中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第一部 わがデザイン史忘備録

第一三話 柳宗悦のウィリアム・モリス批判

一九二九(昭和四)年六月、ふたり連れの日本人が、〈ケルムスコット・マナー〉を訪れました。ひとりが、民芸運動の唱道者の柳宗悦で、もうひとりが、民芸派の陶芸家である濱田庄司でした。ここへ至る柳は、一定の尊敬の気持ちは示しながらも、それはあくまでも形式的なものであり、実質的にはモリスの思想と実践に対しての批判者でありましたので、この〈ケルムスコット・マナー〉訪問には、巡礼訪問というよりも、むしろ敵陣視察といった意味合いが多く含まれていたものと想像されます。それでは柳は、この訪問に先立って、モリスにかかわって、どのような認識をもっていたのでしょうか。以下に、忘備録として、そのことに関連する言説を書き留めておきたいと思います。

柳は、モリスへ向けられた関心の経緯を、「工藝美論の先驅者に就て」(一九二七年)において、こう述べています。

私がラスキンやモリスを熟知するに至つたのは實に最近の事に屬する。近年出版された大熊信行氏の好著「社會思想家としてのラスキンとモリス」が、兩思想家に對する私の注意を一層新にせしめた事を、感謝を以て茲に銘記したい

この時期柳宗悦は、一九二五(大正一四)年に、雑誌『木喰上人之研究』に研究成果を寄稿し、翌年(一九二六年)の四月には、「日本民藝美術館設立趣意書」を公表し、九月には地方紙『越後タイムス』に「下手ものゝ美」を発表します。大熊信行の『社會思想家としてのラスキンとモリス』(新潮社)が世に出たのは一九二七(昭和二)年のことで、そのとき柳は、『東京朝日新聞』紙上の書評でこう書きました。

 私は最近多くの悦びと尊敬とをもって大熊信行氏の近著「社會思想家としてのラスキンとモリス」とを讀了する事が出來た。……
 何人も今日ラスキン、モリスの考へに、考へを止める事は出來ないであろう。(私もその一人である)。しかし何人も彼等の偉大な精神が見ぬいた社會の正しい目標について、思慮を拂はずして自らの考へを進める事は出來ないであろう。私達は幾多の批判を彼等の上に加へるべき資格を有つてはゐるであらうが、同時に尊敬をもつて彼等を顧みるべき義務と愛慕とを持つてゐるのである。こうしてこの事實をこの著書程われわれによく示してくれるものは稀であろう

ここにおいて柳は、モリスを尊敬の対象としつつも、全面的にその思想と実践に倣うつもりはないことを言明します。それでは柳は、モリスのことを具体的にはどのように受け止めていたのでしょうか。それについては、「工藝美論の先驅者に就て」のなかで、次のように言及しています。

 私は彼の善き意思を愛し得ても、彼の作を愛する事が出來ぬ。なぜならそれは既に工藝の本質を離れてゐるからである。どこにも工藝の美しさがないからである。それは民藝となり得ない個人的作に過ぎないからである。彼の社會主義的主張それ自体に悖るからである。貴族的な贅澤品に終つてゐるからである。そうして古作品の前に立つて、如何なる部分にも勝ちみがないからである。それ等のものに向かつて遂に私は「美しさが乏しい」と言ひ終るより外ない

明らかに、モリスの全否定です。それでは、個別の作品については、柳はどう見ているのでしょうか。まず、〈レッド・ハウス〉について――。

 彼の建てたと云う有名な「赤き家」を見られよ。如何に甘い建物であるか。それはひとつの美的遊戯に過ぎない。……「赤き家」は一つの繪畫であつて住宅ではない。美の為であつて用の為ではない。特に内部の装飾に至つてそれは完全な失敗である。その壁紙の模様の如きは見るに堪えぬ

おそらく柳は、それまでに〈レッド・ハウス〉を実際に訪問した形跡は残されていないようですので、雑誌か書籍の図版を見て、批判しているのではないでしょうか。また、モリスが住んでいたときの〈レッド・ハウス〉には、壁紙は使われていませんでした。

次に、ケルムスコット・プレスによって刊行された書籍については、このような認識を示します。

 彼の遺作のうち、恐らく最も難の無いのはケルムスコット Kelmscott 版の刊本である。彼は字體を再び中世期から選び、首字の装飾を始め用紙から羊皮に至る迄古格を保とうと欲した。……だが過日私が中世代の本とそれとを同時に比べてみた時、如何に後者に引けめがあるのかを眼の前に見る事が出來た。前者はその當時にはそれ以外に擦り樣がない程普通な工藝品であつた。だが後者は最初からそれ以外には決してない僅少な美術品ではないか。……モリスの仕事は工藝とはなり得ずに終つた美術である

このとき柳が見比べた、「中世代の本」とは何だったのでしょうか、そしてまた、ケルムスコット版の書籍については、五三点のうちのどの本だったのでしょうか。それらが明示されていれば、誰しも再び比較検討ができるのですが……。

それはそれとして、「工藝美論の先驅者に就て」におけるひとつの結論として、柳は、以下のように断言します。

 私達は彼の如く贅澤な、美術的な、そうしてロマンティックな作に工藝の本道を託す事が出來ず、又託してはならぬ。私達は彼の作の如き貴重品や装飾品にではなく、質素の中に、雜器の中に、日常の生活の中に工藝を樹立せねばならぬ。ラスキンやモリスにはまだ民藝に對する明確な認識が存在してをらぬ。後に來る私たちは彼らの志を進めて、更に此認識へと入る任務を負びる

これこそが、柳にとってのモリス業績の理解であり、その否定のうえに成り立つ、自らが唱道する「民藝」の進むべき道ということになるのでしょう。

その柳が、濱田と連れ立って〈ケルムスコット・マナー〉を訪問したのは、オックスフォードから遠くないマナー・ハウスに住む友人のロバートスン・スコットに会いに行ったおり、案内されて近在のコッツウォウルズの村々を訪ねたときのことでした。柳は、そのときの様子を、短くこう記しています。

モリスの末の娘メリーはもう大分の齢だつた。吾々の訪問を悦んで、室々に案内して呉れた。この工藝家が晩年を過ごしたその建物は昔のまゝである。……數々の室に馴染みの繪や肖像が壁に掛り、幾つかの作物が机の上に置かれてあった。こゝが書齊でいつも仕事をしていたとか、こゝがタペストリーを作つた室だとか、こゝを寝室に使つたとか云つて、往時を想ひ囘し乍ら色々と話をして呉れた。一番奥の室のガラス戸の内には自筆の原稿やケルムスコット版の「チョーサー」が入れてあつた。メリーは私達に自由に見るようにと云つて出して呉れた。……何しても近代の書物として最も有名なこの本を目前にして、うたゝモリスの残した仕事を偲んだ。メリーも私達の署名を求め、私も彼女のを求めて後、庭に出て木々の間に佇むその家を再び振り囘つた。歸りがけに私達は程遠からぬ會堂の庭に眠るモリスの墓を訪ねた

別れ際に受け取った案内人の署名には、「メアリー・モリス」と書かれていたのでしょうか、それとも、「メアリー・フラーンシス・ヴィヴィアン・ロブ」と書かれていたのでしょうか。前者であれば、メイは、日常使用することのない、洗礼名を書いたことになります。後者であれば、メイのパートナーのロブ嬢だったことになります。どちらにしましても、「メリー」という表記ではなかったのではないかと思われますが、しかし一方、同行者である濱田庄司は、『無尽蔵』(講談社、二〇〇〇年)のなかで、「テームス川上流のケルムスコットに、モリスの旧居を訪ね、まだ健在だったモリスの妹さんから、モリスの日常をいろいろ聞いている」、と書き記しています。このとき応対したのが「モリスの妹さん」だったのであれば、メイでもロブ嬢でもなかったことになります。

この訪問のとき、一行は、モリスのケルムスコット版『チョーサー作品集』を手にとって見ています。しかし、その後柳は、ケルムスコット・プレスが生み出した書籍について、以下のように論評します。

 尤も忌憚なく云ふと、私はケルムスコット・プレスに感心しない點が數々ある。第一活字が餘りゴシックの風に捕はれてゐて、寧ろ讀みづらい所がある。…第二に私はモリスの挿繪を好まない。……あの十五世紀の木版画の卓越した挿繪と比べて、如何にその差がひどいであらう。モリスもそのことは知つてゐたであろう。併し彼が青年の時受けたプレ・ラファエライト派の畫家達、特にロセッティの感化は彼に致命の傷を與へたと思へる。ロマンティクの畫風で何れも甘く弱い。バーン・ジョーンズなどゝの提携も彼をいたく不利にしたと思へる。かくして彼は終生プレ・ラファエライトの畫風から一歩も出ることが出來ず、不思議にも彼が愛したゴシックの確かさを逃がして了つた。有名な「チョーサー」の如きは挿繪から見ると甚だ面白くない

『チョーサー作品集』の八七葉の挿し絵(イラストレイション)は、モリスではなく、エドワード・バーン=ジョウンズの手になるものでした。また、モリスが、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやバーン=ジョウンズと深いかかわりをもつことがなかったならば、モリスのあのような生涯と芸術は存在しなかったにちがいないというのが、おそらく、当時も、そして今日においても、変わらぬおおかたの解釈のように推量されます。

それでは、こうも柳がモリスを批判する根拠は何なのでしょうか。「工藝美論の先驅者に就て」のなかで、柳はこのようなことを書いています。

 社會主義的思想の主張に於て、又運動に於て、更に又その實際化に於て、特に工藝に於ける極めて多面な活動に於て、モリスの一生は眞に目覚ましいものであった。……
 だが彼は私達の前に如何なる作を示し得たか。それは美術家が試みた工藝と云ふ迄に過ぎないではないか。あの中世代の工藝は工人達の工藝であつて、美術家の工藝ではなかった。彼の一生は遂に此ディレンマから脱する事が出來なかった。彼は「モリス」の名に於て作つたのである。彼が熟愛した中世代の作の樣に無銘なものでもなく又民衆の手から作らるゝものでもなかつた。まして用を第一に作られたものではなかった。單に美術家が工人に名を變へたと云ふ迄である。用を二次に美を主として工夫された作品である。美意識から發したので、あの古作の樣に無想から發したものではない10

柳の主張するところによれば、名もなき工人が無想のうちに用を第一義としてつくった作が真実の「工藝」であるにもかかわらず、モリスの作は、「モリス」という名のもとに、美を念としてつくられた美術作品であるがゆえに、「工藝」の名に値しない、ということになります。

それでは仮に、名もなき工人が無想のうちに用を第一義としてつくった作が「中世代の工藝」であったとして、その定義を是として唱道した指導者が、中世の時代に存在していたのでしょうか。工芸の成り立ちは、人類の起源にまでさかのぼることができるように、生活、社会、経済、技術などのすべての生存のための現実的要素が複合された自然発生的なものだったにちがいありません。それが実際であれば、たとえ柳が理想とする「中世代の工藝」にあってさえも、「民藝運動」も「民藝派」も、まして「柳宗悦」に類する名も、存在したはずはありません。「中世代の工藝」の復活を真に願うのであれば、完全に社会の組織と生産の原理を中世に存した同等なものへと変革しなければなりません。そして、それが完全に実現した暁には、「民藝運動」も「民藝派」も、まして「柳宗悦」に類する名も、原理上、どこにも見受けられることはないはずなのです。そう考えるならば、「民藝運動」であれ「民藝派」であれ、それは、「柳宗悦」の名のもとに、復古的にも中世を借用した、「近代」という時代を飾る一工芸のさながら宗教的熱狂にすぎなかったことになります。

そもそも、工芸は、機械の出現以前にあっては、人間の実際の生活を成り立たせるあらゆる品物の生産と消費にとっての原理となる部分でした。したがいまして工芸は、時代の生活様式や経済体制と切っても切り離せない関係にありました。そのため思想家や理論家が、ひとたび理想の工芸を語ろうとするならば、その表裏の関係にある、それを成立させるうえでの理想の社会像を語らなければなりませんでした。そうした観点からすれば、なぜ柳は、自らが信奉するギルド社会主義に基づき、同時代の政体を刷新すべく、政治の先頭に立たなかったのでしょうか。あるいは、変革後の人間社会を明示するような「ユートピア便り」を書かなかったのでしょうか。つまり、柳は「社会的ヴィジョン」を示すことがなかったのです。そこが、モリスと柳の、ひとつの決定的な違いだったように思われますし、モリスと違って、柳思想の後世への影響力が極めて限定的であった所以なのではないでしょうか。

英国にあっては、第二次世界大戦が終わると、福祉国家政策の推進と相まって、いわゆる新左翼に属する人たちによってモリスの社会主義が再発掘されました。七〇年代になり、デザインの近代運動が終焉すると、ただちにモダニズム以前のアーツ・アンド・クラフツとアール・ヌーヴォーが再評価されてゆき、九〇年代以降、環境問題が顕在化すると、グリーン主義者や環境保護運動家のあいだで、モリスの思想と実践が歴史のなかから呼び出されてゆくことになるのです。他方、柳の場合はどうでしょうか。戦後の日本の節目節目にあって、戦前の柳の思想と民芸の実践が、あるいはそれを支えるものとして想定されていたギルド社会主義が、再検証され再生されていった形跡が、どれほど歴史のなかに残されているかといえば、それは、必ずしも明示的ではありません。そのような点から見てみますと、英国におけるモリスと日本における柳とは、その影響力の射程の長さにおいて大きな違いがあったように感じられます。

もっとも柳は、戦後に公にされた「民藝の立場」(一九五六年)と題された文において、「私共の民藝運動は、決してモリスに由来するものではない。東洋人としての直觀に立つて仕事を始め出したのである」11と、回顧しています。柳は、民芸運動のひとつ前のアール・ヌーヴォーについても、同時代のバウハウスについても、ほとんど何も言及していません。それなのに、なぜ、さらに過去にさかのぼるモリスについては、かくも痛烈な批判を展開したのでしょうか。民芸運動が「モリスに由来するものではない」のであれば、本来的には、アール・ヌーヴォーやバウハウスに対する無関心的態度と同様に、あのようなモリス批判の数々も同じく不要であったにちがいありませんし、ひたすら柳は、西洋的な文脈にみられない、独自の「東洋人としての直觀に立つて」粛々と自らが信じる工芸運動を展開すればよかったのではないかと推量されます。しかし、あれだけのモリスへの批判を繰り返していたところを見れば、事態は逆で、意外にもほとんど柳の精神には、モリスの思想と実践が憑依していたのかもしれません。

最後に一点。柳は、モリスのことを「工芸家」、あるいは、真の「工芸家」に徹しきれなかった「美術家」とみなしていますが、実際にはモリスは、「デザイナー」としての職能に就いています。発想から製作までのすべてのプロセスに、おおかたひとりで関与するのが工芸家であり、その一方で、デザイナーは、ひとつの素案やひとつの計画を創り上げることをその職分とし、実製作については、もっぱら専門的な知識や技術を有する職人や工人が行なうことになります。モリスは、「ハマスミス・ラグ」にみられるように、実際に織機の前に座って製作も行ないましたが、それはごく一部のことにすぎず、壁紙もテクスタイルも造本も、そのいずれの領域でもモリスの行なったことは、デザインの創案でした。ここに、生産プロセスの分割が認められることになり、分業が立ち現われます。他方、画家のエドワード・バーン=ジョウンズも、建築家のフィリップ・ウェブも、ともにモリス商会の協同における重要人物でした。そして、それを支えていたのが「フェローシップ」というきずなでした。その意味で、モリスは、単にデザイナーであるだけではなく、画家や建築家との協同のもと、ヴィクトリア時代のひとつの刷新された生活様式を総合的に提供するプロデューサー的な経営者でもあったわけです。

柳が、モリスを単に「工芸家」として同定する限りにあっては、あるいは、真の「工芸家」になり得なかった「美術家」として批判する限りにあっては、柳は、モリスのおおかたの作品は、胚胎された事物の原案(デザイン)であり、その出現は、モリス商会を通じての分業と協同によるものであったという事実を見落としていた可能性が残ります。そのことに気づいていたならば、モリス批判も、もう少し違ったものになっていたかもしれません。

(二〇二一年)

(1)「工藝美論の先驅者に就て」『柳宗悦全集』第八巻、筑摩書房、1980年、195頁。

(2)書評「大熊信行『社會思想家としてのラスキンとモリス』」『柳宗悦全集』第十四巻、筑摩書房、1982年、520-522頁。

(3)同「工藝美論の先驅者に就て」、202頁。

(4)同「工藝美論の先驅者に就て」、同頁。

(5)同「工藝美論の先驅者に就て」、202-203頁。

(6)同「工藝美論の先驅者に就て」、204頁。

(7)「工藝雜語」『柳宗悦全集』第八巻、筑摩書房、1980年、572頁。

(8)濱田庄司『無尽蔵』講談社、2000年、60-61頁。

(9)前掲「工藝雜語」、574頁。

(10)前掲「工藝美論の先驅者に就て」、201-202頁。

(11)「工藝の立場」『柳宗悦全集』第十巻、筑摩書房、1982年、247頁。