中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第一章 ふたりの生い立ち

一.ウィリアム・モリス(トプシー)の誕生と背景

四九歳になろうとしていた一八八三年のはじめに、ウィリアム・モリスは民主連盟に加わりました。このときモリスは、ウィーンで家具のデザイナーをし、ロンドンに亡命していた社会主義者のアンドリアス・ショイに出会います。その年の九月五日(あるいは一五日)にショイに宛てて書かれたモリスの手紙は、自分の生い立ちから民主連盟に参加するまでの経緯を簡潔にまとめる内容となっていました。手紙は、次の文言で書き出されます。

 私は一八三四年三月にエセックス州のウォルサムストウで生まれました。そこは、「エッピングの森」の端に位置する郊外の村で、以前は十分に楽しめる土地だったのですが、いまでは、恐ろしいほどにロンドン化し、安普請の請負業者の手によって息が詰まるような状況へと変化しています。

ウィリアム・モリスの父方は、もとをたどるとウェイルズにその源流がありました。祖父は、一八世紀の後半の時代、ウスター州に住み、そこで商売をしていました。関係するあらゆることに秀でており、とても信仰に篤い人でもありました。彼は、外科医の娘と結婚し、ふたりのあいだに生まれた二番目の息子が、ウィリアム・モリス(ウィリアム・モリスの父親)でした。一八二〇年のころ、祖父は、仕事の場をロンドンに移し、父親のウィリアム・モリスをハリス・サーンダスン・アンド・ハリスに事務員として入所させます。その会社は、手形割引の仲介業を営み、ロンバード通り三二番地にありました。三〇歳を少し過ぎたとき、父親はこの会社の共同経営者となり、社名もサーンダスン商会に変更され、その数年後にキング・ウィリアム通り八三番地に移転します。

それからまもなくして、父親は結婚します。相手は、ウスターでの近所付き合いのあったジョウジフ・シェルトンの末娘のエマ・シェルトンという女性でした。シェルトン家の系譜には歴史があり、さかのぼれば、ヘンリー七世の御代のバーミンガムの反物商のヘンリー・シェルトンのような人物にまで行き着くことができます。一六世紀と一七世紀のジェルトン一族は、裕福な商売人であり、土地の所有主でもありました。そして同時に、音楽を愛する家系でもあり、この間、音楽関係で活躍する有能な人びとを輩出していました。

シティーで商売をする家族は誰かひとりはシティーに住むという、その当時の慣例に従い、ウィリアム・モリスとエマ・モリスの新婚夫婦は、シティーのなかのロンバード通りに生活の場を設けました。そしてそこで、一八二九年か一八三〇年にエマ(ウィリアム・モリスにとっての一番上の姉)が、一八三二年にヘンリエッタ(ウィリアム・モリスにとっての二番目の姉)が生まれます。翌年一家は、シティーに住むことを諦め、ウォルサムストウのクレイ・ヒルにある〈エルム・ハウス(楡の家)〉へ引っ越します。そこは、「リー・ヴァリー」を望むエセックス州の快適な場所にあり、「エッピングの森」から一マイルか、そこいらの距離しか離れていませんでした。この物語の一方の主人公であるウィリアム・モリスは、父親ウィリアム・モリス、母親エマ・モリスの第三子で長男として、一八三四年三月二四日にこの〈エルム・ハウス〉の屋敷において産声を上げたのでした。その後、ウィリアム・モリスには四人の弟と二人の妹が誕生することになります。

シェルトン家の人びとは、精気に満ちた体つきをし、長命でもありましたが、モリス家の家系には、そうした頑健さは見受けられず、モリスの祖父も父親も、比較的若くして亡くなっています。モリス自身も、幼少年期は虚弱で、子牛の足のジェリーとビーフ・ティーによって、いのちをつなげなければなりませんでした。一方、父親が勤める手形割引業の会社も、父親個人の商取引も、順調に業績を伸ばし、成功してゆきました。そうしたことが背景にあって、一八四〇年に一家は、〈エルム・ハウス〉を離れ、「エッピングの森」を越えた反対側に位置する〈ウッドフォード・ホール〉へ転居します。モリスは六歳になっていました。ジョージ王朝時代に建造されたこの大邸宅は、およそ五〇エーカーの庭園のなかにあり、ロンドンからエッピングへ通じる大通りに面していました。おそらく、この〈ウッドフォード・ホール〉の屋敷から、湿地帯を蛇行するテムズ川を眺めることができたにちがいなく、そこには、白や赤褐色の帆船が小麦畑や牧草地のあいだを縫って走っていたものと思われます。屋敷に並んで、ウッドフォードの教会が立っていました。ジョージ王朝時代の様式をもつこの教会は、煉瓦造りの小さな建物で、専用の木戸を使って屋敷から教会の庭へ入ることができました。道路を隔てたほぼ向かい側に、獄舎とさらし台がありました。そこはモリスに恐怖心を抱かせるに十分な場所でした。一八八八年一二月二三日に長女のジェニーに宛てて出された手紙のなかで、モリスは、こう書いています。

私たちがウッドフォードに住んでいたとき、その村の中心部を走る道路わきのわずかな緑地に、さらし台がありました。そして、そのそばに獄舎が立っていました。それは、一二フィート平方ばかりの小さなあばら家でした。……私は、法と秩序というふたつの脅威を、かなりの恐怖心をもって見ていたことを思い出します。そこで私は、断固としてその道の反対側を歩くようにしていました。しかしながら、誰かがその獄舎に監禁されていたとか、あるいは、誰かがさらし台にぶち込まれていたとかいった話は一度も聞いたことはありません。

庭園には、隣りの「エッピングの森」からたくさんの野鳥や小動物がやってきていました。野外を好む健康的な子どもにとっては、理想的な家でした。またモリスは、弟たちと一緒になって、歩いたり、シェトランド産の子馬に乗ったりして、お気に入りの「森」を散策しました。こうして、自然を愛する気持ちや森の生活へ向けられた関心が、モリスのなかで芳醇にも形成されてゆきました。室内にあっては、モリスは大変な読書家でした。七歳になるまでには、ウォルター・スコットの一連の歴史小説(ウェイバリー小説)のすべてを読んでいましたし、海洋小説家のフレデリック・マリアットの作品の多くにも触れていました。また、家の書棚には、ジョン・ジェラードの『草本誌つまり植物の概略史』がありました。しかし、文字の綴り方については、しばしばミスを犯す少年でした。他方、モリスのおもちゃは、子ども用につくられた一式の甲冑で、中世の騎士さながらに、これを身につけ子馬に乗って、庭園を駆け巡ることもありました。また、魚釣りが大好きな子どもでもありました。

こうしたモリスの少年期の経験について書き連ねてきますと、どの事柄も、その後のモリスの人生を形づくる土台のようなものになっていることに気づかされます。以下に、幾つかの事例を挙げてみます。オクスフォード大学の学生会館の壁画を作製するおりには、モリスは、地元の鍛冶屋に甲冑をつくらせていますし、自作の詩集『イアソンの生と死』の発刊に際しては、数箇所にスペルミスが見つかり、その頁を再印刷しなければならないこともありました。一方、アイスランドの地で大きな魚に食らいつくモリスのカリカチュア(風刺画)も残されていますし、壁紙やテクスタイルに使う植物のパタンをデザインするときには、しばしば『草本誌つまり植物の概略史』を参照していたようです。そしてまた、モリスの散文ロマンスのひとつである『ユートピア便り』においては、エセックス州のそれと思われる、美しい自然風景が描写されることになるのです。

このように、モリスの少年期の生活や趣味の世界に目を向けてみますと、そこには、輝きをいまに待つ数々の原石がちりばめられたことがわかります。さらにそのなかには、別の大きな原石も含まれていました。それは、その後のモリスの思想と実践とを下支えすることになる「中世への心酔」、あるいは「ロマンスへの覚醒」といったものにかかわる、この時期の幾つかの内的な体験でした。

モリス家の信仰は、標準的な福音主義であり、あらゆるものについて、あるときは、それはローマ・カソリック教の教義として払いのけ、またある場合は、それは英国国教会への不同意として退けてしまうような、そうした幾分不毛の側面をもつ信仰でありました。それでもモリスは、幼いときから、ウッドフォードの地元に点在する古い教会に接していました。さらには、モリスは父親に連れられて、カンタベリーを訪れたこともありました。そのとき、何と八歳にして、中世のゴシック建築の壮麗さに、生涯忘れえぬ強い印象を受けたのでした。

モリスは、自身の当時の信仰生活について、先に紹介したショイに宛てた手紙のなかで、次のように述べています。

 私の父は、シティーの商売人で、裕福でした。私たちは、普通の資本家階級の様式に従い、安楽な生活をしていました。そしてわが家は、英国国教会の福音派に属していましたので、私は、体制側の金満のピューリタニズムとでも呼ぶべき環境のなかで育てられたのでした。

しかし、そのあとに続けて、それは「少年のときにあってさえも、決して好きになれなかった宗教」でしたという語句を足しています。福音主義から非国教徒的な良心への改宗が、すでにモリスの精神世界に芽生えようとしていたのでした。それは、モリスだけではなく、ふたりの姉も同じでした。そののち、長女のエマは、若い聖職者のジョウゼフ・オウルダム師と結婚するのですが、彼は、明らかに高教会派の考えの持ち主でした。一方、次女のヘンリエッタは一度も結婚することなく、人生の終わりに、ローマ・カソリック教の信者になるのです。

モリスは、少年のころ、カンタベリー大聖堂の壮麗さのみならず、ロマンス(物語)のもつ空想性にも、同じように強く心を打たれています。一八八二年にモリスは、「生活の小芸術」と題してバーミンガムで講演を行なうのですが、タピストリーの織物について語るなかで、次のような、少年時代の経験に端を発して体得した、ロマンスに潜む詩的な感覚の重要性を紹介しています。

とてもよく覚えています。子どものとき、「エッピングの森」(いまはどうなっているかわかりませんが)のチングフォード・ハッチの近くに立つエリザベス女王の狩猟小屋のある部屋で、私は、色あせた草木模様の掛け物をはじめて知りました。それは、ロマンスの感覚を私に植え付けるものでした。しばしば私は、サー・ウォルター・スコットの『好事家』を読むのですが、その本を手に取り、モンクバーンズの「緑の部屋」の記述にさしかかると、いつもこの感覚が蘇ります。その箇所で、この小説家は、まさしく絶妙たる狡猾な技をもって、夏の詩人であるチョーサーの生き生きと光り輝く詩歌をちりばめているのです。そうなのです。この感覚こそが、室内装飾品を上回るものなのです。本当ですよ。

九歳になるとモリスは、ウォルサムストウにある「若い紳士のための予備学校」へ通いはじめました。その学校まで二マイルあり、モリスは自分の子馬に乗って通学しました。

そのころまでに、モリスの父親は、シティーにあってはその名を知らぬ人がいないほどの著名人になっており、一八四三年に彼は、紋章院から紋章が授与されました。その紋章は、「地色は青で、縁にぎざぎざの切込みが入った銀色の馬の頭部とそれを囲む三つの馬蹄」で構成されていました。そして翌年の一八四四年に、銅の鉱山を掘削するためにひとつの会社が設立されると、モリスの父親は、一、〇二四株の内の二七二株を所有しました。採掘がはじまりました。すると、すぐにもその鉱脈に豊富な銅が含まれていることがわかり、採掘量が増え、株価も高騰しました。半年のあいだに、当初の一株一ポンドだったものが、一株八〇〇ポンドへと跳ね上がり、一時期父親は、二〇万ポンド以上もの果実を手にしたのでした。しかし、その父は、一八四七年の秋に亡くなりました。

亡くなる少し前に父親は、息子のためにモールバラ・カレッジの推薦枠を購入していました。一八四八年の二月、まもなく一四歳の誕生日を迎えようとしていたモリスは、この学校に入学します。この学校は、一八四三年に創設されたばかりの新興の学校で、スウィンドンから一二マイルの場所にあり、鉄道網の整備のおかげでイングランドのどこからでも容易に行ける利便性の高さを売り物にしていました。モリスが門をくぐったとき、イングランドの各地から集められた百名以上もの少年たちが、一緒に入学しました。生徒たちには、ほかのパブリック・スクールに比べて、より多くの自由が認められていました。制度化された運動競技のようなものはなく、クリケットとフットボールだけが、少ない生徒たちによって行なわれていました。定められた制服もありませんでしたし、監督生(上級学年の風紀委員)もいませんでした。第五学年以下のすべての生徒が、ひとつの大きな教室で学んでいました。

当時の学友の記憶するところによると、モリスは、ずんぐりした体格で、強健そうに見え、顔の色つやもよく、髪の毛は黒い縮れ毛で、気立てのよい親切な少年でしたが、しかし、気性は幾分激しかったようです。その後の人生にあって、しばしば癇癪玉を爆発させることで、モリスは、仲間内にあって有名になります。また、別の学友の観察に従うと、モリスは、学校の遊びにはほとんど、あるいは全く加わることがなく、鳥の卵を熱心に集めていました。彼の指先は休むことを知らず、いつも何かを手でいじっており、当時においてさえも、これが瞠目すべき点となっていました。こうした多動性が、続くモリスの人生の多産性につながったことは、容易に想像がつくところではないでしょうか。さらに加えれば、同学年生としてモリスとともに入学した人物は、次のようなことを記憶していました。散歩しているときのモリスは、次から次へと際限なく物語が生まれ、口をついて出ていました。それらは、「騎士と妖精に関する」描写で、とりとめもないものでした。

モリスは、モールバラでの生活について、前出の一八八三年九月五日(あるいは一五日)のショイへの手紙で、こう告白しています。

 私は、モールバラ・カレッジへ入学しました。当時その学校は、まだ新しく、とても大雑把な学校でした。私が受けた学校教育に限っていえば、私はそこでほとんど何も学ばなかったといっても、決して言い過ぎにはならないものと思われます。といいますのも、実際のところ、ほとんど何も教えてもらわなかったからです。しかし、学校のあった場所は、大変美しい地域にあり、その地域のあっちこっちに、有史以前の遺跡がたくさんありました。私は、それらの遺跡だけではなく、それ以外にも、歴史が刻み込まれたあらゆるものに目を向け、熱心に勉強しました。こうしておそらく、多くのことを学びました。とりわけその学校には、よい図書館がありましたので、ときどきそこへ通うこともありました。ここで書いておきたいのは、それ以来ずっといまに至るまで、自分が大変本好きの人間であったことを思い出すことがあるということです。すでに私は、七歳になるときまでに、良書、悪書、並の書物を問わず、実に大量の本を読んでいたのでした。

モリスがモールバラ・カレッジで過ごしていた一八四八年の秋に、モリス一家は、〈ウッドフォード・ホール〉から〈ウォター・ハウス〉へ引っ越すことになりました。というのも、父親の死去以降、〈ウッドフォード・ホール〉は、あまりにも広すぎ、家族にとって管理しにくいものになっていたからです。〈ウォター・ハウス〉は、ウッドフォードからトッテナムに続く道路沿いにあり、最初の一家の住まいである、クレイ・ヒルの〈エルム・ハウス〉からは半マイルほどしか離れていませんでした。この〈ウォター・ハウス〉は、規模的には〈ウッドフォード・ホール〉を幾分縮小した感じのもので、重厚な黄色の煉瓦づくりによるジョージ王朝様式の方形の建物でした。幸いなことにこの建物は現存し、いまウィリアム・モリス・ギャラリーとして使用されています。

このときモリスは、モールバラから上の姉のエマに宛てて、その家の詳細を尋ねる手紙を書いています。「全聖人祭」(一八四八年一一月一日)の日付をもつこの手紙が、現存するモリスが書いた最も古い書簡になりますが、次の言葉でもって書き出されています。

 今朝、あなたからのお手紙を受け取りました。新しい家をとても気に入ったと聞き、うれしく思います。しかしながら、家の様子の記述は十分ではなく、満足がゆくものではありませんでした。

そして、その手紙には、「休暇まであと七週間となりました。今度そちらへ行きます!」という言葉も含まれていました。モリスは、クリスマス休暇を、この新しい家で過ごします。

ショイに宛てた手紙のなかでモリスが述べているように、モールバラの学校図書館はとても充実しており、考古学と教会建築に関する蔵書が豊富で、モリスは、この図書館を好んで利用するとともに、思うままに、いまに残る遺跡や教会を探索しました。一八四九年四月一三日付のエマへの手紙のなかで、モリスは、そうした散策の様子を詳しく書き記しています。断片的に、以下に引用します。

月曜日に私は、シルバリー・ヒルへ行きました。以前にお話ししたかと思いますが、ここは、ブリトン人によってくつられた人工の丘です。はじめてではありませんでしたが、エイバリーと呼ばれる場所に私は行きました。そこには、ドルイド教の環状列石とローマ人の塹壕があります。もともとそのふたつが、その町を取り巻いていました……エイバリーで私はまた、とても古い教会を見ました。その尖塔は本当にかなりのものでした……

こうしてモリスは、単に書物からの知識に止まらず、野外にあっても、同じく多くのことを吸収してゆきました。しかし、その手紙からおよそ一年後、ひとつの悲劇がモリスを襲います。それは、エマの結婚によってもたらされました。モリスにとってエマは、最愛の、お気に入りの姉(女性)だったのです。もはや自分の手の届かない存在になってしまいました。その衝撃がどのようなものであったのかについては、それを語るにふさわしい正確な資料が残されていません。しかしこれが、その後のモリスの結婚の失敗の遠因になったことを示唆する伝記作家もいます。

モリスのモールバラ・カレッジでの生活は、一八五一年のクリスマスまでしか続きませんでした。といいますのも、創設された一八四三年以来その学校の校長を務めていたマシュー・ウィルキンスン師の管理能力に問題があり、年ごとに混乱が増大してゆき、ついに一八五一年の一一月に、組織化された暴動が勃発したからです。伝統もなく、管理体制も資産も脆弱な、新設校にみられる混乱でした。モリスにとっては、エマの結婚に続く、この時期のもうひとつの悲劇だったかもしれません。こうしてモリスは、モールバラでの寄宿舎生活を終えて、〈ウォター・ハウス〉の自宅へ帰り、個人教師の指導のもとに大学入試に備えることになりました。

〈ウォター・ハウス(水の家)〉の裏手には、広々とした芝生があり、さらにそれを越えたところに掘割があって、この屋敷の名前もそこから来ています。この家の男の子どもたちは、そこで魚を釣ったり、沐浴をしたり、夏には泳いだり、冬にはスケートをしたりして楽しみました。家に入ると、大理石で敷き詰められた玄関ホールがあり、そこからの階段を上がると二階へと導かれます。モリスは、窓際にある腰掛けのひとつに座って読書をするのが、習慣になっていました。この習慣は、この期間中だけではなく、オクスフォード大学に入学したあとも続きました。

モールバラの生徒にとって、オクスフォード大学へ進学することが、そのなかでも、エクセター・カレッジへ入ることが、当時、当然のこととして考えられていました。といいますのも、西部地区間の学校と大学にあっては、強いつながりがあったからです。実際、モールバラの数人の教師たちも、エクセターの出身者でした。

モリスの個人教師として、F・B・ガイ師が選ばれました。当時彼は、ウォルサムストウにあるフォレスト学校の副校長をしており、絵画や建築について並々ならぬ知識を兼ね備えていました。その後、その学校の校長職に就きます。一方宗教的には、典型的な高教会派の人間で、セント・オールバンズの教会堂参事会員を、その後務めることになります。ガイ師の自宅には、数人の個人生徒がいました。モリスは、一年近く彼のもとで過ごし、古典が実によくできる生徒になってゆきます。そしてまた、このときのガイ師から受けた影響により、モリスの高教会派への関心がさらに強化された可能性もあります。

当時ガイ師宅で一緒に勉強していたひとりの友人は、モリスについて、自然への強い愛情や強靭な運動能力にかかわる出来事について思い出しています。彼はまた、〈ウォター・ハウス〉へもよく遊びに行きました。そこで、ハクチョウを追いかけたり、モリスの自作の網で掘割の底を引いては淡水魚を捕まえたりしました。「エッピングの森」で散歩や乗馬をすることは、このふたりにとって、ほとんど日常茶飯事になっており、ほかの生徒たちがロンドンへ遊びに出かけるときも、独りだけモリスは、それに加わることはありませんでした。

モリスは、すでにこの時期から、国家的行事に背を向ける傾向がありました。たとえば、『ウィリアム・モリス――彼の人生、仕事、友人たち』(訳書題は『ウィリアム・モリス伝』)の著者のフィリップ・ヘンダースンによれば、一八五一年にハイド・パークで開かれた大博覧会(正式名称は、万国産業製品大博覧会)に一家して出かけたおりには、座り込んでなかに入るのを嫌がったように、伝えられているとのことです。さらに翌年の一八五二年のウェリントン公爵の葬儀の日に際しては、多くの国民が喪に服するなか、モリスは、独り馬に乗ってウォルサム・アビーへ行き、そこで過ごしているのですが、エドワード・バーン=ジョウンズ夫妻の娘婿でモリスの伝記を最初に書くことになるジョン・マッケイルは、この行ないを、のちのモリスの社会主義的感覚につながる行為として指摘しています。

また一方で、この時期までに、生涯にわたって見受けられることになるひとつの癖が、モリスに芽生えていました。それは、座っている椅子の周りに両足をからませ、後ろに倒してゆくも、構造的に無理が生じ、そこで突然、まっすぐに足を伸ばすという癖でした。

一八五二年の六月のはじめ、モリスはオクスフォードへ行き、そこで、エクセター・カレッジの入学試験を受け、合格します。その後の夏の休暇のあとに、寄宿舎に入ることが考えられていましたが、しかし、そのときカレッジ(学寮)は満杯の状態にあり、モリスの入学は、一八五三年の春学期まで延期されなければなりませんでした。そこでモリスは、ガイ師のもとにもどり、六箇月以上ものあいだ彼のもとで勉強をし、長い休み期間には、一緒にデボンシャーのアルフィントンへの旅にも出かけました。その後、ウォルサムストウへ帰り、その年の残りの時間を自宅で過ごしました。

ところで、エクセター・カレッジの講堂で入学試験を受けたときのことです。モリスの隣りにひとりの受験生が座っていました。その男の子は、バーミンガムにあるキング・エドワーズ・グラマー・スクールの出身者で、モリスと同じく、聖職者になる目的をもってここに来ていたのでした。名を、エドワード・バーン=ジョウンズといいました。かくして、運命的ともいえる、モリスとバーン=ジョウンズの生涯にわたる親密な交友関係の幕が、ここに開いたのでした。

二.ジェイン・バーデン(ジェイニー)の誕生と背景

これまでの多くの伝記作家がそうしてきたように、私も、ウィリアム・モリスの生い立ちを描写するにあたっては、モリスの最初の伝記作家であるJ・W・マッケイルの作品である『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年刊)を参照しました。しかし、これから書こうとする、将来モリスの妻となるジェイン・バーデンの詳細ついては、これまでほとんど語られることがなく、やっと最近になって発掘され、隠されていたその人間像の一端が明らかになりました。それは、『ジェイン・モリスとメイ・モリス』(一九八六年刊)の著者である女性伝記作家のジャン・マーシュの手によるものでした。その後、日本語に翻訳され『ウィリアム・モリスの妻と娘』として一九九三年に公刊されます。そこで私は、このジェイン・バーデンの生い立ちを述べるにあたり、その多くを、ジャン・マーシュのこの本の記述内容に即して、描写したいと思います。

本稿を構成するもう一方の主人公が、ジェイン・バーデン、のちのウィリアム・モリス夫人です。ふたりの出自には、大きな階級的な格差があり、ジェインの家族は、どちらかといえば、社会の底辺の階級に属していました。そういうわけで、もしジェインがウィリアム・モリスと結婚していなければ、誰もジェインについての物語を書こうとはしなかったものと思われます。そして実際に、ジェインの生い立ちに関する記録や資料は、間接的なごく少数なもの以外は、何も残されていないのです。

ジェイン・バーデンは、ロバート・バーデンを父とし、アン・バーデンを母として、一八三九年一〇月一九日に、オクスフォードにあるホリウェル通りの外れのセント・ヘレンズ・パセッジと呼ばれる裏通りの狭くて小さな家で生まれました。ジェインは、バーデン家の第三子です。長女として一八三五年生まれのメアリー・アン・バーデンが、長男として一八三七年生まれのウィリアム・バーデンが、すでに誕生していました。その後、この家の最後の子どもとなる、ジェインにとっては妹のエリザベスが、一八四二年に生まれます。この女の子は、いつもはベッシーと呼ばれていました。

ジェインが生まれると、母親は、翌月の一一月に出生届を出し、署名の代わりに十字の記号を書き込みました。この行為は、決して異例のことではありません。といいますのも、この時代にあっては、オクスフォードシャーに住む人の三分の一以上が非識字者であったと推定されているからです。こうしてジェインは、名前、生年月日、続柄等を永久に保存するためにこの時期に新たにできた戸籍制度のもとに、家族のなかではじめて、出生が届けられ、公式の証明書が発行されました。

母親のアンの旧姓は、メイジーといいました。その家系は、代々続く農場労働者でした。農場で働く労働者は、その他の階級の人びとを支える大事な仕事をしながらも、決して尊敬されることはなく、それどころか、南部の諸州では、ひとまとめに「田吾作(ホッジ)」という蔑称でもって呼ばれていました。彼らは、来る日も来る日もつらい仕事に明け暮れ、賃金は低く、広い世界を知るどころか読み書きもできず、日常的に周囲から無視されていました。アン・メイジーは、一八〇五年に、エルヴィンスコットの小さな村で生まれました。この村は、静かで活気がなく、どこかへと通じる道もなく、田舎にあってひっそりとその姿を隠しているような村々のひとつでした。

アンが生まれる少し前の話ですが、一七九三年にエルヴィンスコットの村で囲い込みが行なわれました。作男が自己の権利を失い、土地なき労働者が生み出されたのも、このときのことです。一般的にいって、農場労働者は、農場主や雇用主によって抑圧され、怯えていました。もちろん、自分たちの労働条件に対して抗議の声を上げることも、そう容易なことではありませんでした。しかし、不満の根は深く、しばしば暴動へと発展しました。そのなかの最大のものが、一八三〇年にケント州ではじまり、翌年にかけてロンドンを取り巻く約二〇州に拡大していった「スウィング」暴動でした。農場主に宛てた脅迫状の署名に、空想上の指導者であるキャプテン・スウィングの名が用いられたことから、この名称で呼ばれています。重税、低賃金、貧困などが、暴動を促した主要な原因でした。エルヴィンスコットの村は、直接この暴動にかかわっていませんが、それでも、この動きの知らせを聞いて、村人のあいだに何らかの衝撃が走ったであろうことは、想像に難くありません。

そのときアンは、二五歳になっていましたので、すでに、召使としてオクスフォードで働いていたものと思われます。たとえ、下女や雑役婦のような卑しまれる仕事であろうとも、少女たちのあいだでは、農場の仕事に比べれば、はるかに好まれていました。一方、雇い主は、たとえ、田舎出の少女には何がしかの野暮ったさが残っているとしても、決して怠けず、従順であるところを買って、台所女中として歓迎していました。

一八三三年、二八歳の誕生日を迎えるこの年に、アン・メイジーは、ロバート・バーデンと結婚します。一八〇七年生まれのロバートは、アンより二歳年下で、同じオクスフォードで、馬丁として働いていました。

バーデン家は、スターンタン・ハーカットに住んでいました。この村は、アンが生まれたエルヴィンスコットより少し大きな村で、このふたつの村は、直線にしてそう遠く離れていない位置関係にありました。この村に住む者のほとんどは農業従事者でしたが、なかには木挽や鍛冶などの専門職に就いている者もいました。ロバート・バーデンの兄のジェイムズは、村を出て、マンダリン・カレッジで馬丁になっていました。おそらくロバートも、兄に倣って、少年のころにオクスフォードに出て、馬屋番の仕事を見つけたものと思われます。

ロバート・バーデンは、結婚当時、ホリウェル通りにある「サイモンズ馬屋」で働いていました。そこは、紳士の乗馬用に馬を預かったり、貸したりする所でした。カレッジの馬丁ほどには保証はありませんでしたが、それでも収入は、それなりに堅実だったようです。このころの馬丁の年収は、おおよそ一五ポンドから三〇ポンド、馬屋番の少年の場合は、六ポンドから一二ポンドだったという記録が残っています。もっとも、周辺の村々から労働力が定期的に供給されていたオクスフォードのような町にあっては、さらに賃金は低く抑えられていたものと考えられます。

結婚後、ロバートとアンのバーデン夫妻は、ホリウェル通りの外れのセント・ヘレンズ・パセッジと呼ばれる裏通りにある粗末な長屋に住みました。当時の労働者たちは、誰しもがこうした劣悪な住環境のもとで生活をしていました。ひとつの部屋に一家族で住むことができれば、幸せな方でした。セント・ヘレンズ・パセッジには、主要な汚物溜があり、腐った蓋を開けて、バケツの汚物をそのなかに入れるたびに、悪臭が漂っていましたが、しかしそれさえも、住民たちにとって、大きな障害とはなっていませんでした。それでも困窮は避けがたく、同じ階級の他の家族同様に、バーデン家も、借金で何とか生活の急場を凌ぐ状態でした。おそらく妻のアンも、当時の慣習に従って、繕い物や洗濯の仕事をして、家計を助けていたものと思われます。その一方で、家庭内暴力も、ある程度日常的に行なわれていた可能性があります。といいますのも、隣りの夫人に暴力を振るったとして、一八三七年にロバートが告訴されたという事例が残されているからです。貧困と暴力、必ずしもジェインの幼少期の家庭環境は平穏なものではなかったようです。しかし、成人後のジェインは、自分の子ども時代が幸せなものでなかったことをほのめかしてはいますが、それ以上のことは何も語っていません。彼女は、出自や素性について自分から打ち明けることも、また人から質問されることも好みませんでした。そのようなわけで、彼女の幼年期や少女期を正確に述べた記録は、ほとんど何も、いまへと伝えられていないのです。

おそらくジェインは、貧しい子どもたちのためのホリウェル教区学校に通い、そこで、簡単な読み書きや計算の仕方を学び、あわせて、裁縫や刺繍についての初歩的な技術を身につけたものと想像されます。当時の一般的な教区学校では、とりわけ女の子たちには、将来有能な召使になることを見越して、裁縫やアイロンかけをはじめとして、部屋の清掃(絨毯を叩いてほこりを取り、暖炉を磨いて清掃し、薪を運んで火を焚く仕事)にかかわるような科目が教えられていました。学校だけではなく、家庭にあっても、母親のアンが、娘たちに刺繍を教えていたものと思われます。といいますのも、彼女の孫娘の所持品に、基礎縫いの刺繍が二点残されており、ひとつには「メアリー・アン・バーデン 一八四五年」、もうひとつには「エリザベス・バーデン 一八五〇年」という署名が入っているからです。このことから判断しますと、ジェインのものは残されていませんが、ジェインもまた、ほかの姉妹と同じように、母親から刺繍を習っていたにちがいありません。裁縫の技術は、将来の仕事のためだけではなく、現実生活にとっても必須のものでした。当時はまだ、既製服のようなものはなく、家のなかで服や下着をつくることが一般的だったのです。

長女のメアリー・アン・バーデンは、奉公に出る一四歳のときの一八四九年に、肺病で亡くなります。この病気は、一九世紀英国の労働者階級にあっては、一般なものでありました。劣悪な住環境と不足する栄養が、原因となっていました。貧しい労働者の家庭では、病気は出費と収入減を意味し、しばしば彼らは、その結果がどうなるかを知りながらも、病気を無視しました。ジェインは、姉の死をどう受け止めたのでしょうか。それはわかりませんが、病気に対する恐怖心のようなものは、確かにこのとき植え付けられたものと思われます。成人後にみられる、長椅子に横たわる物静かな女性像が、そのことをある程度裏書きします。

長男のウィリアム・バーデンは、一八五一年、一四歳になったとき、オクスフォード大学の使い走りの仕事に就きます。それは、伝言や手紙を運んだり、それらの返事を町中から集めては配達したりする仕事でした。その後彼は、走り使いから用務員へと昇格し、部屋のなかにいながら「若い紳士」である学生たちの世話をする、一種の男性召使の任務が与えられます。男性召使たちの多くは、出世栄達が保証された「若い紳士」たちを尊敬していましたし、同時に、学年末に彼らから支給される祝儀を楽しみにしていました。

ジェインも、一四歳になる一八五三年ころには、奉公に出て、働きはじめていたものと思います。しかし、具体的にどのような職に就いていたのかは、不明です。あえて関連する資料を挙げるとすれば、一八七九年七月二五日にジェインに宛てて出されたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの手紙になるのではないでしょうか。新しい召使を雇うことでロセッティが忙しくしていたときに書かれたもので、そのなかに、次のような、召使にかかわる記述が残されているからです。

彼女自身一一歳のとき奉公に出たのであるが、一三歳になるまではよく家で寝ていた。その年になってからは自分の食扶持は全部自分で稼ぐようになっていた。とても頭がよくて有能で物覚えがいい。彼女は九月に一七歳になる。私がはじめて会ったときの威厳に満ちたあなたより、この小娘がひとつ若いだけだとは信じがたいことである。

この手紙は、ジェインが召使だったことを示唆しています。おそらくジェインも「とても頭がよくて有能で物覚えがいい」召使だったにちがいありません。すでにこのときまでに、雇い主の日常生活にいかに親密にかかわろうとも、主人の命令には黙って耐えて聞き、それに従うという資質が、ジェインに形成されていた可能性があります。ここに、生涯にわたって寡黙であり続けたジェインの本性が隠されているようにも思われます。

他方、ロセッティのこの手紙には、見逃すことができない、もうひとつの重要な指摘が現われています。それは、はじめに会ったときのジェインが「威厳に満ちた」存在だったということに言及している点です。

ジェインがそろそろ一八歳になろうとする、一九五七年の九月のある日のことでした。このときジェインと妹のベッシーのふたりは、オクスフォードにできた仮設の劇場の、おそらく高い椅子席ではなく、安い天井桟敷に座って、劇を見ていました。これは、大学の休みを利用した巡回劇団による公演で、具体的な演目を特定するのは難しいのですが、シェイクスピアの『ハムレット』やリチャード・ブリンズリ・シェリダンの『悪口学校』、そして、ニコラス・ロウの『ジェイン・ショーア』などが含まれ、興業の終わりころになると、客足を引き留めるために、大衆向けのミュージカル・コメディも上演されていたようです。ジェインとベッシーが見ていたのは、おそらく興行終盤のこうしたコメディの類だったのではないかと想像されます。

この当時の観劇は、下層階級の数少ない娯楽のひとつでしたが、中流階級の人たちの目には、粗野で下品な行為と映っていました。というのも、そのころの演劇は猥褻さと結び付き、女優は売春婦を連想させるものであったからです。したがってこの観劇は、ジェインが教養を備えた女性などではなく、見せ物好きで、それを不作法とする世評さえも気にしない、下層の女であったことを物語ります。

ふたりの少女は、舞台よりも観客席の方に熱心に目をやる、階下に座るふたりの紳士に気づいたかもしれません。ひとりは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティで、もうひとりが、エドワード・バーン=ジョウンズ。ふたりとも画家で、自分たちの絵のモデルを探しているところでした。このときロセッティの目に留まったのが、「威厳に満ちた」ジェインその人だったのです。彼女は、そののちにウィリアム・モリスと結婚します。しかしながらジェインは、結婚後もロセッティのモデルを務め、世の注目を浴びるようになるとともに、あろうことか、ふたりの愛もさらに深まってゆきます。こうした彼女の生涯を形づくる起点が、この演劇鑑賞でした。貧しく生まれ、貧しく死んでゆく、また、内陸部の貧しい人にあっては、一生海さえも見る機会がない、そうした時代にあって、それとは全く異なる別世界が、幸か不幸か、ジェインの目の前に現われ出ようとしていたのでした。