中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第三部 わが学究人生を顧みて

第一〇編 青春回顧/私の和歌森太郎と家永三郎との出会い

ちょうど先ほど、著作集14『外輪山春雷秋月』に所収します「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」を擱筆しました。

そのなかで、学部は違いましたが、私が学生として東京教育大学に在籍していた当時、文学部の日本史の教授だった、家永三郎と和歌森太郎が、奇しくも登場してきました。どちらかといえば、家永は、文献に基づく日本史の研究者で、和歌森は、民俗学を基礎に置く歴史家でした。方法論は違えども、二人とも、高群逸枝の女性史学を讃美する立場にありました。それぞれが、どのような言葉でもって高群の業績を評価したのか、以下に引用してみます。

まず、高群の『招婿婚の研究』に対する家永三郎の評価です。

 五十二字詰十八行組千二百頁の書下し論文が公刊されるといふことは、学界に於いても、ざらに見られることではない。高群女史の大著の公刊は、さういふ点からも稀有な大事業として刮目に値する。しかも著者はこの大著「招婿婚の研究」のほか、その所論の基礎づけとして「平安鎌倉室町家族の研究」「日本古代婚姻例集」二千八百枚の稿本をすでに完成されてゐるのであつて、これだけの大きな仕事を完成されるに至るまでの著者のたゆみなき精進を思ふとき、片々たる短文を書くより能のない評者など、たゞたゞ頭の下る思ひあるのみである。

上の引用は、家永が「高群逸枝著『招婿婚の研究』」と題して、『史学雜誌』(第六二編第七号、一九五三年七月)に寄稿した一文から抜粋したものです。

一九六四(昭和三九)年六月七日、高群が亡くなると、主要な新聞紙上において、高群逸枝の死亡記事が掲載され、それに続いて、死亡広告も出されました。地元紙の『熊本日日新聞』にあっては、死亡広告は、一一日の朝刊四面に掲載されます。「夫 橋本憲三 親戚代表 橋本英雄 高群晃 友人代表 家永三郎 志垣寛」の連名によるもので、「告別式」を自宅で行なうことが、以下のように告知されたのでした。

高群逸枝(橋本イツエ)こと六月七日午後十時四十五分永眠いたしました 茲に生前の ご厚誼を深謝しご通知いたします 追て来る六月一五日午後三時より五時まで自宅にて仏式により告別式を相営みます

友人代表を務めたのは、家永三郎と、同郷熊本県の出身で教育評論家の志垣寛のふたりでした。こうした死亡広告は、かつて逸枝の母親の登代子が亡くなったときも、夫の勝太郎によって出されており、憲三はそれをしっかりと踏襲したといえます。逸枝は、そのことについて、『今昔の歌』(高群逸枝『今昔の歌』講談社、一九五九年、二三六頁)において、こう書いています。

 母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して、有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう。

戦後、『九州日日新聞』と『九州新聞』が合併して『熊本日日新聞(熊日)』が生まれます。この引用文の一節は、五年前に『熊日』に連載された「今昔の歌」のなかにおいて逸枝が披露したものです。したがって、この死亡広告を見て、親子二代にわたる死亡時対応の継承にかかわって何か深い思いに駆られた『熊日』購読者も、少なからずいたにちがいありません。

他方、和歌森太郎は、告別式から四日後の六月一九日、『サンケイ新聞』に追悼文「高群逸枝さんの業績 女性の目で、日本女性史をくみたてる」(七面)を寄稿します。以下は、その部分引用です。

 それにしても「招婿婚の研究」など、たいしたものである。妻問い婚、つまり男が女のもとにかよいながら夫婦関係を結んだ段階から、妻方にあって夫婦が共同生活をする段階へ、そして夫方のほうに妻を迎えいれる嫁取り婚の段階へと変わってきた過程は、従来民俗学もよく説いてきたところであるが、これを、原始・古代・中世・近世にわたる膨大な史料を基礎に、みごとに筋みちつけられた。民族資料も、よく批判的に摂取され、その論旨を具体的にたすけている。

和歌森は、『招婿婚の研究』が出版されるときに結成された「高群逸枝著作刊行後援会」においても、その名を連ねており、高群の仕事を早くから評価していた学者のひとりだったのです。

さてそこで、私自身の和歌森太郎と家永三郎との出会いについて、記憶が薄れる前に、ここで少し回顧しておきたいと思います。

私は、高校卒業後一浪しました。この一年間を、受験予備校の壺溪塾で過ごしました。まだ熊本には、受験予備校は数校しかなく、この壺溪塾は、第五高等学校(現在の熊本大学)を受験する浪人生のために一九三〇(昭和五)年に創設された、全国的に見ても最も古い予備校のひとつでした。高校生でも大学生でもない、一種独特の書生的雰囲気がいまだ残る塾で、休み時間になると、旧制高等学校の寮歌が北から南へ順にスピーカーから流れていました。浪人生活を送っていた一九六七(昭和四二)年の秋のことだったと思いますが、東京教育大学の和歌森太郎が熊本に来て、講演するという新聞記事が目に止まりました。東京教育大学は、戦前の東京高等師範学校と東京文理科大学を前身校にもつ教育界に強い影響力をもつ大学で、そこの教員は、よく受験参考書や問題集を執筆し、受験雑誌にもしばしば登場していたため、受験の世界で名の通った教員が数多くいました。和歌森太郎も、そのひとりでした。

講演会場は、ときどき利用していた本屋の二階で、塾での授業が終わったあと、友だちを誘って二人で聞きに行きました。演題は覚えていません。しかも、熊本での講演ですので、その出身者である高群逸枝に触れた可能性もありますが、それもいまとなっては、記憶に残っていません。当時の私には、高群逸枝の名前さえ知りませんでした。このときの和歌森太郎の講演で、いまだ記憶に残っているのは、このような挿話です。年代も地域も忘れてしまいましたが、ある村に寄り合いのためにつくられた小さな小屋があり、ある祭りの夜に、若者たちが計らって仲間の一組の男女をその小屋に押し込めて、代わる代わるに寝ずの番をしたあと、翌朝、小屋から出てきた二人を、新婚初夜を過ごした夫婦として、村中に喧伝して回るという習俗に関する話です。この挿話を聞いて、結婚の形態は、変化しながら、いまの形態になっていることに驚かされました。

翌年(一九六八年)の四月、私は東京教育大学に入学しました。すでに名前を聞きかじっていた、文学部では、和歌森太郎と家永三郎と小西甚一の授業を聞こうと思いました。和歌森は、前年に熊本で講演を聞いていてなじみがありましたし、家永は、高校日本史教科書検定の違憲訴訟でその名を知っていましたし、小西については、彼が書いた受験参考書のなかの助詞の使用法についての解説に若干の疑義を抱えていたのでした。当時の東京教育大学には教養部はなく、各学部の教員が開講する授業を自由に選択して聴講することができました。たとえば、和歌森太郎の授業であれば、文学部の日本史専攻の学生であれば、専門科目として受講し、それ以外の学生であれば、一般教養科目として受講することができたのです。しかし、和歌森太郎の授業は私の専門の授業と重なってしまい、国文学の小西甚一の授業はアメリカ出張のため開講されず、実際に希望する授業に出席できそうになったのは、家永三郎の授業だけでした。テキストは、岩波から発行されたばかりの『太平洋戦争』で、生協には平積みされて、飛ぶように売れていました。私も手に入れたのですが、筑波移転反対の闘争が激化し、各学部とも校舎のバリケード封鎖に入り、結局、授業は行なわれないまま時が流れ、次の年の入試は、体育学部を除く四学部で中止となる始末でした。機動隊による、力による封鎖解除が進み、入学して二年目の秋ころから、一部の授業が少しずつ再開されてゆきました。しかし、自身の専門の授業もあり、結局、名を知っていた文学部の教授の授業には、出席する機会を失ってしまいました。

そうしたなか、偶然にも、朝の正門前で、家永三郎の姿を見かけました。彼は、運動家の学生が手渡すビラを、拒むことなく、丁寧に受け取っていました。これもまた、彼にとっては大事な歴史資料だったのかもしれません。

家永と和歌森は筑波移転反対、小西は賛成の側に立っていました。ここにも象徴されるように、東京教育大学は分断され、国家権力の前に、もはや瀕死の落城の日にありました。私は、入学式も卒業式も経験することはありませんでしたし、大学で何かを勉強した記憶もありません。そのあと私は、母なき孤児の状態で、神戸において学問の世界に身を投じてゆきました。しかし、籍を置いた教育学部も、同じく安住の地ではなく、改組に次ぐ改組で、落ち着いて研究に没頭できる環境にありませんでした。いまもって日々机に向かうのも、勉強すべきときに勉強ができず、研究すべきときに研究ができなかったことに起因して、知の受容と生産に飢えているからかもしれません。自分でも、今日まで実に不可思議な学究生活を送ってきたものだと感じます。常に中心から離れて、周縁の暗闇のなかにいたような気がします。いまや世俗を断ち、森のなかにこもって研究三昧に打ち興じる境遇に達したわけですが、これこそが、本来の学問の営為ではないかと思うと、これまた不可思議な感覚に陥ります。いずれにしても、知を追うことができることは、何にもまして、ありがたいことだと思います。

以上、私の和歌森太郎と家永三郎との出会いについて書いてきました。半世紀以上前の出来事です。筑波移転反対闘争とともに、いまも私の脳裏に焼き付いている一場面です。この文は、「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」に触発されて草したもので、高群逸枝との出会いがなければ、こうした文を書くことはなく、それを考えれば、出会いとは本当に不思議なものです。大切にしたいと思います。

(二〇二四年四月)