中山修一著作集

著作集22 残思余考――わがデザイン史論(上)

第二部 富本憲吉・富本一枝論

第一話 富本憲吉にとっての人間国宝認定と文化勲章受章の意味

はじめに

一九五五(昭和三〇)年の二月、富本は、第一回の重要無形文化財技術保持者に認定されました。対象となる分野は色絵磁器で、認定者は「人間国宝」とも呼ばれます。この話が伝えられたとき、富本は、この認定を決して好ましいものとは思いませんでした。しかし認定に同意すると、翌年の九月、自分の経歴にかかわって、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)に所収される予定の「富本憲吉自伝」を口述し、内藤匡がそれを筆記します。そのなかにおいて富本は、無形文化財について、自説をこう語るのでした。

認定するのは政府の勝手ではありましょうが、この無形文化財というものについては、私は反対なのであります。……イミテーションを作るのは職人で、芸術家ではありません。図案(形も図案の一つです)ができて、自分のこしらえた絵具なりなんなりを十分使いこなして、創作するのが美術家であります。しかるに今の無形文化財を受けている人は創作力のない職工がだいぶおります

「この無形文化財というものについては、私は反対なのであります」という考えをもちながら、なぜ富本はその認定をあっさりと受け入れたのでしょうか。

重要無形文化財技術保持者(人間国宝)の認定から六年が立った一九六一(昭和三六)年の秋、今度は文化勲章が授与されることになりました。次の年に富本は、『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載します。そのなかで富本は、受章にかかわって、こう言及します。

 受章が決まって、最初に奈良県郡山中学の同級生で、大和の同村の出身である今村荒男君(元阪大学長)が電話をよこした。「えらいものをもらうんだね。僕が去年もらったのは文化功労年金で、君のやつの方が、ずっと上だよ。しっかりせにゃいかんね」ということだった。暗に、僕がまた「そんなものいらんよ」と断わるのではないかと心配してくれたのかもしれない

しかし富本は、この受章を断わることはありませんでした。一一月三日の文化の日、その授与式が皇居で行なわれ、その後受章者たちは、天皇陛下を囲んで昼食をともにし、歓談しました。そのとき富本は、「陶器の上に溶解度のちがう金と銀を重ねて置けるよう工夫した苦心談を披露」したのでした。

なぜ富本は、文化勲章を受け入れたのでしょうか。そしてなぜ、皇居での昼食会において、模様や色絵ではなく、はたまた量産陶器でもなく、金銀彩についての苦労話を語ったのでしょうか。

そこで本稿では、人間国宝の認定と文化勲章の受章にかかわって富本が語る「そんなものいらんよ」の内実につきまして、若干の考察を加えてみたいと思います。といいますのも、「そんなものいらんよ」のなかに、決して表には現われ出ることのない、芸術の世界に身を置く作家としての、あるいは、そこから離れた市井の私人としての、富本憲吉というひとりの人間の内面を形成する真の心根のようなものがあるのではないかと推量されるからです。以下に、模倣を拒絶する信念、心に宿す反権威主義、希求してやまない量産陶器といった富本の土台となる三つの立場を紹介したうえで、その立脚点からすれば、認定や受章は必ずしも自身の生きる必然性の線上には招き入れがたく、それでも、それを受け入れた背景には、目立たぬひとつの要因として、当時富本を陰で支えていた若き内助者の存在が意味をなしていたのではないかという仮説を構築し、それをもって本稿の結論としたいと思います。

一.富本が信じる模作の拒否

一九世紀イギリスのデザイナーで社会主義者であったウィリアム・モリスの思想と実践に触れた富本は、帰国の船の上で、日本にいるバーナード・リーチを訪問するために乗船していたレジー・ターヴィーというひとりの青年画家に出会います。富本は、ロンドン滞在中にすでにリーチのことを耳にしていました。リーチのこと、日本のこと、そしてイギリスのこと、話題に事欠くことはなく、航海中、富本とターヴィーの会話はおそらく弾んだにちがいありません。一九一〇(明治四三)年六月一五日、ふたりを乗せた三島丸が雨に煙る神戸港に錨を降ろすと、ふたりはそこで別れ、ターヴィーはリーチの待つ東京へ、富本は、とりあえず大阪の親戚の家へと急ぎました。その後富本とリーチのあいだで手紙のやり取りが交わされ、すぐにも富本は東京に上り、リーチが新築していた桜木町の自宅を訪ねます。帰国後の富本の活動は、こうした偶然の経緯から知り合ったバーナード・リーチと、そして、英国生活をともに経験し、一足先に帰朝していた南薫造――このふたりの新旧の友人との密接な交流のなかから、萌芽してゆくのでした。

帰国後の富本は、自ら「精神的な放浪生活」と形容するように、東京にも、生地の大和安堵村にも、居場所を見つけられない、荒廃した精神状態にありました。そうしたなか富本は、「模様雑感」と題して松屋製二百字詰め原稿用紙一四枚にまとめ、南薫造に送りました。最後に次の一文が添えられていました。「前略 十二号の新報か現代洋画かへ出したいと思ふて書きて見たが書きたい事ばかり多くてマトマラないで、これ位でよした……讀むだアト御返しに及ばない。憲吉 南様」。この「模様雑感」のうちに富本の苦悩の様子が色濃く反映されています。差し出し日は、一九一三(大正二)年一一月六日です。この年の夏、富本の身に大きな出来事が起こっていたのでした。それでは、この「模様雑感」を手掛かりにしながら、その出来事を再現してみたいと思います。以下は、冒頭の書き出しです。

 今年の一月二月は多く刺繍更紗等に日を過ごし三四五の三ヶ月は大部分陶器等の試作に暮らした……五月初旬それ等約百五拾点を大阪で公開して先ず一つの段落を付けた。その頃から一種の模様に對するふ案?(別に良い云ひ現し方を知らないからふ安と云ふ語を使ふ事にした)、厭やな例へば獨り旅びで宿は見つからず汽車は明朝迠出ないと云った様な気持に襲はれた……出来上がった作品を見て充分會得し得ぬ自分の心を考へ出すとモウ一個の製作も出来なくなった

製作に励めど、「不安」がよぎります。そうするうちに大和に暑い夏が巡ってきました。「今迠やって来た自分の模様を考へて見ると何むにもない。実に情け無い程自分から出たものが無いのに驚いた」。なぜなのだろうか、と自問します。すると思いは、学生時代へと遡行するのでした。

学生時代の事を思ひおこすと先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る……全体見たあとで好きな少し衣を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様と考へ[て]居た事もある……人も自分も随分平氣でそれをやった。近頃は一切そむな事が模様を造る人々にやられて居ないか、先づ自分を考へるとタマラなく恥かしい

こう書きながら富本は、学生だったころ、一九〇七(明治四〇)年の東京勧業博覧会に出品した《ステーヘンドグラツス圖案》のことが、脳裏に蘇ってきたにちがいありません。そのとき富本は文庫(現在の用語では図書館)に入り、『ザ・ステューディオ』を開いてゆくうちに、エドワード・F・ストレインジの「リヴァプール美術学校のニードルワーク」において使用されていた図版に心を動かされます。それは、フローレンス・レイヴァロックというリヴァプール美術学校の女子学生のうちわのデザインで、《アップリケと刺繍によるハンド・スクリーン》という題がつけられていました。富本は、この作品を下敷きにして、博覧会への出品作をつくることを決意します。こうして完成した作品が、《ステーヘンドグラツス圖案》です。富本にとっての事実上の処女作となるものでしたが、しかしそれは、明らかに「人の模様」から生まれた模倣作だったのでした。

それでは、最近作については、どうだったのでしょうか。これについても、そのとき富本の脳裏に去来したにちがいありません。一年前(一九一二年)にリーチの窯で鉢を製作した際に富本が選んだ絵柄について、リーチ自身次のように述懐しています。「彼は、梅の花と、有名な春の歌である『梅に鶯、ほけきょ!ほけきょ!とさえずる……』を選んだ……その後私は、初代乾山が二〇〇年前に同じこの春の歌を自分の壺のひとつに引用していたことを発見した」。これが正しいとすれば、事実上陶器の第一作となる《梅鶯模様菓子鉢》もまた、「人の模様」から生まれていたことになります。

さらには、この年(一九一三年)五月の大阪三越での「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」に向けて製作していたときのことです。「四五十の図案は画室の床に散ってあり、その棚には僕の持って居る支那陶器の標本がおき切れない程のって居る」というありようでした。床に広がる「四五十の図案」は「支那陶器の標本」から生み出されていたのでしょうか。

加えて、つい三箇月くらい前、東京の丸善で見つけた、チャールズ・J・ロウマックスの『風雅なる英国の古陶器』をリーチの家でふたりして興奮して読んだのは、一体何だったのでしょうか、無意識にもそこから自分の模様をつくろうとしていたのでしょうか――そうした思いも、このとき容赦なく富本を襲ったにちがいありません。いずれにせよ、過去を振り返り、こうしかできなかった「自分を考へるとタマラなく恥かしい」という自責の念に駆られていったのでした。

そのときの気持ちを、富本は南にこう告白します。「我れわれ日本人には初めて考へ出すと云ふ力が乏しい或は全然無いのかと云ふ事や……古い尊敬すべき模様以外に異ったものを、ある感動から作り得らるゝか又その造ったものを施す可き工藝品との関係が如何だろふなどと云ふ考へが無茶苦茶に頭の中に踊り廻る様に感じた」10。「初めて考へ出すと云ふ力」とか「ある感動から作り得らるゝ……もの」とかいう言葉の使い方から判断して、既存の手本や権威に対する模倣や順応を超えた、まさしく独創性や個性といったような概念が、そのとき富本の頭のなかに浮かびつつあったものと思われます。それは、工芸における「近代的な自我」の発現としてみなすことができるかもしれません。

歴史や伝統に彩られた重厚な拘束服、異国や舶来に見受けられる目新しい流行服、土着の民間に伝えられてきた素朴な野良着――それらとは、どのように向き合えばよいのでしょうか、あるいは、それらに取って代わる、自分たちが普段に身につけるにふさわしい日常着は、どのようにして新たに造形されるべきなのでしょうか――このとき、改めて富本は、このような問いかけを自らに行なったにちがいありません。しかし、容易に解決のつく問題ではありませんでした。風が止まり、強い日差しだけが、富本の不安と苦悩に照り注いでいました。「一切の製作を止めて暗い台處から後庭に光る夏の日を見ながら以上の考へにつかれた自分は旅に出た」11。それは一九一三(大正二)年八月二〇日の出来事でした。

苦悩の末、家を出た富本は、沼津で下車し、知人宅を訪問したあと、足は箱根へと向かいました。そこには家族とともに避暑を楽しむバーナード・リーチが待っていました。リーチは、この時期箱根で過ごした夏を、こう振り返っています。「妻と私は、一九一一年から一九一三年までの三度の夏を箱根湖で過ごした。古びた村の水辺に建つ草ぶき屋根の田舎家を借り、そして、エンドウ豆の色に近い緑色で塗装され、一枚の縦長の帆をもつ小さなヨットも借り受けた……ひとりのときは、絵を描くか、あるいは、あちらこちらへとひたすらヨットを操って楽しんだ」12。富本は事前に自分の悩みをリーチに告げており、箱根訪問は、リーチの誘いによるものでした。

[自分の悩みを]リーチにも書いてやりました。リーチも「同感である。今自分は箱根に避暑しているから、やってこないか、二人で考えよう」というのです。そこで箱根に出かけて、十日ほどリーチと話したり、山に登ったり、湖で泳いだりしているうちに、とうとう決心がついたのです。決心というのは「模様から模様を作らない」ということです13

模様や装飾の製作にかかわって精神的に極度に追い詰められていた富本でしたが、箱根でのリーチとの交流をとおして、その絶望感も少しは和らぎ、「模様から模様を作らない」というひとつの大きな製作理念に到達するのでした。それは、それ以降の自らの歩みを厳しく戒め律する、まさしく、富本芸術の精神的指針となるものでした。のちに富本は、このように回想しています。

 「模樣より模樣を造る可からず。」

 此の句のためにわれは暑き日、寒き夕暮れ、大和川のほとりを、東に西に歩みつかれたるを記憶す14

「模様から模様を作らない」、あるいは「模樣より模樣を造る可からず」――この黄金句は、過去の模様や外国の模様を、手本にしたり、摸写したり、改変したりして自分の模様にしないことを意味します。裏を返せば、真に求められなければならない模様とは、自分の目だけを信じ、感動する心をもって直接植物や風景を観察し、ひたすら自分独りの手によって製作される模様にほかなりません。この地平に、富本は自己の製作の主導原理を見出し、それ以降、生涯を通じて富本が造形する作品の基調旋律となってゆくのでした。

富本はこのようにいっています。全き独創性と個性の追求といえます。

 私は私自身の模樣を見る時以下のことを念として取捨する。模樣から模樣を造らなかつたか、立派な古い模樣を踏臺として自分の模樣を造りその踏臺を人知れずなげ散らしてさも自分自身で創めた如く装うては居ぬか15

「立派な古い模樣を踏臺として自分の模樣を造らなかつたか」という基準の前には、他人の過去の模様の陳列品のごとき骨董は、工芸家には不要であり、危険でさえあります。富本は、骨董を麻薬に見立て、それを手本にしたり、それを模倣したりする行為を厳しく戒めます。

作家にとつて古物陶酔は皿に盛られた美味でそれを喰べるうちに僅少な毒が、たとへば阿片常習者の樣な病状を與へる。恐るべきではないか16

また富本は、言葉を変えて、骨董参照の弊害をこうも表現します。

 骨董の貝殻が工藝家の全身を包みこむ程恐る可き事はない。造るに容易であり、衆愚の眼に適切であり、喰ふにはたやすく、名聲を得る事も非常に早い。古いもの、特に古陶器を見る必要は大いにあるが、見てこれにつかまれぬ人は實に僅少である17

「見てこれ[古陶器]につかまれぬ人」になるためには、どのようにしたらよいのか。「或時は美しい幾十かの古い陶器を打ち破り棄て」さえしました。つまり、いっさい見ないことなのです。

 私はこれまで古いものをかなり見てきたが、その見たものを出來得る限り眞似ないことに全力をあげてきた。それでもその古いものがどこまでも私をワシヅカミにしてはなさない。私は自分の無力を歎きかなしみ、どうかしてそれから自由な身になつて仕事をつづけたいために、或時は美しい幾十かの古い陶器を打ち破り棄て、極くわづかな私の仕事の上での一歩をふみ出したことさへある18

またあるときは、「見てこれ[古陶器]につかまれぬ人」になるために、実際の作品だけではなく、そのような作品が掲載されている書物さえも、身近に置くことは危険であると思うこともありました。同じく一九三〇年代のはじめのころ富本は、自らを「現在一冊の書物を持たないと云ふ事を自慢して居る私」と形容しているのです19

もちろんのこと、他人の模様に影響を受けずに、全く独自の模様をつくるには、大きな苦しみが伴います。これから逃げることなく、何としてでもそれに耐え、新しい模様をつくらねばならぬ――これこそが、富本の模様にかかわる苦闘の内実だったのです。

「若し嚴重な意味で模樣を造らず、繰りかへしとつぎはぎで安心出來るなら、此の熱火に投げ入れられる樣な苦しみはないだろう」20。しかしながら、多くは安易な模様製作に流れ、富本のこうした主張もこうした苦しみも、理解する人はほとんどいません。「苦しみを知らない多くの人びとに、私の云はうとする處が如何に千萬言を費やしても解つて貰へる道理がないからよす、私は骨董を排斥する」21。そしてひたすら自分を鼓舞します。「新しく陶器を造り出す力、それは知識によつても古名作を數多く蔵された博物館によつてゞもない。……自分にほしいのは一圖に立派な新陶器を造り出す力」22なのです。こうして富本は、「立派な新陶器を造り出す力」の探索へと向かいます。得られた結論は――「眞正の藝術はその生活より湧き上つたものでなければならぬ事を私は堅く信じる」23というものでした。

富本は、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)の認定を受けるに際して、「図案(形も図案の一つです)ができて、自分のこしらえた絵具なりなんなりを十分使いこなして、創作するのが美術家であります。しかるに今の無形文化財を受けている人[のなかに]は創作力のない職工がだいぶおります」といっています。この言を信じ、その一方で、「模樣より模樣を造る可からず」という富本の絶対的信念の観点に立ってみるならば、「創作力のない職工」を多く含む重要無形文化財技術保持者の列に自らが加わることには、明らかに本人にとって、大いなる躊躇が横たわっていたものと考えられます。しかし実際には、それを辞退するほどの潔さはありませんでした。そこに何か、決して表面化されることのない、富本の秘された内側の動きの一端があったように感じ取ることができるのです。

二.富本が宿す反権威主義

富本憲吉が、大和の安堵村から東京の千歳村に転居したのが、一九二六(大正一五)年の秋、そしてアジア・太平洋戦争に敗戦するのが、一九四五(昭和二〇)年の夏。この間のことを、富本はこう振り返ります。「昭和元年から終戦まで東京で過ごした二十年は、社会の荒波にはもまれ、そのうえ美術界の喧騒の中に身を置いて多事多難であった」24

一九三五(昭和一〇)年の五月に、バーナード・リーチは帰国の途につきました。ちょうどその時期、帝国美術院の改組劇が幕を開け、富本は、不本意ながらも、その劇のなかへと巻き込まれてゆくのです。一九三五(昭和一〇)年五月二九日の『東京朝日新聞』(夕刊)は、「帝國美術院改組 けふ閣議決定 院長には清水博士」の見出しのもと、次のような内容を伝えています。

定例閣議は二十八日午前十時十五分から首相官邸で開かれたが既報の帝國美術院の改組斷行に關する「帝國美術院官制制定の件」「美術研究所官制制定の件」は閣議劈頭松田文相より提議された、先づ松田文相は帝國美術院の由來を説き時代に副はぬ同美術院の宿弊について事例を挙げて説明、文部當局は……従来美術院會員は卅名であつたのを五十に擴大し美術界の實力のある新人、巨星を集め刷新の實を挙げたいと説明、文部省案の改革案を付議決定した25

この松田源治文部大臣による帝国美術院の改組は、表向きは、会員の定数を三〇から五〇に拡大し、在野から人材を求めることにありましたが、意味するところは、美術領域の国家による統制の強化でした。これにより旧帝国美術院は自然消滅し、このとき、四九名(一名欠員)の新会員が発表されます。すべての旧会員はそのまま新会員に任命されたうえで、新たに帝展以外の在野の団体から新会員が選ばれました。四九名の内訳は、日本画二〇名、洋画一四名、彫刻九名、工芸六名で、他方、所属団体の構成は、多くは帝展会員でしたが、院展同人や二科会員、それ以外の会派も若干含まれ、国画会からは、梅原龍三郎と富本憲吉のふたりが新会員となりました。

富本は、当時を振り返って、晩年にこのように書いています。

 このときいっしょに、私も民間の工芸を代表して芸術 ママ [美術]院会員となった。ところが工芸は定員が五、六人で、あとからはいったのは私一人、それも、四〇代という最若年で、在野にあって一人わが道を歩いてきた私が、急に会員として乗り込んできたので、前からの連中にとっては歯車にはさまった石のような違和感があったにちがいない26

そしてさらに、帝国美術院や、帝国美術院が主催する帝展にあって、当時いかに乱脈や情実が横行していたのかについても、憤慨を交えて、こう述べています。

 私にしても、当時の帝展や芸術 ママ 院の聞きしにまさる乱脈ぶりには、あきれざるをえなかった。たとえば、文部省で無鑑査を選ぶということがあった。その人選を文部省から芸術 ママ 院に諮問してきたが、そのとき、帝展入選何回以上という線で決めようというのが大方の旧会員の意見であった。……私はまた別に意見があった。……

 だが、このような意見はまったくかえりみられなかった。……ところが、いざフタをあけてみると、どうだろう。そこには、さらに驚くべき現象が起こっていた。無鑑査に選ばれたのは、みな芸術 ママ 院会員の息子とか養子とか、血筋につながるものばかりだったのである。……私はただただ、ぼう然とするばかりだったのであった。……

 いったい、官展グループには美術の本質的価値とは、なんの関係もないはずの序列がいくつも設けられ、まるで目に見えぬ肩章が、いつも両肩に置かれてあるようなぐあいだった。……私は、こんなところにいたのでは、とても責任をもって後進を指導することのできないという感じを年とともに深く胸に刻みつけられていったのだった27

「美術の本質的価値とは、なんの関係もない」そうした血縁と階級が主として支配する美術の旧世界は、富本にとって許しがたい、最も嫌悪すべきものでした。富本だけではなく、それぞれの立場と考えから、この改組に疑問や不満をもつ会員が多く存在し、紛糾は続きます。結局、第一回の新帝展はその年の秋には開催できずに、年が改まった一九三六(昭和一一)年の春まで持ち越されました。展覧会が終わると、紛糾は会員の辞意表明へと発展します。六月一三日の『東京朝日新聞』は、「當局不信頼の爆弾的聲明」という見出し記事のなかで、和田英作、川合玉堂、鈴木清方、横山大観、梅原龍三郎、前田青頓、平櫛田中、富本憲吉を含む一四名の連名をもって帝国美術院会員辞任に関する声明書が発表されたことを報じています28

しかし、富本の意のある方向へと進むどころか、「挙国一致体制」の美名のもとに、さらに大同団結は強化されてゆきました。翌年の一九三七(昭和一二)年六月二四日の『東京朝日新聞』には、「帝國藝術院誕生す 七十二會員づらり 偉觀・新象牙の塔 美術騒動も一段落」の見出しが躍ります。記事によれば、この帝国芸術院は、梅原龍三郎や富本憲吉を含む、既存の帝国美術院の会員四六名は辞令を用いずに自動的に会員となり、新たに「文芸」一六名、「音楽」四名、「能楽」二名、「建築」二名、「書道」二名を加えた計七二名の新会員によって発足し、官制および新会員の氏名が二四日の官報で公布される運びとなったのでした29

このとき、これまでの帝国美術院展覧会(帝展)は再び文部省の主催下に置かれ、新たな「文展」として改編されてゆきます。同年(一九三七年)の七月二七日の『東京朝日新聞』には、「美術の秋・生みの悩み 文展審査員決る 藝術院會員も参加させて 堂々の五十六名の陣容」という見出し記事とともに、日本画、洋画、彫刻、工芸の四部門の審査員の名前が、富本憲吉の名前を含めて、一覧表として挙がっています。富本にとっては、おそらく迷惑千万といったところだったにちがいありません。

この時期、このように官の力には服従させられ、老獪な策士芸術家には思いのままに操られる――まさしく砂を噛むような日々だったのではないでしょうか。そうしたなか、東京美術学校の改革が進んでいました。『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』によると、「昭和十九年五月、文部省は突如本校改革を断行し、校長および教官の更迭を行なった。これは、明治三十一年の所謂美校騒動以来の大きな改革であった」30。この改革の流れのなかにあって、一九四四(昭和一九)年五月二九日、東京美術学校は、結城素明、六角紫水、朝倉文夫を含む九名の教授の依頼免本官と富本憲吉、安井曾太郎、梅原龍三郎を含む七名の教授任命を文部大臣に上申しました。教授就任にあたって、富本は、「私は教育に携るなどその任でないかも知れぬ。一陶工としての生活が全生命であり、それすら満足に果たせない始末なので、一應御斷りしたのであるが、情勢は一私事に拘泥する秋でもなし、私として兼々圖案といふものに對して考へてゐたこともあるので御引受した次第である」31と、述べています。

富本が美術学校の教授に任命された翌月(一九四四年六月)、B29型長距離爆撃機による本土空襲がはじまり、一一月には、東京がはじめて爆撃に見舞われます。一九四五(昭和二〇)年に入ると、戦局はさらに悪化の一途をたどり、三月一〇日、焼夷弾一九万個の投下により約十万人が焼死します。東京大空襲です。そうしたなか、三月二三日の『東京朝日新聞』は、「神鷲へ陶畫集献納」の見出しをつけて、このような記事を掲載しました。

帝国藝術院會員富本憲吉氏はわが陸海特別攻撃隊神鷲の盡忠精神に感激、丹精こめて描いた日本の花々の陶畫を特攻隊宿舎に贈るため、各十枚一組の陶畫集をこのほど陸海軍大臣に献納した32

自分が教える生徒と同じ年ごろの特別攻撃隊員が国のため若くして南の海に散ってゆく姿が、いたたまれない思いに富本を駆り立てていったものと推量されます。

同年四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦しました。八月一五日、終戦のこの日を、富本は、美術学校所蔵の美術品の疎開先である岐阜県の飛騨高山で迎えました。

終戦後にただちに富本がとった行動は、帝国芸術院会員の辞任と東京美術学校教授の退任でした。「敗戦でどんでん返しになった世の中に、従来、帝国芸術院と称していたものがそのまま存続するのはおかしい」33という考えから、「終戦の翌月、つまり九月に芸術院会員辞任の届けを提出した」34。しかし、この辞意の申し出は、清水澄芸術院長に撤回させられてしまい、翌年(一九四六年)春に開催された戦後最初の日展の工芸部門の審査長を務めたのち、改めて「五月に再び私は芸術院へ辞表を出した。このときは、同時に美術学校(いまの芸大)の教授の辞表も出した」35。こうして富本は、すべての公職から身を引いたのでした。間接的といえども、戦争に加担したという思いから、自らその責任をとる行為だったものと考えられます。富本の回想はこう続きます。「かくて国画会も、芸術院も関係がなくなりました。また美術学校の方も辞表を出しておきましたのが大分たって聞き届けられました。そこで六十 ママ 歳の ママ 月に私はただ一人大和に向かい、子供の時から育った家に帰りました」36

民芸運動に対峙し、国画会工芸部の運営に苦しめられ、それに加えて、国家管理の芸術と教育に嫌悪の思いを募らせてきた、約二〇年に及ぶ富本の多事多難な東京生活は、このようにして、敗戦に伴い終了しました。東京での生活を短く総括するならば、それは、過去から続く因習的な価値、人間の魂を蹂躙する権力、そして、見せかけの旧弊な権威、等々が支配する体制に対する闘いだったということができます。このことは、製作における模作の否定と対をなすものであり、その根底には、近代的な反抗精神が横たわっていました。ここに、英国から帰国後の精神的放浪生活を出発点として、それ以降も一貫して変わることのない、富本が宿す近代人 モダニスト としての決然たる姿勢を見ることができるような気がします。

富本は、一九四六(昭和二一)年の六月、還暦を迎えた年に、東京の窯を閉じて、独り大和の生家に帰ります。それから一五年後の一九六一(昭和三六)年の秋、富本に文化勲章が授与されます。すでに引用で示していますように、そのとき郡山中学校の同級生の今村荒男から電話がありました。この電話のことを富本は、「暗に、僕がまた『そんなものいらんよ』と断わるのではないかと心配してくれたのかもしれない」と、述懐しています。富本は、戦後ただちに東京美術学校を辞職し、同じく帝国芸術院からも身を引きました。さらに富本の反権威主義は、数年後の重要無形文化財技術保持者の認定に際しての難色へとつながってゆきます。そうした一連の行動を知る人たちにとっては、今回の文化勲章も、「そんなものいらんよ」と、素っ気なく断わるのではないかとの予感があったものと推量されます。しかし富本は、辞退することはありませんでした。文化勲章という重みに押されたのでしょうか。それを受け入れるということは、見方によっては、これまでの信念と生き方を曲げてしまうような行為につながりかねません。そこに何か、決して表面化されることのない、富本の秘された内側の動きの一端があったように感じ取ることができるのです。

三.富本が目指す量産陶器

富本憲吉と尾竹一枝は、一九一四(大正三)年の一〇月二七日に、日比谷の大神宮神殿で白滝幾之助夫妻を仲人として結婚式を挙げました。そのとき憲吉は二八歳、一枝は二一歳でした。年が明けると、二月二〇日から三月一日まで、美術店田中屋において富本は、「富本憲吉氏陶器及素描展覧會」を開催します37。これが、数箇月間の東京での新婚生活中に開かれた唯一の展覧会でした。昨年末から試作していたと思われる本焼きが、このとき並べられた可能性もあります。『模樣集』の刊行とあわせて、本窯を築くための準備も、このようにして整えられていったのでした。そして『美術新報』三月号は、その「消息」欄において富本の動向をこう報じました。

富本憲吉氏 ・・・・・  三月五日郷里に歸り本窯を築く、同氏著「模樣集」第一は京橋竹川町田中屋美術店より發賣せられたり38

かくして一九一五(大正四)年の早春、いよいよ大和の安堵村に場を移し、本宅近くの土地に自宅と本窯を築き、憲吉と一枝の新しい生活がスタートしたのでした。

それから二年が立ちました。一九一七(大正六)年の『美術』四月号は、「富本憲吉君の藝術」と題した特集を組み、七人の執筆者によって憲吉の人物評や作品評を掲載します。総じて内容は、憲吉の高潔な性格と作風とを讃えるものでした。

この特集「富本憲吉君の藝術」には、さらにもう一編、妻である一枝の「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」も、あわせて掲載されています。そのなかで一枝は、夫の正直で悲壮なまでの日々の工場 こうば での奮闘ぶりを紹介する一方で、憲吉をこう讃美するのでした。

 模樣について、製陶について、今日の彼を導いたものは、矢張り細心の研究であつた。……恰度良心と思想が一致であらねばならなぬ如に、彼の藝術は良心と仕事が常に一致して働いている。……彼は、彼の模様が、未だに人々に理解されず、少しの注意も拂つてゐない今の世に對して決していゝ感情をもつてゐない。……惡辣な手段を常使してゐる者と、正直な方法で仕事をしてゐるものとが、何故もつとはつきり區別されぬだろう。どうして彼の模樣がもつとよく人々等に解つてくれぬか。……總てこんな事が彼に孤獨の感じを起させてゆく、彼の道は寂しい、しかも、苦しい。けれど、それは總ての「先驅者」の運命ではなかつたろうか。いきほい彼は、沈黙で心の感激を抑えてゐる。……これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう。けれ共、不幸にして、そんな時期は、まだまだめぐつて來まい。……何故、正直な方法によつて勝つことがこんなに困難なのか、私は眞當に考へずにはおれなくなる39

一枝は、憲吉の芸術に「良心と仕事」の一致を見ています。さらに加えて、「これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう」と、量産へ向けての将来の展望も記します。この時期一枝は、憲吉の最大かつ最良の理解者でした。そして、この一枝のエッセイのあとの次の頁に、実は憲吉の「工房より」が続くのです。そのなかで憲吉は、自分の念願をこう書きつけます。

 大仕掛に安いものを澤山造るには可なりの資金が必要であります、私は今その資金を何うすれば良いか、せめて陶器だけでも何うにかして見たいと思ひますが私の貧しい財産では一寸出來兼ねます。若し私の望みが少しでも達せられて安い陶器で私の考案模樣になつたものが澤山市場に現はれて今ある俗極まる普通陶器と値でも質でゞも戰つて行ける日があるならば大變に面白いと思ひます。私は今、日夜その事を思ひつゞけます40

「大仕掛に安いものを澤山造るには」、当然のこととして、空間、設備、材料、工人などの問題が控えます。今後資金の問題を何とか克服して、自分の模様になる美しくも安価な陶器を普通の人びとの生活のために量産したい――これが本窯を安堵の地に築くにあたっての憲吉の望みであり、目標でもありました。しかし一枝が書くように、「何故、正直な方法によつて勝つことがこんなに困難なのか」、眼前には高い障壁が連なっていました。それは、モダニストの「先驅者」にとって避けて通ることのできない障壁でした。本格的に作陶の道に入ったこの時期、まさに「聖戦」と呼ぶにふさわしい、それへ向けて苦闘がはじまろうとしていたのです。

一部の裕福で地位のある人のために少数の陶器を焼くのではなく、多くの普通の人びとのために安価で実用的な陶器を量産することが、美術家としての、そして同時にモダニストとしての富本の内面に秘められた、このときの最終の目標でした。そのことをはっきりと例証する言葉が、最晩年の一九六二(昭和三七)年二月に『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」に残されています。それは、次の一文です。

 私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを広く大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた41

富本の「安価な複製」への強い意欲は、若いころに接した「ウイリアム・モリスの書いたもの」から発せられていました。しかし、それから幾多の歳月が流れるも、いまだに美術家のあいだにあって、そうした意識が十分に醸成されない現状を見るにつけ、富本は不満を引きずり、自らも「大いに責任を感じる」境地のなかにありました。以下は、同じく最晩年に、後進に向けて書かれた「わが陶器造り」のなかの一文です。

美術家にいたっては食器のような安価品は自分ら上等な美術品を焼くものには別個の問題としているようにみえる。しかし公衆の日常用陶器が少しでもよくなり、少なくとも堕落の一途をたどりゆくのを問題外としておいてそれでいいのだろうか。私は大いに責任を感じる。一品の高価品を焼いて国宝生まれたりと宣伝するよりは数万の日常品が少しでもその標準を上げることに力を尽す人のいないのは実に不思議といわねばならない42

以上のふたつの引用文から明らかなように、富本がその生涯にあって身を置いた「陶器造り」の世界で目指したことは、「一品の高価品を焼いて国宝生まれたり」とする「純正美術に近い」作品の製作ではなく、「公衆の日常用陶器が少しでもよくなり」「その標準を上げることに」心血が注がれた、「応用美術とか工業美術とかいう」領域に属する量産品への挑戦だったのでした。ここに、美術家としての高い社会的倫理観を読み取ることができます。亡くなる一年前に書かれた『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」を、富本は以下の一文で結びます。

 若いころからの私の念願であった“手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう”という考えは、いろいろな事情で思うにまかせないが、いま私は一つの試みをしている。

 それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといった日用雑記を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである。……すでに市販もされて、なかなか好評だということだが、価格が私の意図するほど安くないのが残念である。だが、これも、まだ緒についたばかりだから、やがて、コストダウンの方法が見つかるかもしれない43

「手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう」というのが、一生を通じての富本が念願するところであり、「やがて、コストダウンの方法が見つかるかもしれない」というのが、量産陶器のさらなる発展へ向けての富本の期待だったのでした。

この文が書かれた数箇月前の一九六一(昭和三六)年の秋に、富本に文化勲章が授与されています。天皇陛下を囲む昼食の歓談のなかで富本は、すでに引用で示していますように、「陶器の上に溶解度のちがう金と銀を重ねて置けるよう工夫した苦心談を披露」しました。それにしてもなぜ、手掛けてまだわずか数年と立っていないような金銀彩の陶技を話題にしたのでしょうか。裏を返せば、なぜ生涯にわたって苦闘し続けてきた量産陶器にかかわって、その苦心談を披露しなかったのでしょうか。そこに何か、決して表面化されることのない、富本の秘された内側の動きの一端があったように感じ取ることができるのです。

おわりに

戦争が終わると富本は筆を執り、「工藝家と圖案權」と題する一文を『美術及工藝』に寄稿しました。前置きとして、まず憲吉は、次のようにいいます。「日本は、敗戦によつて有史以來はじめての社會革新をなし、民主々義國家として、文化國家として再出發の途上にある。この時に當つて工藝にたづさはるものとして我々も亦、幾多重要な問題をもち、その解決を全く新しい立場に於いてしなければならぬことは當然である」44。そして本題に入り、作家の独創性と良心の重要性を説きます。「先づ、最も考へたいことは、工藝の指導性に就いて、それと不可分の關係にある工藝作家の獨創性と作家的良心の問題だと思う」45。具体的には、それはどのようなことであろうか。「そのためには、作家として有名な陶工が、自らロクロせず、自ら窯を焚くことも知らず、多くの工人弟子の手になつたものを自作の如く稱して高價にその作品を賈るといふボス的やりかたへの反省、實に重大なことは圖案權の問題だと思ふ。……従來日本の作家は人のつくつた模樣圖案を平氣で借用し……いさゝかの恥も感じないできた。それを自他共にゆるして通用してきたこと自體奇怪千萬なことだつた。……換言すれば圖案權がないから、よき圖案家の發生もなかつたと言へよう。その結果として、藝術作品はもとより、一般國 ママ が使ふ日常諸雜器につまらないものが多くなるわけだ」46

この文で示されているとおり、富本は、「自らロクロせず、自ら窯を焚くことも知らず、多くの工人弟子の手になつたものを自作の如く稱して高價にその作品を賈る」作家や「人のつくつた模樣圖案を平氣で借用し……いさゝかの恥も感じない」作家を批判します。重要無形文化財技術保持者(人間国宝)の認定を受諾することは、そうした作家と同じ列に並ぶことを意味します。しかし、富本は、工芸作家としての矜持を貫くことはありませんでした。 富本自身は、インタヴィューに答えて、こんな言葉を残しています。

 「無形文化財」なんていう言葉は、うつろで無神経で薄汚なくて、使いたくない言葉だが、とにかくその「無形文化財」の指定をうけてから、急に、顔を写真にとられたり絵にかかれたりするようになって、「何だか先が長くないから今のうちに、とでもいうあんばいにひがんで考えられますよ」47

他方、文化勲章についてはどうでしょう。一九六一年一〇月一九日の『朝日新聞』に目を向けると、「川端康成氏ら六人 文化勲章の受章者きまる」という見出し記事のなかにあって、一〇名の選考委員の名前が公表されています。そのなかには、倉敷レイヨン社長の大原総一郎の名前が含まれていました。

授与式から一〇日が立った一一月一三日、大原美術館に新たに設けられた陶器館の開所式が行なわれました。その日の様子を、大原総一郎は、「大原美術館 陶器館開設の日に」と題して綴り、『民藝』に寄稿しています。以下は、その一部です。

 去る十一月十三日、来日中のリーチさんと富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司の四氏を倉敷に迎え、大原美術館の新しい陶器館の開館式を行いました。……この陶器館は、去年の終り頃着工を決意し、今年の十一月頃を目指して完成させるよう計画したものでした。建物は昔の米倉です。……八つの土蔵は……その中の北側にある三棟が陶器館となり……一号館は浜田さん、二号館の二階は富本さん、階下はリーチさん、三号館は河井さんの作品にあてられており、現在では、二百点ばかり陳列されています。これらの陶器は今から三十年近く前に、父が好んで蒐めたものに端を発して現在に及んでいます48

この文から察すれば、富本の文化勲章の受章と大原美術館の陶器館の開設は、大原総一郎の陶器に対する熱い思いが主導した、ひとつの連続する出来事だった可能性が残されます。一般論として推量されることは、推薦者や審査員の立場や思惑に鑑みて、受章や受勲を断われない場合もあるのではないかということです。富本の文化勲章受章も、その例に当てはまるのかもしれません。

次は、富本自身の言葉です。

わたしは戦後の翌年、芸術院を飛び出しているほど官僚的なものがきらいで、わたしへの受賞は相当難航したのではないか。第一勲章をもらいに行く正装がないので困ったね……49

さらに、こういた言葉も残っています。

 東京美術学校へも奈良県からはわたしが最初、まして後年セトモノヤになったときには親類全体が反対したものだ。一昨年文化勲章を受けたとき、これで大和の連中がどう思うかと考えたりした50

文化勲章の授与のあとに開催されて天皇陛下を囲む昼食の歓談のなかで、すでに引用で示していますように、富本は、「陶器の上に溶解度のちがう金と銀を重ねて置けるよう工夫した苦心談を披露」しています。なぜ、生涯と通じて格闘してきた量産陶器、つまりは、富本のいう「一般國民が使ふ日常諸雜器」の問題を話題として持ち出さなかったのでしょうか。この点につきまして、ここで推論を働かせてみたいと思います。

文化勲章受章の半年前になりますが、一九六一(昭和三六)年五月、東京でのロータリークラブの第五二回国際大会の開催にあわせて、日本橋の高島屋八階ホールにて、「富本憲吉作陶五十年記念展」が開催されました。内藤匡は、この展覧会図録に「作陶五〇年記念展について」の一文を寄稿し、そのなかで富本のこれまでの作風の変遷にかかわって、次のように書き添えます。

 焼物のいろいろの技法を自由に使いこなすばかりでなく、先生の更らに優れた点は美しい新鮮な模様を作られた事だ。昔の図案を改良したり、それにヒントを得たりしたのでなく、先生自身で自然を観察して、新らしく創り出したものばかりを使われた。そこで、大正の時代から先生は“模様の作家”として知られた。やがて“色絵の作家”と歌われ、“金銀の作家”と讃えられるようになったが、やはり私は、“模様の作家”の方が先生を最もよく表わしているように思う51

大和時代の作風を記憶している内藤のような人にとっては、「模樣より模樣を造る可からず」のもと、苦闘にあえぐ富本の手から産み落とされた、風景や植物を模様とする染付けが忘れられない作品群だったのかもしれません。しかし、それにしても、この内藤の文には、量産陶器についての記述がありません。完全にその姿がかき消されているのです。そのことは、量産陶器の問題は、芸術や文化の評価の観点からすれば、取るに足りない、口に出すのもはばかられる、そんな類の話題でしかないことを例証しています。富本が、宮中で金銀彩を話題にしたのは、こうした、周囲を強く支配していた既存の慣例を構成する価値観に倣ったためだったのではないかと推量されます。

しかし富本にとって、前例踏襲のこの作法は、不本意なものであったにちがいありません。あるいは、ひょっとしたら後悔していたかもしれません。富本の英国留学中の日常の勉強の場は、サウス・ケンジントン博物館を改名したヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でした。富本は、こういいます。「繪と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンジントン博物館で、その考へで並べてある列品によつて、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります」52。つまり、繪と更紗とのあいだには、芸術的な価値においていっさいの差はないということを、この博物館の陳列の手法から富本は学んでいたのでした。またある箇所では、こうも述べています。「繪よりも彫刻よりも、日常自分等の實際生活に近くある工藝品を、ナイガシロにされて居る事に腹が立つ」53。これらの主張をさらに一歩進めるならば、一品製作の陶器と量産される陶器のあいだにも、価値の上下はないことになります。富本は、同じ人間がつくり出すもののあいだに人為的な垣根を設けて差別することを、決して許そうとしない立場に立つ芸術家でした。その立場を堅持しようとするならば、金銀彩よりも量産陶器の方が、富本の真の心に近い話題だったものと思われます。

結論的にいえば、富本が、「そんなものいらんよ」といって重要無形文化財技術保持者(人間国宝)の認定も文化勲章の授与も断わらなかったのには、隠された理由があり、それは、内助者の石田寿枝の存在がかかわっていたのではないかということです。石田寿枝につきましては、前作の「第七話 ウィリアム・モリスと富本憲吉――妻以外の女性の存在と作品」におきまして詳述していますので、ここでは繰り返しませんが、富本は、珍しく私的なことにかかわって、こんなエピソードを披歴しています。

 さて、[文化勲章を]受章してみると、忙しくなったのには驚いた。新聞が来る、テレビが来る、雑誌にものを書けというし、断わるのに難儀した。しばらくは、食事さえ落ち着いてやれず、仕事も手につかないで困った。「これではメシの食いあげだ」といって笑ったが、家では‶受章貧乏″という新語をつくったほどである54

富本は、石田とともに生活をはじめると、三〇歳近く年の離れたこの内助者の将来に思いを馳せるようになったものと考えられます。そのために蓄財し、遺すべく家の建設に取りかかろうとしていました。ちょうどその時期の文化勲章の受賞です。そのため、富本と石田のふたりは、‶受章貧乏″には、実際本当に頭を抱えたものと想像されます。しかしその一方で、「文化勲章受章作家」をいう肩書を得て、今後、それが誘因となって作品の高値化が発生するのではないかという思いが、おそらくふたりの胸の内にあったであろうことも容易に想像されます。

文化勲章受章の翌年、「京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三」にふたりにとっての新しい住まいが完成し、狭い借家を出て、そこへ移ります。しかし、富本がこの新居で暮らすのは、一年ほどの実に短いものでした。次の年の一九六三(昭和三八)年六月八日、七七歳の誕生日の三日後、富本は帰らぬ人となります。富本にとって、文化勲章受章も、新築された家同様に、石田寿枝に遺すためだったのかもしれません。富本憲吉の晩年において、もし陶工としてのこれまでの矜持を全面的に貫くことができなかったとすれば、それは、富本の内面に宿る、夫として妻を扶養しなければならないとする伝統的な価値観が勝っていたためだったということになるでしょう。ここに富本の秘された内側の動きの一端があったように感じられます。決して資料に基づく完全なる可視化はできないのですが――。

参考までに付け加えるならば、「文化勲章の人びと(5)富本憲吉氏」のなかで、『朝日新聞』は、こう書いています。

 作陶五十年‶人間国宝″から文化勲章へと、最高の栄誉に輝く富本憲吉氏は官僚ぎらいで有名である。……

 生まれは奈良県生駒郡。先祖は近くの法隆寺の寺ザムライで城主筒井順慶の一族だったが、江戸時代には恵まれずにしょう(庄)屋になった家柄[。]「野武士の血が流れているんですよ」と笑う55

他方、奈良女子高等師範学校の学生のころから富本家に出入りし、身近に富本の作陶と見ていた社会評論家の丸岡秀子は、「葬式の形式を一切排されたし。死後、直ちに、そのまま木綿布を以て全身を巻き、火葬すべし。墓所をつくるべからず」という内容の富本の遺言を紹介したうえで、こう書きます。

 憲吉にとっては、文化勲章も、陶芸家としての名声も、京都美術大学学長としての地位も、精魂こめた制作陶器の一個の価値に及ぶものではなかったのだろう。彼の記念碑 モニュメント は、ただ作品だけであって、それ以外は行路病者とさえ同列におかれるべきものだと、自ら断定した56

野武士は、最後まで野武士たろうとしました。野に生まれ、野で戦い、野に死する、これが疑いもなく、富本憲吉というひとりの人間の生き方だったのでした。国宝としてあがめられ、勲章が授けられようとしたとき、その野武士が「そんなものいらんよ」という言葉を吐き捨てたとしても、それは道理にかなったことであり、引き受けたことは、ある意味で、その野武士の弱さを見る思いがします。

以下は、富本憲吉の弟子で、のちに東京芸術大学の教授、さらには学長職に就くことになる藤本能道の言葉です。

 先生は六十歳にして、それまでに得た地位も何もかも捨て再出発しようとするような気の強い反面、よく愚痴もいわれ「私は嘆くことの多い人間だ」と笑われ「私には墓はいらぬ。死んでも拝んだりするような事はして欲しくない。作品が墓だ」と晩年、常々口ぐせのように言われた。自分の行った行為を、作品を見、感じることによって正当な評価を望むだけで、結果としての地位や伝説のような論議は困るとの教えのように感じられた57

富本の愚痴のなかに、人間国宝の認定と文化勲章の受賞のことが含まれていたかもしれません。野の世界と官の世界はおそらく別物でしょう。富本にとっては「官にひざまずく」思いがしていたにちがいありません。その野武士が、晩年愛したのが、石田寿枝という、名もない野草のような女性だったことを、最後に明記しておきたいと思います。

以上、この「おわりに」をもちまして、本稿「富本憲吉にとっての人間国宝認定と文化勲章受章の意味」の結論といたします。

続きまして、蛇足に近いものになりますが、最後の最後として、エドワード・バーン=ジョウンズがバロネット(準男爵)の位階を受けたことにかかわる周囲の反応を紹介しておきたいと思います。

一八九二年、再びW・E・クラッドストンが首相に返り咲きます。バーン=ジョウンズがバロネットになるのは、その二年後のことです。それについて、伝記作家のフィオナ・マッカーシーは、自著の『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』において、以下のように書き記しています。ネッドとは、エドワード・バーン=ジョウンズの通称で、ジェイニーは、ウィリアム・モリスの夫人であるジェインの愛称です。

滞在地のビアリッツからグラッドストンは、「見事なる芸術の高きへの到達により獲得されることになる高位という認識のうえに立って」この栄典を受けるかどうかを尋ねる手紙を彼に書いた。芸術労働者たちのあいだでは、幾分驚きが漂った。ウィリアム・ブレイク・リッチモンドの娘のヘレンは、日記にこう書いた。エドワード・バーン=ジョウンズ氏がバロネットになるというニュースにびっくり仰天。次は何」。ジェイニーもまた、どぎもを抜かれた。「これは全くもって、すべてがあまりにも滑稽なことです。これは、大笑いの種です……。」ネッドは、この栄誉についてウィリアム・ダ・モーガンに、こうジョークを飛ばした。「モリス夫人を喜ばせるためにこの高慢たる名声を受け入れたことを、私はあなたにお伝えしなければならないと思います。尊師たるモリス夫人に、そろそろお手紙を差し上げることができればと望んでいます」58

それではそのとき、ネッドとモリスのあいだには、何か特別な感情が流れたのでしょうか。マッカーシーの記述は、以下のように続きます。

しかしネッドは、自らこのニュースをモリスに伝えることは、あえてしなかった。……バーン=ジョウンズとモリスのあいだの微妙は関係のなかにあって、バロネットの爵位は、強打となって付け加えられた59

モリスは、最晩年には議会制を信じる立場に傾きますが、基本的には無政府主義的な考えをもっていました。こうした政治的信条からすれば、同じ人間の活動でありながらも傲慢にも選別をし、しかも序列をつけて叙勲を行なう国家的制度には、同意しがたいものがあったにちがいありません。モリスは、多くを語っていませんが、ネッドがバロネットになったことに対しては、長年積み重ねてきたふたりの友情にひびが入ることはなかったにしても、おそらく心穏やかではなかったでしょう。その立場を知るネッドも、逆の意味で、心中複雑なものがあったものと推量されます。しかし、結果的にネッドはそれを受け入れ、それ以降、サー・エドワード・バーン=ジョウンズという敬称でもって呼ばれるようになります。同じく妻のジョージアーナ・バーン=ジョウンズも、本人が望んでいたかどうかは別にして、レイディー・バーン=ジョウンズとして、敬意のもとにその扱いを受けることになるのでした。

いま一度、富本憲吉へともどります。憲吉の文化勲章の受章には、別居中であった戸籍上の妻の一枝は、猛反対したと伝えられています。もちろん金泥や銀泥の使用についても――。「何であんた、そんなものをもらうんですか」といった声が聞こえてきそうです。安堵村での築窯以来、最も身近で最も厳しい批評家として憲吉を支えてきた人間の目には、憲吉の受章受諾は、陶工としての道義を守り抜き、誇りをもって歩んできたふたりの道程に反するものとして映ったにちがいありません。宮殿での文化勲章親授式に憲吉は、富本一枝も石田寿枝も同伴させることはなく、単独での出席の道を選びました。

憲吉が、望むとおりに野武士として野に咲き、墓をもたずして野に散っていれば、その評価はどうなっていたでしょうか。文化勲章の重みに勝るとも劣らない、いやそれ以上に原頭に降り注ぐ日の光りを浴びて、全き一貫性のもとに高潔と孤高のなかに生き抜いた陶工として、別の意味でその名を歴史に刻んでいただろうと感じるのは、私だけでしょうか。野人としての生涯を貫き通したかどうか、モリスと同じ思想信条を最後まで堅持しえたかどうかという観点から見るならば、最晩年の憲吉は、想像するに事情があり苦渋に満ちあふれるものがあったにせよ、本来持ち合わせていた意から逸脱し、俗世的な行動をとったことになります。単純にその点だけを基準に判断するならば、どうやら憲吉は、モリスの性格よりもネッドのそれに近かったのかもしれません。

さらに最後にもう一言。モリスはオクスフォード大学の詩学教授の誘いに対しても、桂冠詩人の地位打診に対しても、素知らぬ顔をして、やり過ごしたのでした。

(二〇二二年一二月)

(1)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、79頁。口述されたのは、1956年9月12日。出版は、富本死去六年後の1969年。

(2)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、228頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]

(3)「陛下と文化勲章受章者の午後」『朝日新聞』、1961年11月4日、15頁。

(4)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、77頁。

(5)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、74頁。

(6)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(7)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、75頁。

(8)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 57.

(9)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、61頁。

(10)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、75-76頁。

(11)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、76頁

(12)Bernard Leach, op. cit., p. 68.

(13)前掲『色絵磁器〈富本憲吉〉』、74-75頁。

(14)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、104頁。

(15)同『製陶餘録』、33頁。

(16)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、108頁。

(17)前掲『製陶餘録』、37頁。

(18)同『製陶餘録』、129頁。

(19)同『製陶餘録』、165頁。

(20)前掲『窯邊雜記』、125頁。

(21)前掲『製陶餘録』、106頁。

(22)前掲『窯邊雜記』、109頁。

(23)同『窯邊雜記』、47頁。

(24)前掲『私の履歴書』(文化人6)、214頁。

(25)『東京朝日新聞』、1935年5月29日、1頁。

(26)前掲『私の履歴書』(文化人6)、212頁。

(27)同『私の履歴書』(文化人6)、212-213頁。

(28)『東京朝日新聞』、1936年6月13日、11頁。

(29)『東京朝日新聞』、1937年6月24日、2頁。

(30)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』ぎょうせい、1997年、959頁。

(31)富本憲吉「圖案力の養成」『美術』第1巻第7号、1944年8月、8頁。

(32)『東京朝日新聞』、1945年3月23日、2頁。

(33)前掲『私の履歴書』(文化人6)、222頁。

(34)同『私の履歴書』(文化人6)、223頁。

(35)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(36)前掲「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)、78頁。

(37)『美術新報』第14巻第5号、1915年、32頁を参照のこと。

(38)同『美術新報』、同頁。

(39)富本一枝「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』第1巻第6号、1917年、28-29頁。

(40)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。

(41)前掲『私の履歴書』(文化人6)、219頁。

(42)『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、43頁。

(43)前掲『私の履歴書』(文化人6)、229頁。

(44)富本憲吉「工藝家と圖案權」『美術及工藝』第1巻第1号、1946年8月、8頁。

(45)同「工藝家と圖案權」『美術及工藝』、同頁。

(46)同「工藝家と圖案權」『美術及工藝』、8-9頁。

(47)『東京朝日新聞』(夕刊)「一筆対談(72)」、1956年12月10日、1頁。

(48)大原総一郎「大原美術館 陶器館開設の日に」『民藝』第109号、1962年1月号、8-9頁。

(49)『東京朝日新聞』、1961年10月19日、11頁。

(50)『東京朝日新聞』(夕刊)「新・人國紀(128)」、1963年2月15日、2頁。

(51)『富本憲吉作陶五十年記念展』(展覧会図録/国立近代美術館資料)、1961年、ノンブルなし。

(52)富本憲吉「工藝品に關する手記より(上)」『美術新報』第11巻第6号、1912年、8頁。

(53)富本憲吉「半農藝術家より(手紙)」『美術新報』第12巻第6号、1913年、29頁。

(54)前掲『私の履歴書』(文化人6)、228頁。

(55)『東京朝日新聞』「文化勲章の人びと(5)富本憲吉氏」、1961年10月25日、9頁。

(56)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、121頁。

(57)藤本能道「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、167頁。

(58)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. 633.

(59)Ibid.