一八八四年という年は、のちに劇作家にとして、そしてまた社会主義者として世界的に有名になるジョージ・バーナード・ショーの生涯にとって、ある意味で節目となる年でした。一八五六年にアイルランドのダブリンで生まれたショーは、二〇歳のころにロンドンに出て、文筆によるわずかな収入で生計を立てていました。そうしたなか、二八歳になる一八八四年、社会主義者の組織であるフェビアン協会が創設されると、ただちにその会員になり、社会主義の月刊雑誌『ツゥデイ』が創刊されると、運よく『非社会的社会主義者』が連載される運びとなり、さらに加えて、この一八八四年にモリスと知り合うと、それ以降モリスが死去するまでの一二年間、友情を持続することになるのです。
最初にふたりが顔をあわせたのは、モリスが属していた民主連盟の集会でのことだったと思われます。すでにショーは、モリスの詩に親しんでいたでしょうし、モリスは、『ツゥデイ』に連載がはじまった小説『非社会的社会主義者』の作者たるショーに関心を抱いていたにちがいありません。残されているショーに宛てたモリスの最初の書簡として、一八八四年七月八日に書かれたものがあります。そのなかに、このような文言を見出すことができます。
二〇日の日曜日か二七日の日曜日のどちらかにハマスミスにいらしていただけるというお約束をちょうだいできれば、私はそのご高配にとても感謝します。
その手紙が出されたちょうどおよそ一箇月前の六月一四日に民主連盟のハマスミス支部が結成されていますので、このモリスからの招待は、ハマスミス支部での講演に関するものだったと思われます。民主連盟の機関紙『ジャスティス』によれば、七月二〇日にショーは、「社会主義対個人主義」と題して講演を行なっています。ショーの主張は、広く喧伝されているこのふたつの立場の敵対的関係を否定するものでした。七月一四日の手紙でモリスは、「わが家での午後七時の夕食であなたにお目にかかりたい」と書いています。したがいまして、二〇日の講演会の日、おそらくショーは、モリス家の家族と一緒に夕食をともにしたにちがいありません。ハマスミス支部ができると、ジェニーとメイの姉妹も会員になっています。そのことを勘案しますと、この日の講演会か夕食のときに、モリスはふたりをショーに紹介したものと推量されます。断定することはできませんが、もしそうであれば、このときが、メイとショーのはじめての出会いということになります。メイの記述に従えば、当時の彼は、「幾分やせ衰え、顔は青白く、赤かっ色のあごひげを蓄えた若きアイルランド人」でした。
メイとショーの愛情関係を構成するには資料が乏しく、その多くを、ショーがのちに書き記すことになる「私の知るウィリアム・モリス」に依拠しなければなりません。このエッセイは、モリスが亡くなって四〇年が経過した一九三六年にメイの手によって『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』と題された二巻本が上梓されますが、その第二巻に所収するために執筆されたものです。メイとショーが顔見知りとなって、何と半世紀近くが立とうとしていました。したがいまして、遥かかなたに過ぎ去った昔のことについての淡い回想記ということになります。このなかでショーは、メイとの結婚を避けるために姿を隠したことや、スパーリングとメイの結婚生活に入り込んだ事情についても、率直に言及していました。その意味で、ショーからメイへの最終的な心情を吐露するものでもありました。
最初にモリス家の人びとと知り合ったときのジェインについて、ショーは、「私の知るウィリアム・モリス」のなかで、このように描写しています。
私が会ったことのある女性のなかで最も無口な人だった。彼女は誰にもそれほど関心を払わなかったし、終始話をしているモリスにも何ら関心を払わなかった。
ショーのこの短い言葉のなかに、モリスとジェインの生涯にわたる夫婦関係の実相が凝縮しているとみなしても、差し支えないと思われます。ふたりの関係は、よくいえば、言葉数が少なくて慎み深く、別の表現を使えば、明らかに、相手に対して無関心で他人行儀だったのでした。
ショーは、絶対禁酒者であり、菜食主義者でした。したがいまして、モリスが勧めるワインもジェインがつくった料理も賞味することはありませんでした。ショーは、こう書いています。「プディングがとくにおいしかった。そして、モリス夫人がお代わりを私に迫り、それを平らげると彼女は大いに満足した」。そして、「そのとき彼女は、『それはあなたの体にいいですよ。脂肪が入っていますから』といった」。菜食主義者であるショーは、このとき、動物の死肉を食べさせられたような屈辱的な違和感に陥ったものと思われます。これについて、伝記作家のジャン・マーシュは、こう述べています。
このようなからかいは、全くジェインらしいところではあるが、極端に感受性の強いその訪問客にとっては、おそらく受け入れがたいことだったにちがいない。したがってこの話は、ジェイン・モリスのユーモアのセンスのなさを例証するものとして今日に伝わっているのである。
すでにこのときまでに、ジェインは、ロセッティの絵画作品において神聖化された寡黙な絶世の美女として偶像化されており、ショーが実在の女性としてのジェインの資質を理解するには、かなり時間を要したようです。その資質について、ショーは、「たいていの女性ならば参ってしまいそうな処遇を受けても、全く健全な判断を失わせることがなかった彼女の実直な良識」と、述べています。
フェビアン協会の会員ではありましたが、ショーは、社会民主連盟から引き継がれた社会主義同盟のハマスミス支部が主催する日曜の集会にも、しばしば参加していました。正確な年月日はわかりませんが、ショーが書くところによれば、「ある日曜日の夜、講演と夕食がすみ、ハマスミスの家の戸口に立ち、振り返って別れのあいさつをしようとすると、その瞬間彼女が食堂から玄関にやってきた」。これが、本人が語るメイとの「神秘の婚約」が成立した瞬間でした。ショーは続けます。
私は彼女を見て、彼女のかわいらしい服と彼女自身のかわいらしさをうれしく思った。すると彼女も私を非常に注意深く見て、完全に意識的に同意の目配せをした。たちどころに私は、「神秘の婚約」が天国に登録されていることに気づいた。
この「神秘の婚約」をきっかけとして、メイとショーの付き合いがはじまりました。すでに前章で述べていますように、一八八四年の年末に社会主義同盟は結成されます。エイヴリング夫妻とともにメイとショーは、社会主義同盟の資金集めのために開催される演劇『独りで』に参加を予定していました。しかし、下げいこにかかわって、ショーは、何か不始末を犯してしまったようです。次は、一八八五年一月二一日に書かれたショーに宛てたメイの手紙の一節です。
劇の一座の人びとに対するあなたの振る舞いは全くみっともないものです。もっとも、自分が原因で一座の人びとが苦しんだり、困ったりしているのを見るのが、あなたにとっては大いなる喜びかもしれませんが。あなたはおそらくご存じでしょうが、明日(火曜日)午前一一時に招集されています。もしあなたが現われたら私は大いに驚くでしょう。早々。怒れるメイ・モリス。
ショーの不始末の内容も、この「怒れるメイ・モリス」から出された手紙へのショーの返信も不明です。メイとショーのあいだに共通する関心は、演劇や美術でしたが、それだけではなく、社会主義や音楽に関しても、共有されていました。同年八月二一日のメイの手紙には、「同志ショー様」の書き出しではじまり、次の合唱団の練習に、「ひやかしにいらしてください」と、誘っています。このころショーは、メイに写真を求めました。しかしメイには、ショーのいんぎんな態度は、女心をいたずらにもてあそぼうとするもののように映り、写真を送りませんでした。同年一〇月二五日の手紙のなかの、「私の知性についてのあなたの誠意のないお世辞が私は 嫌いです ( ・・・・ ) 」という言葉に、メイの怒気が現われています。そして、翌月の一一日の手紙では、メイは、「あなたはいやみをいってはいつも私を恐怖状態に陥れます」と書き、「私がこびる女であり、そうした私の鈍い頭があどけない、とあなたが思っていらっしゃる以上、もはやこれ以上今日は書くことはありません……メイ・モリスより」という文で締めくくりました。具体的な事情はわかりませんが、こうしたメイの手紙を読むと、意識的であったのか無意識的であったのか、それは別にして、ショーは、メイを、あるときはほめそやし、またあるときは見下し、メイの気持ちをかく乱していたようです。
他方でその時期、ショーは、メイをフェビアン協会へ加入するように誘っています。ショーの見解に従えば、メイがフェビアン協会のブルジョア会員を嫌うのは、「階級的偏見」によるものであり、一方の社会主義同盟に魅力を感じるのは、プロレタリアートへの「盲目的賞賛」にすぎないというものでした。それに対するメイの返事は、次のようなものでした。同年一一月一九日の手紙の一節です。
運動に首を突っ込んでいる私たちのような(比較的)裕福な人びとは、そうではない人びとのなかにあって、このように明らかに不利な立場に立っているのです。平等がみせかけであることを私たちが了解していることくらい、不思議でもなんでもありません。現実がそうだからそうしているのではなく、来るべきときが来ればそれが現実になるはずであるという誠実な希望のもとにそうしているのです。
メイとショーの本格的な付き合いがはじまって、ほぼ一年が立とうとしていました。そして、一八八五年も最後の月に入りました。メイは、エイヴリング夫妻が脚色した演劇に出演を予定しており、その公演を見に来ないかと、ショーを誘いました。一二月六日の手紙です。「暗い感じの小劇ですが、巧妙な仕立てになっており、きっとエイヴリング夫人はそれをうまくやってのけるものと思います」。メイからの招待を受けてショーが観劇したかどうかはわかりませんが、一方でショーは、フェビアン協会への加入をメイに求め続けていたものと思われます。次は、一二月一八日のショーに宛てたメイの手紙です。
それでも、私に加入するように強くお勧めいただきまして、誠にありがとうございました。あなたの行為により私はこれほどまでに驚き、喜んでおります。
年が明けて、一八八六年を迎えました。しかし、メイとショーとの関係には、新しい日差しが差し込むことはありませんでした。マーシュは、その様子を、このように書き表わしています。
演劇や展覧会や講演にショーがメイを案内する多くの機会に加えて、こうした手紙のやり取りによって、より深い交際へと至り、そしておそらくは婚約へと進むことが期待されていたのかもしれない。ところがショーは、個人的な理由で人生のこの時期に結婚することを強く固辞していた。彼はまた、他の多くの女性と感情的に深くかかわりあっており、メイと出会ってすぐのちに、遅ればせながら(彼の二九歳の誕生日に)童貞を失っていた。
ショーの交際相手は、同郷出身で一五歳年上のジェニー・ペタスンという名前の未亡人でした。ショーの二九歳の誕生日といえば、前年(一八八五年)の七月二六日のことです。メイは、ショーとその未亡人との性的関係について知ることはなかったと思われます。しかし、自分以外の女性とショーが同時に付き合っていることは、メイも気づいていたようです。一八八六年二月一四日のショーに宛てて出されたメイからの手紙の一節です。
あなたがペタスン夫人をはっきりと物笑いの種にしていらっしゃるように、私のいない所で私が物笑いの種にされるのが、実はとても不愉快なのです。
もともと、この時期のショーは、相手が誰であろうとも、結婚をする意思はなく、そのことは最初の段階でメイにも伝えていたようです。その意味で、およそ五〇年後にショーが書くことになる「私の知るウィリアム・モリス」になかの、すでに引用で示した「神秘の婚約」にかかわるくだりは、自己の行為を正当化するためのショーによる創作であった可能性が多く含まれているように思われます。それはそれとして、ここへ至ってメイは、ふたりの交際――のちにショーが語る「神秘の婚約」――も、これが限度と悟り、「私たちの交際は、私にもたらした楽しみ以上のものをあなたにもたらすことはなかったと思います」と、ショーに伝えます。この文言に続けて、一八八六年五月五日の手紙には、次のようなことが書かれてありました。
私がずっと我慢できずにいたものは、ブルジョワの俗悪な考えとそれに付随する因習でした。そうしたものが原因となって、若い男女が誠実で友情のこもった交際を維持することをほとんど不可能にしているのです。私の考えでは、それができなければ人生の意味はありません。
ぜひとも私たちの同志的関係を維持させましょう。私はあなたに敬意を表します――友であるショー様。以前腹を立ててしまい、差し上げるのを控えていました、例の感傷的な馬鹿げた写真をまだご所望のようですので、私は自分の行動の一貫性のなさを省みることなく、その写真か、もっといい写真をすぐにもお送りいたします。
こうして、メイとショーの交際はひとまず落着し、メイの関心は、落胆のうちに、別の同志に向かうことになるのでした。「別の同志」とは、ヘンリー・ヘリディ・スパーリングという男性でした。スパーリングは、一八六〇年九月二九日に生まれており、メイより一歳半年上でした。エセックス州ソープ地方の出身で、一八八〇年代にロンドンに出て、文芸記事の執筆や社会主義運動の仕事で、細々と生計を立てていました。スパーリングは、ひとりの人間としてのモリスと同時に政治活動家としてのモリスについても崇敬しており、それが理由となって、社会主義同盟に加わり、機関紙の『コモンウィール』の編集を手伝うようになり、それを通じて、メイはスパーリングと知り合ったようです。
そののちショーは、スパーリングについて、こう評しています。
背が高く、やせていて、未熟な体型の男性で、なだらかな肩からは細長い首が伸び、強健ではなかった。彼は自らの好みや関心事に対しては、勇敢で親切で誠実で知的であった。一見自信を得たようなときには、彼は全く無意識のうちに見栄を張り、そのために、彼の聴衆やはじめて知り合った人は、彼の能力以上のものを彼から期待するようになるのである。
また、ジャン・マーシュは、その半世紀後にメイの書いた次の一文をもって、スパーリングの一面に触れているのではいかと、示唆しています。
[自分の父親は]馬鹿な連中やろくでなしを辛抱強く容認し、大いに利用した。そしてかなりのあいだ、父はひとりのごろつきを信用していた。あるいは少なくとも、そのごろつきの誠実で手助けとなる人柄をある程度評価していた。
一八八七年四月一四日、モリスは、政治問題にかかわって長文の手紙をジェニーに書きました。その末尾に、「おばあちゃんにあの若者を見せるために、メイはスパーリングと一緒に出かけました」という短い文言があります。これにより、祖母のエマ・モリスにスパーリングが紹介されたことがわかります。それを受けての四月一七日にジェニーに宛てた出された手紙のなかで、祖母のエマは、「私にはこの若い紳士がとても幼く思えました」とも、「彼はまだ二〇歳になっていないのじゃないかしら。気だてもよく、優しそうに思えます」とも、「メイの方が尻に敷くことになるでしょう」とも、書いています。エマの目には、スパーリングがよほど幼く映ったのでしょう。しかし実際には彼は、このとき二六歳になっていました。メイの恋愛については、母親のジェインも心配していました。この年の六月に、ロウザリンド・ハウアドに宛てたジェインの手紙です。
あなたがこのふたりの恋人たちにお会いになってからこの方、メイの恋愛問題は進展していません。ふたりはこれまでどおり、深く愛し合っているのですが、はたから見る限り、結婚には近づいておりません。まさにメイがいっていますように、結婚に先立って、婚約者は職を見つけなければなりません。私も全く同感です。
八月の同じロウザリンド宛の手紙では、ジェインは、次のように書いています。
ひとりでメイは〈ケルムスコット・マナー〉に行って、料理を勉強したり、一週間を数シリングで生活する方法を学んだりしています。彼女は、将来の夫が職に就くのを待たずに結婚することに傾いています。思い止まらせるために、できる限りのことをやってみたり、また、いってもみたりしたのですが、彼女はお馬鹿さんで意地になっています。
おそらくジェインは、メイのこの結婚に反対したものと思われます。労働者階級の貧しい家庭の娘から、中産階級の裕福な女主人へと、結婚によって見事に階級上昇を果たしていたジェインの成功体験からすれば、明らかにメイの結婚は、失敗の事例のそしりを免れない状況にありました。そしてまた、モリス家の最も親しい友人家族であるエドワー・バーン=ジョウンズとジョージアーナ・バーン=ジョウンズ夫妻の娘であるマーガリットが、つい最近、オクスフォードの学者であるJ・W・マッケイルと結婚しており、それと比較すれば、伴侶として選んだ男性とのメイの結婚は、通俗的な常識からすれば、明らかに見劣りのするものでした。因みに、このマッケイルが、モリスの死後、その能力を請われて、一八九九年に『ウィリアム・モリスの生涯』を上梓することになるのです。
その一方で、全面的に夫の収入に頼り、「家のなかの天使」となって生きることに疑問を感じ、自ら職業をもち、政治に目覚め、自分の価値判断によって結婚を選択しようする女性たちが、英国にあって出現するのが、まさにこの時代でした。いわゆる「新しい女(New Woman)」と呼ばれる一群の登場です。
全般的に振り返れば、この物語の舞台となっているヴィクトリア時代は、産業国家として、そして宗主国として「新しい英国(New Britain)」を生み出しました。しかし、それだけではなく、女性の生き方にも、大きな変化をもたらしました。早くも一八六〇年代に「時の女(Girl of the Period)」が登場し、九〇年代には、それに続いて、「新しい女」が出現するのです。「時の女」と呼ばれた人たちは、一般に自立心が強く、開放的な精神の持ち主で、それは、髪の色や化粧、男言葉の使用など、ファッションや行動に表われました。市街地は、いまだ男性の支配地でしたが、七〇年代に入るころには、こうした「時の女」たちが、食事や買い物、美術館訪問などを楽しむために、出没するようになりました。八〇年代から九〇年代に入ると、「時の女」に批判的だった、時のジャーナリズムは、「新しい女」の現象に着目するようになります。彼女たちは、多くの点で「時の女」の特質を引き継ぎ、たばこを吸い、大胆にも男性との会話に加わり、町にも繰り出しました。しかし、独自の特質も兼ね備えていました。つまりそれは、「時の女」に見受けられた、異性とのうわべの恋愛ごっこのようなものから離陸し、それに取って代わって、結婚を見下し、女らしさを軽蔑するようになったことでした。「新しい女」の独立心は、仕事をもつことでさらに強化されました。なかには、ある者は作家や芸術家として、ある者は政治活動家として、自分の道を見出してゆきました。
こうした一般的な女性の生き方の変化を、ジェインもメイも、多かれ少なかれ、感じ取っていたものと思われます。ジェインが「時の女」を体現するものであるとすれば、「新しい女」を体現したのが、その娘のメイだったといえるかもしれません。
それでは、モリス自身は、女性問題について、どのような考えをもっていたのでしょうか。以下の一節は、ほぼ一年前の一八八六年一〇月一六日にチャールズ・ジェイムズ・フォークナーに宛てて出されたモリスの手紙からの引用です。
性行為は、両者の自然な欲望と思いやりとの結果として生じるのでなければ、獣的であるだけでなく、それにもまして悪質である。……いまだに人間的な思いやりに加えて獣欲主義も残っているようですが、法律上の私たちの結婚制度が意味する、現行の金銭ずくの売春制度よりは、限りなくいいでしょう。……明らかに現在の結婚制度は、賃金制度と同じ方法によって維持されているにすぎず、つまるところ、それは、警察であり軍隊であるのです。妻が一市民として自らの生活費を稼ぎ、子どもたちも市民として、暮らして行ける権利が奪い取られないようになれば、人びとを法的売春へと強制する要因も、あるいは、人びとを金銭目的のだらしのない行為へと駆り立てる要因も、いっさいすべてがなくなることでしょう。
ここでモリスは、性交は両性間の思いやりに満ちた自然な欲求の行為であり、そのためには、それに反する、現在の社会にみられる家庭内の売春制度も、市中での男性相手の性の売り買いも、なくさなければならず、そのためには、女性が職に就き、収入を得るようになり、経済的に自立することが重要である、と説いています。しかし、社会主義運動の内部にいて、進歩的であることを自認する男性でさえも、なかには、モリスのこうした見解にまで解放されず、いまだそれとは逆行する人たちも多くいました。その一例として、マーシュは、エドワード・エイヴリングとエリナ・マルクスが実践した「自由な結婚」や「平等な愛」を挙げて、こう論評しています。
エドワード・エイヴリングがエリナ・マルクスに対して振る舞った平等主義は、新しい意味での道徳ではなく、古い意味での不道徳だった。つまり、財政上の責任の放棄と、男性側の性的自由とが結び付いていたのである。
最終的にエリナは、一八九八年、配偶者の素行が原因で、自殺へと追い込まれてゆくのでした。のちにメイは、エリナを「才能ある頭脳明晰な」女性と評する一方で、エイヴリングについては、その雄弁さはほめつつも、「金銭の問題と性的な関係では、ほとんど信じがたいほど彼は恥知らずであり、良心に欠ける薄情者」と、述べています。
それでは、メイの愛情問題の場合は、どうだったのでしょうか。ショーは、性的なはけ口は他の女性に求め、メイが示す純粋な愛には、心を開くことなく、逃げ回っていました。そうした恋愛行為を遊戯的というならば、スパーリングは、その点実直で、誠実に同じ理想に向かって歩もうとしていたにちがいありません。
ジェインは、一八八九年二月一二日にウィルフリッド・スコーイン・ブラントに宛てて手紙を書きました。そのなかで、こう書いています。
メイはまだ結婚しておりません。しかしそう長くはないうちに、いやな儀式を執り行なわなければならないだろうと思っています。彼女と別れたくないという気持ちを白状するのにやぶさかではありません。
メイとスパーリングが結婚したのは、それから一年が立った一八九〇年五月一九日のことでした。ふたりにふさわしい、つつましやかな結婚式でした。結婚に際して仲間の運動家たちによって贈られたお祝いは、美しく印刷された蔵書票で、それには「枝から花へ」という言葉が添えられていました。「枝」(Branch)が「支部」(Branch)を指し、「花」はメイを指すものと思われます。ふたりは、〈ケルムスコット・マナー〉で短い新婚旅行を楽しみ、〈ケルムスコット・ハウス〉と同じ並びのテムズ川沿いにある、ハマスミス・テラス八番地に借りた家に着くと、そこを拠点に新婚生活へと入ってゆきました。しかし、この結婚に不幸な運命がすぐにも影を落とすことになろうとは、この時点で、ふたりは気づいていなかったものと思われます。
ふたりが結婚した一八九〇年は、母親のジェインにとっても、そして、父親のモリスにとっても、口に出していいがたい複雑な思いを味わう年となりました。
一八九〇年一〇月一八日のウィルフリッド・スコーイン・ブラントの日記には、「私は昨日、その日をモリス夫人と過ごした。全く親密なやり方での最後となる気がする。――彼女はそう感じて、そう口にしたが、私も反論しなかった」と書かれています。おそらくこのとき、ジェインは、メイの結婚をひとつの区切りと考え、ブラントとの関係を清算しようとしたのでしょう。しかし、それはできなかったようです。依然として愛人関係は続きます。ジェニーは療養施設と自宅のあいだを行き来し、一方メイが結婚して家を出たいま、ジェインの心の空洞化はさらに進み、その穴埋めをするのは、ブラントしかいなかったのかもしれません。
一方、翌年からの社会主義同盟の内部抗争は治まらず、過激な無政府主義者たちが『コモンウィール』の編集権を奪うと、モリスからの財政援助は打ち切られ、機関紙だけではなく、社会主義同盟それ自体も、勢いを失ってゆきました。こうして一八九〇年の秋、モリスは、自分を支持する人びととともに、もはや全国組織という観点を念頭に置くことなく、新たにハマスミス社会主義協会を組織するのでした。
それでは、ハマスミス社会主義協会を結成するまでの社会主義同盟でのモリスの政治活動について、その間のモリスの主要な執筆活動も織り交ぜながら、以下に跡づけてみたいと思います。
一八八五年のクリスマスは、モリス家のそれぞれにとりまして、どちらかといえば暗い聖夜となりました。ジェニーは、収容されていた施設から帰宅していましたが、決して体調が全快していたわけではありませんでしたし、メイは、ショーとの交際をはじめていたものの、必ずしも恋心を満たす、喜びの日々を送っていたわけではありません。おそらくジェインの心は、愛人のブラントのことで占められていたでしょうし、モリスも秋以降、痛風に悩まされ、歩くことさえままならない日々が続き、やっと回復の兆しが見えたところでした。この日は、あいにく天候も悪く、ほとんど訪問客の姿はなく、ジェインのマンドリンとメイのギターが奏でる二重奏が、〈ケルムスコット・ハウス〉に、うら寂しく鳴り響いていたのでした。
それは、英国における政治的動乱のはじまりを告げる鐘の音だったのかもしれません。長引く貿易の景気後退と、それによって生じた失業の増大は、大きな社会的不満として顕在化しようとしていました。経済問題だけではありません。大衆の怒りは、言論や集会の自由に対する弾圧や労働者の正当なる諸権利への抑圧などにも起因し、さらに、政治的には、アイルランドの独立問題や土地改革問題などが重層的に横たわっていました。
年が明けた一八八六年の二月八日、ついにロンドンにおいて暴力による動乱が勃発しました。「暗黒の月曜日」と呼ばれるものです。保守勢力であるトーリーによって助成された「公正貿易協会」を自称する団体が、三時からトラファルガー広場で、失業者を集めた集会を予定していました。社会民主連盟は、その集会を終わらせようと躍起になってその場にいましたが、社会主義同盟は、モリスの判断で、派閥の抗争に巻き込まれることを避け、そこに近づくことなく、傍観する立場をとりました。メイも参加していません。しかし、実際には、ヘンリー・ヘリディ・スパーリングを含む多くの会員が参加していました。その時間になる前に、トラファルガー広場は人で埋め尽くされました。そしてついに午後二時、ハインドマン、チャンピオン、ジョン・バーンズ、そしてジャック・ウィリアムズといった社会主義者たちによって、その広場と、貧民街であるイースト・エンドから流れ込んできていた群衆とが支配され、八千人とも一万人ともいわれる民衆が、ハイド・パークへ向けて行進をはじめました。進行中、暴徒化した失業者たちは、富裕階級の建物や商店へ投石し、窓を破壊し、その怒りを爆発させました。オクスフォード・ストリート四四九番地にあったモリス商会のショールームは、幸いにも、一瞬のところで標的から外され、難を逃れることができました。
「暗黒の月曜日」から二日後の二月一〇日、モリスは筆を執ってジョン・グラス師に返事の手紙を出しました。グラス師は、エディンバラのキリスト教社会主義者の唱導者で、民主連盟の初期の会員でした。
確かに、暴動を組織しようとする行為は間違っています。しかし、月曜日の出来事が運動の害になるというあなたの意見には、賛成いたしかねます。……全体としては、今回の出来事は、革命の前触れであり、いまのところ、勇気づけられる事件であったとみなさなければならないと思います。
一方このとき、身近な親友のバーン=ジョウンズも、無分別なことはしないようにとの、モリスに忠告する手紙を書いたようです。それに対して、モリスは、二月のおそらく一六日に、このような返事を書き送りました。
ネッド、気にかけてくれて、ありがとう。目下のところ心配いりません。……そのようなわけで、私は、自分自身についてはほとんど心配していません。自分の立ち位置に関する私の気持ちは、全く不動です。この件に関する私の見解について、あなたが私に同意するようなことはおそらくないだろうと思います。それでもあなたは、事の起こりから判断して私は間違っていないということを、つまりは、私は駆り立てられるようにしてその種の行動を起こしているのだということを、認めざるを得ないにちがいありません。
ネッドに返信を書いた同じ日に、モリスはジョージーにも、手紙を出しました。
この動乱にかわる私の指導力に関しては、本当に、周りに思われているとおりにお粗末なものであったと感じています。それでも、結局これが、私の人生であり、生涯の仕事なのです。全力を投入しなければなりません。
社会主義的な内容をもつ集会や言論に対する官憲の取り締まりが強化されてゆきました。七月一一日、社会主義同盟のサム・メナリングと社会民主連盟のジャック・ウィリアムズが、ベル・ストリートの通行を妨害したという 廉 ( かど ) で警察に呼び出されました。エッジウェア・ロードの外れのベル・ストリートは、社会主義同盟のメララバン支部が利用する演説のためのひとつの拠点でした。同じ罪でモリスに呼び出しが来たのは、一週間後の七月一八日のことでした。モリスは、初犯という理由で一シリングが科されましたが、以前から警告を受けていたメナリングとウィリアムズは、次の月に開催されるミドルセックス警察裁判所での審議において判決を受けるように命じられました。そして、八月一一日から一三日までの三日間の審議で、有罪の判決が下されたのでした。
翌八月一四日、さっそくモリスは、ジェニーに手紙を書きました。
昨日、メイと私は、一日中法廷にいました。わが同志のメナリングの実に見事な陳述を除けば、何とお粗末な見せ物だったことでしょう。……彼らはそれぞれに、二〇ポンドの罰金刑が科されました。さもなければ、二箇月間の投獄です。……あまりにも恥さらしの行為です。ふたりは労働者なのですから、こんな重い罰金を自分で払うことはできませんし、私たちがその金を工面したとしても、ふたりのどちらも、それを承知するとは思いません。
結局、メナリングは科料を支払い、一方のウィリアムズは、入獄の道を選びました。
同志たちへの判決の結果にひるむことなく、モリスは全国を行脚して、講演を続けました。続く一〇月二九日に、ジェニーに宛ててモリスが書いた手紙には、その多忙さが綴られています。このときジェニーは、母親と一緒に〈ケルムスコット・マナー〉に滞在中だったものと思われます。
思うに、あまりにもなすべき多くのことに翻弄されすぎて、愛するあなたに長い手紙を書けるほどにうまく頭が回転しません。それで、短い文ですませます。今週は、そちらに行けそうにありません。あなたやあなたのお母さんが、私が来ることを実際に期待しているとは思いません。火曜日にランカスターに、そして水曜日にプレストンに行き、木曜日にもどって、もしそうできていれば、金曜日の夜か土曜日の朝に行くつもりです。しかし、月曜日のミーティングの時間には再びロンドンの町にいなければなりません。
モリスが行なった一一月二日のランカスターでの講演題目は「社会主義――その目的と手段」でした。そして、翌日の一一月三日にプレストンで行なった際の演目は「新時代の夜明け」というものでした。このジェニーに宛てた手紙は、こう続いてゆきます。「美しく輝く朝で、今日は実に暖かい。マートンまで歩いていきたいという気持ちにほとんどなりかけましたが、残念ながら、そうした時間はなさそうです」。講演に加えて、マートンでの業務、それだけでも十分に忙しいのではなかと考えられますが、そのうえにモリスはこの時期、ホメロスの『オデュッセイア』の翻訳の仕事もしていましたし、『希望の巡礼者たち』の書籍化もまた企てていたのでした。その手紙は、さらに、こう続くのでした。
ちょうどいま、『オデュッセイア』の第一〇書の訳が完成したところです。年が終わるまでには、一二書を間違いなく完訳することでしょう。ある程度文学的な仕事するためには、少しくらい痛風をもっていた方が、実のところ、私にはむしろ都合がいいのかもしれません。私の希望の巡礼者たちを一冊の本にしようと思い、そのことに取りかかるつもりでいます。もっとも、追加と変更の箇所がたくさんあるのですが。
ここで言及されている『希望の巡礼者たち』の単行本は、この時期、世に出ることはありませんでした。しかし、『英語韻文詩になされたホメロスのオデュッセイア』の方は、翌年、二巻本として出版されることになります。
メイと結婚するもその後離婚したヘンリー・ヘリディ・スパーリングが、一九二四年にマクミラン社から『ケルムスコット・プレスと巨匠工芸家ウィリアム・モリス』を公刊します。そのなかでスパーリングは、『オデュッセイア』を書くモリスを、以下のように描写しています。
よく彼は、木炭か筆、あるいは鉛筆を手にもって、イーゼルの前に立っていたり、スケッチブックを前にして座っていたりしたものである。そうしているあいだ、ずっと彼は、ホメロスのギリシャ語を小声でつぶやき……明快で思い切りのいい筆致によってデザインが生み出されていた。そのとき、つぶやきの調子が変わった。というのも、英語による言い回しが、生まれ出てきたからである。このときは、『オデュッセイア』を翻訳していた。部屋をうろつき回り、パイプに煙草を詰めては火をつけ、あっちかこっちかのイーゼルに向かって一筆か二筆かを付け加える動作を止めると、いまだにつぶやきながら、書斎机まで行き、ペンを持ち上げると、猛烈な勢いでしばらく書いたものである。二〇行、五〇行、そして一〇〇行、あるいは、それを超える場合もあった……。
ホメロスを英語に訳していた同じ時期、モリスは、『ジョン・ボールの夢』という散文の物語を並行して執筆していました。この作品は、一一月一三日から、年を越した一八八七年の一月二二日まで、『コモンウィール』に連載されます。夢想者は、次第に自分が、一三八一年のケント州で起きたジョン・ボールを指導者とする農民反乱に遭遇していることに気づき、そこから物語が展開してゆきます。夢想者は、モリス本人と考えてよいと思われます。この時期モリスは、すでに引用しています「暗黒の月曜日」以降の何例かの手紙のなかに見られますように、「暗黒の月曜日」の出来事を「革命の前触れ」として認識していましたし、運動を指導することを、「私の人生であり、生涯の仕事」として自覚していました。執筆に際して、モリスが、自己の認識と自覚をジョン・ボールの思想と行動に重ね合わせたとしても、何ら不思議ではありません。ジョン・ボールにとって救済されなければならないのが、農民のいのちと生活であり、それを抑圧しているのが国王による課税の強化でした。一方のモリスにとって救済されなければならないのは、手の労働たる芸術であり、それを破壊しているのが産業資本主義ということになります。ここに、一四世紀中世と一九世紀近代の近似した構図が存在していたのでした。
他方で、農民による反乱軍は、旗を立てて進行しました。その旗には、「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、誰がジェントルマンだったのか」という文字が並んでいました。著者のモリスはこの文言を、「初期世界の象徴であるとともに、人間の自然との闘いの象徴」という言葉でもって表現しています。それだけではなく、口には出していませんが、モリスがこの文言を、家族を構成する男女の手による労働の喜びの表現として受け止めていたとしても、何ら不思議ではありません。しかしこの時期、妻のジェインがブラントとの恋に落ちていたことに頭を悩ませていたとするならば、ここでも、モリスの理想は、遠のいていたことになります。
この『ジョン・ボールの夢』のなかで、モリスは、民衆の前に立つジョン・ボールに、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である」と語らせました。この言葉は、モリスのこの時期の立場に立てば、自分の指導のもとに大衆運動に参加するすべての社会主義者に、そして、自分の経営のもとにマートン・アビーで働くすべての労働者に、さらには、自分と寝食をともにするすべての家族構成員に、つまり、そうした自分を取り巻くすべての人びとに送るために書かれた言葉だったのではないかと、推量することも可能なように思われます。
マッケイルによると、年が明けて一八八七年を迎えると、モリスは日記をつけはじめました。一月二五日にはじまり、四月二七日で終わっています。一月二六日の日記には、次のことが記されていました。この日は、ジェニーの容体が、幾分よかったのかもしれません。
ジェニーと一緒に昨日、トロイのタピストリーを見るために、サウス・ケンジントン博物館へ行った。この作品を見るのは、この博物館が一、二五〇ポンドで購入して以来、二度目のこと。
二月二三日の日記には、「イギリスの普通の労働者が何という深みにまでおとしめられているのかということについて、いつか人びとが思いを巡らすことがあるかどうか、ときどき私は疑いたくなる」といった文字が並び、三月九日の日記には、社会主義同盟の「執行委員会に月曜日に出席した。終わりには、けんかのようになってしまった」と、書かれています。
この年の四月のはじめに、『英語韻文詩になされたホメロスのオデュッセイア』の第一巻が、続いて一一月に第二巻が、リーヴズ・アンド・ターナー社より刊行されました。マッケイルは、この『オデュッセイア』について、このように評しています。「価値あるものとして賞賛のうちに迎え入れられた。初版は、六週間で完売した。しかしながら、実際には大衆化することもなかったし、ホメロスの標準的な英語版としての位置を得ることもなかった」。
第二巻が公刊される少し前の一〇月一五日、社会主義同盟のホールで、モリスの新作劇「テーブルはくつがえる、あるいはナプキンズは目覚める」が上演されました。『コモンウィール』の資金集めの一環として開催され、内容は、最近の政治や司法を風刺するものでした。設定された舞台は「法廷」です。審議する判事がナプキンズです。マッケイルは、こう伝えています。「モリス自身出演し、演じた役は、カンタベリーの大主教だった。警察に告訴されたひとりの社会主義同盟の組合員を弁護する証人として召喚されていることが想定されていた」。裁判の結果ナプキンズは、自由で牧歌的な社会に送り込まれることになるのでした。まさしくこの理想郷こそ、その数年後にモリスが書く『ユートピア便り』を先取りする世界でした。ジョージ・バーナード・ショーは、この日からおよそ九年が立った一八九六年一〇月一〇日(モリスの死去一週間後)の『土曜時評』に「役者および演出家としてのウィリアム・モリス」を寄稿し、そのなかで「私の記憶する限りでは、これほど成功した初日はついぞなかった」と述べています。マッケイルも、こう書いています。「その劇は……大変成功し、三度繰り返し上演されるほどだった」。
昨年二月の「暗黒の月曜日」以降も、失業者の示威運動と政治集会は続き、さらにそれに、七名のいわゆる「シカゴ・アナーキスト」の裁判問題への抗議が加わり、一八八七年もまた、英国における政治的動乱の年となりました。のちに「血の日曜日」と呼ばれるようになる、デモ隊と官憲との大規模な衝突がトラファルガー広場で起きたのは、一一月一三日のことでした。マッカーシーの言葉を借りるならば、「トラファルガー広場は、ロンドンがかつてこれまでに経験したなかで最も残忍な公権力の行使の場となった」のです。
一八九九年に『ウィリアム・モリスの生涯』を表わす著者のジョン・ウィリアム・マッケイルは、一八五九年の生まれですので、この「血の日曜日」の動乱が発生した年には二八歳になっていました。彼は、社会主義に強く共感を覚える立場にはなく、おそらく現場にはいなかったものと思われますが、それでも、人の話や新聞などを通じて、直接その実態を肌身で感じることができたにちがいありません。マッケイルは、その本なかで、こう書いています。
政府のアイルランド政策に抗議するためにこの公園で集会を開くことが呼びかけられていて、警察当局は、その中止を求めていたのだが、その集会が、大規模な示威行動へと転じてしまったのである。それを見た誰しもが、この灰色の冬の日の見慣れない、実に恐ろしい光景を忘れることはないであろう。
この日、およそ一万人にのぼる失業者、急進主義者、無政府主義者、そして社会主義者たちが、ロンドンの至る場所に集結し、トラファルガー広場へ向けて行進をはじめました。モリスは、同志とともに社会主義同盟の隊列に加わっていました。官憲は、トラファルガー広場への侵入を食い止めるため、進行するデモ隊を威嚇し、警棒で叩きつけ、馬で蹴散らしました。血が流れ、数名の死者と多くの負傷者が出る結末となりました。
次の日曜日(一一月二〇日)、トラファルガー広場での惨劇に抗議する集会が、ハイド・パークで開かれました。集会は、比較的抑制されたものでしたが、馬に乗った警官隊が配備され、手向かう人間を追い散らしにかかりました。そのときのことでした。その公園のちょうど南側に位置するノーザンバランド・アヴェニューで、エルフリッド・リネルという名の急進派の男性が、騎馬警官の馬に蹴られ、それが原因で、その後病院で死亡しました。モリスは「死の歌」という追悼詩を書き、ウォルター・クレインの木版画が添えられ、八頁の小冊子としてリチャード・レンバート社から出版され、一ペニーで販売されました。遺児となったリネルの子どもたちを助けるための募金活動でした。一二月一八日に、リネルの葬儀が執り行なわれ、モリスはひつぎ持ちを務めました。墓地へ着き、ひつぎが納められるとき、モリスは、次のような、人間味あふれる追悼の言葉を発したのでした。
特定の組織に属さないひとりの人間がここに横たわりました。一週間か二週間前までは全くの無名で、おそらく数人の人にしか知られていなかった人物です。……ここに眠る友人は、過酷な人生を歩み、過酷な死に遭遇しました。もし社会が、いまと違ったかたちで成り立っていたならば、この人の人生は、愉快で美しく、本人にとって幸多いものになっていたにちがいありません。なさなければならないことは、この地上をことのほか美しく幸福な場所にするように努めることなのです。
この時期のモリスは、リネルの死と同時に、もうひとつ別の大きな問題に関心を向けていました。それは、トラファルガー広場で逮捕されたロバート・カニンガム・グレイアムとジョン・バーンズのその後についてでした。警察裁判所は、六週間の監獄送りを彼らに言い渡していたのです。ふたりがペンタンヴィル刑務所を出所したのは、年が明けた一八八八年の二月一八日でした。この日モリスは、ふたりを出迎えに行きました。その翌日にジェニーに宛てて出されたモリスの手紙によると、グレイアムは、辻馬車に乗って妻とともにちょうど出ようとしているところで、何とか握手をすることができました。バーンズは、まだ到着していない妻を待つために、歩いて通りを行ったり来たりしていました。話をすることができました。彼はモリスに、朝食と夕食に食べるパンのかけらを差し出して見せました。「ちょうど二口分で、決してそれ以上多くはありませんでした」。
この間モリスは、トルストイの『戦争と平和』を読み、『アンナ・カレーニナ』を読みはじめようとしていました。すでにこのときまでに、モリスの気持ちは沈みがちになっていました。一八八八年三月のおそらく一七日に書かれたものと思われるジョージーに宛てて出された手紙のなかに、自信を失ったモリスの内面が投影されています。
自分がかかわったこうした最近の問題について、これ以上にもっとやれたのではないかという気持ちがあり、その思いを払拭することができません。もっとも、私に何ができたのか、実のところ、それはよくわからないのですが。しかし、私の気持ちは打ちのめされ、惨めなものになっています。でも、事態にしょげ返っていても、仕方ありません。この三年間にこれほどまでに急速に物事が進行するとは、思いもよらぬことだったからです。ひとこと、再びいえば、考えは広がっても、それによって組織が広がってゆかないのです。
最後の文言は、議会派と反議会派の意見の対立を暗に示していました。それからおよそ二箇月後の五月二〇日に、社会主義同盟の第四回年次大会が開催されました。議会制支持派が大勢を占めるブルームズバリ支部の動議が否決されると、議会派は、執行委員選挙への候補者の擁立を拒否しました。モリスは折衷案を示し、和解への努力をしましたが、結局は功を奏すことなく、ブルームズバリ支部の活動は停止させられ、それに従い、独立したブルームズバリ社会主義協会が結成されるに至ったのでした。社会主義同盟自体は存続したものの、この内紛によってエイヴリング夫妻やアレグザーンダ・ドナルドといった知性派の会員を失い、べクスもまた、この年モリスから離れて、社会民主連盟に再加入してゆきました。他方、同盟内で優位を保ったのが無政府主義者の勢力でした。しかしモリスは、彼らが唱える直接的な暴力行為には同意できず、いまやモリスは、社会主義同盟において孤立の身となったのでした。
このころ、すでに脱稿していた二編からなる『ジョン・ボールの夢と王の教訓』と、『芸術への希望と不安』に続く第二講演集である『変革の兆し――折々に行なった七つの講演』が、ともにリーヴズ・アンド・ターナー社より刊行されます。モリスにとってつかのまの喜びだったにちがいありません。『変革の兆し』には、「私たちはいかに生きているか、そして、どう生きればよいのか」(一八八五年)、「ホイッグ党員、民主主義者、そして、社会主義者」(一八八六年)、「封建制のイギリス」(一八八七年)、「文明の希望」(一八八五年)、「芸術の目的」(一八八六年)、「有益な仕事対無益な苦役」(一八八四年)、そして「新時代の夜明け」(一八八六年)の七編の講演原稿が収録されていました。
社会主義同盟の年次大会からおよそ二箇月が立った、七月二九日、モリスはジョージーに、このような内容の手紙を書いています。
私はまた……理想的な社会主義や共産主義を受け入れることにかかわって、いかなることがいわれようとも、物事は確実にこの国家社会主義に向かって、しかも極めて急速に、進んでいると、いつも感じてきました。しかしここで、議会政治の全く退屈な優柔不断さに身をまかせてしまえば、私は、完全に用なしの人間になります。達成されるべき直近の目標が、そして、活動内容が、つまらない、少しでも国家社会主義に近づくことであれば、実現したところで、それは私にとって、ただのおもしろみを欠いた到達点であり、こうしたことを思うと、すべてが、私を全くうんざりさせてしまうのです。
この時期、モリスは政治活動という公的領域だけでなく、家庭生活内の私的な領域においても、身を引き裂くような苦難を抱えていました。それは、イングランド西部の保養地であるモールヴァーンにある養護施設へジェニーが収容されたことでした。〈ケルムスコット・マナー〉に滞在していたジェインは、八月九日、愛人のブラントへ宛てて、次のような手紙を書きました。
ジェニーは、モールヴァーンへ行ってしまいました。……お医者様がおっしゃるのには、彼女は全快する望みが十分にあるそうです。だから私は、望みを持ち続けなければなりません。それは私たちすべてにとって、恐れに満ちた悲しみでした。絶えず私と彼女は一緒にいたわけですから、他の誰にもましてそのことは、私にとって最悪でありました。
しかし、それに続いてこの手紙になかで、ジェインは、こうもいっています。「いまや私は、至福の休息を得て、それを存分に楽しもうとしています」。この言葉が、ブラントを〈ケルムスコット・マナー〉に呼び寄せるうえでの誘い水となった可能性も、否定できません。そのあとすぐにもブラントは、このマナー・ハウスの訪問客になるのです。この時期のモリスは、ジェニーを手放し、養護施設に入れる悲しみで胸がふさがれていただけでなく、どこまで気づいていたかは別にして、妻の、別の男性に向けた愛のほとばしりについてもまた、むなしくも甘受しなければならなかったのでした。
ジェインがブラントに手紙を書いた同じ八月の、おそらく二八日に、モリスは、それとは対照的な内容をもつ手紙をジョージーに書きました。その全文は、次のとおりです。
しばらくのあいだ私は、組織化されたすべての社会主義がそのいのちを使い果たしてゆくのを見つめてみようと覚悟を決めています。しかしながら、それでも私たちには、やるべきことはあるのです。たとえば、知性ある人びとにその問題を考えるように強く働きかけてゆくことです。そうすれば、何か都合よく連携の環境が整い、やがて、私たちの活動が再び必要とされるようになるのです。そのときまだ生きていれば、再び私は、そのなかに割り込ませてもらうつもりでいます。私には、ひとつの利点があります。すなわちそれは、そのときの私は、いまのこの最初の段階よりも、なすべきことは何であるのか、そして、差し控えるべきことは何であるのかについて、より多くを知っているだろうということです。
議会政治にみられる優柔不断さ、セクト間の対立と抗争、過激主義者が叫ぶ暴力的革命、モリスにとっては、どれもが受け入れがたいものでした。モリスが、当時展開されていた社会主義運動になにがしかの幻滅を感じ取ったのも、このときのことだったと思われます。
一八八九年六月、社会主義同盟を代表して国際社会主義労働者会議へ出席するために、モリスとフランク・キッツはパリにいました。マッケイルは、そのときのモリスの受け止めを、こう表現しています。
そこでの議事進行から、再び彼が、大義の見通しや指導者たちの英知にかかわって何か確信を得るようなことはなかった。会議の終了を待たずして、彼はパリを離れた。こうして彼は、さまざまなセクトが乱雑な非難の応酬を行ない、その結末として、異議を唱える少数派が暴力を露呈することになる現場から逃れたのであった。
パリから帰国したモリスが目にしたのは、社会主義同盟の幾つかの支部の変容でした。エディンバラは、その地区の社会民主連盟と合体して、スコットランド社会主義連盟を結成し、グラスゴウやレスターなどの支部は、いまや無政府主義者に乗っ取られていました。この年、社会主義同盟の執行委員会も、無政府主義者を名乗る一団によって占拠され、『コモンウィール』の役職からモリス(編集長)とスパーリング(副編集長)を解任し、ふたりに代わって過激主義者のフランク・キッツとデイヴィッド・ニカルが就きました。それでもモリスは、辛抱強く、この機関紙の刊行に必要な資金の提供を続けました。そうしたなか、モリスの散文ロマンスである「ユートピア便り」(News from Nowhere)が、翌年(一八九〇年)の一月一一日から一〇月四日まで、機関紙『コモンウィール』に掲載されてゆくのです。
モリスは、民主連盟に加入した一八八三年にトマス・モアの『ユートピア』を、そして、二年後の社会主義同盟が結成された一八八五年にリチャード・ジェフリーズの『ロンドンのその後』を読んでおり、近未来社会へ向けての展望に関心をもっていました。そうしたなか、アメリカの作家であるエドワード・ベラミによる『顧みれば』が、一八八八年に出版されました。モリスはこれを「ロンドンなまりの楽園」と評して、揶揄しました。明らかに「ユートピア便り」は、これまで多くの研究者や伝記作家が指摘してきているように、機械文明と漸進主義を礼賛するベラミが描く未来社会に対する、当意即妙の反論の物語となっているのです。
しかし、それだけに止まらず、社会主義同盟におけるこの時期のモリスの置かれている状況を考えるならば、この「ユートピア便り」は、いまや同盟を支配している誰にも見えない、誰もが語れない、モリスその人のみの認識空間に映し出された、革命後の世界の一風景についての、終わりなき虚構の詩的描写とみなしてもいいようにも考えられます。ここで想起すべきは、二年前に出版した第二講演集である『変革の兆し――折々に行なった七つの講演』です。まず注目していいのは書題です。モリスは、このとき、はっきりと「変革の兆し」が視野に入っていました。次に着目されていいのは、各講演に現われる論点です。所収順に見てゆきます。「私たちはいかに生きているか、そして、どう生きればよいのか」の冒頭においてモリスは、「改良」ではなくて、なぜ「革命」が必要であるのかを説き、「ホイッグ党員、民主主義者、そして、社会主義者」では、トーリー、ホイッグ、自由主義者、急進主義者のいずれもが、現行の政治経済体制の擁護者であることを指摘する一方で、「封建制のイギリス」における結論部分は、必然的な社会革命が、支配の終焉とフェローシップの勝利をもたらすというものでした。続く「文明の希望」では、資本主義社会が凋落する現行にあって必要とされる変革のための知識の重要性を主張し、「芸術の目的」に関する講演では、モリスは芸術を、生活のなかから生まれ、人に休息と希望を与えるものとしてとらえています。さらに「有益な仕事対無益な苦役」において、なす価値のある仕事に付随する労働の喜びに言及し、最後に所収された講演原稿である「新時代の夜明け」へと続いてゆくのです。
以上のように、『変革の兆し』に収められている七編の講演原稿を通覧しますと、そのときまでにモリスの脳裏には、近未来に革命が起こり、その後に新しい世界が生まれ、そこにあっては、階級が消滅し、平等な男女が喜びのある労働を楽しみ、その成果物である芸術が生活に安らぎを与える――そうした解放された楽園の映像が投射されていたにちがいなく、その画像が語りに代わり、現実の体験が取り入れられながら、「ユートピア便り」というロマンスのかたちをなして、『コモンウィール』の紙面に凝縮していったのではないかと、推量されます。しかし、これは単なる一個人の夢物語に止まるものではありません。モリス自身にとっては、当時の社会と労働と芸術の置かれている暗黒的状態を適切にも分析した結果の、極めて個人的な文学的所産といえるかもしれませんが、他方それは、誰もが共有可能な極めて普遍的な未来社会へ向けての淡くも強靭な展望をはらむものでした。モリス本人はそれを、「ヴィジョン」という言葉でもって表現しています。以下は、「ユートピア便り」の最後の言葉です。
そう、そのとおり!私が見てきたように、もしほかの人もそれを見ることができるならば、そのときそれは、夢というよりは、むしろひとつのヴィジョンと呼ばれるようになるかもしれない。
「ユートピア便り」が『コモンウィール』に連載されていた一八九〇年の夏、フェリンダン・ロードの社会主義同盟のホールにおいて六回目の年次大会が開かれました。出席していたメイがのちに書き記すところによれば、そのときの様子は、次のような非生産的なものでした。午前一〇時からはじまっていましたので、もうすでに六時間が経過していました。
時刻は四時。空気はたばこの煙りで、また、ほこりとロンドンのうっとうしさで、どんよりしている。発言権をもった人が、解決案を語ることをなおざりにして生半可な政治経済学について長々と演説をぶつおかげで、私たちは退屈さのあまり、もう少しで泣きたくなるところである。
議長はいらいらしているし、財務担当のモリスは、気持ちをまぎらすためにノートに花柄模様のいたずら書きをしています。そのときでした、モリスが大声を出して、発言しました。「議長、このまま続行することは不可能では( ・・・・・ ) なかろうか( ・・・・・ ) 。私に『お茶』をくれ!」。
一〇月四日をもって「ユートピア便り」の連載が終了しました。そして、この完結が、モリスから社会主義同盟への事実上の「決別の辞」となったのでした。一一月二一日、モリスは社会主義同盟を撤退し、ハマスミス支部は、社会主義同盟との関係を断ち、名称をハマスミス社会主義協会に改めました。この時点での会員数は、およそ一二〇名でした。年が明けた一八九一年の三月、「ユートピア便り」は書籍化され、『ユートピア便り、あるいは、休息の新時代――ユートピアン・ロマンスからの数章』という書題でもって、リーヴズ・アンド・ターナー社から出版されます。こうして、凡百の関心のもとにいまに読み継がれる、まさに不朽の名作が世に出たのでした。
一八九八年までに、『ユートピア便り』は、フランス語、イタリア語、ドイツ語に翻訳され、日本にあっては、『平民新聞』において、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載を通して紹介されます。これは、枯川生(堺利彦)による抄訳で、「理想郷」というタイトルがつけられていました。連載後、ただちにその抄訳は単行本としてまとめられ、「平民文庫菊版五銭本」の一冊に加えられます。発行所である平民社の編集室の後ろの壁の正面にはエミール・ゾラが、右壁にはカール・マルクスが、そして、本棚の上にはウィリアム・モリスの肖像が飾られていました。しかし、連載を終えると、不幸にも訳者の堺利彦は、官憲の手によって獄窓の人となるのです。当時、社会主義弾圧下の日本にあってモリスを紹介する行為には、まさしくいのちをかけた、正義のための不退転の決意が寄り添っていたのでした。