私の生れたころ、父は、地方新聞のさし絵を描くかたわら、今で言う商業デザインの仕事をしていたようです。当時父は、自由民権運動論者と親しく交わっていたようで、母の話では、自由民権運動のために仕事もほうり出してかけずりまわっていたようです。それで、母と縁談がもちあがったとき、母方の一門は加賀前田の分藩の御家中でも禄の高い家柄ぞろいだったので、由緒正しい士の娘を、平民の、しかもしがない貧乏画かきになど、と言って大反対されたそうです。それを祖母が「金禄公債の僅かな利子にたよって、びくびく暮す没落士族より、筆一本で身を立てている男の方がよっぽどえらい」とめづ(ママ)らしく言い張ったということです。明治二四、五年時分に、舊式一点張りの女であった祖母がこうしたことが言えたというのは、今思えば、禄を失った祖父が経済的に無力で、祖母のつらい働きでどうにか生計をたてていた、その強みがさせたことでしょうか、なかなか印象づよく残っている話ですが、と言っても勘定奉行なんの何某の孫とか、家老のなんとか、といった家柄の母は生れだったので、自由奔放な父のありかたに比べ、母は私たちを至って厳格に躾けました。[1]
お嫁に来ますときなど、家伝の九寸五分をもってまいったくらいで、万事ひどく厳格でいわゆるしつけということをやかましくもうしていました。[2]
父は明治元年に生れた。ずいぶん人とかわつたところのあつた人だつたが、駆引とか、うそなどいえない、心のまつすぐな人だつた。なんにでも、すぐ感動して、よしと思つたらあとさきをかえりみるひまなく、たちまちそのことに夢中になつてかかつた。好奇心の強い、矛盾だらけのお人好だと、口癖のように母はいつて嘆いていたが、さぞかし母は苦労だつたろう。 父は日本画を書いていたが、有名な画家ではなかつた。もし、父が画一筋の途を歩んでいたなら、あるいは、明治大正の画人傳の片隅にでも、名前がくわわつていたかも知れぬ。ところが画をかくことより、父にはもつと、他に心を惹かれることがとにかく多かつたようだ。[3]
紅吉――即ち尾竹一枝は、明治二十六年四月二十日、父熊太郎(越堂)の長女として富山市の越前町で生まれた。[4]
「郵便局の柱に紐でよくつながれていたことを覚えています」越前町での思い出を、そう語る一枝だが、そのころ、少年の竹坡は、もっぱら一枝や妹の福美たちの子守をさせられていたらしい。「叔父さんは、よく本を読んでいました」これが、当時の竹坡に対する印象であり、彼女の記憶である。[5]
母さんがあなた方の時分は一体どうしてゐたでせう、母さんの六つのときは、まだとてもひどい赤ん坊でした。母さんの故鄕が大火事で半分燒けて仕舞ひ、母さんは死なれた大おぢいさんや大おばあさんにつれられて東京に出た年です。餘程のあまつたれで、とてもお行儀なんか惡くてだめだつたやうです。[6]
もっとも私は、父の仕事の都合で、小学校三年まで、東京にいた父の祖父母に預けられていましたから、母の躾けが、どんなに厳しいものだったか、それは大阪に住んでいた父母の膝下につれ戻されてからわかったことでした。[7]
明治二十年(一八八七年)に、今の西蔵院のうしろ、円光寺との間、今の下谷病院のあたりに新しく木造校舎をたててひっこしました。二階だての木造校舎で、広さは前の十倍になりました。 二年ほどたって、根岸町は金杉村から分かれて、下谷区にはいりました。そして、校名も、東京市下谷区根岸尋常高等小学校にかわりました。 その後、生徒もだんだんふえてきたので、教室をたてまししました。生徒数は、明治の終わりころには、今と同じ八〇〇~九〇〇名くらいになりました。[8]
八つの年にはどうしてゐましたらう、たしか小學校に入學してゐました。勉強についての記憶よりか、學校の春秋の運動會にいつも走りつこの一番になり、かゝへきれぬ程欲ばつて賞品をもらつた事や、學校から戻るなり、祖父さんに作つてもらつた蟬とり網の袋をもつて、近所の男の子達と上野の山や田端邊に、日の暮れ暮れまで蟬とりにでかけてゐた記憶ばかりが思ひ出されます。[9]
私の父の兩親は浄土眞宗の信者だつた。私は、天保生れの祖父から、御文章(おふみさん)をおそわり、文久生れの祖母から、西國三十三番順禮歌をならつた。祖母はまた、苅萱(かるかや)道心や安壽(あんじゆ)姫のあわれな物語を、天狗にさらわれる話や、狸や狐が人を化かす話と同じようにきかせてくれた。桃太郎や舌切雀では、もうつまらなくなつていた私と妹は、めそめそしながら、石童丸のそのあわれな物語に、いつまでもきき入つていたものだ。[10]
私は子どものころ、お經を習つたことがあつた。そのいきさつは忘れたが、とにかく、日曜ごとに『正信偈和讃(しようしんげわさん)』と數珠をもつて、大阪の東本願寺別院に通つた。本堂にあつまつた子どもは、どの子も私と同じとし格好で、二十人ほどだつたろうか、それが二人ずつ小さな經机に膝を入れて、お坊さんがあげるお經を、おとなしくして聽いていた。お經の字を讀める子は、ひとりもいなかつた。みんなはただ、お坊さんの唱えるとおりに、‶キ ミヨウ ム リヨウ ジュ ニョ ラーイー、ナームフーカーシーギーコウ″と、聲を張上げて合唱するだけだつた。それでも、いつのまにか、『正信偈和讃』を覺えてしまつた。そして母は、弟たちの命日になると、私にお經を上げさせ、そのあいだ私の傍についていて、‶南無阿彌陀佛″ ‶南無阿彌陀佛″と、低い聲で唱名(しようみよう)していた。[11]
母の盛つた御佛飯を、毎朝佛前に供えるのも私のつとめだつた。御佛飯のおさがりは母がいただくことに決まつていた。(中略) 佛事になると、なにごとによらず、母はやかましかつた。今年は、だれだれの十三回忌、ことしは、だれそれの三十三回忌、といつて、しきたりどおりに法事を營んだ。 私は、母といつしよに、お精霊(しようりよう)さまに供える茄子と胡瓜の馬をこしらえたことを覺えている。お盆が近づくと、母は佛具をきれいに磨き、佛壇のすみずみまで拭つていた。[12]
子どもの教育は母にまかされておりました。父は、その頃、美人画ですこし売り出していましたから、お金にさほど困るはずはなかったでしょうに、とったお金は、母の手もとに極く少ししか渡さず、その金で新案特許をとる品物づくりに夢中になり、やれ、沈没した軍艦の引きあげ機だ、やれ、戦車をこしらえるのだといって、家のくらしはかまわず、母はずいぶん苦労したようです。この風変りな父のおかげで、私はのびのびと育った面もあり、またその半面、母の古風な躾けで、子どもながら途方にくれるようなこともあったのです。[13]
生来の発明狂といわれた父の越堂は、大阪在住のころにも、一時自ら粉歯磨を作っては売っていたという。「金盥に歯磨粉をいっぱい入れて、かきまわしている父の姿を、よく覚えています。たしか〈大和桜〉とかいうような名でしたが、袋に桜の花模様がついていたことを記憶しています。」一枝は、当時のことをそう語ってくれた。 「そのころ、売り出しのため、私は、チンドン屋の旗を持って、街中をねり歩き、ビラを配って歩いたもんです」はじめて聞く彼女の少女時代の想い出話である。[14]
幼いときから、畳のへりを踏んでも叱られるし、ごはんのたべ方にしても箸の上げ下げ一つにしても、いちいちやかましくいわれてきたものです。祖先をうやまうこと、君に忠、親に孝ということ、これが第一の敎えでした。夫につかえること、忍従の敎えは徹底したものです。[15]
母の父は、越中富山藩の高祿武士だつた。廃藩のとき與えられた金祿公債を、「武士の商法」ですつかり失くし、私のうまれたころは細々としたくらしだつたらしい。それでいて、武家の格式を守ることにやかましく、子供のしつけなども嚴しかつた、ということだ。[16]
女の子は行儀よく、ということが第一でした。身なりをかまうこと、髪の毛一本ほつれていても、母はとても気にしました。下駄の脱ぎかたもやかましく、おふろ屋行は涙が出るほどつらいことでした。アカスリ、ヌカブクロ、の順で無理矢理にひっかかえられて洗われるのがこの上なくいやだったのです。また「学校」「先生」「復習」というものが母にとってオキテでありました。 学校から戻ると、まず復習(おさらえ)です。それがすむまで、ひとやすみも許しません。母はこの世で、うそ(・・)ほど悪いものはないと教えました。あたたかい人の真心のありがたさについても言い続けておりました。‶偉い人になるのだぞ″としか私に言わなかった父と、この母の考え方の中で、私は育っていたわけです。[17]
母は、うそをつくことと怠けることが大嫌いだった。へつらったり、自分さえよければ人はどうなろうと平気な人間を、とりわけ好きでなかった。(中略) 母がつねづね子どもにきかせていたことは、情のある人、思いやりのある人になることだった。一番はずかしいことは、困った人をたすけたことをいつまでも覚えていること。それと、「人のふり見て我がふり直せ」ということだった。[18]
宣戰が布告されたときは高等小學校に通つておりました。校長の講和のあとみんなで萬歳をとなえたものです。あのころはそろそろ天皇陛下というものは絶對のものになりはじめておりました。祖母など、御眞影を見ただけで目がつぶれるといつていましたから……私たち式のときなど、初めからおしまいまで最敬禮したままで……(中略) 私は廣瀬中佐の、旅順口の閉塞の話を校長からきいたとき緊張して顔がほてつたほどでした。小學生ですからまことに單純なもので勝てば嬉しいし負けたときけば悲しかつたのです。遼陽の會戰で日本が勝つたときなど、授業を休んで祝つたものです。堺というところにロシアから捕虜がくるというので、母はお辨當をこしらえてまだ明けきらないのに、子どもたちを連れてそこまで汽車で出かけました。……しかし、しばらくそこにいるうちに、捕虜を眺めていることが妙に白々しい思いがしてきて、こんどは、ひどく可哀想に思えてきました。行くときは勇んで行つたくせに歸りには何か割り切れない、とてもさびいし氣がしたことだけは、はつきり覺えております。[19]
高等小学校のころには、さかんに義賊に憧れましてね、父に見つかると叱られるもんだから、押入れに隠れて、コッソリと鼠小僧の本などを夢中で読みました。[20]
私が女学校に入ることは、私の希望でもありましたが、父も母も、これからの女の子は「高等教育」を受けなければだめだ、ということでは一致しておりました。日露戦争がすんだ直後のことでした。といっても大阪というところでは、その当時は高等女学校へ子どもやる親たちは、まだごく僅かだったようです。私は、できたばかりの大阪府立夕陽ケ丘高等女学校へ入学いたしました。明治三九年でしたろうか。[21]
その時の女学校は、ちょうど日露戦争後の興隆期にあたり、東京の大学で新しい教育をうけた先生方が集まって、学校全体が非常にフレッシュでした。校長も進歩的な考えを持った人で、若い先生たちを大切にして、どちらかといえば自由に、その考えを通してあげていたようです。英語と国語には特に力を注いでいたようでしたし、運動(スポーツ)もなかなか盛んでした。テニスやピンポンもやりましたし、夏は、海へ出かけて水泳もやりました。私はピンポンではクラス一で、テニスは前衛でなかなか活躍しました。[22]
私がまだ學校にゐた頃でした。そうですね、丁度十八の時の事です。今いつたように、ちよつとしたことから思ひがけなく愛の爲に競争して自分が勝利者になつた瞬間にそれまでの色々の無理が破裂して私の幼い罪惡が正直に私の兩親なり受持敎師の前に搬ばれたのです。それがために私は死人のようになつてK市の波止場まで逃走したことがありました。 私の學校に私が二年になつた春、そりや美しい綺麗な若い音樂の先生が來ました。その春音樂學校を卒業したばかりの聲の大變にいゝ女の先生でした。その先生はソプラノがことに得意でした。(中略) 日が経つにつれて私はI先生がたまらなく好きな人になりました。……けれど私と先生の間には特に好い機會がなかつたゝめ可成り長い間二人きりの親みを有つことが出來なかつたのです。(中略) それがふとしたはづみ(・・・)で私はI先生とゞうしても殊更の深い愛をもち合はなければならない樣になつてきました。私の妙な意地と不思議な好奇心がそうさせてしまつたのです。(中略) 私はこの小さな短いこれだけの會話を耳にしたばかりにいつもの妙な競争心が電光のやうな早さを以つて私の胸を走つた。(中略) 私の不安は一刻毎に募つてきました。そしてそれまでに芽くんでゐる私とI先生の愛着を絶對のものに爲ると云ふ願ひよりもつと強く私はまづ競争者にならなければならないと強い強い感情を有つてゐました。私はまあ愛の掠奪をする積りなんです。(中略) そのうちXはまるで狂人のやうな荒い恐ろしい眼でいつも私を凝視てゐるやうになりました。そしてI先生に對しての烈しい愛の欲求は火の樣に舞い狂つていました。(中略) 私は無理に無理して随分苦しい手段や危険な方法をもつてXと相對してゐました。……人から見ると卑劣だとか卑怯だとか云はれましようけれど、全く私はその事實を話すことが苦しいのです。……どうぞ強いて聞くやうなことはしては下さらぬやう。(中略) それでとにかくK市についてすぐ私は西洋人の牧師か宣敎師の家を訪ねて自分の罪をすつかり懺悔しようと決めました。……K市に着いたのはもう夜になつてからです。……只私の罪を悲しみ驚き怒つてゐる兩親のことがはつきり眼に浮かんでくるのです。私はいくどかいくどか新しい涙が溢れました。(中略) 私はこの人の話をきいて、どうしても家に歸へらなければならないと決心しました。 私はもうそれまでに弱くなつてゐました、みぢめなものになつてゐました。そしてどうして自分はこんな處まできてしまつたのだらうとつくづく兩親のために恥ぢてまたあたらしく悲しみました。[23]
私が、まだ大阪にいる頃でした。よくありましょう、自分の家の自慢をすることが……私もまだ女学生でしたし、何かのはずみに、うちにオルガンがあると、クラスの者たちに自慢しちゃったんです。ところが、あとで、友だちがみんなで見にくると言うので、困っちゃいましてね……今、ちょうど毀れているから駄目だと嘘をついてどうにかごまかしたんですが……そんな、私のことを母は知っていたんでしょうか、その後まもなくオルガンを買ってくれました。[24]
とにかく私は女學校の下級生であつた頃から父の考へのやうな繪をかくために仕込まれてゐたやうだ。學校から歸つてくると先づその日の新聞小説の挿繪があてがはれる。薄美濃といふ大型の……薄手の紙で、その繪を寫しとらせることと、「前賢故實」といふ大部な歴史物を極つた枚數だけそつくり寫しとることが仕事だつた。新聞小説の挿繪の方は……そんなに困難ではなかつたが、「前賢故實」といふのにはいい加減なさけない思ひをさせられた。[25]
時には、信貴山縁起だの福富草紙だのという繪巻の模寫まであてがはれたが、私は父の希望するやうに、繪をかく人になる氣などまるでなかつた。それどころか繪をかく勉強などさせる父を心のなかでどんなに憎んできたか知れない。だから私は學校から戻ると、その仕事をなんとかしてはぐらかそうと色々と苦心した。……たゞ、小説を讀むことに夢中で、隙さえあつたら手あたりまかせに讀みあさつて居た。私の周囲には私がのぞむやうな本がまるでなかつた。私は貸本屋にひそかに足をはこんだ。圖書館にも出かけた。……知識的に質の低劣な私に讀めるものは悲しくもすこししかなかつた。それでも私は乱讀を續けることを止めようとはしなかつた。 父は勿論そのことを悦ばなかつた。小説本を讀んでゐるところをみつけられたら最期、父の手でそれは何處かに隠されてしまつた。貸本屋から本をもつてくることを私は遂々斷念して、その代り日曜がやつてくると、友達を訪ねるといふ口實で朝はやくからきりきりの時間まで圖書館で讀んだ。[26]
父は私を繪かきにさせるときめておりましたから、少しぐらい變り者の方がよいぐらいに考えておりました。母はさつき申しましたように、茶を習わしたり、三味線を習わしたり、させたがりました。ですから、女子美術に入るまでは、琴も、お茶もごく一通りでしたが、これは母のために習いもしました。それで母がよろこぶなら、というところでしようか。しかし、結局母の考えとは、ことごとにくいちがつて、いろいろな點で母を困らせておりました。[27]
本校校地夕陽丘はもと大阪名勝の一に算へられ梅樹を以て鳴る校地は街路より数十尺の高地に在り、後に歌聖藤原家隆卿の塚と聖徳太子建立の愛染塔とあり北は巨刹を控え南は大江神社に隣す。前面西方を望めば、煙突林立活動の市街をへだてて遠く茅渟(ちぬ)の海を観る。天気清朗の日夕陽の海波に映じて淡路島山にかくれなんとする光景は雄大艶美、空気清涼四方静閑実に大阪の仙境たり。[28]
夕陽丘女學校の文藝會は唱歌、筝曲、英語對話皆好成績、中にも無形の劇ともいふべき三段の朗讀對話なるものが來會者を驚嘆せしめたり……第三段の『酒匂の吹雪』と題せる二宮金次郎孝行の條に至りては川崎道江子の母お由、中村數枝子の金次郎等切々の哀情を表はし高橋楠枝子の馬鹿男、尾竹一枝子の強欲八郎兵衛なんど輕快なると執拗なるとを配し殆んど遺憾なく感ぜしためるが散會したるは午後七時なりき。[29]
若草色の校舎に沿うて見物人がずらりと詰めかけて居るが而も八分迄が女性なので髪の飾り着物の色が一しほに會場の色彩を引立しめた……最後には五百の生徒がカタン糸で(運動會)と書いた綠門(アーチ)から第四師團軍樂隊の奏樂につれ手を組みながら出て來て行進プロ子ーズを演じたのは壯觀で白いリボンは四年、靑が三年、桃が二年、赤が一年と區別したのはおもしろい思付きである[。]先生と生徒が一緒に校歌を歌つて會を終つたのが五時、幸ひ雨も降らず、なかなか規律の立つた面白い運動會であつた。[30]
妾等今将に校門を辞せむとして、4年敬仰の恩師と同胞四百の諸嬢と袂を分かつは転々悲痛に堪へざる処なり、紅葉焦がるゝ大江の神社、古木鬱蒼たる愛染塔何時のときか忘らるべき、或は運動会に、或は文藝会に、或は遠足にかたみに楽しく、勇ましく語らいし昔あわれ、明日よりは思多き過去の生活となりぬべし、されども人生は人をして何時までも学校生活をなさしむるを許さざるなり、嗚呼妾等が敬仰せる恩師の君よ、よく健康にましまし永く我が校に止まりて我が同胞を強化し妾等卒業生を指導し給へ、親愛なる同胞よ、よく師命を守り束の間も校規を服膺し愈々我が校の名声を高められよ。いざさらば。[31]
私は一八になつた。學校を出るとすぐ私の将來に就て親達は本格的な相談をもち出した。 ……私は一體どうしたいのか自分に問うてみなければならない程、明確に進む目的なり方向をもつてゐない自分をそこにみつけて、黨惑したものだ。小説を讀むことはやたらに好きであつたが、小説をかくといふことがどんなことなのか、それすら考へ及ばぬことであつた。 勉強の方法がわからなかつた。だから、さうなれば修業の方法がわかつてゐた聲樂をやつてみてもいゝといふ氣になつた。……それを自分の希望として父に話したら、頭からどなりつけられた。[32]
きまつた方針もたゝなかつたが、東京に行くことだけはあきらめきれなかつた。東京に待つものが、自分をきつとしあはせにし、自分にしつかりした目標を與へてくれる、その考へにつき纏はれた。…… なにかしら東京といふものを考へてゐると、背後から激しい力で私を前に押しやるものがあつた。(中略) むやみに、新しい生活が、自分の親達とはまるで違つた生活が、自分の手で力で意思で、とにかくやつてみたくて、またしなければならない氣ばかりして、その情熱で身も心も焼きあふり、呼吸も出來ないやうな切迫した思ひで夜明けが待たれた。……私はひたすら東京に行かしてほしいことを頼みつゞけた。[33]
そんなところへ東京から伯(ママ)父が偶然に來合せて、父の意見と私の夢のやうな考へをきいてくれて……この子を美術學校に入れたらどうか、といふ意見を出してくれた。……私は好きでやらうともしないことに結局つれていかれることが悲しかったが、東京に行くためにそれ以外の手段が全くないことがわかつてゐたから、それでは美術學校に行きますと返事をするより仕方がなかつた。[34]
……上野の美術學校は女人禁制であつた。或は今年あたりから少數採るやうなことになるかも知れないと言ふ伯(ママ)父[竹坡]の話をあてにして出て來たが、女子の入學は問題にさへなつてゐなかつた。私はすつかり失望した。やむなく本郷の菊坂にある女子美術に行くことに決まり、その寄宿舎に移つた。[35]
寄宿舎は建て坪一二一坪の総三階建てで、部屋数は八畳室二八、六畳室八の計三六室、それに洗面所、食堂、炊事室、浴室などが付属していた。[36]
毎日、日本畫の敎室に出て川端玉章のお弟子だといふ何とか紫川といふ老人の敎師から水墨のつけたての手本を與へられ……そんなものを習はねばならなかつたことがどんなにせつなくつまらなかつたか。やがて私は寫生するために配られて來た薩摩芋や栗を火鉢にくべて燒くことに成功をかさねたり、林檎や柿を半分まづ喰べてしまつて半分になつてしまつた果實でうまく立體的な感じを出すことが楽しいことになつてしまつた。併し學校でのこんな生活に私は我慢出來なくなつて、退屈な日が思つたより早くやつて來た。[37]
それから、また紫の色も床しいカシミヤの袴を胸高にきりゝと着けて、靴音も活潑に女子美術の門をくゞつた、この人の可愛い女學生姿に見恍れた者もありませう。然し時々はこの美しい人と並んで、女には珍らしい程身長の高い、色の浅黒い、セルの袴に男ものの駒下駄をつツかけた、女壮士とでも云ひたいやうな人の聲高に、話して行く有樣を見て吃驚した人も一人や二人ではないと思ひます。 この美しい可愛い人こそ誰あらう月岡花子嬢で、も一人の女壮士こそ問題の人謎の女の尾竹紅吉(こうきち)女史その人であつた。 ……花子嬢が女子美術の生徒であり、紅吉(こうきち)女史も一時女子美術に席を置いたことがあると云ふ関係から、おそらく知己(ちかづき)となり友達になつたと云ふことだけは確かです。(中略) [奥村博の出現により紅吉は平塚らいてうと別れなければならないことになり]それからと云ふもの、二人の仲は親しい友と云ふよりも、その友垣の垣根を越えて、わりなき仲となつたのでした。同性の戀!まア何といふあやしい響きを傳へる言葉でせう。[38]
……やがてその次にあらはれたのが大川茂子といふやはり女子美術の洋畫部の生徒でした。茂子嬢と紅吉(こうきち)女史との戀……は花子嬢のそれと比べてはなかなかにまさるとも劣ることない程の強く深く切ないものでありました。(中略) ……嬢は何時とはなしに紅吉(こうきち)女史の例の魅力に惹き付けられて仕舞つたのでした。……それから二人の放縦な自由な切な媾曳は日に夜についでこの日暮里の小やかな茂子嬢の部屋につゞきました。[39]
……私にはちいさな時分から美しい女の人をみることが非常に心持のよいことで、また、大變に好きだつたのです。それで私の今迄の愛の對照(ママ)になつてゐた人のすべては悉く美しい女ばかりでした。私の愛する人、私の戀しいと思ふ人、そしてまた、私を愛してくれる人、戀してくれる人の皆もやつぱり女の人ばかりでした。 ですから美しい綺麗な女の人と言へば私に有つてゐそうのないほど非常な注意と異常な見守り方をもつて來てゐました。[40]
日本畫の敎室から抜け出して三階の西洋畫の敎室に遊びに行く方が多くなつた頃、私は學校から立派な不良生徒としてにらまれてゐた。私が裸體のモデルを使ひたくなつて、西洋畫に轉科したい希望を父に書き送つた手紙の返事がこないうちに、私は、寄宿舎の舎監と衝突して、さつさと行李を伯(ママ)父の家に搬ぶやうになつた。消灯後私が友達と遊びすぎたといふ事が重なつたのが、舎監の老先生をすつかり怒らせたのがこの原因だつた。[41]
私は自分勝手に學校を去つたことで父をも伯(ママ)父をも怒らせてしまつた。一種の刑罰のようにそれ以降私は伯父の家で女中代わりの仕事をしなければならなくなつた。私は伯父が繪をかく時は繪具溶きに廻されたし、伯(ママ)母が臺所に立てば、七論の下をはたき、味噌をすり、野菜を洗ひ米をといだ。[42]
一枝さんと一緒に上野の山へ行った時よ、その人マントをすらっと着ているものだから男と間違えられちゃってね、笑ったことがあるわよ……。[43]
或る日の朝、表庭の掃除をしてゐたら伯(ママ)母宛の手紙が一通配達夫から渡された。……私はその一本の手紙がひどく氣にかかり、不思議に思はれて裏返してみたら、靑鞜社と書かれて居た。……私の渡した手紙を伯母も不審らしく眺めていたが……封を切つてとり出したのが靑鞜發刊の辞と靑鞜社の規約であつた。伯母にとつては勿論それは一枚の印刷物に過ぎなかつたが、私にとつては天地振動そのものであつた。[44]
その夜私は偶然なことから知合ひになつた私の文藝のたつた一人の友達であつた小林淸親の娘さんに長い長い手紙を書いた。その頃私はこの人から西歐の文藝書を大方貸してもらつて讀んだものだ。どんなことをその長い手紙で書き送つたかまるで記憶に残つてはゐないが、ありたけの熱情をかたむけつくして自分達のために自由な世界が出現したことに祝福と歓喜をさゝげたといふことには間違ひない。[45]
私は小林清親さんの娘さんの哥津子さんとお友だちでした。哥津子さんは――私たち、小林さんのことを哥津ちゃん、哥津ちゃんといっていましたが、その哥津ちゃんは、その時はもう青鞜社の同人でした。私は哥津ちゃんから青鞜加入を盛んにすすめられました。哥津ちゃんは仏英和(女学校)を出たばかりで、外国の作家のものを、言語で讀んでいたので、私はびっくりしたものですが、青鞜の運動についてはなかなか情熱をもっていました。[46]
はじめて靑鞜という雜誌を見たのは小林歌(ママ)津さんに長い手紙をかいたすぐ後、伯(ママ)父の下阪について大阪に戻つてゐた間だつたと思ふ。「元始女性は太陽であつた」といふ平塚さんのあの文章を、若い私は聖典のやうに毎日讀んで考へた。…… なんといふ眩しい傲然とした宣言だ。……平塚さんの言葉を幾度も聲に出して讀みかへした。…… ロオトレイクの繪を「白樺」で見たのも、ロダンの作品の寫眞版を見たのもそれと同じ頃だつたか。 私はその部屋から平塚さんに何度となく手紙を書き送つた。……自分のことがよく理解されるのは平塚さんよりないとまで思ひつめた。[47]
『青鞜』の発行されたのは、東京にいた時分から知っていました。…… 然し……私は入社せずに大阪の町に帰りました。私は只口惜しく思います。そしてその反動の様に心斎橋の難波の本屋迄毎日のように行って『青鞜』をさがしました。けれど……一冊も『青鞜』はありません。私は泣きたくなりました。 けれど来月号からは、私は本屋のおかみさんにかたく談じて、一番に私の家にまでとどける事を約束しました。……私は来月からいよいよ『青鞜』の読まれる、一人の女の子の仲間になりました。私はこれで入社ができたのですか?[48]
……一種独特な書風の、天衣無縫とも、子どもらしいともいいようのない手紙を受けとったわたくしは、この手紙に惹かれるものを覚えながらも、出さずにいました。 それからたびたび手紙がくるようになり、社内では「大阪のへんな人」ということで、すっかり知られた存在となったのでしたが、たまたま、年末の社員会に出席した小林哥津さんから、わたくしはこの未知の、大阪の「へんな人」についていろいろ聞くことができたのでした。 小林さんは、小娘のような口振りだが男のようなたいへんな大女(おおおんな)、声が大きくあたりかまわずなんでもいう女(ひと)、白秋の詩が大好きな、十九歳の娘――「そりゃあずい分変わった女(ひと)よ、恐い女だわ」といいます。 いずれにしてもよほどの変わり者らしく……それからも矢つぎばやによこしますが、自分の名前が手紙のたびごとにいろいろ変わり、これがいつの間にか『紅吉(こうきち)』『紅吉』と自分を呼び出しました。わたしはこの変わり者に入社承諾の返事を出し「あなたは絵を勉強していられるそうですが、一つ『青鞜』の素晴らしい表紙を描いてみる気はありませんか。いいものが出来れば、今のをいつでも取替えます」と書き添えました。[49]
「あれはやはり私の小さい時から持っているその気分から出た名なのです」 紅吉という自分のペンネームを一枝はこう説明している。ちょっと見ただけでは、女の名とは思えない。それでも〈べによし〉と読むと、やはりそこには女の感情が伝わってくる。自分では「あれで随分欲張った名」だと言っているところから推すと、彼女なりにある意味がこめられているのだろう。[50]
尾竹一重(ママ) 大阪南區笠屋町五一。[51]
……四[、]五日前書棚の古い白樺を見て居て「私信往復」と云ふ例の手紙があった。初めて[一枝が僕の住む]大和[安堵村]の画室へ訪ねて来たのはアノ手紙を見たセイらしい。[52]
御端書ありがたく拝見。別に何にと申して、御覧に入れる様なものも有りませむが、御かまいなひ無くば何日にても、御来駕を待ちます。なるべく早く。法隆寺駅で、車夫に安堵の富本と云へば、解ります。朝なら大抵、拾一時頃迄、寝て居ます。不一。[53]
ちょうど、その頃、英国の留学から帰った人で木版を彫る人が近くに住んでいるということを聞きましたので、清宮さんという方を介して訪ねてみたんです。それが富本だったわけです。当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました。[54]
ある日のことである、富本が水墨画を描いていると、ひとりの客が面会を求めて玄関で待っていることをそっと伝えるために、下男がやってきた。そして下男は、男物の大判の名刺をこの家の主人[である富本]に差し出した。富本はちょっと目を向けただけで、「それでは、その男の方を別の部屋に案内しなさい。お茶を差し上げて、この絵が終われば行きます、と伝えなさい」という指示をした。 しばらくすると、弁解をしようと下男がまたやってきて、作法に倣って咳払いをすると、「旦那様、もう一度その名刺をご覧になっていただけますでしょうか」と小声でささやいた。トミー[富本]はそうしてみた。すると、そこに書いてある住所が、いままさに東京で売り出し中の「女性」雑誌の住所であることに気づいたのであった。[55]
帰りには、わざわざ私を大阪まで送って来てくれたんですが、そのとき、印度のガンジス川にいた洗濯女からもらったものだという、美しい石の指輪を、富本は私にくれました。ずいぶん、セッカチな話なんですが、一目惚れとでも言うんでしょうか……。[56]
御手紙ありがたく拝見いたしました。 何むと云ふ理由か知りませむが、近頃私の神経が追々と、ガサガサに成って行く様に思はれます。特に此の四、五日はヒドイ頂点でした。 御出でになった時、何にを申し上げたか、何う云ふ物を御覧に入れたか、一切、只今から考へてわかりませむ。或は無礼な事がありはせむかと心配致しました。 御手紙の通りにマダマダ申し上げても申し上げても、云ひ切れぬ事が沢山あります。[57]
武者小路實篤氏からロダンのブロンズを展覧するといふ通知をもらつた。私はそのハガキを見てからすぐに荷物をつくつて父の前に出た。さうして父の怒つた顔をそのまゝにして夜汽車で東京に立つた。[58]
(第一章完/二〇二三年二月)