中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第四部 日々好々万物流転(随筆集)

第一一話 実家の終幕

一.見ると、実家の庭木に花が

先日の二月最後の月曜日のことです。いつものように、母を施設に訪ねたあと、片付けのために実家に寄ってみました。見ると、ウメ、カンザクラ、ボケ、ツバキなどの庭木に花が咲いていました。そこへちょうど一羽のメジロが飛んできて、カンザクラの枝に止まりました。山よりも市内は四度ほど気温が高く、もう春の季節を迎えています。少し小枝を切って、施設に逆戻りし、母に届けました。大喜びでした。

父が亡くなり、そして母がその数箇月後に施設に入りました。母の入居からそろそろ一年になろうとしています。その間、実家は無住の状態です。庭の手入れもなされていません。しかし、それにもかかわらず、庭木は花を咲かせます。鳥たちも遊びに来ます。春の到来は、確かに人の気持ちを和ませます。ありがたいと、しみじみ思いました。

(二〇二三年三月)

二.家庭から庭が消える

一〇年前に阿蘇山中のこの別荘に移住してくる前は、神戸市東灘区にある「岡本ハウス」という名称のマンションを中古で購入し、約一六年間、そこに住んでいました。このマンションができたのは一九七〇(昭和四五)年で、戦後日本の高度経済成長の終盤の時期にあたります。ちょうどそのころまでに、日本の大都市では、高層の団地やマンションが、雨後の竹の子のように、出現していました。

地方育ちの私は、小さいころ、よくこんなことを大人から聞かされていました。「家庭というものは家と庭から成り立っている。庭がない都会のマンションなどは、家庭とはいえない」。そしていま、私は、これまで両親が住んでいた実家の売却に入ろうとしています。実家は木造二階建てで、わずかながら庭もついています。私自身は、この家で生活したことはないのですが、今年も冬が終わり春になると、庭の木々が、一斉に花をつけ、鳥たちも集まってきました。ウメ、ボケ、サクラ、それに続いて、モクレン、ツバキ等々。しかし、売却によって、こうした庭木までもが解体されるのには忍びないものがあり、買い取って、別の新しい顧客の庭に移植をしてもらうことはできないか、そう思うようになりました。

園芸業者でつくる組合組織をネットで調べ、思い切って電話をしてみました。すると、次のような回答が返ってきました。「昔は、どんなに若い人であれ、家を建てるときには、必ず庭づくりもしたものです。そしてその後、定期的に私たちが、剪定のお手伝いもさせてもらっていました。しかし、いまや車社会になり、家以外の敷地は、庭ではなく、みなさん、数台分の駐車スペースとして活用されるようなりました。そのようなわけで、買い取っても、それを購入してくれる人がいないのです」。これを聞いて、この地方都市の変容ぶりを思い知らされました。いまや家庭は、「家と庭」で構成されるのではなく、「家と車」で構成さるようになってしまったのです。庭いじりの楽しみよりも、車のもつ利便性を、人は選択したのでした。一〇年前までマンション暮らしをしてきた私には、それを、よいとも、悪いとも、いう資格はありません。ただ、無言のなかに空虚さだけが残りました。

(二〇二三年三月)

三.形見の品や記念の品を贈与する

このように業者による庭木の買い取りは実現しませんでした。しかし、この時期に咲く花はどれも美しく、花とつぼみのついた小枝を伐採しては、何回かに分けて、近くの施設で暮らす母親の所に持って行ったり、ご近所や知り合いの方にもらっていただいたりしました。みなさん喜ばれ、私自身もうれしくなりました。花は人を和ませます。それだけではありません。花を介して、会話も花開きます。花は、人と人の気持ちをつなぐ、何か不思議な力をもっているようです。

そのころすでに、私は、売却を前にして、家のなかの品々の片づけに入りました。それを目にした近所の方がしばしば来てくれて、思い出の品を持ち帰られました。「あのとき、このソファーに座って、こんな話をしたのよね」「あのときは、確かこのカップでコーヒーを飲んだわね」などなどと、話が進み、私の知らない両親の思い出を次から次に聞く機会となりました。

父は多趣味の人で、俳句をつくり、写真をとり、加えて、絵画製作が日常生活の一部となっていました。絵の主題は、すべて阿蘇の風景です。私が、いま住んでいる阿蘇の別荘をつくったのは、ほぼ三〇年前のことでした。まだ神戸大学に勤務していたときで、夏休みや春休みに利用する以外は、両親が週末ごとに滞在し、庭いじりを楽しみ、とりわけ父は、近所の風景を写真に収め、それをもとに、熊本市内の実家のアトリエで油絵にしていました。

実家の片づけで一番悩んだのが、このたくさんある作品群の処分方法でした。しかし、周りのみなさんも、父が阿蘇の絵を描くことはよくご存じで、ご近所の方だけではなく、その人たちのご親戚の方々も足を運んでこられました。私の知り合いにも、話をすると、父の阿蘇の絵が欲しいといってくれる人が現われ、お譲りすることができました。私自身も、手もとに残しておきたい作品を、数回に分けて自分の車に乗せて、阿蘇の家に運び込みました。昔から飾っている作品を含めて、いまや総計十数点が各部屋の壁に掛けられています。さながら、父親の個展会場です。

こうして数箇月をかけて行なった実家の整理も一段落し、遺品整理士の資格をもつ業者に入ってもらい、対象となる用品について、買い取りをしてもらいました。残りは、家屋が解体されるときに、不用品として撤去されることになります。

(二〇二三年三月)

四.確定測量

現役で働いていた神戸での三九年間は、すべてマンション暮らしでしたので、一戸建てを購入し、そこに住み、その後、売却するといった経験はありませんでした。今回、両親が住んでいた実家を売却するにあたり、確定測量とういうものが必須の要件となっていることを、契約した不動産会社から知らされました。

そのようなわけで、私にとりまして、確定測量ははじめての体験でした。この業務は、隣接する敷地の境界を明確にし、売却後、もめることがないようにするための土地所有者間での確認作業のようです。すべて、不動産会社と提携している測量業者が取り仕切ります。

私の実家は、東と南は道路に面していますので、確定測量が必要になるのは、北側と西側のふたつのお屋敷に接した境界についてでした。まず、北側のお屋敷との境界の確定から進められてゆきました。確定測量をする業者が事前に連絡をしていて、息子さんに立ち会ってもらいました。ここは、道路に埋め込まれた杭からはじまる境界線が、ブロック塀のちょうど真ん中を走るように、ブロック塀が設置されていることがわかりました。一方の西側のお屋敷との境界線につきましては、娘さんが立ち会われました、ここの境界線は、ブロック塀の真ん中を通っているのではく、ブロック塀のお隣り寄りの側面に沿っていることが、杭の位置から判明しました。

確定に際しては、両者が確認したあかしとして、ふたりが計測用のホールを握った状態で境界線のはじまる位置に立った姿を写真にします。そのあと、双方が書類に署名と押印をします。数日後、不動産会社から連絡がありました。それによると、この測量会社から、確定測量図面と立会証明書が届いたとのことでした。

こうして、確定測量は終わりました。売買契約をしている買い主様が銀行に申し込まれている住宅ローンが、予定どおりに承認されれば、次に、いよいよ家屋の解体作業に入ることになります。

(二〇二三年三月)

五.家屋解体

買い主様の住宅ローンの審査が終わり、承認されたとの報告が、不動産会社からありました。そして、間を置かず、家屋解体にかかわる「請負契約書」「届出書」「委任状」が送られてきました。必要な箇所に記入と押印し、返送。こうして、不動産会社の関連業者による解体作業へ向けての書類が整いました。

次に、業者の担当者によって、工事のお知らせと協力のお願いが、近隣住民になされました。私も、工事開始の当日、近所へのあいさつ回りをしました。両親と長いおつきあいのある方ばかりで、快く受け入れてくれました。

いよいよ解体に入りました。私は、週に一度、現場を訪れ、進行状況を確認したり、ご近所の方に、騒音やほこりなどの様子についてお聞きしたりしました。ご迷惑をかけていることが伝わってきます。申しわけない気持ちになります。しかし、「お互いさまです」とか、「心配無用ですよ」とかの言葉をいただくと、少し気が楽になります。しばらく、解体作業をみながら、立ち話をします。みなさんどの方も、高齢化問題や空き家問題、そして後継者問題を話題に持ち出されます。いつかはこの問題に直面することを覚悟されているようですが、なかには、いい案を探しあぐねていらっしゃる方もいました。日本の至る所でいま起きている深刻な問題であることにちがいありません。

三週間を要して、解体は無事終了しました。母親は入院中で、現場を見ることはありませんでした。両親が半世紀前に建てた家です。最後の別れを告げたかったかもしれません。しかし、思い出が幾重にも重なり、平静ではいられなくなることも予想されます。いまは、これでよかったと思っています。あと数日で、母親の九六歳の誕生日が巡ってきます。

残金の清算がすべて終わりました。これをもって売買の完了です。私自身も、スムーズに売却が進んで安堵する気持ちと、両親が生活の場とした建物を失う寂しさと、加えて、一つひとつのさまざまな思いが交錯し、言葉にならない心情になってしまいました。終幕です。

(二〇二三年六月)