中山修一著作集

著作集4 富本憲吉と一枝の近代の家族(下)

第二部 家庭生活と晩年の離別

第五章 安堵村での新しい生活

一.家と窯の建設と陽の誕生、そして来訪者たち

西へ向かう列車のなか、ふたりはそれぞれに何を考えていたであろうか。

いよいよ安堵村で生活をはじめることになる一枝は、憲吉の実家へこれまで訪問したときの情景を、しきりと思い出していたにちがいない。一九一二(明治四五)年の『白樺』正月号に掲載された南薫造の「私信徃復」を読み、英国留学から帰った人で木版を彫る人がいることを知ると、一度会ってみたいとの思いから単身安堵村の憲吉をはじめて訪ねたのが、同年の二月のことだった。次の訪問は、その年の暮れ。そのときは、『青鞜』新年号(第三巻第一号)に使う表紙絵の下図を憲吉に依頼するためであった。いま東海道を下っているのは、これまでの単なる安堵村訪問とは明らかにその意味が違う。果たして、行き着く先の安堵村での生活は、どのようなものになるのであろうか。

一枝は、ちょうど一年前、『番紅花』の創刊号に「私の命」と題された詩を寄稿していた。次に引用するのが、その詩の最後の一連である。

私は 太陽 ひかり のなかで働いてゆく
私は 太陽 ひかり をみてゐる
私は生きてゆかねばならない
私は命をもつて私の仕事もしなけりやならない
私の仕事、私の勞働、私の成長、そして私の生活、
私はこれらの上に絶對の命を求めてゐる

このような「太陽」のなかでの「私の命」が、「仕事、勞働、成長、そして生活」に、本当にこれから降り注いでいくことになるのであろうか。

一方、憲吉の脳裏にはどのような思いが去来していたであろうか。傷つくたびに居場所を失い、これまでに何度、安堵村と東京のあいだを、あたかも逃亡者のごとくに行ったり来たりしたであろうか。その自分が、いま新妻の一枝を伴い安堵の実家へ向かおうとしている。結婚にあたって憲吉は、一枝と自分の双方にこう誓っていた。

アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい

安堵へ帰れば、幼くして家督を相続した富本家の戸主としての役割や責任も、当然ながら果たさなければならないであろう。また、地主としての小作農たちとの支配/被支配といった関係からも逃げることはできないであろう。そうした現実環境のもと、理想に描く新しい結婚生活は、本当に、可能になるのであろうか。他方、仕事は――。本窯を築き、丈夫で安くて美しい日常用の陶器を大量につくりたい。しかし、素人同然の自分に、つまりは資金も技術もいまだない自分に、どのような道筋に従えば、それが可能となるのであろうか。もっとも、製陶以外のほかの工芸製作の分野への関心もいまだ持続し、完全に断ち切ったわけではない。

それぞれが、期待と不安のなかに身もだえていたにちがいない。家父長的な諸制度からの脱却、女性の解放、自由主義的な教育の追求、模様の革新と陶磁器の量産と大衆化――いずれもが「近代」が直面し、解決が突きつけられていた厳しい課題であった。社会的観点からも、教育的観点からも、そしてもちろん、工芸やデザインの観点からも、安堵村でのこれからの生活が、まさしく「近代」にかかわる実験の場、あるいは闘争の場となるであろうことは、ふたりには十分予感されていたであろう。しかし、こうした困難が予想される舞台へ向かおうとする心的緊張のなかにも、ふたりにとってひとつの希望と安らぎがあった。車中ふたりは、もうすぐ誕生する赤子のことに思いを馳せ、これから父親となり、母親となる自分の姿をそれぞれがそれぞれに思い描いていたものと思われる。一九一五(大正四)年三月初旬、複雑な思いを胸に秘めながら、かくしてふたりは、結婚後の数箇月を東京で過ごしたのち、憲吉の生地である大和の安堵村へと生活の場を移すことになったのである。

憲吉の実家での生活がはじまった。そのころの様子を一枝は、「私の結婚しました先は、大和でもたいへんな旧家で、小地主の家でした。結婚するとき、東京で生活することになっていましたが、夫の仕事の都合と、都会嫌いな夫の言い分にまけて、田舎についてきましたものの、なにしろ村きっての旧家の生活はただびっくりするようなことばかりでした」と前置きしたうえで、具体的にこのように語っている。

 私が村の中を通るのを見ると、村の人たちはどんなに忙しくても手を休めて見ましたし、夕方など、どうかすると不意に小石がどこからともなく飛んできました。始めのころは障子に穴をあけて姑にのぞかれたり、ずい分、他所者の嫁としていやな思いもさせられましたが、何でも耐え忍ぶのが女の務めとどうやら思っていたのか、できるだけ嫁らしいやりかたですごしていました

そうしたなか、食事のとき憲吉は、一枝に自分と一緒に座って食べることを当然のように求めた。憲吉にとっては、これこそが夫婦としての本来あるべき食事の仕方だったのであろう。しかし一枝には、姑の手前、それがどうしてもできなかった。そうした一枝の、あたかも因習を踏襲するかのような態度に憲吉は激怒した。一枝はこう振り返る。

 大和に来ますと、今言いましたような旧家で、夫はあくまで戸主の座で食事をとるさだめで、姑も弟妹たちも、そして嫁である私も、それは夫と離れたところに坐って食事をするような生活でした。夫は、私と食事を共にしようとします。私は姑への気がねでそれを拒みます。すると夫はひどく腹を立てて怒るのですが、私はどうしても姑をさし置いて夫の座の近くに坐れません

そうしたとき、「それまでとは、あまりの生活の違いから、色々と感情のいきちがいがあり、ふつふつ、つらいなあと思ったものでした」と、後年告白している。

青鞜社時代、紅吉(一枝)は「新しい女」の代名詞であるかのような目で世間からは見られていた。しかしその紅吉も、子どものころに母親から授けられた教育に影響を受け、伝統的な規範のなかで生きる自覚と役割をもった「旧い女」の側面も同時にあわせもっていたのだった。続けて一枝はこうも述べている。「女とは、かくあるもの、女とはこうあるべきだと母は常に自分に言いきかせていました。そのことばが、いつとはなしに長い間に、水が土に浸み込むように、私の中にしみこんでいたのですね。ですから、私自身、まるで草履と下駄を片方づつはいて道を歩いているような人間だと言えましょう」

安堵村への帰還から二箇月が過ぎようとしていた五月、ふたりは家と窯の建設に着手した。憲吉はこう記す。「大正四[一九一五]年五月、われら大和國安堵村の東南端に小さき地を卜し、住む可き家と焼く可き窯を築かむとせり」。そして「八月、窯成り、試験を終り」、そしてちょうどその月の二三日、「われら」にとっての最初の子どもがついに誕生した。女の子だった。ふたりはこの子に「陽」という名を与えた。一枝は、青鞜に入社する前、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」の一句から何か聖典のごとき強い日の光を受けていたし、最近の詩「私の命」では、「私は 太陽 ひかり のなかで働いてゆく/私は 太陽 ひかり をみてゐる」というフレーズのなかで、「太陽」を自己の守護神にも似た存在としてとらえていた。命名にあたっては、一枝にとってのこうした「太陽」のもつ鮮烈な生のイメージが大きく作用していたのかもしれない。

一〇月一四日に憲吉は南薫造に宛てて手紙をしたためた。「製作は土用以来新造の窯にて三夜焼き二百以上(大小取り混ぜ)出来たれど別に此れと云ふ程のものもなく候」10と書く。これが新造営の窯にとっての初窯だったかもしれない。続けて、今度来たときに見せようと思って、昨日まで居間に留め置いていたものの、大阪工藝會(大阪三越で一〇月二四日から三一日まで開催)と十五日會(東京三越で一一月一日から一〇日まで開催)のふたつの合同展の期日が迫ったので、荷造りして送ったことを告げる。そして、子どもの誕生については、こう短く記した。

自力なき小生等うかうかするうちに親となり申し候11

のちほどの論点ともかかわるので、注意を要してほしいのは、あくまでも親は、「小生」ではなく、妻のことを念頭に入れて「小生等」と複数形で書いていることである。また、建築中の家については、「新居は九分九厘出来上り候。今度御来駕の節は室よりの展望を見ていたゞきたきものに此れあり候」12と述べる。

この手紙が書かれた翌月のことであった。青鞜社時代に最も親しくしていた友人のひとりである神近市子が安堵村を訪ねてきた。そのとき神近は東京日日新聞の記者をしていた。入社のきっかけは紅吉の紹介によるものであった。紅吉(一枝)が東京を立つ少し前のことだったのではないかと思われるが、神近が回想するところによると、「私をたずねて尾竹紅吉の使いという人があらわれた。手紙をあけてみると、東京日日新聞(いまの毎日新聞)で婦人記者をさがしているから、立候補してみないかと書いてあった。入社の希望があるなら、履歴書を持って新聞社に小野賢一郎氏をたずねてみろということであった」13。紅吉は青鞜社の社員のころから小野とは面識があった。そうしたこともうまく作用して、以前からジャーナリズムに強い関心をもっていた神近は、希望どおりに入社が決まった。今回の安堵村訪問は、一一月一〇日に京都御所の柴宸殿で行なわれる大正天皇の即位礼を取材するために京都に出張で来ているときのことであった。神近にとっては、入社のお礼やその後の近況報告も大きな目的だったにちがいなかったが、それより何より、親友の幸せな新婚生活を直接会って確かめてみたかったのであろう。その日の安堵村での出来事を神近はのちに執筆する『自伝』でこう描写する。

……そのころの富本家は、周囲に深い堀をめぐらした旧大地主か小領主のような古めかしいお住居だった。……大玄関を上がり、右手の広い座敷にはいると、片隅にまだ生後半年ぐらいの長女の陽子さんが寝かされていた。私たちは時の経つのも忘れて、その後のお互いの生活を語り合った。富本憲吉氏はいま窯焚き中で、二十分ほど離れた窯場に行っていられるという。……茶を飲みながら雑談をし、そのあと私は窯場に案内された。窯焚きの小屋は、富本氏がそこで寝起きされるという話で、私にいろいろの作品や未完成の壺などを見せてくださった。上背のある痩方の立派な紳士だった14

このとき憲吉は、本格的な初窯に向けて、新造の窯の調子を見るために、試燃を繰り返していたものと思われる。憲吉と一枝の結婚式に神近は招待されていなかったので、神近が憲吉に会うのは、おそらく、これがはじめてであったにちがいない。もちろん陽を見るのも――。「五色の酒」を飲み、「吉原登楼」に興じる「新しい女」と世間から揶揄された紅吉がいまや妻となり、一児の母となって立ち振る舞う姿に触れたとき、女性の解放を標榜する青鞜社のかつての仲間であり、そしてすでに自立した婦人記者としての職業を有する神近の目には、それがどのように映じたのであろうか。興味がもたれるところではあるが、残念ながら、それについてのコメントはこの『自伝』には残されていない。

著作集3の第二章「一枝の進路選択と青鞜社時代」においてすでに述べたように、神近が、葉山の日䕃茶屋で大杉栄に傷害を負わせるという事件を起こすのは、それからちょうど一年後のことであり、二年の刑期が確定し、八王子刑務所に服役。出獄するのは一九一九(大正八)年の一〇月。そののち文筆活動に入る。

一二月一八日、憲吉は南に手紙を書く。「いよいよ工場への移轉を二十一日ときめ昨日大阪より小さく美つくしき白木造りの神棚を買ひ茶の間にすえ申し候」15。そして最後に、「御多忙中陶器會の事誠に恐れ入り候」16と一言を添える。これは、「富本憲吉第壱回陶器會」の案内状のなかに推薦文を書いてもらったことへのお礼の言葉であろう。この推薦の辞は、白滝幾之助と南の連名で「富本憲吉君は田園にありて専念模様を造りこれによりて陶器をやく。このたび新窯成り、みたび試燃を了す。……此處に於いて彼は自ら土をやき、まこと正しく美しき新作の陶器をひろく日常生活に送らむとす」17と記されており、それに続いて、「規定」として、形状や模様や釉薬については作者の自由に任せてほしいといったことや、申し込み期日(大正五年一月三十一日迄)や會費(一口五圓)のことや、作品の完成や発送の時期(大正五年四月中)や申し込み所(柳家書店)といったようなことなどが、箇条書きにされていた。

家【図一】が完成した。そして本宅から「二十分ほど離れた」新居への移動の日を迎えた。「拾二月、家成りわれら二人と八月生れたる幼兒に下女一人、子犬一匹を携へて移れり」18。そして家は「寝室、茶の間、臺所、書齋とベーウインドの如き三疊の椅子ある室と轆轤を置く四疊の工房と窯場と、全部耐火煉瓦を以てせられたる内方三尺餘りの窯とをもつてす、井戸二つ(その一つは草花用として)湯殿と便所と、五尺に足らぬ竹の柵を以て四圍をめぐらし、十坪の芝生と五六坪の草花を植ゑたる床と。樹は小さき桃、葡萄、いちゞく、その他二三、近き人家は約一 ママ 19。近隣の家から決して近いとはいえない、一〇〇メートル以上も離れて立つ一軒家。そして、決して広いとはいえない、簡素な間取り。窯の煙突から煙が立ち上り、庭には芝生と花壇、加えて、さながら小さな果樹園。さらに周囲を見渡すと、その風景は「南に水田をひかへ雨降れば湖の如く白く光る。そを越えて大和川の堤低く東より西し、また遠く金剛、葛城、吉野群山、初瀬三輪の山々を朓む。東に近き森と梨園の低き棚を隔てヽ奈良の諸山見ゆ」20

遠く山々に囲まれ、家の周りには田畑が広がる。まさしく見渡す限りの自然が生み出す美しい田園風景がそこにはあった。

こうして、一九一五(大正四)年も押し迫った師走の二一日、家と窯と庭、すべてが整い、憲吉と一枝と陽の家族は「此處」に移り住み、新しい生活がこの地から生み出されることとなった。新生活にあたっての決意を、憲吉は次のごとく述べる。

我等此處にありて心淸淨ならむことを願ひ、制止するを知らざる心の慾望を抑壓しつゝ語りつ、相助け、相闘ひ、人世の誠を創らむとてひたすらに祈る21

これは憲吉独りの陶工としての創業宣言ではない。これは「我等」という家族共同体の決然たる創設宣言なのである。家庭とは、一方が一方を抑圧する場でも、それに対して一方が忍従する場でももはやない、欲望を抑えた清廉な夫婦の闘争の場であり、協力の場であり、創造の場なのである。これが、憲吉にとっての「近代の家族」のイメージであり、この新しい夫婦の営みの原点となるものであった。

年が明け、一九一六(大正五)年を迎えると、二月一七日に国民美術協会の展覧会の幕が開いた。三月六日の東京朝日新聞によると、「去月十七日から蓋を開けた國民美術協會の第四回展覧會は今年も光風會と合同して上野の春を先づ賑した、陳列品數を擧ぐれば、日本畫三〇洋畫三四九装飾美術六三彫刻五〇建築五〇で洋畫の中には光風會の一七〇点が入つて居る」22。特定の美術の領域に偏らず、ほぼすべての領域を網羅したこの試みは、さながら総合美術の展覧会の趣があったのではないだろうか。

憲吉はこの展覧会へ出品した。この時期憲吉は、官設の公募展についてはこのような印象をもっていた。文部省が主催する文展については、「『喰うための文展』此の言葉よろし」23。これは、単に見栄えのいい大きな作品でもって会場を飾り立て、権威や権力をあたかも誇示するかのような展覧会ではなく、今後の試作や実験に向けての資金を得るためにつくり手が全身全霊を注入してこさえた真の自信作を陳列する場としての展覧会を、憲吉は文展に求めようとしている文言なのではあるまいか。しかしながら、実際には文展はそうではないだろうと多くの人びとから思われていただろうし、それ以前の問題として、陶器などを扱う工芸や装飾美術の部門は、そもそも文展から排除されていたのであった。

それを補う組織として農商務省が催す農展があったが、これについて憲吉は、こう批判していた。「では第一に本當の美術家の手になつた模樣を尊重する事を知らない樣です。第二に充分に模樣になり切らない寫生畫のようなものを模樣として取り扱つて居る樣です。第三に美術家の仕事以外の轉寫も亦平氣でゆるされてをります」24

憲吉の国民美術協会の展覧会への出品には、こうした官設公募展についての否定的な見解などが下地として存在していたにちがいなかった。東京朝日新聞は、「装飾美術では河合卯之助、富本憲吉、近藤岩太氏の作が眼についた」25と書いた。おそらくこの作品が、安堵の本窯でつくられ、公募展に展示された第一作となるものであったであろう。

一方の「富本憲吉第壱回陶器會」も無事に終了したのであろう、五月二三日付の南薫造に宛てた手紙で一言そのお礼を書き、続く五月三一日付の手紙では、さらに詳しく「陶器會は凡六拾口程ありて予定よりも多く二月壱ケ月にて全部完成」26と、予想以上にすべてがうまくいったことを報告する。会費一口が五円、六〇口の注文で、このときの「陶器會」の売り上げは、単純計算で三〇〇円となる。実はこのとき、大量の陶器を焼いたことで窯の底の部分が熔解するといった災難に遭遇する。しかし、注文品の製作と発送については、どうにか無事に完了した。

国民美術協会の展覧会と「陶器會」が終わってしばらくしてからのことではないかと思われるが、ひとりの新しい客が安堵のこの新しい家を訪ねてきた。濱田庄司である。濱田はのちに回想して、リーチと富本の作品にはじめて出会ったころのことをこう語っている。

 私の中学[東京府立一中]時代、銀座の裏通りに「三笠」という画廊ができた。間口が二間あるかないかの小さな店であったが、表の陳列窓にたいてい、バーナード・リーチと富本憲吉の陶器があったので、学校の帰りにたびたび立ち寄ってながめた。……私はただ深く心ひかれて、二人の作品をながめた27

中学を卒業すると濱田は、尊敬する板谷波山が教鞭をとる蔵前の東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の窯業科に学び、卒業と同時にちょうどこの年に京都陶磁器試験場に入ったところであった。蔵前の先輩の河井寛次郎もすでにここで働いていた。濱田の回想は続く。「こうして私は大正五[一九一六]年、蔵前を卒業すると同時に試験場に入った。幸い空席があって、初めから三十円の月給をもらって勤めることになった。……おかげで日曜になると、京都や奈良を散歩したり、東京へ帰ってフューザン会や草土社や、リーチや富本憲吉らの展覧会を楽しむことが出来た。急行の夜行は、片道二円八十銭だった」28

安堵村訪問に先立って、濱田には、主に楽焼だっただろうと思われるが、こうした富本作品との出会いの経験がすでにあった。就職も京都に決まった。富本の仕事ぶりに心をひかれていた濱田は、一度本人に会って、仕事場も見せてもらおうと思ったのであろう。行ってみると、憲吉と一枝が展開する新生活に濱田は感動した。「リーチ、富本の仕事に感心していたのは大分前からでしたが、個人的には、大正五年初めて富本を奈良の家へ訪ね、格式ある生家を離れ、安堵村の畑の中にささやかな住居と窯とを建てて、生活にも仕事にも希望に溢れ、一枝夫人との新しい暮しを築いているのに、深く打たれました」29。「窯の煙突を頼りに裏口から入ったところ、舶来のカン詰めのあきカンがいっぱいあって、なかなかハイカラな暮しらしいと思ったのが第一印象だった。当人はホームスパンの洋服をよく着こなし、ニッカーポッカーからストッキングもうまくはいていた。くつ下の指先やかかとの穴かがりに、共糸の代わりに派手な糸を使うところなども、ほんとのハイカラだった」30

濱田にとってこうした新しいライフスタイルが極めて鮮烈に映じたようで、とりわけハイカラさを印象づけられた。そしてまたそれは、ウィリアム・モリスを連想させるものでもあった。濱田はこう述べている。

私はその数年前、東京で萩原井泉水氏の所へたびたび集まる機会があって生活様式に新鮮な独自のものをうけた悦びを今も忘れませんが、やがて富本訪問から三年後、千葉県の安孫子に柳宗悦の暮し振りを見て、家具調度から食事まで実に良く届き、歯の立たない事ばかりでした。富本が「美術新報」にたびたび書くウイリアム・モリスを思い浮かべました31

どうやら濱田もまた、四年前の一九一二(明治四五)年に富本が『美術新報』に書いた「ウイリアム・モリスの話」に強い影響を受けていたらしい。後年、こうも告白する。

 それから「美術新報」という大判の雑誌があって、たびたび富本は英国のウイリアム・モリスの業績を紹介しておられました。日本でも紹介されていましたが工芸家として、美しさと生活とを結ぶ実際運動をした、具体的な仕事を伝えたのは、おそらく富本が初めてではなかったかと思います。まだ若い学生だった私は、そういう記事が載るのを心待ちにしていました32

濱田が富本から受けた初期の影響は、『美術新報』に掲載されたウィリアム・モリスに関する記事だけではなかった。一九一二(明治四五)年の『白樺』一月号に掲載された「私信徃復」という記事からも、富本の工芸家としての毅然とした姿勢に強い感銘を受けていたのである。

記事といえば、たしか古い「白樺」だったと思いますが、洋画家の南薫造さんと富本の往復の手紙が載っていて、南さんがたまたま工芸店 ママ 楽[吾楽殿]にいたとき、どこかの奥さんがそこに出ている[富本作の]更紗は洗えますかということをたずねられた。南さんは洗える洗えないより自分達の作るものは美しければいいのだと答えた、という手紙を[富本に]出したのに対して、富本はすでにそのとき、自分としては洗ってなおよくなるような更紗を作りたいという返事を[南に]書いております。私は初めて工芸家の見識というものを教えられた思いがして、今も富本の五〇年前の言葉に敬意を深めます33

濱田が安堵村の富本夫妻の新居を訪ねたとき、この『白樺』に掲載されていた南薫造と富本憲吉の「私信徃復」が話題になっただろうか。もしなっていれば、憲吉と一枝は、目配せをしながら、密かに心のなかで、あるいは遠慮なく来客の前で、大笑いをしたことであろう。すでに詳述しているように、一方でこの記事は、憲吉と一枝を結びつけるきっかけとなるものであり、この記事がなければ、いまこうして夫婦として濱田をこの新居に迎え入れることさえもがかなわなかったからである。

濱田庄司に続いて、おそらくその年(一九一六年)の暮れのことであろうか、バーナード・リーチが安堵村にやってきた。滞在していた北京に柳宗悦がリーチを訪ねたのが九月のことであった。柳は、本国イギリスへの帰国を考えあぐねていたリーチに、安孫子での製陶を勧める。リーチは柳の言葉に心を動かされた。安堵村訪問は、再来日し、安孫子へ向かう途中の出来事であった。富本が中国から一時帰国したリーチに東京で再会したのは一九一四(大正三)年の年末から翌年正月にかけてのことだった。それからちょうどほぼ二年の歳月が流れていた。「東京へ向かう道すがら足を止めると、私はそれからの二、三週間を、富本と一緒に彼のふるさとで過ごした」34。この滞在中にリーチは、ふたりして窯を焚く。そこで、思いがけなくも、富本のじっとして待つことができずに結果を急ごうとする短兵急な性格を知ることになった。リーチが回想するところによれば、事の顛末はおおかた次のとおりであった。

トミー[富本]が自分と一緒に窯を使ったらどうかと私にいうので、陶器づくりに取りかかり、彼のものと一緒に焼いた。冷却の日まで、すべてがうまくいった。その前からトミーは、いらいらする気持ちをまぎらわすために、父親が好きだった川岸まで遠出して釣りをしようといっていた。……薄暗い朝方に出発した。……彼は黙ったまま三マイルほどさっさと大またで歩くと、するとそのとき、振り返るなり、私の横をすり抜けて、一言の言葉もなく家の方向へと歩いていった。私は当惑したが、それでも彼のあとにくっついていった35

このとき富本に何が起きたのであろうか。期するところがあったにちがいない――。

 彼は、二室からなる窯のところへとまっすぐ進み、第一室ののぞき穴の留め具を外すと、新聞紙を押し入れた。新聞紙に火がつき、さや(箱)と棚の上に載せられていた陶器類が照らし出された。すごい熱風が吹き出してきて、しかしそれでも、トミーが、煉瓦造りの窯の扉を大きな釘でもってこじ開けはじめようとしたときには、私は、彼と自分の双方の陶器を思うと、強い不安に駆られた。一箇月間集中して完成させたデザインと製作が、焼かれることによってどう変化したのかを確かめたいという興奮しきった異常なまでの熱狂を察知するや、我慢するよう頼んでみたものの、しかし、私の抑制の効いた忠告さえもが、すでに鋭敏になっている彼の目の輝きをいっそう強めさせてしまったように思われた!36

その日の午前中は、棒やはさみなどを使って、陶器が次から次へと窯から出された。実際に壊れたものはほとんどなかった。しかし、自分の作品づくりにこうまで自分の意思が反映できない窯の共同使用には、大きな不満が残った。「私は今後決して窯の共用は しない ・・・ と心に誓った」37。これが、今回の滞在中のリーチが得た大きな教訓であった。このときの安堵村訪問にあっては、よほどこの出来事がリーチの心を強くとらえていたのであろう。この回想録には、それ以外の、たとえば新居の室内の様子や仕事場の様子、一枝夫人や娘の陽のことなどについては、いっさい触れられていない。

しかし一方の富本には、別の記憶が残っていた。のちに、こう回想する。ちょうどリーチが北京に滞在していたときにこさえた、土焼に青磁をかけた台所で普段に使っている自製のコーヒー器を、ぜひともこの機会に彼に見せ、意見を聞きたかった。「彼は手に取つて裏を見、内部を見、撫で廻した後静かに机へ戻し凡てを自分は好きだが只把手が僕のものよりは下手だと言うた」38。これを聞いた富本は、「有難い彼の批評を感謝した」39

短い滞在を終えると、予定どおりに、リーチは上京した。そして翌年(一九一七年)の三月、千葉の安孫子に住む柳宗悦夫妻の協力と六代乾山の指導を得て窯と仕事場を設け、再び日本における製陶活動に入っていった。

二.西村邸滞在と富本憲吉氏夫妻陶器展覧會、そして陶の誕生

リーチ同様に、憲吉と一枝の夫婦にとっても、一九一七(大正六)年は、残されている文献から判断する限り、いままでに増して多忙で、極めて変化に富んだ一年となった。

一枝の「結婚する前と結婚してから」と題されたエッセイが『婦人公論』の一月号を飾った。書き出しは、こうである。「私達は今田舎にゐる。それが心の爲めにも身體の爲めにも非常に好い。ここは美しい。私達は結び合つた山と、いくら見ても遥かな田園の空氣を吸つて常に最も深い熱心を以て生活を營むでゐる」40。次に結婚前の自分を振り返る。「評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと悶躁いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした」41。この部分の記述は、青鞜のころの自分を思い出して書いているのであろうか。そして「千九百十四年十月、私は夫と結婚した。突然、この私の上に起つたものは、遂に私の轉移期となつた。……千九百十五年三月上旬、私は彼と都會を出立してこの田舎に來た。……彼は傲慢と騒音と華美にして軽薄な都會を大嫌ひである。彼はここを遥かに好み、ここでこそ、私達の生涯の爲めに新らしく家を建て、相互ひに好く理解し提携してゆくことが出來る。最も深い熱心で飽くことなく美しい模樣を造りまこと正しき人の道に進みゆくことの出來る事を諄々と語つた」42。しかし、ときとして、ふたりのあいだに葛藤や闘争が生じる。「彼と私は、思想に於いてまだまだ酷く掛け離れてゐる。長い間語らずに怒り合ふ時もある。二人とも興奮しきつて沈黙つて大地をみてゐる時もある。もう別れてしまふやうな話までもち出す。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない」43。最高の目的のために正道を歩んでいる、いまの自分たちの姿を見つめなおす。喜びが胸に込み上げる。「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる。そして私達は、私達の全力を注いで幼兒の敎養と私達の仕事につき進んでゐる」44

こうした、ふたりの全力を挙げての育児と製陶のなか、この間、神近市子、濱田庄司、そしてバーナード・リーチなどの訪問を受けていたのであるが、今度は、この夫婦が友人宅へ遊びにいく機会が巡ってきた。それは、二月一〇日から約一箇月間の和歌山の新宮にある西村伊作邸への滞在旅行であった45

伊作は大石家の長男として生を受けるも、母方の本家の跡取りが途絶えたこともあり、幼少のころに西村家の当主となると、莫大な資産を相続し、その後、叔父の大石誠之助の影響もあり、社会主義思想に共鳴する一方で、生活の欧米化にも強い関心を示していた。のちに伊作は、教育者として自分の理想を具現化すべく、自由主義的な校風をもつ文化学院を東京の地において創立する。この訪問のときはまだ二歳に満たない陽であったが、長じてこの文化学院に籍を置くことになる。

一枝の妹の福美とかつて淡い恋仲にあった佐藤春夫も新宮の出身で、しばしば西村邸に出入りしていたし、また、かつてリーチの楽焼の師匠を探すに際して憲吉に六代乾山の存在を教えた石井柏亭も、西村家の賓客となっていた。柏亭が西村の館を訪れたのは、一九一三(大正二)年の七月一七日で、その日からちょうど一箇月間の寄宿であった。憲吉の家族が訪れるのは、それからおおよそ三年半ののちのことになるものの、訪問客の受け入れの様子などについては、柏亭の場合と、そう変わりはないものと思われるので、『柏亭自伝』のなかから、それに該当する箇所を引用して、参考までに再現してみたいと思う。

私を載せた船が紀州の勝浦港へ入った……誰か迎えに来てくれることだろうと甲板に立って見張っていると、沖野[岩三郎]牧師の突立った一艘の艀船はこっちへ向かってきた。やがて艀船へ移った私は牧師の傍にいる白服の日に焼けた人を西村と推知して挨拶を交したのである。……私達はこのごろ出来た軽便鉄道によってすぐに目的の新宮へ行くことにした。……西村の家は停車場から数町を出でぬ、新宮の町外れにある。……西村自身の設計になったこの簡朴な洋館は井才田の崖の上に立っている。……けれども私にあてがわれたのはこの母屋の洋館ではなく離れの方である。……この間いつもこの離れ家に起臥し、食事の時だけ母屋の食堂へ行っては西村の人達と食事を共にしたのである。……朝などは英国風でベーコン・エッグ、オートミールなどとパンと紅茶であった46

憲吉は伊作よりも二歳年下であったものの、ふたりは同世代に属していた。共通する話題は、やはり美術や教育、そして政治のことだったであろう。伊作は、佐藤春夫や与謝野鉄幹・晶子夫妻、そして石井柏亭などの文化人との交流をとおして美術に明るかった。そして、陶器をつくることを趣味としていた。伊作は、自伝『我に益あり』のなかで、「富本氏は彼の妻とともに新宮の私の家に来て一ヵ月以上も泊まっていた。その間に私といっしょに陶器を作ったりした」47と書いている。また伊作は、賀川豊彦や堺利彦のような社会主義者とも面識があったし、政治的な話としては、兵役を避けてシンガポールに渡ったことや、叔父の大石誠之助が大逆事件に連座して死刑に処されたときの自分のとった行動などについて、憲吉や一枝に話したにちがいない。一方憲吉は、同じく徴兵を逃れる目的もひとつにはあって渡英した経緯を語り、英国スタイルの朝食に供されるベーコン・エッグや紅茶を目にすると、曾遊の地であるロンドンに思いを馳せながら、かの地での下宿生活のこと、博物館や学校での学習のこと、さらにはウィリアム・モリスの思想や実践などのことについて話題を提供したものと思われる。相手が伊作ということもあって、『美術新報』に寄稿した「ウイリアム・モリスの話」では、官憲の目を恐れて、政治活動家としてのモリスの側面やモリスの社会主義思想には意識的に触れなかったこともまた、告白したかもしれない。あるいは逆に、それをためらったかもしれない。他方、『婦人公論』一月号に掲載された一枝の「結婚する前と結婚してから」も、みんなの関心を集めたにちがいない。さらに、教育に関心をもつ伊作と一枝のあいだでは、陽の育児方針や将来の教育などについて、とくに意見の交換がなされたことであろう。

西洋のライフスタイルと価値観を着実に実践していた西村宅での滞在を終え、安堵村の自宅へ帰った富本夫婦は、しばらくはその知的衝撃の余韻が残っていたかもしれなかった。そうしたなか、『美術』四月号が発刊された。この号には、「富本憲吉君の藝術」と題された特集が組まれ、七人の執筆者によって憲吉の人物評や作品評が開陳されていた。この特集を企画したのは坂井犀水であったと思われる。執筆者名と題目を列挙してみよう。田中喜作の「何人の作品にも見られない美しい追憶」、水落露石の「土を玉に」、西川一草亭の「軽雋な人格な人」、岡田三郎助の「即興的なものが多かつた」、永原孝太郎の「趣味の高い美術家氣質の人」、バアナード・リーチの「『アイノコ』の眞意義(原文對照)」、そして大澤三之助の「技術家として立派な人格」。内容は、その題目からも連想できるように、総じて憲吉の高潔な性格と作風とを讃えるものであった。

この特集「富本憲吉君の藝術」には、さらにもう一編、妻である一枝の「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」も、あわせて掲載されていた。脱稿日は「一九一七、三、一九」と末尾に記されている。安堵帰村からわずか数日で書き上げ、寄稿したのであろうか。そのなかで一枝は、夫の正直で悲壮なまでの日々の 工場 こうば での奮闘ぶりを紹介する一方で、憲吉をこう讃美するのである。

 模樣について、製陶について、今日の彼を導いたものは、矢張り細心の研究であつた。……恰度良心と思想が一致であらねばならなぬ如に、彼の藝術は良心と仕事が常に一致して働いている。……彼は、彼の模様が、未だに人々に理解されず、少しの注意も拂つてゐない今の世に對して決していゝ感情をもつてゐない。……惡辣な手段を常使してゐる者と、正直な方法で仕事をしてゐるものとが、何故もつとはつきり區別されぬだろう。どうして彼の模樣がもつとよく人々等に解つてくれぬか。……總てこんな事が彼に孤獨の感じを起させてゆく、彼の道は寂しい、しかも、苦しい。けれど、それは總ての「先驅者」の運命ではなかつたろうか。いきほい彼は、沈黙で心の感激を抑えてゐる。……これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう。けれ共、不幸にして、そんな時期は、まだまだめぐつて來まい。……何故、正直な方法によつて勝つことがこんなに困難なのか、私は眞當に考へずにはおれなくなる48

妻の一枝こそが、ほかの誰よりも、憲吉の最大かつ最良の理解者であった。そして、この一枝のエッセイのあとの次の頁に、実は憲吉の「工房より」が続く。そのなかで憲吉は、自分の念願をこう書きつけるのである。

 大仕掛に安いものを澤山造るには可なりの資金が必要であります、私は今その資金を何うすれば良いか、せめて陶器だけでも何うにかして見たいと思ひますが私の貧しい財産では一寸出來兼ねます。若し私の望みが少しでも達せられて安い陶器で私の考案模樣になつたものが澤山市場に現はれて今ある俗極まる普通陶器と値でも質でゞも戰つて行ける日があるならば大變に面白いと思ひます。私は今、日夜その事を思ひつゞけます49

資金の問題を何とか克服して、自分の模様になる美しくも安価な陶器を普通の人びとの生活のために量産する――これが本窯を安堵の地に築くにあたっての憲吉の望みであり、目標でもあった。まさしく、一枝の「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」と憲吉の「工房より」は、偶然の結果産物とはいいがたい、夫婦相和合した一体の論旨によって構成された、ひとつのストーリーをもつ、一種の絵巻物となっていたのである。

夫婦和合の道は、六月に東京で開催された展覧会へと、さらにつながっていった。その展覧会には、東京朝日新聞の記事では「富本夫妻の陶器」、また『美術』の記事においては「富本憲吉氏夫妻陶器展覧會」と銘打ってあった。「富本憲吉の陶器展」ではなく、なぜ「夫妻の陶器展」なのだろうか。

一九二五(大正一四)年八月号の『アトリエ』に「富本憲吉氏の窯藝」を寄稿している淺川伯敎は、そのエッセイなかで、「夫人は眞剣に愛兒の敎育の事を考へて居る。そうして其間に御勝手もやつたり時に陶器の畫も畫く」50と書いている。ここから判断すると、当時一枝も、本気か遊び心かは別にして、陶器に絵を描いていたようである。したがって、「富本憲吉氏夫妻陶器展覧會」は、憲吉と一枝の夫婦二人展のようにも考えられる。しかしその一方で、以下のような推論もまた、成り立つのではないだろうか。

「結婚する前と結婚してから」と題された一枝のエッセイについて、すでに上で紹介しているが、そのわずかな分量の引用文にあってさえも、主語にはしばしば「私達は」が使われ、所有格も単数形ではなく複数形の「私達の」が用いられ、「私達の生涯」「私達の全力」そして「私達の仕事」といった用例を認めることができる。他方、憲吉もまた、その都度着目を促してきたように、この間「われら」とか「小生等」とか「我等」といった複数形の所有格を用いた表現を手紙や文章のなかで使用していた。これらのことから推量できることは、この時期この夫婦には、「私の――」ではなく、たとえば「私達の家」「私達の子ども」「私達の窯」、そしてそこから誕生する「私達の陶器」といった「私達の」にかかわる所有の観念がすでに定着していたのではないかということである。換言すれば、これこそが、憲吉が結婚の意思を一枝に伝えるときに表現した「尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家」の具体化された一例だったのではないかということである。

「結婚する前と結婚してから」のなかで一枝が告白している「彼と私は、思想に於いてまだまだ酷く掛け離れてゐる。長い間語らずに怒り合ふ時もある。二人とも興奮しきつて沈黙つて大地をみてゐる時もある。もう別れてしまふやうな話までもち出す。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない。……夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる」という記述内容は、家庭や育児や仕事といったものにかかわって「単純な自然的な正直な生活」を説く憲吉と、それをいまだ十分に会得できずにもがき苦しむ一枝の姿が描写されているのではあるまいか。

封建的なそれに代わって、まさしく近代的な、家庭内の組織原理の革新がいまここに起きているのである。すべてが対等かつ共有によって成り立つ家族という単位の共同体が、この新しい家にあってこの時期に胎動しており、そのことの一環として、「富本夫妻の陶器」あるいは「富本憲吉氏夫妻陶器展覧會」という名称が、確かな論理的必然性のもとに生み出されていったのではないだろうか。

六月一二日の東京朝日新聞の「文藝美術」欄に、以下の予告記事を読むことができる。

富本夫妻の陶器  神田小川町流逸荘にては來る十五日より廿一迄富本憲吉氏夫妻の作品たる陶器六七十點、素描畫卅點を陳列す51

たとえその一部に一枝が絵を描いた陶器や素描が含まれていたとしても、いや、おそらく含まれていたであろうが、それにもかかわらず、ここに予定されている展覧会は、この記事の「富本憲吉氏夫妻の作品たる陶器と素描」という表現が端的に示すように、憲吉と一枝が独自に製作した作品が独立してそれぞれ個別に展示される二人展や合同展のようなものではなく、まさしく分割しがたい一組の夫婦を製作主体とする協同作品が陳列される単独の個展だったものと考えられるが、いかがだろうか。

そして『美術』八月号の雪堂(坂井犀水)による「夏期の諸展覧會」の記事は、「白磁大花瓶(白木蓮彫模樣)」と「飾皿(竹林月夜)」の二点の図版を添えたうえで、「富本憲吉氏夫妻陶器展覧會」と題して、次のように評したのであった。

 製陶の技の益進めると共に實用的堅實を加へた。白木蓮彫模樣白磁大花瓶は渾厚、九號白磁菓子器は精巧なる薄手を以て縁や底の反りに鋭敏な感覚を現はし、竹林月夜の飾皿の繪は南畫風に筆者の感興を豊かに傳へて居る。圖案に作品に皆ヴヰヴヰッドなる氏の感覺を反映して居る。氏は既に素人よりは黒人の巧みを見せて居る52

憲吉の思い出によると、幼年時代の実家には、土塀に囲まれた中庭に面した南向きの四畳半の部屋があり、「庭には芭蕉と古い大木の白木蓮の木」53があった。ひょっとすると、この中庭の白木蓮が、このときの出品作のひとつである「白磁大花瓶(白木蓮彫模樣)」の模様として描かれていたのかもしれない。一方の「竹林月夜」については、晩年の座談会の席で、憲吉はこう話している。「リーチとあの家の前に座って、どうだ、これを見ていると南京の風景もたくさんだとなるだろう。これを一つ模様にしようと思っているんだけれども、早い者が勝ちだというたのをおぼえているんです。そうして満月の時にそこを歩いた。それであれをすぐ描いたんです」54。もしそうであるとするならば、「竹林月夜」は、昨年(一九一六年)の暮れに、中国から帰国したリーチが上京の途中で安堵村に滞在したおりに、ふたりして、競うようにして製作した作品ということになるのではなかろうか。

この展覧会は、とりわけ次の三つの点において注目されなければならないだろう。第一点は、すでに述べてきたように、憲吉と一枝の生き方や思想内容とも密接にかかわる、夫婦名義の展覧会であったという点である。二点目は、「竹林月夜」が公開されているということである。おそらくこれが初公開だったのではないかと思われるし、これよりのち、代表作中の代表作として、生涯を通じてこの模様が憲吉の手によって繰り返し生み出されていくことになるのである。さらに第三点として、「氏は既に素人よりは黒人の巧みを見せて居る」という、雪堂による評価にも、目を向けてよいだろう。「雪堂」を雅号にもつ坂井犀水(本名は義三)と富本の交流は深くて長い。雪堂は、富本が何を求め、何に苦しんでいるのかをこの間ずっと見守ってきた編集者兼批評家であった。「黒人の巧み」という表現には、はじめて白磁が展覧されたことへの讃辞の意味も含まれていたものと思われる。以上に挙げる三点から判断して、この展覧会は、憲吉の製陶個人史に残る極めて重要な最初期の展覧会であり、そしてそれはまた、おそらくは安堵村に築窯して以降の最初の個展となるものだったのである。同じく『美術』八月号の「消息」欄には、「富本憲吉氏 家族同伴六月下旬上京七月下旬歸郷せり」55の文字が並ぶ。

この展覧会のあと、さらに陶器會が続く。東京朝日新聞によると、「富本憲吉陶器會 富本氏作の壷菓子器湯呑中皿等日常品十種類の中一種類を一口(會費八圓)として希望者に頒つ申込所神田小川町流逸荘期限本年十月中」56。そして、引き続き翌年(一九一八年)の六月にも、これと同じ形式の夫妻展が開催された。「富本憲吉氏夫妻陶磁器展覧會 二十日より二十四日迄神田流逸荘に開く」57。ただよく見ると、展覧会の名称の一部が、「陶器展覧會」から「陶磁器展覧會」へと変化していた。

三越を会場に大阪工藝會や十五日會が催す合同展への出品、陶器會と称す頒布会形式の作品の注文販売、国民美術協会主催の公募展への出品、これに加えて、今回の流逸荘における個展(夫婦名義ではあるものの)――このようして、憲吉にとっての作品の発表および販売の形式が、この時期までにほぼ整ったといえる。

しかし、それ以上にこの年の何といっても、夫婦和合のハイライトとなるものは、一一月八日に次女が生まれたことであった。この夫婦は、この子に「陶」と命名した。「私達の陶器」ならぬ、「私達の陶」の誕生した瞬間であった。

著作集3の第二章「一枝の進路選択と青鞜社時代」で詳述しているように、一枝にとって「陶器」という言葉は、おそらく特別な意味をもつものであったにちがいなかった。第一二回巽画会に出品し、三等賞銅牌を受賞したのが《陶器》と題された二曲一双の屏風だったからである。そしてそのとき、そのお祝いとして憲吉から送られてきたものが、木版画の「壺」という作品だった。生まれてきた女の子の名を決めるにあたって、一枝には、そのような五年前のこともまた、頭に浮かんでいたのではないだろうか。

述べてきたように、一九一七(大正六)年は、憲吉と一枝の夫婦にとって、大変刺激的な一年だった。目を他国に移せば、この年にロシアに革命が起こり、世界初となる社会主義国家の樹立を促した。そのことは、日本においても、労働運動や社会主義運動、そして婦人問題や部落解放といった革新的な闘いに影響を及ぼし、さらに一段とデモクラシーへの関心が高まっていく機運を招来したのであった。

三.製陶と模様に苦闘する憲吉

憲吉が製陶の道に進むにあたって特徴的なことは、師匠や親方と呼ばれるような人のもとに弟子入りし、修行をしたり、技術的鍛錬を行なったりしていないということである。それは、機会がなかったというよりも、自ら避けて通ったのではないかと考えられる。

かつてこのようなことがあった。憲吉はロンドン滞在中に、新家孝正に随伴して回教建築の調査のためエジプトとインドへ出かけている。その旅行が終わって、ギリシャ沖の船中より南薫造に宛てて手紙を書いているが、そのなかに、「初めて他人に使われて厭やな思ひをした歸り途……此手紙をかく」58という文言が認められる。また帰国後、学生時代とロンドン時代に世話になっていた大沢三之助から紹介されて、京橋区南鞘町の清水組(清水満之助本店)の事務所で憲吉は働いているが、この仕事について、同じく南に宛てた手紙のなかで、「一日に一円や一円五〇銭で頭の中、脚の形ち迠くづされて、は、タマラぬタマラぬ」59と、不満を述べている。

こうしたことから判断できることは、憲吉にとっては、人に使われたり、人から指図を受けたりすることは極めて不快なことであり、そうした性格に由来して、弟子入りや人に教えを請うようなことは最初から念頭になかったのではないだろうか。

「陶器について何の知識も經験もない私が、騒がしい東京を嫌つて大和へ歸つて陶器や模樣を造ると云ひ出した時、友人達は皆非常に心配してとめて呉れた事を記憶して居る」60。次の短い言葉に、憲吉の決意の堅さが表出する。

鶏となり人に飼はれて美食せむより、夜鷹となりて空洞に眠らむ61

しかしそれは、多くの友だちが心配したように、苦闘の道であったにちがいない。製陶にかかわって素人にも等しい憲吉にとっては、ほとんどすべてがはじめての体験であり、試行錯誤の繰り返し、そして失望や落胆の連続だったのではないだろうか。憲吉は、築窯当時をこう振り返る。

 大正五年頃[正しくは、大正四(一九一五)年五月]、陶器を焼くために小さいながら本窯といふものを初めて築く時、私は燃料を石炭とするか松薪を使はうかと色々迷つたものだ。どうせ耐火煉瓦を使つて窯を築く位なら思ひきつて石炭だけで焼いても見たかつたが……散々迷つた揚句、日本在來の「登り窯」の樣式を採つて、松薪も石炭も併用出來るやうなものにして置いて、石炭で試験的に染附、繪高麗を焼いて見たが、結果は思はしくなかった62

やはり、石炭より松薪の方がいいのだろうか。「新しく築かれたる窯に初めて黒き煙立ち登り、暗き星月夜は東の山よりさす薄き光につゝまれて朝とならむとす。小さき鳥の音微かに聞え、吾が工場に輕き風吹く」63。これが初窯のときの様子であろう。しかし、心安らぐ時間はそう長くは続かない。翌年(一九一六年)の二月、「陶器會」の作品を焼いているときの出来事である。「餘り焼きつヾけ候ため窯の底部やけてとけ全然改築をよぎなくされ候。耐火煉瓦が去年四銭五厘のもの八銭にても市場になく此れ等の費用のため殆むど會の利益をろうだんされ申し候」64。何ということか、最初の「陶器會」の利益のほぼすべてが、そのまま、破損した窯の改築費用に消えてしまったのである。

当初、土や うわぐすり についても、憲吉は他人に頼ることをせず、地元で調達した。「本窯を築くと、付近の溜め池の底の土を水のたまっていない冬の間にとっておいて素地に使った。釉は村の染め物屋から紺屋灰(染め物用のアルカリをとった灰のカス)をもらった」65。しかし、 轆轤 ろくろ はまだうまく引けなかったようで、人の手を借りる。「そのころロクロはまだ自分ではやらず、京都の職人をやとっていた……はじめは、薄黒い陶器をつくっていたが、やがて白磁を作りたくなった。そのためには、溜め池の土ではいけないので、京都から磁器の原料を取り寄せて、いろいろ苦心した結果、やっと思い通りの磁器ができるようになった。磁器を手掛けるころにはロクロも自分で引くようになっていた」66

上の引用のなかで憲吉は、「いろいろ苦心した結果」という表現を使っているが、そのなかには、次のような苦心も含まれていたであろう。「青磁の釉薬を石臼に麿する事二日。吾が手は器機の如くまろくまろく動くのみ。見るものは唯赤灰色の泥汁のみ細き線となり小さき音を立てゝ落つ。油切れて把手の鳴る音、工場の静寂を破りてきしる。あヽ吾が製陶の病、將に膏盲に入る」67。そうした苦闘する憲吉の姿を一枝は日々そばで見ていた。その様子を一枝はこう描写する。

今度の窯で磁器を焼くについて、その用石を求める爲に、彼は出來るだけ良種な用石を欲しいといつて、陶説や支那の古い製陶の本を随分長い間あさつて、羽二重の小布で袋を作り、自分で氣に入る迄縫つたり、ほどいてみたりして、とにかくその出來た袋で毎日、時間を切つて少しづゝ用石をこし――どんなにあせつてもそれは草の露ほどづヽしかたまらぬもの――で根氣よく、その露の雫程の石をせつせとためてゐた68

憲吉は、すでにできた磁器の用石を京都あたりから取り寄せるようなことはしない。一枝は続けて、このようにいう。「彼は、優種で親切な昔の磁器の性質が、いやと云ふ程、頭に浸み込んでゐて、とても他から取り寄せたもの位では氣がすまない。……しかし、この結果は恐ろしい程、出來上つてくる品物の上に現はれる」69

以上の二箇所の引用文は、末尾に「一九一七年三月一七日」という脱稿の日付が入った、一枝のエッセイ「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」のなかの一節である。憲吉が磁器の製作にとりかかったのは、おそらくこのころからであろう。そして一枝は、「今度の窯で磁器を焼く」といっているが、そのことは、六月一五日より流逸荘で開かれる富本憲吉氏夫妻陶器展覧會へ向けての作品づくりのことを意味しており、実際に展示された「白磁大花瓶(白木蓮彫模樣)」や「九號白磁菓子器」は、そうしたこの時期の窯でつくられた作品だったのではないだろうか。

さらに苦闘が続く。今度は温度の問題である。楽焼からはじまって、土焼、そして石焼と進むに従って、求められる窯の温度も高温になる。「燃せど燃せど熱のあがらぬ窯と、つめたき人の心こそ世に情なき極なりける」70。温度がどうしても上がらない、そのために満足に焼けない。「 生焼 なまやけ の陶器、それは白飯に混ずる砂をかむが如き不愉快さなり」71。どこに問題があるのだろう。どう解決すればいいのだろうか。悩む。このようなとき憲吉は、しみじみと思う。家計を預かる自分の妻のことを、そして、収入に結びつかない自分の職業のことを。「『薪代――職業費』と、わが妻は彼女の出納簿に記入し置けり。わが一家生計の幾分の一も満たすに足らざるわが職業の持主たるわれは彼女のために恥づ」72

周りには、一枝以外にこうした憲吉の苦しみの闘いを知る者はいない。憲吉はこう記す。「『陶器をおやりですか、お楽しみですな』と云う人あり。如何に答ふ可きかを知らず」73。そしてこうも書く。「遊人とはぶらぶらする人」の意味をもつこの村の方言であると前置きをし、「吾等まことの遊人なるか。見よ、垣根にはつくれる花うつくしく咲き、吾等の幼兒は譬へば若芽のはじけ育つが如く成長し、棚には數十の陶器光りを放つ」74。工房から外を眺めると、「曇りて風なき秋の午後、幼兒と妻と遊ぶ聲す」75。苦闘と孤独を慰める安息と矜持の一瞬であった。

こうした連続する、いばらのごとき苦難の道を歩きながら、憲吉は悟る。「われ思う。此の道の最難なりと思うことは……陶土の選定、燃料の良否、購入、良き職人の識別と操縦」76。最後の「良き職人の識別と操縦」という文言には、「捏らる可く水を待つ陶土、燃さるべく乾ききりたる松薪、主人の眼を盗まむとする雇人」77がいたことからくる、教訓も含まれているのであろうか。

この時期の苦難体験は製陶だけに止まらない。一方で模様についてもまた、憲吉の奮闘の日々が続いていた。

 「模樣より模樣を造る可からず。」
 この句のためにわれは暑き日、寒き夕暮れ、大和川のほとりを、東に西に歩みつかれたるを記憶す78

著作集3の第三章「憲吉の工芸思想と模索的実践」のなかで詳しく述べているように、思い起こせば、一九一三(大正二)年の夏のこと、リーチのあとを追うように楽焼をはじめたものの、つくるものはどれも、よく見ると自分のオリジナルではない。それは、過去に見たことのある作品や雑誌に掲載されている図版の残像や残滓ではないか。そのことに気づいた憲吉は、ちょうどそのとき避暑で箱根に来ていたリーチを訪ねる。そこで、リーチと語り合い、考え抜き、たどり着いたのが、過去の他人の模様を模して、自分の模様にしないという自分との燃えたぎるような熱い誓いであった。これがそれ以降、「模樣より模樣を造る可からず」という金言に凝集され、生涯を通じて富本作品の基調をなす旋律となっていくのである。憲吉はこのようにいう。

 私は私自身の模樣を見る時以下のことを念として取捨する。模樣から模樣を造らなかつたか、立派な古い模樣を踏臺として自分の模樣を造りその踏臺を人知れずなげ散らしてさも自分自身で創めた如く装うては居ぬか79

そのためには、他人の過去の模様の陳列品のごとき骨董は、工芸家には不要である、と考える。憲吉は、骨董を麻薬に見立て、それを手本にしたり、それを模倣したりする行為を厳しく戒める。

作家にとつて古物陶酔は皿に盛られた美味でそれを喰べるうちに僅少な毒が、たとへば阿片常習者の樣な病状を與へる。恐るべきではないか80

もちろんのこと、他人の模様に影響を受けずに、全く独自の模様をつくるには、大きな苦しみが伴う。これから逃げることなく、何としてでもそれに耐え、新しい模様をつくらねばならぬ――これこそが、憲吉の模様にかかわる苦闘の内実であった。「若し嚴重な意味で模樣を造らず、繰りかへしとつぎはぎで安心出來るなら、此の熱火に投げ入れられる樣な苦しみはないだろう」81。しかしながら、多くは安易な模様製作に流れ、憲吉のこうした主張もこうした苦しみも、理解する人はほとんどいない。「苦しみを知らない多くの人びとに、私の云はうとする處が如何に千萬言を費やしても解つて貰へる道理がないからよす、私は骨董を排斥する」82。そしてひたすら自分を鼓舞する。「新しく陶器を造り出す力、それは知識によつても古名作を數多く蔵された博物館によつてゞもない。……自分にほしいのは一圖に立派な新陶器を造り出す力」83なのである。こうして憲吉は、「立派な新陶器を造り出す力」の探索へと向かう。得られた結論は――「眞正の藝術はその生活より湧き上つたものでなければならぬ事を私は堅く信じる」84

先人の模様を模倣しないためには、それを見ないこと。それに代わって、自分の生活に目を向けること。するとそこには、自分だけが気づく、感動の世界がある――憲吉はそれを追い求めた。村の道を歩いた。川の堤に腰かけた。野や山を駆け巡った。自分の生活のなかの、どうかすると見落としてしまいそうな、かすかな美の息遣いのようなものを、自分の目と手だけを頼りに、そっと一瞬にしてすくい取ってできたもの――これこそが、真正の憲吉独自の風景模様であり、植物模様であった。

「竹林月夜」【図二】に並ぶ憲吉の代表作である「大和川急雨」【図三】の模様が生み出された瞬間について、五〇年以上が立っても娘の陽は鮮明に記憶していた。以下の文章は、一九七五年に、憲吉の著書『窯邊雜記』(初版は一九二五年刊)が復刻されるにあたって、陽が書き記した「新装復刻にあたって」のなかの一節である。

 私が生まれたのは大正四年の八月である。だから、『窯辺雑記』に記されているいろいろな事柄や父の心情は、いいかえれば私と二つ違いの妹、陶や私の幼年時代の側面を綴るものでもあるといえよう。……父の模様「大和川急雨」が出来た日のことも忘れることはできない。豪雨と雷のなかをビクやバケツをぶらさげて、父のあとから走りに走って軽便鉄道のガードの下に駆け込み、雨やどりをしたのだが、父がその時マッチの燃えかすで急雨の風景をタバコの箱に描いていたことは知らなかった。ただ、びしょ濡れになった服地の肌にはりついた冷たさだけがよみがえってくる85

陶にとっても、やはり大和川は、思い出の地であったにちがいない。ここは、陶片採集にとっての絶好の場所でもあったのである。憲吉は、こう書いている。

 私が陶片採集をやり出してから幾年になるか恐らく二十年にもなるだらう。……私のいつも漁り歩く場所は矢張り大和川を中心にした半里四方……十歳になる妹の方の子供まで氣に入つたものがあれば持つて歸つて見せる。それが大抵の場合美しい。この子供は陶器の美を終生忘れまいと思ふ86

そして、「曲る道(十字路)」【図四】も「竹林月夜」も、陽と陶にとっては、自分たちの生活体験の一部と切っても切り離せない、まさに生活のなかから産み落とされた模様であった。

同じく模様「曲る道」は私と妹が迷い子になって泣いていた場所であったし、「竹林月夜」の三層の倉のある家にはひでりの時に水を貰いに行った87

植物模様についても、同様のことがいえた。山野を駆け巡っていたとき、心打たれるアザミの花を発見した。そのときの様子を憲吉は、こう書き留めている。

 表紙の薊は本年夏、大和伊賀の國境に近き一寸した高原にて發見致し候薊にて、氣候の關係にて花は總てうつむき咲けるが驚かれ申候。小生の村より僅かに四里、山へ登るだけにて既に氣候もちがひ又有樣から彩まで違ふ事貴兄の所謂宿命に近からんと思われ一氣に描き上げ候。……因みに模樣のモテーブは『サワアザミ』と申す由に候88

一九一九(大正八)年に沖野岩三郎の『宿命』が刊行された。おそらくは、二年前に西村伊作邸に滞在したおりに、伊作から憲吉は沖野を紹介されていたのであろう。この『宿命』の表紙絵に富本の「サワアザミ」模様が使われており、上の一文は、「富本憲吉氏より著者へ」と題して、その経緯が述べられたものである。

憲吉は、村より四里ほど離れた高原で、偶然にもサワアザミを発見した。同じアザミであっても、花を天に向けて咲かせるアーティチョーク(チョウセンアザミ)とは異なり、首を垂れるように、地に向けて花を咲かせるアザミであった。著作集2『ウィリアム・モリスと富本憲吉』の第二部第二章「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのモリス研究」のなかで詳細に検討しているように、憲吉にとってこのサワアザミの発見は、これまで英国留学から持ち帰ったアーティチョーク(チョウセンアザミ)の模様とは別に、憲吉独自のアザミ模様を創出するうえで、一種の「宿命」に似て、極めて重要な意味をもつものであった。

「大和川急雨」などの風景模様と同様に、「サワアザミ」の植物模様もまた、陽の心にしっかりと根をつけていた。陽は後年、この「サワアザミ」に再会した。そのときのことについて、次のように書いている。

 その一輪のアザミの花はうなだれて咲き、鋭いとげをもつ葉先が力強く描かれていました。一幅の水墨画でありましたが、私はその絵の前からすぐに立ち去ることができないでいたのです。
 亡父の遺作展会場の一ぐうでのことであります。作陶五十年間に父が作り出した数多い作品のなかから、それぞれの年代をおって選び出された数百点の、それはひとつでありました。
 ‶沢アザミ″と題されたこの絵に描かれた花は、ふつうのアザミとやや異なった種類のもののようで、茎細く、花の色も少し紫がかっていました。この花から作り出された模様は、父の作った皿につぼに、小さな茶器から胸飾りにいたるまで自由に使いわけ、絵つけされています89

こうして憲吉は、「模樣より模樣を造る可からず」という金言を胸に秘め、先人に倣わず、過去を模倣せず、いまに生きる自らの生活様式のなかから、その一場面を巧みに切り取り、この時期、風景模様と植物模様を創案していったのであった。

憲吉は模様を、こうとらえていた。「私は模樣と云ふ語のうちに立體的のもの及び外形等をも含ませて考へて居る。……形は身體骨組であり、模樣はその衣服である。形と模樣とは相互に連關して初めて一つの生命を造る」90。つまり、壺であれば壺の形と、その表面に描かれる模様とは、相互に連関しあう一体のものとして考えられているのである。もっとも、描かれる模様は、キャンバスに描かれる絵画のような細密画としては成立しない。また形にしても、人体の彫像のごとき具象性はほとんどない。それゆえに、「模樣は繪彫刻よりも一層抽象的である」91。こうして憲吉は、模様にも独自の新たな世界があることを要求する。

繪は繪の世界、彫刻は彫刻の世界、模樣も亦それ特別な世界92

かくして、「模樣より模樣を造る可からず」という鉄のような頑強な精神は、絵画や彫刻がそれぞれに独自の世界であるように、同じく「模樣も亦それ特別な世界[である]」といえるまでに憲吉を鍛えていった。著作集2『ウィリアム・モリスと富本憲吉』の第二部第三章「ロンドン生活とエジプトおよびインドへの調査旅行」においてすでに検討を加えているように、英国留学中、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を訪問したおり、この日本とは異なり、絵画や彫刻といった純正美術と、工芸のような装飾美術とが、同等の価値をもって展示されていることに驚いた憲吉は、帰国後そのことを幾度となく雑誌のなかで指摘していた。たとえば、こう述べる。

繪と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンシントン博物館[当時の正式名称は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館]で、その考えで列べてある列品によつて、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります93

「模樣も亦それ特別な世界」という言葉は、図案や模様が、絵画や彫刻の従属物や派生物ではないという、この間の憲吉の強い信念の明確な開陳であり、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の展示の指針へと、まさしくこの時期、いくらかなりとも自分が近づけたことに対する自信の一端をのぞかせているのではあるまいか。

その一方で、同じく憲吉は、陶器の製作だけではなく、他の工芸分野にも、強い関心を持ち続けていた。以下に引用する一文は、この時期より少しのちの言葉ではあるが、このように、憲吉の真に望むところは、すべての工芸品の形と模様を、自分のオリジナルでもって製作したいという一点にあった。まさしくその願望の内実は、モリスの実践活動を念頭に置いた、近代的生活の全般にわたる視覚的物質的文化にかかわっての総合的なデザインの展開なのである。

私は[初めて陶器に親しみ出した]その頃から、染物や織物や木工の事或は家具建築の事について忘れた事なく、陶器の一段落がすめば又、別の工藝品に手を染めて見たい考へで居た94

こうした願望をかたちにしたものが、結婚する少し前に美術店田中屋に開設した「富本憲吉氏圖案事務所」であった。しかしそれも、安堵村への移住もあり、自然と消滅した。いま全身を駆使して集中している製陶は、そうした流れのなかにあって、憲吉の気持ちのうえでは、全体的な関心のなかの一部にすぎなかった。実際にこの間、憲吉が創案した独自の模様が、陶器だけではなく、木下杢太郎の『和泉屋染物店』(一九一二年刊行)を第一作として、沖野岩三郎の『宿命』(一九一九年刊行)に至るまで、幾多の書籍や雑誌の表紙を飾っていった。模様を一種のイラストレイションと考えるならば、憲吉は、すでにイラストレイターでもあったのである。さらにその後、憲吉の模様(イラスト)は、書籍や雑誌の表紙絵や挿し絵として利用されるだけではなく、帯や着物などへも応用されていく。

四.リーチとの別れと新たな交友関係の展開

苦闘を重ねていたのは、この時期、憲吉だけではなかった。安孫子の地にあっては、リーチもまた奮闘中にあり、年に一度東京で開く個展を控えていた。憲吉同様にリーチもまた、製陶だけに埋没していたわけではなかった。その個展には、「自分がデザインし、そのうちの何点かは自分自身で製作したテキスタイルと家具もあわせて展示する計画を立てていた」95

そうしたなか、悲劇が起きた。火事により、工房が消失したのである。一九一九(大正八)年春のある日の早朝のことだった、柳宗悦の妻兼子の、そのことを知らせる声で目を覚ました。「恐ろしいことに、堅牢な窯以外は何も残っていなかった。私は茫然と立ち尽くした。製法書きにノート、本、道具、古い標本、デザイン、展覧会のためのテキスタイル――これらすべてが消えてなくなっていた」96。「続く何週間は、何通もの見舞いの手紙が届いた。そのなかには、すでにこれまでに自分が提供していた情報、そしてそれ以上の多くの事柄が書かれてあった――富本からのものがとくにそうであった」97。これまでに、憲吉とリーチは、製陶にかかわる苦闘や発見についての情報を日常的に交換しあっていた。リーチは、たとえば、こういうことを記憶していた。

柳家の地所にある安孫子の工房で陶器をつくっていたとき、……二〇インチの皿のちょうどその縁に刻み目のパタンをつけたいと思った。……庭で使うローラーのような……小さなローラーでパタンを刻み込むことを思い立った。試してみたらうまくいった。そのとき新発見だと思ったことを絵にして……四〇〇マイル離れた富本に葉書を送った。次の朝、安堵の富本から葉書が届いた。……私と同じ新しいローラーのアイデアが書いてあり……「こうやってごらん」という英語が書き添えられていた98

ほぼ同じ時期に同じアイデアがふたりの頭に浮かび、そのことを告げる双方からの葉書が、東海道中ですれ違ったのであった。

そこでこの火災後、憲吉は、自分がリーチから受け取っていた製法の覚え書きや体験の記録などを改めて何度もリーチに送ったのではないだろうか。工房を火事で失い、失意のなかにあったリーチにとっては、奮起を促す、温かい友情をそこに感じたことであろう。一方、憲吉には心を許す友が少なく、一枝を別にすれば、ただひとりリーチが、深い信頼で結ばれた理解者であった。

濱田庄司がリーチを知るのは、それより一年前の「大正七[一九一八]年、東京・小石川の流逸荘で開かれたリーチ展の会場からであった」99。その後、安孫子のリーチの窯を訪ね、友好を育むことになる。濱田はこう振り返る。失火後の「リーチの新しい窯については、黒田清輝さんが心配して……間もなくその窯は黒田邸の仲省吾さんが世話をして出来上がり、リーチの作陶活動が再開した。私は冬休み中、京都を離れて[東京麻布の]リーチ宅に泊まり込み、[リーチの東門窯の]仕事を手伝った。陶器のこともさることながら、美術家としての彼のすばらしい性格に、学ぶところが多かったのである」100。「しかしそれからほどない大正九[一九二〇]年夏[の六月]、リーチは帰国することになった。すでに日本で十一年を送り、三人の子供の教育のためにも帰らねばならぬと思っていたし、本国の後援者からも招かれていたからである。その際、彼は私を強く誘ってくれ、同道することになった。英国の西南端コーンウォール地方にセント・アイヴスという古い漁港があり、そこでやきものを作ろうという話であった」101

リーチの帰国は、憲吉にとって、とてもつらいものがあったであろう。何といっても、リーチの楽焼への開眼があったればこそ、そしてまた、この間ふたりの強いきずなが持続していたからこそ、憲吉のこれまでの陶芸の道もあったといえる。憲吉は、「『東洋復興』と云う四文字を半折に書いてリーチが英國へ歸へる時贈った」102。その後のあるときには、いなくなったリーチにふと思いを馳せる。作品が追憶を誘う。寂しさが憲吉の胸に迫りくる。

親しかった彼が英國へ歸り今何うして窯を築き何う云ふ風に働いて居るか、かたく再會を期して神戸で別れた以來、英國と此處とは餘りに遠い。[手もとにある彼の樂焼菓子皿の]作品を見ると、ふたりが働いた事や話した事が思ひ出されて急に寂しい感に打たれる103

一九九七(平成九)年に出版された『窯にまかせて』のなかで、さらに濱田が回顧しているところによれば、英国へ向けて出帆する少し前のことであった、「たまたまある日、[京都陶磁器]試験場の庭先で、付属伝習所の轆轤科の生徒だという元気な少年を知った。……ちょうどいいから手ほどきをしてもらうことにして、伝習所の轆轤を借りて手揉みから始めた。……少年の名前は近藤雄三君。……近藤君は、私がリーチと共に大正九[一九二〇]年に渡英した後は富本憲吉らに学び、富本が京都美大陶芸科に招かれた時も従い、富本なきあと教授から学長になった。今は悠三を名乗っている」104

一九二〇(大正九)年の八月、憲吉は、轆轤師と若者のふたりを使っていた。「轆轤をする者は鉛筆で荒くかゝれた圖案を前にはり寸法の竹を横たへて器械の樣に働く。若者は陶土を水干、又は粉末にするためにこれもよく働く。そとでは暑い陽がガンガン照り雀と蟬の聲がきこへる。私は幸福を感じる」105。このとき憲吉のもとで働いていたのが、濱田のいう、一八歳の若き近藤雄三少年(のちの悠三)だったのではないだろうか。この夏、憲吉はこういう言葉を書き残している。「ウィリアム・モ ママ リスにつき私の最も関心する處は彼れのあの結合の力、指揮の力である」106。憲吉はこのとき、三四歳になっていた。

ちょうどこのころであろうか、ひとりの老人が憲吉を訪ねてきた。憲吉が思い出すところによると、「大正一〇[一九二一]年頃だつた。しばらく無沙汰をしてゐた乾山老人が飄然として大和の私の家に來たことがあった。もう七十以上の老體で何でも乾山を後援してゐる三島(静岡縣)の友人がゐて四天王を陶器で造つてくれといふので旅費を貰つて京都奈良に佛像を研究に來たといふのである。全く思ひがけなく訪ねて來られたので、私も大いに嬉しかつた」107。憲吉は、法隆寺を案内した。道すがら乾山は、「私は三浦乾也から習つたが自分が頑固で變屈なので弟子は一人もなかつたのに、かうして日本にはあなたがゐるし、英國にリーチさんがゐるし思ひ残すことはありません」108と、何度も繰り返したという。

すでに述べたように、憲吉は、一九二〇(大正九)年の六月に、固く再会を約束して、イギリスへ帰るリーチを神戸で見送った。「その後英國に濱田君がゐられる頃はよく日本文の手紙を書いてよこしたが追々手紙の往復の數が少なくなり、お互に押しよせる生活の荒波の中で、はげしい労作に疲れて昔のやうにノンキに手紙など書かなくなつた」109。一方、美術学校では同じマンドリンのサークルに席を置き、ロンドンでは、ともに異国の文化に触れ、帰国後の「精神的な放浪生活」の一時期にあっては、親身になって支えてくれていたのが、南薫造であったが、しかしその南とも、「富本憲吉第壱回陶器會」への推薦文の執筆を依頼して以降、交流が疎になりつつあった。南もまたこの間、一九一六(大正五)年にはインドへの旅行、長男陽造の誕生、文展審査員への就任、さらに一九一八(大正七)年には東京の大久保百人町に自宅とアトリエを新築するといったように、公私にわたって忙しくしていたのである。

そうしたこの時期、憲吉にとって新しい交友関係が芽生えようとしていた。それは主として、伊藤助右衛門、柳宗悦、そして野島康三の面々で、リーチや南に代わる新たな支援者や理解者となって、それぞれがその役割を担っていくことになるのである。憲吉は具体的な名前を挙げないで、ふたりの人物について、次のように書く。

 私は數少ない友人で陶器を造る人ではなく、陶器を楽しむ人を知って居る。そのうちの一人は越後の一寒村で冬中雪に閉ぢ込められて陶器を楽しむ人である。亦多忙な著作に室内に古陶器を棚中竝べて、或は陶器に埋れるやうにして筆を執る人もある110

前者が、憲吉作品のコレクターである越後の伊藤助右衛門のことで、後者が、安孫子で窯と仕事場をつくるに際して自宅の庭をリーチに提供した宗教哲学者の柳宗悦であろう。

憲吉が死去して一年後の一九六四(昭和三九)年の六月から七月にかけて、富本憲吉を回顧する展覧会が開催され、大阪大丸、東京伊勢丹、倉敷美術館を巡回した。そのときのことを濱田庄司は、こう回想している。

私は今度の富本作品展のために主催の大阪朝日新聞社の村松氏や、会場のデパートの方達の行き届いた案内で、リーチと一緒に何人もの蒐蔵家を訪ねて見せて頂き非常にいい勉強になりました。
……特に新潟県の 能生 のう の旧家で伊藤助右衛門さんという富本の旧い友達は初期、中期の作品三百点以上、それも安堵や成城の窯へ行って求められたり、富本からわざわざ送ってよこされたり、富本が伊藤家へ滞在中書いたり素描したりしたいいものを沢山持って居られて、それを客間、居間、茶の間と一日中暮しをともにしておられます。展覧会で見るのよりもずっと身にしみる思いがしました111

この展覧会で展示する作品を選定するために、それに先立つ四月に濱田とリーチは伊藤家を訪問した。そのとき、このふたりに同行した村松寛は、のちにこう書いている。伊藤本人から直接聞いた内容ではないかと思われる。

大正のはじめ伊藤さんが早稲田の学生だった時、富本の展覧会で一眼でその作品が好きになり、一つ買った。それは富本の最初の個展で、まだ楽焼時代であった。それから兄弟以上の交友となったのである。伊藤さんは再々法隆寺に近い安堵村の富本の窯を訪れ、気に入った作があるとそのまま抱いて帰った。富本も会心の作が出来ると、東京の展覧会へ行く途中、それだけは手にもって伊藤家へ立寄って見せた。途中といっても大和から上京するのに越後を回るのだから、並々の間柄では出来ることではない。富本の白磁壺の処女作は伊藤家にある。大正八年苦労していた白磁のコツがのみこめて、はじめてこれならというのが焼上がった。個展で陳べようと上京の途次、例によって越後へ回って見せたところ、このまま置いて行けといってどうしても伊藤さんが離さない。この壺は昭和 三十一 ママ 年富本憲吉作陶四十五年記念展の時、はじめて東京に姿を現わすことになった112

ここで、「大正はじめ……富本の最初の個展」といっているのは、一九一三(大正二)年の一〇月に神田のヴィナス倶楽部で開かれた「工芸試作品展覧会」のことであろうか。このとき買い求めた楽焼がまだ伊藤家に残っていて、伊藤家訪問の際にそれをリーチが手にすることができたとすれば、リーチはおそらく深い感慨に浸ったことであろう。というのも、この年(一九一三年)の八月に、製作上の悩みを抱えた憲吉はリーチを箱根に訪ねていたし、その前年には、リーチの窯を使って憲吉は、あの記念すべき《梅鶯模様菓子鉢》を製作していたからである。同じように、濱田にとっても、懐かしかったことであろう。銀座の裏通りにある画廊の三笠で、このような富本やリーチの楽焼を眺めながら、陶器の世界に心を引きつけられていった中学時代の自分が、このとき、鮮やかに蘇ったにちがいなかったからである。

一方、憲吉と柳宗悦の出会いについては、必ずしも正確にはわからない。ただ憲吉は、晩年にこう述べている。「柳君との交友は、リーチのところへエッチングを習いに佐藤とか柳とかがきた時分からです。だからあの人が大学生だったです」113。リーチが来日するのが一九〇九(明治四二)年で、柳が東京帝国大学を卒業するのが一九一三(大正二)年であることを考えれば、憲吉と柳の親密さが増すこの時期は、最初に知り合ってすでに一〇年くらいが経過していたことになる。

一九二一(大正一〇)年の『白樺』の五月号に「富本憲吉作湯呑配布會」の広告【図五】が掲載された。この広告には、「陶器研究につき今度たてた特別の計畫をやるために金が要るので此の會をする。少しでも申込の多い事を望む。……特に湯呑を撰むだのは窯の都合と私の陶器を諸君の日常用の陶器として送りたい理由による」114と書かれている。「特別の計画」の具体的な内容については触れられていないが、すでに紹介したように、一九一七(大正六)年の『美術』四月号に掲載された「工房より」のなかで、憲吉は、「大仕掛に安いものを澤山造るには可なりの資金が必要であります、私は今その資金を何うすれば良いか、せめて陶器だけでも何うにかして見たいと思ひますが私の貧しい財産では一寸出來兼ねます」と述べている。このことを想起するならば、「特別の計画」とは、「大仕掛に安いものを澤山造る」計画だったのかもしれない。つまり、「日常用の陶器」を量産するための実験や試作に必要な資金の捻出が、この「配布會」の目的だったのではないだろうか。配布されるこの日常用の湯呑はみな同じものではあるが、焼き上がった出来具合により、価格は、五円と三円の二種類が、設定されていた。

配布会の広告と同じく、この号の『白樺』には、「富本君の陶器(廣告欄参照)」と題された柳からの推薦文もまた掲載されていた。

 自分は富本君を信じてゐる。又その作品を信じてゐる。……富本君の性格は鋭く、又その感覺は非常に速かだ。従つてその圖案も線も活きてゐる。富本君の作つた陶器の最上なものは、既に日本の偉大なる陶工の永遠な作の中に列するのだと自分は思つてゐる。それは美しく又、非常に鋭い。技巧にのみ没して死にかゝつてゐる今の日本の陶磁器界に富本君のゐる事は力強い。自分は富本君の未來を信じてゐる115

おそらくこれが、憲吉の製陶活動について柳が言及した最初の文ということになろう。こうして柳と憲吉の本格的な交流がはじまった。翌年の一九二二(大正一一)年の『中央美術』二月号において、「富本憲吉論」の特集が組まれた。この特集には、田中喜作の「稀に見るアルチスト」、佐藤碧坐の「富本君のポートレー」、長谷川傳次郎の「私との交遊」、長與善郎の「工藝美術と富本君」に加えて、柳は「富本君の陶器」という題でもって寄稿した。そこには、このようなことが書かれてあった。

 沈む信仰のかゝる時代に、再び自然への信仰を甦らしてゐるのは富本君の作品である。……私は先日あの法隆寺の塔がま近くに見える安堵村に、富本君を訪ねたその日、京都で仁清、木米、及び乾山の遺作品展覧會を見る事が出來た。私はその時益々富本君の作品に對する尊敬の念を慥める事が出來た。私は早くも近い將來に於て、それ等の著名な人々に並んで富本君の作が展覧せられ、人々が新しく驚嘆の眼を以てそれを見る日の來る事を信じて疑はない116

おそらくこのときの安堵訪問のおりに、柳は、自分が予定している朝鮮への旅行について憲吉に語り、誘ったものと思われる。一九二二(大正一一)年の九月二四日、先に京城に滞在していた柳を憲吉は訪ね、合流する。この滞在中、憲吉の関心を強く引きつけたのは、建築だった。一〇月三日の日記に、こう書きつけている。「今度來て最も驚き最も尊敬した事を聞かれるなら自分は建築と云ふ。陶器は勿論であるが以前から随分見て居たし破片での勉強も随分やつて居た爲に、種類の大半は未だ來ない前から知つて居た。然し建築は素敵だ、何と言つても造形美術のうちで建築程力強く意味あるものはなかろう」117

一〇月一三日、帰路の途中で、柳はリーチに宛てて手紙を書く。以下は、その書き出しの部分である。

 親愛なるリーチ
 富[本]と二人でこの手紙を書いています。今、朝鮮から日本に歸る途中です。我々は朝鮮の品々の美しいを十分に満喫し、二十日以上にわたって二人で思う存分、嗅ぎ、味わい、楽しんで興奮しました。富[本]は貧欲な鬼のように描きまくり、とても持てない位澤山の物を買い漁りました118

朝鮮から帰ると、東京の小石川区竹早町にある写真家の野島康三の私邸での展覧会が憲吉を待っていた。この「富本憲吉氏作品展」はこの年の一二月に開かれ、陶器百数十点が展覧された。憲吉が野島と知り合うのも、いつ、どこでであったのかを正確に特定することは難しい。その三年前の一九一九(大正八)年三月に野島は兜屋画堂という画廊を東京神田の神保町に設けており、五月の開堂展覧会には、憲吉の作品も招待されていることから判断すると、その少し前あたりから、ふたりは親しくなっていたのであろう。

しかし、この兜屋画堂は、評判は高かったものの、長くは続かず、翌年の六月に閉廊している。その後については、『渋谷区立松濤美術館所蔵 野島康三 作品と資料集』に、次のように記されている。

 兜屋画堂を閉めた一年半後、一九二一年一二月に野島家は水道橋から竹早町に転居する。新築した自邸には、洋館のホールがあった。転居早々にこのホールで行なわれた「富本憲吉氏作品展覧会」は兜屋の主催と明記されている。野島はここで、神保町よりもゆっくりしたペースで兜屋の活動を続けようと考えていたのではないだろうか119

同じく『渋谷区立松濤美術館所蔵 野島康三 作品と資料集』によると、一九二一(大正一〇)年一二月のこの展覧会に引き続いて開催されるのが、翌年の、朝鮮から帰ったあとの一九二二(大正一一)年一二月の「富本憲吉氏作品展」なのである。次の一九二三(大正一二)年には、おそらく関東大震災の影響であろうと思われるが、開催されていない。しかし、一九二四(大正一三)年五月には、同じく野島私邸において「富本憲吉氏陶器展」が開かれ、近作百数十点の陶器および図案が展覧された。このときは、陽と陶のふたりの娘の絵画展も併設された。そして続く一九二五(大正一四)年五月にも、「富本憲吉氏陶器展」がこの野島邸のホールにおいて開催されている。

このように、富本の製陶活動を支援しようとする野島は、関東大震災を挟んだ前後のともに二年ずつ、計四回の展覧会のために自宅を開放している。野島は資産家であり、憲吉作品のコレクターでもあった。憲吉は晩年、このようなことを口にしたことがあった。「私の住んでいたのが大和の田舎ですから、いろいろの勘定の決済は七月十五日と十二月三十一日の二へんだけあるんです。その金をつくるために、半年に一ぺんですから、野島君ところへきて、展覧会をやった。また半年したら大阪でやるとか……」120。そうした決済に関する商慣習が理由となって、この野島私邸での展覧会は、一二月あるいは五月に行なわれたのであろう。一点が五円、一〇〇点が完売したとしたら、単純計算で、一回の展覧会につき五〇〇円の収入となる。いまの貨幣価値で、四、五百万円程度であろうか。たとえ展覧会や頒布会(陶器会あるいは配布会)を年に何回か開催できたとしても、この時期、陽と陶の教育に必要な経費、工場で使っている人たちへの給金、それに加えて土と燃料の代金や作品の輸送費などを考えあわせれば、憲吉と一枝にとって、安堵での生活は必ずしも経済的に楽なものではなかったのではないかとも思われる。しかし憲吉は、こうもいっている。「小遣いを月に五〇円かずつもらっていたんです。それで十分にゆうゆうとしてやれたんですからね」121。この月額の五〇円は、庄屋富本家の戸主として、年貢米から憲吉が受け取ることができた取り分だったのであろうか。

五.村での日常生活と訪問者たち、そして孤立

それでは、憲吉と一枝の夫婦、そして陽と陶の幼い娘たち、この四人が営む日常の暮らしとは、どのようなものだったのだろうか。次にそれを見てみたいと思う。

あるときは、憲吉の思いは、自分たちのみじめな生活へと向かう。

何と云ふ情無い生活だらう、小さい飾りも何もない家には二人の子供が汚れた洋服を着、寒さうな顔をした妻は勞れた體を足の動く籐椅子によりかけて考へに耽つてゐる。私は拾年前禮服としてこさへた洋袴を今もはいて泥にまみれて働いて居る。夜になると子供等は使ひ古して毛の無い毛布を着て暗い電燈の下で赤い顔を列べて寝てゐる。何と云ふ事だ。全収入の半分を製作費につかひはたし自分が現に使つて居る轆轤師よりも低い報酬で此の生活を續けなければならぬとは。
 私は私のする事で受ける苦しみである以上我慢するとしても、私について來なければならぬ人々に實に申譯けなくてたまらない122

そしてまた、あるときの憲吉の思いは、自分たちの充実した生活に向かう。

未だ朝露が乾かない庭の芝生にうまく焼けた未だ暖い壺を列べて新鮮な空氣を呼吸しながらそれに見入る。遠くの青い美しい山々、庭の隅の温床に咲くゼラニユーム、ふたりの子供は喜び勇むで彼等の母と共に直ぐやつて來て陶器を見る仲間にはいる。朝飯の卓では香のよいコーヒーを皆で飲みながら互に新作の批評をやる。私はしみじみ幸福を感じる123

一方の一枝は、子どもたちと一緒になって、朝日を迎えるときに、幸せを感じる。

 秋が來た。朝起ると霧がたつている。稲田一面にかゝつてゐる霧が朝日にきらきら耀いてきだすと、光つた霧が山の山腹に集まつてくる。どの山を見てもみな澄みきつた色をしてすつきりした姿だ。……その静な中に朝が來る。自分達に幸福な朝が。
 ひやつこい風が吹いてくる。だんだん高い秋の空が見える、百舌が鳴く。私はいゝ氣持で暫くぢつとしてゐる。小さな二人の子供も、自分のするやうに椅子にもたれたまゝ、いつまでもぢつとしてゐる。美しい霧の中に太陽が昇つてくる。子供達はお日樣だお日樣だと云つてよろこぶ。毎朝、晴れた日にきまつて見ること乍ら、子供達は少しも變らず太陽を待つ。太陽をよろこび迎へる124

一枝は、料理にも洗濯にも気を配った。実は、鮒の甘露煮は、自分はきらいなのであるが、それでも、おいしく食べるみんなのためにつくる。

 朝、非常にいい天氣になりそうだつたので洗濯を少しどつさりやりかけたら、曇つてしまつた。毛のものだけは浸してしまつたので、洗ひあげて外に出す。からつとしない天氣は「洗濯」には困る。この間から煮かけてゐた川魚がやつとたきあがつた。手釣りの鮒の甘露煮だ。子供達もおいしがつてたべた。こんなうまいものを、どうして喰べないのかと笑はれた。たべものに、好き嫌ひのあまりに強過ぎる自分を、子供達のために困つたと思つた。
 幸ひ、子供達にはまだこの困る癖がついてゐないので安心だ。しかし自分にこの癖がある事を子供達に知られないやうに可成りの苦心がいつた125

憲吉は釣りが好きだった。釣果は、一枝の手によって甘露煮となる。ある日のこと――。「朝、素焼の窯に火を入れた。……素焼を出すと明日から多忙。午後から富本魚釣り。小鮒十四尾。茶汁でたき出す。今日のは昆布をひいてみる」126。釣り好きは、父親ゆずりだったのかもしれない。「父の思い出といえば、小学校へあがる前によく鉄砲撃ちに連れていってもらったことだ。また魚釣りにもよく出掛けた」127。その後、息子を儲けて父親になると、今度は憲吉が、東京生まれで大和を知らない小学生の息子の壮吉に、「おい壮吉、大和の鰻釣り教えたろか」と声をかけ、「これは安堵(村)では閂(かんぬき)言うんや、おもろいやろ」といって、鰻釣りの仕掛けを教えている128。憲吉は、父親の豊吉から、壮吉は、父親の憲吉から、親子三代にわたって安堵の魚釣りの技が伝授されていった。

幼少のころ父親に連れられて鉄砲撃ちや魚釣りを楽しんだ大和のこの安堵村が憲吉の生地である。後年憲吉は、この村のことを思い出しながら、このようにいう。「『うぶすな』という語あり。生まれた故郷の意なり。吾れは現代敎育が若き人々により、『うぶすな』を愛する念を消散し去るを悲しむ」129。自らの「うぶすな」にも、忘れられない固有のおいしい食べ物があった。憲吉はそれを、このように記憶していた。

 私の生家は大和平原の中央にある一農村に在り、山に遠く、燃料に乏しい村だ。私の幼少の頃農家では藁を燃料としてゐた。一摑みほどの藁を丸く輪にして一くべづつ大きな竈にくべて煮たきをする。……こんなふうに藁火を使つてとろりと煮あげた粥が有名な大和粥で、そのうまさは比を知らぬ程だ。村の人たちは三度々々その粥を喰べる。藁火の柔かさと、なかなか消えない火の餘燼が、このうまい粥をつくるやうに思ふ130

「大和川急雨」模様の皿に、憲吉が釣り、一枝がつくる鮒の甘露煮と鰻料理を盛る。そして憲吉作の茶碗に、藁火を使って一枝がこしらえる大和粥をよそう。このように器も食材もすべてが「うぶすな」という故郷を愛する心が、ときとして、この四人家族の昼や夜の食卓を豊かに演出したにちがいない。一方、富本家の朝食はどうかというと、通常、パンにコーヒーという西洋スタイルだったようである。かつて滞在した西村伊作家と同じように、それにベーコン・エッグやオートミールも加わっていたかもしれない。

一方、幼いながらも陽は、母親の料理についてこのような思い出をもっていた。この間リーチが、夫人を伴って安堵村を訪問したことがあったのであろう。

 リーチ夫人に教わって、パンやマフィンやクッキーを水色の天火でよく焼いてくれました。ジャムやローストビーフもね。お料理はとても上手でした。父は肉が好きでしたけど、母は殆ど肉は口にしませんでしたね、一週間に一度か二度奈良まで出て、木原という輸入商の店で缶詰のハムやバターを買い物して木箱でおくってきました。牛乳は毎朝配達してもらいました。そうそう、ウーフ・ア・ラ・ネージュというおいしいお菓子をよくつくってくれましたわ131

陽も陶も、お母さんが大好きなようで、離れようとしない。お父さんは、昨夜の仕事が遅かったのであろう、まだ寝ている。朝のパンが焼ける。

 小さい手を私にのばして見て自分の手のとゞく範圍にさへゐれば満足する。少しでも手がとゞきにくゝなると「母さんのお隣り、母さんのお隣り」といつて騒ぐ。私は手を両方に擴げて、「そら、とゞくでしやう陶ちやん(下の子)も、陽ちやん(上の子)も母ちんのお隣り」そう云ふと二人とも安心してパンをかぢり出す。富本は時々朝が私達より遅れる。子達は大きな聲で寝室に聲をかける。
「お寝坊のお父さん。お寝坊のお父さん。」それから足をとんとん踏みならしたり卓をとんとん拍いたりする。父親はふざけて大きな聲でうなり出したりすると、子達は随分よろこんでもつともつとと相手になる132

こうした日々の生活を過ごしているあいだも、訪問者が絶えることはなかった。訪問者たちの目には、彼らの生活はどうように映ったのであろうか。

南八枝子の著書に『洋画家南薫造 交友関係の研究』がある。柳田国男の孫である八枝子は、南薫造の養子(実孫)の南建の妻である。その本の「笹川慎一」の項目のなかで八枝子は、次のように記している。

 笹川慎一は画家ではなく建築家だが、数多く残された南宛ての手書き絵はがきからだけでも二人の親交ぶりがうかがえる。笹川は中国の古い陶器の収集家としても知られていて、薫造宛ての手描きの絵はがきには、例えば、壺の絵に添えて次のように書いている。『思案の末遂に奮發してこの古染つけを手に入れ申し候……富君に見せるをたのしみ居候』」133

さらには、八枝子によれば、「薫造宛てのはがきには、笹川が富本を安堵村に訪問し、一緒に写した写真を使ったものあり、二人で寄せ書きしたものもある」134という。そののち、安堵村から東京の千歳村への移住に際して新築した家屋にかかわって、憲吉が、その増改築の仕事を依頼するのが、この笹川慎一なのである。

一九一九(大正八)年の三月二九日、この日に憲吉の窯が開き、このとき水落露石が招かれていた。さかのぼる二年前の一九一七(大正六)年に『美術』四月号が「富本憲吉君の藝術」という特集を組んだとき、水落は、「土を玉に」と題した憲吉論を寄稿しており、富本芸術を理解する俳人であり詩人であった。「土を玉に」のエッセイの末尾には、「安堵村に君を訪ねたる時によめる」として三句が載せている。そのうちのひとつが、「土を玉に安堵の友が窯はじめ」であった。

それから二年が過ぎていた。「三月二十九日」というエッセイのなかで憲吉は、この日の昼食のあとの様子を次のように描写している。

 椅子へもどられた水落氏はそれから一時間半程に亘つて私共に取つては忘れる事の出來ぬ俳句の話をされました。その内容は俳句の歴史から自分の俳句に對する信ずる道、その他下萠會の事について氏として未だ嘗つて見る事の出來ない程のはげしい熱心さで、私共ふたりを前において話をされました。顔は赤くなり今迄キチンとかけて居られた椅子にあぐらをかゝれて話をされました135

憲吉は、大阪へ帰る水落を軽便鉄道の駅で見送った。「今日窯から出た白磁の黄土を象嵌した湯呑を持つてサヤウナラを云はれました。この時は二十九日午後五時であります。私は近日下萠會の皆樣と又陶器を見に來らるゝ事を思ひながら汽車のうごくのを見て居ります。これが水落氏を見た最後であります」136。それから数日もしないうちに、水落は亡くなったのである。憲吉と一枝を前にして夢中になって自分の信念を光のごとくに言い放った水落に、今後何年待とうとも、もはや会うことはできない。憲吉は、この「三月二十九日」のエッセイの最後を「私は此處迄書いてモウ何も書けなくなりました。ホントに何も書けません。氏の霊の安らかならん事を衷心より祈ります」137という哀悼の気持ちで結んだ。

同年(一九一九年)の五月一日には、有島武郎がやって来た。五月一日と二日の有島の日記に、こう記されている。「一日(木)雨。九時半の氣車で法隆寺驛へ行き、安堵村に富本の家族を訪ねた。皆に觀迎された。夜、奥さんから三井の悲しい話を聽く。富本の所に一泊。この邊の建物は非常に特色があり、かつ美しい。とても氣に入った」「二日(金)雨。富本宅を十時ごろ去る」138

「三井の悲しい話」とは、何だったのであろうか。三井は、尾竹熊太郎(越堂)とうたの三女(長女が一枝、次女が福美)で、熊太郎の友人で日本画家の浅井呉竹とかと夫婦の養女となっており、有島とはすでに面識があった。そこで、この訪問以降有島から浅井三井へ宛てて出された何通かの書簡を見てみよう。まず、日付は不明であるが、安堵訪問の際の様子が、このように認められている。「御手紙拝見 御姉上の家の一日は誠に楽しい一日でした 初對面の方々であるにも係らず自分の家にあるよりも或る意味でもつと楽しい一日でした そこにある凡てに行き渡つた藝術家的な氛圍氣が私を楽しくさせました 富本さんが熱心に専門の仕事をされるのを聞いてゐると飽く事を知りませむでした」139。次の五月一五日の書簡は京都から出されたもので、「十七日の朝奈良に起つてそこの對山樓に一泊します。あなたも奈良に行く筈になつてゐると思ひますが、都合がつくならその日に宿屋にお訪ね下さい、お話も聞きませうし、自分の意見も述べませう」140と書かれてある。続く五月二一日の葉書には、この間に受け取った三通の返事として、有島はこう書いている。「あなたの御心懸けを頼もしく思つてゐます。……あなたは畫家となればいゝのだ。畫で自分が表はせないやうなら、畫家になる甲斐はありません。さうでせう」141。そして、六月一五日の書簡。「この間兜畫堂に行つてお兄上の陶器之作品を拝見して來ました 乍失禮立派なものだと思ひました あなたの御作品も美しく仕上ぐる樣に遥かに祈つてゐます」142。こうして三井は、絵を完成させて、帝展に出品した。そのことを三井からの手紙で知った有島は、一〇月五日、次のような返信を三井に書き送った。「殆んど一年に餘り御苦心の結晶が一つの形をとつてこの世に生れ出た事はあなたばかりのよろこびとは云へません。帝展が採用するとかしないとか云ふことは全く問題外です。人間のさうした激働が集つて人間の生活といふものを本當の意味で豊富にして行くものなのでせう。……お互いに自分の仕事に精勵しませう」143

こうした一連の書簡から推測すると、一枝が有島に語った「三井の悲しい話」とは、画家として立つか決心がつきかねて将来を思い悩む三井の身の上話だったのかもしれない。

三井が帝展に作品を送ってまもなくしてのことであった。この年(一九一九年)の一一月中旬、一枝との再会のために、関西婦人大会の帰路、今度は平塚らいてうがこの村を訪れた。自伝『元始、女性は太陽であった』のなかでらいてうは、青鞜以降この日の再会までのふたりの関係を、まずこう振り返る。

 この時分は、紅吉[一枝]との直接のつきあいは途絶えていたのですが、噂はいろいろの友人から、よく耳にしていました。……
 紅吉に初めて赤ちゃん、陽ちゃんの誕生した大正四年八月には、わたくしにも六、七ヵ月の胎児が宿っていたのです。紅吉はむろんのことでしょうが、わたくし自身もかつては自分が女性であるということなど、まるで考えず、母になる日があろうとは、おもっても見ませんでした。あの大きな「だだっ児」の紅吉が、富本一枝という、ひとりの妻、主婦、母に変っていった、同じ歳月のもとでわたくしの辿る道も、同じように変っていったのでした。
 やがて文通も復活するようになった二人は、手紙のたびごとにお互いの子供のことを書くようになり、母の喜びや、願い、悩み、心遣いを、ほんとに身近なおもいで、語りあえる間柄へと辿りついていたのです144

そして、訪問当日――。「富本家のご家族との、旧い大きな家の中の同居生活には、ずいぶん耐えがたい日々もあったと聞いていましたが、久しぶりに会う一枝さんは、現在の生活に満ち足りているように見えました。一枝さんの書棚には、トルストイのものなどにまじって、教育関係の書物がどっさり並び、陽ちゃんと陶ちゃんは一枝さん自身の考案でつくらせたという、珍しいおもちゃで遊んでいました。数え年四つの陽ちゃんが、片仮名をもうすっかり読めるのには、おどろいたものです」145

大和の山々を望む、広い田園の道を散歩しながら、話題は、自然と育児や教育のことになる。「そうしたひととき、わたくしの心をつよく衝き動かすのは、この美しい田園のなかで、朝夕子供たちといっしょにのびやかな心で遊べる一枝さんと、そのお子さんたちの限りない幸福でした」146。そのときらいてうの胸に、留守番をさせているわが子のことが過る。「嬉々としてたわむれる、一枝さん母子の姿を眺めながら、『十ばかり寝ればおみやげをもって帰るから……』と聞かされて、母の帰りを淋しく待つよりほかない、わが家の子供たちのことをおもって、わたくしはそっと涙を拭いました」147。らいてうには、このとき、母としての一枝がまぶしいほどに輝いて見えた。しかしその一方で、「そのために絶えず苦しみ、悲しみ、自らを責め、詫びながらも、子供への愛のため、母としての任務のために、自分のこの仕事を投げ出そうとは考えないわたくしでした」148。らいてうの脳裏には、家庭か仕事か、そのどちらかを犠牲にするのではなく、両者のよき調和のなかにあっての将来の婦人の生活が、早くもこのとき展望されていたのであった。

らいてうは、翌年(一九二〇年)の一一月にも、北陸から関西への旅行の途中に安堵村に一枝を訪ねている。子どもの教育について、あるいは今後の婦人の生き方について、さらに対話が進行していったものと思われる。

この自伝のかなで、らいてうは、「これは余談ですが」と断わりながら、そのずっとのちに、夫の奥村博史が関西にでかけたついでにひとり安堵村を訪ねたときの様子を披露している。「その時、帰りに一枝さんが田舎道を奥村を見送ってくれたあと、家へ帰ったら憲吉さんから、『奥村君と接吻してきたのだろう……』と、ひどく怒られたことがあったそうです。……開けっぱなしの一枝さんの態度と、自分が好意をもつ女性に対しては、ことにやさしい奥村の態度を見て、憲吉さんがあらぬ嫌疑をかけたのでしょうが……一枝さんには、気の毒なことでした」149

一枝は、夕陽丘高等女学校の出身で、妹の福美もこの女学校に通っていた。そのときの福美の同級生に小野とよがいた。三人は、よく一緒になって遊んだ。その小野とよの娘が、染織家として大成する志村ふくみ(一九二四年生まれで、「ふくみ」の名は、一枝の妹の福美の名からとられているという)なのであるが、彼女のエッセイに、「母との出会い・織機との出会い」と題された一文があり、そのなかで、母である小野とよが、若き日に安堵村の一枝を訪ねていたことを紹介している。まず、小野とよと一枝の出会い――。「やがて三児の母となった或る日、阪急電車の中で、音信の絶えて久しい尾竹一枝さんにばったり出会った。その時は既に結婚され、富本憲吉夫人になっていたのであるが、偶然の再会を喜び合い、その時より終生の深い友情で結ばれることになった。母はいまも小筥に一枝夫人の手紙を大切にしまっているが、巻紙にあふれるような豊かな筆致で、率直すぎるほどに母を戒め、いたわり、なかには三メートルに及ぶほどの手紙もある。先日、それをみせてもらっていると、はからずも再会の日の手紙が出てきた」150。その手紙には、こう記されていた。

あんまり突然でまだ嘘だったと思えるのです。私はうれしく思えます。このごろにないうれしさです。あなたは昔のようにいい方でした。善良さにあふれていました。……きのうはいい日でした。近い中に是非安堵村にいらして下さい151

それからしばらくして、一枝からの電報が届いた。「カマヒラク アスコラレタシ」。

「見るもの見るもの新鮮で、美しいて、世界が違うてみえた」
貧乏しても、美しい物を創るために打ち込んでいる二人、夫が窯から出してきた壺を、宝物のように讃える夫人、明治から大正、昭和と、はじめて封建社会の厚い壁を突き破り、女性解放の実践に入った女性の吹き上げるような生活があった152

小野とよは、安堵での一枝の生活に、このように驚いた。そしてまた、次のように、目を見張った。

「女かて、自分の思いを貫いて生きている人がいる」
母は心を揺さぶられて帰ってきた。その日から夫人の死に至るまで、五十余年、「富本さんから受けた恩は語りつくせるものではない」と常々語っている153

その後小野とよは、青田五良と出会う。ふくみは、さらにこう綴る。「その頃、上賀茂の社家の一隅では、陶器、木工、金工、染織と新しい民芸運動がはじまっていた。その中に青田五良という青年がいて……青田さんは貧乏のどん底で、糸を紡ぎ、染め織り、体がボロボロになるまで苦闘して、遂に夭折してしまった。母が青田さんに織物を習ったのはその時期わずかであったが……『まだこの道は暗く、人のかよわぬ道だが、いずれは誰かが歩いてくるだろう。私はその踏台になる』といっていたという」154

とよは、本当に織物を続けたかった。しかし、家庭婦人にはそれは限度を超える望みだったのであろう。断念した。そして、納屋に機道具がそのままにして残された。後年、その機道具がふくみの目に留まった。そしてふくみは、母の思いを受け継いだ。こうして、とよが安堵村で受けた感動の一条の糸は、さまざまな出来事に翻弄されながらも、娘のふくみへと、しっかりとつなぎ渡されていったのであった。ふくみ自身も、一枝と憲吉との交流が生涯続く。

一九二一(大正一〇)年は、西村伊作によって文化学院が、そして羽仁もと子によって自由学園が設立された年である。文化が問われ、自由が叫ばれる時代であった。府立第一高女を卒業すると、その年に石垣綾子は、「『自由』という名の、新鮮で無限の可能性を秘めた響きに引き寄せられて、父に一言の相談もなく」155創設されたばかりの自由学園に入学した。そして一九二三(大正一二)年の夏、石垣は、「大げさに言えば人生の指針を求めて」156安堵村に一枝を訪ねた。石垣の自伝『我が愛 流れの足跡』には、以下のように書き記されている。

一枝の美しさとそれに魅了された自分について、まず、このように書き出す。

 女学校を卒業後、学んだ自由学園で、私は富本一枝と顔見知りになっていた。彼女はいつもすらりと伸びた長身の背すじをのばし、髪は前を少しふくらませて上へ持ち上げ、くるくると束ねて長いえり足をみせていた。観音像を思わせる顔には 白粉 おしろい 気はなく、久留米がすりの対に黒い半衿、幅の狭い帯を低めにゆったりしめている。常識をこえたしゃれっ気と、絵描きらしい独特のセンスがゆきわたっていた。かつて平塚らいてうが愛し、また多くの若い女性に恋心を抱かせた、不思議な美しさに、私も心惹かれたのである157

次に、家のなかの一枝について述べる。

 自宅に窯場を築き、陶芸に精魂をこめる憲吉は、家事はすべて一枝まかせであった。台所で魚を焼いたり、煮ものをしたりする一枝の傍には、必ず本やノートが広げられていた。彼女はその頃、羽仁もと子の『婦人之友』にも詩や随筆を寄せていたが、それはみんな、こうして書かれたものだった158

続けて記述は、子どもたちへと移る。ある晴れた夕方のことであった。庭で遊んでいた陽と陶が、沈みゆく夕陽を見て、その美しさに感動すると、叫び声を上げて母親を呼ぶ。

 家の中からとび出て来た一枝は、両側に寄り添った二人の娘の手をとり、親子三人は、声もなく、斑鳩の田園地帯の彼方、生駒の山なみに沈む夕日に見とれて、立ちつくしている。田の面の水が夕映えを映して光り、蛙が鳴いていた。太陽が没して山の黒い輪郭の上に金色の空が残り、あたりが次第にたそがれてきても、三人はそのままでいる。そのシルエットは、それだけで完結した一つの世界であった159

そして、夜になった――。「夜になると私は、夫婦が二人の女の子を挟んで寝る蚊帳に入りこんだ。夫婦には迷惑至極だったろうが、私は一枝のわきに眠れるのがうれしかった」160

これが、一〇代最後の夏に石垣が体験した安堵村での青春だった。そのとき石垣は、「漠然とした焦燥感に悩んでいた。何かをしたくてたまらないのに、何をすればよいのか解らないのだった。家に、世間に、反抗する気持は強かったが、確固たる自分があるわけではなかった。……どのような言葉で自分の悩みを打ち明けたのか、彼女[一枝]がそれに対してどんな助言を与えてくれたのか、もう思い出せないが、この人のそばにいるだけでなぜか心がやすらぐ思いがしたものである」161

石垣と一枝はこのとき、とりわけ政治について話題にしたものと思われる。石垣は、そのころの自分の政治的関心について、自伝『我が愛 流れの足跡』のなかで、こう回顧している。「ある日、クラスメートの岡内寿子さん(のち村山知義と結婚した童話作家)から[八歳年上で、当時赤瀾会の運動にかかわっていた]矢部初子さん(現姓島野)を紹介された。……自由学園の理想主義的な空気より私には、初子さんの家に犇めき合う若々しい息吹きの方が遥かに生々しい現実感を持っていた。ロシア革命に刺激されて活発になった社会主義運動、婦人運動は、私を惹きつけずにはおかなかった。平塚らいてう、市川房枝、奥むめをらが新婦人協会を結成したのは一九二〇年で、彼女たちの活躍で女性の政治結社の加入がみとめられ、この年に第一回のメーデーも行なわれている。翌二一年には、堺真柄、九津見房子、中宗根貞代たち社会主義グループの赤瀾会が生まれ、第二回メーデーのデモでは、参加した女性メンバーが全員検束されている。二二年には、非合法ではあるが、共産党が結成された。……初子さんを通して反逆的な空気を一たび吸い込むと、これまで共感していた自由学園の『自由』が、生ぬるい、食い足りないものに感じられてきた。それまで傾倒していた羽仁夫妻に対して、疑問と批判が頭をもたげてきたのである」162

一九二三(大正一二)年の三月八日、国際婦人デーの集会が日本ではじめて開催された。初子が演壇に登り、開会の辞を述べ、金子ひろ子(本名は佐々木晴子)の講演へ移り、革命後のロシアについて話題が進むと、「怒号を合図に猛烈な野次が飛び交い、聴衆席では乱闘が始まった。……次に講演する山川菊栄が壇上に立ったとたん、警官がサーベルをがちゃがちゃ鳴らして……聴衆を突きとばして会場から撤去させにかかった。逆えば容赦なく検束される。私も人波にもまれながら外に押し出された」163

一方、部落問題を扱った一枝の短編小説「貧しき隣人」が『婦人公論』に掲載されたのが、この年(一九二三年)の三月号であった。おそらく石垣は、この「貧しき隣人」を読んでいたであろう。石垣が安堵村を訪問するのは、この年の夏のことである。石垣は、政治や思想にかかわって己の抱える悩みを一枝に打ち明けたものと思われる。

おそらく安堵村訪問からさほど歳月が流れていないある日のことではないかと思われるが、自伝的小説『死線を越えて』などの賀川豊彦の著作を図書館で繰り返し読み、貧困問題と労働運動、そして農民運動へと向かう彼の宗教的信条と行動力に強く揺り動かされた石垣は、彼の理想の実践の場である神戸市新川の貧民窟に彼を訪ねた。賀川は、「トラコーマにおかされた片目には、黒い眼帯をかけている。……差し出した富本一枝の紹介状を受けとると、[眼帯をしていない片方のただれた]その赤い目をじっと私に据えた。[私が]ここにとびこんできた心情と覚悟を話している間、彼はただ黙って聞いていた。……小柄な躰からは、神戸の川崎・三菱両造船所労働争議の陣頭に立った激しさは感じられなかった」164

一枝が、いつどこで賀川豊彦と知り合ったのか、また、その紹介状にはどのようなことが書かれていたのかは、いまのところ不明である。しかしながら、いずれにしても、自己の生き方を模索する石垣の安堵滞在は、その後に生きた。一九二六(大正一五)年にアメリカに渡り、そこでの長い生活を経験した石垣は、戦後の帰国以降も引き続き、評論家、社会運動家として多方面において活躍し、多くの著作を世に送ることになる。

淺川伯敎は、一九二五(大正一四)年の『アトリエ』八月号に寄稿した「富本憲吉氏の窯藝」の冒頭において、陶器の成り立ちにかかわって、「人間の力を信じて作つた支那の陶器と、自然に従順に作意なく作つた朝鮮の陶器と、その二つの流れが、日本に入つた。之れ等は製陶上の二つの途で、何れも美しさに於て變りは無かつた。日本人はこの二つを模倣した」165と、短く概観したうえで、憲吉【図六】との出会いについて、こう記している。「リーチが安孫子で、柳君の處で窯を立てた時、自分は夏休みに一ケ月朝鮮の窯業試験場に通ふて釉の混ぜ方や朝鮮の土や、方々から拾い集めた高麗磁器の破片などを送つた事があつた。其時富本君から長い手紙を貰つた事を覺へて居る。それから後、朝鮮と東京との往復にいつも安堵を訪ねる事は一つの行事の樣に成つた」166。続けて淺川は、安堵の風景を以下のように描写している。

 あのうねうね低く走つた、和泉や、紀伊の山脈に圍まれて、空氣の乾いた静な平原は、いつも、新羅の舊都慶州を思はせた。
 汽車で天王寺から奈良行きに乗り、大和の平原に入ると變つた古風の静に霞んだ氣もちに打たれる。山の傾斜に桃の花が咲き、麓には古い寺が見え、竹林に圍まれた民家の屋根は大和獨特で傾斜が急で上が草で軒が瓦で側面の白壁の面が大きくそれに三角や四角の穴が黒くあいて居るのが面白かつた。
 そしてよく耕された田畠に續いて古木や御陵の茂みがこんもり見えたりした167

彼の緻密な観察は、周囲の風景から家と仕事場へと移る。「窯場と住宅とは母屋を離れて田圃中にある。茲には彼等夫婦と二人の愛兒と先生や弟子や女中や時々長逗留の御客なども居る。そうして茲は愛兒の學校を兼ねて居る。夫人は眞剣に愛兒の敎育の事を考へて居る。そうして其間に御勝手もやつたり時に陶器の畫も畫く。二坪の轆轤場は一人の弟子と彼とで作品を生み出す處である。圖案や工作圖樣のものが壁に貼られたり、標本や未成品や石膏型が棚に竝べられて居る。誰れかゞ來て、『世界一の小さな轆轤場だと云ふた』と彼れは笑ふて居つた。……『この小さな窯から生れた作品で生活して行くのだ』と云ふ樣の事をよく彼の手紙に見る。又 展覧会が成功したな[ら]子供の部屋を作る とは四年も前からの話しだが、まだ出來て居らぬ。意に満たぬものは惜しげもなく破捨して、そうしていくつかの作品が残される」168

朝鮮王朝時代の美術や工芸に関心を抱き、日韓併合から三年後の一九一三(大正二)年にすでに朝鮮半島に渡っていた淺川伯敎は、この時期、こうしてしばしば安堵村を訪れ、朝鮮の陶磁器に関する知識や技法を憲吉に教授する一方で、この「富本憲吉氏の窯藝」が書かれる一年前の一九二四(大正一三)年には、弟の淺川巧や宗教哲学者の柳宗悦とともに、日本統治下の京城(現在のソウル)に朝鮮民族美術館を設立し、当地の伝統文化の擁護と継承に力を尽くしていた。

述べてきたように、笹川慎一、水落露石、有島武郎、平塚らいてう、小野とよ、石垣綾子、そして淺川伯敎をはじめとする、多くの安堵村訪問者たちが受け止めた印象は、総じて、田園の美しさに囲まれ、芸術的な香りが漂い、いっさいの過去の因習を断ち切った、何かそのような別世界のなかで繰り広げられる憲吉と一枝の生き方だったのでないだろうか。それは、憲吉がウィリアム・モリスを知るきっかけともなった、堺利彦が『平民新聞』に訳載した「理想郷」を彷彿させるものであったにちがいない。モリスの『理想郷』(現代の訳書題においては『ユートピア便り』が一般的である)は、社会革命後の新世界を描写していた。確かに、最小規模の憲吉と一枝の家庭という単位においては、「近代」へ向けての変革が作動しつつあった。それが訪問者たちに感動を与えた。しかし一方、規模の大きい社会という単位においては、変革が求められなければならない幾つもの課題が手つかずのまま横たわっていた。

米価の高騰が民衆の生活を圧迫し、暴動事件へと発展したのが、いわゆる米騒動と呼ばれるもので、一九一八(大正七)年の七月の富山での勃発以降、全国規模の広がりをみせた。そのとき以来、何らかの対応を富本家の戸主としての憲吉に迫るような状況が生まれたかどうかは、よくわからない。しかし、地主であるがゆえの不安と苦悩が常に憲吉の身に影を落としていたことは、十分に想像できるであろう。このときはまだ生まれていなかったものの、のちに父親の立場に思いを寄せて、長男の壮吉(一九二七年生まれ)は、こう述べている。

 大正末年、全国的な不況。小作争議が相次いだ時、わが富本家も小なりといえど地主。やはり小作の人々は強硬に談判に及んだようである。胸の中にはウイリアム・モリスにあこがれをもち、量産陶器に胸をふくらませていた父も、現実ではやはり小地主。――そのジレンマに立たされて大和川での魚釣りは朝から晩まで……ということであったらしい169

壮吉が書くように、この時期釣り三昧の日々であったかもしれないが、しかし、それでも憲吉には、地主と小作農の関係が今後どのようなかたちへ向かうのか、つまりこの社会的課題の決着の方向性として農地の解放のようなことが、ある程度の確信をもって展望されていたのではないだろうか。というのも、憲吉はのちの座談会で、モリスの社会主義が話題になる文脈において、こう語っているからである。

 私は大正のはじめ頃、いまに小作権を持っている者が、地主から田地をとってしまうようになるといったんですが、叔父がそんな因業なことをいうなといってけんかした。戦後叔父が死ぬ前にあいつのいうようになってしまったが、どうしてあいつは知っていたのだろうといったそうです170

座談会でのこの発言が『民芸手帖』に掲載されるのは、一九六一(昭和三六)年の九月号なので、憲吉が死去する二年前のことである。この発言は、自分が社会主義者、ないしは社会主義の適切な理解者であったことを自ら告白する最後の語りとして受け止めて差し支えないであろう。

米騒動に続いて、一九二二(大正一一)年三月には、京都の岡崎公会堂にて西光万吉を中心として全国水平社が結成された。被差別部落の地位の向上と人間の尊厳の確立を目指すもので、日本で最初の人権宣言ともいわれている。

おそらく憲吉にとっては、この部落問題も、小作農の問題と同じで、今後必要とされる社会改革のひとつとして考えられていたものと思われるが、しかし、とくにこれについての発言は残してはいない。むしろ、一枝の正義感に、水平社の結成は、火をつけたのではないだろうか。これまでに一度も被差別部落に関連して稿を起こしたことのなかった一枝が、はじめてこのことを主題化するのが、「貧しき隣人」においてだからである。この小説が『婦人公論』に掲載されるのが、翌年(一九二三年)の三月号であることを考えると、想を練り、執筆に取りかかるのは、宣言文において「人の世に熱あれ、人間に光あれ」とうたい上げた、水平社の創立の影響を受けて、と考えるのが自然なように思われる。この「貧しき隣人」の執筆の経緯や背景については、後述にゆだねたい。

世界的には、一九一七(大正六)年のロシア革命、一九一八(大正七)年の第一次世界大戦の終結、国内では、一九一八(大正七)年の米騒動、一九二〇(大正九)年の第一回メーデーの開催、一九二一(大正一〇)年の川崎・三菱両造船所での労働争議、一九二二(大正一一)年の水平社の結成、同じく一九二二(大正一一)年の日本共産党の創設、他方、教育に目を向ければ、一九二一(大正一〇)年の文化学院や自由学園の創立にみられるような自由教育への関心の高まり――。憲吉が新しい模様の創作に向けて、一枝が新しい自己の形成に向けて、そしてふたりが、新しい夫婦関係の構築に向けて、この安堵の地で奮闘していたこの時期は、変革を求める政治、社会、教育上の新しい動きの顕在化と重なる。

そうした状況のなかにあって、憲吉と一枝の家族は、村人とどう接していたのであろうか、あるいは村人にどう思われていたのであろうか。

陽と陶は、家庭内にいることが多く、村の子どもたちとほとんど一緒に遊ぶことはなかった。しかし、偶然にも、村の子どもたちと触れ合う機会があった。そのときのことを、一枝はこう書いている。

朝飯前に、子供達と野道を歩いてゐたら、村の子供が四五人で蓬を摘んでゐた。……自分も手傳つた。子供達も悦んで摘み出した。……蓬を充分摘んでから、子供達みんなと、炭俵や松薪のきれはしを燃やして手を温めた。村の子供は身體が温まり出すと、心易く色々な事を饒舌り出した。……陽や陶は平常あんまり村の子供を知らないので餘程嬉しそうだつた。傍によつて來て子供達の顔をみつめてゐた。村の子供達も恥づかしそうにしてゐた。……時間があつたら一日の中、せめて一時間、こんな子供達と遊んでみたいと思つたが、自分の二人の子供とさえ満足に遊べない自分がなにを高慢ぶるのかと、いやな氣がした171

子どもたち同士だけではなく、大人同士も、ほとんど交流がなかったようである。それどころか、この家族は、村人からすれば奇異で危険な家族に映った。

二三日雨が降りつゞいて洗濯物がたまる時がある。そんな時、私と女中が一生懸命で洗つても中々手が廻りかねる[。]それを富本がよく手傳つて、すすぎの水をポンプで上げてくれたり、干すものをクリツプで止めてくれたりしてゐるのを見て百姓達はいつも冷笑した。「いゝとこの主人があんな女の子のやる事をする」といって可笑しがる。……可笑しいと云ふより、本當は危険視してゐたかも知れない。同じ村に住む自分達の親類になる人さへ、私達の生活は「過激派の生活だ」と言つて、自分の若い息子をこゝに遊びに寄すことをかたく禁じているのだ。私達が一緒に、一つの食卓をかこみ、同じ食物で食事をすまし、一緒に遊び、一緒に働くことが危険でたまらないのだ。私達は、その人達の考へこそ可成り危険だと思ふのに172

憲吉と一枝の家族は、上の一枝の言葉からもわかるように、村のなかで孤立していた。ふたりにとってみれば、この生活こそが、封建的な旧い習俗から解き放された、正直で、真実で、純粋な生き方をまさしく反映したものである以上、何ら村人や親類の視線を気にするようなことはなかったものと思われる。しかし、そうしたふたりの生活を危険視する視線は、百姓や親せきに止まらなかった。官憲の目もまた、この夫婦の生活に向けられていたのであった。『近代の陶工・富本憲吉』の著者の辻本勇は、リーチに宛てた手紙のなかで憲吉は、こうしたことを書いているという。

「日本や国家のことについては書かないで下さい。警察がぼくへの君の手紙を調べているようだ」とか、「手紙は陶器のことだけを書いて下さい、君の手紙は竜田郵便局からまず警察署へ送られ開封され読まれているようだ、君には考えられもしないことだろうが……これが近代日本なのだ」173

かつて憲吉が「ウイリアム・モリスの話」を書いたことも、また、かつて一枝が青鞜社の社員であったことも、官憲の目からすれば、体制に抗う行為のひとつとして、受け止められていたのであろうか。これ以降も、警察の監視下にあるような状態は、第二次世界大戦が終結するまで続く174

壮吉が指摘するように、「小作の人々は強硬に談判」する。一枝が「貧しき隣人」で描くような被差別部落の人びとが存在する。リーチから憲吉へ届く書簡は、「警察署へ送られ開封され読まれている」。そして、さらに加えて、「街頭に馬ないて/砲車ひく音いりまざる/子つれて/みにゆけば/秋風うけて兵士等ゆけり/こんなこと/めづらしく見るようになりたる/わがいちにちさびし」175

憲吉と一枝を取り巻くこの時期の社会状況は、この美しい田園風景とは対照的に、またデモクラシーの高揚とは逆に「日本や国家のことについては書かないで下さい」とか、「わがいちにちさびし」とかいった言葉が口をついて出るほどまでに、暗くて、息苦しい一面もまた、顔をのぞかせていたのであった。

六.一枝の執筆活動と娘たちの教育

すでにこれまでに記述したように、憲吉は一枝と結婚するに際して、「尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家」をつくることを決意している。また、新居での生活をはじめるに際しては、「心の慾望を抑壓しつゝ語りつ、相助け、相闘ひ、人世の誠を創らむとてひたすらに祈る」と書き記している。これが、憲吉が真に求める家庭像であった。それは、「模様から模様を造る可からず」の金言を借用すれば「家から家を造る可からず」ということになるだろうし、ともに語り、助け合い、あるときは闘いながら、誠の道を歩いていくという考えには、達成にあたっての民主主義的な手続きが想定されていた。大正の初期という早い段階において、まさしく「革命的」な家庭建設が企てられていたのである。

ここで想起すべきは、すでに紹介したように、本宅での食事の際に、戸主以外は離れて板の間で食事をする習慣を否定して、憲吉は、自分と一緒に食べるように妻の一枝に求めたものの、姑の手前それができなかった一枝に対して、激しい怒りをぶつけていることである。家制度の因習を踏襲しないということは、当然ながら、これまでに生まれ、育ち、生きてきた価値観や考え方に検討を加え、旧いもの、抑圧的なもの、封建的なもの、真実ではないもの――そうしたものを取り除くために闘争し、それに代わる新しい考え方や仕組みや原理を発見しながら、自分たちの家庭を築いていくことを意味していた。まさしくここに、ひとつの「近代の家族」のかたちが形成されようとしているのである。

それでは、こうした「近代の家族」の構築の過程にあたって、一枝はどう応えたのであろうか。この間一枝が書き残した雑誌掲載のエッセイや後年執筆した回想などを主に援用しながら、時間の流れに沿って、その変化の様子を見てみたいと思う。

一九五八(昭和三三)年に刊行された『講座女性5 女性の歴史』のなかの「史料編」に、一枝は「青鞜前後の私」を寄稿している。安堵での生活の当初、生活に対する習慣や考え方の違いに戸惑いながらも、それに反抗すべきすべも知らず、それに何とかあわせようとしていた、かつての自分の悲しい姿を語り、それを、こう分析する。

 考えてみるまでもなく、これは幼い時から受けてきた母の教育や躾の結果、自分の考えの中の矛盾と戦う力が失われていたとも言えましょうし、また、自分も非常に古いものを持っていることを気づかずにいたのではないでしょうか。自分の中の古さを知らずにいることは、何に反抗しなければならないのか、それさえわからないでいたのではないのかと、よく考えあぐんだものですが、それにしても幼い時からの母の教え、と言うより、その母の育った時代、そして私を育てた時代、その時代に生きた人たちの考え方の根強い古い大きな力の、あまりにも後々まで尾を曳くことを思うばかりです176

安堵村で、実際に結婚生活をはじめてみて、はじめて、知らず知らずに母から受け継いでいた自分の「旧い女」の側面に気づいたのである。間違いなく、このとき一枝は、「その母の育った時代、そして私を育てた時代、その時代に生きた人たちの考え方の根強い古い大きな力」が根を下ろしている自分と、これから向き合い、闘っていかなければならないことを悟ったにちがいなかった。

それでは一方、「新しい女」と世間から呼ばれた青鞜時代の自分はどうだったのであろうか。安堵での生活以降最初に発表する本格的なエッセイが、一九一七(大正六)年の「結婚する前と結婚してから」(『婦人公論』一月号)であった。すでに言及しているように、そのなかで一枝は、青鞜社時代の自分を、こう振り返る。

 評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと 悶躁 もが いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした177

振り返って内省してみると、青鞜のときの自分が、寂しく、もがき、そして、うそをつき、人をだまし、またあるときは、人をいじめ、人を愛する――そのような人間であったことへと思いが至る。これこそが、数年前の自分の「新しい女」の内実だったのである。確たる信念があるわけではなく、確たる理想があるわけでもなく、おもしろおかしく、奔放に振る舞う「紅吉」がそこにあった。

そうであれば、育った家庭のなかで浸み込んでしまった「旧い女」と青鞜のときに演じていたような「新しい女」の部分は、当然、ともに捨て去らなければならない対象となる。いまの自分を構成している、母から受け継いだ「忍従の女」からも、脳天気に振る舞った「青鞜の女」からも自己を解放し、まさに「近代の女」へと生まれ変わらなければならない状況に立たされていることを、この時期一枝は、自覚したであろう。そしてまた、夫である憲吉も、そのことを指摘したであろう。しかし、頭ではわかっていても、一瞬にしてすべてを葬り去ることは、容易なことではない。アイデンティティーの喪失にもつながりかねないことなのである。簡単に前へも進めない、かといって、後ろにしがみつくこともできない、極めて深刻な心的環境に身を置いていた。しかも、憲吉は強く過去との決別を求めたであろう。しかしながら、憲吉と一枝には、近代精神の体得という観点から見れば、年齢的な差もあり、体験、知識、語学力のいずれの面においても、おそらくいまだ大きな開きがあったにちがいない。一枝は、ふたりのあいだの意識の隔たりだけが、大きな口を開けて、飛びかかってくるような思いに、ときとして駆られていった。

 彼と私は、思想に於いてまだまだ ひど く掛け離れてゐる。長い間語らずに怒り合ふ時もある。二人とも興奮しきつて沈黙つて大地をみてゐる時もある。もう別れてしまふやうな話までもち出す。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない178

憲吉は離婚について口にすることもあった。そのようなとき、周りの美しい自然に目を向ける。「私達は今田舎にゐる。それが心の爲めにも身體の爲めにも非常に好い。ここは美しい。私達は結び合つた山と、いくら見ても遥かな田園の空氣を吸つて常に最も深い熱心を以て生活を營むでゐる」179。そして、いまの自分たちの姿を見つめなおす。喜びが胸に込み上げる。「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる。そして私達は、私達の全力を注いで幼兒の敎養と私達の仕事につき進んでゐる」180。これが、一九一七(大正六)年ころの一枝の心の状況であった。

一枝が書くものは、そのときどきの心の情景をそのまま映し出す鏡に似ている。二年後の一九一九(大正八)年の「海の砂」(『解放』一二月号)で、いまの自分をこう語る。

 久しい間、幾年か私は、自分を不良心なものと思つたし、不徳義なものだとして見てゐたし、不道徳な人間だと思つて見過して來た。勿論、それを恥ぢた[こ]ともあつたし、強く責めて來た時もあつたが、とかく眞實の自分を探りあてる間近になると卑怯にも一時逃れをやつてゐた。それが「或る事」から、まるで考へが變つて仕舞つた。そしてどうにかしてそこに見つけた光りを、少しでも見失ひたくないと思つて、どれだけ一心に唯その光りに寄り縋つて來たろう。限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること、それが自分の探るべき一つのものであつた181

ここで一枝がいっている、「不良心」で「不徳義」で「不道徳」であったこれまでの自分とは、具体的にはどのような自分が念頭に置かれているのであろうか。こうした強い表現から推測すると、「らいてうとの恋」に溺れ、「五色の酒」に酔い、「吉原遊興」に耽る、かつての青鞜時代の天衣無縫な紅吉に止まらないようにも思われてくる。つまりそれは、美しい女性や才能をもった女性に強い関心を抱く少数者(レズビアンないしはトランスジェンダー)としての自己のセクシュアリティーを指し示しているのではあるまいか。

著作集3の第四章「憲吉と一枝の結婚へ向かう道」のなかで詳述しているとおり、一九一四(大正三)年一〇月に憲吉と一枝が結婚をして、新婚旅行から東京へもどると、過激な雑誌記事がふたりを待ち受けていた。それは、『淑女畫報』一二月号に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」という題がつけられた暴露記事であった。おそらく憲吉もこの記事を読んだであろう。この記事の真偽が問われ、同時にふたりのあいだで、女性を愛する女性である一枝の行為が問題にされた可能性は十分に考えられる。

上の引用文のなかで、一枝は「それが『或る事』から、まるで考へが變つて仕舞つた」と述べている。「或る事」とは、憲吉との結婚を意味しているであろう。そうであれば、この引用文は、結婚をきっかけとして、異性あるいは同性が織りなす都会の誘惑から離れ、隠者のごとく、自然豊かなこの田園の村に移り住み、夫という「光り」を浴びながら、「不良心」で「不徳義」で「不道徳」であったこれまでの自分を捨て去り、「限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること」に己を向けようとしている、自己告白のように読める。結婚後数箇月で東京を見限り、安堵村へ帰還した理由には、こうした背景が実は隠されていたのかもしれなかった。つまりは、七色に輝くもはかなく消えてゆくシャボン玉のような、軽薄で堕落した都会生活から、光り輝くばかりの太陽を全身に浴びる、禁欲的で清真な田園生活へと、生きる環境を変えることによって、一枝の性的指向を遮断することがもくろまれていたのではないだろうか。

一枝は、二年前の「結婚する前と結婚してから」のなかで、すでにこう書いていた。「都會を出立して田舎に轉移した彼と私は彼の云ふ高い思想生活を私達の爲めに營むべく最もよい機會をここに見出したことに強い自信とはりつめた意志があつた」182。そしてまた、こうも書いていた。「彼は、都會は、私を必ずや再び以前に歸すことを、再び私の落着のない心が誘起される事をよく知つてゐた」183。憲吉と一枝の夫婦は、結婚をひとつの好機ととらえ、一枝のいうところの「落着のない心」、つまり同性へ向かう性的指向が二度と誘発されることがないことを強く望み、そのためには、都会を離れ、対象となるような若くて美しく才能あふれる女性と触れ合うことがほとんどないこの大和の田舎へ移転し、高い思想性のもとに新しい生活をはじめる必要があったのであろう。しかしながら、一枝の「落着のない心」は「彼の云ふ高い思想生活」で解決するのであろうか。

この時期になると、陽【図七】も陶【図八】も次第に成長し、一枝の気持ちは、憲吉に向かうと同じように、このふたりの娘へも向かっていった。

一枝が本格的に娘の教育に関心をもつようになったのは、陽が三歳になるころからだったのではないだろうか。書斎【図九】の本棚には多くの書籍が並べられてあった。「私の手から赤坊讀本が離されたのはその頃です、そしてその代りにルソーのエミールやモンテツソリのものが無智で若い母親の指先きで熱心に ひもと かれるやうになつてをりました」184。一方陽は、「私が讀んできかせてゐるお伽噺も自分ひとりで讀むといつてせがみます、字を敎へよと云ひます。……字を知りたがる心はそれはそれは熾烈なものでした」185

そこで「私は或る晩遅くまでかゝり、父親に切つてもらつた三寸四角の厚いボール紙に片暇名五十音と濁音全部と半濁音全部を形正しく墨汁で書きました。……このカードはそれから先モンテツソリーの讀み方敎授法で子供を敎えるのにずつと使用されました。……私は學齢に達するまで自分に有るだけの力を注いで敎育したかつたのです。……天才を造ることは到底出來ないまでも早教育を善しと見るならそこに努力して行くことが本當ではなかろうか……たとへこの己の抱く理想が力弱くあつても、理想により近く歩みゆくことが出來ればと思ひました」186

カードを使って遊んだ思い出を、のちに下の娘の陶は、こう回想している。

 母は私がヨチヨチ歩きの赤ん坊の頃から、アルファベットやアイウエオを教えてくれました。庭の芝生に大きな籠を置きその中にボール紙を大きく切ったカードが沢山入れてありました。母が「『A』をもっていらっしゃい」とか、「『と』の字を」とかいうと私はその籠の中からいわれた文字のカードを探し出して母の手許まで歩いて届けるのでしたが、幼い私にはとても楽しいお遊びだったようで、大喜びで札を運んだおぼえがあります187

しかし、家庭でのこうした早期教育が本当に適切なのかどうか――。一抹の不安が、一枝の頭を過ることもあった。

 もしこれが子供達の爲にならず、かへつて先で子供達を苦しめるようになつたら、そこまで考へてくるときまつて私の心は暗くなります、しかし子供達はいつかは自分を赦してくれやう、最善と信じた道であるかぎり、この道を進むことは愛でなければならぬ、とひとりなぐさめいたわりつゝ始めました188

こうして迷いは払拭された。陽は「一ケ月後には文部省の國語讀本の巻の一を速くはないがしかし誤ることなく讀むやうになつて仕舞ひました。これは自分勝手にしたことで私からさせたのではありません。その時、この子は數へて四歳で、満二歳六ケ月だつたと記憶しています」189。今度は、平暇名のカードがつくられ、陽の知る世界はさらに広がっていった。「私はどんなに多忙であつても、毎朝二時間だけ必ず彼女の爲に色々な勉強をつゞけたものです。その頃に書いた彼女の小さな文章に可成り優れたものが澤山有り、それだけ理解力は随分深く高い所まで進んでゐました」190

おそらく一九二〇(大正九)年の春のことであろうか、「満四才六ケ月かの時、彼女には四人の先生が出來ました。いよいよ正しい勉強法を始めたのです。英語國語理科音楽、この四科目をそれぞれの先生にお頼みして、私は一週間に七八時間、陽を連れて奈良に通ひました……數學は一番遅く始めました」191。向かう先は、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)の附属小学校だった。陽は、理科を神戸先生に、唱歌を幾尾先生に、国語を竹尾先生に、英語を青木先生と土井先生に、数学を福永先生に教わり、一方一枝は、森川先生に幼稚園の仕事について話を聞いている192

一枝が陽を連れて奈良女子高等師範学校に通っていたころのことである、ひとりのその学校の学生が、安堵の自宅へ一枝を訪ねてきた。一枝が雑誌に寄稿した詩に感動し、ぜひとも一枝に会ってみたいとの思いからの訪問であった。その学生が、その後、とりわけ日本の農村の婦人問題にかかわって活躍することになる丸岡秀子である。丸岡は、晩年に執筆する『いのちと命のあいだに』のなかで、一枝と憲吉に出会ったときに受けた強い衝撃について、こう書いている。

 青田の中に、ちょこんと建てられたあの家の二人は、当時いっぱしの大人だった。だが、十代を苦悶し、その苦悶に支えられて二十代を翔ぼうとしている小鳥のようなわたしに対して、いささかの差別もない。子ども扱いもしなかった。大人振りもしなかった。人間として、まったく平等な扱い方をしてくれる人という信頼を持たせた。
 それはなぜだったのか。このことは、差別に敏感なわたしの環境から、自力で脱却をはかる芽を創り育ててくれた。これこそ、まさに「近代」とのめぐり合いといえよう193

このとき、この夫婦の生き方のなかに、丸岡は、「近代」の具体的な姿を、驚きと崇敬の念をもって目撃したのであった。その後も、ふたりに魅せられた丸岡の安堵訪問は続く。

一九二〇(大正九)年の『女性日本人』一〇月号に、憲吉の「美を念とする陶器」と一枝の「私達の生活」が同時に掲載された。

憲吉はそのなかで、陶器だけではなく、自分たちの考えや生活も見てほしい、と読者に呼びかける。

 私の陶器を見てくださる人々に。何うか私共の考へや生活も見てください、私は陶器でも失敗が多い樣にいつも此の方でも失敗をして居りますが陶器の方で自分の盡せるだけの事をしたつもりで居る樣に此方についても出來るだけ良くなるためにつとめています。それが縦ひ非常に不十分なものであつても194

ここからわかることは、明らかに憲吉は、陶器と生活のふたつの事象についてともに改善を図ろうとしているということである。つまり、視覚制度と家制度の変革なのである。そして、変革の原理はただひとつ――双方に共通する「近代」という新たな価値であったであろう。つまり、陶器に「模様から模様を造る可からず」という原理が適用されたように、生活には「家から家を造る可からず」という原理が用いられたものと思われる。過去の複写、複製、再生産の明白なる拒絶である。もっとも、失敗も多く、いまだ十分であるとはいいがたい。しかし、そうした現状ではあるが、それでも、自分たちがつくるこの陶器を、そして自分たちが営むこの生活を、ぜひとも見てほしいと、読み手に訴えているのである。

一方、一枝はどうだろうか。「私達の生活」と題されたエッセイで、とりわけ目に留まるのは、子どもの、とくに長女の陽の、親に向ける視線について触れている箇所である。

「家中で一番お寝坊は?」わざと大きな聲で私は聞く。子達はすぐに「お父さん」と云ふ。三人でどつと笑ふ。父親は牛や虎や、雷の音をさせ乍ら起きてくる。
 こんな朝はみんなが幸福を感じる。私と富本が不愉快な心持でゐる朝は、私もだまつてゐるし、子達もだまりかちだ。
 だが私は、自分たちのきまづい感情をなるだけ子達に見透されないように努めるのだ。そのために自分の感情を無理にでも壓しつける。けれどつねに子は、自分達より更に敏感でゐる。殊に上の子は氣づかわしい位ゐ私達の心持を感じるのだ195

この時期、確実に陽は、単に学力だけではなく、感情の面においても、成長していた。陽は成人したのち、「明日」と題された短い小説仕立ての自伝を書く。刀兼介が父親の富本憲吉であり、瑛子が自分であることは、容易に想像がつく。以下は、その一部である。

彼女[母親]の激しい文學への熱情は執拗に彼女にからみつき、それがまたいつの間にかふくらみきつて、ものを書きたい、一人で本が讀みたい、元氣な昔友達と會つて自由に話がしたい、と、彼女を苦しみ悶えさせた。
 然し刀兼介は彼女のすべてを所有してゐなければ氣がすまなかつた。瑛子は、まだ幼かつた自分や妹を寝かしつけ、父が寝室にはいつてから、はじめてやつとほつとしたやうに、それも極めて遠慮ぶかい恰好で夜中の二時三時まで本を讀んでゐた母の姿をよく思ひだす。そんな時どうしても安心して眠ることが出來なかつたことも思いだされる。父が苛々して、やはり寝ないで母が本を讀むのを止めるまで待つてゐる、その氣配が母を背中から刺し透すよりもつとつよく瑛子にもかんじられてゐたから。異様に光つた眼をして落ちつかないその父の姿をみると、「お母さんの馬鹿、もう止めればいゝのに。なんて厭な母さんだらう。いゝ加減にしないかな」と、瑛子までやきもきしなければならなかつた。これらは瑛子がまだ六つか七つ頃の記憶だつた196

この時期このように、陽の鋭い視線が両親に向けられていた。子どもの成長に伴い、一枝の関心は、より一層子どもたちへと傾斜していく。一九二一(大正一〇)年に発表された一枝のエッセイは、子どもに関する内容のものが目立つ。たとえば、「子供と私」(『婦人之友』一月号)や「子供を讃美する」(『婦人之友』五月号)がそれに相当する。この年は、文化学院と自由学園が創設された年でもある。そして、この年の八月に陽は満六歳の、陶は一一月に満四歳の誕生日を迎えている。

前者の「子供と私」の冒頭において、一枝はこう告白する。「『子供と私』を書くについて、私は考へました。私は子供について書く資格が本當に有るだらうか。恥づかしくはなからうか。恐らく自分は子供について書けないのが本當で、書くのは間違つてゐるのだと。……しかし、また思い返してみると、書くのが本當のやうに思はれたのです。これを書く事は自分が子供にもつてゐる心なり態度を深く反省する機會にもなるし、或意味で正直に自分の態度を責めてもらへる事にもなると思つたのです。……最初に書いて置きます。私は子供にとつて決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません」197

しかし、後者の「子供を讃美する」では、少し趣が変わって、一枝は、次のような表現を使って、大自然のなかに純真さをもって存在する子どもをほめたたえる。

 子供はいい。歓喜と幸福と純粋の中に跳ねまわつてゐる様子をみると、羨ましいので心をうたれる。子供はいつでも愉快で、いつでも生き生きとして大自然から生れたまゝで、幸福と云ふものを たなごころ にのせて、自由自在にそこからふりこぼれる光りにつつまれてよろこんでゐる。大自然の寵愛を思ふ存分受けてゐるのも子供だ。美しい自然の風景に、いきなり飛びこむことも、すぐ出來る。大空で朗かに歌う小鳥と一緒に歌へる。太陽と月と星に言葉をかけて得心してゐる單純な、しかも強烈な空想と想像力。どれもこれもなんと云ふ輝かしく豊饒な賜物だらう。子供程大自然に歓喜を感じるものはないと思ふ198

ここには、紛れもなく、安堵の豊かで美しい自然のなかでのびやかに成長する、陽と陶の歓喜と幸福感が描かれていると考えていいだろう。しかし、その一方で、自己の内面にも、目が向かう。自分の歓喜や幸福感は――どこにあるのだろうか。同年翌月の「安堵村日記」(『婦人之友』六月号)に、一枝は、このように書く。

 くらいところ、おちてゆく程、自分を責める態度が強くなつてくる。他人を責めることの上手な自分は、かつて他人を責めたより、もつと激しい強い力で自分を責めてゐるのだ。それから、自分を底の底まで侮蔑してゐる。意地悪く卑める。自分の痛い痛い傷を、實に残酷にしつこくあばく、ほじくりたおす。自分程、いやな人間、悪い者は、もうゐないのだと云ふ事を、自分に無理にでも思ひこませようとする氣持がひどい音をたてて荒れ狂ふている199

数年前一枝は、自分の過去を、こう分析していた。「貰いたいものはみな两親から貰ひ、したい事は出來るだけして來た私はまるきり總てにもつところの理解がなかつた。驚くべきほど無智であつた。私は思ふ。自分の過ぎこしは、あの美しくかく果敢ない 石鹸玉 シャボンダマ の、都大路に誇らくかなしく吹きすぎたやうに!!」200。過去の自分を、都大路に高く誇らしく舞い上がるも、悲しく、はかなく消えてしまったシャボン玉に見立てて、強く責める、こうした一枝の自己譴責が、いまだに、この一文へとつながっているのであろうか。あるいは、この一文は、先に紹介した小説風の短い自伝「明日」のなかで陽が描写したような一枝の強い欲求、つまりは「ものを書きたい、一人で本が讀みたい、元氣な昔友達と會つて自由に話がしたい」という根源的な欲求を、母から受け継いだ良妻賢母の思想が邪魔をして貫徹できず、つい委縮してしまう自己を侮蔑している表現なのであろうか。この一文は、もし前者であれば、拭い去れない過去の自分の無知ぶりを繰り返し責めているともいえるし、後者であれば、事をなしえない現在の自分の薄弱な意思を責めているともいえる、両義的に解釈が可能な文なのである。いずれにしても、この時期、厳しい自己嫌悪と自己批判が一枝のなかで渦巻いていたことは確かであろう。

けがれなき自然と子どもに比べて、自らの存在は、際立って醜く映る。その一方で、子どもの純真さだけではなく、自然の美しさに、心がいやされる。「今夜ほど星のきれいな晩は近頃になかつた。……美しい夜だった。私の心は今、實に静かで、きれいだ。どうぞ、子供達に祝福あれ」201

そうするうちに数え年の八つになり、陽は学齢に達した。一枝と憲吉は、小学校に入れるか、このまま家庭での教育を続けるか、日々悩んだ。

小學校に出すには彼女は遥かに高く進み過ぎて仕舞つた……こんな子供を尋一[尋常小学校一年]に出せば學校に対する興味、學科に對する熱心さを失はせる事は勿論です……それかといつて社會人として彼女を見た時、學校生活から受けるものゝ多くあることを無視する事は善いことであらうかとも考へました。……學校に出ないとすれば當然彼女は一人である……子供同志の遊び、それはどんなに楽しいものか、そこからお互ひが受ける智識、経験、それは子供を最も子供らしく育てゝ行くではないか、しかし私達は、結局家庭で敎育することに決心しました202

そのように決心した理由について、一枝は続けてこう述べている。

村の小學校の生徒の種が悪いのです、先生が悪いのです。……小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかったのです。それにその頃は、(今でもですが)小學教育、殊に初等科に對して一般的に私は信頼出來ないものを有つてゐました203

このことからもわかるように、憲吉と一枝は、子どもたちの教育に非常に熱心だった。

それでは、憲吉と一枝は、この時期の学校を、どのような存在としてみていたのであろうか。憲吉の目には、教室は「自由の牢獄」に映っていた。そして教師は、子どもの「成長せんとする心」に理解を示さぬ存在であった。憲吉は、こう述べる。

 午後三時、子供等は嬉々として烈しき白日の道に列をなして家路につく。子供等は何故にかく楽しげなるか。彼等は自由の牢獄に等しき教室と彼等の成長せんとする心に同情なき教師等の手より離れたるが故なり。教育はげに自由の牢獄なるかな204

一方の一枝は、直接村の子どもたちに学校の様子を聞いたことがあった。「學校の先生の話をきいたら怖いといつた。學校の稽古は面白いかときくと、お伽噺を聞かしてもらふ時の方がいいといつた。本當の事をいつてゐる。本当にそうだと思つた」205

このように憲吉と一枝は、当時の学校教育に強い不信をもっていた。ふたりは、過去を踏襲しないオリジナルな模様の創案を、その一方で、因習を断ち切った新しい家族の形態を――そのとき必死になって追い求めていた。それと同じ地平から教育や学校を眺めた場合、教育は、個性や個人、あるいは自由や創造性といった価値からあまりにも無縁の存在であった。そして学校は、過去の旧い価値だけが堆積し、意味を失い廃墟と化した残骸物に似ていた。一枝が、「小學校に出すことは危険な場所に放すやうで不安でならなかった」と述べたとき、憲吉が、教室を「自由の牢獄」と表現したとき、過去の教育や学校を支えていた価値は完全に葬り去られ、この夫婦の理想は、陽と陶のふたりの生徒だけが通う「小さな学校」の開設へとつながっていった。

「円通院の世界地図」と題されたエッセイのなかで、陶は、こう述べている。のちに母親から聞かされたのではいかと思われる内容も含めて、陶はしっかりと記憶していた。

 母は遠い東京から嫁いで来ておりましたので、早速上京して行動を開始、当時自由教育家としてダルトンプランを実行しておられた牛込原町の成城小学校の校長小原国芳氏に御相談の末、小原先生も個人教授の私設学校の事を大賛成して下さり、東大大学院の卒業生の中から優秀な方を推薦して頂く事まで御約束頂き、母は安堵に帰ってまいりました206

また別のエッセイ「安堵のことなど」のなかでも、陶は、この「小さな学校」について触れている。それによると、こうである。

 さっそく教室は母屋の裏の祖先の墓地内に建てられた小さなお寺「円通院」が模様変えされ、当時関西で一番の木工会社、大阪の内外木工所に子供用の小さな勉強机と椅子、大きな黒板等注文されました。……壁には大きな黒板と世界地図がかけられてあり、先生用の大きな机の上には特別大きな地球儀が置かれてありました。……先生は母屋の表門の門屋(昔の門番さんの宿舎)を宿舎とされ、一切のお世話はお祖母さんの家でして下さったようです207

こうして準備が整い、「小さな学校」が開校した。一九二二(大正一一)年の、おそらく四月のことだったものと思われる。「姉と私は朝食が終わると田舎道を『円通院』の学校に通い、国語、数学、お習字等を勉強しました」208。午前中で勉強は終わり、子どもたちは帰路につく。家では母親が待っている。一枝はこう書く。「平和に静に愉快に勤勉な幾時間をそこで過して午飯にこの田の中に建つ小さな一軒家に戻つてくる時、母親の私は子等のために温き飯を焚いて膳を調へ待つてをります。『只今』『母さん只今』と、元氣のいゝ明るい聲が遠くから四方に響いてくる時、いつもながら胸迫つた嬉びがほとばしります」209

「円通院」の学校とは別に、引き続き一枝は、ふたりの娘を連れて、奈良に通った。以下も、陶の記憶である。

寺子屋の時間割り表にない学課が英語、唱歌、理科の三課目でした。週に二回ほど姉と私は母に連れられて軽便鉄道にのり、奈良の女高師(現在奈良女子大学)に出掛けました。放課後のしーんとした校舎に、それぞれの学科の先生をお訪ねして、個人授業を受けました。……青木先生に英語を、音楽はがらんとした広い音楽室で幾尾先生に、実験材料が沢山ならんだ理科室では理科を 神部 ママ 先生に教えて頂きました210

子どもたちに教えられる教科から修身科は省かれた。その理由を一枝はこのように述べている。「修身科こそ、家庭にあり、生活に現はれてゐなければならぬ肝要なものではないでせうか、それだけに私は自分の心を修めるのに、實に苦しんでをります」211。この意味するところは、修身や徳育というものは、子どもにだけ一方的に押しつけられるものではなく、まずは先立って親自ら、身を正し、善を行なう必要があり、したがってその場は、学校ではなく、家庭にある、ということであった。そして願うところは、次の三点であった。「私達は子供の健康であることを第一に願ひ、第二に人間として正しく善くあれと欲ひ、第三に自分の力で立派に社會で生きてゆける事を望んでをります」212。さらに一枝は、いま行なおうとしている新しい試みについて、他方、そこから成長していこうとする子どもたちに向けて、以下のように語る。

 私の叩く扉よ、どうぞ善きものであつてくれ、子等を待つはるかにも高い未來よ、子等に善きものであつてくれ、もしも扉を叩く私の力が足りぬ時は、子等よ私を守つてほしい、もし私の叩く扉が間違つてゐたら、お前達よ、私を赦してほしい……そう思つて私達は進んでをります213

この一文は開校から三年目に入った時期に書かれたものではあるが、まさしくここに、「小さな学校」の開設にあたっての、「開校宣言文」にも似た、一枝の決意が表明されていた。一枝には、未知の世界に踏み出す行動であるがゆえに、自分の行為が真実なものであるかどうかという不安が残る。しかし、自分を信じるしかほかない。公教育を「近代」と考えるならば、寺子屋式の「小さな学校」は、教育制度的には前近代への逆行を意味していたかもしれなかったし、良妻賢母や軍国主義に代わる自由や個性に重きが置かれている点に着目すれば、教育内容的には、すぐれて「近代」的な扉が、開かれようとしていたのである。こうして、憲吉と一枝の大きな理想を具現化した「小さな学校」は誕生した。

それでは、そのような教育を受けた当事者である陽と陶は、それをどのように受け止めていたのであろうか。陶は、この「小さな学校」がつくられた背景について、「留学時代に父が見聞きした英国の上流社会の人達の教育方針がよほど若い父の心を動かしていたのでしょう」214と述べている。

また、同じく陶の回想するところによれば、「母屋と呼ぶ祖母の家の裏門を出て堀を渡って三、四分の所にそのお寺はありました。お寺の玄関のかもいの上に『円通院』と書かれた大きな木の額がかけられており、私達は何時も学校とは言わずに『えんずいん』と呼んでいました」215。ここから推測できることは、幼いふたりにとっては、富本家の菩提寺の円通院に通っているのであって、学校に通学しているという自覚や認識は、あまりなかったのではないだろうか、ということである。もしそうであれば、いわゆる「学校」という組織や制度がどのように成り立ち、運営されるのかが十分に理解されないまま、陽と陶は、一般の学校の幼児教育期ないしは初等教育期に相当するこの時期を、全くの閉ざされた真空の私的空間のなかで過ごしていたことになる。後年、陽はこう述べている。

 現在、妹[陶]は音楽教育の分野で、弟[壮吉]は映画監督として生活しており、私のように平凡な家庭の一主婦として暮らしているわけではないのですが、どうやら、五年生のとき東京に移転するまでを、円通院学校の孤独な生徒で過ごした私の事情は、ほかの二人よりいっそう色濃く くせ ・・ を、私につけているように思います。囲いが厚ければ厚かっただけ、風通しが悪かったのでしょうか。こんなことをいうと、はるかな場所で両親が悲しむでしょうか216

一方の陶の後年の回想は、こうである。

 私達姉妹が受けたこのような特別な教育がどれだけ私の人間形成の上で役に立ったのか、それはわかりません。社会生活になじめなかったり、特に、後に官立音楽学校で勉強するようになった時、団体生活が窮屈で途方にくれました。……在学中私のように欠席が多かった生徒は珍しかった事でしょう。学期末になると母が筆で半紙に、遅刻、欠席一回につき一枚ずつのお届けを何枚も何枚も書いてくれ、それを私は恐る恐る教務課に届けたものでした217

「小さな学校」が開設された年と同じ一九二二(大正一一)年の一〇月、今度は、家族雑誌の製作がはじまった。一枝が、短編小説「貧しき隣人」をちょうど書き終えたときである。陽の回想によれば、「私が七歳、妹が五歳の秋のことでした。家族みんなで雑誌を作ろうという話が決まり、『小さき泉』【図一〇】と名づけられた私たちの家族雑誌が発行されたのでした」218

小さき泉うまれたり
あふれる水/つねにきよく/
つめたくすみて/うつくしく
光うければ/かがやきて/
あたたかきながれ/やすむまなし
小さき泉    ――一九二二秋十月――一枝

これが「創刊号扉の母の言葉です。手すきの朝鮮紙を袋とじの、二十数ページが打ちひもでとじられていて、表紙、扉絵、カットなどを父が、編集を母が受け持っていました」219

編集尾竹一枝、表紙絵富本憲吉の、あの豪華雑誌『番紅花』の創刊号が世に出たのが、一九一四(大正三)年三月であった。あれから八年半の歳月が流れていた。この八年半は、『番紅花』の刊行をきっかけに本格的な交際がはじまり、結婚し、家と窯をつくり、ふたりの娘を儲けて、そしていま「小さな学校」が開校した、まさに、振り返ると、ふたりの人生にとって激動の期間であった。ふたりは、この『小さき泉』を協同して製作しながら、かつての『番紅花』の時代を思い出したであろうか。それはわからない。しかし、共通していることは、短命に終わったという点である。この『小さき泉』も、一九二二(大正一一)年一〇月から翌年二月の全五号をもって休刊することになった。その理由はわからない。

すべて述べたように、一九二二(大正一一)年の三月三日、京都において、部落差別の解消を目的に全国水平社が結成された。宣言文は、「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ」ではじまり、「水平社は、かくして生れた。人の世に熱あれ、人間に光あれ」で結ばれていた。おそらく一枝は、この動きを知り、被差別部落の問題に関心をもったのではないだろうか。

一枝は、同年の一一月号と一二月号の二回に分けて「母親の手紙」を『女性』に連載した。子どもたちが、円通院の学校に通いはじめて、半年ほどが経過した時期である。かなりの長大な手紙である。かいつまむと、こうなる。「身体だけではなく、あなた方の知恵も、たましひも、見事にのび、善くそだつたのを母さんはどんなにうれしく沁々見やつたことでせう」220と、子どもの成長に喜びを感じ、「陽ちゃん、陶ちゃん、母さんはあなた方のために、やつぱり夢中で暮してゆきます。母さんは、どんなに苦しいことに出逢つてもあなた方のために、生きてゆきます。あなた方の愛と信頼は、母さんに自重、勇氣、忍耐、謙遜、を敎へ示してくれる筈です」221と、自分にとっての子どもの存在の大きさに言及する。子どもの父親のことについては、こういう。「お父さんは、美しい心をもつた、人間の心を温かく結びつけ、人間の生活にうるほいのあるやうな陶器を焼成さすためにどれだけ苦しんでゐらつしやるかわかりますか、お父さんの苦しい氣持や、出來てゆくお仕事をいつも間近で見たり、きいたり出來てゆくあなた方や母さんは、どんなにしあわせでめぐまれてゐるかしれません」222。そして、自分の未熟さや未完成さの補完を、子どもに託す。「母さんに出來なかつたものは、あなた方がその續きをしてくれる。そして不完全からだんだん完全にうつつてゆくのだからそうさびしく思はなくてもよいと、母さんの別の心が母さんを慰めてくれるのもその時です」223。母娘の永遠の生を語っているのであろうか、それとも、「近代」の価値の持続的継承性を語っているのであろうか。そして、社会に存在する不公平の問題にも、子どもたちに目を向けさせようとする。

これからあなた方はだんだん大きくなつてゆくにつけて……この人間の住んでゐる社會にはどつさりな不公平があるのに第一氣がつきませう。働いても働いても、食べる事だけしか出來ない人達、否、食べる事さへ、生きてゆく保證さへ終始おびやかされ通しでゐる人達があります。自分達は少しも働かずに、お腹いつぱい美味なものを喰べ、飽く程美衣寶玉にとりまかれた實に安逸なきらびやかな生活をしてゐる人間もゐます。
 富者と貧者、こんな事は、陽ちやん、まづあなたの感じ易い心に、せまつてくる事でせう224

そして、最後をこう結ぶ。

 母さんがあなた方に手紙をかきたいと思つたきもちが、いま母さんには、はつきりわかりました。ありがとう、陽ちやん、陶ちやん、母さんはあなたがたにおれいをいひます。
 あなた方のために、母さんはいつでもともするとふみかける汚れた道を踏むことなくして、別の正しい路をさらにさがしにゆくことが出來るのです。……
 あなた方よ、愛しあつて下さい。助け合つて下さい。そして幸福でゐてください225

以上が、この「母親の手紙」一二月号の要旨であり、一枝が「貧しき隣人」の執筆に取り組んでいたころの率直な心情であった。一枝は子どもたちに感謝する。ふたりの娘の成長とともに自らも成長し、幸いにも一枝は、もはや「汚れた道」へと進むことなく、さらに「別の正しい路」を見出そうとしているのである。それは、過去の清算であり、過去との決別を意味するものであろう。そして、それに代わって獲得したのが、「良心」であり「ヒューマニズム」であったのではあるまいか。過去には論説文「藝娼妓の群に對して」(一九一三年の『中央公論』一月号に掲載)も書いていた。今度はさらに足元の日常を見る。そこには被差別部落の問題が存在していた。一方、文学への道――これが、青鞜以前から自分が歩みたくてたまらなかった、密かに胸の内にしまい込んでいた道であった。かつては自分を偽って絵も描いた。そうした自分を、これまで何度も何度も責め続けた。子どもに倣い、自然に倣い、素直になる、純粋になる、謙虚になる――そこに「別の正しい路」が横たわっていた。さらにその上に、「小さな学校」に子どもたちが通いはじめると、許す時間が増えた。条件がすべて整った。かくして一枝は、被差別部落に住む草履売りのお篠婆と「私」との交流と葛藤を描く小説の執筆へと駆り立てられていった。一九二二(大正一一)年一〇月五日の夜に無事脱稿した。そして年が明け、一九二三(大正一二)年の『婦人公論』三月号にその短編小説「貧しき隣人」【図一一】は掲載され、公にされた。題名の次行に小さく「この一篇を山本顧彌太氏御家族に捧ぐ」の文字がみられる。山本顧彌太は、大阪の実業家で美術愛好家でもあり、夫婦して安堵の窯をよく訪れていたものと思われる。この献辞は、この間この夫妻が、本来の熱望する道に正しく復帰すべきであると一枝の背中を押し、それがこのようなかたちで成就したことに対する報告とお礼の気持ちを表わしたものと考えられないこともないが、しかし資料不足のため、それを立証することはできない。いずれにしても、主として日常生活の断片をエッセイというかたちで書き表わしてきたのが、これまでの一枝の執筆活動の中身であった。その一枝が、ここへきて小説の執筆へと大きく舵を切ったのであった。隠れていた自己の本来的願望への正直な回帰、そして、見過ごしていた社会の矛盾や暗部への視点の移動――このふたつの点からして、この短編小説「貧しき隣人」は、紛れもなく一枝にとって、自己の「人間宣言」のごときものであった。

「貧しき隣人」が公表されてから間を置くことなく、同年の五月二九日に、一枝は「あきらめの底から」という短いエッセイを書き上げ、同じ『婦人公論』が企画する特集「生の歡びを感ずる時」へ寄稿した。このエッセイには、夫も子どもも、もはや登場しない。次に示すものが、その最後の一節である。

 あきらめてあきらめてたそこから生まれてくるよろこびを見るとき、自分ひとりの心に深くしりぞき、しづかに、あつい泪をながします。若い頃に比べて、なんと云ふちがつた心のもちかたか、思いかへしてみると不思議なものですね226

あきらめの底から、小説が書けた。あきらめの心が遠のく。そして、「生の喜び」が湧き上がる。その達成感は、若いときに味わうことのなかった、全く異質な情感であった。涙が頬を伝う。これが、母から受け渡された「忍従の女」でも、放縦に走った「青鞜の女」でもない、生まれ変わった一枝自身がはじめて知る「近代の女」の流す涙だった。

しかしながら、憲吉と一枝を取り巻く状況は徐々に変化しようとしていた。

七.奈良女子高等師範学校の学生たちとの交流と安堵村生活の終焉

すでに紹介したように、一九八四(昭和五九)年刊行の『いのちと命のあいだに』のなかで、著者の丸岡秀子は、奈良女子高等師範学校の学生だった十代後半のころ、安堵村にはじめて一枝を訪ねたときのことを回顧して、まさにそれは「近代」との巡り合いだったと書いている。その前年(一九八三年)には、『ひとすじの道 第三部』を上梓していた。ここでの主人公は手塚恵子。しかし、「あとがき」のなかで丸岡は、「まえに、わたしはジュニア版を出したとき、『この物語のモデルはわたしです』と明言してしまっています」227と述べており、そのことを勘案すれば、この物語は、手塚恵子の名を借りた、丸岡秀子自身の自伝として読むことを可能にする。それでは、それに従って、最初の出会いから、一九二三(大正一二)年の関東大震災の時期までを追ってみたいと思う。

「恵子は、一枝をあこがれ、一枝に逢うために、安堵村を訪れたのだった。そして、初めて逢ったその日に、一枝には、愛慕を感じた。だが、夫の憲吉には、初めは関心が薄かったが、時間が経つうちに、敬愛の深まるのがわかった。二年生になったばかりの十七歳の春だった。……恵子は、この一組の配偶を理想の像と見るようになっていった。そして、二人の生活のなかに、遠慮もなく入り込んだ自分を、幸運だったと思った。そして求める人間にめぐり逢いたくて、この家にふみこんでしまった無遠慮を大切にし、途中で失うようなことを決してしてはならないと思うようになっていった。……一枝の書架には、新しい本がぎっしりつめられ、机の上に置かれた原稿用紙と、インクとペンは、これまでの女の生き方を否定し、新しい生き方の模索のために、書き手を待っているようであった。……相手の迷惑を顧みる余裕もなく、恵子は、日曜ごとに夫婦を訪ねることを日課とした。そのうちに二人を訪ねる人が、だんだん多くなることもわかってきたし、一枝をあこがれる学生も、同級生のなかにも出てきたり、そのまた上の学生のなかにも、出てくるようになった。一枝は、それらをすべて受容した。決して拒まなかった。強烈な花の香りに集まるように、二人が三人になり四人になっていった。一枝もまた、それらのなかで、好ましい学生とそうでないものとに、心を分ける姿を見せることもあった。恵子は、そのことを敏感にかぎ分けた。そして嫉妬もした。だが、それに負けるものかと思うようになった。むしろ、せっせと安堵村に通った。すると、同級生や、上級生が、ベランダで、一日中、一枝とはなやかに談笑していることもたびたびだった。だが、恵子はひるまなかった。すぐ、台所に入って袴をとり、割烹まえかけ姿になって、浸けてある洗濯をはじめた。……窯出しの日が、日曜に当たるときもあった。憲吉の陶器を求めて、大阪や京都や、時に東京から訪れてくる人びとがいた。恵子は、そんな日は心忙しく手伝った」228

このように、一枝を頼って日曜日に安堵村を訪れる奈良女高師の学生たちが次第に増えていった。恵子もそうであったように、そのなかには、出自や家庭環境に悩みをもつ者、将来に不安を抱く者、社会や政治に不満をもつ者も含まれていたであろう。誰しもがそれぞれに苦しみを抱え、そこから抜け出そうとしていた十代後半の女たちであったにちがいない。男尊女卑が支配する社会にあって、対等の存在としてみなされていない彼女たちにとっては、その救いを、男性に求めることはなく、勢い同性に向けていく。一枝もそれは、よく承知していたであろう。そうしたなかから、男女の恋愛に擬されるような、同性間の愛の交流が芽生えたとしても、それはそれで、何ら不思議はなかった。

一枝が「貧しき隣人」(『婦人公論』三月号)を発表した一九二三(大正一二)年の夏のことであった。そのとき恵子は、奈良女高師の四年生になっていた。卒業すると、来年は、どこに住んでいるかわからない。安堵村へ来ることができるかどうかもわからない。そこで「恵子は、二人の迷惑も考えないで、この夏の[富本家の]尾道行きにすがりついた。……そのころの尾道は、[恵子が生まれ育った]信濃の山村とは、まるでちがう活況があった。漁業を中心とする町だった。そこからポンポン蒸気で渡る小さな島にある一軒家を借りて、約一か月を過ごした」229

そのとき、ひとつの出来事が起こった。丸岡はその場面を、一枝の喜びと憲吉の寂しさを対比しながら、こう描く。

「その間にも、訪問客があった。ことに一枝をあこがれ、一枝もまたとくべつの好意を寄せていた、奈良の学校の先輩が島を訪れた。恵子の上級生でもあり、特別な美貌でもあり、当時この家への出入りも繁くなっていた。恵子の友人の一人でもあった。一枝は喜び、彼女と水着に着替えて、毎日、彼女と二人で海に入った。こちらの島から向こうに見える島まで泳ぎの競争をするのだと、はしゃいでいた。憲吉は、寂しそうに、二人の子どもたちと、いっしょに海に入った。恵子は、岸辺でそれを見送りながら、幸福を満喫して大きく泳いでいる一枝と、いつもそれを許してきた憲吉の孤独を、同時に、ひそかに思っていた」230

憲吉にとって、直接自分の目ではじめて見る、美しい女性に心をときめかす一枝の歓喜の姿であった。このとき憲吉は、四年前に一枝が「海の砂」(『解放』一二号)のなかで自己分析していた、「『不良心』で『不徳義』で『不道徳』であったこれまでの自分」が、いまなお一枝のなかに生き続けていたことに気づかされたであろう。恵子が観察しているように、憲吉の「孤独」は深かったにちがいない。あるいはそれ以上に、激しい虚しさや不信感が憲吉を襲ったかもしれない。また一方、幼い陽と陶は、母親が「とくべつの好意を寄せていた」人と一緒に、「幸福を満喫して大きく泳いでいる」様子を見て、どのような思いに駆られていったであろうか――。

それからしばらくして、またひとつの出来事が起こった。丸岡にとって、これもまた、いままでに経験したことのないような衝撃だったにちがいない。その場面を丸岡は、こう描写する。

 ある日のこと、恵子は独りポンポン蒸気に乗り、尾道まで食糧を仕入れに行って帰ったが、まだみんなが海だったので、昨日の日記をつけようと机の上のノートを開いた。ところが、そこに一枝の伸びやかな文字が長々と書きこまれてあった。それが目に入ったとき、恵子は飛び上がって驚いた。
「許してください。黙って、あなたの日記を見たことを許してください。それは、あなたがどんなに苦しい思いをしているのか、いつも心配していたからです。ことにMさんが島を訪れたときのあなたの表情を見ていたからです。たしかに、わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます。だが、そのかげで、あなたの心を傷つけてしまったのではなかったかと、恐れていたのです。
 ところが、あなたの日記には、どこにもその影さえ見当たらなかったのです。感謝しています」と、恵子の日記の終わったページに、一枝は書いていた231

こうして夏の休みの日々が過ぎ、帰村のときが来た。「そして、その年の九月一日。一家と共に安堵村に帰る途中で、関東大震災のことを知った。ちょうど尾道から帰る途中の船の上にいた時間に、震災は起きていたのだった。尾道で初めてそのことを知った。……[恵子が陽と陶を預かることを申し出ると]それではということで、急ぎ出発した[憲吉と一枝の]二人が、東京へ入れなかったと、途中までで、その日のうちに帰ってきた九月一日の長かったことも、恵子の記憶にあざやかである」232

この関東大震災は、憲吉と一枝に大きな衝撃を与えたにちがいない。憲吉は、六代乾山について、こう書いている。「乾山老人達は千住の方に逃げのび辛じて助かつた。ところが老人の娘の嫁入先が被服廠に入つたので全滅してしまつた。老人はその痛手も手傳つて喘息が重くなつて震災後間もなく七十幾歳かで亡くなられた」233

また一方では、この年(一九二三年)の五月、憲吉の親友である柳敬助が亡くなり、九月一日、東京の三越で追悼展覧会が開かれた。憲吉が作製した「墓碑銘は枠附も出來て正午前に風呂敷包みにして會場へ届けられた。そして故人の寫眞の下に飾られる筈であつた。恰度そこへあの大地震が來て大混亂が起こつた」234。展示されていた遺作も友人の賛助作品も、すべてが焼失した。しかし幸いだったことに、「墓碑銘」だけは、夫人の手によって無我夢中のなか自宅まで持ち帰られて、難を逃れた。

他方、難を逃れることができなかったものもあった。晩年の憲吉の回想である。ロンドン滞在中、憲吉は、新家孝正に随伴してエジプトとインドで「二、三ヵ月の間に、回教国の寺院の宮殿、墓地といったところの建築様式、モザイックとか天井のデザインなどの部分にまでレンズを向けて、約五百枚写して農商務省に送った。その後、明治天皇がなくなられて博覧会は取り止めになった。かくて写真もカメラも、当時の金で十万円にものぼる参考書類も、省の倉庫にはいったまま大正十二年の震災で 烏有 うゆう に帰した。かえすがえす残念でならない」235

大震災により社会が混乱するさなかの九月一六日、大杉栄と伊藤野枝、そして六歳になる大杉の甥の橘宗一の三人が、憲兵隊により扼殺されるという凄惨な事件が起こった。「日䕃茶屋事件」以降、神近市子は入獄し、大杉と伊藤は実質的な夫婦生活に入っていた。一枝が無政府主義やクロポトキンの話を聞いたのが、この大杉からだったし、伊藤とは、青鞜時代、年が近かったこともあって、小林哥津を加えた三人で、一緒になってよく行動をともにしていた。この事件について一枝が書き残したものは見当たらないが、おそらく、強い衝撃を受けたものと思われる。思想や結社を取り締まる治安維持法が制定されるのが、この二年後の一九二五(大正一四)年で、いわゆる「大正デモクラシー」も、その終わりに近づこうとしていた。

この大震災の影響だったのではないかと思われるが、これまで二年続けて一二月に行なってきていた野島康三の竹早町の私邸での憲吉の展覧会も、開かれることはなかった。しかし幸運なことに、大阪で展覧会をもつことができた。『アサヒグラフ』は、こう報じている。「十一月六日から十一日まで大阪心齋橋筋瓦町内外木工所で陶器展覧會を開き本年の製作約百五十點したが、そのうち繪高麗は氏の新しい試みである」236。そのときの憲吉と一枝が【図一二】で、【図一三】が、そのとき展示された陶器類である。

年が明けた、一九二四(大正一三)年の四月、「小さな学校」に新しい教師が着任した。着任してしばらくすると、『婦人之友』八月号の「私たちの小さな學校に就て」という特集のための執筆がはじまった。一枝は「1. 母親の欲ふ敎育」を、新任の小林信は「2. 稚い人達のお友達となつて」を、そして憲吉は「3. 生徒ふたりの敎室」を書いて寄稿した。一枝は「1. 母親の欲ふ敎育」のなかで、これまでの陽と陶に対する家庭内での教育実践の様子を詳細に語り、続けて、村の小学校に子どもを通わすことを断念し、「小さな学校」を開設するまでに至った経緯を書き、そして、最後の「附記」のなかで、新任の小林についてこう記した。「小林信氏は私の若き友人として、今子供達のために全力を盡してゐて下さる。氏によつて私達の仕事は第二期に入ろうとしてゐます。學識ある氏によって私達の學校の基礎が固められつゝある事を悦び感謝します」237

「円通院」の先生は、初代が伊藤、二代目が立石で、この四月から小林信に引き継がれ、一枝は、これをもって「第二期」に入り、「基礎が固められつゝある」ことに喜びを隠さない。一方の小林はどうかというと、「2. 稚い人達のお友達となつて」のなかで、冒頭、陽と陶と自分とのこれまでの関係をまず紹介する。「私が陽ちやん陶ちやんと云ふ二人の稚い人のお友達となつて、此の學校に來ましたのは、つい此の四月で、未だほんの四ケ月足らずにしかなりません。けれど、私は此處三年程前、卽ち姉さんである陽ちやんが、始めて恁ういふ特殊な敎育を受け始めて以來、二人の母上を通して、その母上が二人の愛兒の上に抱いて居られる理想を覗ひ、二人の稚い人達の上を祕かに考へ、此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました」238。そして自分のことについては、このように書く。いまの悲しむべき学校社会から「せめて自分丈けでも……逃れたいと、常に願ひ乍らも、止むなく或る地方の女學校に赴任して一年。私の無経験な、併しそれ丈けに純粋であり、又眞實だと信ずる私の考へが、事毎に、殆んどその種子下ろしさへも許されずに、 無惨無惨 むざむざ 蹂躙 ふみにじ られて行くのを、私は戦ひおほして突き進む力を失つて了ひました」239。さらに、小林の言葉は、ふたりの生徒の母親である一枝への感謝へと向かう。

 小さくとも私自身の生きた敎育がして見度い。勿論、私の描く夢が、果して眞實のものに近いか否かを、私は知りません。それを思ふと、私は常に自分の爲てゐる仕事が恐ろしくなり、二人の稚い人達の前に、涙で頭の上がらなくなるのを感じます。併し、私自身は、私を容して呉れる人の許で、私の信じる處を進むより仕方がないのです。幸にも、二人の稚い人たちの母上から、『兎も角も貴女の信じる處を遣つて見て下さい。』といふ寛い了解の許に三人が結び合つてからの、此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です240

ここまで読み進めていくと、この小林信という新任教師は、先に紹介した、丸岡秀子の『ひとすじの道 第三部』において、尾道の対岸にある向島での海水浴の場面に登場する訪問客の「Mさん」と同一人物ではないのだろうかとの推測がよぎる。主人公の「恵子」(つまり丸岡自身)の奈良女高師の先輩で友人でもあるその訪問客は、三年くらい前から一枝を慕って安堵へ足しげく通い、陽や陶の遊び相手にもなり、卒業後は、昨年の四月より地方の女学校に勤務するも、教師としての夢破れ、夏休みには、あこがれの一枝を頼って滞在先の向島を訪ね、毎日二人して泳ぎを楽しむ――この人物こそが、実は小林信という女性だったのではないだろうか。「信」の読みは、「まこと」「まさ」「みち」のどれかであったであろう。

「信」の読みを含めて、小林信が「Mさん」であることを示す決定的な証拠となる資料がいまだ見出せないため、絶対的とまではいえないものの、傍証や状況から判断して小林信が「Mさん」だった可能性は決して低くなく、もしそうであったとするならば、一枝が「とくべつの好意を寄せていた」「特別な美貌で」「學識ある」女性が、この四月、円通院の「小さな学校」に赴任してきたことになる。しかし、昨年夏の向島での海水浴で見せたふたりの親密な同性関係が、もしこの「小さな学校」に今後そのまま持ち込まれることになるとすれば、それは一体どのような事態を招くことになるのであろうか。

小林は、一枝がいう「學識ある」、確かに聡明な女教師だったようである。「2. 稚い人達のお友達となつて」のなかで、続けて、この「小さな学校」の弱点を、裏返せば「團體敎育」の重要性をこう指摘しているのである。

こゝ に私はあの團體敎育が、重要な必然の要求として生れて來たのではあるまいかと思ひます。此の點から云つて、私共の學校は、餘程の力を各自の内に準備なければ、大きな缺陥に陥る結果を胚胎して居るのです。少くとも、もう四五人の友達を持ち、もう二人位の先生に たす け敎へて戴けたらと、自分の足りなさ悲しみ、救を求めます241

この小林の「2. 稚い人達のお友達となつて」には、さらに憲吉の「3. 生徒ふたりの敎室」が続く。憲吉はこう書いている。「兎に角拾年此の小さい竈を附けた小住宅に親子四人が住むで居る。新築された家に少し古びが付くと並行して、赤坊として移り住んだ陽は十歳に此の家で生れた陶は八歳になり小學敎育と云ふものがやつて來た。貧しい自分達が生活費の第一に數へあげる敎育費が自分達の衣服や雇人の部分に迄割りこみ或いはけづり取る迄も何うかして良い敎育を彼等に受けさしたいと相談して彼等だけの小さな小學校をやる事にした」242。さらに憲吉は、この学校の今後の設備の充実などについて、次のように抱負を語る。「私の今の計畫では八疊一室と六疊一室。東西に長く、南にぬれ椽樣のものを取り、南に庭を取つて小さい池の夏䕃を造る樹二三本。若し子供等が好めば四五坪の花園。或は運動具一二と出來得るならば戸外で授業を受ける椅子等の設備。……敎室に使用せぬ六疊には書棚と机と椅子……圖書室の樣な用途に使用したい」243。そして最後を、「私達の樣な親の子として生れコウ云ふ學校で寂みしい友達のない獨りぽつちの生活を送る子供達の不幸がもし私達と先生の熱心によつて幾分でも消されるものなら私は大いに喜ぶ」244という一文で結ぶ。

小林の着任から一箇月後、一年間の空白があったものの、野島私邸での展覧会が再開された。開催月は、これまでの一二月から五月に変更され、五月一七日に「富本憲吉氏陶器展」がはじまった。この展覧会には、陽と陶のふたりの娘の絵画展も併設された。このとき一枝も上京し、「貧しき隣人」に続いて執筆した小説「鮒」の出版について島崎藤村に相談したものと思われる。『藤村全集』(第十七巻)に所収されている島崎から一枝に宛てた手紙とはがきは全部で九通あるが、その最初のはがきの日付が一九二四(大正一三年)の六月五日なのである。宛先は、「東京市本郷區弓町二ノ三〇中江方・富本一枝」となっている。内容は「ほこりだらけで失禮ですが、それさへ御承知下さるなら、明日にも明後日にも御都合よき時に(午後)御訪ね下さい」245というものだった。

どうやら一枝は、中江百合子宅に逗留していたようである。「中江百合子は、南[薫造]とは一番町教会、後には富士見町教会での直接の縁もあってか、既に明治四四年の富士見町教会での南の個展で絵を買っている」246。関西の実業家の中江家に嫁いだ百合子を憲吉と一枝に紹介したのは、南薫造だったのかもしれない。しかし、それはよくわからない。そののち、一九四四(昭和一九)年に中江家の三男の昭男と結婚し、中江家に入った泰子(旧姓植村)は、百合子や長男に聞かされた話として、当時の中江家の様子をこう記憶していた。泰子が中江家に嫁ぐ、ずっと以前の出来事である。

 大正七年……その当時中江家の本宅は京都、会社は大阪にあったが、事件は会社のある大阪・桃山の別宅で起こった。……まだ小学校三年生だった中江の長男(私の義兄)が登校中、急用だから人力車で迎えに来たという犯人に連れ去られたのである。……身代金目的の営利誘拐事件であった。このことはすぐに新聞紙上に大きく載り……怖くなった犯人は数日後、長男をまた人力車に乗せて送り返して来て、事件は一応一件落着となった。しかし……東京育ちの姑[中江百合子]のたっての希望もあって、子供の教育のために東京移転の決心をしたのである。……幸い、東京の本郷区弓町に、中江家の祖父が東京の大学に通う子弟たちのために大正の初めに建てた家があり、大正九年末に両親と四人の子供たちは東京に引っ越すことになった。舅は家業のために時々大阪へ帰り……姑は久し振りの東京暮らしに息を吹き返し、水を得た魚のように社交の輪を広げていった247

一枝が本郷区弓町の中江家に逗留したこの時期は、百合子が「久し振りの東京暮らしに息を吹き返し、水を得た魚のように社交の輪を広げていった」時期に相当する。泰子はまた、「姑[中江百合子]は東京に来てからまた教会に通うようになっていた」248とも述べ、さらに次のような百合子と一枝との当時の交流の一端を紹介している。

 今、私の手元に一通の手紙が残されている。それは姑が大阪時代から親しく交際していた大和安堵村時代の富本憲吉夫人一枝さんに宛てた、巻紙の四メートル余にもおよぶ長文の手紙である。……長男について、姑がどんなにか深く心配し、迷い、悩みの果てに、祈りによって何とか生きる望みをもとうとした心境が縷々と綴られていて心が痛む。手紙の中で的矢の海岸で富本一家と過ごした夏休みに、富本家の二人の子供さんたちと元気に泳いで喜んでいる長男を見て、運動でもさせれば明るくなるのではと、一日も早く彼のためにテニスコートが欲しい、とも記している249

さて、少し横道にそれてしまったが、島崎からのそのはがきを受け取ると、一枝は麻布飯倉片町の島崎邸を訪ね、「鮒」の原稿の取り扱いについて相談したであろう。

それから一、二箇月が過ぎ、「私たちの小さな學校に就て」と題された特集記事が掲載された『婦人之友』八月号が発刊された。これを読んだ平塚らいてうは、『婦人之友』の編集者から依頼されていた原稿の内容を変更して、さっそく一〇月号に「子供の敎育のことなど(一枝さんに)」を寄稿した。らいてうは、すでに上で詳述しているように、五年前の一九一九(大正八)年の秋に、安堵村に一枝を訪ねていた。らいてうの手紙形式のこのエッセイには、そのときの印象が、次のように綴られていた。

 随分久らくぶりでお目にかゝつたあなたは静穏な、明るい自然の美にとりまかれ、藝術にうるほされた家庭の主婦として、やさしくこまやかな愛にあふれるお母さまとしてすつかり落着いて見えました――あなたのあのとびはなれた聲だけは以前と少しも變りませんで[し]たけれど。さうして私は思ひました、たとへ外側がどう見えてゐたとしても、何處までも女性的な魂の持主であつたあなたは、自然から與へられたあなたのあの生まれながらの純な、すぐれて豊かな愛のこころは、人を愛し、人に愛されずにはおかないあなたのあのふつくりとした人なづつこさはお母さまとして一層本質的な美しさを現はすに間違いない、それは少しも不思議なことではないのだ、と250

らいてうの「子供の敎育のことなど」が『婦人之友』一〇月号に載った、ちょうどそのころの一〇月一五日、送られてきていた原稿にかかわって、島崎は一枝に宛てて手紙を書いた。そのなかで島崎は、「あれは読後の感を附して一旦御手許へ御返しませうか、それとも御都合で私の方から『改造』か『中央公論』の方へでも送つて見みませうか、御返事を下さい。あゝいふ深刻な作品は、作者の身邊にモデル問題を引起さないともかぎるまいと思ひますが、それをどうお考へですか。好いお作だけにすこし氣になります。今すぐあれを發表するお考へかどうかを聞きたいと思ひます」251と一枝に問うていた。一枝がどのような返事を書いたのかは、わからない。翌年の一九二五(大正一四)年三月二五日の島崎から一枝に宛てた手紙には、「さて長いこと御預りして居ました御稿『鮒』は改造社の方へ行つて居ましたが、最近に同封の手紙と共に私方まで返して参りました。折角御紹介の甲斐もなく残念に思ひます」252と認められていた。

らいてうの「子供の敎育のことなど」にあたかも呼応するかのように、今度は一枝が、「あの頃の話」という題で稿を起こした。一九二五(大正一四)年の『婦人公論』四月号にそれは掲載された。内容は、冒頭の、「世の人のいふ青鞜時代の平塚さんは、文字通りに此上ない美しい人であつた。ひたすら孤独を愛し寂寥を楽しみ、高き精神への不斷なき祈願に他意ない姿であった」253という言葉ではじまり、全面、らいてう讃美で覆われていた。そこには、らいてうに駄々をこねる赤子のような青鞜の紅吉はもはや存在しない。それに代わって、青鞜を、そしてらいてうを、客観視する落ち着きのある一枝のまなざしがあった。

一方、翌五月、「富本憲吉氏陶器展」が野島の私邸で開催された。一九二五(大正一四)年五年八日の東京朝日新聞の「學藝だより」に、「富本憲吉近作陶器展 來る九日から三日間小石川竹早町九〇野島邸に催す」254と書かれた記事を見ることができる。

続くその年の一一月、憲吉のはじめての随筆集である『窯邊雜記』が文化生活研究會から上梓された。内容は、これまでに美術雑誌等に掲載されたエッセイを主として集めたものだった。【図一四】が、一一月二六日の東京朝日新聞に出た『窯邊雜記』の広告である。この広告には、柳宗悦の次のような推薦の辞が添えられていた。「私は此出版を早くから望んでゐた一人である。之は稀に見る一人の藝術家の手記である。陶工としての著者を愛する人は、漏れなく此本を求めるであろう。……かゝる本は世に多くはない。私は私の愛し敬ふ友の一人によつて、此本が世に出たことを眞に悦ぶ」255

年が明けて、一九二六(大正一五)年二月七日の東京朝日新聞に、今度は、岡田信一郎による「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」と題する長文の書評が掲載された。岡田は、憲吉の陶器にも、この著書にも、美しい「詩情」を見た。

「土を化して玉となす」と言ふ語は、支那陶師が陶器に對する理想と言はれる。然し富本君は土を化して詩となした。玉を愛する事に疎い私達日本人にとつては彼の土で作つた詩は玉以上の價値がある。常に土を以て詩を作る彼はこの『窯邊雜記』では至る所に美しい詩を讀ませてくれる256

そして岡田は、憲吉の思想に、全き「近代人」(つまり、モダニスト)を見た。

彼は又言ふ「千百の宋窯の 作品 ママ [仿古]が出來上がるよりは、一つの拙くとも現代に生れた陶器を見たい」(一一〇頁)と、やはり彼は近代人だ257

さらに岡田は、憲吉の所説に、ウィリアム・モリスに倣う「建築論」を見た。

 建築家である私にとつては、彼の建築に對する一々の言葉が強く響く。……美術學校で學習し、欧米にも渡航し、印度にも見學した。然しウヰリアム・モリス、と、同じように、建築に對する研究は、彼を廣い工藝の理解に導いて、モリスが工藝に志したに對して、彼は陶器に走つた。それ故にモリスの言説がしばしば建築に觸れるやうにこの雜記の中にも、建築が時々引合に出される。しかして彼の深い理解が、職業的に堕し易い私達の心をおのゝかす事がある258

『窯邊雜記』を読んだ岡田は、見まがうことなく、そのなかから、憲吉の「近代人」としての「詩情」と「建築論」を読み解いていたのであった。憲吉にとって、これほど正鵠を射た書評はなかったのではないだろうか。

柳宗悦が、「日本民藝美術館設立趣意書」への同意を求めて、安堵村に憲吉を訪れているとすれは、ちょうどこのころではないかと思われる。憲吉は、民芸とのかかわりについて、後年こう振り返っている。

民芸というものは柳君がはじめて私のところへきて、フォーク・アートこういうことをやっていこうと思うんだけれども、なんと訳すべきかと、きくくらいのものでしたね。私ははじめっからそういうものをやるとどうも狭まくなるからだめだ、というていた。その時分に私がおぼえておりますのは、柳君に向って、君が民芸は工芸の一部だというのなら承認しよう、しかし全部の工芸を民芸だけにしてしまうということには不賛成だ259

富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、柳宗悦の連名によって「日本民藝美術館設立趣意書」が発表されたのは、同年(一九二六年)の四月一日のことであった。

こうしたなか、憲吉と一枝は、大きな悩みを抱えるようになる。「さうして[一九二六年の]十月も半ば過ぎた頃……安堵村を去るやうになつた。思へば一九二六年の早春から、如何に私達が悩み多い日を送つてきたことか」260と、一枝は述懐している。この一年足らずのあいだにあって、この夫婦に何が起きたのであろうか。安堵村を去り、住む場所を別の地に求めなければならなくなった理由は一体何だったのであろうか。

もともと憲吉は、物事を計画的に進める人であった。「私はいつも豫定をこさへて置く。今年は春焼いて夏何処かへ旅行して圖案を考へ秋又やいて冬やすむ」261といったように。その一方で憲吉は、左利きの矯正が影響してか、「私はものの考え方に飛躍するところがあるのを自分で気づくことがある。行動のうえでも、どうかすると順序を追って事を運ばず、ぱッと突進することがある」262。果たしてこのときの安堵村脱出は、あらかじめ「予定をこさへて」実行に移されたものだったのであろうか、それとも、「順序を追って事を運ばず、ぱッと突進する」性格によるものであったのであろうか。

このことにかかわって、その後の憲吉と一枝のそれぞれの証言を次に挙げてみたいと思う。晩年の一九六二(昭和三七)年に執筆した日本経済新聞の「私の履歴書」のなかで、憲吉はこう述べている。

 大和の一隅でロクロを引き、画筆をにぎる私の仕事も、だんだんと世間に認められ、生活には別段、不便を感じることもなかった。しかし、そのころ、東京へ出て仕事をしたい気持ちが日ごとに強くなった。東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願であり、また陶芸一本で生涯を過ごす覚悟も、ようやく固まってきたのである。
 かくして大正十五年[一九二六年]の秋、十年余親しんだ大和の窯を離れ、東京郊外、千歳村(現在の世田谷区祖師谷)に居を移した263

一方の一枝は、こう証言する。これは、一九二七(昭和二)年の『婦人之友』一月号に掲載された「東京に住む」のなかの一節である。

いくどか廻り來た大和國の四季に、住馴れた私達が、東京に移り住むやうになつたそこには樣々の理由があつたが、そのなかでも特に大きく強い事柄があり、むしろ樣々の理由といふよりそのこと一つが根本的の動きであつて、それ以外の私共のいふ理由は枝葉の問題に過ぎないが、その根本の問題にふれることは家庭的のことで、今は書くことがゆるされない。かいつまんで云ふなら人間同志のなかに必ずかもされる危機、その危険期に私達も亦等しく陥つた。さうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛の感情の幾筋かの路を味ひ過ぎた。さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた[。]その結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた264

ふたりの証言内容は重ならない。憲吉は、「東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願」だったことを強調するが、もともとは、「騒がしい東京を嫌つて大和へ歸つて陶器や模樣を造る」265ことが念願だったのではないか。しかも、「だんだんと世間に認められ、生活には別段、不便を感じることもなかった」この安堵村での生活を捨て去る理由がどこにあるというのであろうか。「東京へ出て仕事をしたい気持ちが日ごとに強くなった」のは、別の大きな理由があり、その結果として、そのような気持ちが付随的に生じてきたのではあるまいか。

一方、一枝のいう「特に大きく強い事柄」とは、何だったのだろうか。もしこれが、どうしても子どもたちを東京の学校で教育を受けさせたいという一枝の一途な思いや、何としてでも東京で新たに仕事を展開してみたいという憲吉の強固な思いを指しているのであれば、一般的には、こうした読み手の気をもますような表現は使わないで、率直にそのことを語るのではないだろうか。したがって、一枝の書いていることをそのまま受け止めるならば、憲吉と一枝のふたりのあいだに、やはりこのとき「人間同志のなかに必ずかもされる危機」が発生したことになる。それは何か――。一枝は、「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」という。一枝の「東京に住む」はさらに続くので、順を追って、そこから読み解くことにする。何か手掛かりのようなものがつかめるかもしれない。

かうして幾十日か過ぎた。自分に頼む心の弱々しさを知らねばその間すら過すことが出來ない程もろい自分であつた。夫に はげ まされ、荷をつくりかけてゐてすら、さて何處に落着くかその約束の地を見ることが出來なかつた。夫の仕事のためには陶器を造るために便宜多い土地を撰定しなければならなかつた。土を得るに、磁器の料を採るために、松薪を求めるためにも、その他仕事する上には繪を描く人、文筆をとる人々のやうに軽らかに新しい土地に轉ずることは出來ない色々の困難があつた266

具体的な内容はわからないが、どうしても安堵村を出なければならない「特に大きく強い事柄」が、この時期ふたりに襲いかかってきたようである。幾十日が過ぎ、憲吉に励まされ、荷造りをするも、製陶という夫の仕事上の特殊な条件を考えると、落ち着くべき約束の地がなかなか見つからない。それに、娘たちの今後の教育のことも、考慮に入れる必要があった。一枝は、こう続ける。

 夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら、琉球にでも北部朝鮮にでも、九州の山深くある片田舎にでも容易に決定することが出來た。さうして私は夫を愛してゐる。その仕事を思ふことは夫についでゐるものである。しかしながら、すでに女學校へ入學しやうとする程たけのびた上の子供、まもなく姉の後につかうとする妹兒[。]それも四[、]五年の間家庭にあつて特殊な方法で敎育されて來た子供達であつたから、今後の教育方法について考へることが實に多かつた267

解決すべき問題が複雑に絡み合っているのであろう。なかなか結論へはたどり着けない。話し合う場を変えるために、山陰の奥の湯宿へ向かった。

夫は夜は荷をつくり晝は生活費を受るために土をのばし呉州をすり、つめたい素焼の壺を膝にのせたり、窯に火を投げた。さうして少しの金を得たので、私達はいよいよ最後の決心をつけるために何處に居住すべきかを決めるために、その金をもつて短い間の旅ではあつたが秋はじめ山陰の奥まで出かけて來た。古風な湯宿で過した十日程の日數、しかしそこでもまだあざやかな決心がつきかねたまゝ再び悩み深い歸路をとらねばならなかつた268

荷造りは進む。されど、住む場所が決まらない。一枝のいう「特に大きく強い事柄」とは、それほどまでに一刻を争う事柄だったのであろうか。さらにそのうえに、「金の問題と、子供を無駄に過させてゐる心配、生活に落ち着きのないところからくる焦燥」269が一枝の心に重くのしかかる。ついに一枝は、そのとき神を見た。「神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた」270

一枝はここで、「神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り」という言葉を使っているが、ひょっとするとこれは、当時も教会に通っていたと思われる中江百合子の影響だったのかもしれない。いずれにしても、こうして一枝は、憲吉とともに、考えに考えを重ね、疲労と涙にあえぎながら、最後には神の存在に気づくことによって「神の意志を尊く思ひ」、「自分の心」や「小さい自我」を捨て、眼前に広がる新しい世界にとうとうたどり着いたのである。ついに「生活の建て直し」の道が開いた。

 そこで、陶器を焼くためには不充分でありむしろ不適の土地ではあるが、それでも焼いて焼けないことはあるまい。要は制作するものゝ心の持方一つである。ただ材料その他の點の不足は物質で解決がつくことだから、仕事のために助力してくれる人があるなら必ず焼いてみせるといふ夫の話も、その人を得て、それでは子供のためにも都合よく行くし、また自分達にしても決して好んで住みたい土地ではないが、欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう271

そういう思いに至るなかから、生活再生のために落ち着くべき約束の地として、最終的に東京が選ばれた。

しかしながら、ここまでの一連の一枝の説明で、移住地が、琉球や北部朝鮮や九州の山奥の片田舎ではなく、憲吉の仕事にとっては決して適地ではないが、援助してくれる人もいて、さらには子どもたちの教育のこともあって、全体的な判断に立って東京が「約束の地」となった経緯は理解できるものの、それでも、一枝の「東京に住む」のなかには、結局のところ、一枝のいう「特に大きく強い事柄」の具体的内容は依然として見えてこない。やはり、「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」のであろうか。

かくして、「特に大きく強い事柄」、つまり本当の移住の理由ないし原因は封印され、今後決定的な新資料が発掘されない限り、完全なる疑問として永遠に残されることになった。しかし、そうであったとしても、この夫婦が安堵村生活をいかに総括し、同時に、東京での新生活をどのような思いに立ってスタートさせたのかを推考するためには、移住の理由ないし原因について、現時点で残存する少量の資料を使ってでも、可能な限り鮮明にする必要はあるであろう。それでは、移住の真の理由ないし原因は何であったのであろうか。先行する三つの評伝(高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』、および渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』)における東京移住に関しての言説を詳細かつ批判的に検討した結果272を踏まえ、そしてまた、これまでに本稿において述べてきた安堵村でのふたりの生活内容に照らし合わせて、ある程度推量することができるとすれば、「小さな学校」の教師を任されていた小林信と一枝とのあいだに、女性同士の愛が何らかのかたちでさらに進展し、それによりこの学校の運営が支障をきたすようになったため、円通院の学校を閉じ、家族全員で安堵村を離れることが決断されたということではないだろうか。

このことへの論証へ入るにあたって、前提となる仮説について、少し長くなるが、あらかじめ述べておきたい。まず、一九二三(大正一二)年の八月に、海水浴を楽しむために尾道の向島に滞在していた一枝を訪ねてきた、ある訪問客のことを想起する必要がある。すでに引用により示しているが、このとき富本家に同伴して一緒に向島に来ていた、奈良女子高等師範学校の四年生(最終学年)の丸岡秀子は、この訪問客について、自伝的小説『ひとすじの道 第三部』のなかでこう述べている。「恵子」が丸岡本人である。

その間にも、訪問客があった。ことに一枝をあこがれ、一枝もまたとくべつの好意を寄せていた、奈良の学校の先輩が島を訪れた。恵子の上級生でもあり、特別な美貌でもあり、当時この家への出入りも繁くなっていた。恵子の友人の一人でもあった。一枝は喜び、彼女と水着に着替えて、毎日、彼女と二人で海に入った。こちらの島から向こうに見える島まで泳ぎの競争をするのだと、はしゃいでいた。憲吉は、寂しそうに、二人の子どもたちと、いっしょに海に入った。恵子は、岸辺でそれを見送りながら、幸福を満喫して大きく泳いでいる一枝と、いつもそれを許してきた憲吉の孤独を、同時に、ひそかに思っていた。

そして、丸岡の自伝は、ある驚愕すべき出来事へと、場面が移る。

 ある日のこと、恵子は独りポンポン蒸気に乗り、尾道まで食糧を仕入れに行って帰ったが、まだみんなが海だったので、昨日の日記をつけようと机の上のノートを開いた。ところが、そこに一枝の伸びやかな文字が長々と書きこまれてあった。それが目に入ったとき、恵子は飛び上がって驚いた。
「許してください。黙って、あなたの日記を見たことを許してください。それは、あなたがどんなに苦しい思いをしているのか、いつも心配していたからです。ことにMさんが島を訪れたときのあなたの表情を見ていたからです。たしかに、わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます。だが、そのかげで、あなたの心を傷つけてしまったのではなかったかと、恐れていたのです。
 ところが、あなたの日記には、どこにもその影さえ見当たらなかったのです。感謝しています」と、恵子の日記の終わったページに、一枝は書いていた。

次に想起すべきは、翌年(一九二四年)の四月に「小さな学校」に赴任してきた小林信という女教師のことである。着任するとすぐに、一枝と小林と憲吉の三人は「私たちの小さな學校に就て」というテーマでそれぞれに筆を起こし、『婦人之友』の八月号に寄稿した。小林が書いた「2. 稚い人達のお友達となつて」のなかに、これもすでに引用によって示しているが、次のような箇所がある。陽と陶のふたりの子ども、およびその母親一枝との出会いについてである。

私が陽ちやん陶ちやんと云ふ二人の稚い人のお友達となつて、此の學校に來ましたのは、つい此の四月で、未だほんの四ケ月足らずにしかなりません。けれど、私は此處三年程前、卽ち姉さんである陽ちやんが、始めて恁ういふ特殊な敎育を受け始めて以來、二人の母上を通して、その母上が二人の愛兒の上に抱いて居られる理想を覗ひ、二人の稚い人達の上を祕かに考へ、此の稚い人達の學校を見せて貰ひ、又一二時間の出鱈目な先生になつた事抔もありして、陽ちやんと陶ちやんとは、お互によく遊ぶお友達同志でありました。

そして自分のことについては、このように書く。

[いまの悲しむべき学校社会から]せめて自分丈けでも……逃れたいと、常に願ひ乍らも、止むなく或る地方の女學校に赴任して一年。私の無経験な、併しそれ丈けに純粋であり、又眞實だと信ずる私の考へが、事毎に、殆んどその種子下ろしさへも許されずに、 無惨無惨 むざむざ 蹂躙 ふみにじ られて行くのを、私は戦ひおほして突き進む力を失つて了ひました。

加えて、奈良女子高等師範学校を前身校にもつ現在の奈良女子大学の学術情報センターから寄せられた情報によると、小林信は、一九二三(大正一二)年三月に奈良女高師(文科)を卒業後、山口県にある徳基高等女学校(現在の山口県立厚狭高等学校)に赴任、また、同大学同窓会の佐保会会員名簿の記載内容に従えば、一九二四(大正一三)年一二月現在「生駒郡安堵村富本方」に在住、そして一九二五(大正一四)年一一月現在「桑野信子」として在「東京」、ただし「信」の読み方については不明、ということであった。

「M」を「まこと」「まさ」「みち」のどれかのイニシャルであると仮定したうえで、以上に挙げた、丸岡秀子が自伝のなかで描いている訪問者「Mさん」についての記述、小林信が「2. 稚い人達のお友達となつて」のなかで述べている自分自身の経歴についての内容、そして、奈良女子大学から提供された小林信に関する情報の三点を総合的に勘案すれば、ほぼ間違いなく小林信が実は「Mさん」だったのではないかとの推断を得ることができる。これが、論証の前提となるものである。

それではこれから、一九二三(大正一二)年の八月に尾道の対岸に位置する向島の滞在先に一枝を訪ねてきた「Mさん」と、翌年の四月に円通院の学校の教師として新たに着任した小林信とが同一人物であるとの仮説を前提に置きながら、残されているわずかな資料を駆使し、一枝のこのときの性的指向についてや東京移転の事情にかかわって少し考察を加えてみたいと思う。

憲吉は晩年、先に紹介した「私の履歴書」とは別の「富本憲吉自伝」の箇所で、東京移転についてこう述べている。「そうこうして大和で陶器を研究して十二年ほど経ちましたが、子供の教育のために、東京に出てくることになり、東京府北多摩郡千歳村祖師谷(今の世田谷区祖師谷)に窯を移しました」273。ここで使われている「子供の教育のために」という文言には、「子供の教育の[東京での展開の]ために」という一見前向きな意味が表われているともいえる半面、その裏側には、「子供の教育の[安堵村での失敗の]ために」という重苦しい、はっきりとは語り得ない意味が、隠されていたと考えることも可能であろう。

また、すでに上で引用した一枝の「東京に住む」のなかに、「そうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛の感情の幾筋かの路を味わい過ぎた」という一節を見出すことができるが、これは、一九一九(大正八)年の「海の砂」(『解放』一二号)で、そのときの自分を語る一枝の、次のような心象風景と、幾分重なるのではなかろうか。

久しい間、幾年か私は、自分を不良心なものと思つたし、不徳義なものだとして見てゐたし、不道徳な人間だと思つて見過して來た274

後者のこの引用文については、性的指向が同性に向かう一枝の内面的葛藤の表出なのではないかという推考をすでに加えているが、同じく「東京に住む」のなかで記述されている前者の一節についても、同様のことがいえるのではあるまいか。それであれば、「海の砂」から「東京に住む」まで、一枝は安堵村生活のほぼ全期間をとおして、ずっと「久しい間」この問題と対峙していたことになる。

さらにこの問題についていえば、かつて一枝は、自らが主宰する雑誌『番紅花』のなかの「Cの競争者」において、自分の性的指向にかかわって、こう述べたことがあった。

私にはちいさな時分から美しい女の人をみることが非常に心持のよいことで、また、大變に好きだつたのです。それで私の今迄の愛の對 ママ になつてゐた人のすべては悉く美しい女ばかりでした。私の愛する人、私の戀しいと思ふ人、そしてまた、私を愛してくれる人、戀してくれる人の皆もやつぱり女の人ばかりでした。
 ですから美しい綺麗な女の人と言へば私に有つてゐそうのないほど非常な注意と異常な見守り方をもつて來てゐました275

美しい女の人へ向ける一枝の強烈なまなざしは、小さいときからの固有のものであった。これまでの一枝の一連の言説を見る限り、一枝自身、おそらくは生まれながらにして持ち合わせてきた、こうした同性愛的な、あるいは両性愛的な自己の性的指向に対して、苦しみにあえぎ、罪悪感に悩み、自己嫌悪にも陥っている。一枝は「東京に住む」の最後の箇所でも、同じように、こう告白する。

 かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た276

一枝は「心の轉移」という言葉を用いている。一枝が女性同性愛者(レズビアン)であったとすれば、彼女にとってこの言葉は、同性愛から異性愛へと性的指向を「轉移」させる試みを示唆する心的な用語法だったのかもしれない。それとは違って、一枝が、肉体的には明らかに女性でありながらも、心の性を男性として自己認識するトランスジェンダーであったとするならば、一枝の女性に向かう性的欲求や恋愛感情は当然異性愛ということになり、したがってこの言葉は、心の性を体の性へと「轉移」させことを意味する彼女の内に秘められたキーワードだったのかもしれない。しかし、どちらにしてもそれは、「並大抵の力では出來るものではなく」、過度の心身の葛藤と衰弱を伴うものであった。

それでは憲吉は、一枝のジェンダー/セクシュアリティーに対してどのような反応を示したであろうか。「夫に はげ まされて」一枝は荷造りをしていることから推量すれば、憲吉は、一枝のそれに一定の理解を示していたようにも受け取れる。もし全面的に許容ができるのであれば、おそらくは「小さな学校」の存続は可能だったわけであろうが、閉鎖せざるを得なかったということは、全面的な許容は難しく、小林信と自分との双方を愛の対象とする一枝の性的指向に、どうしても憲吉は耐えることができなかったと考えるのが妥当であろう。憲吉は、嫉妬といえば一面的にはそのとおりなのかもしれないが、子どもへの影響に配慮しつつ、そしてまた、一枝の性的指向を「正常」にもどすために、つまりは、「心の轉移」を可能ならしめるために、学校を閉鎖することによって、何とか小林と一枝のあいだを引き離そうとしたのではないだろうか。しかしながら、そのことを語らせるにふさわしい直接的な資料が現在のところ見当たらないので、もちろん、明確に断定することはできない。

他方、一枝の気持ちはどうだったであろうか。状況を踏まえながら想像するに、このとき一枝は、たとえ同性同士であろうとも、人が人を愛することは決して醜いことではないという思いから、小林と一緒に「小さな学校」を続行したいと主張したかもしれないし、あるいは、自己の不実に目覚めた一枝は、自分の行為や性格を不良心で、不徳義で、不道徳なものとして強く責め、小林と別れたうえで安堵村を離れたいと提案したかもしれない。いずれにしても、小林と憲吉のどちらを選択するのか、一枝は厳しい状況に立たされた可能性がある。まさしく、一枝のジェンダー/セクシュアリティーにかかわる心的な内部分裂が激化した瞬間だったと考えられる。

「東京に住む」から読み取れるように、一枝は、身も心も深く痛めつけ、悩み、自分を捨ててかかった。一方憲吉は、そうした一枝を励まし、支えた。ともに闘い、助け合い、苦しみ抜いた、ふたりにとって、まさに心身ともに切り裂かれるような悲痛な一時期だったにちがいない。同じく「東京に住む」からの引用の一節に認められる「私は夫を愛してゐる」――おそらくこの言葉が、最終的に憲吉を選ぶ判断基準となったのであろう。その結果、終局的には、一枝の言葉にあるように、「さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた[。]その結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた」。つまり、ここへ至って推断できることは、一枝のいう「特に大きく強い事柄」の実際上の内容は、「レズビアン」ないしは「バイセクシュアル」、あるいは「トランスジェンダー」といった一枝にみられるジェンダー/セクシュアリティーに関連する事柄であり、「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」の隠された意味は、自分のセクシュアリティーを他者に伝える「カミング・アウト」という今日的な用語を使って置き換えるならば、「家庭内の秘密にかかわることで、いまはまだカミング・アウトすることができない」ということになるのではあるまいか。もちろん一枝自身、自分のセクシュアリティーについて、この時点で十分な確信を持ち合わせていなかった可能性も、完全に排除することはできないであろう。つまり「クウェスチョニング」の状態だったかもしれない。

しかしながら、そのこととは別に、さらにここで、再度改めて引用しておかなければならないのは、「東京に住む」における一枝の以下の言説である。

 神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。
 こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた。

この言説の真の意味は何か。一枝は、神の前で「カミング・アウト」し、キリスト教の聖典である聖書に教えを乞うたのではないだろうか。新約聖書の「ローマ人への手紙」第一章二六および二七節に、同性愛にかかわって次のようなことが書かれているからである。

 このことのゆえに、神は彼らを恥ずべき情欲へと引き渡された。実際、彼らのうちの女性たちは、自然な ママ 性的 ママ 交わりを自然に反するものに変え、同様に男性たちも、女性との自然な[性的]交わりを捨てて、互いに対する渇望を燃やしたのである。[そして]男性たちは彼ら同士で見苦しいことを行ない、彼らの迷いのしかるべき報いを、己のうちに受けたのである277

もしそうであれば、この段階で一枝は、自分の性的指向を、「恥ずべき情欲」であり「自然に反するもの」であり「見苦しいこと」であり、「迷いのしかるべき報い」を受けるべき大きな罪であるとして理解したものと思われる。加えて、「世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた」という文言のなかの「私達の前に」という言葉に着目するならば、こうしたキリスト教的な理解は、一枝ひとりのものではなく、同じく憲吉も共有していたことを意味するであろう。聖書の教えに従うことによって「自分の心」と「小さい自我」を捨て去り、一方で小林信との関係を完全に断つことによって罪を贖い、こうして、ふたりの「世界が……幕をあげた」のであった。

それではもうひとりの当事者である小林信は、果たしてそのとき、どうした状況に置かれていたのであろうか。小林は、奈良女子高等師範学校(文科)の学生のときから安堵村の富本家にしばしば足を運んでいた。陽と陶とも「お互によく遊ぶお友達同志」となっていた。一九二三(大正一二)年三月に奈良女高師を卒業すると同時に、四月から山口県にある徳基高等女学校へ赴任した。この年の八月の夏休み、小林は、富本一家と奈良女高師の一年後輩の丸岡秀子が滞在する尾道対岸の向島に一枝を訪ねたにちがいない。「一枝は喜び、彼女と水着に着替えて、毎日、彼女と二人で海に入った。こちらの島から向こうに見える島まで泳ぎの競争をするのだと、はしゃいでいた。憲吉は、寂しそうに、二人の子どもたちと、いっしょに海に入った」。そして一枝は丸岡の日記にこう書き込んだ。「たしかに、わたしはMさんに心を傾けていました。Mさんを愛してもいます。だが、そのかげで、あなたの心を傷つけてしまったのではなかったかと、恐れていたのです」。

小林は、一年で徳基高等女学校を退職して、一九二四(大正一三)年四月、円通院の「小さな学校」へ赴任した。おそらく一枝の誘いによるものであったのであろう。一枝は、『婦人之友』(八月号)の「1. 母親の欲ふ敎育」において、小林の着任について、これをもって「第二期」に入り、「基礎が固められつゝある」ことに喜びを表明した。憲吉も、「3. 生徒ふたりの敎室」のなかで、今後のこの学校の設備等の充実について抱負を語った。小林自身は、「2. 稚い人達のお友達となつて」と題して執筆し、「此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です」と言明した。一九二四(大正一三)年一二月の時点での小林の住所は「生駒郡安堵村富本方」。しかし彼女は、一九二五(大正一四)年一一月までには安堵村を出て、「桑野信子」として東京に住むことになる。「桑野」への改姓は、奈良女子大学学術情報センターによると、おそらくは婚姻のためであったろうという説明だった。いずれにせよ、一番長く見積もっても、この「小さな学校」で教師をした期間は一年と八箇月、短ければ、わずか約九箇月間の在任ということになる。在任期間中、小林の身に何が起こったのか、それを例証するにふさわしい直接的な資料はいまのところ見出せないので、状況に照らし合わせて想像するしかほかない。

「2. 稚い人達のお友達となつて」と題された小林の文が、教師としての適切な自覚と学識に基づいて書かれていることは、すでに指摘したとおりである。したがって、こうした信頼するに値する小林が、結婚の話が持ち上がったからといって、自分の都合だけで、突然にも教師としての職責を放棄し、幼いふたりの子どもたちを路頭に迷わす、そうした身勝手で安易な行動をとるとはとても考えにくい。言葉を換えれば、小林のようなしかるべき見識を備えた教師が自己都合による退職を希望する場合には、少なくとも一定の教育成果が達成されるまでは職務の遂行に留まり、自分の後任ないしは子どもたちの転校先が決まるのを見届けたうえで、「立つ鳥跡を濁さず」のごとくに、教育現場を去るのが一般的なのではないだろうか。しかし事態は、それとは全く異なっていた。不思議なことに、小林が安堵村を去ったあと、「小さな学校」が後任教師に引き継がれた形跡がないのである。保護者たる親の責任としては、大きな理想を掲げてこの「小さな学校」を設置した以上、少なくとも長女の陽が女学校に入学する学齢に達する、一九二七(昭和二)年三月までは、自らの教育信念をしっかりと維持すべきだったのではないかと考えられるものの、しかしなぜか、「小さな学校」の活動は、このときそのままの状態で停止しているのである。これは何を意味するのであろうか。

「基礎が固められつゝある」なか、そして設備等の充実も一方で展望されているなか、なぜかくも短期間のうちに、確たる教育成果もなく、しかも後任や転校先が未定のまま、この学校は閉じられなければならなかったのか。極めて重大な何かが、このときこの学校に起こったことが想定される。それは何か。一枝と小林のあいだに愛を巡る何か深刻な問題が生じた――そのように考えるのが、やはり自然で順当なのではないだろうか。小林に向けられた一枝の一方的な愛だったのか、双方が許し求め合う愛だったのか、正確にはわからない。前者であれば、一枝の行動に驚いた小林は、逃げるようにして安堵村を去った可能性があるし、後者であれば、引き裂かれるような、意に反した強圧的な解雇だった可能性もある。そうでなければ、そののちの、深尾須磨子と荻野綾子、あるいは湯浅芳子と中條百合子にみられる事例に近いものがあったのではないかとも考えられる。つまり、小林が結婚をすることによって、ふたりの関係が強制的に終了した可能性である。

いかなる結末であったとしても、前任の女学校に自分の居場所を見出すことができず、一年で職を辞し、希望に満ちて安堵村の富本家に赴き、「此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です」と書いていた純真で若い小林は、このとき、教師としても女性としても、何らかの挫折と苦しみを経験したにちがいなかった。その後の彼女の消息を知る立場にあったのは、奈良女高師の後輩で友人の丸岡秀子くらいだったのではないかと思われる。のちに丸岡は、皮肉なり嫉妬なりを込めて、「ずいぶん浮気をなさったから、もう思い残すことはないでしょう」「あなたは美人がお好きでした。それはみとめていらっしゃるでしょう」278と、一枝を問い詰めている。

小林がいなくなった結果として、「小さな学校」は教師を失った。それ以降、富本一家が東京に移住するまでのあいだ、少なくとも一年間、あるいはそれ以上の期間、学習の機会が陽と陶に与えられることはなかったものと思われる。というのも、いまのところ、それを明示する痕跡や資料を見出すことができないからである。

一枝は、「東京に住む」のなかで、こう述べている。「四[、]五年の間家庭にあつて特種な方法で敎育されて來た子供達であつたから、今後の敎育方法について考へることが實に多かつた[。]これについても書くことが澤山であるが、問題がわき道にそれる恐れがあるから見合せるが、」と前置きしたうえで、以下のように続ける。

ともかく家庭で敎育することは、子供にとつて十全な方法ではなかつた。それから、経濟的に續けてゆくことが出來なくなつた。それから私の人間生活にもつ考へ方が可成り大きい變化をとつたゝめに樣々な方面で従來の考へ方を破綻してゆきはじめた279

「ともかく家庭で敎育することは、子供にとつて十全な方法ではなかつた」――ここで着目すべきは、「十全な方法ではなかつた」理由が全く述べられていないことである。すでに詳述しているように、『婦人之友』(一九二四年八月号)の「1. 母親の欲ふ敎育」のなかで一枝は、「小さな学校」の設立に至る経緯やその理念を情熱的に、しかも長々と書き記していた。これを読んだ読者のなかには、こうした個人的な教育実践に強く共感した者も少なくなくいたであろう。しかし一枝は、この『婦人之友』(一九二七年一月号)の「東京に住む」では、わずか一言、「ともかく家庭で敎育することは、子供にとつて十全な方法ではなかつた」ですませている。これでは、多くの読者は「なぜ」を発せざるを得なかったのではないだろうか。教育が失敗した理由や学校を閉鎖した事情について一枝が何も書かなかったのはなぜか。もしそれを書こうとすれば、自分と小林との関係、つまりは自分のセクシュアリティーについてどうしても言及せざるを得ないことになり、一枝は、それを避けたのではないだろうか。つまり、「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」という思いが、さらには、「問題がわき道にそれる恐れがあるから」という思いが、このようなかたちをとらせてしまったのかもしれない。一枝にしてみれば、もしここで「カミング・アウト」すれば、かつてらいてうから「先天的の性的轉倒者」という烙印が押された、あのときと同じ事態が再び訪れる可能性が十分に予想され、そのことを強く恐れたのであろう。一枝は、自分のセクシュアリティーそのものについてだけではなく、それを周りにどう打ち明けるか、あるいは打ち明けないままですますのかにかかわっても、激しくこのとき葛藤したものと思われる。しかし、「カミング・アウト」という方法をとることはなかった。子どもに与える影響の大きさを考えたのかもしれない。いずれにしても、ここに述べられている「ともかく家庭で敎育することは、子供にとつて十全な方法ではなかつた」という語句は、明らかに、「小さな学校」の完全なる失敗を自ら宣言するものであった。しかしその失敗は、教育理念や実践形態にかかわって、取り立てて何か大きな問題があったからではなく、一枝自身の抱える問題に主として起因していたこともまた、前後の文脈からして明らかであろう。

次に、「それから、経濟的に續けてゆくことが出來なくなつた」という語句につて。――確かにひとりの教師を個人的に雇用することには、大きな経済的重圧がのしかかっていたものと想像される。しかし、単にこの理由だけにより、小林を途中解任したとは考えにくい。そのようなことをすれば、子どもの教育がたちどころに瓦解するのは明白だからである。それではこれが、小林が村を離れたあと、その後任を採用しなかった理由であろうか。もしそうであれば、明らかに親の義務を放棄したことになる。なぜすみやかに、経済的負担の軽い公教育に子どもたちを復帰させなかったのか。いや、復帰させようとしたのかもしれない。しかし、安堵村を出るにあたって、どの地でどのような教育を受けさせるのが子どもたちにとって一番いいのかを模索するうちに、結果として多くの時間が流れてしまったのかもしれない。それでも、時間の長さは正確にはわからないものの、一定期間放置したのは確かであり、それに対する親の責任は免れないのではないだろうか。

そして、最後の語句について。「それから私の人間生活にもつ考へ方が可成り大きい變化をとつたゝめに樣々な方面で従來の考へ方を破綻してゆきはじめた」――この言葉は一体どのような意味を含み持っているのであろうか。意味深長な語句ではあるが、神の教えを学んだことにより、自分のセクシュアリティーについての認識にかかわって、あるいは人生観そのものにかかわって、何か大きな変化がこの時期に訪れ、これまでの自己の価値観や考え方に亀裂が生じはじめたことを伝えようとしているようにも読める。

すでに述べているように、一九二六(大正一五)年の秋のはじめ、山陰の湯宿で語り合うも、結論が得られず、一枝と憲吉は、次第に追い詰められていく。「しかし、今度こそ、私達にはむなしく座食して考へてばかりゐる愚をゆるさないものが待つてゐた。金の問題と、子供を無駄に過ごさせてゐる心配、生活に落ち着きのないところからくる焦燥」280。この言葉に続けて、一枝はこう述べる。「私はやつと心が覺めた。ゆだねるところのあつたことを、その恩寵の深く極まりないものであることを、安心の世界が自分達の外に待つているのを」281。かくして一枝は、このとき神の言葉を聞く。そして、東京移住という扉がやっと開く。

これもまた、すでに示している引用文ではあるが、「さうして[一九二六年の]十月も半ば過ぎた頃……安堵村を去るやうになつた。思へば一九二六年の早春から、如何に私達が悩み多い日を送つてきたことか」。この間、一枝は自分のセクシュアリティーに悩み、苦しんだ。妊娠もした。憲吉もそばにいて一枝を支えた。おそらくふたりは、ここで何とかして一枝の、多くの人とは異なるセクシュアリティーを断ち切りたかったのであろう。すでにこれも紹介しているように、「夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら、琉球にでも北部朝鮮にでも、九州の山深くある片田舎にでも容易に決定することが出來た」と一枝はいっている。しかし、「大和の一隅でロクロを引き、画筆をにぎる私の仕事も、だんだんと世間に認められ、生活には別段、不便を感じることもなかった」憲吉にとっては、安堵村を離れなければならない事情は何もない。したがって、冒頭の、「夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら」という言葉は、むしろ「自分のセクシュアリティーのことだけを念頭に置いてゆくなら」といった文言に置き換える方がふさわしいのではないか。他者を借りて自分を語る、こうした表現の手法にも、自分のセクシュアリティーに直接触れることを避けようとする一枝の思惑が暗に反映されているのかもしれない。一枝は、どこか辺鄙な、自分の性的指向が誘発されることのない、人里離れた田舎に移り住みたいと願った。しかし、それでは子どもの今後の教育の見通しが立たない。それであれば、東京しかないのか。しかし、もしそうなった場合には、憲吉の窯の移動は本当に大丈夫なのか。小林が去ったあと、この夫婦に残された課題は実に大きかった。一枝のセクシュアリティーについてどう考え、夫婦としてそれにどう向き合うのか――これが第一義の問題の出発点だった。しかし、それに付随して子どもの教育のこと、憲吉の窯のことが、枝葉の問題といえども、確実に浮上してきた。答えが出ないまま、いたずらに苦悶の時間だけが過ぎ去ってしまった。しかしとうとう、「むなしく座食して考へてばかりゐる愚をゆるさない」ときが来た。来年(一九二七年)春に開校する成城学園女学校に陽を入学させることを念頭に、家や工場の新築に要する時間などを考え合わせると、結論を出さなければならないタイムリミットが迫って来たのであろう。移住地として、琉球でも北部朝鮮でも九州の山深くある片田舎でもなく、実に東京が選ばれた。このことは、子どもの教育が最優先されたことを意味する。結果として、憲吉の窯のことや一枝のセクシュアリティーのことについては、次の問題として、その対応が求められた。

風土や気候、陶土や松薪の入手などにかかわって、東京の地は製陶に向いているのか。そうした不安は残るものの、すでに引用で示したように、「東京へ出て仕事をしたい気持ちが日ごとに強くなった。東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願であり、また陶芸一本で生涯を過ごす覚悟も、ようやく固まってきたのである」――この言葉もまた、間違いなく、そのときの憲吉本人の真なる気持ちであったであろう。一方、一枝にとっては、生得的属性である性的指向が、山奥の寒村とは異なり、人の多く集まる東京で再燃する危険性はないのか、あるいはそれを、本当に理性や信仰心で断ち切ることができるのであろうか――そうした心配もあったにちがいない。しかし、逆の見方をすれば、都会には、自分と同じように、自らのセクシュアリティーに悩む人が多くいるかもしれない。「欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう」という、すでに引用で示しているこの言葉もまた、疑いもなく、そのときの一枝本人の真なる気持ちだったにちがいなかった。

いずれにしても、こうして進むべき道が何とか見出されたことはよきことであった。しかしながら、子どもたちの置かれている状況に目を移すならば、つらいものが残る。確かに一枝は、母親らしく、「子供を無駄に過ごさせてゐる心配」もしている。憲吉もこの間同じ気持であったであろう。その意味で、一方的にふたりを責めることはできないかもしれない。しかしそれにしても、突如として信頼する教師の姿が消え、心身の拠り所ともいえる自分たちの学校が大人の都合によって奪い取られてしまったふたりの子どもたちは、それよりのち東京の学校へ転入学するまでの長いあいだを、どのような気持ちで日々過ごしたのであろうか。両親だけでなく、子どもたちもまた、同じように苦悶の時間を過ごしたにちがいない。もっとも、このときの思いを直接綴った言説は残されていない。のちの安全な地点から振り返って結果として見えてくるものは、子どもの発育段階に必ずしも対応しているわけではない母親による早期教育、公教育や学校教育の対極にあるひとりの教師による家庭内個人教育、そして、教師不在が引き起こす教育崩壊と学校消滅――おおかたこれが、ふたりの子どもが体験した幼児期および初等期の実際の教育であった。

憲吉と一枝、そしてふたりの娘の四人家族が東京へ移住することになった背景にかかわって、数少ない資料ではあるが、残されている資料に語らせるとすれば、ほぼ以上のような推論に到達する。そしてさらに、こうした論証の結果を踏まえて、論点を一時代前にもどすならば、結婚後のわずか数箇月ののちに東京から大和へ帰還した背景にも、今回の突然の大和から東京への移住にかかわる事情と同種の事情が潜在していたのではないかという推論もまた、疑いもなく、成り立つのではなかろうか。したがって、ふたりにとって、まさしく二度目の賭けであり、もはやこれ以上はない背水の陣とでもいえる、生活の再生へ向けての悲壮感漂う東京移住だったものと思われる。

『青鞜』の読者で、かつてのらいてうと紅吉(一枝)の恋愛関係を知っていた人たち、『淑女畫報』に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」の記事を読み、一枝のその時期の性的指向に気づいていた人たち、さらには、丸岡秀子や石垣綾子のような、一枝の魅力に惹きつけられて最近安堵村を訪問していた人たち、あるいは、中江百合子のように、ある程度キリスト教の教義に精通していた人たち――こうした人たちには、一枝の「東京に住む」を読んで、この夫婦の東京移住の原因がどこにあるのかが、直感的に想像できたかもしれなかった。しかし、当時のふたりを取り巻く、周りの多くの人たちのあいだにあっては、何の前触れもない、こうした唐突な決定と行動には、驚きを禁じ得ないものがあったのではないだろうか。そしてその真の理由についても、闇に閉ざされていたにちがいなかったし、憶測も流れたであろう。それにしても、あまりにもあっけない安堵村での生活の終焉であった。

突然の東京移転の代償は大きかった。富本家の戸主としての今後の役割については、どのような取り決めがなされたのであろうか。前年の一九二五(大正一四)年の一一月二九日に憲吉の祖母のとがすでに亡くなっている。本宅とそこに住む母ふさについては、今後誰がどう世話をすることになったのであろうか。家と窯は、どう処分されたのであろうか。仕事場の助手と家の女中への対応は、どのようなものであったのであろうか。一枝を慕って集まってきていた奈良女高師の学生たちには、どうした説明がなされたのであろうか。そして、娘の陽や陶には、「小さな学校」を途中で放棄し、東京の新しい学校へ転校することになった経緯について、うまく納得させることができたのであろうか。他方、東京でのこれからの生活に目を向けると、新築する家や工場の費用の問題、新しい窯ができるまでの収入の問題、陽と陶の教育の問題、それらは、どう展望されていたのであろうか。移転に伴い、解決を迫られる問題が、想像するに、山のように憲吉と一枝の頭のなかにこのとき堆積していたのではあるまいか。

その昔東京から安堵村に引っ越し、窯ができ、家ができて間もないころ、憲吉は、ある秋の日の様子をこう描写していた。

 農夫等はこごみて金色なる稲を刈る。女等は村端れに車を置く小商人と高らかに談ず。授乳のまゝに立ちて見るあり。鳥は青空を静かに舞ひ、金剛山に白雲飛ぶ……麗しくも豊かなる景色なるかな282

この家族の旅立ちの日も、安堵の田では黄金色に稲穂が垂れ、青い空を見上げれば静かに鳥が舞い、金剛山には白雲が棚引いていたであろうか。

ちょうどこのとき、一枝が島崎藤村に預けていた小説「鮒」が掲載された『週刊朝日』が発売された。掲載までにこれほどの時間を要した理由も、また掲載誌が『週刊朝日』になった理由も、ほとんど不明のままである。冒頭の藤村の推薦文には、「曾て『青鞜』同人として筆をとつたこともある富本さんに、『鮒』のやうな作品のあるのも不思議はない。『鮒』には、ある家庭への侵入者のことが書いてある。この人物は女主人公以外の誰の眼にもそんな侵入者とは見江ない。……かうした女性の感情への侵入者その防ぎがたさが、かなり深刻に描きあらはされてある。鋭い感知力なしにはこれは叶はぬことだ。この作者の意図は『鮒』を象徴にまで持つて行つたかとも見江る」283という文字が並んでいた。

引っ越しという慌ただしさのなか、おそらく一枝の喜びも、つかのまのことであったであろう。一九二六(大正一五)年の一〇月の半ばを過ぎたある日、一家は、四人それぞれが深刻で複雑な思いを胸に抱えながら、「舊い家に母を残し、私達の小さい住居の庭木の一本一本にも挨拶の言葉をかけ、美しい遠山をめぐらした平原のなかの暖い一小村、土塀と柿の木の多い安堵村」284をあとにし、東京へと上っていった。おおよそ一一年半の安堵村生活であった。このとき、満年齢で憲吉四〇歳、一枝三三歳、陽一一歳、そして陶は、まもなく九歳になろうとしていた。東京から安堵村に来たときには、一枝のお腹には陽がいた。今度の上京には、まもなく生まれてくる壮吉が一緒である。大正から昭和へと改元される二箇月ほど前の秋の日の出来事であった。

(二〇一七年)

第二部 第五章 図版

(1)尾竹一枝「私の命」『番紅花』第1巻第1号、1914年、17-20頁。

(2)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、75頁。

(3)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、177頁。

(4)同「青鞜前後の私」、同頁。

(5)同「青鞜前後の私」、177-178頁。

(6)同「青鞜前後の私」、178頁。

(7)同「青鞜前後の私」、同頁。

(8)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、24頁。

(9)同『窯邊雜記』、同頁。

(10)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、88頁。

(11)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(12)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(13)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、122頁。

(14)同『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、136-137頁。

(15)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、90頁。

(16)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(17)南八枝子『洋画家南薫造 交友関係の研究』杉並けやき出版、2011年、14頁。

(18)前掲『窯邊雜記』、24頁。

(19)同『窯邊雜記』、24-25頁。

(20)同『窯邊雜記』、25頁。

(21)同『窯邊雜記』、同頁。

(22)『東京朝日新聞』、1916年3月6日、6頁。

(23)前掲『窯邊雜記』、29頁。

(24)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。

(25)『東京朝日新聞』、1916年3月6日、6頁。

(26)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、93頁。

(27)浜田庄司『窯にまかせて』日本図書センター、1997年、36頁。

(28)同『窯にまかせて』、53-54頁。

(29)濱田庄司『無藎蔵』講談社文芸文庫、2000年、60頁。

(30)前掲『窯にまかせて』、61頁。

(31)前掲『無藎蔵』、同頁。

(32)同『無藎蔵』、267-268頁。

(33)同『無藎蔵』、268頁。

(34)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 112.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、121頁を参照]

(35)Ibid.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、121-122頁を参照]

(36)Ibid., p. 112-113.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、122頁を参照]

(37)Ibid., p. 113.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、同頁を参照]

(38)前掲『窯邊雜記』、89頁。

(39)同『窯邊雜記』、同頁。

(40)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、63頁。

(41)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、71頁。

(42)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、71-72頁。

(43)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、74頁。

(44)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。

(45)高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、1985年)に、「陽が誕生したその日から、一枝は『陽帳』と名付けられた育児日記を書き始めた。大正四年から六年にわたって四冊のノートブックに記された『陽帳』が残されている」(117頁)と記載されている。どこにどのようなかたちで、この「『陽帳』が残されている」のか。この本は形式的には共著のかたちをとっているが、陽の死亡後に出版されていることを考えれば、保存していた陽本人が亡くなる前に、共著者である折井の執筆に際して貸与した可能性が一番高いように推量されるものの、正確には不明。そしてこの「陽帳」は未見。そこで、陽の乳幼児期の成長の様子に関しては、「陽帳」から引用するかたちでこの本のなかで記述されている内容をもってして、参考とさせていただいた。折井は、「翌大正六年二月一〇日から、一家は約一ヵ月にわたって、紀伊の新宮にある西村家の客になって滞在した」(120-121頁)と述べたあと、西村家に滞在したおりの陽について、「西村氏宅はすべて洋風建築にて、ベッドを使用せり。運動、歩行の場所多し。ここに来てより、よく歩めるようになりたり」(121頁)と、一枝はその日記に書いているという。しかしながら、「この貴重な育児日記『陽帳』は、新宮から安堵への帰村直後の三月二三日で終わっている」(122頁)とも、折井はこの本のなかで記述している。

(46)石井柏亭『柏亭自伝』中央公論美術社、1971年、361-363頁。

(47)『我に益あり・西村伊作自伝』紀元社、1960年、273-274頁。

(48)富本一枝「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』第1巻第6号、1917年、28-29頁。

(49)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。

(50)淺川伯敎「富本憲吉氏の窯藝」『アトリエ』第2巻第8号、1925年、142頁。

(51)『東京朝日新聞』、1917年6月12日、7頁。

(52)雪堂「夏期の諸展覧會」『美術』第1巻第10号、1917年、28頁。

(53)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、96頁。

(54)「座談会 富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号(8月号)、1961年、9-10頁。

(55)『美術』第1巻第10号、1917年、30頁。

(56)『東京朝日新聞』、1917年9月30日、7頁。

(57)『東京朝日新聞』、1918年6月19日、7頁。

(58)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、[6]頁。

(59)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、16頁。

(60)前掲『窯邊雜記』、「序」1頁。

(61)同『窯邊雜記』、17頁。

(62)前掲『製陶餘録』、88-89頁。

(63)前掲『窯邊雜記』、7-8頁。

(64)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、93頁。

(65)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、209頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(66)同『私の履歴書』、同頁。

(67)前掲『窯邊雜記』、13頁。

(68)前掲「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』、28頁。

(69)同「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』、同頁。

(70)前掲『窯邊雜記』、30頁。

(71)同『窯邊雜記』、26頁。

(72)同『窯邊雜記』、30頁。

(73)同『窯邊雜記』、17頁。

(74)同『窯邊雜記』、18頁。

(75)同『窯邊雜記』、26頁。

(76)同『窯邊雜記』、27頁。

(77)同『窯邊雜記』、18頁。

(78)前掲『製陶餘録』、104頁。

(79)同『製陶餘録』、33頁。

(80)前掲『窯邊雜記』、108頁。

(81)同『窯邊雜記』、125頁。

(82)前掲『製陶餘録』、106頁。

(83)前掲『窯邊雜記』、109頁。

(84)同『窯邊雜記』、47頁。

(85)高井陽「新装復刻にあたって」、富本憲吉『窯邊雜記』文化出版社、1975年、5-6頁。

(86)富本憲吉「陶片採集」『續一日一文』朝日新聞社、1926年、12-14頁。

(87)前掲「新装復刻にあたって」、富本憲吉『窯邊雜記』、6頁。

(88)「富本憲吉氏より著者へ」、沖野岩三郎『宿命』福永書店、1919年、巻末。

(89)高井陽「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、4頁。

(90)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、44-45頁。

(91)同『窯邊雜記』、46頁。

(92)同『窯邊雜記』、130頁。

(93)富本憲吉「工藝に関する私記より(上)」『美術新報』第11巻第6巻、1912年、8頁。

(94)前掲『製陶餘録』、36頁。

(95)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 118.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、129頁を参照]

(96)Ibid.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、同頁を参照]

(97)Ibid.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、同頁を参照]

(98)Ibid., p. 59.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、45頁を参照]

(99)浜田庄司『窯にまかせて』日本図書センター、1997年、61頁。

(100)同『窯にまかせて』、63-64頁。

(101)同『窯にまかせて』、67頁。

(102)前掲『窯邊雜記』、80頁。

(103)同『窯邊雜記』、88頁。

(104)前掲『窯にまかせて』、58-59頁。

(105)富本憲吉「美を念とする陶器」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、45頁。

(106)同「美を念とする陶器」『女性日本人』、48頁。

(107)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、1934年、68頁。

(108)同「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』、68-69頁。

(109)同「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』、67-68頁。

(110)前掲『窯邊雜記』、99頁。

(111)前掲『無藎蔵』、272-273頁。

(112)村松寛「越後の富本コレクション」『現代の眼』185(東京国立近代美術館ニュース4月号)、1970年。

(113)「座談会 富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号(8月号)、1961年、12頁。

(114)『白樺』第12巻第5号、1921年、広告欄。

(115)柳宗悦「富本君の陶器」『白樺』第12巻第5号、1921年、178頁。

(116)柳宗悦「富本君の陶器」『中央美術』第8巻第2号、1922年、92頁。

(117)前掲『窯邊雜記』、58-59頁。

(118)『柳宗悦全集 第二十一巻上』筑摩書房、1989年、247頁。

(119)『渋谷区立松濤美術館所蔵 野島康三 作品と資料集』渋谷区立松濤美術館発行、2009年、071頁。

(120)前掲「座談会 富本憲吉の五十年」『民芸手帖』、9頁。

(121)同「座談会 富本憲吉の五十年」『民芸手帖』、同頁。

(122)前掲『窯邊雜記』、77-78頁。

(123)同『窯邊雜記』、78-79頁。

(124)富本一枝「私達の生活」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、50頁。

(125)富本一枝「安堵村日記」『婦人之友』第15巻6月号、1921年、159頁。

(126)同「安堵村日記」『婦人之友』、162頁。

(127)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、185頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(128)富本壮吉「父に習った鰻釣り」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、11-13頁を参照。

(129)前掲『窯邊雜記』、7頁。

(130)前掲『製陶餘録』、86頁。

(131)高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、126頁。

(132)前掲「私達の生活」『女性日本人』、51頁。

(133)前掲『洋画家南薫造 交友関係の研究』、114頁。

(134)同『洋画家南薫造 交友関係の研究』、同頁。

(135)富本憲吉「三月二十九日」『下萠』第2号、1919年、41頁。

(136)同「三月二十九日」『下萠』、42頁。

(137)同「三月二十九日」『下萠』、43頁。

(138)『有島武郎全集 第十二巻』筑摩書房、1982年、598頁。

(139)『有島武郎全集 第十四巻』筑摩書房、1985年、69頁。

(140)同『有島武郎全集 第十四巻』、62頁。

(141)同『有島武郎全集 第十四巻』、64頁。

(142)同『有島武郎全集 第十四巻』、73頁。

(143)同『有島武郎全集 第十四巻』、112頁。

(144)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、76-77頁。

(145)同『元始、女性は太陽であった③』、78頁。

(146)同『元始、女性は太陽であった③』、79頁。

(147)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。

(148)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。

(149)同『元始、女性は太陽であった③』、77頁。

(150)志村ふくみ「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』駸々堂、1980年、25-26頁。

(151)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、26頁。

(152)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、同頁。

(153)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、同頁。

(154)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、31-32頁。

(155)石垣綾子『我が愛 流れと足跡』新潮社、1982年、38頁。

(156)同『我が愛 流れと足跡』、7頁。

(157)同『我が愛 流れと足跡』、同頁。

(158)同『我が愛 流れと足跡』、7-8頁。

(159)同『我が愛 流れと足跡』、8頁。

(160)同『我が愛 流れと足跡』、同頁。

(161)同『我が愛 流れと足跡』、同頁。

(162)同『我が愛 流れと足跡』、39-41頁。

(163)同『我が愛 流れと足跡』、42-43頁。

(164)同『我が愛 流れと足跡』、44頁。

(165)前掲「富本憲吉氏の窯藝」『アトリエ』、133頁。

(166)同「富本憲吉氏の窯藝」『アトリエ』、138頁。

(167)同「富本憲吉氏の窯藝」『アトリエ』、同頁。

(168)同「富本憲吉氏の窯藝」『アトリエ』、142頁。

(169)前掲「父に習った鰻釣り」『陶芸の世界 富本憲吉』、14頁。

(170)「座談会 富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号(9月号)、1961年、44頁。

(171)前掲「安堵村日記」『婦人之友』、157-158頁。

(172)前掲「私達の生活」『女性日本人』、56-57頁。

(173)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、121頁。

(174)詩人で作家の辻井喬は、このような言葉を残している。「尾竹紅吉は私の同級生富本壮吉の母親であった。彼とは中学・高校・大学を通じて一緒だったが家に遊びに行くようになったのは敗戦後である。それまで富本の家は警察の監視下にあるような状態だったから、壮吉も私を家に誘いにくかったのである。」[辻井喬「アウラを発する才女」『彷書月刊』2月号(通巻185号)弘隆社、2001年、2頁。]

(175)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。

(176)前掲「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、178頁。

(177)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、71頁。

(178)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、74頁。

(179)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、63頁。

(180)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。

(181)富本一枝「海の砂」『解放』第1巻第7号、1919年12月号、31頁。

(182)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、72頁。

(183)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。

(184)富本一枝「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』第18巻、1924年8月、25頁。

(185)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、26頁。

(186)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、同頁。

(187)富本陶「円通院の世界地図」『もぐら』桐朋女子高等学校音楽科文集委員会編集、1988年、92頁。

(188)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、27頁。

(189)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、同頁。

(190)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、28頁。

(191)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、同頁。 (

192)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、32頁の「附記」を参照。

(193)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、27-28頁。

(194)前掲「美を念とする陶器」『女性日本人』、50頁。

(195)前掲「私達の生活」『女性日本人』、51頁。

(196)富本陽子「明日」『行動』第3巻第3号、1935年、242-243頁。

(197)富本一枝「子供と私」『婦人之友』1月号、1921年、55頁。

(198)富本一枝「子供を讃美する」『婦人之友』5月号、1921年、170頁。

(199)前掲「安堵村日記」『婦人之友』、164頁。

(200)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、70頁。

(201)前掲「安堵村日記」『婦人之友』、168頁。

(202)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、28-29頁。

(203)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、29頁。

(204)前掲『窯邊雜記』、5頁。

(205)前掲「安堵村日記」『婦人之友』、157頁。

(206)前掲「円通院の世界地図」、同頁。

(207)富本陶「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、府中市郷土の森事業団、1987年、62頁。

(208)同「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、同頁。

(209)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、30頁。

(210)前掲「安堵のことなど」『富本憲吉――白磁と模様――』(図録)、62-63頁。

(211)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、31-32頁。

(212)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、31頁。

(213)同「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、32頁。

(214)前掲「円通院の世界地図」『もぐら』、91-92頁。

(215)同「円通院の世界地図」『もぐら』、92頁。

(216)高井陽「『小さき泉』の思い出」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、19頁。

(217)前掲「円通院の世界地図」『もぐら』、93頁。

(218)前掲「『小さき泉』の思い出」『薊の花――富本一枝小伝』、14頁。

(219)同「『小さき泉』の思い出」『薊の花――富本一枝小伝』、15頁。

(220)富本一枝「母親の手紙」『女性』12月号、1922年、142頁。

(221)同「母親の手紙」『女性』、143-144頁。

(222)同「母親の手紙」『女性』、149頁。

(223)同「母親の手紙」『女性』、152-153頁。

(224)同「母親の手紙」『女性』、154頁。

(225)同「母親の手紙」『女性』、同頁。

(226)富本一枝「あきらめの底から」『婦人公論』第8巻第7号、1923年、24頁。

(227)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、308頁。

(228)同『ひとすじの道 第三部』、108-116頁。

(229)同『ひとすじの道 第三部』、132頁。

(230)同『ひとすじの道 第三部』、同頁。

(231)同『ひとすじの道 第三部』、133頁。

(232)同『ひとすじの道 第三部』、136-137頁。

(233)前掲「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』、69-70頁

(234)「富本憲吉氏陶器展覧會 故柳敬介氏墓碑銘の話」『アサヒグラフ』第1巻第2号、1923年、6頁。

(235)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、204頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(236)前掲「富本憲吉氏陶器展覧會 故柳敬介氏墓碑銘の話」『アサヒグラフ』、同頁。

(237)前掲「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』、32頁。

(238)小林信「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』第18巻、1924年8月、33頁。

(239)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。

(240)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、同頁。

(241)同「私たちの小さな學校に就て 2. 稚い人達のお友達となつて」『婦人之友』、35頁。

(242)富本憲吉「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』、36頁。

(243)同「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』、37頁。

(244)同「私たちの小さな學校に就て 3. 生徒ふたりの敎室」『婦人之友』、同頁。

(245)『藤村全集』第17巻、筑摩書房、1978年、334頁。

(246)前掲『洋画家南薫造 交友関係の研究』、56頁。

(247)中江泰子・井上美子『私たちの成城物語』河出書房新社、1996年、40-41頁。

(248)同『私たちの成城物語』、42頁。

(249)同『私たちの成城物語』、41頁。

(250)らいてう「子供の敎育のことなど(一枝さんに)」『婦人之友』第18巻、1924年10月、83頁。

(251)前掲『藤村全集』、349頁。

(252)同『藤村全集』、361頁。

(253)富本一枝「あの頃の話」『婦人公論』第10巻、1925年4月、229-230頁。

(254)『東京朝日新聞』、1925年5月8日、5頁。

(255)柳宗悦「『窯邊雜記』を讀む」『東京朝日新聞』、1925年11月26日、1頁。

(256)岡田信一郎「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、1926年2月7日、6頁。

(257)同「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、同頁。

(258)同「土と詩の生活 富本君の『窯邊雜記』」『東京朝日新聞』、同頁。

(259)前掲「座談会 富本憲吉の五十年」『民芸手帖』、12頁。

(260)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻、1927年1月号、112頁。

(261)前掲「美を念とする陶器」『女性日本人』、45頁。

(262)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、187頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(263)同『私の履歴書』、210頁。

(264)前掲「東京に住む」『婦人之友』、108頁。

(265)前掲『窯邊雜記』、「序」1頁。

(266)前掲「東京に住む」『婦人之友』、109頁。

(267)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。

(268)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。

(269)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。

(270)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。

(271)同「東京に住む」『婦人之友』、111-112頁。

(272)すでに著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の冒頭の「緒言」において言及しているように、富本憲吉および一枝に関しての評伝は、このふたりをモデルにした二冊の小説(吉永春子『紅子の夢』と辻井喬『終りなき祝祭』)を別にすれば、すでに三冊が出版されている。そこで、それぞれの評伝にあっては、どのように、東京移転に関して書かれてあるのかを、ここで見ておきたい。ます、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、1985年)においては、このように記述されている。
 「その頃になると長女の陽も成長し、中等教育をどうするか考えねばならなくなっていた。理想をもって始めた小さな学校は、十全とはいえなかったし、子どもたちに一層よい教育環境をと考えた時、それは安堵村では無理だった。子どもたちのために東京へ、そんな話が夫婦の間で何度か出たが、容易に解決できないでいた。そんな時、憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する。憲吉にとってはほんの一瞬の気の迷いであったろうし、当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない。しかし一枝は深く傷ついた。一カ月に及ぶ、二人の夜ごとの話し合いの末、大正一五年三月、東京への移転が決められた。……しかしほかの仕事とちがって、陶芸家の場合は、簡単に転居ができなかった。土や松薪を求める便宜と、窯がどうしても必要であった。四月から移転の準備を始めたが、一枝は身重の身体でありながら、土地の選定や金策などにも奔走した。……こうして、柿も色づきはじめた秋半ばの一〇月一五日、住みなれた安堵の村をあとに一家は東京へと出立した。」(149-150頁)
 このように記述をするに際して、著者の折井は、いっさいの注釈を施すこともしていないし、また、最も肝心な証拠となる資料も明示していない。したがって、ここに述べられていることが真実なのかどうかを再検証する方途が完全に奪われているのである。想像するに、共著者に名前が挙げられている陽が、亡くなる前に、このようなことを折井に漏らしていた可能性もないことはないかもしれないが、しかし、たとえば、別の箇所では、「……と陽さんは語っている」(126頁)とか「陽さんの回想に詳しく書かれているが……」(137頁)とか「……という陽さんの記憶で」(147頁)といった表現形式でもって、情報の提供者が明らかにされている。しかしながら、ここの一節には、陽によって情報が提供されたことをうかがわせる記述はいっさいなされていない。したがって、ここで述べられている内容は、現状にあっては、情報の提供者も、あるいは実証するうえで欠かせない根拠となる資料も、いずれもが開示されていない、全くの独断的なものとなっているのである。
 さらにいえば、「憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する」と、著者の折井はいうが、その相手は誰だったのであるのか、いつの時期のことであったのか、これらについては、何も語っていない。「当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない」「女性問題」がなぜ、「東京への移転」という、一般的にはあまりありがちとは思えない「決意」を一枝にさせてしまったのか。つまり、「ありがちなこと」であれば、ありがちな対応でよかったはずなのに、ありがちでない対応を迫った真の理由はどこにあったのだろうか。そして、さらに加えるならば、仮に憲吉の「女性問題」が存在したとしても、なぜそのことが、家族そろっての東京移住につながるのか、裏を返せば、なぜ離婚はしなかったのか、なぜ娘たちを連れての一枝単身の移住とはならなかったのか、もしふさわしい資料が手もとにあるのであれば、もっと積極的にそれらの資料に真実を語らせるべきだったのではないかと考える。というのも、当時の男尊女卑的な価値観が色濃く残る社会や家庭環境にあっての夫の「女性問題」に対する妻のとる対応にかかわっての、恰好の歴史的事例研究の対象となるのではなかろうかと推考するからである。
 ただ、もしこの情報が、陽から受け継がれたものであるとすれば、どうなるのであろうか。陽自身は、このときまだ幼く、自分で直接知ることはなかったであろうから、陽が知るのは、その後の一枝からの示唆、ないしはほかの誰かからの伝聞だったのではないかと思われる。あるいは、一枝の書いた雑誌等の掲載文からの陽の推断だったのかもしれない。そして、幾つもの経緯を重ね、この憲吉の「女性問題」は、ある時期より家族のあいだにあっては、ひょっとしたら共有された認識にすでになっていた可能性もある。それでも、「共有された認識」が、必ずしも「女性問題の真実」を担保するものではない。というのも、一枝を含む示唆を与えた人の誤認や誤解、誤伝達等を完全に排除することはできないし、他方、陽自身の一方的な思い込み、聞き違いや記憶違いも、決して否定できないからである。たとえば、復刻版の富本憲吉『窯邊雜記』(文化出版社、1975年)に、陽は「新装復刻にあたって」という一文を寄稿し、そのなかで、一九二六(大正一五)年の秋、安堵村から上京した直後の間借りしていた部屋で、憲吉が『窯邊雜記』の見返しに絵を描き、一枝が、乾いたものから順にそろえていた様子を紹介しているが、次の第六章「千歳村での生活の再生」において詳しく述べるように、刊行の時期から判断して、この本は『窯邊雜記』ではなく、『富本憲吉模樣集』だったのではないかと思われ、もしそうであれば、陽の記憶違いの一例となるであろう。そのようなわけで、仮に、「女性問題」の情報が、残された家族の了解のもとに、生前陽から折井に伝えられ、それをそのまま折井がここに書いているとしても、「女性問題の真実性」は、それでも絶対的真実とはなりえないのである。したがって、移転の理由としての憲吉の「女性問題」は、いまだ折井個人の仮説の域に止まっていると判断するのが妥当なのではないだろうか。このことを実証するためには、たとえば、憲吉と一枝の当事者たちを含め、周りの関係者たちの手紙や日記などのなかに記述されているかもしれない、動かすことのできない何か新資料の発掘が必須の要件となるであろう。もしそのことができなければ、憲吉にかけられた「女性問題」の嫌疑は、事実かどうかの実証が捨象されたまま、今後永遠に語り継がれていくことになり、「緒言」において紹介したように、一枝のいとこの尾竹親が指摘するような「伝説という神話」形成の危険性が、小説という形式とは異なる、限りなく真実に肉薄することが要請される、こうした人物伝という表現形式においても、醸成されかねない状況にあるのである。
 次に、辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』(双葉社、1999年)では、どのように記述されているのであろうか。上記の記述とは、明らかにトーンが違う。
 「大正十四年の秋、一枝は思い切って上京し、陽や陶を成城学園小学校に仮入学させている。その頃成城学園では父兄の要望で、小原国芳の指導理念による成城学園女学校開設の準備が進みつつあったようだ。一枝は娘達をどうしてもこの女学校に入れたいと思った。しかし、窯という移転の困難な施設を必要とする陶工として、憲吉が東京移住の決意を固めるのは、並大抵の覚悟では出来なかったろう。夫婦の間で東京移住の問題はくり返し激しく争われた。実をいえば、憲吉も大和での研鑽一〇年を積んだ陶技を引っさげて中央に進出し、東都の舞台で躍動したい思いは十分に熟していたし、大和で年々激しくなる小作争議に地主の座に連なるのは何よりも不愉快千万なことだった。憲吉の決断を待ちきれないとばかりに大正十五年四月になると、一枝は子供二人を連れて上京、新宿戸塚に仮寓して子供達を成城学園小学校に転入学させている。……夏休みに一家は合流して仲良く松江の玉造温泉に逗留している。この後に憲吉は上京の段取りを固めており、十月になると憲吉も上京。」(130-132頁)
 この本も、上記の書と同じく、いっさいの注も、根拠となる資料も示されていないので、書かれている内容にかかわって、その真偽を再検証することは不可能な状態にある。それでも、後段の「東都の舞台で活躍したい思い」や「小作争議」への言及は、憲吉と壮吉の言説に依拠しているのではないかとの推量はある程度できるものも、前段の「一枝は娘達をどうしてもこの女学校に入れたいと思った」という記述内容に対しては、証拠となる資料が示されていないことに起因して、極めて重要な疑問を招来する。それは、「小さな学校」との関係においてである。もし、「娘達をどうしてもこの女学校に入れたい」という一枝の思いが真実なものであるとするならば、そしてまた、もし、「大正十四年の秋、一枝は思い切って上京し、陽や陶を成城学園小学校に仮入学」させているとするならば、「私たちの小さな学校に就て」の特集が『婦人之友』に掲載されるのが、一九二四(大正一三)年の八月のことであるので、わずか一年と数箇月後には、一枝は、この「小さな学校」を閉校しようとしていたことになる。すでに本文で詳述しているように、この「私たちの小さな学校に就て」の特集のなかの「1. 母親の欲ふ敎育」において一枝は、小林信の赴任に関して、これをもって「第二期」に入り、「基礎が固められつゝある」ことに喜びを表明していた。一方憲吉も、「3. 生徒ふたりの敎室」のなかで、今後のこの学校の設備等の充実について抱負を語っていた。極めて重要な疑問とは、なにゆえに一枝は、一年数箇月という短い期間のなかで、「基礎が固められつゝある」ことに喜びを感じる気持ちから、「娘達をどうしてもこの女学校に入れたい」という気持ちへと変節したのか、その点である。この変節に関して、この本のなかでは、何ひとつ言及されていないし、実証もされていない。なぜこのことが重要かというと、一枝自身、この「小さい学校」の失敗を認め、それに代わって公教育へ回帰しようとしているのであれば、失敗の要因をどうとらえ、それにより、母親としての一枝の教育的理想のどの部分が瓦解したのかを究明する必要があるのではないかと愚考されるからである。
 あるいは、変節などは存在せず、公権力の圧迫により、「小さな学校」が立ち行かなくなり、急きょ、公教育へ目を向けざるを得なかったのかもしれないし、それとは別に、一枝と小林信のあいだに「女性問題」が生じ、そのことが、「小さな学校」の存続を不可能にし、その結果、生活の場を安堵以外の地に求めざるを得なかったのかもしれない。もし前者であれば「権力介入」、もし後者であれば「性的少数者」という文脈からの再検証が必須となろう。
 いずれにしても、大きな理想に燃えた憲吉と一枝が開設した「小さな学校」が、どうしてかくも短い活動をしただけで閉鎖されなければならなかったのか、そして、このことによる子どもたちへの教育的影響はどのようなものであったのか、憲吉と一枝の伝記的記述を越えて、教育史や教育制度論といった別の学問的観点からも、この大正期の教育実践について、これからさらに個別事例研究が進められなければならないものと推考する。
 最後に、渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、2001年)についても、言及しておきたい。安堵村から東京への移転の理由について、著者の渡邊は、折井がすでに示した憲吉の「女性問題」をそのまま踏襲したうえで、こう述べる。
 「一家は一九二六年一〇月、東京へ移住することになるが、それには、晩年にまで水面下で尾を曳き、結局、二人の間を離隔させることになったが、その根に憲吉の女性問題をみることができる。私が紅吉に魅せられ、紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる。私はこの間、生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業を仕事の合間の折々に続けてきたが、憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった、と複数の方の証言を得た。子どもも生まれていてこの子は里子に出されたはずと明言した人もいた。しかし一方で、そんな事実はない、田舎は狭いのでもしそのようなことがあったら、誰知らぬ者なく広まってしまうはずだ、という人もいた。しかし、夫である男性が妻とは別の女性と特別の関係を持つ例は、ほとんど日常茶飯事としていわば公認されていた時代状況下では、事実があってもそれは大問題にならないということもあるのではないだろうか。夫を愛している妻である女性がそのことでどれほど傷つくか、その痛みの深さを感じ取れない男性社会だったのだ。」(210-211頁)
 残念ながら、この本にも注などは存在せず、そのように断言するうえでの根拠となる証拠も何ひとつ示されていない。「生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業」をしているのであれば、いつ、どこで、誰に、何を聞き、その聞き取った内容を相手に確認してもらったうえで公表の了解を得て、そのすべてを開示すべきであったと愚考されるものの、そのような学問的配慮に欠けるため、このままでは、単なる風聞か噂話の域を出ない状態に置かれているといわざるを得ない。井出秀子とは、丸岡秀子のことを指しているのであれば、紹介者としての当事者である丸岡に、事の真相を直接問い合わせるべきだったのではないだろうか。「紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる」というが、この本が出版されたのが二〇〇一(平成一三)年、そこから逆算すれば、一九八一(昭和五六)年ころから聞き取り調査をはじめていたことになる。丸岡が亡くなるのが一九九〇(平成二)年であることを勘案すれば、著者の渡邊は、その意思さえあれば、丸岡本人へのインタビューを試みることも、あるいはまた、書簡による問い合わせも可能だったはずである。
 丸岡秀子自身は、生涯、憲吉の生き方に強い共感を示し、敬愛の念を持ち続けた。晩年に至ってまでも、丸岡はこういった。「いま、若い人たちにとって、二人[憲吉と一枝]は名前さえ知られてはいないであろう。だが、京都、奈良めぐりの旅行の中に、“世紀の陶工”富本憲吉美術館を入れてもらいたいと、私は願う。法隆寺からすぐなのだから」(丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、28頁)。
 もし、「憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった」のであれば、紹介者自身も深い傷を負い、憲吉に強い怒りと不信を向けたにちがいなく、晩年のこうした丸岡の憲吉に寄せる信頼と讃美の言葉を目にするとき、著者の渡邊の言説をそのまま受け入れることには、大きな違和感が生じ、もし仮に、それが真実であると主張するのであれば、どうしても、それを裏づけるにふさわしい証拠となる資料を明示すべきものと思われる。とりわけ、「井出秀子が世話したお手伝いさん」が、いつどのような経緯で富本家へ入り、いつ妊娠し、いつどこで出産し、いつどのような経緯でその子が里子に出されたのかを明確な根拠に基づき実証すべきであろう。またその情報を提供した複数の人物とは誰と誰なのか、これについても、歴史的証人として本人たちの了解を得たうえで、明らかにするべきではないだろうか。「生前の二人を知る人」と渡邊はいうが、「女性問題」が持ち上がった一九二六(大正一五)年前後のあいだの安堵の富本家の生活の様子を日常的に知ることができ、渡邊が「聞き書きをとる作業」をする時期まで存命していた人物は、そう多くはないはずである。この時期一枝も妊娠していた。丸岡秀子の奈良女高師の先輩で友人と思われる若い女性教師が円通院で教鞭をとっていた。そうしたこととの混同や取り違えはないのか、あるいは、どこかの段階で誰かが、一枝の「女性問題」を憲吉の「女性問題」と聞き違えたり、伝え違えたりしているようなことはないのか、慎重な対応と吟味が必要とされるところであろう。もし、以上に述べてきたような学問上の基本的手続きに立ち返ることができなければ、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』に対してはすでに上で指摘しているが、そこでの指摘と同様に、反論することも、弁明することも、真実を語ることも、何もいっさいできないまま、憲吉の「女性問題」は永久に歴史のなかに刻印され、かくして「虚偽の歴史」ないしは「歴史上の冤罪」が構成されかねない事態にいまや立ち至っているのである。
 伝記や評伝を著わすにあたって、一般論として確かにいえることは、対象者がすでに過去の人物になっているといえども、実在していた以上、その人物の人権も人格も当然ながら尊重されなければならず、そのために最も肝要なことは、何かを断定するにあたっては、後進の研究者や伝記作家が、それが真実であるのかどうかを再検証するに足るだけの十分な根拠資料を注や図版や表にまとめ、あわせて開示しなければならないということではないだろうか。こうした手続きを踏まえながら、世代を越えて、途切れることのない学問上の論証や実証が積み重ねられてゆき、その過程のなかにあって、いつしか万人が承認しうる、独断と偏見を排した「歴史的真実」がその姿を現わしてくるものと思われるが、いかがであろうか。一例ではあるが、英国にあっては、憲吉が崇敬したウィリアム・モリスの伝記が、没後一〇〇年以上を経たいまに至るまで、新しく発掘された資料や証言を援用し、また、新しく開発された学問的コンテクストやアプローチに沿わせながら、多くの歴史家や作家によって書き継がれてきている事実が、そのことの重要性と妥当性を雄弁に物語っているように思われる。
 なお、上の引用文のなかで丸岡が述べている「富本憲吉美術館」とは、一九七四(昭和四九)年に辻本勇が私財によって開設した、安堵の憲吉の生家に立つ「富本憲吉記念館」のことであろう。しかし、辻本の死去後、二〇一四(平成二六)年に完全閉館したあと、二〇一七(平成二九)年に、新たに宿泊施設「うぶすなの郷 TOMIMOTO」へと生まれ変わり、引き続き、憲吉の息遣いをいまに伝えている。
 最後になるが、憲吉が、紅灯の巷に関して言及している箇所があるので、参考までに、次に引用して、紹介しておきたい。「ある料亭の女将から『富本はんはほんまにけったいなお人や。酒も飲まんしちっとも遊ばはらへんのに、芸子や花柳界のことはよう知ってはる』といわれたことがあるほど、私の紅灯のちまたの知識は相当なものなのである」(前掲『私の履歴書』、192頁)。その理由について憲吉は、若いころ為永春水や柳亭種彦などの軟文学を一生懸命に読んで得た知識であると語っている。ちなみに、憲吉は酒を嗜むということはなかったが、愛煙家ではあった。
 以上、先行する既往評伝の三冊を取り上げ、そこで述べられている、富本一家の東京移住の理由について批判的に検討した。結論としていえることは、総じてどの評伝においても、渉猟された適切な一次資料を十全に駆使して論証ないしは実証するという、真実に近づくための学術上必要とされる手続きがほとんど、あるいは全く見受けられず、そのことに起因して、述べられているその内容に絶対的信頼を置くことを躊躇せざるを得ない状況にあるということである。

(273)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、75頁。口述されたのは、1956年9月12日。

(274)前掲「海の砂」『解放』、同頁。

(275)尾竹一枝「Cの競争者」『番紅花』第1巻第3号、1914年、107頁。

(276)前掲「東京に住む」『婦人之友』、112頁。

(277)『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳)岩波書店、2004年、628頁。

(278)前掲『ひとすじの道 第三部』、134-135頁。

(279)前掲「東京に住む」『婦人之友』、109頁。

(280)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。

(281)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。

(282)前掲『窯邊雜記』、12頁。

(283)島崎藤村「富本一枝と横瀬多喜の作品」『週刊朝日』第10巻第15号、1926年10月、78頁。

(284)前掲「東京に住む」『婦人之友』、112頁。