中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第四部 日々好々万物流転(随筆集)

第五話 私の南阿蘇暮らし――生活習慣の改善と執筆活動

はじめに

いま聞いていただいたのは、私たちの母校の校歌をピアノソロ(変ト長調)で演奏したものです。少し珍しいのではないかと思い、この講演の導入曲として使わせていただきました。

改めまして、昭和四二年卒業の中山修一でございます。本日は、みなさまのご期待に沿える内容になるかどうか、不安ではありますが、どうかよろしくお願いいたします。

それではさっそくですが、これより、「私の南阿蘇暮らし――生活習慣の改善と執筆活動」というテーマでお話をさせていただきます。私が神戸大学を定年で退職したのは二〇一三(平成二五)年の三月のことでした。いまから五年半前のことです。今日のお話は、この五年半の私の南阿蘇での暮らしについての報告ということになります。具体的には、スクリーンの目次にありますように、最初に「なぜ南阿蘇に恋をしたのかな」、次に「生活習慣の改善のなかでの心筋梗塞」、そして最後に「夢追い人の執筆活動」の順で、進めさせていただきたいと思います。

一.なぜ南阿蘇に恋をしたのかな

私が定年後の暮らしの場として南阿蘇の高森を選んだのには、幾つかの理由がありました。まずひとつには、高校時代に南阿蘇に魅了されたことです。二年生から三年生になる春休みに、お別れをかねて一〇人近くの友人と、はじめて高森の鍋の平に日帰りで行きました。そのときに見た根子岳の雄姿が私の心を強くとらえることになりました。その理由を振り返って考えてみますと、熊本市内からいつも見る山は、金峰山も、立田山も、阿蘇山も、みな、頂きの一部にしかすぎませんでした。しかし、このとき見た根子岳は、裾野のすべてまでが視野に入ってきました。山というものの全体の姿を見たのは、これがはじめてで、この美しく堂々とした全体像が、私が南阿蘇に魅了された大きな理由になっています。このとき、いつかはこの山麓で生活をしてみたいと強く感じました。

次に山暮らしを意識したのは、大学受験に失敗して壷渓塾に通った浪人生活のときでした。もう五〇年も前の話になります。いまもそうかもしれませんが、当時の壷渓塾は、禅の教えを教育方針に取り入れている予備校でした。記憶が間違っていなければ、毎週月曜日の一限目がはじまる前に、塾長の講話があり、そのあと、座禅を行なうことになっていました。イスに座ったまま、両手をへその前で組み、雑念や妄想を体内から払いのけ、無の境地に入るように指導を受けます。禅寺や道場などでの本格的な修行ではありませんが、それでも、もはや高校生でもなく、かといって、いまだ大学生になっていない、落ち着き場をもたない浪人生にとりましては、ひとつの精神修養の場となり、微々たるものではありますが、私なりにこのとき、無の心を求める体験ができたと思っています。そのときは、何か書生にでもなった感じで、ひたすら勉学する充足感のようなものを覚えました。

一箇月ほど前のことです。雑誌を読んでいたら、ある禅宗のご住職のエッセイが目に留まりました。それには、平安時代の僧侶の西行や歌人の鴨長明がそうであったように、古来文人墨客は、山に隠棲することを理想の生活としていたと書かれてありました。そのとき「我が意を得たり」とばかりに、ぽんと膝を叩きました。いまの私の山ごもりの生活も、ひとえに、こうした若き日の禅の経験が根底にあるからではないかと思っています。

同じく壷渓塾では、しばしば昼休みなどの空き時間になると、教室のスピーカーから、旧制高等学校の寮歌が流れていました。だいたい北から南へ、つまり、北海道帝国大学の恵迪寮の寮歌である「都ぞ弥生」からはじまり、いまの鹿児島大学の前身である第七高等学校造士館の寮歌「北辰斜めにさすところ」へと、順番に曲が続いていたように記憶しています。どの寮歌の歌詞も、総じて、移り行く四季の花鳥風月を愛で、世俗を離れて学問にいそしむことを奨励し、さらには、義を重んじ寮生同士の友愛の大切さを説く内容になっていました。座禅を行なうことで無の境地を少しずつ体験していた私のような若造には、この寮歌の歌詞内容は、乾いた心にしみわたる、清き水滴のように感じられました。とくに心をひいたのは、一高寮歌の「嗚呼玉杯に花うけて」の歌詞のなかにある「栄華の巷低く見て」という一語でした。このとき私は、金銭に明け暮れる栄華の巷ではなく、真実を追い求める学問の世界にあって、今後生きていけたら、と強く願うようになりました。

また五高寮歌の「武夫原頭に草萌えて」は、私の幼いときの記憶を覚醒させるに十分なものでした。そのときまでに、五高につながる記憶を、私は幾つかもっていました。小さいころ親はよく、かつての五高生のバンカラぶりを話題にしていましたし、熊大の運動会を見にいったような記憶もありました。そのときの運動場が「武夫原頭」だったのかもしれません。また、小学校の一年か二年生のとき、絵画の全国大会に出品する作品を描くために、選ばれて、熊大の近辺に先生に連れていってもらったことがありました。私は、五高を象徴する赤門を写生しました。そのときの作品が、「天地人」の三賞のうち、「地」か「人」の賞を受け、私なりの五高との関係が一層深まるような経験をしたことがありました。

その一方で、当時「原頭」という用語は、孤独な浪人生の私には、特別の響きがありました。寒風吹く原野に独りたたずむ青年の姿と重なったからではないかと思います。そして後年になって、母校の同窓会の名称である「江原会」の「江原」が、「大江原頭」の「大江」の「江」と「原頭」の「原」に由来する略語であることを知ったときには、壷渓塾で聞いた五高寮歌の「武夫原頭」と二重写しとなり、密かな感動を覚えたことを記憶しています。「大江原頭」こそが、私たちの校歌や第二応援歌に出てくる「託麻の原」だったのではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。

このようにこの壷渓塾で体験した寮歌の歌詞の世界が、その後の私に大きく影響し、デザイン史を専門とする研究者の道を選ばせたのではないかと考えています。いまなお、断片的ではありますが、幾つかの寮歌が耳に残っており、ときおり口ずさむことがあります。これらの寮歌に書かれている内容こそが、浪人生活のときもそうでしたが、いまもまた、山のなかでの私の研究生活を勇気づける応援歌となっているのです。

私だけではなく、今日お集りのみなさまのなかにも、旧制高等学校の寮歌にさまざまな思いをもっていらっしゃる方が多いのではないかと思いますので、ここで、YouTubeからダウンロードした五高の寮歌をご紹介したいと思います。もしほかの寮歌も聞きたい方がいらっしゃいましたら、遠慮なくリクエストしてください。すぐに用意いたします。

私が入学したのは、東京高等師範学校を前身校とする東京教育大学という大学で、当時、筑波移転を巡って学園紛争が激化していました。そのためほとんど授業らしい授業もなく、したがって、ほとんど勉強することもなく、ヨットの部活と家庭教師に明け暮れ、最後は、大学から放り出されるようにして四年が終わってしまいました。結局は、入学式も卒業式も経験することはありませんでした。指導教授は、人吉のご出身で、五高から東京帝大へと進まれた方でした。その後、少し大学も落ち着きを取り戻し、修士課程を修了すると、幸運なことに、神戸大学教育学部の助手に採用されました。それから三九年間、この大学でデザインの歴史を講じ、プロダクト・デザインの実技を教えました。ところが、知らず知らずに、体に無理が生じていたのでしょうか、六〇歳になる少し前のころから、職場での検診も、人間ドックも、検査結果がよろしくなく、ついにコレステロールや血糖、そして血圧を下げる薬の厄介になるようになりました。自分でもふがいなく、この歳で薬漬けになることに、大きないらだちを感じました。こうして、自分の体や健康に、真剣に向き合うことになったのでした。

二.生活習慣の改善のなかでの心筋梗塞

この間ほとんど病気らしい病気をすることもなく、少し過信していたのかもしれません。そこで、そのことを反省し、率直に医師の指示に耳を傾け、雑誌や本の記事にも積極的に目を向けるようになりました。

まず禁煙に取り組みました。いろんな方法を繰り返しながら、かなりの歳月を要し、やっと完全に止めることができるようになりました。その間、口がさびしいこともあり、食事の量も偏り、メタボの傾向はさらに進んでいました。そこで次の課題となったのが、減量でした。それ以降、大学の帰り道は歩くようにしましたし、時間があれば、朝夕、裏山に登りました。半年や一年では、ほとんど変化は表われませんでしたが、それを過ぎると、はっきりとした結果がついてくるようになりました。標準体重の範囲内にするためには、一〇キロやせなければなりませんでしたが、何とかそれに近づきつつあり、メタボ解消のゴールが見えてきたそのときのことです。現役最後の年、六四歳のときでした。何と前立腺がんが発覚し、全摘出手術を受けることになりました。手術は無事成功し、ほかの部位への転移もなかったのですが、悲しいかな、その後尿のトラブルに悩まされることになりました。こうして手術から半年後の二〇一三(平成二五)年の春、満身創痍の状態で、私は定年を迎えました。

生活習慣を変え、体質を抜本的に改善する――このことが、定年後の生活をはじめるにあたっての喫緊の課題となりました。そうしたなか、それまでの長いあいだ心のなかで眠っていた、高校時代に抱いた南阿蘇への熱い思いが、そしてさらには、壷渓塾での禅の教えと寮歌の世界とが、一気に鮮明に脳裏によみがえってきました。転地により、心身ともに生まれ変わり、一学徒として残された研究の道を歩むことを決意したのは、このときのことでした。いまから数えて二六年前の一九九二(平成四)年に、子どもを自然に親しませ、春、夏の休みを過ごすために、高森町の色見のはずれに小さな別荘を建てていましたので、住むところはすでにありました。こうして幾つかの理由が重なって、私の定年後の生活の場は、住み慣れた神戸から、高森の山荘へと移ることになったのでした。

一年目は、神戸と高森を行ったり来たりしながらのお試し体験にあてました。といいますのも、山荘生活は、これまで季節のいい春と夏しか知らず、一年を通しての生活、とりわけ、厳しい冬の生活を知らなかったからです。お試し山荘生活が終わると、二年目は、造園業者を入れて、少し庭の手入れをしました。それから、神戸からの荷物を入れ、日常生活ができるようにするために、少し増築をしました。最初の新築のときもそうでしたが、増築のときも、間取り等すべて自分でデザインしました。こうしてお気に入りの空間と庭ができたのですが、そのときくらいから、ご承知のように、中岳の火山活動が活発化して、日々火山灰が降るようになりました。閉め切っていても、部屋のなかにまで、灰が侵入してきます。新生活の意気込みが、見事にくじかれてしまい、日々、何ともいえない、むなしい気持ちに襲われました。収束したのは、二〇一五(平成二七)年の秋のころだったでしょうか。やっとここへ来て、夢に描いていた生活習慣の改善と執筆活動が開始されました。もう定年から二年半が立っていました。

まず考えたのは、現役時代の乱れていた日常生活を見直し、一日を規則正しく過ごすことでした。真夏の日の出の時間、そして真冬の日の入りの時間におおよそあわせるようにして、早朝三時に起き、軽く朝食をとり、それから書斎で五時間ほど執筆に励み、それが終わるとだいたい九時に車で家を出て、三〇分ほどウォーキングをして、そのあと温泉に入り、昼前に帰宅し、午後の三時間は主に家の片づけや庭の手入れをして、ちょうど三時になると夕食をつくりはじめ、六時に就寝、そして翌朝三時にまた起床――こうした規則正しい一日の時間割でもって、待ちに待った新生活がはじまりました。

次に、体重だけではなく、コレステロール、血糖、血圧などについても、科学的に根拠のあるいろいろな情報を集め、数値目標を定めたうえで、温泉、食事、ウォーキングを組み合わせた生活習慣改善のための最初のメニューを、とりあえずつくってみました。私が山暮らしをはじめるにあたってのモットーは、「あわてず、あせらず、あきらめず」でした。そこで、もしうまくいかなければ、別のメニューに移ることも視野に入れ、結果を急がず、十分時間をかけて、生物学的な個体としての自分の体に最も適合した改善方法を見出そうと、努力の日々が、こうしてスタートしました。

冬の寒さもうまく乗り切り、実践に入って数箇月が立ちました。もちろんまだ、これといった結果は出ていませんでした。ところがです、そうしたなか、みなさまもご経験のように、二〇一六(平成二八)年の四月、思いもかけない大きな地震がこの地を襲いました。そして、さらに不幸なことに、その一箇月後の五月、今度は、強い胸痛が私を襲いました。医者から告げられた病名は心筋梗塞でした。冠動脈の一箇所にステントを留置しました。一命はとりとめたものの、その後、後遺症とでもいうのでしょうか、体力が衰え、気力が失われ、退院して山荘に帰ってみると、二階に上がることができません。重いレジ袋をもつこともできません。そして、短いメールさえも書くことができない体になっていました。大げさにいえば、そのときの気持ちは、ただ「絶望」のひとことでした。もはや、体質改善もなく、執筆活動もない、あるのは、すべての力を失った体と喪失感だけでした。

そうした状況が数箇月続いたでしょうか、やはりこれではいけないと思い直し、そして、とりあえず、萎えてしまった心と体のリハビリという思いもあって、できる範囲で、少しでも発症以前の日々の生活へ復帰しようと気持ちを切り替えはじめました。「キリン午後の紅茶」のCM「あいたいって、あたためたいだ」に出会ったのは、ちょうどそのときのことでした。舞台は、南阿蘇村の見晴台駅、主演は、一六歳の高校生の上白石萌歌さん、テーマ曲は、CHARAさんの「やさしい気持ち」でした。これを最初に見たとき、本当に感動しました。このCM作品は、南阿蘇村の震災からの復興を祈願してつくられたものでしたが、私にとりましては、そのことと同時に、心筋梗塞からの病後回復とが重なり、そのためでしょうか、大きなパワーとインスピレイションが、私の全身を震撼させました。いまから二年前の二〇一六(平成二八)年の暮れの出来事でした。それではここで、上白石萌歌さんの「あいたいって、あたためたいだ」のCMと、それにあわせて作成されたCM-MAKINGをご覧いただきたいと思います。

その後も、上白石萌歌さんによる「キリン午後の紅茶」のCMのシリーズは続き、二〇一七(平成二九)年の夏には白川水源を舞台にした「おちつけ、恋心」が、そして、ちょうど一年前の二〇一七(平成二九)年の一一月には、同じく見晴台駅を舞台にした「あいたいって、あたためたいだ」の第二弾が撮影され、オンエアされました。

生活習慣の改善と執筆活動という私の退職後の二大プロジェクトは、上白石萌歌さんのCM作品に背中を押されるようにして、進行してゆきました。そのようなわけで、私は、一六歳の高校生のこの少女に救われたと思っていますし、とても感謝をしています。それ以降、生活習慣の改善の方は、この二年間で見事に軌道に乗り、幸いなことに、薬の服用効果もありますが、設定していた数値目標に、ほぼすべてのチェック項目が到達してゆきました。それまで、私が一貫して信じていたのは、自己に内在する治癒力と回復力とによる再生でした。いまもこの信念に変わりはありません。そこで、こうした良好な体調の現状を踏まえて、いま考えているのは、湯治、食事、運動の各療法に加えて、体操による体づくりです。今後これにより、筋肉や骨の形や位置を整え、それらが支えている内臓の各器官の機能を活性化させ、老化現象を少しでも遅らせ、起こりうる病気を予防したいと考えています。

三.夢追い人の執筆活動

大学に勤務していた現役時代の主な仕事は三つありました。ひとつは、自分の専門とする領域の研究をすること、次に、授業をはじめ、卒論、修論、博士論文の指導を含む、学生に対して教育をすること、そしてもうひとつが、教授会や各種委員会に参加して学部や大学の運営に携わること、この三点でした。つまり、研究、教育、運営の三本柱にかかわって三九年間を神戸大学で過ごしたことになります。そこで定年を迎えるときに考えました。これよりのちは、教育と運営からは完全に離れるとしても、研究だけは、何としてでも続けたいと。つまり、私の体内には、研究者として生涯現役でありたいという強い思いが、いまだに失われずに、持続していたのでした。そしてさらに、定年に際して、こうも考えました。三本の柱にかかわって三九年間を過ごしてきたのであれば、三九年の三分の一である一三年間が現役中の研究時間の総量であったということになり、これからさらに同じく一三年間、つまり自分が七七歳になるまで研究が続けられるとするならば、ちょうどいまが、研究の折り返し点になるのではないか、と考えました。こうして私は、研究という柱に限っていえば、定年を迎えたのではなく、道半ばの中間地点に立っているという自覚をもつようになりました。

私の専門分野は、近代英国のデザイン史です。隣接する美術史や建築史は、学問領域としてすでに確立していますが、このデザイン史という分野は、私が院生のころにイギリスにおいて生み出された、比較的新しい学問領域です。とりわけ私は、一九世紀のデザイナーで、詩人や政治活動家でもあったウィリアム・モリスという人物に興味をもって、この研究の世界に入ってゆきました。そして、さらにのちには、日本人ではじめてモリスの仕事と思想に関心を抱いて明治末年に英国に留学した富本憲吉と、そしてその妻で、日本の女性運動の先駆けとなった富本一枝について、研究の幅を広げてゆきました。富本憲吉は、いうまでもなく、日本の近代を代表する陶芸家であり、富本一枝は、平塚らいてうに憧れて青鞜の一員に加わった経歴の持ち主です。

定年後ただちに取りかかったのは、これまでの研究を時系列に並べ、本巻二巻、別巻二巻の全四巻によって構成される「中山修一著作集」をウェブサイトにアップロードすることでした。こうした手法により、自分なりに過去の研究を整理し、これからの研究目標を明確にしようとしたのでした。現在は、執筆が加速し、本巻八巻、別巻二巻の全一〇巻の構成へと進化しています。そのなかには、もちろん未完の巻も含まれています。それではここで、現在の「中山修一著作集」のウェブサイトへご案内させていただきます。

この著作集を構成している柱は、ひとつは、通史としての近代英国デザイン史研究で、いまひとつは、個別研究としてのウィリアム・モリス研究と富本憲吉・一枝研究です。しかし、南阿蘇での山暮らし以降、それとは別の相に属する研究にも、関心をもちはじめています。これは何かと申しますと、それまでの研究の過程で遭遇した熊本 びと にかかわる研究です。

今年に入って、地元の文化雑誌で、年に四回刊行される『KUMAMOTO』という雑誌の六月号に「汀女の句誌『風花』の終刊と初期編集者の富本一枝」を、続けて九月号に「中村汀女没後三〇年にあたって――汀女主宰誌『風花』創刊前後の人間群像」を寄稿しました。中村汀女さんは、ご存じのとおり、熊本が生んだ才能豊かな女流俳人で、富本一枝との親交も深く、この九月に没後三〇年を迎えました。それではここで、『熊本日日新聞』に掲載された『KUMAMOTO』六月号(第二三号)および九月号(第二四号)の広告をスクリーンに映し出してみたいと思います。

さらに私は、この『KUMAMOTO』の次の一二月号(第二五号)に、「石牟礼道子の『沖宮』の能衣裳を監修した志村ふくみの原風景」と題した一文を寄稿しており、もうすぐ、今月の半ばに刊行される予定です。いまからお見せするのは、その原稿の著者校正用のPDFファイルです。

みなさんご承知のように、石牟礼さんは、今年二月にお亡くなりになりました。「沖宮」は、石牟礼さんの最晩年の作品で、つい先だって、水前寺成趣園の能楽殿において上演されました。残念ながら追悼公演となってしまったわけですが、このときの天草四郎と幼子のあやがまとう能衣裳を監修したのが、若き日に富本憲吉夫妻に薫陶を受けた、いま九四歳になられる染織家の志村ふくみさんでした。

中村汀女さんや石牟礼道子さん以外にも、これまでの私の研究の周辺には、多くの熊本人がいます。たとえば、五高で教鞭をとった夏目漱石は、ウィリアム・モリスの作品に影響を受けて、自著の書籍装丁に強い関心をもちました。富本憲吉も、漱石を訪ねています。富本憲吉は、モリスのデザイナーとしての側面を扱った「ウイリアム、モリスの話」という評伝を書いていますが、漱石に続いて五高に赴任した英文学者の 厨川 くりやがわ 白村 はくそん は、その富本が書いた評伝に刺激を受けて、自らは「詩人としてのヰリアム・モリス」という論文を書いているのです。

また私は、戦後に「富本憲吉さんのこと」と題した評論文を書くことになる、 蔵原惟人 くらはらこれひと にも関心をもっています。惟人自身は東京の生まれですが、父親の蔵原 惟郭 これひろ は、阿蘇神社の家系に生まれた反骨の教育家で、衆議院議員も務めた清廉孤高の人として知られており、母親の終子は、北里柴三郎の妹です。蔵原惟人は、戦前にあっては、とりわけ日本のプロレタリア文化運動の理論面での中心人物としてその役割を担い、八年半の獄中生活も経験しています。先日、熊本県立図書館で、彼が書いた書物を手にしていましたら、そこに、「松前重義」の名前と住所が記載された寄贈印が押されていました。松前重義と蔵原惟人は、生没年がほぼ同じで、同じ時代を生きています。そのとき、熊本県ゆかりのこのふたりのあいだの思想的つながりに、はからずも触れたような感覚に陥り、驚いたことがありました。松前重義は、ご承知のとおり、旧制の熊本県立熊本中学校の出身で、かつて日本社会党の代議士を務めた人物でもあり、また、東海大学の創立者としても有名です。

蔵原が投獄されている時期の一九三六(昭和一一)年に、熊本県出身で、日本の女性史研究の偉大な先達である 高群逸枝 たかむれいつえ が、『大日本女性人名辞書』を上梓します。そのとき「高群逸枝著作後援会」が発足するのですが、その発起人に、富本一枝も加わっています。

このように、ウィリアム・モリス、富本憲吉、そして富本一枝を対象とする私の研究の周辺には、熊本人として、漱石や白村をはじめとして、蔵原惟人、高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子らがいます。この熊本の地でこれから執筆を続けるにあたって、こうした人たちの足跡を訪ねることも、残された私の研究のテーマの一部に加え、熊本人の精神のありかのようなものにかかわって、少しでも接近できたら、と考えています。

おわりに

いま私は山にこもって執筆に専念しています。その理由として、高校時代に感銘を受けた南阿蘇の雄姿、予備校時代に気づかされた旧制高等学校の寮歌の精神、そして、現役時代の生活習慣の乱れに由来する種々の病気からの復帰を挙げて、これまで説明をしてきました。しかし実は、もうひとつ大きな理由がありました。私が研究の対象としているウィリアム・モリスが活躍した一九世紀のイギリスを眺めてみますと、産業革命のひとつの反動として、中世精神の復興へ向けての動きがありました。そして一方では、喧騒の都会を離れての自然への回帰という動きもありました。モリス自身も、田舎に別荘をもち、素朴な田園暮らしを楽しんでいます。この伝統は今日へと引き継がれ、ロンドンのような大都会で精一杯仕事に励み、そののち、カントリーサイドの美しい自然のなかで残りの暮らしを楽しむことが、イギリス人にとってのひとつの理想の生き方として、いまや定着しているようです。よくイギリスの文化は、「産業」と「田園」とのふたつの翼によってバランスと取り合いながら飛び進む、一羽の鳥に、たとえられますが、一国の文化の形態だけではなく、一人ひとりのイギリス人の生き方のなかにも、そのことは反映されていると思います。私のいまの山暮らしも、一種の田園回帰の行動であり、私にしてみれば、少し大げさにいえば、イギリス精神のひとつのありようを実践しているような気持ちでいます。これこそが、ブリティッシュ・スタイルの生き方であると確信しているのです。その一方で、これこそが、私たちの熊本高等学校が伝統的に標榜している「士君子」という英国ジェントルマンの精神につながる道であるとも、考えています。私は、高森の山荘の玄関のわきに、小さな英国国旗を掲げていますが、それは、そうしたイギリスへの私なりの敬意の表われなのです。

思えば、遠く明治の時代に、夏目漱石も富本憲吉もイギリスに渡りました。遅れて私も、昭和の時代と、続く平成の時代に、二度イギリスに渡りました。最初は英国政府の助成金で、二度目は日本国の支援で行き、そこで、生まれたばかりのデザイン史という新しい学問を学びました。そのとき、死ぬまで英国で暮らしてみたいとも、すべて英国人になり切りたいとも、思ったことがありました。そうしなければ、本当のイギリスのデザインの歴史は書けないのではないかと、当時思い込んでいたからにほかなりません。しかしそれは、現実がとうてい許さず、実現するはずもなかったのですが、それでも、そのときの思いは生き残っており、それが、いまの山暮らしを支える、ある種の大きな力となっているような気がしています。つまり、私がいまこの南阿蘇の地にいるのは、明らかにひとつには、二度の英国暮らしから学んだ田園回帰の精神に由来し、いまひとつには、移ろう四季を愛で、俗世を離れて学問にいそしみ、清き心で友に接することを高らかと歌い上げた旧制高等学校の寮歌の精神に起因しているのです。

ときどき最近、自分でも不思議に感じることがあるのですが、どうやら私という生命体には、若き日の高校時代にそれとはなく培った「士君子」の精神と、壷渓塾でふと身に着けた書生魂とが、五〇年を経ていまなお、うまく融合しながら、しっかりと根を下ろしているようです。あるいは、五〇年という長い歳月を経たからこそ、やっといま土のなかから芽を出して、その姿を現わそうとしているといえるのかもしれません。これが、「教育」というものなのでしょうか。こういう「教育」によって自分の本質的な部分がつくられたのだなーと、その思いをたぐり寄せてみますと、必ずしも自分で計画をして、身をゆだねた道ではないだけに、偶然とか、出会いとか、風土とか、そのようなものに、言葉にできない懐かしさを感じる一方で、それとは別に、何か、周りの森羅万象から与えられた恵みの大きさのようなものに、昨今、強く意識が向かうようになりました。

定年後の山暮らしのなかでの私の執筆活動も、熊本県立図書館が震災の痛手から立ち直り、開館へとこぎつけた時期にあわせるかのように、ほぼ二年前にやっと再開することができ、生活習慣の改善へ向けての実践と同じく、いま、徐々にではありますが、定年当初に思い描いていたイメージに近づきつつあります。すでにご紹介いたしましたが、私の現在の「中山修一著作集」は、本巻八巻、別巻二巻の全一〇巻で構成されています。これを、来年の半ばころまでには、さらに一歩進めて改訂し、本巻一〇巻、別巻二巻の計一二巻に衣替えすることをいま計画しています。ここまで来ますと、残りの未着手の巻が、四巻になり、少し先が見通せるようになります。何とか、目標にしています七七歳までに、この残された四つの巻も書き上げ、全巻完結したいと考えています。しかし、この宿題を予定日までに提出することができるでしょうか。ただただ願うことは、それまでの勉学の日々にあって、気力と体力と能力が失われないことです。ときとして、果たして自分の老化は、今後どのようにして進行してゆくのだろうかとか、いつまで執筆することができるのだろうかとか、こうした答えのない愚かな質問を、無意識のうちに自分にしていることがあります。いつまでたっても修行が足りず、雑念や妄想から逃れられないようです。いずれにいたしましても、今日の「いま」を大切にしなければならない、と思い直して、かつて壷渓塾で体験した禅の気持ちに改めて立ち返り、日々自分を戒めています。

はい、少々愚痴っぽくなってしまいました。これをもちまして、私の本日の講演を終了させていただきたいと思いますが、実は今日一二月二日は、私の満七〇歳の誕生日でした。思いもかけず、ちょうどこの日に、これまでの自分の歩んできた道のりの一端を整理して、振り返ることができました。本日、こうした、よい機会を与えていただきました、幹事の村上建徳さんをはじめ、みなさまお一人おひとりに、お礼を申し上げます。そして、つたないお話にもかかわりませず、最後までご清聴いただきましたことに、心より感謝いたします。それではこれで、すべてを終わらせていただきます。ありがとうございました。

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図1 タイトル頁(当日のパワー・ポイント画像)。

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図2 目次(当日のパワー・ポイント画像)。

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図3 1.なぜ南阿蘇に恋をしたのかな(当日のパワー・ポイント画像)。

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図4 2.生活習慣の改善のなかでの心筋梗塞(当日のパワー・ポイント画像)。

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図5 3.夢追い人の執筆活動(当日のパワー・ポイント画像)。

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図6 参考画像(当日のパワー・ポイント画像)。


【初出:「私の南阿蘇暮らし――生活習慣の改善と執筆活動」2018年12月2日に南阿蘇久木野温泉「四季の森」において開催された阿蘇南部江原会の忘年会での講演。】