」『國民新聞』、1912年7月13日、土曜日。 この引用文は、一九一二年七月一三日付の『國民新聞』に掲載された「所謂新らしき女(二)」の一部であるが、副題は「明子と美少年、紅吉と西洋酒」となっている。らいてうの本名が「明(はる)」。
[81]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、37-39頁。 引用文中、「彼女[花魁の「栄山」]はお茶の水女学校を出ているということでした」という文言があるが、これが事実であったとすれば、らいてうと同窓だったことになる。
[82]出典/「女文士の吉原遊」『萬朝報』、1912年7月10日、水曜日。 「吉原登楼」は、ジャーナリズムの知るところとなった。すぐにも、一九一二年七月一〇日付の『萬朝報』の「女文士の吉原遊」と題された記事が登場する。副題は「榮山は可愛い人」。引用文は、その記事の書き出しである。
[83]出典/「女文士の吉原遊」『萬朝報』、1912年7月10日、水曜日。 この引用文から明らかなように、「吉原登楼」については、自ら竹坡に「是非伴れてつて下さいと頼んだ」と、紅吉は述べている。しかしながら、注[79]における文意は決してそうではなく、竹坡の好意による招待であったことを示唆している。発言内容のぶれは、明らかである。 他方で、この引用文において、一枝の性自認が「男」であった可能性を示す事例が語られている。ひとつは、「私は少い時叔父(竹坡)に伴れられて吉原に泊つた事がありました」と述べている点である。このことは、一枝にとって今回の登楼が最初の体験ではなかったことを示す。もうひとつは、「私は眞實に身受がしたくなり茶屋へ歸つてから聞きますと千兩は掛かると云ふんです……若し男だつたらと男が羨ましくなりました」という発話である。「身受(身請け)」は、芸妓や遊女にかかわって、前借金を肩代わりしたうえでその仕事を止めさせ自身の「女」にする、典型的な「男」の行為である。
[84]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、32頁。
[85]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、40頁。
[86]出典/「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、128頁。
[87]出典/「『靑鞜社』のころ(二)」『世界』第123号、岩波書店、1956年3月、136頁。 引用文中、「五色の酒の美しさを編輯後記にかいただけで、のんでいないのです」と、一枝は述べているが、これは、事実がどうか疑わしい。というのも、注[75]にみられるように、「編輯室より」(『青鞜』第2巻第7号、1912年7月)には、「其美少年は鴻の巣で五色のお酒を飲んで今夜も又氏の圓窓を訪れたとか」と、書かれてあるからである。
[88]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、78頁。 手紙の差出人である「白雨」は、保持(やすもち)研子(よしこ)の雅号ではないかと思われる。保持は、五人の青鞜社発起人(平塚明子、中野初子、木内錠(てい)子、物集(もずめ)数子、保持研子)のひとりで、日本女子大学校での平塚の先輩。在学中吐血し、それ以降、茅ケ崎の結核療養施設である南湖院での生活を繰り返す。俳句と短歌を得意とし、『青鞜』に寄稿する。この手紙からしばらくして紅吉が南湖院に入ったときは、「伯母さん役」を務める。『青鞜』一〇月号の「編輯室より」に、次の一文がある。 「長い間茅ケ崎にゐた白雨もいよいよ今年で切り上げて歸京するそうです。我儘者の紅吉を二カ月もお守りした伯母さん役もさぞ疲れたことでしよう」。(「編輯室より」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、137頁。)
[89]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、80頁。 らいてうの書くところによれば、「下根津の紅吉の家を訪づれたのは十日の夜の九時過ぎだつた。(中略)『あした朝、行つてもいゝでせう。其時見せます。』と云つて紅吉は左腕の繃帯の上を押へた」(らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、77と79頁)。そこから判断すると、「ある日のらいてうと紅吉の愛の再燃」は、七月一一日の出来事だったことになる。
[90]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、81-82頁。
[91]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、82-83頁。
[92]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、83-85頁。
[93]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、85頁。
[94]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、86-88頁。
[95]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、88-89頁。 引用文中の「茅ヶ崎」とは、肺結核の療養施設として有名な南湖院の所在地。
[96]出典/らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、89頁。
[97]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、43-48頁。
[98]出典/奥村博史『めぐりあい 運命序曲』現代社、1956年、35頁。 引用文は、奥村博(その後博史へと改名)がのちに上梓する自伝小説『めぐりあい』のなかに記されている一文である。広岡昭(てる)子がらいてうで、佐々しげりが紅吉であることは容易に想像がつく。どのような経緯で初対面の浩(奥村)の住所をしげり(紅吉)が聞き出していたのかなどの不明な点も残されてはいるが、前後の記述内容からして、この手紙の存在はほぼ間違いないもののように思われるので、ここに、そのまま浩に宛てたしげりの手紙の内容を引用しておきたいと思う。
[99]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、49頁。 もし、らいてうからの伝言ではなかったとするならば、どのような意図があって紅吉は、「[らいてうが]ぜひあなたに来るようにと、そして泊まりがけでです。待っています」と、偽ってまで書かなければならなかったのだろうか。いま一度両者を再会させることで、このふたりの愛が真実なものか、自分の目で確かめてみたかったのだろうか。それは紅吉にとって、危険を伴う大きな賭けを意味していた。影に隠れたこのような伏線のなかで、実際に奥村は二度目の訪問をし、さらにその数日後、紅吉が恐れていたとおりに、このふたりは雷鳴のなか一夜をともに過ごすことになるのである。
[100]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、49-52頁。 注[92]の引用文において、らいてうは、紅吉を表わす代名詞として「彼女」ではなく「彼」を用いている。同じくらいてうは、次の注[93]の引用文中で、紅吉のことを「私の少年」と呼んでいる。このふたつの事例から判断して、らいてうは紅吉を「男」と同定していたことがわかる。 それでは紅吉は、一方のらいてうのセクシュアリティーをどう見ていたのであろうか。以下は、『東京日日新聞』の記者(小野賢一郎)と紅吉との会話の一部である。
紅「煤煙を通じて平塚の性格をみますと或る微妙な點が私と似通つたところがあるのです、世間の人から見ると一寸不思議に思へるやうな興味を持つてゐるやうですから會つて見ると果たしてさうでした」 記「その興味といふのは例へばドンナものです」 紅「それは今は言へません、私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」(「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。)
このように紅吉は、「或る微妙な點が私と似通つたところがある」と、述べている。もしこの段階で紅吉の性自認が「男」で、性的指向が「女」であったとするならば、紅吉は、自分と同じような性自認と性的指向をらいてうもまた具有していることに気づいていたことになる。しかし一方で、らいてうの性自認は資料的にははっきりしないが、愛の対象は、「私の少年」として存在する紅吉へと向かった。そのことは、らいてうの性的指向が「女」ではなく、微妙にも「男」であった可能性を示す。 その後らいてうは、高群逸枝の存在を知る。らいてうは、「高群さんを発見したよろこびのあまり、そのころわたくしが手紙形式で描いた文章――それは名前は出していませんが、宛名に富本一枝さんを想定したものでした――のなかで、こんなふうに言っています」と書き、続けてその内容を、こう告白する。 「わたしはまあなんと高群さんを知ることが遅すぎたのでせう。この国に、しかも同性の中にかういふ人がゐられたとは。わたしの心はまるで久しく求めて、求めて求め得なかった姉妹を今こそ見出したやうな大きな悦びに波打ってゐます。そしてそれはどうやら十数年前、あなたをはじめて知った時のわたしのあの悦びと好奇心とにどこか似通うもののあるのを感じます」。(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第3巻、大月書店、1992年、305-306頁。) ここにおいてらいてうは、高群逸枝に寄せる思いが、かつて紅吉に向けた思いの再来であることを言明するのである。ここから見えてくるのは、根底にあるらいてうの性的指向は、いわゆる「男性らしい男性」(多数派の男性)ではなく「男性のごとき女性」(少数派の疑似男性)だったのではないだろうかということである。 しかしながら、紅吉との「同性の恋」の発芽以降、それよりのちに起こる出来事から明らかになるのは、らいてうが恋愛の相手として見出すのは、実際には「女性のごとき男性」(少数派の疑似女性)であった。注[97]において、らいてうは、その男性を「異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年」と表現し、注[100]においては、「気の弱そうな若者」と形容する。心配のあまりに稲妻と雷鳴がとどろく夜中、「男性のごとき女性」を迎えに行くのではなく、「女性のごとき男性」を迎えに行き、そうして「わたしの宿で一夜を過ごした」。このことは、らいてうが、昨日まで愛していた「男性のごとき女性」のもつ生の源泉としての幻影性を捨てて、いま現われた「女性のごとき男性」のもつ性の現実としての俗世性を選択したことを意味する。明らかにらいてうは、ともに少数者であることには変わりがないものの、「男性のごとき女性」から得られるものと、「女性のごとき男性」から得られるものとを一瞬のうちに峻別したのである。かくして、「男性のごとき女性」(紅吉)との「同性の恋」は、らいてうの面前に「女性のごとき男性」(奥村博)が出現したことにより、あっけなく、ある意味で必然的な結果として、もろくも終局を迎えたのであった。そこから判断すると、らいてうの性自認は、「男」に近いものだった可能性が残るし、性的指向を構成するのは、男性性と女性性の双極のあいだにあって揺らめく不可思議なセクシュアリティーのもつ、本人にとっての真実なる「悦びと好奇心」だったことになる。
[101]出典/尾竹紅吉「その小唄」『青鞜』第2巻第9号、1912年9月、126-130頁。
[102]出典/奥村博史『めぐりあい 運命序曲』現代社、1956年、60頁。
[103]出典/奥村博史『めぐりあい 運命序曲』現代社、1956年、60-61頁。
[104]出典/富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、89頁。 紅吉、哥津、野枝の三人は、順に一歳違いで若かった。野枝の入社については、『青鞜』(第2巻第10号、1912年10月、133頁)の「編輯室より」に、「新に入社せられし人」として伊藤野枝の名が掲載されている。
[105]出典/「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、127頁。
[106]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、237頁。
[107]出典/『伊藤野枝全集』第1巻、學藝書林、2000年、156頁。 紅吉と野枝は、双方競争心をもつ間柄ではあったが、紅吉は、不安におののきながら、あのときの一夜をどのようにして過ごしたのかを、その後野枝に涙ながらに打ち明ける。引用文は、そのとき紅吉が野枝に漏らした言葉である。
[108]出典/「編輯室より」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、134頁。 おそらくこのとき、大文字楼の栄山の部屋で、田村がつくった「あねさま」を見たこともまた、話題になったことであろう。 なお、引用文中の浪汗洞(ママ)[瑯玕洞]は、欧米遊学からの帰朝後、高村光太郎が神田に開店した画廊。
[109]出典/「編輯室より」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、135-136頁。
[110]出典/富本一枝「一つの原型」、草野心平編『高村光太郎と智恵子』筑摩書房、1959年、289頁。 長沼智恵子は、『青鞜』創刊号の表紙絵を担当していた。一方紅吉は、『青鞜』七月号において田村敏子の「あねさま」と長沼智恵子の「うちわ絵」を取り上げた「『あねさま』と『うちわ繒』の展覧會」という批評文を書いていた。しかし、智恵子と紅吉が顔を合わせるのは、このときがはじめてであった。 紅吉宅訪問から二年後の一九一四(大正三)年に、智恵子は高村光太郎と結ばれる。智恵子と死別すると、一九四一(昭和一六)年に光太郎は、亡き妻に思いを寄せた詩集『智恵子抄』を発表する。
[111]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、58頁。 この引用文では、「毎週火曜日と金曜日の二回講義が行なわれておりました」とあるが、『青鞜』(第2巻第10号、1912年10月、132頁)の「青鞜研究會」の社告には、「毎週水、金、午後一時より三時迄」と、記載されている。
[112]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、49頁。 一方尾竹竹坡は、この年の「新年の所感」を『多都美』に寄稿し、そのなかで自分の酒の飲み方をこう告白していた。 「僕は獨り好むで遊ぶものではない。友人や、知己の交際で酒も飲み、亦遊ぶのである。此の樣にして人にも馳走をし、人からも饗を受ける」。(『多都美』第6巻第2号、1912年1月20日。) それとは別に、らいてうは、この日のことを、こう記述している。これにより開催日と神近の参加が確認できる。 「わずか一年の間に、じつにさまざまの経験をしながら一周年を迎えたわたくしたちが、その記念の集まりを開いたのは十月十七日のことでした。……ここで神近市子さん、瀬沼夏葉さん、生田花世さんらに、はじめてお会いしたように思います」。(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、63頁。) なお、『青鞜』創刊一周年を記念する九月号(第二巻第九号)の表紙絵は、奥村博が描いたものへとすでに差し替わっていた。
[113]出典/紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、130頁。 「歸へつてから」というのは、南湖院を退院して東京に「帰ってから」の意味。紅吉は、「入院してから丁度二ケ月目、九月の拾四日に……退院を許可された」(同「歸へつてから」、129頁)。 それでは、尾竹三兄弟のこの年の文展の結果はどうであったか。前年(一九一一年)の第五回文展では、越堂の《韓信》が入選し、竹坡は《水》で二等賞を、そして國觀は《人まね》で三等賞を得ていた。それに比べて、この年(一九一二年)の尾竹三兄弟は、実に低調な成績に終わった。青鞜社一周年を祝う宴席からちょうど一週間後、この年の第六回文展の受賞者が、一〇月二四日の官報で発表された。尾竹三兄弟のうち、竹坡は《にはかあめ》で、また國觀は《勝閧》で、ともに何とか褒状は得たものの、しかし長兄の越堂の名は見当たらなかった。とりわけ越堂の出品作が落とされたのは、どのような理由からだったのか。國觀の孫である尾竹俊亮は、その経緯について、次のように説明する。 「最終的に三兄弟をおとしたいのが[横山]大観らの本心であった。その前段として文展歴のあさい越堂をおとしてみたわけだ。大正元年[一九一二年]、彼の全作がおとされ国観らの出品画が褒状へさげられる。この年の文展で他評も高かった越堂、祝いのビールを飲もうとするとき落選の電報が文部省からとどく。六尺・二二貫の大男が身を屈し情けなさをかみしめたのだった」。(尾竹俊亮『闇に立つ日本画家――尾竹国観伝』まろうど社、1995年、186-187頁。) そして三兄弟へのこの冷遇は、翌年(一九一三年)の第七回文展でさらに決定的なものになる。
[114]出典/紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、130頁。
[115]出典/『神近市子自伝 わが愛わが闘い』講談社、1972年、102頁。
[116]出典/神近市子「雑誌『青鞜』のころ」『文學』第33巻第11号、1965年11月、64-65頁。
[117]出典/江口渙『わが文學半世紀』(靑木文庫)靑木書店、1953年、84-85頁。
[118]出典/『宮本百合子全集 第六巻』新日本出版社、2001年、298頁。 当時の紅吉が、宮本百合子の小説「二つの庭」のなかに登場する。この小説のモデルとなっている伸子が宮本本人であることは、ほぼ間違いない。紅吉が「小石川のある電車の終点にたっていた」のは一九一二(明治四五)年の青鞜社時代だったと思わる。そのとき、宮本百合子(旧姓は中條)は一三歳、尾竹紅吉は一九歳だった。
[119]出典/小野賢一郎『明治・大正・昭和――記者生活二十年の記録』萬里閣書房版、1929年、158-159頁。復刻版は、小野賢一郎『明治大正昭和――記者生活二十年の記録』大空社、1993年、158-159頁。
[120]出典/荒畑寒村『寒村自伝』上巻、岩波書店、1975年、347頁。
[121]出典/荒畑寒村『寒村自伝』上巻、岩波書店、1975年、377頁。
[122]出典/「『靑鞜社』のころ(二)」『世界』第123号、岩波書店、1956年3月、138-139頁。
[123]出典/『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、34-35頁。 若き日の彫刻家の朝倉文夫は、越堂をはじめ、紅吉や田村俊子などとも近所付き合いをしていたらしく、引用文はそのころの回想である。その後朝倉は、一九一三(大正二)年秋の第七回文展に、越堂の父親の倉松をモデルにした《尾竹翁》を出品することになる。そのことを考えると、ちょうどこのころから、しばしば朝倉は越堂宅を訪れていたのかもしれない。数年前の二〇代半ばという早い時期に、すでに彼は、「アルバイトで得た金で、その後ずっと住んでいる谷中天王寺の地にアトリエを新築」(『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、29頁)していた。
[124]出典/「東京觀(三十) 新らしがる女(一)」『東京日日新聞』、1912年10月25日、金曜日。 小野賢一郎が、一〇月二八日を除く一〇月二五日から三一日まで『東京日日新聞』の「東京觀」に「新らしがる女」と題して六回にわたって連載記事を書くことになるが、引用文は、「新らしがる女(一)」の書き出しである。らいてうとの最後の確執、そしてさらに青鞜社退社へと進む、紅吉にとって、感情の横溢で塗り染められた悲劇の一週間が、いよいよこうしてはじまる。
[125]出典/「東京觀(三一) 新らしがる女(二)」『東京日日新聞』、1912年10月26日、土曜日。
[126]出典/「東京觀(三一) 新らしがる女(二)」『東京日日新聞』、1912年10月26日、土曜日。 引用文中、「三晩ばかり泊りました」と、紅吉は述べているが、これは、事実かどうかは疑わしい。というのも、注[81]によれば、らいてうは、「翌朝帰りました」と書いているからである。 さらに加えれば、引用文中、「私は決して偽は申しません」と、紅吉は述べているが、これも、事実かどうかは疑わしい。というのも、同じ時期に、「自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます」(紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、131頁)と書いているからである。これほどの欺瞞に満ちた明白な虚偽はないであろう。 それぞれの該当箇所の注記においてすでに指摘しているように、実際に五色の酒を飲んだのか、それとも飲んでいないのか(注記[87]参照)、大文字楼には、三人で行ったのか、それとも五、六人でいったのか(注記[79]参照)、さらには、大文字楼には一泊だけしたのか、それとも三泊くらいしたのか(注記[126]参照)、それどころか、そもそも吉原登楼のきっかけは、紅吉が竹坡に願い出た結果なのか、それとも、竹坡自身が進んで青鞜社の社員を案内しようとした善意的な行動だったのか(注記[83]参照)、加えれば、自らを、うそをつく人間として認識していたのか、いや、そうではない自分を確信していたのか(注記[126]参照)、紅吉(一枝)の書く文や発話には、明らかに、多くの矛盾や齟齬が見受けられる。
[127]出典/「東京觀(三五) 新らしがる女(六)」『東京日日新聞』、1912年10月31日、木曜日。 実は、「東京觀(三五) 新らしがる女(六)」における退社表明に先立って、『東京日日新聞』は、紅吉の退社の意向を記事にしている。というのも、「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」に目を向けると、別稿のかたちをとって、前回の記事のなかの文言に対する二点の訂正が記載され、それに続いて最後に、「紅吉は今月限靑鞜社を退くようです」(「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」『東京日日新聞』、1912年10月29日、火曜日)と書かれてあるからである。おそらく、前号を読んだ紅吉が、小野に連絡をとって修正の申し出をし、あわせて自分の退社の意向を伝えたのではないかと推量される。
[128]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、75-77頁。 この夏の奥村博の出現以来、らいてうと紅吉の「同性の恋」には、すでに亀裂が入っていた。したがって、「距離をおきたいという気持ち」の内実は、らいてうにとって、もはや紅吉がお荷物に感じられるようになったことを意味するのであろう。そうであれば、この「新らしがる女」の連載は、紅吉に青鞜社からの引退を勧告し、さらには「同性の恋」の清算を告知するうえでの絶好の口実をらいてうに与えたのではないだろうか。
[129]出典/紅吉「群集のなかに交(まざ)つてから」『青鞜』第2巻第11号、1912年11月、97-99頁。
[130]出典/尾竹紅吉「冷たき魔物」『青鞜』第2巻第11号、1912年11月、ノンブルなし。 この『青鞜』一一月号には、「群集のなかに交(まざ)つてから」と同じく、「冷たき魔物」と題された詩も掲載されており、事実上この詩も、紅吉の青鞜社退社の辞となるものであった。注[102]の引用文に認められる、「罪はないがきっとこの復讐はするつもりです。……広岡[らいてう]を私は恋しています」と書かれた、しげり(紅吉)から浩(奥村博)へ宛てた手紙の末尾の差出人名は「モンスター」となっている。一方、詩のなかの「冷たき魔物」は、らいてうのように読める。そうであるとすれば、茅ケ崎での悲劇の一夜以来、紅吉のなかには、「モンスター」である自分と「魔物」であるらいてうとが同時に住み着いていたことになる。「モンスター」は、「魔物」によって産み落とされた「赤ん坊」であり、不実なことに最後には、「魔物」は自分の「子供」の生膽を食いちぎろうとしている。「冷たき魔物」という詩は、一四の連から構成されているが、引用しているのは、最初の連、第三連と第四連、そして最後のふたつの連である。 この詩の最後には、「拾月二拾九日文祥堂の二階で」と付け加えられている。それから推測すると、『青鞜』一一月号の最後の編集作業のさなかに、そしてまた、『東京日日新聞』の「新らしがる女」の連載のさなかに、この詩はいっきに書かれたことになる。注[93]の引用文にみられるように、らいてうは紅吉のことを「私の少年」と呼んだ。一〇月二九日の祥文堂の二階には、ほかの男性(女性のごとき男性)に心を奪われたことに由来する母親(父親のごとき母親)の残忍さと、それに加えて、その母親から自分の行為を無分別なものとしてなじられた際に被った傷心とに耐えかねて、黒燿石のなかに身を隠す母親に「さようなら」といいながら死んでゆく少年が無残にも横たわっていた。 注[96]の引用文にあるように、らいてうは、紅吉との恋愛を「同性の恋」という表現でもって理解しようとした。おそらくこの「同性」とは、女性間の同性を指すだろう。らいてうは、「同性の恋」という用語を使う一方で、紅吉を「私の少年」と呼ぶ。かくして、らいてうの紅吉に対する同定は、「男」と「女」のあいだを揺れ動く。 他方で、紅吉の視点に立ってこの「冷たき魔物」と題された詩を読むと、明らかに紅吉は、自分自身を赤子に、らいてうをその母親に見立てている。そうであれば、紅吉にとってのふたりの愛は、対等な同性同士の愛というものではなく、血を分けた親と子に存在するような「母子愛」ということになるだろう。おそらくここに至って、らいてうの認識と紅吉の認識との齟齬が顕在化した可能性がある。らいてうの視点にとってみれば、確かに「同性の恋」の破局であろう。しかしながら、紅吉の観点に立てば、「母子愛」の崩壊を意味するのである。 ここでさらに、もう一歩踏み込んでみよう。注記[100]で考察しているように、らいてうの性自認が「男」に近いものであり、他方、注記[83]において指摘しているとおりに、紅吉の性自認が「男」であったとするならば、どうであろうか。この「同性の恋」の当事者は、外見上は女性間の同性愛者(レズビアン)のように見えるが、実質的には、男性間の同性愛者(ゲイ)を無意識のうちにも演じていたことになる。つまり、この詩のなかで主題化されている「母子愛」は、表面的には、日常にみられる観念的な虚構の産物としての姿をもつも、実のところは、それを反転した「父親と息子の愛」を構成していた可能性が残る。そうであるならば、「秘密から生まれたお前」である父親の「魔物」と「虚偽から生れた私」である息子の「モンスター」の生と死をかけた闘いが、この「冷たき魔物」の深層部分における主題だったということになる。ひとことでは表現しがたい、両者のセクシュアリティーが奏でる複雑さと混沌さが、ここに横たわる。 すでに注記[100]において述べているように、「男性のごとき女性」(紅吉)との「同性の恋」は、らいてうの面前に「女性のごとき男性」(奥村博)が出現したことにより、あっけなく終局を迎えた。そして、らいてうは、その後奥村との安定したパートナーシップを構築していった。一方、その後の紅吉(一枝)はどうか。同性へ向かう一枝の関心は、決して一過性のものではなかった。結婚後も、さらにはそののちの別居後も、その生涯において、女性の美しさや才能に魅了されてゆく。しかし、そうしたなかにあって一枝は、母親的(父親的)存在の女性を愛することは二度となかった。あくまでも「男」として、美貌の若い才女を愛した。このことからいえることは、らいてうとのあいだに見出していた性愛の形式は、決して自己の本来的なセクシュアリティーを満たすものではなかったということであろう。 結果的にこの出来事は、自己のセクシュアリティーに関する内省の機会を、その後のふたりにもたらすことになった。らいてうの端書きが付けられた、訳文「女性間の同性戀愛――エリス――」が『青鞜』に掲載されるのが、一九一四(大正三)年の四月号(第四巻第四号)においてであり、その端書きのなかでらいてうは、自身の関心がこの問題へと至った経緯を披歴する。他方、富本憲吉との結婚後、最初に発表した本格的な一枝のエッセイが、一九一七(大正六)年の「結婚する前と結婚してから」(『婦人公論』一月号)であった。そのなかで一枝は、結婚する前の青鞜時代の生活を懺悔する。
[131]出典/「東京觀(三六) 紅吉より記者へ(上)」『東京日日新聞』、1912年11月1日、金曜日。
[132]出典/「東京觀(三七) 紅吉より記者へ(下)」『東京日日新聞』、1912年11月2日、土曜日。
[133]出典/「編輯室より」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、124頁。 引用文中の「勝ちやん」とは、小林哥津のことか。この引用文の前に、編集者による、「紅吉と勝ちやんは此の頃浅草の銘酒屋の女にのぼせてゐる。昨日も二人で出掛けたのだそうだ。今朝もこんな葉書を受取つた」という文言がつく。 この引用文でとくに着目していいのは、「私は苦しい苦しい心の病氣を、少しでも慰めるために、十二階下にゐつた」と述べている点である。セクシュアリティーに関する違和感を、紅吉(一枝)は「心の病氣」としてとらえているのである。今日の心理学や医学の見地においては、これをもって「病氣」とみなされることはほぼない。 加えて、この引用文で着目していいのは、「私は立派な男で有るかの樣に、懐手したまゝぶらりぶらり、素足を歩まして、廻つて來た、その気持のいゝ事。あの女の一人でも私の自由に全くなつて來れたらなら…とあてのない楽しみで歸つて來た」と述べている点である。この告白により、紅吉(一枝)の性自認が「男」であり、性的指向が「女」であったことは、ほぼ疑いを入れないであろう。そしてまた、この開陳をもって、無意識下の間接的な「カミング・アウト(coming out)」行為とみなすこともできよう。
[134]出典/紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、131頁。 この引用文でとくに着目していいのは、「その氣分は幼い時からすつと今迄續いて來てゐたのです」と述べている点である。いつのころから特異な自己のセクシュアリティーにかかわる「その氣分」が自覚され出したのかについては、一枝は何も述べていないので特定はできないが、資料的には、注[23]においてすでに指摘しているように、夕陽丘高等女学校時代に美しい女性の音楽教師を好きになった出来事に、「その氣分」の最初の発現を見ることができる。 加えて、この引用文で着目していいのは、「自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます」と述べている点である。資料的には、注[24]において見ることができるように、夕陽丘高等女学校時代に、「うちにオルガンある」と、友人たちにうそをついた出来事が、その最初の事例となる。この行為は、一枝の性格を構成するひとつの要素として、生涯を通じて折に触れ発露する。
[135]出典/「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。 この引用文でとくに着目していいのは、「それは今は言へません……死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」と述べている点である。この発話部分から、紅吉(一枝)は、特異な自己のセクシュアリティーについて、今後生涯にわたって「カミング・アウト」するつもりはないことを心に刻んでいたことがわかる。 以上に述べた注記[133][134][135]の三つの根拠から、紅吉(一枝)は、身体的には女性であるも性自認においては男性であるような、今日的用語法に従えば、FTM(Female to Male)のトランスジェンダーの人間であったと推断できる。当時は隠語として「男女(おとこおんな)」あるいは「おめ」が使用されていた。 他方、女性間の同性愛(レズビアン)は、この国にあっては当時、「といちはいち」「おめ」「でや」「おはからい」「お熱」「御親友」といった隠語で呼ばれていた。しかし、注[40]の引用文のなかにおいて認められるように、確かに一枝の性的指向は小さいころから常に美しい女性に向かっているものの、異性装の着用や男性名の使用、さらには酒場通いや遊郭での享楽などから判断すると、一枝の性自認はほぼ間違いなく「男」であった可能性があり、その場合、一枝とその女性との愛は、決して女性と女性のあいだに生じた同性愛ではなく、見まごうことなく、男性と女性との結び付きを示す異性愛を構成することになる。そうした一枝の「異性愛」は、結婚後も相手を替えながら晩年まで続く。 しかし、一枝自らが、「男女」ないしは「おめ」であること(つまりはトランスジェンダーの人間であること)を公表すること(つまりは正式に周囲にカミング・アウトすること)はなかった。したがって、本人以外の者がはっきりとそのように決めつけることはできない。それでも、上に挙げた幾つもの関連する資料の分析結果から、そのように推断するには十分な合理性があり、逆に、何らかの配慮が働き、そのことを隠蔽してしまうようなことがあれば、正しい一枝像は勢い遠のき、それに代わり、人の手によって捏造された虚偽の一枝像が出現する結果を招く。そこで、これ以降の一枝がたどる人生(つまりその人の言動および書き残したものの総体)を見てゆく場合には、ともに本人が明確に自覚するところである、「自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます」という性格上の働きと、「苦しい苦しい心の病氣」としての心身の動きとに十分に注意を払ったうえで、慎重にも読み解く必要がある。 それではついでながら、蛇足は承知のうえで、紅吉(一枝)のセクシュアリティーに関連して、以下に三点、この場において紹介しておきたいと思う。 一点目は、「男女」や「おめ」という用語の使用例に関してである。 紅吉(一枝)のセクシュアリティーを、「男女」や「おめ」(あるいはトランスジェンダー)といった用語でもって描写された事例は、現時点において、史的資料においても学術論文においても、見出すことはできない。しかし、小説という形式においては存在する。富本一枝に魅せられた吉永春子は、一枝をモデルにした小説『紅子の夢』を上梓する。そのなかの以下の引用文中の湯浅の発話部分に「男女」の用例を見出すことができる(吉永春子『紅子の夢』講談社、1991年、13-14頁)。場面設定は、昭和二九年に開催された「世界婦人大会」の受付ロビー。登場人物は、夏子が、当時女子学生であった吉永春子で、会場の受付を手伝っている。大竹紅子が尾竹紅吉(富本一枝)、富田龍彦が、その夫の富本憲吉であろう。湯浅芳子は実名で登場する。
「あの大柄な方は、どなたですか」 夏子は近くに坐っている、一見男とも見間違うロシア文学者の湯浅芳子にたずねた。 「なんだい、君、知らないのかい」 彼女は断髪の髪をゆすり、懐手をしたまま、タバコの煙を天に吐いた。 「あの女はね、明治のブルー・ストッキング、‶青鞜″の大竹紅子だよ」 「大竹紅子」 夏子は、思わず小さな声をあげた。 「男のような絣と、袴をはいて、さっそうとして生きたあの人ですか」 「そうだよ。彼女は、‶青鞜″、〈ブルー・ストッキング〉のマスコット・ガール。いや、違う。そんなもんじゃあない。台風の眼だった」 湯浅芳子は、続けざまに、タバコの煙をプカプカと吐いた。 「紅子は、変っていた。もっとも‶青鞜″の女達は皆変っていた。明治というと、箸の上げ下げ一つまで、うるさくいわれ、女は女中か、子供を産む道具ぐらいにしか思われていなかったんだ。そんな中で女がね、‶自立″とか‶解放″とか叫ぶなんて大変なことなんだ。そんなことを口走ろうものなら、狂ってるとか、男女(おとこおんな)とか言われてね、社会から抹殺されたもんなんだ」 「男女?」 「そう、女の格好をしているけど、本当は男だろうって、失礼な話さ。‶青鞜″の女達は、そんな陰口を山と言われ、面と向って、石も投げられ、罵倒もされたもんだ。中でも紅子に対しての攻撃は、ひどかった。紅子は、天真らんまんで、行動的だった。好奇心も強かったし。一度、浅草のバーに足を踏みいれたんだ。それを新聞記者に見つかって、‶女だてらに、毎晩、五色の酒を飲み干し、あげくの果、遊郭に行って、女を買った″と書かれちゃって、そりゃあ、ひどいもんだった」 「先生、その時、お幾つでした?」 「十五歳で、女学生だった。遠くから‶青鞜″に憧れていたんだ」 「それで紅子さんは」 「うん」 湯浅芳子は、一寸声をつまらせた。 「その後、陶芸家の富田龍彦と結婚してね。……。もっとも今は別居中だ。可哀想に捨てられたんだ」 彼女は言い終ると、男物のステッキをついて、プイと席をたった。
「遠くから‶青鞜″に憧れていた」、当時一五歳だった湯浅は、京都市立高等女学校に在籍し、自分のセクシュアリティーと重ね合わせるかのようにして、東京での紅吉の言動を注視していたにちがいなかった。 二点目は、湯浅芳子の自己のセクシュアリティーを巡る違和感についてである。 湯浅芳子と中條百合子(のちに結婚により宮本姓へ改姓)が野上彌生子の家ではじめて会って一箇月と少しが過ぎた、一九二四(大正一三)年の五月二一日と二二日にまたがって書かれた、湯浅から中條に宛てて出された手紙(黒澤亜里子編『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』翰林書房、2008年、41頁)には、このようなくだりがある。
私の性格のかなり複雑なことはあなたも御存じですが、そのあなたのご存じよりももっともっと私にはこみ入った矛盾だらけの不幸な生れつきがあるのです。生理的には一通り何の欠点もない女ですが、しかも女でいて女になりきれないというところ、(まだまだ言い足りないが)すべての不幸がまず一番ここにあるのではないかとおもいます。 人生にとって一番意義のある得難く尊いものは何ですか?あなたはなんだとおもいます。芸術ですか、愛ですか。 その何れにも見離された人間は何を目的に生きるのです。まして私は愛を知らないんじゃない! もうやめ、やめ、こんなこと。
湯浅が告白(カミング・アウト)しているのは、明らかに、女が女になりきれない女性の心の性にかかわる精神的苦痛についてであろう。トランスジェンダーを、のちになって「選択」したものではなく、生まれながらにして本人が備え持つ「本性」であるという立場に立つならば、これを自分の意思や努力によって変更したり、捨て去ったりすることはもはやできず、何を目的に生きればいいのかを、自問するも、答えはない。その苦しみを湯浅は率直に中條に訴えているのであろう。 この手紙から九年後、官憲の手により一枝は連行される。一九三三(昭和八)年八月一三日の『週刊婦女新聞』は、「富本一枝女史檢擧――警視廰に留置、転向を誓ふ」という見出しをつけて、次のように報じた。
青鞜社時代の新婦人として尾竹紅吉の名で賈つた現在女流評論家であり美術陶器製作家富本憲吉氏夫人富本一枝女史は過日來夫君と軽井澤に避暑中の處、去る五日單身歸京した所を警視廰特高課野中警部に連行され留置取調べを受けてゐるが、女史は先週本欄報道の女流作家湯浅芳子氏と交流關係ある所から、湯浅女史を中心とする女流作家の左翼グループの一員として約百圓の資金を提供した事が暴露したもので、富本女史は野中警部の取調べに對して去る七日過去を清算轉向する事を誓つたと。
一枝と湯浅芳子が、面識をもつようになったのは、ほぼ間違いなく『女人藝術』を通じてのことであったろうと思われる。当時、『女人藝術』は、文学を志す女たちのマルクス主義を介する人間関係の構築の場となっていた。資料上には何も根拠となるものは現われていないが、一枝と湯浅のふたりが運動資金を巡って政治的友好関係にあったことを踏まえるならば、ふたりに共通していたであろうセクシュアリティーの問題について、両人が胸を開いて語っていた可能性は否定できない。 最後の三点目は、FTMのトランスジェンダー男性の性行為に関連してである。 紅吉(一枝)は、らいてうとの性愛について、注[72]の引用文にあるように、「抱擁と接吻のみ消ゆることなく與えられたなら、満足して、満足して私は行かう」と述べている。一方のらいてうは、注[95]の引用文にみられるように、「『淋しい?どうした。』と言ひざま私は兩手を紅吉の首にかけて、胸と胸とを犇と押し付けて仕舞つた」と書く。 一生涯紅吉(一枝)は、自分のセクシュアリティーの特異性について、正式に周囲にカミング・アウトすることはなかったが、この間たびたび注記において論証しているように、FTMのトランスジェンダーの人間であった可能性は極めて高い。そこで参考になるのが、杉山文野の言説である。『ダブルハッピネス』の著者の杉山は、自身がFTMのトランスジェンダー男性であることをこの本のなかで広くカミング・アウトし、自己の性的行動についても率直に告白している。紅吉(一枝)が、「栄山」のような紅灯のちまたの遊び女(め)と、あるいは、愛の対象としていた月岡花子や大川茂子のような女学生と、どのような性行為を楽しんでいたのかは、資料上、具体的には何も正確にわからない。しかし、以下の杉山の自己体験が、推量するためのひとつの示唆的素材を提供する(杉山文野『ダブルハッピネス』講談社、2006年、178-181頁)。
肌と肌が触れ合う気持ちよさ、好きな人と心がつながる安心感、あんなに楽しくて、気持ちいいものは他にない。しかし、セックスをすればするほど、自分の体が男ではないという現実を痛いほどつきつけられる。体が女だという、いまだに信じられない信じたくない現実を実感する。ところが、彼女を求める僕の気持ち、性欲は間違いなく男性的なものであり、自分の内側の男性的な部分を再確認するのだ。(中略) 最初は服を脱ぐことすらできず、とてもセックスなんて呼べないようなものだった。たとえ彼女であっても……いや、彼女だからこそ、自分の「女」である部分、こんな恥ずかしい体をさらすことなんてできなかったのだ。自分は服を着たまま、一方的に相手を脱がせ、一方的に攻めるだけ。彼女がイッてしまえばそこで終わり。相手に体を触られるのは苦痛だった。彼女さえ満足なら自分も満足だと思っていたし、そう自分に言い聞かせていた。けれど、もちろん満足できるはずがない。(中略) 大学に入る頃になってやっと服が脱げるようになった。最初はお酒の力を借りたり、電気が消えていたりしなければダメだったけど。触られるのにも、少しずつ耐えられるようになった。 何が一番苦痛なのか? 気色悪い自分のオッパイの存在もそうだが、やはり、一番辛いのはペニスがないということだろう。彼女たちの多くは「ペニスに頼って男の勝手なセックスなんかより全然いい」と言ってくれた。しかしそうは言われても、やはりペニスがなければ満足できないのではないかと思ってしまう。立たなくなってしまうという男性の機能障害は、男としてだけでなく人間としての自信も失ってしまうほどショックなことだと聞くが、もともとペニスのない僕に自信なんてものはかけらもない。自分の男としてのアイデンティティなんてズタズタだし、存在自体がコンプレックスなのである。 気持ちが高まってくると、あそこが勃起するような感覚になる。今まで一度も体験したことがないはずの「男体」のイメージが鮮明になってくる。しかし、そこにはペニスではなく、彼女と同じものが存在する。触れられるのにも慣れてきたとはいえ、やはりいまだに体の気持ちよさよりも心の気持ち悪さが先行して、気持ちよくなれない。ところがそんな時、彼女以上に濡れていたりすることがある。そうなると、もうただただ自分の体に呆れるしかない。いったいなんなんだこの体は……どんなシステムでできているんだ?自分が「人間」として不良品であり、その存在が間違っているとしか思えない。 自分は欠陥商品なのか? でなければこの矛盾や苦しさの意味がわからない。セックスをしている時ほど自分が嫌いになることはない。いろんな「壁」を乗り越えようと頑張っている自分がバカらしく思えてきて、もうすべてをあきらめたほうがよいと思ってしまう。生きる意味を失う。死にたい……。セックスをするたびに衝動にかられる。 僕のセックスは、気持ちが高まるだけ高まっても、終わりが来ない。高まった気持ちの行き場がない。相手に求めれば求めるほど手に入らず、すればするほど欲求不満になる。不満を満たそうとすればさらに不満はつのり、そんなことの繰り返し。それでも僕は手に入るはずのない「何か」を求め、またセックスをする。
以上が、杉山文野の自らの性体験に関する言説である。一方、紅吉(一枝)の言説をいま一度、思い起こしてみよう。 「私にはちいさな時分から美しい女の人をみることが非常に心持のよいことで、また、大變に好きだつたのです。それで私の今迄の愛の對照(ママ)になつてゐた人のすべては悉く美しい女ばかりでした」(注[40]の一部)。 「[吉原での]私の花魁は榮山さんと云ふ可愛い人でしたよ……私は眞實に身受がしたくなり茶屋へ歸つてから聞きますと千兩は掛かると云ふんです……若し男だつたらと男が羨ましくなりました、浅草の銘酒屋もよう御座いますネ、今度は呼れたら上つて見やうと思ひます」(注[83]の一部)。 「私は苦しい苦しい心の病氣を、少しでも慰めるために、十二階下にゐつた。銘酒やの女を見に行つた。…私は立派な男で有るかの樣に、懐手したまゝぶらりぶらり、素足を歩まして、廻つて來た、その気持のいゝ事。あの女の一人でも私の自由に全くなつて來れたらなら…とあてのない楽しみで歸つて來た」(注[133]の一部)。 「私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです。……人が知つたら恐らく危険だとか狂人地味た奴だとか一種の病的だろうとか位いで濟ましてしまうでしよう」(注[134]の一部)。 「私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」(注[135]の一部)。 自らが語る自身のセクシュアリティーにかかわる上記五つの言説の陰に隠された紅吉(一枝)の性行為の実際をあえて推量するとするならば、どのような図が描けるだろうか。時代も違い、個人差もあろう。しかし、杉山が告白する性体験と重なる部分も決して少なくはなかったのではなかろうか。 少し先走ることになるが、「冷たき魔物」の執筆からちょうど二年後に、そうした性自認と性的指向をもつ性的少数者(ほぼ間違いなくトランスジェンダー男性)である一枝が、富本憲吉という多数者に属する男性と結婚する。一枝は、自身の特異なセクシュアリティーを夫たる憲吉に告白するのだろうか。それとも、当時強固な社会規範となっていた「良妻賢母」という「女」に徹そうとして、そのなかに身を隠すのであろうか。その場合、果たして自己認識とは異なる性になりきることができるのだろうか。もしできなければ、どのような事態が待ち受けることになるのだろうか。一方の憲吉は、イギリスの地で触れた近代思想を、自分の「新しい芸術」のみならず、一枝との「新しい家庭」にも投影しようとする。憲吉は、一枝のセクシュアリティーをどう理解するのであろうか。そしてまた、一枝の「旧い女」の本質部分とどう向き合うのであろうか。一枝と憲吉の結婚には、実はそうした複雑で解決が困難そうに見える問題群が最初から内包されていたのである。
[136]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、77頁。
[137]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、252-253頁。 この再会がいつだったのかを正確に特定することはできないが、一九一三(大正二)年の『青鞜』一月号の表紙絵から「アダムとイヴ」に差し替えられていることから判断すると、青踏社を退社すると、すぐにも紅吉は、憲吉に面会の手紙を出し、その年(一九一二年)の遅くとも暮れまでには安堵村を再訪し、表紙絵の依頼をしたものと思われる。紅吉にとっても、またらいてうにとっても、この表紙絵の製作は、暗黙のうちにふたりの関係を何とかつなぎ止めておくためのわずかに残された唯一の手段だったのかもしれない。
[138]出典/「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、104頁。 『新潮』の記者である「一青年」が下根岸の紅吉の自宅を訪ねてきたのは、一九一二(大正元)年一二月一〇日の午前一〇時のことであった。この引用文で注目されてよいのは、「新聞の三面記事や、人々の噂に創造された尾竹紅吉と、尾竹紅吉其の人の實體とは全然別個のキャラクタアである」という、「一青年」が観察する、紅吉の性格についての記述箇所であろう。 他方、このころ一枝は、『青鞜』一月号の表紙絵のために「アダムとイヴ」の製作に入っていたものと思われる。
[139]出典/「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、105-107頁。 この引用文でとくに注目されてよいのは、「貴方自分を世間の云ふ『新しい女』と自認して居ますか」という青年の問いかけに対して、紅吉は、「いゝえ、――世間で云ふ新しい女と云ふものは、よく分りませんけれども……私自身はどちらかと云ふと昔の女で、私の感情なり、行為なりは、道徳や、習慣に多く支配されて居る事を感じます」と、答えている箇所である。この発話により、紅吉自身、自らを「新しい女」ではなく、「昔の女」として認識していたことがわかる。母親の影響が大きかったものと思われる。
[140]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、99頁。 一九一三年一月号の『青鞜』は、紅吉の「アダムとイヴ」に表紙絵が差し替えられた。他方、画像のみならず内容においても、「新らしい女、其他婦人問題に就て」を「附録」として巻末に組み、創刊以来の文芸雑誌としての性格を保ちながらも、女性解放運動へ向けての機関誌的存在へと、この号から徐々に舵が切り替わることになる。
[141]出典/尾竹紅吉「藝娼妓の群に對して」『中央公論』1月号、中央公論社、1913年、186-189頁。 『青鞜』において発表されたものが主として詩、ないしは日記や手紙の形式をとった散文であったことを考えれば、この「藝娼妓の群に對して」は、それまでにみられなかった論説文であり、しかも、内容的には、はじめて婦人問題への関心を表出するものであった。半年前の吉原見学が下地となっているものと考えられる。 引用文の最後の「赤裸な原始に歸り作られたる性格の本質にとつて尊重仕合いたいと考える」という語句には、平塚らいてうの『青鞜』発刊の辞「元始女性は太陽であつた」を思い起こさせるものがあるが、他方、「『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです」という一枝の回想と重ね合わせてみると、この最後の語句は、人間相互の原初的関係を、つまりは、一枝と憲吉のあいだにあって求められるべき男女の交わりの基本となる形式を、無意識的に先取りしたものとして読むこともできよう。そのような意味において、『青鞜』を飾った表紙絵「太陽と壷」のみならず、この「アダムとイヴ」も、らいてうと憲吉へ向けられたこの時期の一枝の自覚なき心象を直截的に投影し視覚化したものだったといえなくもない。
[142]出典/「紅吉の繪の總見――畫界に珍らしい催し」『多都美』第7巻第7号、1913年4月5日。 『青鞜』の新年号の表紙絵のために「アダムとイヴ」を彫り、一方で『中央公論』の新年号の特集「閨秀十五名家一人一題」のために「藝娼妓の群に對して」を書き終わると、紅吉は、この年(一九一三年)の第一三回巽画会絵画展覧会へ出品するために《枇杷の實》と題された六曲屏風一双の製作に本格的に取りかかったものと思われる。この作品は褒状一等に入選した。昨年度の作品《陶器》が三等賞銅牌であったことを考えると、ひとつ下の受賞ではあったが、その間新聞にあって「五色の酒を飲み、吉原に遊ぶ新しい女」といったイメージでセンセーショナルな話題をふりまいていた紅吉の作とあって、世間の関心は高かった。そうしたなか、四月五日付の第七巻第七号の『多都美』は、紅吉の絵の総見が準備中であることを報じる。この作品の落款には本名の「一枝」が使われた。「紅吉」からの変身が意図されていたのか。あるいは、『青鞜』からの離脱が意識されていたのか。
[143]出典/「紅吉氏の繪」『多都美』第7巻第8号、1913年4月20日。
[144]出典/津田靑楓「巽會展覧會を見て」『多都美』第7巻第8号、1913年4月20日。
[145]出典/黒田鵬心「淸水町より 巽畫界展覧會を觀て」『多都美』第7巻第9号、1913年5月5日。
[146]出典/「紅吉の畫が賣れる――三百圓で花魁身受の噂」『讀賣新聞』、1913年4月8日。 この引用文では、「[絵の代金である]三百圓は何うなるのかと云へば、今度紅吉が出す雜誌の保證金に充てるのだそうだ、花魁身受なぞと評判を立てゝ置いて、陰でペロリと舌を出す紅吉も女ながら人が惡い」という文言に、とくに注目されるがよい。「今度紅吉が出す雜誌」とは、その後一枝が創刊する『番紅花』を意味するであろうし、「花魁身受なぞと評判を立てゝ置いて」は、注[83]にある「私は眞實に身受がしたくなり茶屋へ歸つてから聞きますと千兩は掛かると云ふんです……若し男だつたらと男が羨ましくなりました」という文言に対応する。
[147]出典/平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、101頁。 一枝は、根津神社に近い生田長江宅に寄寓し、「殆と一ケ月の間寢食を忘れて」、《枇杷の実》を製作した。すでにこのときまでに母親のウタと妹の福美も大阪を離れ、下根岸の地に合流していた。一枝が生田宅の一室をなぜそのとき間借りしていたのか、その理由はよくわからないが、家族の上京に伴い手狭になり、製作に集中できる部屋が必要とされたのかもしれない。あるいは、「紅吉の今の家は大變家相が惡くて長女が病死する」(「編輯室より」『青鞜』第3巻第1号、1913年1月、136頁)らしく、そのことを気に病んでのことであったのであろうか。もっとも、その少し前、立ち退きを迫られていた生田は、次の借家として、根津権現上の高台に大小九室もある立派な二階建ての家を見つけると、その家賃の八〇円の支払いについて、当時慶応義塾の学生であった佐藤春夫に、「無理をして六十円は出すが、あとの二十円のところを五円は[生田]春月君に出させる。あとの十五円で君はその家の一番気に入った一室に来て住む気はないかという相談」(佐藤春夫『詩文半世紀』読売新聞社、1963年、60頁)をもちかけ、佐藤はそれに同意している。この新たに賃貸された生田家の豪邸に一枝が同居するにあたっても、そうした事情がひょっとしたら隠されていたのかもしれない。
[148]出典/尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、256頁。
[149]出典/「泉と少女」『佐藤春夫全集』第1巻、講談社、1966年、55-56頁。
[150]出典/島田謹二「解説」『佐藤春夫全集』第1巻、講談社、1966年、629-630頁。
[151]出典/尾竹紅吉「自叙傳を讀んで平塚さんに至る」『中央公論』臨時増刊婦人問題号、1913年7月、174-181頁。 らいてうは、これをどう読んだであろうか。ここに至って紅吉は、ふたりの愛に向う様相を内省的に位置づけると同時に、破局に際してのらいてうの忍従の姿に思いを馳せる。何か、母親(あるいは父親)をいたわるかのような、かつての無邪気な少年の、成長ののちに現われる大人びた気配が、この一文「自叙傳を讀んで平塚さんに至る」には漂っている。しかしながら、こうした紅吉のらいてうに対する冷静で理性的な距離の置き方と、そのときの『青鞜』が発信した距離の置き方とでは、大きく異なっていた。翌月に刊行された『青鞜』八月号の「編輯室より」の記述に、それを見ることができる。たとえらいてうの筆になる記述ではなかったとしても、あまりにも形式的で事務的であり、その分紅吉に冷たかった。
[152]出典/「編輯室より」『青鞜』第3巻第8号、1913年8月、195頁。 こうして、表紙絵「太陽と壷」と巽画会への出品作品《陶器》にはじまり、「五色の酒」「吉原登楼」「同性の恋」そして「恋の破綻」を経て、表紙絵「アダムとイヴ」の製作と巽画会への《枇杷の實》の出品をもって、紅吉の青鞜社時代は最終的に幕を閉じ、七月の下旬、紅吉いや一枝は、長野、新潟、そして秋田への旅に出るのである。