新橋につくなりそのまゝ赤坂の三會堂に行つた。作品はすくなかつたが、私は天の星を眼近で見る思ひがした。……ロダンの作品はそれまでの私の退廃的な陶酔に不思議にも苦悩めいたものを感じさせた。私は身動きがならなかつた。[59]
その翌日、私は思ひきつて平塚さんを訪ねた。歌(ママ)津さんに連れられて本郷曙町にあつた平塚さんの家にいつた。……床の間に小さな香爐が置かれ、眞直ぐにさゝれた一本の線香からたちのぼる煙のかたちがくづれることなく天井にむかつて、部屋はよき香に満ちてゐた。ぴつたりしまつた襖を前に、私と歌津さんは人が違つた程静粛に列んで坐つた。 憧憬のまとであつたその人がやがて襖をあけて這入つてくるのだ、私は出來るかぎり心を落着かせようとあせつたが、力がまるでお腹にはいつてこない。私は線香の煙を追うて、そこに心を集中しかけたその時だつた。襖が静かにひかれた。平塚さんだ――私は瞬間頭を眞直ぐにあげてその人と眼を合せたが――それなり意氣地なく眼を伏せなければならなかつた。 あの時の、あの靜かな美しかつた人、その人の中から溢れこぼれた美、それは崇高といふ言葉で現はしても足りない。叡智といふものの輝かしさであつたらうか。…… 私は自分の身體が震へてゐたのがわかつて怖いほどだつた。さうしてその人の叡智に輝いた美しい双眸が、垂れた自分の頭上にそそがれてゐるのだ。さう思ふとますます身體がかたくなつて、足の指にまで力がかたまつて喰ひついてゆくのが解つて弱つた。こんなことでは、これはどうやら自分にとつて運命的なつながりが出來るのではなからうか。何人よりも私はこの人を愛するやうになるのではなからうか。私は迷信的なさうして祈祷にも似たふしぎな氣持につかまへられて、そんなことが頻りに思はれてならなかつた。……ロダンのブロンズの話が出た。私は顔をあげずにきのふ感じたことをしかし愼み深く饒舌つた。……私から平塚さんにききたいことが澤山あつたが、それにもかゝはらず胸がせつなくなつて舌がつれるようになつて、なにも自分からは言へなかつたやうだ。およそ藝術の世界のことが、ぽつぽつとではあつたが、平塚さんから話し出された。哲學、宗敎、そんな方面の話はまるで出なかつた。私も小林[哥津子]さんも、あまりにも子供だつたから―― あなたは、いい繪をかくことに精進なさいと平塚さんに言はれた。繪など、そんなにかきたくないのですとどうしても言へなかつた。 それどころか、きつと私はいい繪をかきますと言ひきつたものだ。あまりに平塚さんと自分の敎養の高さ深さがかけ離れてゐて、羞恥のため消え入るばかりの思ひでゐたから、文學の勉強がもしも出來たら本黨は好きでやりたいのですと言へなくなつたのも本黨だが、この人のためになら――そんな氣持もよほどてつだつてゐた。[60]
はじめてみる紅吉という人は、細かい、男ものの久留米絣の対の着物と羽織にセルの袴をはき、すらりと伸び切った大きな丸みのある身体とふくよかな丸顔をもつ可愛らしい少年のような人でした。[61]
翌日の夜、またKはひとりしてやつて來た。前の日の歸りがけに今夜にも大阪へ歸るやうなことを云つてゐたから、折角來たのに今少し遊んで行つてはとか、今一度ゆつくり話しにいらつしやいとかいふやうなことを云つたには云つたが、それは大した意味のないほんの御世辞に過ぎなかつたのだから少々意外だつた。何て眞正直な人だらうと思はずにはゐられなかつた。(中略) 其夜は前の日よりも多く話した。(中略) それからS社の事務所に電話を設けるやうにしやう。伯(ママ)父に話して寄附させやうとか、時計の面白いのが二つあるから大阪へ歸つたらすぐ一つあなたに御送りするとかいふやうなことも云つた。 まだ今日で二度しか逢はないこの女から何でそんな物を貰ふ理由があるのか、物をやつたり、とつたりするやうな面倒なことの嫌いな私には何のことだかさつぱり分らなかつた。けれど折角やるといふものをぐずぐずいふにも及ぶまいと思つて、だまつてゐた。[62]
平塚さんから手紙が來て靑鞜でノラの批評をやるから、私にもその時大阪に來て上演中だつた松井[須磨子]さん達の『人形の家』を見てその批評を書くやうにといふことだつた。……とにかく私は道頓堀の劇場と川を隔てゝ建つてゐた河岸沿いの旅館で劇を觀るよりさきに松井さんと島村[抱月]先生に會つてゐた。[63]
あれは、私が勝手に作り上げた、傳説から取つたのです。 世界の人間が最も、ほしがつてゐる者(ママ)[物]は、不思議な國に藏されてゐる、眞黒な壺だつた。 その壺は、たつた一よりない。 その壺を得たものはどんな強さでも弱さでも自由に使い分ける事が容易に出來る。 けれど、その壺がそれ以外に、どんな不思議な力を有つてゐるか誰一人、知つてゐるものがない。 只その眞黒な壺の上には、曰く、BLUE-STOCKINGと記名されてゐるばかりで。[64]
構圖がやゝ散漫であるが、題材がいゝし、余の好な畫である。[65]
尾竹竹坡、國觀兩氏の長兄たる越堂氏は、従來大阪に根據を作り雄を稱したりしが、兩弟が東京に於て今日の名聲を博し、しかも文展に於ては兩弟に貮等優勝を得られたるに比し、頗る振はざるものあるを奮慨し……極力勉強以て月桂冠を得、長兄たるに恥ぢざらん事を期し……是まで竹坡氏の邸宅たりし下根岸八十一番地にト居したり。[66]
東京は何うです。大和の今はステキです。只シャバンヌの様な柔い空に桃の花が―、砂の丘に咲く菜の花、麦のグリーン、わら束、ソロソロと咲き出した春の野の花―、実にキレイです。遠い処に円い青い山が、屏風の様に見えます。…… 東京は何うです。何日頃、大阪に帰りますか。五月の初め頃は富士川と云ふ法隆寺の東を流れる小川に、白い野バラがステキです。ご案内致します。 春になって大和の野も山も馬鹿にキレイですが、寂しい事は、前に同じです。[67]
富本氏よりお祝ひに下すた黒い壺(木版)は、古代模樣の絹しぼりの中に留めつける。……富本憲吉氏と、らつ(ママ)てう氏に手紙をかく。[68]
富本憲吉氏の木版やエツチング、山下新太郎、柳敬介、湯淺一郎、津田靑楓氏など、新歸朝者の個人室がある。バーナード、リーチ氏の日本畫、伏見人形の掛圖は排つたもの皆輪郭が鉛筆でとつてある。南薫造氏の辭に、富本君の工藝美術の趣味は、今日の日本に於ける卑俗なるそれとは餘程離れて居る樣に思はれます。遠く東京の地を距つて奈良の邊の自分の静かな家にあつて……嚴格な心持ちで模樣を置き刺繍をこゝろみて居るのが窺はれる、ウ井リアム、モリスを最も尊敬して居る君の製作を見ては、又モリスのなつかしい藝術の深い味を多く思ひ出させます。とある。ハンギング、テーブルセンターに更紗模様をおき、ぬいとりをして居る。奈良とさへ云へば幽しい所なのに、藝術のかをりの高い土地なのに。何となくなつかしい氣分になる。[69]
円窓のあるわたくしの部屋へ、[はじめて会った]このとき以来紅吉はよく訪れてくるようになり、社の事務所へも顔を出して、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事など、なんでも手伝ってくれるようになりました。久留米絣に袴、または、角帯に雪駄ばきという粋な男装で、風を切りながら歩き、いいたいことをいい、大きな声で歌ったり笑ったり、じつに自由な無軌道ぶりを発揮する紅吉。それが生まれながらに解放された人間といった感じで、眺めていて快いほどのものでした。他の社員たちからも……可愛がられるので、人にもてることの好きな紅吉は、幸福のやり場のないようなうれしそうな顔をして、得意然としてあちらこちらに出没していました。[70]
桃色のお酒の陰に、やるせない春の追憶を浮べて春の軟い酔を淡い悲しみで、それからそれに、覚めて行く樣に、私達は新しい酒藏から第二の壺を搬び出した。そして私達の仕事に異(ママ)大な祝福の祈を捧げ乍ら靑いお酒を汲み合ひたいと思ふ。来る[五月]十三日午後一時から紅吉の家で同人のミーチングを催します。紅吉は、黄色い日本のお酒とそして麥酒と洋酒の一[、]二種とすばしこやのサイダを抜いて待つて居る。……紅吉は、その日、その夜の來るのを、子供の樣に數へて待つて居る。さよなら。[71]
私は、どうしたらいゝのだろう。抱擁接吻それら歡樂の小唄は、どんなになる事だろう!?。……私の心は、全く亂れてしまつた、不意に飛出した年上の女の為めに、私は、こんなに苦しい想を知り出した。少年の樣に全く私は囚はれてしまつた。……けれども……あゝ私は毒の有る花を慕つて、赤い花の咲く國を慕つて、暗い途を、どこ迄歩ませられよう。……DOREIになつても、いけにへとなつても、只 抱擁と接吻のみ消ゆることなく與えられたなら、満足して、満足して私は行かう。[72]
私はあなたを抱くことを、接吻することを欲してゐる、けれど孤獨のたのしさ、深林の静けさを更に欲してゐる。さらば、さらば。[73]
涙が膝の上に落ちてゐます。…… 私は遂々黒い棒を引かれてしまつた。あなたから、あなたから。 けれど私の命は短かつた。私は、五月十三日の夜、夢のように實現した「私」をどんなに不安に思つたろう。その不安から生れたおどおどした悦びどんなでしたか。恐らくあなたはそれを知つては下さりますまい。…… ピストルで打たれた紅吉は今死にます。 けれどあなたを恨みはしません。…… 研究會にはもう出ません、私は又二度とあなたに逢ひますまい。逢へば泣きます、涙がにぢむ。眼がはつきり見えない程あたりがうるんでゐます。…… さよなら、さよなら。あなたの好きな生活をいつ迄も送つて下さい。 阿部先生にも、生田先生にも、最う御目にかゝれますまい。……[74]
らいてう氏の左手でしてゐる戀の對象に就いては大分色々な面白い疑問を蒔いたらしい。或る秘密探偵の話によると、素晴らしい美少年ださうだ。其美少年は鴻の巣で五色のお酒を飲んで今夜も又氏の圓窓を訪れたとか。[75]
先頃紅吉が巽畫會に出品した「陶器」と題する畫が百圓に賣れた時彼女は勿體ないから皆で御馳走を喰べやうとて四方の同人に葉書を飛ばせ赤い酒靑い酒を重いものから上へ上へと五色に注ぎ分けて飲み合つた……さうして其洋盃に透明る色を飽かず眺めた面々は……焼け付く樣な酒に舌を鳴らしつ其香に酔ふて思ふさま享楽したのである。[76]
彼[富本憲吉]はいった。「それ以外のことではそのようなことはないが、酒を飲むことだけは、どうしても彼女[一枝]にかなわない!」。[77]
理論体系をもたぬ竹坡にしてみれば、女を愛する――ということは、即物的な行為であって、女を理解することは、同情することでも、百の饒舌を吐くことでもなく、目の前にある肉体としての女の実在を、行為として、しかも責任とともに抱擁することであったのだろう。[78]
おまえたち偉そうに婦人の解放とか何とかいつているが、吉原というところには非常に氣の毒な――解放しなければならない女がたくさんいる、そこを知りもしないで偉そうなことをいつているのはおかしい。平塚さんにぜひとも――今で申す見學をなさいませんか、ということで、平塚さんも見たことがないし、ぜひ行きたいということになつて、五、六(ママ)人で参りました。このおじは……遊ぶことでも相黨だつたようです。そのおじの行きつけのお茶屋におじが話しておいてくれましたから、吉原でも一番格式の高いうちに案内されて、たいへん丁重に扱われました。[79]
七月の『青鞜』には雷鳥が左手で戀してるとか美少年を何うしたとか云ふ妙な事がある[。]其美少年と云ふのは夕暮に廔々白山邊を引張つて歩いて居るほんに可愛らしい學生帽を冠つた十二三の子供だ[。]それは兎も角此間の夜雷鳥の明子(はるこ)と尾竹紅吉(こうきち)(數枝子)中野初子の三人が中根岸の尾竹竹坡氏の家に集まつた時奇抜も奇抜一つ吉原へ繰り込まうぢやないかと女だてらに三臺の車を連ねて勇しい車夫の掛聲と共に仲の町の引手茶屋松本に横著けにし箱提灯で送らせて大文字樓へと押上り大に色里の氣分を味つた。[80]
ある日、紅吉が、叔父の尾竹竹坡氏からの話として、吉原見学の誘いを突然もちこみました。尾竹竹坡氏は、当時の日本画壇に異彩を放っていた尾竹三兄弟のひとり、なかでも天才的ということで名を馳せている人でしたが、紅燈の巷に明るい通人というか粋人というのか、そういう点でも知られていました。……竹坡氏は、姪の紅吉を通して、青鞜社やわたくしへの親近感というか、好意をもっていられたようで、その一つのあらわれが吉原見学の誘いともなったのでしょう。……そこは竹坡氏のお馴染みの妓楼で、吉原でも一番格式の高い「大文字楼」という家でした。「栄山」という花魁(おいらん)の部屋に通されましたが、きれいに片付いた部屋で、あねさま人形が飾られており、それが田村とし子の作ったあねさまだということを聞いて、紅吉はひどく興味をもち、田村さんを誘えなかったことを残念がりました。……おすしや酒が出て、栄山をかこみながら話をしたわけですが、栄山の話によると、彼女はお茶の水女学校を出ているということでした。……その夜、わたくしたち三人は花魁とは別の一室で泊まり、翌朝帰りました。[81]
平塚明子、中野初子、尾竹數(ママ)[一]枝などゝ云うふ青鞜社の女豪連が、二[、]三日前竹坡畫伯を案内にして吉原の大文字樓に豪遊を試みたと聞いた、何しろ珍らしい事である、所謂『新らしい女』の吉原觀も面白からうと、尾竹兄弟を叔父さんに持つてる數枝女史(廿二)を下根岸八一の越堂氏方に訪うて見る。[82]
……参るには参りました、私は少い時叔父(竹坡)に伴れられて吉原に泊つた事がありましたが、あの上草履のよかつたのを思ひ出して是非伴れてつて下さいと頼んだのです……私の花魁は榮山さんと云ふ可愛い人でしたよ、「女學生の昔が思出されて懐かしい」と云つて大切にして呉れ、今日手紙迄貰ひました、私は眞實に身受がしたくなり茶屋へ歸つてから聞きますと千兩は掛かると云ふんです……若し男だつたらと男が羨ましくなりました、浅草の銘酒屋もよう御座いますネ、今度は呼れたら上つて見やうと思ひます。[83]
「新しい女、五色の酒を飲む」「新しい女、吉原に遊ぶ」といった思いがけぬ噂が、新聞に出て、しかもその張本人が紅吉だという、社内からの批判が起こったのです。 すでにわたくしたち「青鞜」に集う女の上には、「新しい女」という称号が与えられて、時のジャーナリズムはことあるごとに、わたくしたちの行動に目を光らせていたときでした。[84]
「放蕩無類」の青鞜社に対する世間の非難攻撃は、とりわけわたくしに対して強く、だれの仕業か、わたくしの家には石のつぶてが投げられたりしたものでした。……なにか得体のしれない男が面会を強要して動かなかったり、「どこそこで待っているから出てこい、黒シャツ組より」などという脅迫状も舞いこんで来ます。[85]
……「新しい女」で世間が非難しはじめたときなど、母は、世の中に申しわけないという氣持が先に立つて心をいためていたようでございます。ことに、親戚などに對してはそれこそ首を縮めておりました。私が出入りするたび近所の人は、そら、「新しい女」が歩いて来た、という騒ぎでしたからずいぶん母は困つたようです。[86]
非難を受ける種をまいたのは私だというので、社内でもいいかげん非難があつたようです。五色の酒と吉原見學が非難のキッカケをつくつたのですが、話せば何でもないことなのです。「メーゾン鴻の巣」へ廣告をもらいに行つたとき、注ぎわけて見せてもらつた五色の酒の美しさを編輯後記に書いただけで、のんでいないのです。それではやじることも出來ないし、非難の材料にはなりませんから新聞はおかまいなしにガアガア書きたてたのです。一行の訂正もしてもらえず、日毎に大変な騒ぎになつて、浮薄なこつけいな姿で日本全國に宣傳されたというわけです。そうなればなるほど、社内の批判は当然私をめがけて激しくふりかかつてきました。[87]
私共三人が、見ることの一寸出來ないものを覗いて見たさのふと(・・)した好奇心から吉原に一夜を明したといふことがクリスチヤンの白雨を少なからず憤慨させた。 「君達は吉原に行つたさうだ。随分思ひ切つた眞似をしましたね。私は君達が行つた深い理由は知らないが、何だか自分が侮辱されたやうで悲しかつた。さうしてたまらなく不快だつた。云々」 又「青鞜」を眞に敬愛を以て迎へられるやうな雜誌にしたいと常に言つてゐる同氏は同じ手紙でこんなことも書いてよこした。 「此頃の青鞜には著しく不眞面目な、衒氣的な色が見えて來た。創刊黨時に於ける如き眞面目さがない。……従て敬意は拂はれぬ。……品位も威嚴もない兒に育てたことを悲しんでおく。」 これが又ひどく紅吉の心を害した。[88]
「見せて、見せて、ね、見たい、見たい。」 私の心は震へた。紅吉は戀の為めに、只一人を守らうとする戀の為めに……我が柔かな肉を裂き、細い血管を破つたのだ。…… 長い繃帯が一巻一巻と解けて行く。…… 私は膓(はらわた)の動くのを努めて抑へた。そしてぢつと傷口を見詰めながら、眞直に燃える蝋燭の焔と、その薄暗い光を冷たく反對する鋭利な刃身と熱い血の色とを目に浮かべた。[89]
午後ふたりは萬年山の事務所へ行く。……紅吉は疲労に耐へないと言ふ風に縁側に長大な身體を横へた。 が、暫くしてから、ふと立つて黒板にこんなことを書く。 離別の詩 あたいの人形に火がついた 赤いおべべに火がついた いとしや人形は火になつた いとしや人形が火になつた 人形を買つて五十八日目の夕 紅吉 らいてう様[90]
五十八日目の夕? 「さうだ、さうだ。」 五十八日目の夕! ふたりの記念すべき五月十三日の夜から數へて。 私の心はまたもあのミイチイングの夜の思ひ出に満たされた。 紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ、知らぬ。けれどもあゝ迄忽に紅吉の心のすべてか燃え上らうとは、火にならうとは。[91]
『國民』に「所謂新しい女」が掲載されだし事はこの日からのことだつた。 紅吉は其記事に就いて眞面目に心配してゐるらしい。…… 私はあらゆるものを眞面目に考へることの出來る紅吉を、新聞の記事の虚偽を以て満されてゐるのを今更のやうに驚く紅吉を心に羨んだ。そして三[、]四年前の[塩原事件(煤煙事件)のときの]自分を目の前に見るやうな氣がした。 この紅吉が、この率直な、子供のやうに單純な、疑ひ深くない紅吉が今後世間の色々な事に遭遇して、次第に信ずるといふことを失つて行くのかと、私は妙に悲しくなつた、淋しくなつた。 ……内部を知る在京の社員はいゝとして眞面目な愛すべき地方社員のたとへ一人にでも無益な不安を抱かせるのは罪だと思つた。實際目下青鞜社は分裂の必要見る丈の程度にさへまだ發展してゐないのだから。 だといつて私は紅吉を咎めやうとはゆめさら思わない。……どうしてこれ位の些少の過失?を以て紅吉を咎める氣になれやう。たとえそれがいかなることであらうとも彼(ママ)の長所、美點を枯すやうなことは斷じてしたくない。……[92]
「退社してお詫びします。」 「馬鹿」 私の少年よ。 らいてうの少年をもつて自ら任ずるならば自分の思つたこと、考へたことを眞直に發表するのに何の顧慮を要しやう。みづからの心の欲するところはどこまでもやり通さねばならぬ。それがあなたを成長させる為めでもあり、同時にあなたがつながる靑鞜社をも發展させる道なのだ。[93]
紅吉は一月ばかり前からどうかすると柄になく力弱い、消え入りさうな咳をした。よく頭痛で倒れもした。動悸の激しいことも、寝汗をかくことも私は知つてゐないぢやない。 (中略) 「ねえ、もうこうしてゐるのも今日だけのような氣がしていけない。」 首を上げて黒板の離別の詩を一寸見た、がすぐに又私の方に寄り添つて眼を落した。 「何故今日だけ。」と私は故と詰問した。 「明日診察を受けるでせう……すると、どつちかに極るでせう、ね、どつちかに。」……「けれどもし何だつたらもう逢はない。逢へない。」 私は紅吉の大きな手を無言で握つた。 「私も明日病院へ行く。院長に一度逢ひたいことがあるから。丁度いゝ、診斷の結果はともかく總て私が訊いて上げる」。[94]
「淋しい?どうした。」と言ひざま私は兩手を紅吉の首にかけて、胸と胸とを犇と押し付けて仕舞つた。 「いけない。いけない。」口の中で呟いて顔を背けたが、さりとて逃げやうとはしない。 (中略) 「ね、いゝでせう。あなたが病氣になれば私(わたし)もなる。そしてふたりで茅ケ崎へ行く。ね、私の好きな茅ケ崎へ。……」紅吉は久しく頭を上げなかつた。 あたりが暗くなる頃、萬年山を出た。[95]
昨年の十一月三十日を始めとして今日まで、手紙廿九通、ハガキ卅八。 あの忘れられない十三日の夜、あの夜の後、始めて来た手紙と速達の朱印あるもの二つ三つとを撰んで再び讀んだ。 手紙を見詰めて座つたまゝ其夜はとうと[う]明けた。同性の戀といふやうなことを頻りに考へて見た。[96]
紅吉は茅ケ崎の南湖院でしばらく療養生活を送ることになり、やがてわたくしも「青鞜」八月号の編集をすませて、紅吉を見舞いかたがた、茅ケ崎へでかけました。……八月の半ばを過ぎたある日、わたくしたちは南湖院の応接間で、二人の未知の男客を迎えました。その一人は、[今後の『青鞜』の発行と発売を委託する件で相談にやってきた]当時文芸図書の出版社として有名な東雲堂の若主人で、詩人でもあった西村陽吉さんです。……[もうひとりは、たまたま藤沢駅で知り合い、西村さんに連れられてやってきた]骨太で、図抜けた長身に、真黒な長髪をまん中からわけた面長の青白い顔が、異様なまでに印象的な青年で、奥村博と名乗りました。……なんの装飾もないがらんとした休日の病院の応接間で、[青鞜社の社員で、いまだ南湖院との縁が切れず、東京と茅ケ崎のあいだを行き来していた]保持[研子]、紅吉、わたくしの三人が居並ぶテーブルをへだてて、最初に私を見、眼と眼があった瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見た――と、奥村はのちに述懐しました。わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間生まれたのでした。[97]
不吉な予感が私を襲って、私は悲しい、恐ろしい、気遣わしいことに今ぶつかっているのです。それがはっきり安心のつくまであまり面白くもない生活を送らねばなりますまい。そして幾日かののちに私は生まれて来るのです。だがそれまでは私は淋しい、私は苦しい。 広岡[らいてう]がぜひあなたに来るようにと、そして泊まりがけでです。待っています、いらっしゃいまし。 八月十九日 しげり[紅吉][98]
一度会ったばかりの奥村にこんな手紙を出したとはわたくしも保持さんもまったく知らないことでした。(知ったのは三十数年も後に奥村が『めぐりあい』という自伝小説を書いたときです。)手紙の最後には、あたかもわたくしからの伝言であるかのような一節があり、紅吉の病的な神経の動きの鋭さ、速さ、とくに嫉妬の場合の複雑さにわたくしは驚くよりほかありませんでした。[99]
二、三日して写生の帰りだといって、スケッチ箱をもった奥村が、突然わたくしの宿を訪ねてきました。いま、[馬入川が海に流れ込む河口一帯の]「南郷」で描いたというスケッチ板の松林の絵を見せてもらいながら、わたくしはふと、『青鞜』一周年記念号の表紙をあらたに、この人にかいてもらいたい気になり、さっそく頼んだのでした。それから、二、三日した日の夕方近く、その表紙図案をもって見えました。わたくしは奥村を連れて、南湖院に行き紅吉と保持さんを誘って海岸に立ち並ぶ海気室に行き、蒼い海と美しい夕映え雲を眺めながら四人でしばらく話しました。紅吉が柳島に小舟を出そう……といいだしたのがもとで、保持さんは親しい友だちの小野さんという入院患者の……元気な青年を誘って、五人いっしょに舟に乗り込みました。……月夜の馬入川の舟遊びはみんなに時を忘れさせるほどでした。そして奥村は藤沢へ帰る汽車にのりおくれてしまいました。歩いて帰るという奥村を保持さんはしきりと引きとめ、自分がいつも寝起きしている病院の松林の奥にぽつんと建った一軒家……に奥村を泊めることにし、保持さん自身は病院のだれかの部屋へ、紅吉は自分の部屋へ、そしてわたくしは自分の宿である猟師の家へ、それぞれ別れて引き上げて行きました。こうしてみんなが寝床についたころ……またたく間に烈しい雷鳴となって……とても眠れそうにありません。……すさまじい稲妻と雷鳴に怯えているであろう気の弱そうな若者を想うと……いよいよ寝るどころではありません。とうとう起き出したわたくしは、宿のおかみさんに提灯をもって付き添ってもらい……奥村を迎えにいきました。……その夜、大きな緑色の蚊帳のなかに寝床を並べて朝を迎えたときから、奥村に対するわたくしの関心は、しだいに関心以上のものへと、急速に高まってゆくのでした。蒸し暑い夏の夜のしばしのまどろみのあと、東の空の明るみはじめた海岸に出て、指をからませながら二人で寄りそって……浜辺を歩くとき……満ちあふれた生命の幸福感でいっぱいになっていました。こうして、奥村がわたくしの宿で一夜を過ごしたことは、夜明けを待ちかねてわたくしの宿の様子を窺いにきた紅吉のいちはやく知るところとなり、わたくしの愛の独占をのぞんでいた紅吉に、大きな衝撃を与えないではいませんでした。[100]
又私自身もよくあれだけの場所を押通したと感心してゐました。けれども私はそれだけにまだ充分未練をもつてゐた。……[立派に育てようと誓った子供を養育院へ送ろうと計ったとき]あなたは、其の時すでに私を捨てゝ、そして私を偽つてしまつたのです。そんな罪の深い無慈悲な言葉があなたの口から出たと云ふことを到底信じることが出來ません。自分獨りの満足の為めに、自分獨りのさもしい欲望の為めに、あなたは、誓つて育てゝ來た子供迄捨てると云ふ、そんな事がよく云へたものですね、……私があなたを歸へした後で少なからずあなたを可哀そうに思つたことだけ知つてゐて下さい、あなたが私を偽つてゐることもこの手紙で少しは反省して見て下さい。そしてそれでも私に對してあなたの下さる愛が眞實の愛であるかを最う一度考へて下さい。[101]
あなたにはもちろん何の罪もないのです。罪はないがきっとこの復讐はするつもりです。私はあなたによって生きることの出来ない傷を受けたのです。私の前途は暗くなった。広岡[らいてう]を私は恋しています。あなたはあんまりよくも知らない女の家に泊まった。それで平気でいた。私は近いうちにあからさまにこの間のことをある場所で書き出すつもりです。きっと書きます……。[102]
事実とすればしげり[紅吉]の立場は気の毒だと思った。だが、彼には女どうしの恋愛というものがどんなものか想像もつかなかった。しかし……しげりは《あなたはよくも知らない女の家に泊まって平気でいた》などと人を責めるが……その因(もと)を作った者は結局しげり自身ではないか、と彼はそう考えるとき、それが自分ひとりの責任とばかりは思われなかった。[103]
靑鞜社で最年少者は野枝さんと歌(ママ)津ちやんと私だつた。この三人はそんな意味でわりかた一緒になつてよく遊びもし、話合ひもした。歌津ちやんは江戸ツ子だつた。黒襦子の襟をかけた黄八丈の着物に博多の意氣な柄の帯をしめることが得意でもあつたし、ぴつたり似合つてもゐた。……泉鏡花のものが一番好きで、永井荷風の作品も好きだつた。……いなせなところが有つて、どうかすると横ずわりになつて、たんかでも切りさうで、横櫛お富といふ仇名をつけて、私などその名で歌津ちやんを呼んだことが多かつた。[104]
東京にきて上野の圖書館に通うようになつて見て女の人が多いので安心しました。伊藤野枝さんとは、偶然圖書館で一緒になりました。その時代は圖書館は女の人にとつて勉強するのに大へんよい場所で、讀みたいものがたくさん揃つていました。[105]
私は、小さい時から人に負けるのが嫌いでしてね、道を歩いていても人に先を越されるのが、とてもいやでした。……ちょうど、上野の図書館に通っていた頃です。私が歩いていると、反対側の道路をいつもきまって、足ばやに私を追ってくる女性が一人いるんですね。私も負けるのが癪ですから、一生懸命歩きました。あとで知ったのですが、その人が、私より少しあとで青鞜社に入った伊藤野枝さんでした。野枝さんも、なかなか気の強い負けず嫌いな人で、非常にライバル意識の強い女性(ひと)でした。[106]
私は本当に、死んでしまはうと思ひました。えい、本当に死ぬ積りでした。……私の大切な大切な愛にヒゞが入つたんですもの、もう何うしたつて直りつこはないんです。[107]
初對面の上野[葉子]氏と紅吉を連れてらいてうが萬年山を出たのは追分町の通りに綺麗に明りが入つてゐた時です。……田村[俊子]さんのお土産を梨に決めて友禅のきれいな風呂敷に買つて、林町の通りを眞直に中谷の墓地に行きました。……田村さんの家は墓地の横なんです。…… いつか浪汗洞(ママ)[瑯玕洞]でみたことの有る樣な姿の「あねさま」が本箱と床の間に踊り出す樣に飾つてあるのです。紅吉はいきなり「紅吉にあねさまを一つ作つて下さいね」と初めて會つた田村さんにねだり出したのです。[108]
紅吉、/おまいはあかんぼ――――だよ。/この――――の長さは/おまいの丈の長さと、/おんなじ長さ、さ。 紅吉、/おまいの顔色はわるいね。/まるで、すがれた蓮の葉のやうだ。/Rのために腕を切つたとき、/それでもまつかな、/赤い血がでたの、紅吉。 紅吉、/おまいのからだは大きいね。/Rと二人逢つたとき、/どつちがどつちを抱き締めるの。/Rがおまいを抱き締めるにしては、/おまいのからだは、/あんまりかさばり過ぎてゐる。 紅吉/おまいの聲はとんきよだね。/けれど、金屬の摺れるやうな聲だ。/おまいの、のつけに出す聲は、/火事の半鐘を、/ふと、聞きつけた時のやうに人をおどろかせる。 紅吉、/でも、おまいは可愛い。/おまいの態のうちに、/うぶな、かわいいところがあるのだよ。/重ねた両手をあめのやうにねぢつて、/大きな顔をうつむけて、/はにかみ笑いをした時さ。[109]
[訪問後の長沼からの手紙には]「あなたの画は、青草を噛むような厭味なところがあるが、あなたは、俊子さんのいうとおり、大きな、邪気のない赤ん坊だ。」と書いてあつた。……長沼さんは見かけよりずつと強靭なものを内にしまつていた。童女のようにあどけなく、美しく澄んだあのつぶらな眼は、おのれひとりを愛した眼である。気質も肌合もまるでちがつてはいたが、田村さんにもおなじものが感じられた。[110]
九月号から発行経営に関する一切の実務を東雲堂に一任することになったわたくしたちは、今までの雑務に注いでいた力を編集の充実にあてる一方、久しく休んでいた研究会を、十月から万年山の事務所で再開することにしました。「青鞜」研究会は、この四月からはじめたもので、内容は「モーパッサンの短編」生田長江先生、「ダンテの神曲」阿部次郎先生で、毎週火曜日と金曜日の二回講義が行なわれておりました。[111]
尾竹竹坡さんがこの家[鶯谷の料亭「伊香保」]の常連であったことから、竹坡さんの御紹介でここを使ったのでした。そのため、竹坡さんからあらかじめ申しふくめられていたのでしょうか、会のあとでわたくしが支払いをしようとしても、どうしても受けとりません。竹坡さんがこうした好意をわたくしたちに示してくれたことには、紅吉との関係だけでなく、世間の非難のなかに立つ青鞜社を後援してやろうという、竹坡さんらしい気骨のあるお気持ちもあってのことでしょう。[112]
描きたい、描け、描こうと、これたけの動きが今月の文展製作にピリピリしてゐたのです。 今年の春からこつち私は描きたい氣分でそつちの神經はどれもこれも尖つてゐました。 文展なんか別段どうでもないのです。……未練と執着のあつたと云ふことは、あんなに緊張してゐた描きたい、描け、描こうと云ふ氣分が不意に病氣なんかの為めに破壊されてしまつたからなんです。各段文展に出せなかつたからと云ふ理屈のもぢやないのです。[113]
三[、]四日前でした、思いがけなく長沼[智恵子]さんに逢つたのです。その時長沼さんは近頃は只畫が描きたい、描きたい、今度はきつと描けるでしよつて、しきりに話してゐらした、私は其の時、それたけの氣分を倍の倍にして羨やましく思いました。 そんな樣に凡てが充實しきつて、そして出來上つた作品はどんなに尊いものでしよう。 私達にしたつて、そうして出來上つた作品の前に面とむかつたら、どんなに氣持が好いでしよう。私は一人でも多く充實した、自分を信じた、そして露骨な「作品」を作り出す人が增して行くことを待つてゐます。[114]
尾竹一枝は久留米(くるめ)絣(がすり)にセルの袴で、おそらく子どものときは私のようなトム・ボーイだったろうと思われた。それがそのまま大きくなった感じで、顔色は浅黒く、よく太って背丈も高かった。私は一目でこの人が好きになり、彼女もいちばんよくみんなとの紹介の労をとってくれた。 この日以来、私たちは生涯の盟友になり、強い友情で結ばれた。彼女は当時から紅吉というきれいな号をもっており、まだ十八(ママ)[一九]歳だが、才気に富み、親切な人だった。[115]
また、尾竹紅吉のことですが、平塚[らいてう]さんと同性愛だったというお話があります。それで奥村博さんの出現かなにかで、尾竹さんが平塚さんに反感をもつことがあるんです。そのときに、精神的な同性愛というようなものでしょうね、尾竹さんが私に密着していたことがあったのです。で、あそこに来いとか、あそこに移ってこいとか、だから私は彼女の家に、一ヶ月ぐらい泊まっていたことがあります。[116]
婦人の自由と解放をさけんで青鞜社にあつまった平塚らいてう、伊藤野枝、尾竹紅吉(いまの富本一枝)など、当時のいわゆる新しい女が[万年山勝林寺の]本堂をかりて週一、二回ずつ近代欧州文学や、近代思潮、近代美術の講座をひらいていた。講師は生田長江、高村光太郎、阿部次郎などであった。そういう講座のおわったあとでもあったろうか。彼女たちが本郷の帝大前の大通りを三丁目へ向かって、まるで新しい女のデモンストレーションみたいに一団となって歩いていくのをよく見かけた。中でも、尾竹紅吉が、あの大柄のからだで、カンカンと日の照る中を高下駄でがらがら歩く姿を、いまでもはっきりおぼえている。[117]
女子大学の生徒だの、文学愛好の若い女のひとたちの間に、マントを着てセルの袴をはく風俗がはやった。とともに煙草をのんだり酒をのんだりすることに女性の解放を示そうとした気風があった。二つ三つのちがいではあったが、そのころまだ少女期にいた伸子は、おどろきに目を大きくして、男のように吉という字のつくペンネームで有名であった「青鞜」の仲間の一人の、セルの袴にマントを羽織った背の高い姿を眺めた。その女のひとは、小石川のある電車の終点にたっていた。[118]
新しい女といふ言葉もその頃からやかましくなつた、平塚らいてう、尾竹紅吉等の靑鞜社一派の運動は相當に珍らしいものであつた。當時はカフエー、バーといふものも珍らしかつた、文士連中は鎧橋の近くに出來たメーゾン鴻の巣でパンの會など開いてうれしがつてゐた頃で、バー、カフエーの珍らしいものに、靑鞜社の人々が結びつけられて、五色の酒――卽ち新しい女といふやうに世の中の人に見られて來た。私は、その頃根岸の御行の松の近くに住んでゐたので、尾竹紅吉氏の近所であつたから、よく行きもし、お父さんの越堂氏ともよく會つたものである、この人々もカフエ、バーにも相當に行つたには違ひないし、また私も一緒に行きもしたが、今日から考へると何でもないことであるが、当時としては、婦人が堂々と思想を發表したことが如何に世間を驚かしたものか、また五色の酒や紅茶コーヒーが如何に珍らしがられたものかを推しはかることが出來る。[119]
天皇の死とともに明治時代は終り、改元して大正となった。……大正元年[一九一二年]の十月一日にやっと初号を出した。誌名は『近代思想』……三十二ページ定価金十銭という薄っぺらなものであったが、とにかく大逆事件以降、沈黙雌伏を強いられていた社会主義者が運動史上の暗黒時代に、微(かす)かながら初めて公然とあげた声である。[120]
ある時、私[荒畑寒村]と上野から根岸の方を散策した際、青鞜社同人の尾竹紅吉の家を見つけると、彼[大杉栄]はいつもの流儀で臆面(おくめん)もなくこの未知の女性を訪問した。そして画室に迎えられた彼は、空腹を訴えて飯のご馳走(ちそう)になった上、「あなたは知らぬ男にでも、空腹だといえば飯を出してくれるが、もし性欲に餓(う)えていると言ったらどうしますか」と質問した。彼女が返答に困っていると、食欲も性欲も生理的には同じじゃないかと追及して、生(き)まじめな紅吉女史をからかって面白がった。[121]
その頃大杉[栄]さんとおつきあいしていましたから大杉さんが尋(ママ)ねてみえるたびに、無政府主義やクロポトキンのことをうかがつたりしていました。大杉さんは私のぼんやりさをなんとかしてやりたいとされたようです。幸徳秋水の大逆事件のことも、大杉さんからきいて……。そのとき、私たちの自由も、進歩も、それをはばんでいるものをとりのぞかない限りどうすることも出來ないのだときかされたことは、なんといつても、それからあとの自分の考えの基底となつてきているような氣がします。[122]
そのころ、青鞜社の新しい女性ともよく交際をしていたが、思えばおもしろい時代だった。私の住んでいた谷中の天王寺町には田村松魚君が住み、その夫人が有名な田村俊子さんだ。また私の隣りには尾竹竹坡、国観という日本画家の兄弟とその長兄の尾竹越堂の三人を育てた高橋大華という先生が住んでいたので、私は高橋家や尾竹越堂さんのところへもよく遊びに行った。その越堂さんの娘が一枝さんすなわち紅吉で、そこへ神近市子、伊藤野枝などという女史連が往来していて、自然知り合いになった。 ある日、越堂さんから招かれて『きょうは、‶新しい女″に酌をしてもらおう』ということで、紅吉、市子、野枝の三女史が青鞜社の出版事務をしているのをつかまえて、越堂老が『青鞜社の事務は青鞜社でやれ、せっかく客を招いたからもてなせ』と大喝(だいかつ)したもので、大いにご馳走になったのだが、越堂さんは『芸者の酌などというものはつまらんもので、‶新しい女″のお酌で飲む酒は天下一品』だとひどくごきげんだった。おそらく、この人たちのお酌で飲んだ人はあまりいないだろう。[123]
ノラやマグダが問題になる、新しい女、覚めたる女、自覺した女、新時代の女、いろいろの言葉を以て一部の婦人を呼んでゐる、中でも靑鞜社のお嬢さん達が一番世間の注目を惹いてゐる、夫れはお嬢さん達のあられもない鴻の巣で五色の酒を呑む、吉原へ遊びにいつて華魁と御馴染みになる、浅草十二階下の白首と御友達になると言ふやうな噂がパツと立つたから愈問題となつて同社の機関雑誌「靑鞜」が俄に賣れ出す一方には古風な家庭で娘達に「靑鞜」の購讀を禁ずるといふやうな有樣となつた、靑鞜の女と言へば毎日酒を呑んでブラブラやつて生意氣な事許り言つてゐるやうに聞えるが社則とも言ふべきものを讀むと「本社は女流文學の發達を計り各自天賦の特性を發揮せしめ他日女流の天才を生まむ事を目的とす」といふ極めて生眞面目なものである、處で現代の婦人の間に日毎勢力を伸ばしつゝある「靑鞜」の女は如何に生活しつゝあるかそして其結社なるものは如何なる組織であるか是非とも調べてみる必要があると思ふ、先づ同社の後見人とも言ふべき文學士生田長江君の話を聞く。[124]
紅吉は號で本名を一枝といふ、紅吉との對話に移る前に室の模樣を書いて見たい[、]玄關を入ると右が書齋で庭には菊が咲亂れてゐる、机の上には田村とし子から貰つたお人形さんが飾つてある、机の横の書棚には和洋の文學書類が詰込まれてオルガンも置いてある、紅吉が生れて始めて描いた油繪も立掛けてある、其他三色版や人形や花瓶やよろしくある、紅吉の姿と言つば五尺五寸三分[約一六六センチメートル]の身の丈にかてゝ加へて横も張つてゐるので宛として柔道師範役のやうである、ト言ふのは帯は角帯、袴はセルで下腹にグツと力を入れて腹式呼吸のお稽古と言つたやうな姿勢は甚だ恐れ入るが御婦人とは見えない……紅吉と語ること約五時間[、]生田長江君から其性格を前に聞いてはゐたが書いたものを見たのと本人に會つたのとはまるで違ふ、紅吉は無邪氣な又女としては珍らしい性格と頭をもつてゐる女だとしみじみ思つた。[125]
記「吉原の榮山と大分親密だつて大變な評判ですが近頃もお通ひですか」 紅「徃復はしてゐますよ、私は決して偽は申しません……らいてう(煤煙女史)は人に會へば直ぐ偽を言ひます、私は先達或る新聞の方がお出でたので本當な事を話したら夫れが變な風に紹介されて迷惑をしてゐます……」 記「榮山といふ花魁は餘程面白い女ですか」 紅「えゝ女學校出なのです……榮山は筆跡もなかなか上手ですが昨日も手紙を呉れました……三晩ばかり泊まりました、平塚なんかも酔つちやつてね……」 記「鴻の巣はドウです」 紅「鴻の巣は靑鞜の廣告取にいつたのが大變な評判になつたのですよ、十二階下の銘酒屋でも吉原でも其時の氣分氣分で行くのですからね[、]ドウかツて問はれたツて其時の氣分次第といふより外にお答への仕樣がございません」 記「平塚らいてう女史と始めて會はれた時の感じはドウでした」 紅「小説の煤煙を通じて平塚を知つてゐました、平塚は今まで未だ煤煙を讀まないさうです、煤煙を讀むと自分の事が餘り誤られてゐるから癪に障ると言つて自叙傳も讀みません……私が平塚と會つたのは今年の春ですが大阪に私がゐる時に色々自分の胸の中で平塚の性格を描いてゐたのです……」[126]
紅吉は自分等の行動が靑鞜社に煩ひを為すのを大いに恐れてゐる、で、断然本月限り退社して了つた、これから一生懸命畫を勉強するさうである、平塚女史から大變怒られたのでモウこれから平塚の事は一切口にしないと言つてゐる、紅吉は其時の氣分氣分で話したのだが平塚から私を賣つたのだとか探偵のやうだとか言つてキメつけられた、全く何と言つてよいか判らなくなつて泣いたさうである。[127]
前の『国民[新聞]』の記事ほど荒唐無稽のものではありませんでしたが、[『東京日日新聞』において「新らしがる女」の連載がはじまると]そのことでわたくしやまわりの者が紅吉の軽率な態度を少しきつくたしなめたことが、退社の決意(?)を一挙に押しすすめたようにも思えます。(中略) わたくしにしても、紅吉が退社したところで、紅吉との個人的な関係にどう変化が起こるとも思われませんし、やめるという紅吉を、なにも無理に引きとめて社員にしておくこともありません。 それに、紅吉の存在が、本人自身は意識しないでも、青鞜社全体をひっかき廻していることはたしかでしたから、今後の「青鞜」のためには、ここで一応距離をおきたいという気持ちも十分ありました。そして、なおもう一つ、わたくしとしては、この機会に紅吉を本来の画業に進ませたいという願いが強くありました。[128]
私は今、あらためて私を紹介します。私は偽と知らずに偽を知つてゐた人間でした、正直だと思つて不正直なことをしてゐた人間でした。まるつきり責任と云ふものを考へて見ない、人と云ふものを見もしない、僭越な、我儘な奴だつたので御座います。……それで今度拾一月號の編輯が終ると同時に私は靑鞜社を退社致すことになりました。……この靑鞜は私にとつて最終の編輯にあたつたので御座います。……私は涙と光りでこの原稿をかき終へます。ぢや左樣なら、私は今もう歸へつて行きます。[129]
冷たき魔物は/今ここに、/赤裸な人世の前に/生膽とられた子供の肉軀(ししむら)は/只消へて逝くよな響をたてて/びくりびくりと動いてゐる。 …… 秘密から生まれた/お前と云ふ魔物冷たい魔物/虚僞から生まれた/わたしと云ふ子供、赤裸(あかはだか)の子供。 不可思議の思ひ出は/眞赤にむかれた子供の肉軀の陰にかくれて/恐ろしい顔して黒燿石のなかからぞの(ママ)く。 …… さようなら/さようなら/破られた調子と/亂された調子、/葬は(ママ)れた調子で/丸裸の子供は死んで逝く。 さようなら、/さよなら/赤裸な人世の前に/虚偽から生れた私と云ふ/その赤ん坊は死んで逝く/さようなら。[130]
活字になつて現はれて來る自分の姿、言葉、心や頭、あんなに迄、あんなに迄自分の知つてゐない自分の忘れてゐる自分が出てゐるのが不思議でなりません。私は實申しますと、あす出る自分、翌日出て來る自分が全く案じられてならなかつたので御座います。……それから又私はあの記事について或る友人の二[、]三から私の想ひもかけなかつた話を聞きました、それはあの記事に出てゐるものに依つて如何にも私が卑劣だ、そして自己辯護の上手な奴だ、正直を看板にして偽をつく子供だ、友を賣つて平然としてゐる人間だ、と。私は、私にはそんな心がそりや全くなかつたのです。[131]
全体通じて私はあんまり自分を知らずに饒舌り過ぎました、只平塚さんのことを私が惡くばつかり話してゐたと思はれてゐますから[、]それが記事の終り迄心苦しく思つてゐました。平塚さんに迄いろいろのことを思はれてゐるかと思ひますと[、]つくづく自分乍ら自分が痛ましい樣な可哀そうな馬鹿の樣な赤ん坊の樣な氣になつてしまひました。[132]
私は悪い身體を無理に無理して、勝ちやんと出た、何處に、何處に、私は苦しい苦しい心の病氣を、少しでも慰めるために、十二階下にゐつた。銘酒やの女を見に行つた。…私は立派な男で有るかの樣に、懐手したまゝぶらりぶらり、素足を歩まして、廻つて來た、その気持のいゝ事。あの女の一人でも私の自由に全くなつて來れたらなら…とあてのない楽しみで歸つて來た。私は元気だつた。[133]
私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです。 よく考えて見ると、その氣分は幼い時からすつと今迄續いて來てゐたのです。これから先きもどんなにそれが育つて行くことか樂しむでゐます。人が知つたら恐らく危険だとか狂人地味た奴だとか一種の病的だろうとか位いで濟ましてしまうでしよう。 私のその事が世間に出ると不眞面目なものに取扱はれて冷笑の内に葬らはて行くものだと考へてゐます。私が銘酒屋に行つたとか、吉原に出かけたとか酒場に通つて強い火酒に酔つたとか云ふことは其の大切にしてゐる氣分の指圖になつた悪戯(わるふざけ)なのです、薄つ片らな上づつたあれらの幼稚な可哀いい氣分を世間の人達は随分面白く解釋してゐます。 私は自分を信じてゐます。それだけに自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます。 そのくせ私は人の言葉を妙に心配したり氣に懸けるのです。[134]
紅「煤煙を通じて平塚の性格をみますと或る微妙な點が私と似通つたところがあるのです、世間の人から見ると一寸不思議に思へるやうな興味を持つてゐるやうですから會つて見ると果たしてさうでした」 記「その興味といふのは例へばドンナものです」 紅「それは今は言へません、私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」[135]
それで、「絵が出来上ったらいらっしゃい」というようなことで、紅吉は一応十月かぎりで編集室から姿を消すことになりました。むろんそのまま引込むはずはなく、それから後も相変わらず、編集室やわたしの部屋にも姿を見せ、みんなの邪魔をしたり、また少しは手伝ったりしたのでした。[136]
青鞜でのいろいろな事件のあったあと、当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました。『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです。[137]
紅吉は愛す可き女だ。天眞で、卒直で、無邪氣で、素朴で、單純で、正直だ。彼女の色は黒く、髪は硬く、顔も、鼻も丸く、謂ふところの美人ではない。けれども見よ!其の眼と、頬と、唇のあたりには、彼れのそれ等の性質の總ゆる美點が雲の如くに漂つて、接する人々に、一種の親しみを感ぜしめる。新聞の三面記事や、人々の噂に創造された尾竹紅吉と、尾竹紅吉其の人の實體とは全然別個のキャラクタアであることを、親しく紅吉の實體に接した余は断言する。[138]
青年 貴方はあゝ云ふ[大坂毎日や東京日日のような]記事を承認することが出來ますか。 紅吉 いゝえ、全然――私の實際とは全きり違つて居ります。初めの中は腹も立ちましたし、辯解もしようと思ひましたけれども終ひには寧ろ滑稽になりました。……今では辯解しようなどゝは思ひません。……長い將來を期して、眞面目な仕事を以て本當の私と云ふものが了解されるのを待つより外ありません。 青年 しかし、あゝ言う記事が出ましても、家庭の方は別に貴方の一身に對して干渉されませんですか。 紅吉 初は随分詰問を受けましたけれども、何分事實が違ふもんですから、今では何ともありません。 青年 貴方は青鞜を退社したんださうですね。 紅吉 えゝ、私が居ますと、私一個のことがいろいろ不眞面目に書かれる時に、青鞜と云ふものにまで累を及ぼしますものですから、それで退社いたしました。 青年 それで貴方は、貴方自分を世間の云ふ「新しい女」と自認して居ますか。 紅吉 いゝえ、――世間で云ふ新しい女と云ふものは、よく分りませんけれども、不眞面目と云ふ意味が含まれて居るやうですね[。]私は不眞面目と云ふことは大嫌ひです。……私自身はどちらかと云ふと昔の女で、私の感情なり、行為なりは、道徳や、習慣に多く支配されて居る事を感じます。[139]
すでにおもて向きは退社となっていながら、紅吉は編集室へもわたくしの円窓の部屋へも、相変わらず顔を見せていますし、三巻新年号からの表紙絵――それはアダムとイブを描いたすぐれたものでしたが――を、自分で木版を彫るなど、たいした骨のおり方でした。[140]
人世を具體的に表現してゐる今日迄の歴史は男性の性格と天職を述べて來てゐるに過ぎぬ。……今日の文明は獨り男性の舞臺であつて、……換言すると今日の文明は男性の文明にして女性の混入することの出來ない文明であると。……その男性的文明のなかに生れた女性が全くとりえのないものとせられ人格あるものとして尊敬されないのは當然である。……彼等藝娼妓の群の存在、增加は男性の野獣的情慾の人類記録に一層の光彩を放つものと見てもさしつかへはないと思う、……これらの群の存在は女性(・・)にとつて完全なる女性を男性にも又同じく知得さし得ぬことを悲しむのである。女性の解釋が眞實に出來ないことを悲しみたいのである。人格あるものとして尊重されないのを悲しむものである。……男性に女性の所謂暗黒面のないのと同じく女性みづからも暗黒面の女性を壊碎してしまいたいのである。……今日の文明から暗黒面の女性を消滅せしめたなら今日の男性は如何に表面の女性に男性自身を示すであろう。……暗黒面の女性は要するに藝娼妓をさすべきものである。曾て吾人は暗黒面の女性と表面の女性を單に女性として彼の奇矯に瀕する男尊女卑論から打破し相互の人格を尊重し尊卑を排して優劣を以つて女性の標準を定めたいと思う、即ち赤裸な原始に歸り作られたる性格の本質にとつて尊重仕合いたいと考える。[141]
靑鞜社を退いた尾竹紅吉女史は殆と一ケ月の間寢食を忘れて本鄕西須賀町の生田長紅(ママ)氏方の二階に閉ぢ籠り畫導を揮つてゐたが、殊に出來得るや本會出品した。畫は六曲屏風一双にて藤原時代の人物を描き『枇杷の實』と題せるが落款は本名の『一枝』で感じのいゝ作である。されば別記の如く紅吉の知己はち大連の總見をなさんとて其準備中である。[142]
靑鞜派の一人として新らしい女の名を天下に馳せた尾竹紅吉氏の丹靑の花が麗しく本會の展覧會場に咲いたので、春の上野は去年に增して人目を集めた。中にも文士、畫家、女優の面々が同氏のために總見をやつたのは振つてゐた。時は四月一日正午である。文士の生田君を始めとして新聞記者畫家女優等數十名韻松亭から會場へ繰込むで熱情を罩めた紅吉氏の六曲屏風一双と云ふ大作「枇杷の實」の前に立つて讃美の聲を漏らす。……嚴君越堂氏や、伯(ママ)父國觀氏は其娘姪の今日の譽れに一種のプライドを感じたらしい面持ちであつた。……因に紅吉氏の繪は福島於莵吉氏が買つた。[143]
近頃、新聞や雜誌で馬鹿に持て囃やす所謂新らしき女の一人に尾竹紅吉と云ふがある。其人の作も出てゐるのでニヤケた三文蚊士や靑蹈派のお轉婆連が總見をやつたと云ふ騒ぎ、如何な名作かと見れば昔の繪巻物からとつて來た構圖に何等の新奇も、創意もない古い古いものである。新らしい女ならばコンベンシヨンを破壊したものを描きさうなものだ。あんな下らない模倣的なものを出して新らしい女が呆れて了ふ。名作に旨いものがないとは眞理である。僕は失望した。[144]
この繪は所謂新しい女たる紅吉女史の作だと云ふので注目されてゐるが、繪としても注意すべきものである。殊に婦人の繪としては今までの婦人か多く華美な風俗畫を描いてゐたのと代りこれは男の畫家の題材と少しも違ひがないので珍らしい、實は去年の此の展覧會では男とも女とも知らず、越堂氏の子とも知らずに可なりうまいと思つて觀た、併し竹坡氏の模倣のうまいのだと云つた。その言に就いて女史は後で大に怒つて余の友人に詰問したと聞いたが、今年の繪も亦大體に於いて竹坡氏の模倣を出ないと思ふ。金と銀と黄とあまり違はぬ繪具を用ひて全體の調子を纏めたところは此の繪の第一の佳い所である。[145]
新らしい女の標本の樣に伝はれてゐる尾竹紅吉は見樣見眞似で繪筆を弄ぶことが上手な上に巌父越堂氏の仕込で一通り物になつて居るが、今回一枝といふ畫名で巽畫會に出品したのは「枇杷の實」と題する六曲屏風で、大枚三百圓と札がつけてある、世間は妙なもので、新しい女のやる事なら、何に限らず大騒ぎをする、この畫の總見なども馬鹿騒ぎの一つだろう……その畫は開會間も無く物好きな福島於莵吉氏が買取つたので、紅吉はホクホクもの、サテ其の三百圓は何うなるのかと云へば、今度紅吉が出す雜誌の保證金に充てるのだそうだ、花魁身受なぞと評判を立てゝ置いて、陰でペロリと舌を出す紅吉も女ながら人が惡い。[146]
生田家にいる姉のもとへ、家からのおつかい役で出入りする紅吉の妹、福美(ふくみ)さんを、佐藤春夫が見そめたのもこのころでした。福美さんはその名のように、大柄なからだながら、姉さんとは違って女らしい、やさしい感じの関西ふうな美しい人でしたが、たいへんな姉思いで、何ごとにつけ、「姉さん、姉さん」と、紅吉を大事にするのでした。[147]
「あんな、片方の手を懐に入れたままものを書く奴には、どうせ碌なのがいない……」という父の反対で、お互いに心を引かれながらも、結局この二人の淡い恋は実を結ばなかった。 そのころ、私が佐藤さんの恋文を妹に手渡す役をしたわけなんですが、間(あいだ)にはいって私が邪魔をしているんではないかと、佐藤さんは大分邪推していたようです。[148]
泉よ、泉よ、水の舞踏よ、 杯にあふれ出づる山の酒よ、 奏づる妖精の歌にあはせて、 よき花かげにをどりいでつつ、 汝はメルヘンのなつかしさもて しばしば少年の夢をいざなふ。[149]
その心境は、「泉と少女」と題する詩の中に直寫されている。……詩風はこれまでのものにくらべて、まるで一變しているのではないか。ここに表われる「少女」は……當時名を知られた日本畫家の令嬢であつた。……彼は改めてわが身の在り方を省み、清らかな少女にふさわしい清純な魂の人に立ち戻ろうとした。……尾竹ふくみとの戀を契機にして、彼は或る意味で人間がかわつた。生活もかわつた。これから、彼は一種のどん底のなかをさまよい歩いて、詩筆を捨てた。[150]
いゝにしろ、わるいにしろ、人一人をあらたまつて評をすると云ふことは随分責任のある、そしてむつかしいものです。……私が一番最初平塚さんを知つたのは[森田]草平氏の自叙傳を讀んだ時なんです。その時私は随分、樣々の好奇心を自叙傳を通して平塚さんの上に描いておりました。そしてどうも不思議なすばらしい人だとも考え、恐ろしい人のようにも考え、女として最も冷つこい意地の惡い人のようにも思つてをりました、……そして讀み終つた日などは、すぐにでも東京に出て面會して私の解釋がどうだかみきはめたいとまで好奇心を一ぱいもつてをりました。……平塚さんの門の前に連れてこられたその時、私は右の手に自叙傳でも持つて一々讀んでゐるかのやうに、舞臺監督のやうな心持で私はそら芝居が始るのだと云ふ風で門をあけました。……私が再び上京してから、私と平塚さんはよく逢ふやうになつたんです。私が自叙傳をよんだときに握つてしまつた好奇心をどうにかしてはつきりしてしまひたいと云ふ私の行為は、又いつの間にか平塚さんからもいぶかしい不思議な奴だなあ、どんな奴かと云ふそこに起きてくる自然の好奇心がいつの間にか、かち合つて、そうした中から、いつの間にか眞實が生れそして私と平塚さんは、一歩ふみ込んだ場所に愛と云ふものを結びつけて立つてゐるやうになつたのです。……私はかつての私と平塚さんの間の感情や行為を思ひ出しますと、とてもこの原稿がかけません。平塚さんは、私達よりも、どれだけ涙もろかつたでせう。私はあらゆる我儘をしてゐたゞけ平塚さんを困らせたものです。今考えると全くお氣毒です。……なんだかばらばらになりましたが、私はこれより以上かくことを好みません。……この記事はかへつて平塚さんの今の位置なり、名譽なりを傷つけたかも知れませんが、しかしその邊のことはどうぞしかるべく御許し下さい。私がこの原稿をかくに對して、充分の好意をもつてゐることは、全く實際だと云ふことを信じてゐますから。[151]
尾竹紅吉氏がまだ本社の社員であるかのやうに思つてゐる方もあるやうですが、同氏が自分から退社を公言されたのは昨年の秋の末だつたかと思ひます。……同氏の特殊な性格を知つて居ますから社は大抵は黙許して参りました。けれども今日はもう社とも、社員とも全然何の關係もありません。従って同氏の言動に就ては……社にとつてもらいてうにとつても誠に迷惑なものであります。[152]
(第二章完/二〇二三年三月)