中山修一著作集

著作集11 研究余録――富本一枝の人間像

第一編 富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す

第四章 結婚してから
     ――正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない

一九一四(大正三)年の一〇月に結婚をし、翌年の三月に住むところを喧騒の都会から田舎の村へと移し、同年の八月に第一子の陽が誕生する。一枝の「同性の愛を豫防撲滅」するにちがいないと考えられる手立ては、これですべてが整い、晴れて新生活がはじまった。

すると、ちょうどこの年の六月、羽太鋭治と澤田順次郎の共著になる『變態性慾論』が春陽堂から出版された。著者の肩書きは、羽太鋭治が「ドクトル、メヂチーネ」、そして澤田順次郎が「國家醫學會會員」となっており、総頁数七〇〇頁を超える大部なもので、主として同性愛と色情狂を扱っていた。明確な証拠は見出せないが、おそらく憲吉と一枝は、この本を読み、ここから多くのことを学んだものと思われる。

この本の「第一編 顚倒的同性間性慾」の「第七章 女子に於ける先天的同性間性慾」が、内容的に、とりわけふたりの関心事になったであろう。まず「緒論」のなかで、女性間性欲の海外での名称として、「サフヒズム」「レスビアン、ラブ」「レスビアニズム」などが使われていることが紹介され、一方わが国においては、異名として「といちはいち」「おめ」「でや」「おはからい」「お熱」「御親友」などの隠語があり、「おめ」とは「男女」を指すことも述べられている。「緒論」に続いて、この第七章は、「第一節 女性間性慾の原因」「第二節 女性間性慾の行はるゝ社會の階級」「第三節 女性間性慾者の情死」「第四節 外國に於ける女性間性慾」「第五節 女子精神的色情半陰陽者」「第六節 女子同性色情者」「第七節 女性間同性色情と男子的女子との中間者」「第八節 男性的女子」「第九節 男性化又男化」の全九節で構成されている。そしてさらには、「第九章 顚倒的同性間性慾の利害及び其社會に及ぼす影響」の「第三節 矯正及び治療法」もまた、ふたりにとって興味のある箇所だったものと思われる。というのも、ここには、催眠術によって異性に対する性欲を回復させる「催眠療法」、運動、食物、精神の慰安による「攝養法」、そして、異性との正式な交接を招来する「結婚療法」が挙げられていたからである。

安堵村への転居後、最初に発表した本格的な一枝のエッセイが、一九一七(大正六)年の「結婚する前と結婚してから」(『婦人公論』一月号)であった。そのなかで一枝は、結婚する前の生活を、こう振り返る。

 私は思ふ。自分の過ぎこしは、あの美しくしか ママ 果敢い 石鹸玉 シヤボンダマ の、都大路に誇ら[し]くかなしく吹きすぎたるやうに!!54

そして後段で、再び次のように、同じ石鹸玉の比喩表現を使う。意識的であったのか、無意識的であったのかはわからないけれども、繰り返しの手法を用いることによって、結果的に、「都大路のシャポン玉」は、より一層強調されることになる。

 私の意志と、私の希望は最後まで騒音の都大路に高く誇ら[し]く、しかし悲しく浮き上り光つた果敢い 石鹸玉 シヤボンダマ に過ぎなかつた55

明らかに以上のふたつの引用からわかるように、一枝は、誇らしく美しくもあるが、悲しくはかなくもある、あの空高くに舞い上がったシャボン玉のような両義的な存在として、自分の結婚する前の生活を認識しているのである。そして、青鞜社時代の自分を、こう振り返る。

 評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと 悶躁 もが いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした56

振り返って内省してみると、青鞜社員のときの自分が、寂しく、もがき、そして、うそをつき、人をだまし、またあるときは、人をいじめ、人を愛する――そのような人間であったことへと思いが至る。これこそが、数年前の自分の「新しい女」の内実だったのである。確たる信念があるわけではなく、確たる理想があるわけでもなく、おもしろおかしく、奔放に振る舞う「紅吉」がそこにあった。

一枝は、この「結婚する前と結婚してから」のなかで、こうも書いている。「都會を出立して田舎に轉移した彼と私は彼の云ふ高い思想生活を私達の爲めに營むべく最もよい機會をここに見出したことに強い自信とはりつめた意志があつた」57。そしてさらには、「彼は、都會は、私を必ずや再び以前に歸すことを、再び私の落着のない心が誘起される事をよく知つてゐた」58。憲吉と一枝の夫婦は、結婚をひとつの好機ととらえ、一枝のいうところの「落着のない心」、つまり同性へ向かう性的指向が二度と誘発されることがないことを強く望んだ。そのためには、都会を離れ、対象となるような若くて美しく才能あふれる女性と触れ合う機会がほとんどないこの大和の田舎へ移転し、高い精神性のもとに新しい生活をはじめることが、ふたりにとっては、どうしても必要であった。しかしながら、一枝の「落着のない心」は、「彼の云ふ高い思想生活」で本当に解決するのであろうか。そこには大きな苦闘が横たわっていたであろう。

そのこととはまた別に、本人が述べているように59、そしてまた、他人が観察しているように60、一枝は、必ずしも「新しい女」ではなく、本来的に、母ゆずりの良妻賢母主義的な「旧い女」の側面を有していた61。そこで、脳天気に振る舞った「青鞜の女」から自己を解き放し、まさしく「近代の女」へと生まれ変わらなければならない状況に立たされていることを、この時期一枝は、正しくも自覚したであろう。そしてまた、夫である憲吉も、そのことを指摘したであろう。セクシュアリティーの問題に加えて、女としての生き方の問題が、そこにあった。しかし、頭ではわかっていても、一瞬にしてすべてを葬り去ることは、容易なことではない。アイデンティティーの喪失にもつながりかねない問題なのである。簡単に前へも進めない、かといって、後ろにしがみつくこともできない、極めて深刻な心的環境に身を置いていたにちがいなかった。しかも、憲吉は強く過去の思想との決別を求めたであろう。しかしながら、憲吉と一枝には、近代精神の体得という観点から見れば、年齢的な差もあり、体験、知識、語学力のいずれの面においても、おそらくいまだ大きな開きがあった。一枝は、ふたりのあいだの意識の隔たりだけが、大きな口を開けて、飛びかかってくるような思いに、ときとして駆られていった。

 彼と私は、思想に於いてまだまだ ひど く掛け離れてゐる。長い間語らずに怒り合ふ時もある。二人とも興奮しきつて沈黙つて大地をみてゐる時もある。もう別れてしまふやうな話までもち出す。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない62

憲吉は離婚について口にすることもあった。そのようなとき、周りの美しい自然に目を向ける。「私達は今田舎にゐる。それが心の爲めにも身體の爲めにも非常に好い。ここは美しい。私達は結び合つた山と、いくら見ても遥かな田園の空氣を吸つて常に最も深い熱心を以て生活を營むでゐる」63。そして、いまの自分たちの姿を見つめなおす。喜びが胸に込み上げる。「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる。そして私達は、私達の全力を注いで幼兒の敎養と私達の仕事につき進んでゐる」64。憲吉が、一枝を「指導してゐる」のは、ひとつには、一枝のセクシュアリティーにかかわる問題であり、いまひとつには、妻であり母であることにかかわる問題だったにちがいない。一方では、体の性と心の性がどうしても一致しない違和感や不安感、他方では、自我を殺し、家に縛られる女性像と、そこからの解放や自立を求め、行動する女性像とのあいだの越えがたい溝――つまり、ある意味宿命的ともいえる、二重の克服すべき困苦を一枝は背負っていたのである。後述する三年後の言葉にはっきりと現われているように、憲吉はこの時期、自分の仕事に対してのみならず、こうした一枝が抱える問題に対してもまた、前時代的で封建的な精神を乗り越えて、求道者のごとくに「高い思想生活」を追求しようとしていたものと推量される。

以上が、一九一七(大正六)年ころの一枝の心の状況であった。この年の一一月に、第二子の陶が誕生した。一枝が書くものは、そのときどきの心の情景をそのまま映し出す鏡に似ている。二年後の一九一九(大正八)年の「海の砂」(『解放』一二月号)では、いまの自分をこう語る。

 久しい間、幾年か私は、自分を不良心なものと思つたし、不徳義なものだとして見てゐたし、不道徳な人間だと思つて見過して來た。勿論、それを恥ぢた[こ]ともあつたし、強く責めて來た時もあつたが、とかく眞實の自分を探りあてる間近になると卑怯にも一時逃れをやつてゐた。それが「或る事」から、まるで考へが變つて仕舞つた。そしてどうにかしてそこに見つけた光りを、少しでも見失ひたくないと思つて、どれだけ一心に唯その光りに寄り縋つて來たろう。限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること、それが自分の探るべき一つのものであつた65

ここで一枝がいっている、「不良心」で「不徳義」で「不道徳」であったこれまでの自分とは、具体的にはどのような自分が念頭に置かれているのであろうか。こうした強い表現から推測すると、「らいてうとの恋」に溺れ、「五色の酒」に酔い、「吉原遊興」に耽る、かつての青鞜時代の天衣無縫な紅吉に止まらないように思われてくる。つまりそれは、美しい女性や才能をもった女性に強い関心を抱く、小さいころからの自己のセクシュアリティーを指し示しているのではあるまいか。もっとも一枝は、「とかく眞實の自分を探りあてる間近になると卑怯にも一時逃れをやつてゐた」と書いている。そのことから推量すれば、「眞實の自分」のセクシュアリティーに誠実に対峙することは、ついぞこれまでになかったのであろう。

ところが、それへの全き対峙が求められる状況へと環境が変わった。上の引用文のなかで、一枝は「それが『或る事』から、まるで考へが變つて仕舞つた」と述べている。「或る事」とは、憲吉との結婚を意味しているであろう。そうであれば、この引用文は、結婚をきっかけとして、異性あるいは同性が織りなす都会の誘惑から離れ、隠者のごとく、自然豊かなこの田園の村に移り住み、夫という「光り」を浴びながら、「不良心」で「不徳義」で「不道徳」であったこれまでの自分を捨て去り、「限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること」に己を向けようとしている、自己告白のように読める。たとえそうした血のにじむような努力がなされる状況に身を置くことになったとしても、そもそも本来的に、結婚することにより「同性の愛」は、本当に雲散霧消するのであろうか。不安はつきまとったであろう。というのも、『變態性慾論』には、それについて、こう書かれてあったからである。「結婚療法とは、異性との正式なる交接に依りて、治療する法をいふ。その効力に就いては、異論ありて、或る者は有効とし、或るものは無効無害とし、又或る者は無効有害とせり」66

長女の陽が次第に成長した。おそらく一九二〇(大正九)年の春のことであろうと思われるが、「満四才六ケ月かの時、彼女には四人の先生が出來ました。いよいよ正しい勉強法を始めたのです。英語國語理科音楽、この四科目をそれぞれの先生にお頼みして、私は一週間に七八時間、陽を連れて奈良に通ひました……數學は一番遅く始めました」67。向かう先は、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)の附属小学校だった。

一枝は東京にいた独身時代、よく上野の図書館に出かけていた。それを思うと、陽が附属小学校で放課後に勉強しているあいだ、待ち時間を利用して、奈良公園内にあった奈良県立戦捷図書館(現在の奈良県立図書情報館)へ行き、憲吉の仕事の助手や、女中や子どもたちがいるため家で読むのがはばかられたかもしれない『變態性慾論』に密かに目を通すことはなかったであろうか。熊本県立図書館との相互貸借によりいま手もとにある『變態性慾論』(大正五年八月一五日発行の第四版)には、「奈良県立戦捷図書館」の蔵書印がはっきりと押されている。詳細を奈良県立図書情報館に問い合わせたところ、この本の「受入(おそらく購入)は大正六年一〇月一〇日、分類番号は七〇九、旧登録番号は一七一〇五」という回答であった。所蔵の時期から判断すれば、実にこの本こそ、一枝本人が手にしたものだったのかもしれなかった。

陽を連れて付属小学校に通いはじめたと思われる一九二〇(大正九)年には、日本性學會発行の性的叢書の全一二編が、澤田順次郎を執筆者として、天下堂書房から順次刊行されていた。そのなかには、第三編『神秘なる同性愛 上巻』と第四編『神秘なる同性愛 下巻』が含まれており、内容的には、全体としては『變態性慾論』と大きく変わるところはなかったものの、最新の情報として、一枝の秘めたる知的欲求を満たすものであったにちがいなかった。著者の澤田順次郎は、「同性愛を治するには、先づ精神病學上より、是の原因(先天若しくは後天)を確めて、之れに對する療法を講ずること必要である」68と前置きしたうえで、前の共著と同じく、ここでも同性愛の治療法として、「催眠療法」「攝養法」「結婚療法」の三種を説くが、とりわけ「攝養法」には、次のような、具体的記述が新たに加わり、一枝の目を引いたものと思われる。

此の法の主要なるものは、運動、食養及び精神の慰安である。

 運動は室内に於いてするよりも、戸外運動の方が宜しい。遠足、遊戯なども有効にして、夏には水浴を試むるがよい。……轉地は必要であるけれども、學校、敎會、音楽會、等すべて同性の多く集合するところへ、出ることは禁じなくてはならぬ。それから食物は、亢奮性のものを避けて、成るべく沈静性のものを選ばなくてはならぬ。又、精神には慰楽を與へて、安静に保つべきこと勿論であるけれども、常に心に閑暇を生じさせるよう、仕向けなくてはならぬ。斯くの如くして、固く攝養を守るときは、是の疾患は次第に薄らいで、異性に對する性慾を、恢復することがある69

「催眠療法」については、澤田は、「軽症の者には適するけれども、重症の者にあつては、殆んど無効なりと謂ふの外はない」と記述する。そうであれば、「結婚療法」はもはや該当しないので、一枝にとっての有効な治療法は「攝養法」に絞られ、とりわけ、戸外運動(とくに夏の海水浴)、食事(亢奮性食物の忌避と沈静性食物の摂取)、それに心の閑暇(精神的な慰楽と安静)に加えて、女性の集まる場所への出入りの禁止が、その当時の一枝には当てはまったのではないだろうか。

ちょうど同じ一九二〇(大正九)年、憲吉は、『女性日本人』一〇月号に「美を念とする陶器」を寄稿した。そのなかで憲吉は、陶器だけではなく、自分たちの考えや生活も見てほしい、と読者に呼びかける。

 私の陶器を見てくださる人々に。何うか私共の考へや生活も見てください、私は陶器でも失敗が多い樣にいつも此の方でも失敗をして居りますが陶器の方で自分の盡せるだけの事をしたつもりで居る樣に此方についても出來るだけ良くなるためにつとめています。それが縦ひ非常に不十分なものであつても70

ここからわかることは、前述のとおり、明らかに憲吉は、陶器と生活とのふたつの事象についてともに改善を図ろうとしているということである。生活における改善のなかには、一枝のセクシュアリティーの克服に関する問題や、女性としての近代的な生き方に関する問題が含まれていたものと思われる。

それでは、改善が進むこの時期の日々の暮らしのなかにあって、一枝は、陽と陶のふたりの娘に対しては、どのような態度で接していたのであろうか、その当時の一枝の文から少し拾い上げてみる。

一九二一(大正一〇)年に発表された一枝のエッセイは、子どもに関する内容のものが目立つ。たとえば、「子供と私」(『婦人之友』一月号)や「子供を讃美する」(『婦人之友』五月号)がそれに相当する。この年の八月に陽は満六歳の、陶は一一月に満四歳の誕生日を迎えている。

前者の「子供と私」の冒頭において、一枝はこう告白する。「『子供と私』を書くについて、私は考へました。私は子供について書く資格が本當に有るだらうか。恥づかしくはなからうか。恐らく自分は子供について書けないのが本當で、書くのは間違つてゐるのだと。……しかし、また思い返してみると、書くのが本當のやうに思はれたのです。これを書く事は自分が子供にもつてゐる心なり態度を深く反省する機會にもなるし、或意味で正直に自分の態度を責めてもらへる事にもなると思つたのです。……最初に書いて置きます。私は子供にとつて決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません」71

なぜここまで、母親としての自分を責めるのであろうか。一枝の性自認が「男」であったとするならば、それに起因して、子どもを慈しむ母性のような母親固有の感情がどうしても湧いてこなく、それを自覚したうえで、「決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません」と、いっているのであろうか。それとも、当時の書物に記述されている「先天性の性的転倒者」であり「精神病患者」である己の身は、子どもの母親となるにふさわしくない――そういう刷り込まれた思い込みが、強い自責の念を引き起こしているのであろうか。その延長として、女へと向かう一枝の性的指向が改善されずに温存されていたとするならば、男たる夫の憲吉へは性的な関心が醸成されず、夜伽の交渉も、ほとんど成立していなかった可能性が残る。こうした一枝の子どもと夫に対する接し方は、母の教えであると同時に自ら求める「良妻賢母」の思想に根拠を置く「旧い女」とも、憲吉が一枝におそらく要求していたであろう「近代の女」とも、大きく異なるものであった。別の言葉に置き換えるならば、このとき一枝は、いずれの女性像の観点から見ても、完全なる闇のごときその裏側を生きていたことになる。こうした暗部を目にするときに、憲吉は、「別れてしまふやうな話までもち出す」ようになっていたのではないだろうか。

他方、後者の「子供を讃美する」では、少し趣が変わって、一枝は、次のような表現を使って、大自然のなかに純真さをもって存在する子どもをほめたたえる。

 子供はいい。歓喜と幸福と純粋の中に跳ねまわつてゐる様子をみると、羨ましいので心をうたれる。子供はいつでも愉快で、いつでも生き生きとして大自然から生れたまゝで、幸福と云ふものを たなごころ にのせて、自由自在にそこからふりこぼれる光りにつつまれてよろこんでゐる。大自然の寵愛を思ふ存分受けてゐるのも子供だ。美しい自然の風景に、いきなり飛びこむことも、すぐ出來る。大空で朗かに歌う小鳥と一緒に歌へる。太陽と月と星に言葉をかけて得心してゐる單純な、しかも強烈な空想と想像力。どれもこれもなんと云ふ輝かしく豊饒な賜物だらう。子供程大自然に歓喜を感じるものはないと思ふ72

ここには、紛れもなく、安堵の豊かで美しい自然のなかでのびやかに成長する、陽と陶の歓喜と幸福感が描かれていると考えていいだろう。しかし、その一方で、自己の内面にも、目が向かう。自分の歓喜や幸福感は――どこにあるのだろうか。同年翌月の「安堵村日記」(『婦人之友』六月号)に、一枝は、このように書く。

 くらいところ、おちてゆく程、自分を責める態度が強くなつてくる。他人を責めることの上手な自分は、かつて他人を責めたより、もつと激しい強い力で自分を責めてゐるのだ。それから、自分を底の底まで侮蔑してゐる。意地悪く卑める。自分の痛い痛い傷を、實に残酷にしつこくあばく、ほじくりたおす。自分程、いやな人間、悪い者は、もうゐないのだと云ふ事を、自分に無理にでも思ひこませようとする氣持がひどい音をたてて荒れ狂ふている73

この時期、厳しい自己嫌悪と自己批判が一枝のなかで渦巻いていたことは確かであろう。けがれなき自然と子どもに比べて、自らの存在は、際立って醜く映る。その一方で、子どもの純真さだけではなく、自然の美しさに、心がいやされる。「今夜ほど星のきれいな晩は近頃になかつた。……美しい夜だった。私の心は今、實に静かで、きれいだ。どうぞ、子供達に祝福あれ」74。このようにして、『神秘なる同性愛 下巻』の「攝養法」に明記されていた「心の閑暇(精神的な慰楽と安静)」を、何とか、身近な自然に求めて、保とうとしていたのかもしれない。

一枝は、翌一九二二(大正一一)年の一一月号と一二月号の二回に分けて「母親の手紙」を『女性』に連載した。子どもたちが、富本家の個人的な私設学校である「小さな学校」に通いはじめて、半年ほどが経過した時期である。かなりの長大な手紙である。かいつまむと、こうなる。「身体だけではなく、あなた方の知恵も、たましひも、見事にのび、善くそだつたのを母さんはどんなにうれしく沁々見やつたことでせう」75と、子どもの成長に喜びを感じ、「陽ちゃん、陶ちゃん、母さんはあなた方のために、やつぱり夢中で暮してゆきます。母さんは、どんなに苦しいことに出逢つてもあなた方のために、生きてゆきます。あなた方の愛と信頼は、母さんに自重、勇氣、忍耐、謙遜、を敎へ示してくれる筈です」76と、自分にとっての子どもの存在の大きさに言及する。子どもの父親のことについては、こういう。「お父さんは、美しい心をもつた、人間の心を温かく結びつけ、人間の生活にうるほいのあるやうな陶器を焼成さすためにどれだけ苦しんでゐらつしやるかわかりますか、お父さんの苦しい氣持や、出來てゆくお仕事をいつも間近で見たり、きいたり出來てゆくあなた方や母さんは、どんなにしあわせでめぐまれてゐるかしれません」77。そして、自分の未熟さや未完成さの補完を、子どもに託す。「母さんに出來なかつたものは、あなた方がその續きをしてくれる。そして不完全からだんだん完全にうつつてゆくのだからそうさびしく思はなくてもよいと、母さんの別の心が母さんを慰めてくれるのもその時です」78。そして、最後をこう結ぶ。

 母さんがあなた方に手紙をかきたいと思つたきもちが、いま母さんには、はつきりわかりました。ありがとう、陽ちやん、陶ちやん、母さんはあなたがたにおれいをいひます。

 あなた方のために、母さんはいつでもともするとふみかける汚れた道を踏むことなくして、別の正しい路をさらにさがしにゆくことが出來るのです。……

 あなた方よ、愛しあつて下さい。助け合つて下さい。そして幸福でゐてください79

以上が、この「母親の手紙」一二月号の要旨であり、一枝は子どもたちに感謝する。ふたりの娘の成長とともに自らも成長しながら、この時期の一枝は、もはや「汚れた道」へと進むことなく、子どものためにも「別の正しい路」を見出そうとしているのである。

すでに見てきたように、『神秘なる同性愛 下巻』には、一枝に適合しそうな治療法として、戸外運動(とくに夏の海水浴)、食事(亢奮性食物の忌避と沈静性食物の摂取)、心の閑暇(精神的な慰楽と安静)に加えて、女性の集まる場所への出入りの禁止といった項目内容が記載されていた。おそらく一枝は、これに従ったであろう。一枝の「戸外運動(とくに夏の海水浴)」にかかわる様子については、わずかではあるが、以下のような資料が残されている。このころ一枝は、中江百合子と出会っている。出会いの経緯は、はっきりしないが、憲吉は、東京美術学校時代に、先輩で画家の南薫造を頼って英国へ留学していて、「中江百合子は、南[薫造]とは一番町教会、後には富士見町教会での直接の縁もあってか、既に明治四四年の富士見町教会での南の個展で絵を買っている」80。おそらくこうしたことが背景にあって南は、その当時、関西の実業家の中江家に嫁いだ百合子を、奈良の安堵村に住む憲吉と一枝に紹介していたものと思われる。ところが、長男が身代金目当ての誘拐事件に遭う。この事件は無事に落着したものの、中江一家は、一九二〇(大正九)年末に東京へと引っ越すことになり、一枝は、上京のおりに、しばしば、本郷区弓町にあった中江宅に逗留する間柄になった。百合子は、「東京に来てからまた教会に通うようになっていた」81。誘拐事件以降の長男の精神的不安定を心配してのことであった。一枝も、自己のセクシュアリティーについて不安を抱えていた。のちに中江家の三男と結婚し、中江家に入った泰子は、次のように百合子と一枝との当時の交流の一端を紹介している。

 今、私の手元に一通の手紙が残されている。それは姑[中江百合子]が大阪時代から親しく交際していた大和安堵村時代の富本憲吉夫人一枝さんに宛てた、巻紙の四メートル余にもおよぶ長文の手紙である。……長男について、姑がどんなにか深く心配し、迷い、悩みの果てに、祈りによって何とか生きる望みをもとうとした心境が縷々と綴られていて心が痛む。手紙の中で的矢の海岸で富本一家と過ごした夏休みに、富本家の二人の子供さんたちと元気に泳いで喜んでいる長男を見て、運動でもさせれば明るくなるのではと、一日も早く彼のためにテニスコートが欲しい、とも記している82

この的矢の海岸での海水浴は、長男の心について悩む百合子と、自分自身の心について悩む一枝との、心をあわせた、ひと夏の「戸外運動」だったのではないだろうか。百合子と一枝の交流は、その後も生涯続く。

次に、一枝の「食事(亢奮性食物の忌避と沈静性食物の摂取)」については、どうであったろうか。これについても、わずかな資料しか残されていない。憲吉は釣りが好きだった。釣果は、一枝の手によって甘露煮となる。しかし一枝は、この甘露煮を食しない。「この間から煮かけてゐた川魚がやつとたきあがつた。手釣りの鮒の甘露煮だ。子供達もおいしがつてたべた。こんなうまいものを、どうして喰べないのかと笑はれた。たべものに、好き嫌ひのあまりに強過ぎる自分を、子供達のために困つたと思つた。幸ひ、子供達にはまだこの困る癖がついてゐないので安心だ。しかし自分にこの癖がある事を子供達に知られないやうに可成りの苦心がいつた」83。次女の陶は、こう回想する。「そうそう、大和には古いレンジがありました。炭の上に乗せるものでね。……でも、[母は]料理はあまりしなかったようですね。パンやジャムなどを作るのは好きでしたが。母は白身のお魚、父はすき焼きが好き」84。これらの言説の内容が、亢奮性食物の忌避と沈静性食物の摂取に関連しているものかどうか、それは、即断することはできない。

最後の、「女性の集まる場所への出入りの禁止」という項目については、一枝はどう対処したのであろうか。一枝が、女性の集まる場所へ積極的に出かけていたことを例証する資料は見当たらない。おそらく自制していたものと思われる。しかしながら逆に、若い女性たちが、一枝を慕って、安堵村へ足を運んでいたことを示す資料は、幾例か残されている。

一九二一(大正一〇)年五月に、羽仁もと子が園長を務める自由学園高等科に一期生が入学した。そのなかには、のちに童話作家で児童文学者となる岡内 籌子 かずこ (のちに村山姓)や社会運動家として活躍する田中綾子(のちに石垣姓)が含まれていた。以下は、村山籌子研究家のやまさき・さとしの文であるが、富本憲吉夫妻と岡内籌子の出会いについて描写されている。

大正十二年三月末から四月のはじめにかけて、卒業旅行と称して彼女たち一期生一行はミセス羽仁とともに(総勢二五名)横浜港発の欧州航路伏見丸の一等船客となり、「西洋」を勉強しつつ、神戸に上陸して奈良近辺の「東洋」を学んだが、奈良では全員、富本の[本宅の]屋敷に泊り、かれの案内で仏像をみて廻った。しかし籌子に衝撃を与えたのは憲吉のカマドであり、その夫人、一枝との対面であって、青鞜の流れを汲む富本一枝はその後籌子の受難時代にその胸を貸して終生の友人となったし、憲吉はのちに籌子の遺言によって墓碑銘を揮毫するのである85

それから数箇月後の一九二三(大正一二)年の夏、田中綾子が、再び安堵村を訪ねてきた。のちに執筆する石垣綾子の自伝『我が愛 流れの足跡』に、そのときの様子が、このように書き記されている。

一枝の美しさとそれに魅了された自分について、まず、このように書き出す。

 女学校を卒業後、学んだ自由学園で、私は富本一枝と顔見知りになっていた。彼女はいつもすらりと伸びた長身の背すじをのばし、髪は前を少しふくらませて上へ持ち上げ、くるくると束ねて長いえり足をみせていた。観音像を思わせる顔には 白粉 おしろい 気はなく、久留米がすりの対に黒い半衿、幅の狭い帯を低めにゆったりしめている。常識をこえたしゃれっ気と、絵描きらしい独特のセンスがゆきわたっていた。かつて平塚らいてうが愛し、また多くの若い女性に恋心を抱かせた、不思議な美しさに、私も心惹かれたのである86

次に、家のなかの一枝について述べる。

 自宅に窯場を築き、陶芸に精魂をこめる憲吉は、家事はすべて一枝まかせであった。台所で魚を焼いたり、煮ものをしたりする一枝の傍には、必ず本やノートが広げられていた。彼女はその頃、羽仁もと子の『婦人之友』にも詩や随筆を寄せていたが、それはみんな、こうして書かれたものだった87

続けて記述は、子どもたちへと移る。ある晴れた夕方のことであった。庭で遊んでいた陽と陶が、沈みゆく夕陽を見て、その美しさに感動すると、叫び声を上げて母親を呼ぶ。

 家の中からとび出て来た一枝は、両側に寄り添った二人の娘の手をとり、親子三人は、声もなく、斑鳩の田園地帯の彼方、生駒の山なみに沈む夕日に見とれて、立ちつくしている。田の面の水が夕映えを映して光り、蛙が鳴いていた。太陽が没して山の黒い輪郭の上に金色の空が残り、あたりが次第にたそがれてきても、三人はそのままでいる。そのシルエットは、それだけで完結した一つの世界であった88

そして、夜になった――。「夜になると私は、夫婦が二人の女の子を挟んで寝る蚊帳に入りこんだ。夫婦には迷惑至極だったろうが、私は一枝のわきに眠れるのがうれしかった」89

これが、一〇代最後の夏に石垣が体験した安堵村での青春だった。そのとき石垣は、「漠然とした焦燥感に悩んでいた。何かをしたくてたまらないのに、何をすればよいのか解らないのだった。家に、世間に、反抗する気持は強かったが、確固たる自分があるわけではなかった。……どのような言葉で自分の悩みを打ち明けたのか、彼女[一枝]がそれに対してどんな助言を与えてくれたのか、もう思い出せないが、この人のそばにいるだけでなぜか心がやすらぐ思いがしたものである」90

(54)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、70頁。

(55)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、71頁。

(56)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。

(57)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、72頁。

(58)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。

(59)取材のために自宅にやってきた『新潮』の青年(記者)が、「それで貴方は、貴方自分を世間の云ふ『新しい女』と自認して居ますか」と問うと、それに答えて尾竹紅吉(一枝)は、こういっている。「いゝえ、――世間で云ふ新しい女と云ふものは、よく分りませんけれども、不眞面目と云ふ意味が含まれて居るやうですね[。]私は不眞面目と云ふことは大嫌ひです。私は寧ろ、世間で言はれて居るやうな『新しい女』と云ふものが實際にあるならば、『新しい女』を罵倒して遣り度く思ひます。『新しい』『舊い』と云ふことは意味の分らない事ですけれども、舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます。そして、私自身はどちらかと云ふと昔の女で、私の感情なり、行為なりは、道徳や、習慣に多く支配されて居る事を感じます。」(「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、107頁。)

(60)以下は、中野重治の富本一枝評である。「富本一枝さんはむかし青鞜社の一員だった。それは知っていたが、眼の前に見る一枝さんには一向『青鞜』らしいところがなかった。……『新しい女』どころではない。『古い日本の女』がそこにいた。『古い日本の女』は物のくれ方によく出ていた。……[祖師谷の家を]二度目か三度目かに訪ねた時そこに皿が一枚出ていた。……とにかく私がほめた。……それが好もしいという意味のことを普通にひと口いったのに過ぎなかった。しかし帰りに、靴をはいている私に彼女が紙にくるんでその皿を押しつけた。押しつけたというのは、拒否できない何気なさでそれを私に受取らせてしまったとういうことだった。」(中野重治「富本一枝さんの死」『展望』第96号、1966年、101-102頁。)

(61)たとえば、次の引用は、これについての一枝の記憶の一例である。「考えてみますと、結婚します時、私の母は、母が結婚の時に母の母から貰って来た先祖伝来の九寸五分の短刀を私に渡して、“帰りたくなれば、これで死ね”と言いました。私はその母のことばを忘れることが出来なかったようです。“ごはんは三膳たべてはいけない。おつゆは一杯だけにしなさい”母はそうも教えました。」(富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、177頁。)

(62)前掲「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、74頁。

(63)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、63頁。

(64)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、76頁。

(65)富本一枝「海の砂」『解放』第1巻第7号、1919年12月号、31頁。

(66)羽太鋭治・澤田順次郎『變態性慾論』春陽堂(1915年初版)、1916年(4版)、346頁。

(67)富本一枝「私たちの小さな學校に就て 1. 母親の欲ふ教育」『婦人之友』第18巻、1924年8月、28頁。

(68)澤田順次郎『神秘なる同性愛 下巻』(性的叢書第四編)天下堂書房、1920年、182頁。

(69)同『神秘なる同性愛 下巻』、195-196頁。

(70)富本憲吉「美を念とする陶器」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、50頁。

(71)富本一枝「子供と私」『婦人之友』1月号、1921年、55頁。

(72)富本一枝「子供を讃美する」『婦人之友』5月号、1921年、170頁。

(73)富本一枝「安堵村日記」『婦人之友』第15巻6月号、1921年、164頁。

(74)同「安堵村日記」『婦人之友』、168頁。

(75)富本一枝「母親の手紙」『女性』12月号、1922年、142頁。

(76)同「母親の手紙」『女性』、143-144頁。

(77)同「母親の手紙」『女性』、149頁。

(78)同「母親の手紙」『女性』、152-153頁。

(79)同「母親の手紙」『女性』、154頁。

(80)南八枝子『洋画家南薫造 交友関係の研究』杉並けやき出版、2011年、56頁。

(81)中江泰子・井上美子『私たちの成城物語』河出書房新社、1996年、42頁。

(82)同『私たちの成城物語』、41頁。

(83)富本一枝「安堵村日記」『婦人之友』第15巻6月号、1921年、159頁。

(84)羽田野朱美「回想・富本憲吉――陶工と出会った人々(2)」、富本憲吉研究会会誌『あざみ』第6号、1998年、112頁。

(85)やまさき・さとし「村山籌子解説」『日本児童文学大系 第二六巻』ほるぷ出版、1978年、565頁。

(86)石垣綾子『我が愛 流れと足跡』新潮社、1982年、7頁。

(87)同『我が愛 流れと足跡』、7-8頁。

(88)同『我が愛 流れと足跡』、8頁。

(89)同『我が愛 流れと足跡』、同頁。

(90)同『我が愛 流れと足跡』、同頁。