中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第二部 南阿蘇の庵にて(日誌集)

第三編 二〇一八(平成三〇)年――古希を迎える

一.南阿蘇温泉郷のいま(年賀状)

新年 あけまして おめでとうございます

東西約一八キロ、南北約二五キロ、面積約三五〇平方キロメートルの世界最大級の規模を誇る阿蘇カルデラ。およそ二七万年前から今日に至るまで永久の火山活動を続ける阿蘇火山――いまなお噴煙を上げる中岳。

この火山活動とともに暮らしてきた地域の人びとにとって、温泉は、自然からの大きな贈り物であった。阿蘇の南郷谷に住むようになって以来、近くの温泉施設でゆっくり朝風呂に入るのが、私のほぼ日課となった。

ところが、二〇一六(平成二八)年の四月、この地を大地震が襲った。建物が倒壊したり、宿へ続く道が寸断されたり、湯量が不安定になったり――想像を超える過酷な苦しみをもたらした。この間何とか再開にこぎつけた施設もある。いまだ再建途中の宿もある。なかには再興の見通しさえ立たないところもある。地震前の悠々の時を重ねた自然豊かな姿をいま一度取り戻し、火山の恵みをみんなで分かち合える日が再び訪れることを願いながら、ボランティアも行政も含め、多くの関係の方々の懸命の努力が日々続く。

穏やかなお正月をお迎えのことと思います。

本年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。

二〇一八年 元旦

二.冬の生活

今日から二月です。あっという間に一月が過ぎたように思います。二月も「逃げる」といいますので、あっという間かもしれません。

例年になく、一月は厳しい寒さが続き、たくさん雪も降りました。今朝も、いまこちらは雪が降っています。南岸低気圧の移動に伴い、この雪も移動し、これから関西、関東が雪になるかもしれません。

雪の予報が出たときは、車は、農業道路のガードの下に置きます。エンジンまわりに毛布をかけ、そのうえから専用の車カバーをかけます。タイヤはスタッドレスをはかせていますが、そのうえに、タイヤチェーンも後部座席に用意しています。しかし、ほとんど使うことはありません。というのも、ガード下から街中は、あまり雪も積もらず、積もっても除雪作業により、問題なく車が使えるからです。

ガード下から家までは、徒歩になります。長靴に履き替え、買い物などの荷物があるときは、手にもたず、リュックを背負い、マスク、帽子、手袋を着用し、竹の杖を使って、山道を上ります。一五分くらい歩きます。体がポカポカになります。これまで、買い物と温泉は日課となっていましたが、車をガード下に置くようになってからは、外出は、数日に一回に変え、家のなかで過ごすことが多くなりました。家のなかは十分な暖房力がありますので、快適です。食事も、事前に買いためた材料を使いながら、温かくておいしい料理をつくります。このようにして、いま、山の冬を過ごしています。

心筋梗塞の危険な状態から立ち直り、本来の体調を完全に取り戻しています。そして、うれしいことに、執筆活動も順調に軌道に乗ってきました。著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』を、もう少しで脱稿します。

三.守ることができる命を救うために

イギリスにいたときに感じたのですが、あちらは寄付の文化が定着しています。国の政策から抜け落ちたさまざまな社会的、文化的活動を市民や住民が資金を出し合って運営する仕組みが整っており、自分の支援したい団体へ可能な額のお金を寄付するのです。一九八八年に私は、デザイン・カウンシルの第三代会長を務めたライリー卿の推薦により、Royal Society of Arts のFellowになりました。現在この王立芸術協会のPatronはThe Queen、PresidentはThe Princess Royalで、二百年以上続く伝統あるチャリティー団体です。一月に、新しいプロジェクトのための寄付の要請がメールで届きましたので、すぐに五〇ポンドをネット上の寄付決済システムを使って支払いました。ちなみに、英国での私の公的な表記は、「Professor Shuichi Nakayama, MA PhD FRSA」ですが、最後のFRSAは、Fellow of the Royal Society of Artsの略です。英国は肩書き文化でもあります。これにより、英国において最も信用度の高い団体のひとつの会員であることを示します。

日本では、もう何十年も前から、国連UNHCR協会と国境なき医師団とひょうご子ども家庭福祉財団の三つの団体に、六月と一二月に少額ですが寄付をしてきました。ところが二月に入ってすぐ、国連UNHCR協会から緊急の寄付の要請がありました。何と、封筒の表の余白に、手書きでこう書かれてありました。「もう時間がありません。守ることができる命を救うために、皆様、どうぞ今すぐお力を貸してください。UNHCRバングラデシュ事務所前代表 (署名)」。このような表現を見るのははじめてでしたが、緊急性だけは十分に伝わってきました。開封して、なかの印刷物を読むと、ミャンマーからバングラデシュへ逃げまとったロヒンギャ難民の悲惨な状況がリポートされていました。涙が出ました。世界には、水もなく食料もなく、明日の命さえも保障されていない、死の淵にいる人たちがいます。現地にいてその人の命を守ることに懸命になっている人たちもいます。翌日郵便局に行って、災害などの緊急時の資金として別途手もとに置いていたすべての現金を指定口座に振り込みました。

昨日から春一番が吹き荒れ、山も待ちに待った春の感じです。こうして厳しい冬が終わり、もうしばらくすると、やっと暖かくなり、鳥が舞い、虫が動き出します。そして、わが家の桜も開花します。

四.子どもの日

今日五月五日は「子どもの日」です。親というものは、子どもが何歳の大人になろうとも、永遠に子どもは「子ども」であり、その健康と幸せを願うようにできているようです。ということは、「子ども日」とは、裏を返せば実際的には、子どもの健康と幸せを願う「大人の日」なのかもしれません。

庭は、シャクナゲが散って、それに代ってミヤコワスレが咲き乱れています。小鳥たちも、よく鳴いています。生き物たちにとって、厳しいし季節が去ったこの時期が、自らの生命を育む一年で一番いい瞬間にちがいありません。古来より人は、それを見て、それを聞いて、命を蘇らせてきたことを思えば、私たち現代人にとっても、まさしくこの季節は心身の再生の時期であり、体の隅々でそれを感じる喜びを分かち合いたいと思います。

五.昔からの言い伝え

先日テレビを見ていたら、気象予報士の人が、栗の木の花が散ると、その一週間後くらいを目安に梅雨に入る、といっていました。こちらは山のなかですので栗の木も多く、五月の中旬ころには、山道の至る所で散った白い花を見かけるようになりました。そろそろかなあ、と思っていましたら、その言葉どおりに、二八日に梅雨入りの発表がありました。今年はいつもより早い入梅です。その分、梅雨明けも早いのでしょうか。ともあれ、長雨や強雨による災害が発生しないといいのですが。

これも、昔からの言い伝えのひとつですが、こちらで生活をしていると、年配の方から、自分たちの子どものころは、ビワの葉を焼酎に漬け込んで、切り傷や虫刺されにそのエキスをつけたり、打ち身や捻挫をしたときには、その漬け込んだ葉を直接肌に貼ったりしていたという話をときどき聞くことがありました。たまたま妹の家に行ったとき、そのエキスができたところで、スプレー式の容器に入れてもらって、少し持ち帰ってきました。一度ためしに、肌の痒いところに塗り込んでみましたら、実にうまいこと成功しました。栗の花と入梅との関係といい、ビワの葉と皮膚トラブルとの関係といい、自然のなかで生まれた先人たちの知恵は、なかなかのものだと気づかされました。

六.著作集のウェブサイト公開

現在、ウェブサイトに公開している「中山修一著作集」を全四巻(本巻二巻別巻二巻)から全一〇巻(本巻八巻別巻二巻)へと衣替えする作業にとりかかろうとしています。そこで気になったことは、いまだ学術雑誌などで活字化されていない、脱稿したばかりのデジタル化した状態のままの原稿の取り扱いでした。ここには、「PDFのセキュリティ設定」と「盗用」いう未知の問題が潜んでいそうなのです。さっそくいろいろと調べてみたり、知人に相談したりしてみました。考えた末、結論に達したのは、次のようなことでした。

「PDFのセキュリティ設定」については、多くの人に読んでいただきたいからこそ、手もとに眠らせるのではなく、ネット上に公開するのですから、「印刷不許可」のような、読み手にとって不便となるような制限はない方がいいのではないか――。そして「盗用」については、研究者の良識を信用して、そのような行為をする人はいないという性善説に立ちたいと思いました。もし仮に、そのような人が現われた場合には、おそらくは、モリスや富本の研究者であれば、私のHP掲載の論文を読んでいるでしょうから、私は高齢でその気力がなくなっていたとしても、そうした人たちが声を上げ、盗用論文に対して掲載の取消しの要求をしたり、その盗用者が勤務する研究機関に調査の依頼をしたりするのではないかと考えましたし、もしそうした取消し要求や調査依頼のような動きが周囲の研究者のあいだから起こらなかったとしても、私自身が、ウェブ上に公開した全著作を最終的に書籍として公刊すれば、それでいいのではないかとも思いました。もっともこの考えには難点があります。生きて著作集が完結するのか。完結したとしても本にしてくれる出版社があるのかどうか。あったとしても、自費出版に近いかたちになることが予想され、そのとき最晩年の私に支払い能力があるのかどうか――。

結論に達したといえ、悩みは尽きません。そのようなことを考え出すと、気がめいって、筆が進みません。気楽な思いで、大自然に囲まれて、思い存分に文字を積み重ねる楽しみを味わうことの方が、実は一番大事なことではないかということに気づかされました。

七.珠玉の展覧会カタログ二点

今年の一月から三月にかけて愛知県にあります名都美術館で「志村ふくみ展」が開催されていたこと知り、図録を購入しようと思い電話をしたところ、完売という返事でした。それから数時間後、どうしてもあきらめきれず、再度電話をし、友人をそちらに行かせるので、コピーをとらせてもらうことはできないかと、こちらの希望を伝えたところ、その場では保留扱いとなり、翌日、担当の学芸員の方から直接電話があり、研究のためであれば何とか工面をして一部贈与したいとのことでした。私としては、思いがけない、本当にありがたい話でした。

小包が届きました。封を切り、二冊の図録が出てきたとき、何かいままでに見たこともない不思議な輝きをもつ宝石でも手にしたような驚きと興奮に襲われました。実に美しい造本でした。頁を開くことを忘れ、表紙と裏表紙をじっと食い入るように眺めている自分がそこにいました。中を見ると、言葉に表わせないような絢爛とした志村ふくみさんと小倉遊亀さんの世界が目に飛び込んできました。圧倒されんばかりの迫力でした。少し落ち着きを取り戻して、このふたつの展覧会を担当された学芸員の方の執筆になる「志村ふくみを育てた眼――富本一枝・白州正子・佐久間幸子――」と「小倉遊亀の静物画――富本憲吉との交流にたどる一考察――」の論考を拝読しました。ともに、鮮やかな筆運びの文章です。とくに後者は、全くの未知の世界でした。なぜこんなに落ち着きのある造本ができるのだろう。なぜこんなに静かに語りかける言葉を紡ぐことができるのだろう――。いま、その衝撃にうちのめされています。この二点の展覧会カタログは、私がこれまでに遭遇することのなかった富本憲吉と富本一枝の別の表情を間違いなく豊かに表現しているのでした。

八.ハナシノブ

六月一七日に「第一回 みなみ阿蘇 野の花コンサート~はなしのぶ~」が、休暇村南阿蘇の阿蘇野草園で行なわれました。この前身となるコンサートは、一九八一(昭和五六)年から二〇一四(平成二六)年までの三四回にわたり開催された「はなしのぶコンサート」で、今回は、その復活第一回コンサートでした。出場したのは、高森中学校と高森高等学校の合同の吹奏楽部や熊本市内にある尚絅中学校・高等学校のギター・マンドリン部などの演奏団体でした。野外でのコンサートです。天候にも恵まれ、緑の風が吹く自然環境のなかで美しい音の響きを楽しむことができました。また会場には、鉢植えのハナシノブ(花忍)が所々に設置され、目も、楽しませてくれました。

それでは、ハナシノブとは、どのような花なのでしょうか。まだ九州が大陸と陸続きであったころ渡来した種で、暑さに弱く寒さに強く、草丈五〇センチ前後の先端に淡い青紫の花を毎年この時期に咲かせます。ハナシノブはこの阿蘇にしか自生していません。なぜこの地にしか生育しなかったのでしょうか。ハナシノブは森林のなかの日陰は好まず、草原の日当たりのよいところを好みます。阿蘇はその昔、何度も火山噴火により溶岩が流れ出し、森林を高原へと変えてゆきました。そしてその高原は、野焼きなどにより、人の手によって今日まで守られてきました。これが、阿蘇の地がハナシノブを育ててきた大きな理由です。しかし、いまや希少植物のひとつに数えられるまでに激減しています。植物にとっての生育環境が変化しているのです。ここにも環境保全の重要性を見て取ることができますし、「みなみ阿蘇 野の花コンサート~はなしのぶ~」は、演奏楽曲のすばらしさだけではなく、そのこともまた、聴く人に静かに伝えているのかもしれません。

九.ウォーキングコースの再発見と梅雨

昨秋から瑠璃温泉の西側にある南阿蘇村白水運動公園でウォーキングをはじめました。しかし、外周のコースを数回回るだけでは変化に乏しく、新しいウォーキング用のコースを探していました。すると、桜の季節、とてもいいコースを発見しました。高森町民体育館の駐車場に車を止め、ここがスタート地点となります。小さい橋を通過し、右に折れてピクニック広場の北側の小道に沿って歩きます。北には根子岳が広がり、小道の両側には桜が咲き、そのトンネルを通過して休暇村南阿蘇の駐車場北側の道を抜けて、阿蘇野草園へと入っていきます。野草園内の外周を通り抜けると休暇村南阿蘇本館の東側に出ます。そこを右折して、テニスコートとピクニック広場に挟まれた小道を直進すると、もとの町民体育館の駐車場へとたどり着きます。このコースで、だいたい三〇分弱です。なだらかな起伏に富んだコースで、目に映る根子岳や野草も、とても刺激的です。さらに町民体育館のすぐ一段上には高森温泉館があり、ここでウォーキングの汗を流します。高森町のキャッチコピーは「野の花と風薫る郷」ですが、まさしく厳しい冬のあとに訪れる、この季節を象徴するコピーだと思います。

今年も、六月になり梅雨の季節がやってきました。ウォーキングもしばしば休む日が続きます。今年の梅雨は、長雨でも、集中した豪雨でもありません。一日降ったかと思うと一日止むという、断続的な雨のパターンです。どうも天気予報が的中しません。いつ降っていつ止むのかがはっきりしない、気まぐれで、落ち着きのない梅雨の天気なのです。このような状態がいつまで続くのでしょうか。早く日々のウォーキングを再開したいものです。

一〇.再び、ハナシノブ

『石牟礼道子全集 不知火 第一六巻』(藤原書店、二〇一三年)を読んでいたら、「いのちの切なさ 美しさ」と題された北海道での講演録のなかで、ハナシノブの話が出てきました。「今晩は死んでしまおうかしら、と思ったりする時に、私はちょっと山へ出かけるんです。ここへ来るまでに見たような、景色の所へ車をたのんで連れていってもらうのです。九州の屋根のようなところがありまして、その屋根の所に行きますとね、いろんな雑草がはえているのです。そこで、葉っぱが美しいので机の上にでも置こうかしらと思って、なんでもない、そこらへんのその葉っぱを持って帰りました」。するとどうでしょう、小さな紫色のハナシノブの花が咲いたではありませんか。石牟礼さんは、感動しました。「蕾がだんだんになっていて、どんどん花が咲いていくんですよ。はじめて見たものですから、もう嬉しくて嬉しくて。私が非常に落ち込んでいた時でしたから、今度は『はなしのぶ』という山の花に助けらました」。

このとき石牟礼さんが遭遇したハナシノブは、阿蘇のどのあたりの草原だったのでしょうか。前にも書いたように、火山活動という自然の力と、野焼きという人間の力が合わさって阿蘇のハナシノブは生き続けました。しかしもはや、希少植物となっています。もしこのことに気づいていたら、不知火の海を見、水俣病に寄り添った石牟礼さんは、どのような感想をもったでしょうか。ハナシノブのなかにも、「いのちの切なさ 美しさ」を見ていたかもしれません。今年の二月、石牟礼さんは帰らぬ人となりました。

一一.新作物語「燎原」

一〇月六日に水前寺成趣園能楽殿で石牟礼道子さんの新作能「沖宮」が上演されることになり、そのチケット販売の開始日が七月一日に迫っていたある日、『石牟礼道子全集 不知火 第一六巻』(藤原書店、二〇一三年)に所収されている「沖宮」を読みながら、一方で、雑誌原稿の「中村汀女没後三〇年にあたって――汀女主宰誌『風花』創刊前後の人間群像」を書いていました。そのときの頭のなかは、半分が道子さんで、半分が汀女さんで占められていました。すると、ちょうど水源の地下水のように、パラパラと幾つかの句が浮かんできました。それを少し整理し、連続させてみると、何とひとつの物語になるではありませんか。こうして、あっという間に、四季四花を主題とした四つの句で構成される新作物語「燎原 りょうげん 」が誕生しました。舞台は阿蘇南郷谷。登場人物は母とその息子、あるいは妻とその夫、詳細は不明。山野の桜吹雪のなか男は自ら命を絶つも、女は、花忍 はなしのぶ の花言葉に身を寄せながら、男を待つ。秋、男は彼岸花 ひがんばな となって生き返ると、南郷谷の原頭を真っ赤に染め上げてゆき、続く冬のある夜、漆黒の闇に紅をひいた女は、寒椿 かんつばき の花神となって舞い踊る。

山桜 散るを悟りて風に舞う
花忍 青紫 せいし にて人を待つ
彼岸花 阿蘇原頭を染めて立つ
寒椿 漆黒の闇に紅をひく

この四種の木や花はどれも、わが小庵の庭やその周辺に見かける、なじみのものです。こうした日常の生活風景に、汀女さんと道子さんのふたつの異才が、どこからともなく一瞬乗り移ってきたようでした。実に不思議な体験でした。

一二.図書館がいのち

研究者にとって、図書館がいのちです。本や資料がなければ、一行の文さえも書けないからです。

大学の教員として現役で働いていたころの仕事の三本柱は、教育(授業や学生の論文指導)と学部運営(教授会や各種委員会への出席)と研究(論文の執筆や学会活動)でした。私は、三九年間神戸大学に勤務しました。単純に計算すれば、三九の三分の一、一三年という時間を「研究」に費やしたことになります。定年退職したとき、もはや「教育」と「学部運営」はありませんので、今後一三年間「研究」に専念すれば、現役時代と同じ量の研究成果を生み出すことができるのではないかと考えました。つまり、退職時を「研究」上の折り返し点とみなしたわけです。

退職と同時に、執筆生活の場を神戸から阿蘇の山荘に移しました。しばらく使っていなかったのでまず庭の手入れをし、荷物を入れるために少し増築もし、やっと生活の場が整ったときに、不運にも阿蘇の火山活動が活発化し、火山灰が雪のように降る日々が続くようになりました。何とかそれが収まるや、今度は大きな地震が熊本地方一帯を襲いました。期待していた熊本県立図書館も大きな被害を受け、休館となりました。すると続けて、心筋梗塞が私の身体を襲いました。いよいよ執筆活動に入ろうとしていた時期でしたので、あのときは、すべてが闇に閉ざされた気持ちになりました。

心筋梗塞からほぼ完全に立ち直り、一方、県立図書館が開館にこぎつけたのは、二〇一七(平成二九)年の三月の下旬のことでした。定年退職からすでに四年近くの歳月が流れていました。この空白が、論文の書き方も図書館の利用の仕方も、遠い世界へと押しやっていました。とても不安でした。最初に県立図書館へ行ったのは、四月二六日でした。スタッフの方々はみなさん親切で、その日以来、私の研究活動を支えてくださっています。まさしく「いのち」を得て、いまや執筆活動に専念できるようになったことに、研究者としての無上の喜びを感じる毎日です。

一三.著作集4を脱稿

ついに先日、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』を、「索引」を含めすべて脱稿し、ひとつの区切りがついたことに、ほっとしているところです。二〇一三(平成二五)年四月の定年退職後、一年間の山荘暮らしのお試し体験を経て、庭づくりと家づくり(増築)を行なうも、火山活動が活発化して火山灰に苦しめられる日々が続き、二〇一六(平成二八)年四月の熊本地震、そして五月の心筋梗塞。退院後も机に向かう気力も体力も失い、もうもはや執筆活動はできないのかと不安に駆られながらも、資料を整理したり、少しでも本を読んだりしながら、自分をその方向へともってゆき、年が明けた二〇一七(平成二九)年ころから、やっと数時間、書斎にこもれるようになってきました。三月には、被災していた県立図書館も再開し、執筆の道筋も見えてきました。それから、一年と数箇月、ここに著作集4が完成しました。四百字詰め原稿用紙に換算して、一、三二八枚あります。自分でも、よく耐えてここまで来たと感激しています。いまのウェブサイト「中山修一著作集」は、本巻二巻別巻二巻の全四巻の構成ですが、これを本巻八巻別巻二巻の全一〇巻の構成へと近日中に衣替えしたうえで、著作集4をアップロードする予定です。そしてこれから、著作集5『デザイン史・デザイン論』にとりかかり、来年三月には、この巻も、何とか書き終えたいと、強く思っているところです。

一四.熊本大学附属図書館へ行く

図書館ごとに特色があります。日常的に利用する熊本県立図書館は、公立の図書館ということもあって、相互貸借は主に近隣の公立図書館のあいだで行なわれます。文献複写は、県立図書館から、主として国立国会図書館に依頼してもらいます。これで、おおかたの本の閲覧や資料の入手は可能となります。しかし、極めて専門的な図書や雑誌類については、その図書館の性格上、収蔵されていないことがあります。その場合は、大学付属の図書館を利用することになります。

研究の過程で、どうしても戦前に英国で発行されたデザイン系の雑誌(Decorative Art The Studio Year Book)の一九二六年から一九三七年までの一二冊を見る必要がありました。そこで、熊本大学附属図書館のHPで、その雑誌が所蔵されていることを確認したうえで、電話をしてみました。所蔵されていても、先生方の研究室に貸し出されていることがあるからです。すると、電話で対応していただいた司書の方は、親切にも書庫まで行って、所蔵の確認をしてくださいました。こうして翌日、はじめて熊大の附属図書館(中央館)を訪問する運びとなりました。

レンガづくりのために通称「赤門」と呼ばれる熊大の正門には、懐かしい思い出があります。託麻原小学校の一年生か二年生のころ、何か絵画の全国大会があるとのことで、選ばれた数人が熊大近辺へ行き、思い思いに写生をすることになりました。私はこの赤門を描きました。描いているとき、担任の先生が、スクーターの後の席に母親を乗せて、激励に来てくださいました。この大会の賞には、天、地、人の三つ賞がありました。記憶が少しあいまいになっていますが、幸運にも私の作品は、そのとき「地賞」か「人賞」を受けることになりました。

車でしたので、赤門ではなく、隣りのゲートから入構し、手続きをして駐車場に車を止めて、図書館へ入りました。前日に電話をしていたので、すべてスムーズに事が進み、司書の方と書庫に入りました。洋雑誌の「De」ではじまる書棚の一番奥にその一二冊はまとめて並んでいました。閲覧室まで運び、一頁一頁を丁寧にめくって図版を眺めていると、戦前のイギリスのデザインの世界に飛び込んだような錯覚を覚えました。それだけではありません。英国にいたころ、しばしばヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の図書館やブライトン大学の図書館で調べものをした経験があります。雑誌のなかの英文の記事を読み進めてゆくうちに、そのときと同じような雰囲気が体全体に蘇ってきました。さらにはまた、現役のときに神戸大学附属図書館の副館長を二年間務めたことがありましたが、どの大学の図書館にも共通する独特の空気が流れています。それに包まれることの幸福感を、ここ熊大の図書館で再びしみじみと浸ることができました。本当にいい一日でした。

一五.夏の終わりに

私の住む山荘の夏は、平地に比べ、かなり涼しい。標高一〇〇メートルごとに、〇.六度くらい気温が低くなるといわれています。ここは標高七〇〇メートルくらいですので、平地よりも四.二度ほど低く、三〇度を超える日は、ひと夏に数日くらいしかありません。熊本市内が三五度くらいまで気温が上がり、熱中症に注意するようにテレビで報道されているときでも、こちらは三〇度前後で、肌を射すような太陽の強い日差しを感じることもなく、ほとんど冷房を使うこともありません。そのためか、ときどき、弱々しくて何か頼りないような夏に思えることさえあります。酷暑から離れて過ごせることは、ありがたいのですが、その一方で、何といっても山の中ですので、湿度が高く、雨の日も多く、雷の音もよく耳にします。

夏の終わりも平地より少し早く、八月のお盆を過ぎたころから、朝夕、少し肌寒さを感じるようになりました。そういえば、春先から少し前まで、さまざまな音色で日暮らし耳もとを楽しませてくれていた鳥の鳴き声が全くしなくなりました。何か季節の推移と関係があるのでしょうか。それに代わって最近、色づいた木々の葉がウッドデッキに落ちているのを見かけます。一足早く、秋の気配が忍び寄ってきているようです。

一六.寒暖差アレルギー

先日、見るとはなしに、聞くとはなしに、テレビをつけていました。すると、鼻水がどうだとか、くしゃみがどうだとかの話が耳に入ってきました。その話の内容が、どうも最近の私の体の状態と似ているのです。真剣に聞きはじめました。そこではじめて知ったのですが、その症状は「寒暖差アレルギー」というらしく、いままで、なぜこうした症状が出るのか、その原因がわからず、何だろう、なぜだろうと思っていた矢先でしたので、驚きながらも、あっけなく、その疑問が氷解してしまいました。

私の場合、八月の中旬を過ぎたころから、鼻水が出たり、くしゃみが出たり、何か風邪に似た症状を、ときどき感じるようになっていました。しかし、熱はありません。少し喉の痛みもあるような感じでしたので、うがいをするくらいで、これといった対応ができないままになっていたのです。「寒暖差アレルギー」の説明を聞いて、少し思い当たることがありました。八月の下旬に入ると、こちらは山間部ですので、朝の最低気温が二〇度を下回る日が出てきます。そうしたときに、この症状が出ていたようです。私としては、まだ八月ですので、暑い夏という感覚でいたのですが、体の方は正直で、その寒冷を適切に受け止め、その結果が、自律神経を乱してしまったのです。「思い込み」と「冷え込み」の差が、こうして人間の体に変調をもたらすことを、「寒暖差アレルギー」という名称とともに、はじめて知る機会になりました。

そういえば、一月や二月の寒いとき、ときどき、お腹が痛み、下痢をすることがありました。何か悪い物でも食べたのだろうか、あれやこれやと考えても、身に覚えがありません。思うに、これも「寒暖差アレルギー」の一種だったのかもしれません。こちらの冬は厳しく、この時期の最低気温は、しばしば氷点下五度をさらに下回り一〇度を超えることもよくあります。神戸での生活では考えられない寒さです。自分が思っている以上に、胃腸の方は冷えていたのかもしれません。やはり、「思い込み」と「冷え込み」の差が、こうした症状を引き起こしていたのでしょうか。ついつい「思い込み」があると、対応が後手に回ります。これからは、実際の「冷え込み」にあわせて、適切に体をいたわらなければならないことを、テレビの話を聞いていて、今回学ぶことができました。

一七.石牟礼道子の新作能「沖宮」の公演

一〇月六日、水前寺成趣園能楽殿において、今年の二月に亡くなった石牟礼道子さんの新作能「沖宮」の公演がありました。台風二五号の影響で開催が危ぶまれたのですが、幸いにもその少し前に九州北部を通過し日本海に抜け、予定どおり、野外の薪能としてその初演の舞台が無事に公開されました。

原作に従うと、あらすじはだいたい次のようになります。場面は、過ぎし昔の彼岸花の咲くころの島原・原の廃城跡。先の島原・天草の乱で散った天草四郎が登場し、次に四郎の乳母のおもかさまとその夫の佐吉が現われ、さらに、その夫婦の娘のあやが続きます。あや以外はすべて霊界の人で、あやは亡き四郎を慕う、わずか五歳に過ぎない童女です。あやは四郎のことを「 あん しゃま」と呼ぶ。久しぶりの再会をみなで喜び、昔の思い出に浸る。こうして登場人物たちによる導入の会話が終わると、場面が切り替わり、いよいよ物語が進行します。天草下島の村人たちは、死に絶えんばかりに干ばつに苦しんでいました。そこで、雨を司る竜神への 人身御供 ひとみごくう として選ばれたのが、乱で両親を失くし、もともと竜神の姫でもあった孤独の身の幼子・あやでした。村の女房たちが涙ながらに縫った緋の衣裳に身を包み、彼岸花で飾られた小舟に乗せられたあやは、独り、夕陽が沈む茜色の沖へと波の合い間を進んでゆきます。浜辺では、「神代の姫となって、沖宮の かところ」へ赴く「あやしゃま」を愛おしみ、雨乞いの村の衆が手をあわせる。やがて天空から恵みの雨粒が降り注ぐも、雷鳴がとどろき、稲妻が炸裂するや、ついにそこで舟影とともに緋の色が視界から消えてしまいます。するとそのとき、あやがひたすら心を寄せる、霊界の天草四郎が、みはなだ色の衣をまとって、その姿を現わすのです。四郎の乳母の娘があやであることからして、ふたりは 乳兄妹 ちきょうだい の関係にあります。こうして、雨水をこいねがう村の民を救うための 人柱 ひとばしら となってゆく悲運のあやと、受苦の身にあるあやを決然と迎え入れ、手をとって導いてゆく守護精霊者としての四郎との、切なくも美しいふたつの魂の道行がはじまるのです。向かう先は、竜神と、いのちたちの 大妣君 おおははぎみ とが住むという 海底 うなぞこ 沖宮 おきのみや 。ふたりの道行の舞いを慰めるように、あるいは祝うかのように、読経や讃美歌にも似た音響が高らかに鳴り渡るなか、この物語は終わりを迎えます。

天草四郎のみはなだ色の装束、あやの緋の色の着衣――これらの能衣裳を担当したのが、九四歳になる染織家の志村ふくみさんでした。石牟礼さんは水俣病の患者とともに救済運動を闘った文学者として熊本ではよく知られていますが、志村さんにつきましては、染織家としてのこれまでの経歴について知る人はあまり多くないように思い、この公演に先立って、事前に編集者に連絡をとり、地元文化雑誌の『KUMAMOTO』の二五号(一二月刊)に「石牟礼道子の『沖宮』の能衣裳を監修した志村ふくみの原風景」を寄稿したい旨を伝えていました。志村さんは、私が研究の対象としている富本憲吉さんとその妻の一枝さんから若いころ多くの影響を受けて今日に至っている工芸家です。いまその原稿が、あらかたできたところです。

一八.谷人たちの美術館

いま「谷人たちの美術館」が開催されています。谷人とは、阿蘇南郷谷を拠点として作家活動する人たちを指します。毎年、秋のこの時期の二週間、アトリエや工房が一般に公開され、南郷谷全体が、あたかもひとつの美術館のようになる一瞬です。今年で一四回目となります。地震のあと参加者は少し減っているものの、今年も三三人の美術や工芸の作家たちが参加しました。絵画、焼き物、ステンドグラス、創作人形、染織、アクセサリー、写真、キルト、和布小物などなど、表現領域はさまざまです。定住して創作に専念している人もいます。週末や休みのときに、こちらにある別荘兼仕事場に来て、製作を楽しんでいる人もいます。見学をする人は、パンフレットを片手に、ゆっくり車で移動しながら、それぞれのアトリエや工房を訪ね、そこのご主人=美術家と会話を弾ませ、作品を見せてもらうことになります。私も、何人かの友だちを今年も訪ねました。一年ぶりの人もいます。こつこつと一年をかけて製作された作品を見ると、その人のこの一年間の生活がどうであったのかが伝わってきます。つくる喜びと、見る喜びが、こうしてひとつになるのです。

一九.一雨一度

この季節、一雨ごとに気温が一度下がってゆくといいます。今年は、重なる台風や停滞する秋雨前線の影響もあって、九月の後半からずっと雨の日が多かったように感じます。それだけに、気温も下がり気味になっていました。先週末、冬物のカーディガンやズボンなどを購入し、寒さへの備えをしていたところ、ついに今朝、今年一番の冷え込みとなりました。起きて寒暖計を見ると、寝室が一六度で、隣りの食堂が一四度になっていました。外は一〇度を大きく下回っているものと思われます。そこで、この間試運転はしていたのですが、今期はじめての暖房となりました。服も、セーターを出してきました。近年、秋の好季節を楽しむ日が少なくなってきているように思います。そのようなわけで、今日は、冬のはじまりを感じる一日となりました。

ここはプロパンガスなので、月に二、三度、検針や供給のために担当者の方が立ち寄り、そこでよくよもやま話をします。ちょうど昨日、ヘビの話をしたところでした。今年は、例年と違って庭先にもウッドデッキにも、一度もヘビを見ることがなかったと、話をもちかけると、彼は、別の地区でも、そのようなことが話題になり、この夏が暑かったからではないでしょうかと、返してくれた。そして続けて、しかし、南阿蘇村の方では、地震以降ヘビを多く見かけるという人もいますと、言葉を継いだ。暑さや寒さ、地殻の変動で、ヘビの生活環境も変わっているのかもしれません。今朝の冷え込みは、冬眠の時期を早めさせるのでしょうか。

二〇.濁流を清流へと換える

ほかの動物とは違い、人間という生き物は、どうも時間の観念に強く縛られているようです。過去の楽しかった思い出に浸り、未来に向けて夢を羽ばたかせる――こうした時間とのおつきあいは、大歓迎なのですが、時として、それとは反対の拘束に引っかかることがあります。たとえば人は、しばしば必要以上に過去の出来事を後悔したり、過去の自分を嫌悪したりします。また、未来について心配したり、不安を感じたりもします。こうした雑念や妄想が頭や心に濁流となって押し寄せてくると、気持ちがしおれてしまい、大きなストレスがかかることになります。こうした濁流を、清流へと換える方法はないのでしょうか。考えられるのは、過去や未来からの陰湿で過剰な侵入を食い止め、現在にあって温暖で適量な生を保つことがきるようにと、意識的に、心身の状況を調整することではないでしょうか。さてそれでは、温暖で適量な生を保つために現在の扉を開けるには、どのような方法があるのでしょうか。

たとえば、部屋を片付けてみます。そうすると、「すっきりした」という清涼感を覚えます。室内が「すっきりした」だけではなく、このとき、心の内面も「すっきりした」のではないでしょうか。たとえば、今日食べたい料理に意識的に気持ちを向けてみます。肉じゃがと塩サバであれば、それを楽しみながらつくるのです。こうしてでき上がったものを食すと、「おいしかった」という言葉が、自然と口をついて出てきます。この発語は、身体的な胃袋だけではなく、心の満足感の表われでもあります。さらには、庭の手入れをしてみます。雑草や落ち葉が一掃され、色とりどりの花々が咲きはじめるのを目にすると、「美しい」という感じに包まれ、そこに内なる達成感が湧き出てきます。こうして、現在にあって感じることができる、清涼感や満足感、あるいは達成感が、ささやかではありますが、積み重なることによって、生に対する大いなる喜びが形成され、膨れ上がってしまった過去への後悔とか未来への不安とかをいつしか和らげ、過度に背負い込んだストレスを軽減する力となってゆくように思います。

日常の心身にとって大事なことは、過去や未来から濁流が押し寄せてくる気配を感じたら、自覚的に、閉まってしまっている現在の窓をそうっと開け、いち早く、濁流を清流へと転換することではないでしょうか。感覚的にいえば、過去一、将来二、現在七くらいの割合が心を占めている状態が、日常の健康維持にとって最適なように思います。後悔や不安といった過去や未来からの濁流に身をゆだねるのではなく、できるだけ多くの時間を、現在の生が喜びとして溢れ出た、まさしく地下水源からの清流のなかで過ごしたいものです。

二一.禅の教えと庭づくり

立ち寄った書店で、たまたま『老化の悩み 楽解決ワザ』という「NHKガッテン!」の増刊号が目に留まり、購入して家に持ち帰ると、さっそくパラパラと頁をめくってみました。すると、曹洞宗建功寺のご住職のエッセイのところで手が止まりました。というのも、プロフィールによると、この方は、僧侶であるだけではなく、庭園デザイナーでもあったからです。禅の教えと庭づくり――このふたつは、どう結び付くのでしょうか。こうした関心からこのエッセイを読み進めてゆきました。

要約すると、だいたい、このようになります。禅は生き方を極めるためにあり、そのためには独りの時間が絶対的に必要で、平安時代の僧侶の西行も、歌人の鴨長明も、昔の人はみな、山にこもって隠棲する人生を理想の生き方とした。禅宗の寺では掃除も大切な修行(作務)とみなされ、庭造りもそのひとつと考えられてきた。禅の教えに基づいた庭を眺めていると、心が静まり、呼吸が整い、自然のなかに自分が生かされていることに気づく。こうして、座禅同様に、庭いじりをすることによって、自分を客観的に見ることができるようになり、庭と一体化して「無心」の世界を悟る。

これを読んで、何か庭の本質を教えられたような気がしました。ひるがえって、わが小庵の庭はどうか。心が静まり、呼吸が整い、自然のなかに生かされていることへの開眼を促すような庭――どうしたらそうした庭づくりができるのだろうか。禅にその教えを請わなければなるまいか。

二二.そろそろ冬の到来か

いつのまにか秋が深まり、少し寒さを感じるようになりました。先週あたりから一気に木々の葉も色づきはじめ、ウッドデッキや玄関前の道には、落ち葉もたくさん目立つようになり、その上を、サクサクという音を聞きながら歩くと、この時期固有の季節感を味わうことができます。

テレビのニュース番組では、この数日、朝ごとに今年一番の寒さになったことを伝えていますが、今朝もさらに一段と冷え込み、北国では雪もすでに降っているようです。 そのことを一番感じるのは、ウォーキングのときです。高森町の町民体育館の駐車場に車を止め、ここから野草園を大きく一周するコースをほぼ毎日歩きますが、これまでは、この三〇分のウォーキングで少し汗をかいていました。しかし、いまはそれがありません。何か歩き足りないような、不足感さえ感じます。一方で、目の前に映る野草園の木々や草花の表情も、そして遠くに広がる阿蘇五岳の情景も、この時期になると着実に変化してゆきます。山深いこの地の冬の到来も、そう遠くはなさそうです。

小さいころ、寝る前にパジャマに着替えるとき、よく乾布摩擦をしてくれました。かぜをひかないように、寒さに負けないようにという親心でしょうか。火鉢くらいしか暖をとる用具がない時代です。乾布摩擦は、健康のためだけではなく、体も温まり、こうしてある種、暖をとっていたのかもしれません。暖房が完備している部屋で冬を過ごすいまの子どもの生活に、乾布摩擦は生き残っているのでしょうか、ふと、このような疑問が頭をかすめてゆきました。

二三.ラストランへ向けて

今日一二月二日は、私の満七〇歳の誕生日です。これまでは、区切りの誕生日であっても、とくに何かを強く思うということはありませんでしたが、今回は、少し違います。といいますのも、男性の平均寿命から逆算すると、残りが一〇年と、はっきりとした数字が見えてきたからです。充実したラストランの一〇年にしたいと思います。

偶然にも今夜、この南郷谷(南阿蘇村と高森町)に在住する高校時代の同窓生による忘年会が「四季の森」であり、先日講演を頼まれました。個人的にはちょうどこの日が七〇歳の誕生日でもあり、これまで歩いてきた日々を振り返り、残りの人生をどう過ごすかを考える内容にしたいと思い、この間原稿を作成してきました。

最終的に演題は、「私の南阿蘇暮らし――生活習慣の改善と執筆活動」としました。内容は、「なぜ南阿蘇に恋をしたのかな」「生活習慣の改善のなかでの心筋梗塞」「夢追い人の執筆活動」の三つのパートで構成し、動画を含む視覚資料もたくさん使うことにしました。いま最後のチェックが終わりました。これから会場へ向かいます。

二四.冬巡業大相撲阿蘇高森場所

一二月八日に、平成三十年冬巡業の大相撲阿蘇高森場所が高森町民体育館で開催されました。はじめて見る大相撲でしたので、チケットを購入したときから、この日をとても楽しみにしていました。会場に着いたときは、幕内力士の稽古中で、高安や栃ノ心の顔が見えました。当然ですが、いつもテレビで見る顔です。そのあと、横綱の白鵬が姿を現わし、場内は歓喜に包まれました。

序二段、三段目、幕下の取り組みのあと、相撲甚句、初切、それに櫓太鼓打分の演技が披露されました。実は、実際のお相撲以上にこのパフォーマンスを楽しみにしていました。これまでテレビでも見る機会がなかったからです。とくに、寄せ太鼓、一番太鼓、はね太鼓の三種を打ち分ける櫓太鼓打分が見事でした。これを聞いていたときです。小さいころに屋台の店が立ち並ぶお正月のお宮の参道で耳にした音とリズムとがよみがえり、自分が生まれたころのある場面に一瞬、帰ってしまったような、不思議な感覚に陥りました。

幕内の取り組みに先立つ、白鵬による横綱土俵入も見ものでした。今日のように、肉眼で一度に多くの力士を見てしまいますと、力士の骨格や肌のつやが一人ひとり大きく違うことがよくわかります。美しいと思ったのが白鵬の身体でした。そして、体とまわしの組み合わせも見事でした。そうした一種の造形美は生まれつきなのでしょうか、それとも努力の賜物なのでしょうか。ひょっとしたら、大勢の観衆の視線が日常的につくり出しているのかもしれません。横綱の「強い」と「美しい」とが一体となった表現の型を、この土俵入に見たような気がしました。

二五.目の変化

いつも眼鏡をかけたまま、パソコンに向かって仕事をします。数日くらい前から、パソコン上の文字が、かすんだり、ぼやけたりしてきました。加齢により老眼の度が進んだのかもしれませんし、酷使したために疲れが溜まったのかもしれません。そう思って、目薬を買ってきて、点眼をはじめました。しかし、よく思い出してみると、点眼をはじめる数日前に、こんなことがありました。パソコンから離れて、別の印刷された資料を見ようとしたときのことです。いつもですと、まず自然と手もとの老眼鏡に手がゆき、それから資料を読むのですが、この日は、眼鏡なしで、資料を前後しながらピントをあわせて文字を読もうとしている自分がいました。そして実際に文字が読めたのです。一方では、目がかすみ、文字がぼやける。しかし一方では、眼鏡がなくても文字が読める。実に不思議な数日間を体験しました。

そうするうちに、これも偶然ですが、日常使っている眼鏡のフレームが折れて、使えなくなってしまいました。そこで、新しい眼鏡をつくるために、馴染みの店に行き、この間の話をしながら、視力を測ってもらいました。するとどうでしょう、前回つくったときの度数が改善しているではありませんか。店主の話によりますと、眼鏡をかけてパソコンの画面がぼやけて見えたのは、度があわなくなった証拠で、眼鏡なしで文字が読めたのは、度がよくなったためではないか、ということでした。そして続けて、目も身体の一部で、身体が老化すれば、目も老化し、身体が若返れば、それに連動して目も若返る、とその店主は知識を披瀝しました。その意見に照らして考えるならば、確かに、心筋梗塞以来、日々励行してきた食生活の改善と、ウォーキングや湯治の習慣化が体調をよくし、それに伴って、血圧や血液検査の値だけではなく、視力にもいい影響を及ぼした可能性があります。こうして、予期せぬ、うれしい副産物に出会いました。

二六.七〇歳になると

「敬老の日」が近づいたころの話です。町役場から一通の封書が届きました。開くと、一二月に七〇歳になるので、今年の「敬老の日」から年金(祝い金)が出ることになっており、いついつ、どこどこへ取りにきてほしいというお知らせでした。はじめて聞く話なので、「へえ~」という感じでした。

次に、実際の誕生日の日、町が運営する高森温泉館へ行くと、その場で「高齢者入館証明書」が発行されました。この日以降、これを見せることで、いままでの通常料金の半額で高森温泉館に入ることができるようになりました。ほぼ毎日利用する者にとっては、とても助かる特典です。

それからしばらくして、また、町役場から手紙が届き、開封してみると、前期高齢者の健康保険証が入っていました。これにより、従来の三割の自己負担から二割負担へと軽減されるとのことでした。誕生日の翌月(つまり来年の一月)からこの保険証を使うことになります。

この三つが、七〇歳に到達した私の身辺に起こった変化でした。半分はありがたいと思いながらも、半分は、まだまだ老人扱いや高齢者扱いはご免こうむりたいとの思いもあり、複雑な思いでの今年の年納めとなりました。来たる年が、いい一年になりますように!