『大日本女性史 母系制の研究』に入るに先立って、高群は、これまで日本においてどのように女性史研究が進められてきていたのか、先行研究の状況を調べたものと思われます。それについての高群の認識はこうでした。
外国には、たとえばエンゲルスの「家族私有財産および国家の起源」とか、ベーベルの「婦人論」などの、いわば女性解放の聖典ともいっていいものがあったが、わが国にはそれらしい学問の名に値するものといっては一つもなかった。 (中略) もっとも、たとえば河田嗣郎の「家族制度の発達」(明治四二)「婦人問題」(同四三)とか、堺利彦の「男女争闘史」(大正九)とかは、主として前記の外国文献等によった尊敬すべき編著であるが、その日本史ないしは日本女性史的観察となると幼稚というほかないものであった1。
そこで高群は、このように考えました。
日本では、女性解放の思想や運動は、明治以降顕著になったが、女性自体の被圧迫史ないし生活史については、ほとんどなんらの研究努力もはらわれていなかった。歴史を無視して現実の把握ないし未来の展望が可能であろうか。私はそう考えた。 (中略) そこで私は、日本女性史をテーマとし、「女性史」という新しい学問の一分野の開拓――つまり、女性史学の樹立というようなことをかんがえた2。
次に高群は、「新しい学問の一分野の開拓」に向かうにあたって、その全体像を構想したにちがいありません。これについて高群は、一九三八(昭和一三)年に発表する『大日本女性史 母系制の研究』の巻頭の「例言」のなかで、以下のように、それを全五巻で構成したい旨の抱負を述べています。驚くべきことに、このような早い段階において高群は、自身の「女性史学」の全構想を示したのでした。ここに「高群史学」の全貌が姿を現わすことになります。
一、私が書かんとする女性史は、若しすべての事情が之を許すならば、次の五巻としたい考へである。 1 母系制の研究 2 招婿婚の研究 3 通史古代 国初より大化迄 4 同 近代 改新より幕末迄 5 同 現代 維新より現在迄3
本人も語っていますように、前半の二著が特殊研究、後半の三つの書物が通史研究ということになるでしょうか。実に壮大な計画です。しかし、ほぼこのとおりに、執筆が進んでゆきました。以下は、その実際の刊行書籍の一覧です。
(1)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938(昭和13)年6月。 (2)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄辯會講談社、1953(昭和28)年1月。 (3)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 (4)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 (5)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 (6)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが一九五八(昭和三三)年ですので、「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけて全巻完結することになります。
こうした「高群史学」の構想のもと、第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』の完成へ向けての第一歩が、ここに踏み出されたのでした。
「森の家」への引っ越しから五箇月が過ぎたこの年(一九三一年)の一二月、『大百科事典』の編集のために、招かれて憲三が平凡社に復帰します。しかし、四年後の一九三五(昭和一〇)年の一〇月、『大百科事典』は完成したものの、経営不振に陥った平凡社は、突如として社員全員に解雇を通告します。これにより夫は失職するのでした。それは収入が途絶えることを意味し、ふたりにとって大きな打撃となりました。そのとき夫婦のあいだで、このような取り決めがなされました。
1 あと三年で『母系制の研究』を脱稿すること。 2 現在の所持金千円で二ヵ年の家計を賄うこと。 3 研究費用には当分私の雑文稿料をもって当てる。 4 とりあえず女性人名辞書をまとめる4。
家計逼迫のおり、おそらく憲三の発案であったものと思われますが、この夫婦は、『大日本女性史 母系制の研究』の刊行に先立って、取り急ぎ、『大日本女性人名辭書』を世に出すことを考えました。次の引用は、それについての、逸枝による後年の説明です。「Kの協力」がいかなるものであったのかは、具体的に述べられていませんが、「印税収入が期待される」ことは、間違いなかったようです。
年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。私のこれまでの主たる作業は、江戸時代以前の一切の歴史文献を片はしから読破して、系譜および婚姻記事を抽出することが中心であったが、副次的に史上の女性人名をカードにとっていた。いまそれを拡張活用して人名辞書としてまとめたら、今後の長い自己の仕事にとっても何彼と便利であるし、何より出版による印税収入が期待されるのだった5。
こうして一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。
高群は、女性を五二の項目に分類しています。「皇祖」「御宇」「神話」にはじまり、「大奥女中」「遊女」「美人」などを挟み、最後は、「婚姻」「母系」の項目で終わります。なかに「社會運動」の項目があり、ここには、官憲の手で最近虐殺されたアナーキストの「伊藤野枝」も入っています。また、「記者」の項目には、有島武郎と無理心中を図った「波多野あき子」も収録されていました。生没年は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀年法(つまり皇紀)によって表記されています。たとえば、「伊藤野枝」の場合は「二五五五-二五八三」、「波多野あき子」の生没年は「二五五四-二五八三」です。他方、分類索引で注目されてよいのは、明治末以来関心が高まっていた、当時の用語法に従えば「男女」や「おめ」(今日的表記によれば性的少数者)は、項目として採用されることはありませんでした。高群が使用した史料に、それを思わせる女性についての記述がなかったのか、あるいは、あったとしても、何らかの理由があって高群の関心がそれへと向かわなかったのか、それはわかりません。
巻末の「跋」は、「黨地に引籠りましてより足掛六年、其間専念致して参りました著述の一部を『大日本女性人名辭書』と題しまして、刊行の運びとなりました事に就きましては、勿論私一人の力の能する處では無く、内にありては家主の庇護、指導に基づく所多く、外にあつては先輩知友の御聲援、御教導に歸すべき事は申すまでも御座いません」6という言葉ではじまります。そして高群は、再び最後に、「石川ふき、今井邦子、嘉悦孝子、金子しげり、久布白落實、新妻伊都子、平塚らいてう、守屋東、安井哲、與謝野晶子、吉岡彌生」の諸氏の実名を挙げて、謝辞を述べます。
「夫の庇護と指導」が念頭にあったことは十分にうかがわれますが、それにしても、なぜいきなり冒頭に夫への謝辞を書いたのか、最後にまとめてもよかったのではないか、そう思うと、少し違和感がないわけではありませんが、それにもまして、夫の憲三のことを「家主」と呼んでいることに、注目すべきかもしれません。『婦人戦線』の「綱領」のひとつが、「われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。標語 男性清算!」7であったことを想起するならば、そこには歴然とした溝が認められます。しかしながら、そうした「男性清算」にかかわる逸枝の思いは、もはや過去のものであり、いまや敬愛すべき「家主」の座に憲三がいることが、これにより明らかになるのです。単に時局にあわせた仮の姿として「良妻賢母」を演じて見せているとは考えにくく、夫に対する逸枝の真なる思いがそこには表現されていたものと推量されます。しかしながら、前章の「高群逸枝の『婦人戦線』の廃刊と『森の家』での研究開始」のなかでも引用していますように、石牟礼道子は、「『大日本女性人名辞典( ママ ) 』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」8と、指摘しています。もし、本文のみならず、この跋文にも憲三の手が入っているとしたら、どうでしょう。これまでの記述はすべて、振り出しにもどることになります。
そうでないことを前提にすれば、この「跋」は次の語句で結ばれており、そこに、高群の思いがにじみ出ているとみなしてもいいかもしれません。
なほ此書の甚だ不備である事に就きましては、今後の補正のため大方の皆様の御示教、御援助を得たく、それと供に前記「大日本女性史」も第一巻として「日本母系制の研究」を支障なき限り近く脱稿の筈で御座いますゆゑ、これが刊行の上は何卒御併讀たまわらんことをも、序でを以て御願ひ申上げて置く次第で御座います9。
ここに、「母系制の研究」の発刊がまぢかいことが予告されていました。この予告は、自分たちの出自と来歴を「歴史学」というかたちにおいてはじめて知ることになる胸躍る予感を、多くの女性たちに与えたにちがいありません。すでに、一九三一(昭和六)年に『婦人戦線』は廃刊となり、翌一九三二(昭和七)年には『女人藝術』も同じく廃刊となっていました。かつての「プロ派」と「ブル派」の対立も、「アナ派」と「ボル派」の抗争もおおかた姿を消していました。ここに、婦人解放運動にかかわる女性たちが一様に手を結び、ひとつになって立ち上がる時代的な契機が潜んでいたように思われます。つまり、対立や抗争の焦点が、時局により失われていたのです。
こうして「高群逸枝著作後援会」が発足しました。呼びかけたのは、平塚らいてうと『東京朝日新聞』の竹中繁子でした。高群は、こう書きます。「この会は事務所を竹中さんのところに置き寄付および著作の普及等を目的として昭和十二年一月に発足し、その後私はすくなからぬ便宜をあたえられることになったのだった」10。
呼びかけに応じ、発起人となった人は、六五名でした。ここに、女性たちの麗しいきずなの力強さのようなものが現われているように感じられますので、少し長くなりますが、「後援会」発足から一年半後に発刊された『大日本女性史 母系制の研究』の「跋」から引用して、以下に再録しておきます。
本書の基礎的準備を終る頃、豫期しなかつた家主の失業に遭遇し、一時前途暗黒の状態に立到つた時、圖らずも私の爲めに著作後援會を作つて、苦境を救けられたのは友人諸氏の高義である。會(高群逸枝著作後援會)には、 市川房枝氏 生田花世氏 今井邦子氏 石原清子氏 原信子氏 長谷川時雨氏 新妻伊都子氏 帆足みゆき氏 甫守ふみ氏 細川武子氏 星野愛氏 徳富猪一郎氏 富本一枝氏 岡田禎子氏 奥むめお氏 加藤タカ氏 嘉悦孝氏 河崎なつ氏 金子茂氏 神近市子氏 ガントレット恒子氏 吉岡彌生氏 横山美智子氏 高楠順次郎氏 高島平三郎氏 竹田菊氏 竹中繁氏 竹内茂代氏 中河幹子氏 武藤千世子氏 村上秀子氏 村岡花子氏 野上彌生子氏 窪川稲子氏 久布白落實氏 山川菊榮氏 山本杉氏 丸岡秀子氏 松岡久子氏 松田解子氏 深尾須磨子氏 福島四郎氏 福島貞子氏 藤田たき氏 高良富子氏 圓地文子氏 佐藤俊子氏 木田開氏 木内キヤウ氏 北川千代氏 三輪田元道氏 三谷民子氏 志垣寛氏 正田淑子氏 島中雄三氏 島中雄作氏 下田次郎氏 下中彌三郎氏 白井喬二氏 平林たい子氏 平田のぶ氏 平塚明氏 平井恒氏 守屋東氏 千本木道氏 の方々が發起人とおなり下さつた。本書の漸く成るを得たのも一にこれ等の方々及び會に芳志をお寄せ下さつた二百餘家の賜物であることを感謝し、なほ最後迄お見届け賜はらんことを冀ふ11。
この「高群逸枝著作後援会」からの支援金と『大日本女性人名辭書』からの印税収入とが追い風となって、逸枝と憲三は何とか苦境を脱しました。それは、「森の家」での生活が安定することだけでなく、高群の女性史研究の第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』がいよいよ完成へと向かうことをも意味するのでした。
「森の家」において研究生活に入ったころを回顧して、高群は、以下のように書いています。
この家に移り住んだ昭和六年ごろから、満州事変、犬養首相暗殺、労働者、社会主義者、学者の受難が相ついでいて、日本は反動亡国への道を一気に突き進みつつあったが、この事件[二・二六事件]で、それはもはや決定的なものとなった。 私はこのような祖国の危機、恩師の物故、Kの失業等を苦難の序幕としながらも、自分に与えられた女性史学樹立への一途を是が非でも進まねばならない、せっぱつまった境遇に置かれた12。
一方、執筆当時、「母系制」について高群は、このように考えていました。
母系制度というのは、家系が母方によって相続される制度で、原始社会が母系であったか父系であったかについては、久しく論議されたところであるが、こんにちでは母系説が学会で有力とみられている。マグレナン、モルガン等の説では、古代の雑婚時代には、人は母あることを知っても父あることは知らない。これが母系の淵源であるというのである。……そこで問題は、わが日本に母系制度の時代があったか否かということである。このことはこれまで男性史家の研究の手がまだまわりかねていて、女性史家のために未開拓のまま残されている処女地である13。
母系制を明確化する手立ては、どのように親から子へ継承がなされたか、その系譜を明らかにする研究と、婚姻がどのような制度として成り立っていたのか、その仕組みを明らかにする研究とから成り立つというのが、高群の考えるところでした。高群は、女性史研究の全構想(全五巻)のうち、第一巻の「母系制の研究」において日本における原始母系制の存在を発掘し、続く第二巻の「招婿婚の研究」において、そこにおける婚姻制の実態を解明しようとしたのでした。もしそのことが、明確化されることになれば、日本の国家の成り立ちとその後の中央統制には、高群の言葉を借りれば、「女性の秘められた犠牲と奉仕」とが、その基盤として存在していたことになります。高群は、この自らが構築した仮説を自らの手で実証すべく、まずは初手として「母系制の研究」へと入ってゆくのでした。
高群は、研究の過程にあって、本人の言葉によれば、「天啓」に遭遇します。それは、古代系譜に残る多祖現象の発見でした。高群は、天からの啓示である「一瞬のひらめき」について、このように、回顧しています。
一瞬のひらめき――原始の母系共同体の女たちのもとに、招婿婚で他から男たちが妻問いして、そこに、多くの子が生まれて育ったとなると、その母系共同体には、同時に、またはつぎつぎに多くの他氏の子孫が生まれそだち、一方において父系認識がたかまってくると、氏称には固有母系を名乗りながら、父系である招婿出自によって多祖現象をおこすのであり、それは母系共同体解体の過程をあらわしているものではないかとする考えであった14。
こうして「母系制の研究」の核心部分が生み出されたのでした。
しかしその一方で、「高群逸枝著作後援会」からの温かい支援の手とは逆に、別の手が背後に存在し、強大な暗雲となって立ち込めていたのでした。一九三八(昭和一三)年四月一〇日の日記に、こう記されています。
昨日、特高検閲からの出頭通知書を駐在お巡りさん伝達。きょうKが代わって世田谷警察署を訪ねると、警視庁の著述家調査ということで、代人ではいけないということだったが、Kは当人は外出不可能だといい、けっきょく用件をすまして帰ってきたという。 これは学問、思想弾圧の深刻化を意味するものだろう。 この夜おそく、『母系制の研究』脱稿。表題を加えて千二百枚か15。
それから二箇月後の一九三八(昭和一三)年六月に、『大日本女性史 母系制の研究』が、前書の『大日本女性人名辭書』と同じ書肆の厚生閣から世に出ました。副題の「母系制の研究」の背表紙の文字は、あたかも人目を避けるかのように、目立たぬ小さな文字で組まれています。一九四一(昭和一六)年七月刊行の再版は、初版と変わりありませんでしたが、戦争が終わってしばらく立った、一九四八(昭和二三)年一一月の訂版三版において、主題と副題が入れ替わり、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』へと改題されるのでした。初版と再版の『大日本女性史 母系制の研究』の題簽は吉岡彌生の揮毫によるものでした。しかし、訂版三版の題字は活字で組まれ、しかも、副題の「大日本女性史第一巻」には、ほとんど目につかないほどの小さな活字が用いられました。戦前にあっては、「大日本女性史」が強調され、戦後にあっては、「母系制の研究」が前面に出ます。戦争を挟む前後の際立つ特徴をこの書題は担うことになったのです。
この著作も、前書と同じく、六四九頁に及ぶ浩瀚なものでした。高群は、「例言」のなかで、研究の方法、本書の構成、および研究の意義について述べます。ここに、その核心部分を抜き出してみます。
私の研究は、古文献に埋蔵されたる母系的遺産を發掘組織化し、これを系譜と婚姻の両面より観察したものである。……私の取つた方法は、これを(一)多祖の研究、(二)複氏の研究、(三)諸姓の研究、(四)賜氏の研究に大別し得るが、一言に要約すれば、すべてを多祖説とすることができる。この多祖説こそ、私が學界に問はんとするものである。……この研究は、次の三つの意義を含んでゐる。其一は、上代における家族性の問題であり、他の一は、母系的遺習が國家の中央統制として、之を比較的平和裡に進捗せしめた隠れたる要因をなしている事實である。……このことは第三に、わが國民の血の歸一を物語るものである。女性史の第一歩において、すでに母系の犠牲と支持による國家の統制乃一家族化といふ必然の結論に達した私は、以後の發展において恐らくは女性の秘められた犠牲と奉仕との絶大なる貢献を顕彰することが出來るであらう16。
ここに言及されている「多祖説」と「わが國民の血の歸一」とが、本書の主要な結論に相当します。この本は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」も、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」、そして「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられています。「第三章 吾等の収穫」のなかで、高群は、第一節で「多祖説」を、そして第二節で「血の歸一」を語ります。「血の歸一」について、その一部を引用して、以下に示します。高群の『大日本女性史 母系制の研究』の結論部分として、最も重要な箇所であると思われます。
此世のこと皆正し、母系より父系への推移は黨然の發展である。母系は保守的排他的な血族團體であり、父系は進歩的抱擁的婚姻團體である。社會の推移はすべて此線に沿つて流れるであらう。 ここに吾等は、偉大なる日本父系の進歩的態度――凡ゆる異族、蠻民等と進んで婚姻し、彼らを完全に自系下に結合し、國作り、氏作り、部作りをなしたこと、或いはまた、なさざるを得ない天與の事情にあつたことを限りなく喜ぶものである。 (中略) 氏姓の進化は云ひかへれば系譜の一姓化である。我國ではいかなる異族も歸化人も、その母系の犠牲と支持によつて系譜的に、明文的に、相率ゐて皇別化し、神別すを得た。すなはち、一姓化への方向に促進せられた。次に血の純化は前に述べた血の歸一をいふ。 これを要するに、系譜においては一姓化、血においては歸一、著者、これをもって、吾等の収穫の最後のものとする17。
このように高群は、本書の最後を結んでいますが、高群が没したのちに夫の憲三が編んだ『高群逸枝全集』の第一巻「母系制の研究」からは、この「第三章 吾等の収穫」は削除されており、もはや読むことはできません。憲三は、この巻の「解題/編者」のなかでこう書いています。
……この「母系制の研究」は最初の出版社厚生閣で三版まで重ね、後に講談社から厚生閣原版紙型による鉛版象嵌の手続きをもって新訂版(四版)が出た。 全集にはこの新訂版を収めた18。
この説明から判断しますと、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から刊行された新訂版(四版)において、すでに「第三章 吾等の収穫」は削除されていたことになります。事実、削除されていますし、さらに、奥付によりますと、本書は「新訂版(四版)」ではなく、「新版」という用語が使用されています。しかし、上の引用文の出典を示した注に続く次の注のなかにおいて具体的に述べていますように、実際には、一九五四(昭和二九)年に大日本雄弁会講談社から刊行された新訂版(四版)、すなわち新版に先立つ、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版において、すでに削除されていたのでした。なぜ削除されなければならなかったのでしょうか。当時の高群の思想のすべてが、この部分に投影されており、戦後の価値観とは相容れない内容だったからではないかと推量されます。であれば、本書の真の結論、つまりは「吾等の収穫」というのは、一体何だったのかということになります。別の言葉に置き換えるならば、「多祖説」と「わが國民の血の歸一」を抜きにして、この『大日本女性史 母系制の研究』は、本論と結論のあいだで齟齬を来たすことなく、一貫した論理的安定性のもとに成立しうるのかという疑問が残るのです19。
『大日本女性史 母系制の研究』の序文は、高群にとって同郷人であり、「皇室中心以外には一億一心の団結はあり得ないとする信念」20をもつ徳富蘇峰の手にゆだねられました。高群は回顧します。「徳富蘇峰の序文が、私の『母系制の研究』を発禁から護ってくれたことは疑いなかった」21。思いもよらず、結果的に「護ってくれた」のか、そうではなく、そうなることを期待して執筆の依頼が徳富になされたのか、これもまた、検討の余地を今後に残すのかもしれません。いずれにしましても、活字ではなく、毛筆の書になるこの序文も、最終的に、『高群逸枝全集』第一巻の「母系制の研究」から姿を消すことになるのでした。
一方、巻末には、「紹介辭」が収録されました。これは、「高群逸枝著作後援会」作成の近刊案内にかかわる印刷物に寄せられていた推薦文を再録したものでした。執筆したのは、麻生正藏、市川房枝、尾崎行雄、金子しげり、下田次郎、下中彌三郎、高嶋米峰、竹内茂代、竹田菊、新妻伊都子、福島四郎、三木清、吉岡彌生、らいてうの各氏でした。
そのなかのひとりである下中彌三郎は、以下の引用のとおりに書いています。かつて平凡社時代に下中は、高群の長編詩『東京は熱病にかゝつてゐる』に、「讀んで下さい――序に代へて」を寄稿しており、高群にとっても、また、平凡社での勤務歴のある夫の橋本にとっても、下中とは旧知の間柄でした。
高群さんを私はよく知つている。……不遇なる民間學徒の例に洩れず、貧しい中から研鑽を積まれるのは、想像以上に骨が折れることと思ふ。 此人の潑刺たる祖國認識と祖国愛は、かつての長篇詩や論文の何れの部分にも脈搏つてをる。高群さんが、日本女性史を作ることは黨然である22。
哲学者である三木清の文は、このようなものでした。
久しく待望されてゐた日本女性史が愈々世に出ることになつたのは悦ばしい。これは日本の一女性が日本の全女性のために建てる記念碑である。 殊にその第一巻は母系制といふ最も興味深いテーマを取扱ひ、學界の宿題に解答を與へてゐる。 家族制度は今日思想上においても重要な問題になつてゐるのであるが、この篤學な著者の多年の苦心の研究に成る業績は凡ての人によつて顧みられねればならぬものと信ずる23。
のちに高群は、唯一この三木の推薦文を、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」のなかにおいて全文引用し、紹介することになります。晩年に至るまでこの一文は、高群の心を支えていたものと思われます。
らいてうも、以下のような、全身から湧き出る讃美の言葉を、「畏友、高群逸枝」へ贈ります。
畏友、高群逸枝女史、久しき以前より我が國に眞の女性史なきを慨嘆し、昭和五年、大發願を起し、爾來その研究、編纂に全生活を没入し、獨力、奮勵、今日に至つたことは、すでに世に知られてゐます。一昨年、女性史に先立ち、その副産物「大日本女性人名辭書」を上梓、朝野を驚嘆させましたが、今回いよいよ、その本願である女性史、第一巻、出版の運びとなりましたことは、慶賀の極みで、女史を知り、女史の胸中を察しうるわたくしは、まことに感慨無量、言うべき辭を見出しません。 女性自身、女性の立場から書いた女性史が、いかに意義あるものであるか、今更言ふまでもありませんが、特に女性の中の女性、高群女史その人によつて書かれたことを一層のよろこびとし、こゝに二重の意義を見出すものであります24。
らいてうは、これに続く、「早く、早く本の顔を見たく、その日が待たれます」の一語でもって、自身の「紹介辭」を結ぶのでした。この本が手もとに届くや、すぐにも目を通したことでしょう。そしておそらく、らいてうの頬には、感涙が伝わったにちがいありません。以下は、短いながらも、らいてうによる回想の一節です。
高群さんのこの研究[「母系制の研究」「招婿婚の研究」その他]によって、明治四四年「青鞜」の創刊に際して、わたくしの内部から噴きこぼれるようにして叫ばれた「元始、女性は太陽であった」という言葉に学問的な実証が与えられることになったのです25。
『大日本女性史 母系制の研究』は、あくまでの学術の書として書かれたものです。しかも、いまだ日本でなされることのなかった研究内容であるだけに、高群にとっては、学会からの反応が気になるところであったものと思われます。高群は、この研究を発表することによって、まさしく具体的に、学術世界と接点を結ぶようになりました。こう高群は書いています。
私はこの書の刊行によって、いわば直接的な若干の知己を恵まれることになった。穂積重遠博士(東大教授)、太田亮教授(立命館大)、柳田国男さん(民俗学)、喜田貞吉博士(東北大・京大)、穂積先生の紹介による、中川善之助教授(東北大)等がそれであり、ほかにも高島米峰(後の東洋大学長)、麻生正蔵(前日本女大校長)、相馬黒光(中村屋マダム)、尾崎行雄さん等の知遇をも受けることになった26。
しかしながら、高群の研究には、喜田、太田、柳田らの学説や見解にとって相容れない部分が含まれていました。高群は、個々の学者について、以下のように書き記しています。
当初喜田貞吉は、本書を『歴史地理』に紹介する意向を示しながらも、それが実現しなかったのは、「私の招婿出自説……に対して、仮冒説を主旨とされる喜田博士が困惑されたからではないか」27と、高群は推測しています。太田亮については、「単純に父系の視点から古系譜を解釈している」28太田の研究と本書とのあいだには、対立する点が多くあったことを認めています。高群は、こう振り返ります。
これらのことは後進学徒として避けがたいことで、とくに未開拓の女性史学の視点から当然従来のあらゆる学説を破って独自の学説を樹立せねばならない必至的な宿命にある以上、諸先輩の学恩は学恩としても、自説は率直に表明されねばならない。幸いに喜田さんも、太田さんも、最後まで私の研究に好意を寄せられたことは感謝にたえない29。
それでは、柳田国男については、どうだったのでしょうか。高群は、このときの柳田から送らてれきた手紙を紹介します。「あなたのような筆の力の大きい方に近世日本女性の辛苦を世に紹介していただきたい希望は切です。私のもつ資料は何でも利用に供します」30。しかし、招婿婚( しょうせいこん ) に関する資料の問い合わせについての柳田からの回答は、「招婿婚という語は私は賛成しません。私の『聟入考』をご覧になりましたらこのなかに私の意見かたっています」31というものでした。
ここで柳田がいっている「聟入考」とは、『母系制の研究』の刊行からさかのぼること九年前の一九二九(昭和四)年に岡書院から上梓されていた『三宅博士古希祝賀記念論文集』に所収されていた柳田の論文「聟入考――史學對民族學の一課題――」を指します。「聟( せい ) 」は「婿」の俗字です。「むこ」や「むすめの夫」を意味します。したがいまして、「聟入」は、聟に入る男性を主体とした用語で、「招婿」は、婿を招く女性を主体とした用語になります。立場が異なります。それについて、高群は、こう述べています。
お手紙のなかに、招婿婚の語に賛成できないとあるのは、柳田さんの母系制や母系婚を否定する考えかたから出ているもので、それは私とは根本的に異なる見解だった。だから後に私は『招婿婚の研究』で柳田学説を批判することになるが、これも学者としての私にとってはやむを得ないことだった32。
他方で高群は、当時の民法の概念を穂積重遠の著書『親族法』から学び、穂積が紹介した中川善之助からも、家族についての法制度にかかわって多くを学びました。
こうして、在野研究者、あるいは独立研究者としての見事なデビューを果たすと、高群は、次の第二巻「招婿婚の研究」に着手します。そこには、膨大な資料が横たわっていました。
第一に江戸期以前の全文献を対象とし、第二に考古、民俗、法制その他の隣接諸学から先人の報告等を対象とするものだった。その蒐集と消化が先決だった33。
そこで高群は、「以前からのやりかたに、さらに鉄のたがをはめた。自分に鉄の規律を課したのである。労働時間は一日平均十時間をくだらないこと。面会は原則として謝絶することが再確認された」34。かくして高群は、「鉄の規律」で身を固め、次の目標である「招婿婚の研究」の完成に向けて再出発するのでした。
その一方で、「森の家」の外に耳を向けると、自由や学問から大きくかけ離れた、そして、高群の幻の本の題名であった「強権に抗す」ことなどもはや許されない、軍靴の轟音がありました。こうして、『大日本女性史 母系制の研究』の再版が世に出て五箇月後の、一九四一(昭和一六)年一二月、日本はアジア・太平洋戦争へ突入するのでした。
(1)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、9-10頁。
(2)同『愛と孤独と』、9-10頁。
(3)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、1-2頁。
(4)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、256-257頁。
(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻、257頁。
(6)高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「跋」の1頁。
(7)『婦人戦線』第1巻第1号、1930年、婦人戦線社、4頁。
(8)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、356頁。
(9)前掲『大日本女性人名辭書』、「跋」の4頁。
(10)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、261頁。
(11)前掲『大日本女性史 母系制の研究』、「跋」の2-3頁。
(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、259頁。
(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻、263頁。
(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻、251頁。
(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻、271頁。
(16)前掲『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、2-3頁。
(17)同『大日本女性史 母系制の研究』、637-638頁。
(18)橋本憲三「解題/編者」『高群逸枝全集』第一巻/母系制の研究、理論社、1974年(第6刷)、1頁。
(19)ここで指摘しています、私が抱く疑問につきましては、本文に書くには冗長に過ぎ、読み手の迷惑になることに思いを致し、この場を利用して、愚考を承知のうえでの私見として述べるに止めさせていただきたいと思います。 本文においてすでに記述していますように、実際に『大日本女性史 母系制の研究』の「第三章 吾等の収穫」が削除されたのは、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から刊行された新訂版(四版)、すなわち新版に先立つ、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版においてでした。このことについて高群は、この改訂三版の「例言」のなかのひとつの項目において、このように触れていますので、以下に引用します。 一、本書は昭和一三年六月四日初版第一刷、一六年七月二〇日再刷、今回は第三刷である。第三刷は、初版第三篇の第三章を除きたるほか全體にわたつて若干の改訂を施したが、それは主として、たとへば「母系」といふ文字すらややもすれば伏字しなけらばならなかつた初版發行當時の社會状勢を顧慮するあまりなされた學術書にはふさわしからぬ贅語的表現を整理したのであつて、内容的變化はない。 高群は、ここにおいて、「初版第三篇の第三章を除きたる」事実については言及していますが、その理由については直接の明言を避け、「初版發行當時の社會状勢」をほのめかすのでした。畢竟この示唆は、「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」は、自身の意に反して、「初版發行當時の社會状勢」にやむなく身をゆだねて書いたまでのことであって、ここで抹消しようと、それによって大きな「内容的變化はない」、ということを含意することになります。しかしながら、本文においても引用していますように、事実、『大日本女性史 母系制の研究』初版の「例言」のなかで、高群は、こう書いています。 私の研究は、古文献に埋蔵されたる母系的遺産を發掘組織化し、これを系譜と婚姻の両面より観察したものである。……一言に要約すれば、すべてを多祖説とすることができる。この多祖説こそ、私が學界に問はんとするものである。……この研究は、次の三つの意義を含んでゐる。其一は、上代における家族性の問題であり、他の一は、母系的遺習が國家の中央統制として、之を比較的平和裡に進捗せしめた隠れたる要因をなしている事實である。……このことは第三に、わが國民の血の歸一を物語るものである。 ここから判断しますと、「第一節 多祖説」と「第二節 血の歸一」とから構成される「第三章 吾等の収穫」は、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)の中心となる考察と結論の部分であり、同時に、本書最大の「収穫」の部分である以上、「初版發行當時の社會状勢」に従って不本意ながらも書いてしまったことを示唆する高群の言辞は、どうしても説得力を欠くものといわざるを得ません。裏を返せば、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)を書いた戦前の高群は、「多祖説」と「血の歸一」を本心から信ずる歴史家であり思想家であったのではないかということです。したがいまして、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版において「第三章 吾等の収穫」を削除せざるを得なかった高群は、歴史家として思想家として、大いなる敗北に見舞われたことになったものと思われます。 しかしこのとき味わった「苦杯」は、逆の見方に立てば、戦前思想から脱却し、戦後思想のなかでこれから生きてゆこうとする、高群にとっての内なる一種の契りを意味する、ささやかなる「祝杯」だったかもしれません。といいますのも、初版(一九三八年刊)および再版(一九四一年刊)にみられる『大日本女性史 母系制の研究』が、この改訂三版において、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』に改題され、研究内容を直接言い表わした「母系制の研究」を前面に出すことができたからです。初版と再版の「大日本女性史」の一文字に、おそらく高群は、「皇国女性の歴史」ないしは「大日本帝国女子の歴史」を含意させていたものと思われます。しかし改訂三版において、こうして完全に主題と副題が入れ替わるのです。もっとも、「大日本女性史」の文字はいまだ残されましたが、それは、もはや目立たぬ小さな活字で組まれていました。ここに高群の、戦前思想からの解放の一歩を読み解くことができます。この改訂三版において、書名の変更、「第三章 吾等の収穫」の抹消、それだけではなく、巻頭の徳富蘇峰の「序文」、および巻末の「紹介辭」もまた、削除されたのでした。 そのことは、次のことを意味します。編集をした橋本憲三の説明に従うならば、『高群逸枝全集』第一巻の「母系制の研究」を上梓するに当たっては、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から刊行された新版が使われました。したがいまして、『大日本女性史 母系制の研究』の初版ないしは再版に立ち返らない限り、本書の結論の一部である「吾等の収穫」も、徳富蘇峰の「序文」も、一四名の支持者たちが書いた「紹介辭」も、残念ながら、もはやこの「全集」第一巻からは、うかがい知ることができない状況がつくり出されてしまったのでした。 他方、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から刊行された新版の跋文には、従来のそれへの加除が認められます。加えて、改訂三版までの跋文においては「高群逸枝著作後援会」の発起人として六五名の名前が挙げられていましたが、新版の「跋」におきましては二〇八人の名が挙がっています。しかしながら、新版の跋文において、そうした加筆訂正への言及はありません。それどころか、執筆日が「昭和十三年春」となっており、初版と再版にみられた皇紀による表記である「二五九八年五月」、改訂三版にみられた元号による表記である「昭和十三年五月」と、表記の違いはあるものの、実質上同じ年月になっています。したがって、新版をはじめて手にする読者にあっては、新版の「跋」をもって初版の「跋」と思い違いをする人も多かったのではないかという危惧も残ります。 いずれにしましても、初版(一九三八年、厚生閣刊)と再版(一九四一年、厚生閣刊)の『大日本女性史 母系制の研究』、続く戦後の改訂三版(一九四八年、恒星社厚生閣刊)の『母系制の研究 大日本女性史第一巻』――こうした先行するどの版のなかにも認められた「大日本女性史」という文字は、新版(一九五四年、大日本雄辯會講談社刊)に至って完全に消し去られ、新たに単独の『母系制の研究』という書名に変わったのでした。このときすでに、初版発行から戦争を挟み一六年の歳月が流れていました。かくして書名改変の道程をたどりながら、やっとこの新版において高群の戦前思想の払拭は完結したものと推量されます。そして、この系譜の最後に、その恒久的とどめとして、夫の橋本憲三が『高群逸枝全集』第一巻「母系制の研究」(一九六六年、理論社)を編むことになるのです。もっとも、その巻の末尾に付された「解題/編者」において、書題が改変されてきたこの間の経緯についても、「第三篇 結論」のなかの「第三章 吾等の収穫」が削除されなければならなかった事情についても、沈黙が貫かれ、その真相が明かされることはありませんでした。書名改変の歴史的系譜の最前列に立ついま、あえてこの場に及んで過ぎた昔の事象に言及する必要もなく、編集者の立場からすれば当然の処置だったのかもしれません。「解題/編者」において、橋本は、こう書きます。 全集の収録にあたっては、全巻についていえることであるが、保存原稿やその後の著者の書き入れ等を通じて校正がなされた。ほとんど単純な誤記誤植の類で論旨にかかわるものではない。 しかしながら、著者や編集者の対極にある読者や研究者の側に立てば、その言辞は、高群と橋本の夫婦が宿しもつある種の不誠実さを例証するものでしかないように思われます。 こうして、かつて改訂三版において短い削除表明はなされていたというものの、新たに「全集」を編集するに当たってのいかなる経緯説明をも抜きにしたまま、「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」が抹消された『高群逸枝全集』第一巻「母系制の研究」が刊行されたことによって、隠されてしまった負の遺産がここに最終的に確定したのでした。皇国史観が強く支配する戦前と、生まれ変わった新生日本の戦後とを必死に生き抜いた一学徒と、それを支えた夫たる編集者のやむにやまれぬ現実的な対応の仕方であったであろうことは十分に推察されうるものの、それでもあえていえば、その編集手法は、「全集」が本来的に持ち合わせなければならない信頼性を結果的に毀損しかねない、できれば避けなければならない「禁じ手」だったのではないでしょうか。 以上は、最初に初版を手にし、次に「全集」に目を向け、そこでふたつの版の齟齬に気づいた私は、再版、改訂三版、新版にたどり着き、その過程で個人的にもつに至った印象を書き綴ったものです。読者のみなさまにはわずらわしい、異例の長い注記になってしまいましたが、自身の記憶が遠ざかる前に、ここに忘備録として書き記しておくことにしました。なお、初版、再版、改訂三版、および「全集」は、熊本県立図書館に所蔵されているものを使い、新版につきましては、国立国会図書館のデジタルコレクション(個人送信)を閲覧いたしました。 最後の最後に、ここまで駄文を書き連ねたついでに、同郷のよしみという一方的な私の思いのもと、考えられうる最大の敬愛を込めて、逸枝さんと憲三さんに一筆啓上させていただきます。 逸枝さんに申し上げます。あなたの戦前思想の払拭の仕方は、決して適切ではなかったように、この私には感じられます。少しずつ書題や例言や跋文を書き換えていったり、何のはっきりとした断わりもなく途中で序文や結論や紹介文を削除したりする行為は、明らかに姑息としかいいようがありません。本来的になされなければならなかったことは、戦後すぐに恒星社厚生閣から出版の機会が得られたとき、その本を、初版および再版を引き継ぐ『大日本女性史 母系制の研究』の「改訂三版」とするのではなく、完全に書き改められた『母系制の研究』の「初版第一刷」とするべきであったと思います。つまり、内容的には、あなたが述べる「初版發行當時の社會状勢を顧慮するあまりなされた學術書にはふさわしからぬ贅語的表現」を廃すると同時に、「第三篇 結論」のなかの「第三章 吾等の収穫」を抹消することはいうに及ばず、それらすべてに投影されていた戦前の思想とその寄って立つ立場を溶解せしめ、それに取って代わるところの新たな視点に全面的に依拠して緒論、本論、結論を論理的一貫性のもとに書き改め、真の意味での学術書にふさわしいものとし、そのうえで、たとえば「はじめに」において、明快な理由を付して、初版および再版を破棄することを宣すべきであったと考えます。当然ながら、ここには初版および再版に所収されていた徳富蘇峰の「序文」も、巻末に添付されていた「紹介辭」も「跋」も、もはやありません。なぜ、こうした『母系制の研究』の「初版第一刷」が、このとき生まれなかったのか、私には悔やまれてなりません。といいますのも、これが、そのまま「全集」に収められていれば、今日に至るまで、これについてのいかなる疑義も挟まれる余地を残すことはなかったのではないかと思われるからです。 述べてきましたように、戦前思想の払拭という点において、あなたは「火の国の女」に似合わず、決然たる態度をおとりになりませんでした。それを私はとても残念に思います。しかし、もし仮に、これが憲三さんという編集者の意向に無批判に従った結果であったとすれば、どうでしょう。その場合、あなたは著作者としての自立性を自ら放棄したことになります。それは、「著述の死」を意味するのではありませんか。私は、あくまでも「著述の詩」を貫いてほしかったと思います。 次に、憲三さんに申し上げます。たとい妻であろうとも、著述家である逸枝さんの著作を「全集」として編集する際の、あなたのその手法は、適切ではなかったように私には感じられます。逸枝さんの生涯にわたる活動は、誰が見ても明らかなように、事の順番からいえば、最初に詩人としてのそれがあり、次にアナーキストとしてのそれがあり、そして最後に、女性史研究者としてのそれがありました。それであれば、なぜ活動の編年的推移に従うかたちで、著述物を並べようとされなかったのでしょうか。いまの『高群逸枝全集』(全一〇巻)の構成を見るにつけ、女性史研究者としての業績が全面的に前に出て強調されるあまりに、逸枝さんの活動の年代記的な諸相が見えづらく、一目で逸枝さんの全体像を把握することが困難な状況になっているのです。 とりわけアナーキストとしての逸枝さんの活動部分が、この「全集」からおおかた消えていることが気になります。もしそれが、意図的なものであったとすれば、「全集」に値しない、編集者の好みによる個人的「選集」ということになりかねません。たとえば、すでに『婦人戦線』誌上の解放社の広告において、近刊が公表されていた『強権に抗す』などは、逸枝さんがアナーキズムをどう考えていたのか、その立場から何をどう論じていたのかを知る一級の資料になるはずです。内容目次も価格も予告されていたわけですから、仮に発売に至らなかったとしても、間違いなく原稿そのものは存在していたでしょう。そうであれば、なきものとして闇に葬らず、真実の逸枝さんに接したいという人たちの願望に応えて、ぜひとも「全集」に入れてほしかったと思います。といいますのも、ひとりの優れた著述家の「全集」というものは、最後には編集者の手を越えて、すべての人にとっての貴重な共通遺産として社会的に存在することになるにちがいないと、私自身信じているからです。 ところで私は、この「火の国の女たち」を書くに当たり、年代順に当時刊行された逸枝さんの著作に目を通し、そこから、必要に応じ自身の文に引用してきました。しかし、『日月の上に』にしても、『東京は熱病にかゝつてゐる』にしても、『戀愛創生』にしても、あるいは、それ以外のものにしても、多い少ないは別にして、初版原本とは異なり、「全集」にあっては、至る所で語列が入れ替わったり、文字が削除され、別の語が挿入されたりしていることに気づかされました。誤記誤植の修正や旧字体から新字体への変更を越えた手の入れ方です。いかなる積極的な理由があって、そうした加筆や改変がなされたのでしょうか。「解題/編者」を見ても、ほとんど何も言及されておらず、しばしば、首をかしげてしまいました。これでは、逸枝さんの作品を下敷きにした、憲三さんご自身の手になる新しい別形作品といわれても、仕方がないのではないでしょうか。また、詩集でいえば、「全集」からは『戀唄 胸を痛めて』が割愛されています。あなたは、第八巻の「解題/編者」において、この本について、このように書いています。「こんど本全集のために古書市場をはじめいろいろ心あたりを捜しても発見できなかった」。しかしいま私は、国立国会図書館のデジタルコレクションを利用して、あなた方の住まいである「森の家」ならぬ、火の国阿蘇の寓居にいながら、胸を痛めつつ、この『戀唄 胸を痛めて』を閲覧しているのです。 正直に申し上げて、やっとこの、第六章「『大日本女性史 母系制の研究』の完成」まで書いてきた時点にあって、私は、あなたが編集された「全集」への信頼喪失を余儀なくさせられました。しかし、擱筆まで、もう少し書き続けなければなりません。それには、とりわけ『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」は、欠かせない価値ある資料となります。その「解題/編者」には、「著者は、一九六三年九月五日、病床にあってこの筆をおこしたのであったが、脱稿にいたらず、最後の一部分をのこして、翌六四年六月七日に急逝した。この部分は彼女の希望によって彼女の夫が補結した」とあります。このように、この「火の国の女の日記」と題された自叙伝は、明らかに、未発表の書き下ろしの文です。したがってそのことは、自身の執筆に当たって、初版原本と突き合わせてその異同を確認するようなことなどできようもなく、ここに書かれてあるすべてを信用するしかないことを意味するのです。事実から離れた、いかなる編集者の恣意的手も加わっていないことを切に願いたいと思います。といいますのも、もしそのようなことがなされていれば、ひたすら虚像だけが残り、永遠に逸枝さんの真実の姿は、私たちの目から消えてしまうことになりかねないからです。 慣例を大きく逸脱してまでも、やむにやまれぬ思いでもって、「最後の最後」として書き連ねてきました超駄文を、これにて終わります。逸枝さんの『大日本女性史 母系制の研究』を巡る戦前思想の払拭行為の問題、憲三さんの『高群逸枝全集』を巡る編集手法の妥当性の問題につきましては、このあと第一二章の「夫による『高群逸枝全集』の編集と石牟礼道子の高群継承の決意」におきまして再び話題にしたいと思います。そのときまでに、ふたりを見る私の目も、全面的な嘆きから脱して、幾分かの共感に変わるかもしれません。それであればいいのですが。
(20)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、275頁。
(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(22)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、「紹介辭」の4頁。
(23)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の8頁。
(24)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の10頁。
(25)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、309-310頁。
(26)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、277頁。
(27)同『高群逸枝全集』第一〇巻、279頁。
(28)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(29)同『高群逸枝全集』第一〇巻、279-280頁。
(30)同『高群逸枝全集』第一〇巻、280頁。
(31)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(32)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(33)同『高群逸枝全集』第一〇巻、281頁。
(34)同『高群逸枝全集』第一〇巻、281-282頁。