中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第三部 わが学究人生を顧みて

第七編 エリザベス女王の死去で蘇る英国における人的交流

はじめに

現地時間の二〇二二年九月八日、静養先のスコットランドのバルモラル城においてエリザベス女王が死去されると、そのニュースは世界を駆け巡り、反響がこだましました。

そうした状況のなか、私は、女王がパトロンを務められ、私自身会員(Fellow)である王立芸術協会の最高運営責任者(CEO)アンディ・ホールデインさんへ宛ててお悔やみのメールを書きました。さっそくスタッフから返信があり、そこには、丁寧なお礼の言葉が述べられていました。

それからしばらくして、私は、王立芸術協会のホームページを訪問しました。するとトップ画面に、アンディ・ホールデインさんの名前で、エリザベス女王の崩御に伴う声明文が掲載されていました。以下に、その一部を抜粋します。

 私たちのパトロンであるエリザベス女王陛下の訃報に接し、王立芸術協会は深い悲しみのなかにあります。

 女王の王立芸術協会とのかかわりは、一九四七年に会長に就任されたときにはじまります。次に一九五三年に戴冠式が挙行されると、そのとき女王は、私たちのパトロンになられました。王立芸術協会とこれほど長きにわたって関係をもたれた方は、ほかにいらっしゃいません。私たちは、王立芸術協会、ならびに国家および英連邦諸国への女王の献身に対しまして、恒久の感謝の気持ちをここに広く表わしたいと思います。

この一文を読み終わると、このとき、私が王立芸術協会の一員に加わるようになったきっかけから、その後の人的交流に至るまでの英国にかかわる懐かしい思い出が、まさしく走馬灯のごとくに、私の脳裏に蘇ったのでした。以下に書く文は、そのとき去来したとめどもない過去の一片一片をクロッキー風に書き留めたものです。

一.王立芸術協会について

王立芸術協会は、一七五四年に発足しました。いまから何と二六八年前のことになります。一般的な英語表記は、Royal Society of Arts ですが、略する場合はRSAの文字を用います。この団体の目的は、「王立芸術・製造・通商振興協会(Royal Society for the Encouragement of Arts, Manufactures and Commerce)」というその正式名称に十全に表わされています。もっとも「王立(Royal)」を冠するのは一九〇八年以降のことになります。

この団体にとって歴史に残る最初の特筆すべき仕事は、ロンドンのハイド・パークに特設された〈クリスタル・パレス(水晶宮)〉において一八五一年に大博覧会を開催したことでした。大博覧会の英語表記は、Great Exhibition です。しかし、これにも正式名称があって、それは、「万国産業製品大博覧会(Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations)」といいます。これが、現在の万博(万国博覧会)の一回目に相当します。

この大博覧会を積極的に推進したのが、当時王立芸術協会の会長を務めていたアルバート公でした。ヴィクトリア女王の夫君である彼は、「芸術と産業の結婚」の実現に情熱を傾け、この理念を共有する国家公務員のヘンリー・コウルの後ろ盾となってこの博覧会を成功に導くのでした。

一方コウルは、翌年の一八五二年に実用美術局の主任審議官の職に就き、それ以降、美術とデザインに関する中央行政は彼の手によって強力に推進されることになります。次の年、実用美術局は改組され、名称も科学・芸術局に変わり、一八三七年に設立された国立のデザイン師範学校にともにその源をもつ装飾製品博物館と中央美術訓練学校を監督下に置きます。さらに、大博覧会の収益金がサウス・ケンジントンの広大な土地の購入に当てられ、建物の建設が開始されると、完成する一八五七年までにすべての施設がこの地に集められ、この国の美術とデザインにかかわる行政、社会教育、および学校教育を統合した国家集権的な複合組織が誕生するのでした。博物館の名称は、その地名をとってサウス・ケンジントン博物館に変わります。このときコウルが、科学・芸術局の局長とサウス・ケンジントン博物館の初代館長に就任しました。その後、中央美術訓練学校を引き継ぐ国立美術訓練学校は、一八九六年に王立美術大学(Royal College of Art = RCA)へと再編され、他方、サウス・ケンジントン博物館は、一八九九年に新館建設のための礎石がヴィクトリア女王によって置かれると、それ以降、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum = V&A)と呼ばれるようになり、現在の姿を現わすことになります。

このように見ていきますと、王立美術大学もヴィクトリア・アンド・アルバート博物館も、このたび亡くなられたエリザベス女王陛下の高祖父母(ヴィクトリア女王とアルバート公)の献身に支えられて発展していることがわかります。ふたつの組織は、その公式ホームページのトップ画面において、エリザベス女王の死去に伴い追悼の辞を掲載しました。前者は「王立美術大学は、エリザベス女王陛下の崩御に接し、深い悲しみとともにあります」と、弔意を示す言葉を綴り、後者は「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館は、ロイヤル・ファミリーの方々に心からのお悔やみを申し上げます」という言葉でもって、哀悼の意を捧げたのでした。

二.私の王立芸術協会への推薦者であるライリー卿について

私がブリティッシュ・カウンシル(英国政府の芸術、学術、そして文化に関する振興機関)のフェローとして、英国の地に足を踏み入れたのは、一九八七年一〇月二日のことでした。私の主な研究目的は、近代英国のデザイン史を実地に調査することでした。さらに加えて、当時抱えていた三つ翻訳の仕事(ミッシャ・ブラック『デザイン論』、ステューアート・マクドナルド『美術教育の歴史と哲学』、およびジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』)に関連して関係者に会って意見を交換することでした。

住まい探しとスコットランドへの旅を終えた私は、さっそく手始めにヴィクトリア・アンド・アルバート博物館、デザイン・産業協会、ウィリアム・モリス・ギャラリー、クラフト・カウンシル、そしてデザイン・カウンシルのそれぞれの機関に手紙を書き、関係者への面会を求めました。そのなかでデザイン・カウンシルからの返信は、振興・情報部の部長のポール・ブーラールさんからのもので、実際にお会いしたのは、一〇月二八日でした。面会は彼の執務室で行なわれ、私が用意してきた質問事項に答えていただくといったかたちで進んでいきました。インダストリアル・デザイン協議会(CoID)を前身にもつデザイン・カウンシルは、戦後の国民生活の復興を念頭に、第二次世界大戦のさなかに創設された国立のデザイン振興の機関です。すでにこのときまでに、この機関が発行する雑誌『デザイン』は世界中に読者を得ていましたし、デザイン・センターには、この機関が推奨する「グッド・デザイン」が並べられ、人気を博していました。話が一段落すると、ポール・ブーラールさんは、故サー・ミッシャ・ブラックの未亡人のレイディ・ブラック(ジョアン・ブラック)さんと、いまはすでに退職している第三代デザイン・カウンシル会長のライリー卿(ポール・ライリー)を紹介することを約束してくれました。イギリスにおける社交界にあっては、こうした保証人的人物によるしかるべき紹介によって、人的交流が成り立っているのです。因みに、「サー」や「ロード」といった称号をもつ男性の妻には、「レイディ」の敬称が用いられます。

一九一二年生まれのポール・ライリーさんは、一九六〇年にデザイン・カウンシルの会長に就任し、一九六七年には「サー」の称号が授与され、それから一〇年後の退職に際しては「ロード」の終身爵位が与えられていました。そのことは英国上院議員であることを意味します。そのため、手紙などで正式に彼の名前を表記する場合は「Lord Reilly(ライリー卿)」と表わさなければなりません。彼は、デザイン振興の行政に強い関心を示していた当時のマーガレット・サッチャー首相とも親交を築き、さらには、デザイン・カウンシルへの訪問を通じて、英国王室、とりわけエリザベス女王と夫君のエディンバラ公フィリップ殿下とも幾多の交流を重ねていました。

私の残されている日記によりますと、私からの手紙の返事として一一月一九日にライリー卿から電話があり、そのとき一二月七日に彼をサウス・ケンジントンの自宅に訪ねる約束をしています。少し寒い日でした。私は地下鉄のサウス・ケンジントン駅を降りたところにある花屋さんでバラの花を買い、持参しました。なかに案内されると、すでにご夫人のレイディ・ライリー(アネット・ライリー)さんによってお茶の準備が整っていました。

私は、彼がかつて在職したデザイン・カウンシルの活動について詳しく知るために用意してきたメモに従い、質問をしてゆきました。そのなかで、一九四六年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された「英国はそれができる」展で「エッグ・カップの誕生」の展示デザインを担当したミッシャ・ブラックに話が及びました。モダニスト・デザイナーであるミッシャ・ブラックと、モダン・デザイン、つまり「グッド・デザイン」の振興に力を入れるデザイン・カウンシルとは、盟友の関係にありました。続けて、一八五一年のハイド・パークでの大博覧会からちょうど一〇〇年が経過した一九五一年にテムズ川のサウス・バンクで開催された英国祭(南岸博覧会)におけるデザイン・カウンシルの役割についても、聞いてみました。といいますのも、ミッシャ・ブラックは、南岸博覧会上流地区担当の協同建築家の役割を担っていたからです。そうした会話のなかにあって、ミッシャ・ブラックを王立美術大学インダストリアル・デザイン学科の教授職に推薦したのがライリー卿だったことがわかりました。

話が進むなか、すでに購入していた彼の自伝『デザインを見る眼』を差し出すと、快くサインしてくれました。そしてまた、現在タワー・ブリッジの南側のテムズ川再開発地区で建設工事が進められている「デザイン・ミュージアム」の責任者(初代館長への就任予定者であるスティーヴン・ベイリーさん)を紹介するとの親切な申し出もありました。スティーヴン・ベイリーさんは、そのときまで、ボイラーハウス・プロジェクトのディレクターとして、一連の展覧会をヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催していました。そのなかには「ソニー」展も含まれます。さらに別れ際には、王立芸術協会の会員に、私を推薦するとの約束をしてくれたのでした。こうして、さらに人脈の輪が広がってゆきました。

三.王立芸術協会の会員になる

この日の訪問からしばらくして、ライリー卿から手紙が届きました。英国上院議会の専用便箋が使われていました。そして、推薦者名がすでに自書された、王立芸術協会の会員申請書が同封されていました。私は、残りの空欄を埋めると、さっそく、この団体へ郵送しました。すぐにも、会員に推挙された旨が書かれた認証記が送られてきました。それによりますと、認証日は、一九八八年二月八日となっています。いま、この認証記は額装され、私の書斎の壁に掛けられています。

送られてきた一連の書類のなかには、王立芸術協会会員(Fellow of the Royal Society of Arts = FRSA)の名称使用例が、乱用や誤用を防ぐために、詳細に規定された一文も含まれていました。現在私は、はじめて紹介された英国人に手紙を書く場合などには、次のようの公式の表記をします。FRSAの文字は、私が英国社交界における所属する位置を示すものとして機能します。

Shuichi Nakayama, MA PhD FRSA

Professor Emeritus at Kobe University, Japan

日本人同士のあいだでこのような表記をすれば失笑の種となりますが、英国ではこれが一般的であり、慣例を無視することはかえって誤解や不信を招く要因になりかねません。この点に限っていえば、日英の両国間には大きな文化的伝統的違いがあるように思われます。

さらに送られてきた書類から、パトロンがエリザベス女王陛下で、会長がその夫君のエディンバラ公フィリップ殿下であることを知りました。それ以降、私の手もとに、この協会からニューズ・レターやジャーナルが送られてくるようになりました。あるとき、フィリップ殿下が寄稿した短い文がニューズ・レターに掲載されていました。そこには、ご自身のお名前とともに「バッキンガム宮殿より」という言葉が添えられていました。こうした表現に接することにより、私自身もロイヤル・ファミリーに親近感を覚えるようになりました。

私が入会した当時のこの協会の会員数は七、八千人程度ではなかったかと記憶します。その後、帰国してしばらくして、会員の拡大政策が取り入れられ、私にも、会員になるにふさわしい人物を紹介してほしいとの知らせが届きました。そのとき私は、王立美術大学とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が共同で運営するデザイン史の大学院課程で、ジリアン・ネイラー教授の指導のもとに学位を取得していた菅靖子さんを推薦しました。彼女はいま、津田塾大学の教授として、英国の文化とデザインについて講じているのではないかと思います。

すでに書きましたが、一七五四年に設立された王立芸術協会のその歴史は長く、この間、幾多の著名人が会員になっていました。たとえば、一八世紀および一九世紀に活躍した会員のなかには、ウィリアム・ホガース、ベンジャミン・フランクリン、アダム・スミス、チャールズ・ディケンズ、カール・マルクスなどがいます。そして、二〇世紀における最近の著名会員の事例のなかに、私が当時調査をしていたミッシャ・ブラックが含まれていたのでした。

四.故サー・ミッシャ・ブラックの足跡を尋ねる

ライリー卿の推挙により、正式に王立芸術協会の会員になった一九八八年二月八日当時、私は次の本の翻訳に取りかかっていました。

Avril Blake ed., The Black Papers on Design: Selected writings of the late Sir Misha Black, Pergamon Press, Oxford, 1983

この本は、ミッシャ・ブラックの仕事の全体像のよき理解者であったアヴリル・ブレイク女史の編集による、ブラックが生前に書き残した幾多の論文の選集で、ブラックの名声と業績を讃えて、王立芸術協会のロイヤル産業デザイナー部会の援助のもとに出版されたものでした。

一八五一年の大博覧会に続く王立芸術協会の大きな業績として、「ロイヤル産業デザイナー」の称号の創設を挙げることができます。「ロイヤル産業デザイナー」の英語表記は、Royal Designer for Industry で、略号としてRDIが用いられます。英国デザイナーの社会的地位の高揚と英国デザインの質の向上を目的に、一九三六年に導入されました。「ロイヤル産業デザイナー」の称号は一〇〇名を定員に授与されており、「ロイヤル産業デザイナー部会」とは、そうしたデザイナーによって構成される組織を指します。私が会員になったころは、その部会の会長は、王立芸術協会の副会長のひとりとして、協会全体の活動に対しても責任を負う立場にありました。ミッシャ・ブラックには、一九五七年に「ロイヤル産業デザイナー」の称号が与えられ、一九七二年から七五年にかけて彼は、「ロイヤル産業デザイナー部会」の会長(兼王立芸術協会副会長)職を務めています。

ミッシャ・ブラックは、一九一〇年にロシアのバクーで生まれ、一歳六箇月のときに両親に連れられてイギリスに渡ります。さしたる教育を受けることもなく、一九三八年のグラスゴウ帝国博覧会での展示デザインで頭角を現わし、戦時中は情報省の首席展覧会建築家として軍務に当たりました。一九四五年にミルナー・グレイとともにデザイン事務所「デザイン・リサーチ・ユニット」を設立し、本格的なデザイン活動を開始します。実践活動のみならず、その後ブラックは、王立芸術協会だけではなく、デザイン界のほぼすべての要職に就いてゆきます。たとえば、一九五四年-五六年には産業美術家・デザイナー協会(SIAD)の会長を、一九五九年-六一年には国際インダストリアル・デザイン団体協議会(ICSID)の会長を、そして一九七四年-七六年にはデザイン・産業協会(DIA)の会長を務めています。さらに、この間の一九五九年から七五年まで、ブラックは、王立美術大学インダストリアル・デザイン学科の教授職にあって、デザイン教育の第一線に立つのです。一九七二年にはナイト爵に叙されるも、その数年後、手術のかいなく脳腫瘍により死去します。一九七七年のことでした。

私がミッシャ・ブラックの未亡人のレイディ・ブラック(ジョアン・ブラック)さんにお会いしたのは、一九八八年三月七日のことで、場所は、王立美術大学インダストリアル・デザイン学科の会議室でした。すでに退職されていたミッシャ・ブラックの後任教授のフランク・ハイトさんがジョアン・ブラックさんに付き添って同席されました。私はいつものように、事前に質問用紙を用意しており、この日もそれに従いながら、ブラックの生涯を彩る主要な出来事についてお話を聞くことができました。最後にふたりは、ミュシャ・ブラックの資料が所蔵されているヴィクトリア・アンド・アルバート博物館付属の美術・デザイン記録保管所(Archive of Art and Design)の学芸員のメグ・スウィートさんを紹介してくれました。

それから二日後の三月九日、私は、ハマスミスにある美術・デザイン記録保管所を訪ねました。すでに電話でお話をしていたので、収蔵庫から運び出された三つの「ボックス・ファイル」が、閲覧テーブルの上に用意されていました。順番に一つひとつ「ボックス・ファイル」を開けていくと、そこには、生前ブラックが執筆した雑誌原稿や講演のための草稿が納められていました。その多くに、アヴリル・ブレイクとジョアン・ブラックの手書きのメモが書き記されており、当時翻訳を進めていた私にとっては、ふたりの編集と校合の様子を垣間見ることができ、とても印象的だったことが思い出されます。

その後、この訳業は、『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』(法政大学出版局刊)として一九九二年に世に出ることになりました。それから数年後、日本のインダストリアル・デザイナーの栄久庵憲二さんが、「ミッシャ・ブラック・メダル」を受賞され、ちょうどそのときロンドンに滞在していた私は、受賞記念のレセプションに招待されました。この「ミッシャ・ブラック・メダル」は、ブラックの功績と名声を恒久に後世に伝えるために、産業美術家・デザイナー協会、デザイン・産業協会、王立芸術協会ロイヤル産業デザイナー部門、および王立美術大学の四つの組織が共同して制定したメダルです。私にとってそのレセプションは、すでに未亡人となっておられたライリー卿の妻のレイディ・ライリー(アネット・ライリー)さん、レイディ・ブラック(ジョアン・ブラック)さん、そして、フランク・ハイト教授と再会する、思いがけない機会となりました。

しかしながら、このときまでに、英国にあって体制側の諸団体が推し進めてきていたモダニズムというデザイン思想は、すでに批判の対象となり、沈みゆく夕日のような感がありました。ちょうどそのとき私は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の研究部長を務めていたポール・グリーンハルジュさんが編者となって、一九九〇年に上梓していた『デザインのモダニズム』の翻訳を進めていました。この本のなかにあって、しばしば、モダニズムの死(demise)が言及されていたのでした。

おわりに

一九八七年に出版されたライリー卿の自伝『デザインを見る眼』を見ますと、デザイン・カウンシルの展示部門であるデザイン・センターを訪問されたエリザベス皇太后を案内するライリー卿の写真と並列して、マーガレット王女(エリザベス皇太后の第二子で、エリザベス女王の妹)と歓談するライリー卿の写真が、図版として挿入されています。皇太后は、このたびお亡くなりになったエリザベス女王陛下の母君です。

また、一九八八年に私が訪れた、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館美術・デザイン記録保管書のミッシャ・ブラックの「ボックス・ファイル」にも、何枚かの写真がありました。そのなかに、一九四六年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された「英国はそれができる」展で、ブラックがひとりの女性を案内している様子を写した一枚の写真があったように記憶します。記憶が正しければ、この女性も、エリザベス皇太后だったにちがいありません。一九二六年の生まれで、一九五三年に戴冠されることになる、若きエリザベス女王陛下の姿は、まだこのとき、この場にはなかったのではないかと思われます。

英国デザインの歴史の一端を紐解くならば、ロイヤル・ファミリーの貢献には、特筆するに値するものがあります。一八五一年の大博覧会以来、デザイン界とロイヤル・ファミリーとを結ぶきずなは強く、その中心のひとつとなる組織が王立芸術協会でした。その協会のパトロンを長きにわたって務められたエリザベス女王陛下が崩御され、その国葬が、現地時間の九月一九日午前一一時からウェストミンスター寺院で執り行なわれました。そしてそのあと、夫であるエディンバラ公フィリップ殿下が眠る、ウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂に埋葬されました。ここに、そのご貢献に対して心からの感謝の気持ちを表し、ご冥福を祈りたいと思います。

そしてさらに――王立芸術協会の次のパトロンに、おそらくチャールズ三世国王が就任されることになるでしょう。会員のひとりとして、彼の献身のもと、これよりのち、この協会がさらなる発展を遂げてゆくことを祈りたいと思います。

(二〇二二年九月)