中山修一著作集

著作集23 残思余考――わがデザイン史論(下)

第三部 高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論

第二話 石牟礼道子の「沖宮」における四郎とあやのモデルについて

はじめに

私は、著作集14『南郷谷春雷秋月』と著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』を書き進めるなかにあって、一次資料(エヴィデンス)に基づく論証の結果として、石牟礼道子の新作能「沖宮」におけるあやと四郎の道行きを、道子と憲三のそれであるとみなして叙述しました。たぶんそうした解釈に立つのは、現時点では私ひとりではないかと思われます。しかし、四郎を渡辺京二とみなす意見もありますので、ここでそれを紹介し、検討したいと思います。

一.シンポジウム「新作能『沖宮』を語る~石牟礼道子と志村ふくみの世界~」

私がそもそも石牟礼道子の「沖宮」に興味をもったのは、その能装束の製作に携わったのが、染織家の志村ふくみであったという点にありました。これまで私は陶工の富本憲吉を主な研究の対象にしていました。その一連の研究から、私は、志村ふくみがある文のなかで、自分は富本憲吉の弟子であると語っていたことを知っていました。また、憲吉の妻の一枝(旧姓尾竹)の妹が福美といい、志村ふくみの母の小野豊と尾竹福美は、大阪の夕陽丘女学校で同級でした。一枝を含むこの三人は仲のよい友だち同士で、志村ふくみの「ふくみ」の名が一枝の妹の尾竹福美の「福美」から取られていることも、よく知られていました。その後一枝は、青鞜の社員に加わる一方、日本画家としても活躍しました。そこで、この能衣装に憲吉なり一枝なりの面影を見出すことができるかできないか、それを確かめてみたかったのです。

そうした関心のなかにあって私は、「新作能『沖宮』を語る~石牟礼道子と志村ふくみの世界~」というシンポジウムがあることを知り、さっそく申し込み、聴衆のひとりに加わりました。そのシンポジウムは、道子の死去から五箇月が立った、二〇一八(平成三〇)年七月一四日、熊本日日新聞社本館二階ホールで開催されました。それまで私は、道子の文はひとつも読んでおらず、何とかその日までに、『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻に収められている「沖宮」と、志村ふくみと石牟礼道子の共著である『遺言――対談と往復書簡』に目を通すのが精一杯のあり様でした。広告のチラシによると、出演者は、司会として伊藤比呂美(詩人)、パネラーとして渡辺京二(思想史家)、跡上史郎(熊本大学准教授)、そして坂口恭平(作家)の計四氏でしたが、私は、長いあいだ熊本を離れていたこともあって、どの方もはじめてお聞きするお名前でした。坂口恭平氏は、病気により当日欠席でした。

開演すると、いきなり跡上氏から、「四郎は渡辺さんのことではないですか」という質問が飛び出しました。それを受けて渡辺氏は、「それを俺にいわせるのかい」と応じました。肯定でも否定でもありませんでしたが、それを聞いた、私を含む多くの人は、「おそらくそうなんだろう」という印象をもったにちがいありません。この日のシンポジウムは、「沖宮」の構造なり意味なりをそれぞれがそれぞれの専門的な立場から語り、それを踏まえて相互に論議するという、シンポジウムに求められる本来の形式から程遠いものでした。たとえば、渡辺氏が「俺は、能はウーウーうなるだけでようわからん」と言い出すと、隣りに座っていた伊藤氏が、「それをいってはおしまいですよ」といって、いさめる一幕もあったくらいです。結局、石牟礼道子の人柄や作品にまつわる思い出話に終始し、本題である「沖宮」についても、染織家としての志村ふくみの芸術的世界についても、論議を欠く結果となりました。ただ、シンポジウムの最後に、前列に待機していた志村ふくみの娘の志村洋子氏が紹介され、持参していた能装束に使用する染め糸が紹介されたときには、私もつい身を乗り出して見入りました。同じくシンポジウムの最後に、『評伝 石牟礼道子 渚に立つひと』(新潮社、二〇一七年)の著者として、米本浩二氏が紹介されました。のちに私は、この本を図書館で借りて読んでみました。加えて、その続編である『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』(新潮社、二〇二〇年)も。そこには、このような一節がありました。

 生類との道行きがからだに染め込んでいる石牟礼道子が、『曽根崎心中』的な道行きをするとしたら、その相手は、魂の邂逅を果たした渡辺京二以外にありえない。……
 道子と京二の関係は、いろいろな言葉で言い表されてきた。一番ポピュラーな言い方が「作家と編集者」であろう。「思想・文学的同志」もなかなか座りがいい。しかし、「心中の道行き」以上にふたりの関係を適切に言い表す言葉があるだろうか

この本を読んだ、おそらくそのほとんどの人が、「沖宮」は石牟礼道子と渡辺京二の「心中の道行き」であると受け止めたにちがいありません。すでに私は、著作集の14と18の両巻において、道子と憲三の関係につきましては詳述していますので、ここでは、石牟礼道子と渡辺京二の関係について触れてみたいと思います。

二.「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」

まず、道子本人は、渡辺をどう思っていたのでしょうか。

石牟礼道子の『最後の人 詩人高群逸枝』(藤原書店、二〇一二年)が上梓されるに当たり、道子へのインタヴィューがなされました。そのインタヴィューは、二〇一二(平成二四)年八月三日に道子の自宅において行なわれ、聞き手役を、藤原書店の藤原良雄が務めました。このとき道子は、八五歳でした。そしてその内容は、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」と題して、『最後の人 詩人高群逸枝』に所収されます。以下は、そのなかで道子が語っている、高群逸枝と橋本憲三です。

――[「『最後の人』覚え書――橋本憲三先生の死」の執筆から]この三十年のあいだ、そして現在、高群さんをどういうふうに感じておられますか。
石牟礼 いよいよますます尊敬しています。あの時代に、よくまあ、こういう鋭い、純粋さで押し切っていくようなことができたものだと。そして、彼女の感じているこの世への感受性の熱いこと。純度も高いけれども、世間にたいする、人間にたいする思いの深さは、私のお手本で、大切にしたいと思っています。そして男女のあり方が、羨ましいですね。羨ましいけれども、羨望というのと違う。男と女は斯くあらねばならないと思っています。最敬礼です、お二人にたいしては。
 日本の古代にあったような、純粋な。
 今はみんな、世間の垢にまみれずには生きていけない、どこかでまみれてしまいます。だけど、汚れない存在と生き方。存在の原郷をつくっている二人だと思う。これは何かの形で書いておかねばと、いつも意識していました。何を書くにも原郷というのがあります。こういうところにいたい、と夢見ています。言葉にすると、ちょっと気恥ずかしい。
――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、そう思われたわけですね。
石牟礼 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。
――「最後の人」というのはどういう思いで。
石牟礼 こういう男の人は出てこないだろうと。
――憲三さんのことを。
石牟礼 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした

インタヴィューの最後に、こうしてはっきりと、八五歳になる道子は、自分にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告知するのでした。それに先立って道子は、藤原良雄の質問に対して、渡辺京二については、こう反応しています。

――石牟礼さんからすると渡辺京二の存在はすごく大きいですね。
石牟礼 とてもすごく大きいです

実に短くそっけない返事です。そこでいま一度、質問がなされます。

――高群逸枝にたいする橋本憲三のように、石牟礼道子にたいする渡辺京二というすぐれた編集者がいて、今日の石牟礼道子があるという感じがしますね。二人三脚でね。渡辺さんが石牟礼さんを支えようという、これは橋本憲三と相通じるものがあるんじゃないかと思います。
石牟礼 そうですね。私はあんまり年月が頭の中にないものですから、何を尋ねられても、はてなと思って。そうすると渡辺さんはピタッと憶えておられる。どういう頭だろうかと思います。私はそういう方面は、まるで憶えていない

おそらくこの発話も、藤原が事前に期待していた思いを満たすものではなかったのではないかと推量されます。しかしこれが、紛れもない道子が示した返答でした。明らかにこのやり取りから、道子の目からすれば渡辺は、「すぐれた編集者」以上でも以下でもないことがわかります。

それでは次に、渡辺京二は、道子をどう見ていたのでしょうか。

道子亡きあと、渡辺は、道子に関する幾つかのエッセイを書いていますので、そこから抜き書きしてみます。まず、『現代思想』に寄稿した「誤解を解く」の最後の一節からの引用です。

 以上をかんがみるに、私は一編集者ないしヘルパーとして彼女と関わったにすぎぬのであって、彼女の遺した表現のすべては完全に彼女自身のものであり、私の助力など必要としなかったのである。私はただこの偉大な才能が発揮されるのに必要な環境作りにいささか役立ったかとは思うが、それは私生涯のしあわせであって、得るものは私の方がはるかに大きかった。渡辺がいなければ今日の彼女はなかった、などと言う人がいるとすれば、その人は真相を知らずに完全に間違っているのだ。彼女は私など存在しなくても、必ずやあれだけの仕事を残したに違いない。それだけのすさまじい創造力の持ち主だったのだ。このことは暮々誤解されてはならぬ。だからこの一文を草した

次に、『藍生』に寄稿した「カワイソウニ」の一節から引用します。

 じゃ何でおまえは五十年間も原稿清書やら雑務処理やら、掃除片づけから食事の面倒までみたのかとお尋ねですか。好きでやっただけで、オレの勝手だよ。と答えればよいのですが、もちろん私は故人の仕事が単に大変な才能というにとどまらず、近代的な書くという行為を超える根源性を持つと信じたからこそ、いろいろお手伝いしました。
 その手伝いなんて誰でもやる気があればやれること。特筆に値しません。
 私はその間ちゃんと家族も養い、自分の本も書きました。故人に捧げし一生という訳ではなかったのです。
 しかし、そういう大変な使命感を担った詩人だからこそ、お手伝いに意義を感じたのだと言えば、もうひとつ本当ではありません。
 私は故人のうちに、この世に生まれてイヤだ、さびしいとグズり泣きしている女の子、あまりに強烈な自我に恵まれたゆえに、常にまわりと葛藤せざるをえない女の子を認め、カワイソウニとずっと思っておりました。カワイソウニと思えばこそ、庇ってあげたかったのでした

この言説からしてみると、道子に対して「カワイソウニ」という感情が渡辺にあったことは事実のようです。しかしながら、それが特別な愛のかたちへと発展し、それを道子と生涯共有していたかというと、それを立証するにふさわしい資料(エヴィデンス)は残されていません。もし何か存在していたとすれば、それはあくまでも、単に渡辺から道子への、一方的で内に秘められた憐憫の情感だったのではないかと思われます。

三.果たして四郎役は渡辺京二だったのか

したがいまして、「沖宮」において道子は、道行きの相手として渡辺を選んだのではないかと、踏み込んで推断するには、あまりにも証拠(エヴィデンス)が不足していて、どうしてもその実証に困難性が伴うのです。他方、そもそも論になりますが、「沖宮」にあっては、あや以外はすべて霊界の人であり、渡辺はそれに該当しません。さらにまた、もし道行きの相手が渡辺であったとするならば、〈沖宮〉でふたりを迎える「大妣君」は誰なのか、具体的に想定できる人物が見当たらず、ここでも、自ずと物語としての「沖宮」の構造は崩れ落ちてしまうのです。そうしたことに思いを巡らしますと、著作集14『南郷谷春雷秋月』と著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』のなかで、複数の具体的な根拠(エヴィデンス)を列挙して詳細に論証しているとおりに、あやが原作者の石牟礼道子、天草四郎が橋本憲三、そして大妣君が高群逸枝であると想定することの方が、より合理的で妥当性があるのではないかと思量されます。

いわずもがなの蛇足になるかもしれませんが、先ほど渡辺の「誤解を解く」の最後の一節を引用しましたので、あわせて以下に、その最初の一節を引用してみます。

 『現代思想』誌が石牟礼道子特集をなさるという。ありがたいことである。私も一文を求められたが、いまは彼女について書くような気もちにはとてもなれない。ところが、一応辞退したあとで、愕然とするようなことに出会った。ある方が『苦海浄土』は渡辺との共作だと信じると、悔み状に書いて来られたのである。
 共作とまではいかなくとも、『苦海浄土』の成立には渡辺の深い関与があったかのような風説は以前からあり、その度に私は打ち消して来た。私もあと長くは生きていないのだから、この際、このような推測を完全に一掃しておかねば、とんでもない悔いを残すことになる

周知のとおり、道子の出発作が『苦海浄土』です。上の言辞を、最終作の新作能「沖宮」に置き換えてみますと、およそ次のようになります。「『沖宮』の道行きの相手は渡辺ではないかとの風説があるが、この際、このような推測を完全に一掃しておかなければ、とんでもない悔いを残すことになるにちがいない」。思うにこれが、「一編集者ないしヘルパー」としての渡辺の矜持であり美学ではなかったでしょうか。他方、主人たる者は、介助人の従順に感謝はすれども、死へと向かう愛慕の道行きに、決して従者たるその者を選ぶことなど、おそらくありえないでしょう。かくあればこそ、道子を献身的に支えた渡辺の無償の行為は歴史に足跡を残すものと、私は信じるのです。渡辺京二が九二歳で世を去ったのは、道子の死からそろそろ五年が近づこうとする二〇二二(令和四)年の一二月のことでした。家族も仕事もあり、必ずしも道子に「捧げし一生という訳ではなかった」にしても、「カワイソウニと思えばこそ」庇護の志が芽生え、躊躇することなくそれを、誠実に全うした人生だったのではないかと推察いたします。

おわりに

この拙文の冒頭におきまして、私は、「新作能『沖宮』を語る~石牟礼道子と志村ふくみの世界~」と題されたシンポジウムについて触れました。このシンポジウムでの発言内容をテープ起こししたものと思われる、渡辺京二の一文があります。「沖宮の謎」という題で『預言の悲しみ――石牟礼道子の宇宙Ⅱ』に所収されています。以下に、その文の最後の箇所を引用します。

 もう少し正確にいうと、原城で死んだ人びと、その象徴としての四郎は、「沖宮」へ赴くあやの同行者、つまりあやを救済する案内者なんだね。お兄さんたちはもう美しい世界へ行ってるんだよ、そこへ連れて行ってあげようね、もともとあやはその世界の人だったんだものねというわけなの。「沖宮」は大妣君や竜神のいるところだけれど、そこにはもうちゃんと原城の死者二万数千人が先に行って待っているの。だから、あやを舟が送り出して、ありがたやありがたやとおがんでいる浜辺の村人は、原城の死者、つまり自分の仲間を弔っていることになるの。『沖宮』はそういう含意をもつ作品なんです。石牟礼さんは全文業をもって、この国の古きよき民と心中なさろうとした作家です。自分は今はもう亡きこの古い民たちと、妣神の待つ美しい世界へ道行きなさるつもりだった。だから『沖宮』という作品は、彼女の深いところにあるコンプレックスとか衝動とか、オブセッションとか、深いところにある思いが出ている作品なんですよ。自分なりにかなり強引にこじつけたところもありますが、そんなふうにちょっと読み解いてみたんですが、ほかにいろいろ読み解き方はあると思います。そういう意味で面白い、読みがいのある、解釈のしがいがある作品だと思います

渡辺は、自分が主宰する雑誌『熊本風土記』の編集者として、橋本憲三と同居中の「森の家」から送られてきた道子の「海と空とのあいだに」を読んでいます。この文は、憲三の目を通して書き終えたもので、『苦海浄土』の最後の一部となる原稿です。また、石牟礼道子、松浦豊俊、渡辺京二の三者の共同編集になる雑誌『暗河』に、道子は「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」を二回に分けて連載します。憲三の死を悼む道子の悲しみを見事に伝えるものです。さらに憲三亡きあとに、『高群逸枝雑誌』(最終号)が発刊されるとき、その編集業務に携わったのも渡辺です。その雑誌に道子は「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」を寄稿します。この文にも、憲三に向ける道子の恭順の思いが色濃く投影されています。

さらにまた、全集に収められていた「最後の人」が、そこから取り出されて『最後の人 詩人高群逸枝』として単行本化される際、渡辺は、道子が「森の家」に滞在していたおりに執筆していた覚え書き、つまり取材ノートを発見すると、編集者に渡します。これが、『最後の人 詩人高群逸枝』に収録されている「森の家日記」です。このなかには、「昨夜、というより今晩(一時)憲三氏(以後K氏と書く)よりノートの御許し出る。今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生を誓った」と書かれてあります。このノートを基にして、憲三が主宰する『高群逸枝雑誌』に道子は「最後の人」を連載し、それを、齢が傾いた後半生最後のこのときに道子は、『最後の人 詩人高群逸枝』として世に送り出し、あわせて一方で、あやと四郎の心中物語である「沖宮」を書き上げます。現世にあって、こころを満たすまで添い遂げることができなかった女の魂の移ろう姿を象徴する作品です。

したがいまして、こうした道子の文のすべてを読んでいたであろうと思われる渡辺は、「後半生を誓った」道子と憲三の関係について誰にいわれるまでもなく自身が十分に理解しており、あやとの道行きを果たす四郎のモデルが誰であるのかもまた、おそらくは間違いなく感知していたにちがいないというのが、私の推量するところです。

しかしながら、渡辺の「沖宮の謎」の文からは、そのことは伝わってきません。たといみぢかで見守っていた「一編集者ないしヘルパー」であろうとも、渡辺にとって「沖宮の謎」は、解き明かすことのできない、永遠のものであったのでしょう。いやむしろ、「一編集者ないしヘルパー」としてではなく、「男」としての清純な誇りのなかにあって、その謎の実際を口にすることを避けようとする力がどこかで無意識のうちに働いていたのかもしれません。

とはいえ、いずれにいたしましても、そうした推量を越えて、道子にとっての最後の作品の裏に隠された「沖宮の謎」が解明できない限り、石牟礼道子というひとりの人間の生涯は正しく理解できないのではないかと、いま私は確信するに至っているのです。そこで、参考のために、道子の主治医であった山本淑子の「『沖宮』を観劇して 死者を柱となさいませ」から一節を引用して以下に示します。

 四年前私は長女を亡くしたが、その時、幼少期からの長女をご存じだった石牟礼さんから「これからはふっこさんを山本家の柱となさいませ。」と言われた。死者を柱にとはどういう事だろうとその時は解せない気持ちが強かったが、思い返すと石牟礼さんは、早逝した弟さんを始め水俣病患者さん達、屍累々のなかを、その魂を柱として生きてこられた10

山本が指摘するように、道子は、「早逝した弟さんを始め水俣病患者さん達、屍累々のなかを、その魂を柱として」生きてきたちがいありません。しかし他方で、私には、道子の柱となった魂は、それだけではなかったような気がしています。といいますのも、道子自身、次のように書いているからです。

道子は、憲三について、こう吐露します。

ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった11

水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。

 水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた12

ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、人間のいのちと暮らしについての無自覚な生後体験から、民衆へ寄せる私的かつ詩的な独自のまなざしへの昇華、――そしてその、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生。これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。

憲三を喪った道子は、憲三を自身のいのちの柱として、何とかその後の生涯を生き延びたのではないかと、私は思っています。そして、そのたどり着いた先が、疑いもなく「沖宮」だったのです。

当夜私が観覧した「沖宮」の物語は、一九六六(昭和四一)年六月二九日の一五時一一分、六九歳の憲三と三九歳の道子が国鉄水俣駅のホームに立ち、入線してきた西鹿児島発東京行きの急行「霧島」の一等車に乗り込み、逸枝の霊魂が宿る「森の家」へ向けての、一昼夜にわたる、生まれ変わりのための厳粛なる道行きと重なります。

道子は、逸枝が亡くなったときに『熊日』に寄稿した追悼文において、すでにこのようなことを書いていました。

高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるにちがいない13

このときの、「魂が吐血した状態」にあった道子が、憲三に導かれて「森の家」へ向かう道行きは、「古代母系社会からよみがえりつづけている妣」である逸枝を求めての旅立ちでした。私は、この道行きが、道子にとっての新作能「沖宮」の原像であると確信しています。もしこの理解が正しければ、〈沖宮〉が「森の家」であり、天草四郎が憲三であり、そして、もしふたりを迎えるのであれば、家父長制の化身でもあるような竜神などでは決してなく、「大妣君」たる逸枝その人ということになります。

種々の解釈はともあれ、いずれにいたしましても、道子の死去から八箇月を経た、二〇一八(平成三〇)年一〇月六日の夜、水前寺成趣園能楽殿におきまして、あやと四郎の道行きは、多くの観客が見守るなか、無事に成し遂げられたのでした。そのとき降ってきた雨粒は、人身御供となって雨乞いをするあやの、換言すれば、満願成就を果たした道子の、喜びの涙だったかもしれません。

以上に述べた思いを反映させた作物が、いま擱筆した著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』であることは、いうまでもありません。読者のみなさまには、適切な論述になっているか、お時間が許せばぜひ一度、ウェブサイト「中山修一著作集」をご訪問いただき、ご批評をちょうだいできれば、幸甚に思う次第です。

(二〇二五年八月)

(1)米本浩二『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』新潮社、2020年、199頁。
 しかしながら、著者の米本は、それに先立つ別の箇所で、「四郎は石牟礼道子の分身であるあやのもとに雷神となって降り立つ。そして四郎とあやは沖宮へと道行をする。『四郎』を『一』や『おもかさま』と言い換えても、さしつかえあるまい」(米本浩二「緋の衣 よみがえる魂――石牟礼道子の『沖宮』」『道標』人間学研究会、第61号、2018年、136頁。)と書き、ここでは、天草四郎を、「渡辺京二」ではなく、道子の弟の「はじめ」ないしは祖母の「おもかさま」に見立てています。なぜそうした異なるふたつの解釈が可能なのかは、米本は何も書いていません。

(2)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、453-454頁。

(3)同『最後の人 詩人高群逸枝』、442頁。

(4)同『最後の人 詩人高群逸枝』、447頁。

(5)渡辺京二「誤解を解く」『現代思想』第46巻第7号(5月臨時増刊号)、2018年、29頁。

(6)渡辺京二「カワイソウニ」『藍生』第29巻第6号(第333号)、2018年、10-11頁。

(7)前掲「誤解を解く」、26頁。

(8)渡辺京二「沖宮の謎」『預言の悲しみ――石牟礼道子の宇宙Ⅱ』弦書房、2018年、113-114頁。

(9)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。

(10)山本淑子「『沖宮』を観劇して 死者を柱となさいませ」『道標』人間学研究会、第63号、2018年、22頁。

(11)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。

(12)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、287頁。

(13)石牟礼道子「高群逸枝さんを追慕する」『熊本日日新聞』1964年7月3日、6面。