第三部 英国デザインの近代
第二章 アーツ・アンド・クラフツから近代運動へ
はじめに
これまでに書かれたヨーロッパにおけるデザインの
確かに両大戦間のこの時期、オランダのデ・ステイル、ドイツのバウハウス、フランスの純粋主義に比肩するような国際的に強い影響力をもったデザインの運動体も個人も英国には存在しない。その理由を結論的にいえば、英国の場合、ひとつには、アーツ・アンド・クラフツというあまりにも大きな遺産を一九世紀から引き継いでいたからであろうし、いまひとつには、その土壌にあって、イデオロギーの枠組みの刷新と連動してオブジェクトの視覚的外観を変えるまでの強い欲望が、おおむね急進的デザイン改革者たちのあいだに育成されなかったからであろう。そのようなわけで、英国に本格的な国際近代様式が大陸からもたらされるのは、一九二〇年代の末期以降のことになるのである。そのため、一方向的な国際的文脈に照らして近代運動を語るうえで英国が精彩に欠けることは否めない。しかし、近代運動へ連なる努力が全く払われなかったというわけではなく、またそうした中途半端で曖昧な(あるいは、別の観点につけば葛藤と抗争としての)かかわり方自体が近代英国の文化とデザインの独自な一側面である以上、捨象することなく、このことについて照明をあてることは、英国デザイン史の研究のうえでしかるべき意味をもつものと考えてよいであろう。
また、これまでの一般的な世界史的文脈での歴史認識にみられるような、第一次世界大戦をひとつの分水線として、それ以前とそれ以降を区分する見方は、必ずしも英国デザインの場合にあてはめることはできない。英国の場合、第一次世界大戦中の実践を含めて、旧い価値の受け渡しと新しい価値を巡っての抗争とが重苦しくも展開されていたわけであり、その点に着目するならば、今世紀のおおよそ一〇年代と二〇年代年は、確かに過渡期としての一定の連続性が認められてよいのである。
そこでこの小論では、従来見受けられた、絶対的な価値としてのモダニズムへの接近法を単に踏襲するのではなく、むしろ、マーティン・J・ウィーナーの指摘するところの「工場」と「田園」というあい対立する英国固有のふたつの文化的価値を念頭に置きながら、一九二〇年代末期までにあって、どのようにアーツ・アンド・クラフツを放棄しつつ(あるいは内包しつつ)、英国独自の近代運動への道は用意されていったのかを改めて検証することが目的とされている。
一.田園生活を求めて
アーツ・アンド・クラフツ運動の信条を的確に表現する言葉として、次のふたつの文言がこれまでしばしば歴史家によって引用され、使用されてきた。
……
役に立つかわからないものや、美しいと思わないものは、あなたの家にいっさい置いてはならない2。
これらの言葉は、ともに一八八〇年二月にウィリアム・モリスがバーミンガムで「生活の美」について講演したときのものである。アーツ・アンド・クラフツ運動は、文明世界によって破壊されてしまった「労働と使用の喜びとしての民衆芸術」を取りもどすための改革運動であり、同時に、破壊へと導いた機械文明への抗議運動でもあった。人間にとって真に「役に立つものや美しいもの」は、どのような労働の所産によって生み出されるのであろうか。そのような労働の産物としての芸術が共有される社会とはどのような組織原理によってつくられる共同体なのだろうか。こうした芸術的/社会的主題へ向けての実践が、アーツ・アンド・クラフツ運動の重心となるものであった。それでは当時、そのための実践の場と形式は最終的にどこに求められようとしたのだろうか。
一八七〇年代のはじめに、ジョン・ラスキンは「英国の職工と労働者」に対して、「イギリスの大地のしかるべきささやかなる部分を美しく安寧で豊穣なものにするように私たちは努めたい。そこには蒸気機関車も鉄道の軌道も欲しくない。……私たちは、庭にはたくさんの花と野菜を、野にはたくさんの穀物と牧草を手にしたい……」3と述べていた。ほぼ同じ時期モリスは、ある事情からオクスフォードシャーの田舎に別荘として使う〈ケルムスコット・マナー〉を見つけると、友人へ宛てた手紙のなかでそれを「地上の天国」4と形容し、その後、この別荘に咲き乱れる植物や野に遊ぶ小鳥を主題にした作品を生み出すことになった。確かにこの地は、ヴィクトリア時代の資本主義がもたらしていた賃金のための労働からも醜悪な製品の氾濫からも、無縁でありえた。その意味で、アーツ・アンド・クラフツは「田園への回帰」や「自然への回帰」、さらには「簡素な生活」と固く結び付くものであった。一九世紀も終わりに近づき、田園回帰運動が勢いを得るにしたがって、田舎生活を愛する信条は、アーツ・アンド・クラフツの実践形態へと移行していった。一八九三年には、アーネスト・ジムスンがバーンズリー兄弟とともにコッツウォウルズに移り住み、家具製作を再開しているし、遅れて一九〇七年には、エリック・ギルが自分の工房をロンドンからディッチリングの村へと移すことになった。こうした文脈にあって、とくに重要な意味をもつのが、一九〇二年のC・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校のチピング・キャムデンへの移転であった。なぜならば、それは、ある意味でアーツ・アンド・クラフツ運動の到達点を示す出来事だったからである。
一八八八年、二五歳のとき、アシュビーはロンドンのイースト・エンドにあるトインビー・ホールに手工芸ギルド・学校を設立した。そこへ至るまでに、すでに彼は、G・F・ボドリーのもとで建築家としての修業を積む一方で、エドワード・カーペンター、ジョン・ラスキン、そしてウィリアム・モリスから強い思想上の影響を受けていた。彼がはじめてカーペンターに会ったのは、ウォルト・ホイットマン流儀の散文詩『デモクラシーに向けて』が出版された翌年の一八八五年のことであった。その本のなかでカーペンターは、産業革命以前に存在していた簡素な田園生活への回帰を唱道していたし、彼の家に滞在したおりには、アシュビーは、彼がその実践者であることを知った。こうしたことが、「深い確信のもとに生涯をとおしてアシュビーに支持されていくことになるのである」5。しかし一八八七年に、「ギルドあるいは美術学校」への支持を期待してモリスに会いにいったときには、アシュビーは思わぬ失望を味わうことになった。というのも、「そのときまでにモリスは、芸術の救済は、芸術それ自体の内部にあるのではなく、……社会の変革のなかに存在することを確信するようになっていた」6からであった。そのときの様子をアシュビーは次のように日記に書き記している。
ウィリアム・モリスと大量の冷たい水。昨晩モリスと過ごした。面会の約束のもとに。美術学校の提案について。
彼は、それは役に立たないし、いま私が執り行なおうとしていることは、そのためのいかなる基盤にも基づいていない、という7。
確かにこのときは失望させられたものの、アシュビーは自らの理想主義を貫き、同志愛によって結ばれる工芸家の協同的営みを信じ、最終的に手工芸ギルド・学校を開設したのであった。さらに一八九六年にモリスが亡くなると、「ケルムスコット・プレス」の設備の一部を手に入れることによって「エセックス・ハウス・プレス」を興し、一九〇〇年には、自ら独自のタイプフェイスをデザインし、そのタイプフェイスは、『ジョン・ラスキンとウィリアム・モリスの教えに向けての努力』にはじめて適応された。しかしアシュビーにとって、喧騒のロンドンに欠けていたものがあった。つまりそれは、カーペンターのロマン主義的社会主義に認められるような、簡素で正直な田園生活のなかにあって展開されうる同志的結合であった。そしてそれは、モリスにとってのフェローシップでもあった。社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に一八八六年から掲載が開始された『ジョン・ボールの夢』のなかでモリスは、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である。つまり、フェローシップは生で、その欠如は死なのである」8ことを述べていたのである。
二.チピング・キャムデンでの実験と失敗
アシュビーが求めた田園は、コッツウォウルズに位置するチピング・キャムデンであった。この小さな村は、セント・ジェイムズ教会に象徴されるように、中世にあってはコッツウォウルズ地域の羊毛の集積地として、またヨーロッパへ向けての販売の拠点として繁栄していた。しかし一九世紀の後半に至ると、農業の衰退が進むにしたがって人口も減少し、また一八五三年の鉄道の開設に際しては、この地域を遠巻きにするように軌道が敷設されたこともあって、近代文明から取り残された、産業革命以前の「未発見」の田舎という様相を呈していた。一方八〇年代に入ると、田園回帰運動への熱狂に促されて、幾人かの芸術家や建築家たちがすでにこの地に移り住みはじめようとしていた。そうした状況のなかにあってアシュビーは、五〇家族、総勢約一五〇人の男女と子どもとともにロンドンのイースト・エンドを離れ、チピング・キャムデンへの移住を決意するのである。
それぞれの工房の設備が、順次ロンドンからシープ・ストリートのかつての絹織物工場へと搬入され、その建物は〈エセックス・ハウス〉と命名された。一階を印刷工房が、次の階を宝石細工と銀細工と琺瑯の工房が、最上階を家具製作と木彫の工房が占めた。敷地内に一二馬力の石油エンジンが納められた小さな小屋があり、そこから電力と動力が供給された。アシュビーの仕事場は隣接する別棟に設けられていた。こうして工房における生産活動は開始され、加えてこのギルドには、演劇や歌唱やスポーツだけでなく農耕も取り入れられていった。農業と手工芸が統合された共同体の建設こそ、アシュビーの理想郷だったのである。しかしこの理想の共同体は六年間しか維持されることはなかった。失敗の原因について『C・R・アシュビー』の著者のエラン・クローファッドは、その後にアシュビーが書き残した幾つかの文書資料に基づきながら、次のように要約している。
もちろん、そのギルドが失敗に至った原因が検証された。……ある人たち[ギルドの崩壊後もこの地に留まって、自らの小さな工房で引き続き工芸活動に従事した人たち]からは、ギルドの規模が大きくなりすぎて、事務職員や管理業務が重荷となっていたという見解が出された。……アシュビーはある程度こうした人たちの見解に同意したが、しかし同時に彼は、ギルドの外部に説明の根拠を求めた。彼は、キャムデン時代に実際に経済不況があったことを指摘した。……彼は、アーツ・アンド・クラフツの廉価な別形商品を扱う、「リバティー商会」のような小売業との競争や、自分の労働を価格のなかにほとんど、あるいは全く反映させる必要のないアマチュアとの競争を指摘した。……最後に彼は、高い技術力をもつ工芸の工房をこの地域で運営することの困難さを指摘した。……キャムデンでは、時代が悪化したとき、ほかに行く場所がないために、ギルドの職人を解雇することは容易なことではなかったのである9。
この時期までには、織物、陶芸、家具製作、食器やジュエリーの金属細工、造本やカリグラフィーなどの分野で仕事に従事する芸術家=工芸家が多数英国に存在していた。多くはアーツ・アンド・クラフツ哲学の信奉者であり、建築についての経験と知識をもち、画家や彫刻家と同じやり方で生計を立てていた。大きい都市には彼らのギルドや団体があり、芸術労働者ギルドがその典型的な例であったが、各地の美術・工芸学校で教える教師の供給源としての役割も担っていた。そして彼らの信条を要約するならば、それは、産業主義的社会構造の変革であり、より簡素でより正直な新たな生活様式の再生であり、金銭や権力を媒介としない創造的な人間関係の確立にあった。こうしたロマン主義的でユートピア的な社会主義は、少なくとも一八九三年の独立労働党の結成以前にあっては、ひとつの社会主義の立場を標榜する理論と実践として、とくに芸術家=工芸家のあいだで広く共有されていたものであり、この立場の限界性を一九〇八年のアシュビーのギルドの崩壊は象徴していたのである。
こうしてチピング・キャムデンでのアシュビーの壮大な実験は失敗に終わった。この実験は、アーツ・アンド・クラフツ運動の到達点を示すものであっただけに、その失敗は、その運動にとっての最後の燈が消え去ることをも、同時に意味していた。一九六〇年代後半に入って、近代運動への懐疑とともに「クラフツ・リヴァイヴァル」が興り、その燈は再燃することになるものの、芸術家=工芸家は、これ以降実践のうえでも理論のうえでも、大きな選択を迫られることになるのである。端的にいえば、その選択の分岐点は、近代産業社会の避けがたい進行に対して、工芸家やデザイナーや建築家としての自らの倫理観と芸術観をどのように折り合わせるかにかかわるものであった。
アシュビー自身のその後の経歴のなかにも、その選択の道は確実に刻み込まれた。一九一一年の『われわれは美術を教えることをやめるべきか』のなかで、彼は、「現代文明は機械に依拠している」10ことを認め、機械文明に対する理解を示している。彼の機械に対する肯定的態度は、その出版物の刊行に先立つ、一九〇〇年の彼の二度目のアメリカ訪問、とりわけフランク・ロイド・ライトとの対面の影響によるものであった。しかし、一九二九年には彼は、芸術労働者ギルドのマスター職についている。そのようなことからも推量できるように、いわゆる機械文明の展望に立ったデザイナーとしての実践と主張を、彼はその後必ずしも積極的に行なったわけではなかった。一方、近代建築国際会議(CIAM)の英国支部として、ウェルズ・コウツの指導のもとに一九三二年に近代建築研究グループ(MARS)が結成されたとき、アシュビーはその会員のひとりとして、マルセル・ブロイアー、セルジュ・シェルマイエフ、ヴァルター・グロピウス、ハーバート・リードといったモダニストたちとともに名を連ねることになるのである。このときの彼の心情は推測するほかない。
一九三〇年代の近代運動に関連してアシュビーがどのような立場にあったのかを判断することは容易ではない。彼は近代建築研究グループの創設会員であったし、会員のなかにあって、唯ひとり彼が、アーツ・アンド・クラフツという旧世界から来た人物だったのである11。
一九四二年に亡くなるまでのアシュビーの晩年は、「驚くべきことに、カルカチュアに関する優れた本の製作に捧げられた」12。それは、それまでの彼の経歴から派生した苦悩と幻滅感を補おうとするものであったのだろうか。まさしく、アーツ・アンド・クラフツ運動の行き詰まりは、アシュビーその人の行動のなかにもみられるように、その後の近代運動へと連なる関心を芽生えさせると同時に、旧世界の信条を放棄できるかどうかにかかわって、深刻な葛藤をこの時期この世界に呼び起こそうとしていたのである。
三.機械生産への関心
アーツ・アンド・クラフツが田園回帰運動と結び付き、新しい人間の共同体を目指したことは、それ自体崇高な理想の追求であった。しかしそれは反面、現実からの逃避でもあった。現実の物質世界の醜悪さから目をそらし、そこから逃避するようなかたちでの理想社会の追求は、いつかは再び醜悪な現実世界に飲み込まれてしまうことを、革命主義者としてのウィリアム・モリスはすでに理解していた。そのような理解があったがゆえに、一八八七年にアシュビーがギルド設立に際して行なった援助の要請に対して、モリスは決して友好的ではなかったし、一八八八年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の発足のときにも、必ずしも積極的な姿勢を示したわけではなかったのである。モリスの政治的姿勢は、すでにこの時期明らかなものとなっていた。社会と芸術が一体不可分の関係にあるとするならば、醜悪な社会からは醜悪な芸術しか生み出されることはなく、真の芸術を手に入れるためには、まず革命によって醜悪な社会を理想の社会へと変革しなければならない――これがその当時のモリスの政治的立場であったし、アシュビーがモリスに会いに行く数週間前に起こったトラファルガー広場での「血の日曜日」には、モリスは、社会主義同盟の隊列に加わっていたのである。
「つくり手と使い手にとっての喜びとして民衆によって民衆のために」製作されることになる、モリスにとっての理想の芸術は、社会的生産構造そのものとして成立しなければならない以上、社会革命を経ないアーツ・アンド・クラフツの実践は、自己満足的なアマチュアの仕事へと至る、ある意味で危険な道でもあった。明らかにアシュビーのギルドが例証しているように、全国に広がるアーツ・アンド・クラフツのさまざまなギルドが当時の資本主義的な生産組織にそっくり取って代わることはなかった。それどころか、モリスの予見にみられるように、その運動によって、アマチュアの工芸への熱狂に火がついたことも事実なのである。しかし、またその一方で、モリスの言説や『ユートピア便り』のなかにみられるような社会革命も、起こる気配はほとんどなくなろうとしていた。そうであるならば、モリスが求めて止まなかった「役に立つものや美しいもの」は、一体どのようにして社会的に生み出されなければならないのだろうか――これが、アーツ・アンド・クラフツ衰退以降の主要な二〇世紀初期のデザイン実践上の命題になっていくのである。
早くも一八九〇年代の後半には、アーツ・アンド・クラフツの限界を指摘する声が上がりはじめた。たとえば『ザ・ステューディオ』のなかに、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会への鋭い批判的論調を認めることができる。
美しくてしかも経済的な家具の問題を正面から論じることは、一人ひとりは優れた建築家やデザイナーや工芸家であるとしても、おおむねそのような人たちを会員とする一団体にとっては能力を越えるものではないだろうか。……安価で美しい家具、うまく装飾が施された家庭向け陶器やディナーセットやティーセットのたぐい、美的でしかも高価でないガラス器、低価格でしかも満足のいく壁紙やクレイトン更紗やカーペット――こうしたものを提供してくれるような製造業者に対して、彼らは誉れある感謝状を贈呈すべきである、という提案は無分別なことであろうか13。
こうした批判にもかかわらず、一九〇三年とそれに続く一九〇六年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会では、従来どおり、高価な手づくりの家具、ゴシック調の装飾彫刻品、丹精につくり上げられた刺繍、さらには宝石をあしらった帽子用の留め金などが選ばれ、展示された。それに対する一九〇六年の『ザ・ステューディオ』の論評は、「この展覧会にみられる美術・工芸品は、家庭生活の快適さのために実際に必要なものを改善しようとする闘いに、ほとんど失敗していた」14というものであった。この段階に至って求められようとしていたものは、快適な生活に必要な低価格でしかも良質な品物であった。別の言葉でいえば、それは、「個人的なつくり手と使い手」のあいだに成り立つ因習的なアーツ・アンド・クラフツ(あるいは、より世俗的な意味でのアーティー/クラフティー)ではなく、明らかに「社会的な製造と消費」にかかわって要求されることになる新たな次元でのデザインだったのである。
限られた少数者ではあったが、アーツ・アンド・クラフツの世界のなかにも、そのことを強く受け止めはじめていた人たちがいた。彼らにとって、一九一四年にケルンで開かれたドイツ工作連盟の展覧会は、実に大きな衝撃であった。ヴァルター・グロピウスがデザインしたモデル工場とブルーノ・タウトによる革命的な「ガラスの家」に認められるように、大量生産と機械化を積極的に是認しようとする近代精神によって、その展覧会は満ちあふれていたのである15。このとき英国からケルンを訪れたのは、ドライアッド工房のハリー・ピーチとヒール商会のアムブロウズ・ヒールと建築家のセシル・ブルアーであった。明らかにこのケルン訪問は、彼らに大きな刺激を与え、アーツ・アンド・クラフツに取って代わる、産業のための新たなデザインの未来像を確信させるとともに、そのために必要な運動体の設立を決意させたのであった。それはちょうど、イギリスとドイツが戦争に突入する二箇月前の出来事だった。
四.デザイン・産業協会の設立
帰国後直ちに、ハロルド・ステイブラー、アーネスト・ジャクスン、J・H・メイスン、それにハミルトン・T・スミスを加えた七名からなる作業委員会が組織され、新しい団体の発足準備が進められたが、八月の宣戦布告以降、すでに第一次世界大戦が勃発していた。しかしその戦争は、団体の発足を遅らせるのではなく、逆に促進させる作用をしたのであった。戦争が進むにつれて、産業経営者たちと政府は、あらゆる点で自国製品がドイツ製品に遅れていることに気づき、事態は一段と深刻なものになろうとしていた。そこで商務省は、イギリスの製造業者たちを啓蒙する目的で、よくデザインされたドイツ製品の展覧会を企画したのであった。一方ピーチたちは、その動きをうまくとらえると、一一月に商務省のサー・ヒューバート・ルエリン・スミスに一通の覚え書きを提出した。この覚え書きは五項目から構成されており、それによると、当時のドイツの産業とデザインが、次のように分析されていた。
ドイツ貿易の顕著な拡大は、……単に新しいマーケットの精力的な開拓によるものだけではなく、……製品の質とデザインの改善のためにドイツがなしてきたたゆまぬ努力にも起因している。
近年、「安かろう、悪かろう」という汚名から製品を解き放す目的で、(ドイツ工作連盟のような組織の援助のもとに)芸術家と教育者と製造業者の知的協同が行なわれてきた結果、より高いレヴェルでこうした製造業者たちは、注目に値する進歩を成し遂げたのである16。
一方イギリスについては、その覚え書きは、教育省の努力にもかかわらず、「商業と美術教育は、依然として、分離し硬直した、あい対立するふたつの活動となっている」17ことを指摘していた。そして最後に、商務省の企画に手を貸したい旨の恭順の意が示されていたのである。
今世紀のはじめまでに、英国の工業力と世界貿易のシェアは、著しく低下していた。たとえば世界の鉄鋼の生産量についていえば、一八五一年には英国は六八%(アメリカは五%、ドイツは九%)という圧倒的量を占めていたが、それが一八七一年には二九%(アメリカは一九%、ドイツは三三%)に激変し、さらに一九〇一年には二四%(アメリカは三三%、ドイツは二八%)にまで低下していたのである18。そうした工業力衰退の原因のひとつとして、企業家や工場経営者たちが享受してきた教育制度がこれまで指摘されてきた。パブリック・スクールにせよ、グラマー・スクールにせよ、一般に彼らの出身校であるそうした学校は、発展する科学技術について、ほとんどそれまで興味を示してこなかったからである。実際一九一六年七月には、英国は軍需品の不足という事態にまで陥っているが、それは主として、化学工学の技術者の不足に原因があったといわれている。「その当時、新しい軍隊のためのカーキ色の制服さえ十分に供給することができなかった」19くらいに、英国産業の凋落は著しかったのである。
このような産業的、軍事的背景のものに、優れたドイツ製品が政府関係機関からだけでなく、ピーチやその他の人たちがドイツから持ち帰っていたもののなかから集められ、一九一五年三月、ロンドンのゴールドスミス・ホールで展示された。事態の深刻さを察知していた商務省にとっては、この展覧会は、たとえ敵国製品を集めた展覧会であろうとも、英国の製造業者を啓発するという重要な役割をもつものであった。その一方で、『デザインと産業――デザイン・産業協会の設立に向けての提案』と題された冊子が会場で配布され、この展覧会は団体発足のための準備の場としても利用されたのであった。その冊子には、「今日必要とされていることは、工業製品にかかわる幾つかの関心事をすべて、より緊密なひとつの協会のなかへ結集することである。それは、製造業者、デザイナー、流通業者、経済学者、そして評論家によって構成されるような協会である。そうした理由から、デザイン・産業協会といった団体の設立が提案されているのである」20という文字が踊っていた。そして二箇月後の一九一五年五月に、デザイン・産業協会(DIA)の発会式がグレイト・イースタン・ホテルで、議長席にアバコンウェイ卿を迎えて開催され、公式のアピールが採択された。六月には七八人が、その年の終わりまでには二〇〇人近くが加入し、戦争が終結するまでには、会員数はやっと四〇〇人を超えるまでになっていた。会員の多くは、アーツ・アンド・クラフツの哲学と実践を背景にもつ、工芸家、建築家、製造業者、それに教師たちであった。そして事務局は、芸術労働者ギルドの本部のある「クウィーンズ・スクウェアー六番地」に一九三九年まで置かれた。これらの実態からしても、DIAがアーツ・アンド・クラフツの延長線上にあったことは明白である。しかし一方で、事の起こりからすれば、ドイツ工作連盟に倣うかたちで組織されたこともまた事実なのである。ドイツ工作連盟にとってDIAの発足は、どのように映っていたのであろうか。
イギリスの改革者のひとりが認めているように、ドイツの「野蛮人たち」のデザイン上の努力が、世界のマーケットで成功しはじめていた。そして英国には、ドイツの悪趣味について偏見をもつ余裕さえも、もはやなかった。一九一五年にロンドンのゴールドスミス・ホールで展示されたドイツとオーストリアの製品に感銘を受けたDIAの創設者たちは、この大いなる前進へ向けての跳躍に対してドイツ人が行なった優れた組織能力を賞讃し、それから、ほとんど丸ごとドイツ工作連盟の組織をコピーしたのであった。ドイツ工作連盟にとって、この方向へ歩み出した最初の人たちがイギリス人であったことが、とりわけ満足感につながっていた。先陣に立つ現実主義者たちの目には、イギリス人たちの承認は、工作連盟の理想主義のもつ実践的価値の最良の追認として映ったのであった21。
一九〇四年から翌年にかけて三巻本『イギリスの住宅』をドイツで出版し、そのなかで英国のアーツ・アンド・クラフツ運動を紹介したのが、ドイツ人建築家のヘルマン・ムテジウスだった。そして今度は、産業上の劣勢を取りもどすという一種のナショナリズムのもとに英国は、ムテジウスを中心として一九〇七年に設立されたドイツ工作連盟の実践に、遅ればせながらも、学ばなければならなかったのである。DAIの発足に際して、多くの会員に共通していたものは、「文明は、自分たちが一九世紀から引き継いできたものよりも、もっと合理的で、もっと効率的で美しいものとして建設されうるはずである」22という確信であり、同時に、隣国に対する遅れの認識が、「大戦のさなかにもかかわらず、ただちに行動に移す力として作用した」23のであった。
五.デザイン・産業協会の初期の運動理念
デザイン・産業協会を創設した人たちは、この協会のことを「新しい目的をもった新しい団体」と呼び、この言葉が、創設初期のパンフレット類のなかのひとつの表題にもなっている。「新しい団体」とは、アーツ・アンド・クラフツの諸団体と一線を画する団体であることを暗に示していたし、「新しい目的」とは、意識的に、運動理念を控えめに、あるいは曖昧に表現した用語であった。しかし一般的にその意味するところは、目的に適合したデザインの推進ということであった。そして、この新しいデザイン運動の創設初期において、建築家のウィリアム・リチャード・レサビーが、理念の代弁者として、また精神的指導者としての役割を果たすことになった。
一八五七年生まれの彼は、すでに一八九〇年に家具の工房であるケントン商会を設立し、モリスが亡くなった同じ年の一八九六年には、ジョージ・フレムトンとともに、新設された中央美術・工芸学校の共同管理者に任命されていた。そのような経歴からも判断できるように、アシュビー同様にレサビーも、アーツ・アンド・クラフツ運動の第二世代に属するデザイナーであり、教育者であった。そして、アッシュビーのチピング・キャムデンでの実験が崩壊に見舞われた一九〇八年ころには、同じくレサビーの考えにも新しい変化が芽生えようとしていた。
……アシュビー同様に彼[レサビー]も、ラスキンとモリスの両者の考えにおいて固有の関心事であった実践とイデオロギーにかかわる問題と対決しなければならなかった。しかしながら、レサビーについて意義深いことは、おおよそ一九一〇年ころに彼の態度に明らかなる変化が生まれたことである。その時期彼は、そうした考えを放棄し、……より実際的な接近方法を取るようになったらしい24。
ノエル・キャリントンは、ケントン商会の失敗が、「インダストリアル・デザインは小さなギルドよりも大きな基盤を必要としていることをレザビーに判断させるうえで、一役買ったのかもしれない」25ことを示唆している。そのようなわけで、この時期レサビーは、必ずしも機械生産を否定する立場には立っていなかったようであるし、また一九一三年の『イムプリント』に掲載された「芸術とワークマンシップ」という表題の論文のなかでは、次のような芸術観を彼は表明していた。そしてこの論文の内容こそが、DIAの初期の運動理念へと受け継がれていくのである。
芸術とは、普通の料理に付け加えられる特別のソースではない。それは、よいものであれば、料理そのものである。最も単純化し一般化していうならば、芸術とは、
ニコラウス・ペヴスナーは、この一文が「緻密な考究といえるかどうかは別にしても、永遠に記憶されるべき文言」27であることを指摘している。確かに、必ずしも明瞭な表現とはいえないが、レサビーがいう「行なう必要のあること」とは、日用品のことであり、また「よく行なう」とは、上品さや清潔さ、秩序の正しさといった価値を完全なるワークマンシップのもとに事物のなかに充足させることを意味していたにちがいない。レサビーは「芸術作品とは、よくつくられたブーツであり、よくつくられた椅子であり、よくつくられた絵画である」28ともいっている。芸術を「特別のソース」とみなさない視点や日用品のデザインへの強い関心は、日常の社会生活から遊離した「芸術のための芸術」を否定しようとしたアーツ・アンド・クラフツの哲学に由来するものであった。また一方で、「よくつくられたブーツ」や「よくつくられた椅子」という言葉のなかには、手工芸への固執と「万人のための芸術」とを両立させることができなかったアーツ・アンド・クラフツの失敗に鑑みて、「正しい製作」や「素材への誠実さ」といった倫理的姿勢は踏まえながらも、手工芸から機械へと生産手段が移行することの必然性に対する認識が暗に含まれていたものと思われる。一方ペヴスナーは、レサビーのこれらの文言について、このように解釈している。
これらがすべてウィリアム・モリスの考えであることは明白であり、したがって、その後レサビーが、機械生産品に対して「二等級」に属する美質としての評価しか与えないのも、驚くべきことではない。明らかにここに、ひとつの軋轢がぼんやりと姿を現わそうとしていたのであり、われわれはこの点について、この新たなる団体の初期の歴史を通じて注目していかなければならないであろう29。
レサビーのようなアーツ・アンド・クラフツの第二世代の人たちの多くにとって、モリス遺産の継承が大きな精神的比重として作用していたことは確かであった。しかし、その一方で、モリスが望んだ「革命による社会と芸術の変革」が到来しない以上、モリスの哲学でもある「社会的、物質的平等の達成」という意味において機械が有効な手段になりえることは、レサビーに続く次の世代の初期のデザイン改革者たちにこの時期萌芽しはじめた新しい理念でもあった。先に述べたように、「文明は、自分たちが一九世紀から引き継いできたものよりも、もっと合理的で、もっと効率的で美しいものとして建設されうるはずである」というのが、彼らの共通した認識であったわけであるが、もしそれが可能であるとするならば、どのようにして建設されうることになるのであろうか。彼らの立場に立てば、それはもはや、手工芸を基盤とする芸術家=工芸家の共同体から内発的に、あるいは革命的に形成されるのではなく、人間的に制御された機械を生産の手段とする産業によって推進されなければならないということになろう。したがって、DIAの「目的への適合」というスローガンは、どのようにも解釈が可能な漠然としたものではあったが、ひとつには、近代産業という手段を使って旧い生活様式は彼らが描く二〇世紀文明へと適合されなければならないことを意味していたわけであり、それと同時に、いまひとつには、新しく生み出されることになる生活様式に適合するにふさわしいデザインへと日用品は変えられなければならないことをいい表わしていたのである。しかし、それでも「大量生産のよし悪しが判断され、欠落部分が判定されるうえでの基準となるものは、
高い基準ながらも適応力を欠いた品物に身をゆだねようとしたアーツ・アンド・クラフツのような運動と、「日常」の家庭用品のデザインを改良し、住宅供給のあり方を改善するために産業とともに進むことを目指す考えを有する新しい団体とのあいだで揺れ動く、英国のような国にあっての近代運動は、このようにして「日常」とかかわり合いをもつことによって、理論のうえで深刻な問題を抱え込むことになった31。
こうして、これより一九二〇年代後半に至る英国の初期の近代運動においては、この深刻な問題を巡る葛藤と抗争とに起因して、その主たる特質が形成されていくことになるのである。
六.産業への接近とリアクション
ホウルダ-はまた、この時期のデザイン改革者やデザインに関する著述家たちが何に関心をもち、一九世紀からの産業主義の遺産をどのように受け止めていたかについては、こう述べている。
英国のモダニズム論争において[日用品や日常生活に対する関心]同様に注目しておかなければならないことは、「文明」と「文化」という概念についての関心である。この時期の多くの著述家たちは、一九世紀の資本主義の抑制の効かない勃興に由来する腐敗のなかに「文明」を見た。このような腐敗の形跡を見て、彼らは時代様式の残骸として受け止めたのであった32。
そこで、DIAのデザイン改革者たちは、腐敗のなかにある文明の救済の方途として、ラスキンやモリスの教えと実践のなかに認められた手工芸による共同体の建設や社会革命への展望をしまいこみながらも、「デザインと産業」という観点に立って、現実的に「文明の顔を変える仕事にとりかかった」33のである。そのためのひとつの有効な手段として選ばれたものが、優れたデザインの日用品の展示をもって、製造業者たちや大衆を啓蒙しようとする一連の展覧会活動であった。DIAの最初の展覧会は、印刷とタイポグラフィーに関するもので、ホワイトチャペル・アート・ギャラリーで開催され、二回目の展覧会は、マンチェスター・アート・ギャラリーでテキスタイルが展示された。三回目の機会は、トリエンナーレ展の期間中会場の一部を提供する旨のアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会からの申し出を受け入れることによって一九一七年に実現した。この展覧会はバーリントン・ハウスで行なわれ、DIAは、「目的への適合」という基準を厳格に適応して選び抜かれた家事用陶器を展示した。しかしこれらの展覧会は、入場者数や新聞紙上での評価といった面では成功したものの、その一面で製造業者たちからの強い反発を受けることになったのである。
当時テキスタイル産業はいまだ英国の主力産業であったし、陶器製造業も、世界的な評価を享受していた。そうした業界にとって、ロンドンを拠点とする、発足まもない小さな民間団体であるDIAが示した新しい「趣味の基準」は、たとえ間接的であろうとも、おおかたの支配層に受け継がれていた典型的な「趣味の基準」への不当なる意義申し立てとして映じたのであった。陶器製造業の中心地であるストウク=オン=トレントでのリアクションについて、フィオナ・マッカーシーは「事実、その騒ぎは半世紀にも及び、今日でさえも、その余震は続いている」34と述べている。
家具やテキスタイルや陶器のような工芸を基盤とした産業のみならず、電気照明器具、電気ストーブ、あるいはラジオなどの新しい製造品にかかわる産業においてさえも、歴史様式を連想させるデザインを付加させることが、時代の堆積と連続性とを保障する確かな基準となるものであり、そこにはノスタルジアと文化的アイデンティティーが強固に分かちがたく結び付いていた。DIAが問題化しようとしたのは、まさしくその点であり、デザイン改革者たちはノスタルジアという旧い文化的価値を引き離し、それに代わる、反伝統的な全く新しいというよりは、相対的に落ち着きのある健全化されたデザイン・アイデンティティーの形成を目指そうとしたのであった。そこで、ヴィクトリア時代の過剰な装飾に由来する「無意味な装飾」がまず攻撃の対象にされた。さらに攻撃は、「よい趣味」の同義語として当時支配していた骨董趣味にも向けられた。改革者たちにとって、手工芸の結果的産物である装飾を機械生産に模倣させることは、アーツ・アンド・クラフツの倫理的観点からすれば、虚偽の模造品の氾濫以外の何ものでもなく、また、貴族趣味的な歴史様式への安易な盲従は、急進的な政治観からすれば、前近代的社会の延命に加担することを意味したのであった。改革者たちにとっては、ある意味でそれは「聖戦」であった。しかし、そうした文化的価値は簡単に瓦解するものではなく、保守的支配層の立場からすれば、どのような権利があって、伝統的な文化価値の改変を主張するのか、神経を逆撫でされるに等しく、そのことをストウク=オン=トレントでの大騒ぎは象徴していたのである。
そうしたリアクションがあったにもかかわらず、デザイン改革者たちにとって、産業はもはや「敵」ではなかった。しかしそれは、あるべき文明のなかにあって真に機能してはじめて「味方」になるものでもあった。そこで、産業への接近を試みる努力のなかにあって、アーツ・アンド・クラフツの遺産としての「美術」とか「美」の概念は、表面上しばしば姿を消すことになった。なぜならば、「産業の中心地においては『美術』は、『商売』とほとんど正反対をなす言葉であった」35からであり、したがって、予想される産業界からのリアクションを考慮して、事実、「運動初期の文書すべてにわたって、この危険な言葉である『美術』はめったに使われていない」36のである。しかし、それだけの理由で『美術』という言葉が抑制されたわけではかった。アーツ・アンド・クラフツのもう一方の遺産である「正しい製作」や「素材への誠実さ」といった製作にかかわる倫理的態度が、過剰な偽りの装飾や見せかけの仰々しい美しさへの否定につながるとき、『美術』は、もはや忌まわしい要素として受け止められたのであった。それは、たとえば、ロジャー・フライの「オメガー・ワークショップ」から生み出されていた表現主義的な色彩家具やテキスタイルに対する否定的反応に表われているし、ロシア・バレエ団や黒人音楽に対しても、同じような態度が示されている37。こうした改革者たちの態度は、確かに伝統主義に起因する島国根性的なものではあったが、反面、その賛否は別にしても、モダニズムの装飾否定の態度へとつながる側面を含みもつものでもあった。もっとも、そのような新しい様式が英国で認められるようになるのは、二〇年代末期以降のことになるのではあるが。
二〇年代後半に至るまでのこの時期、デザイン改革者たちは、新しい文明に即応する様式の刷新へ向けての実験によりも、むしろ社会改革へ向けての展望の方に、より強い関心を示していた。一九一六年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会での講演のなかでレサビーが提示した「秩序、構成、美、それに効率性がすべて一体となっている美術の概念」に触れた箇所で、ホウルダーは、続けて次のような解説を加えている。
DIAに及ぼしたレサビーの影響は、様式においてというよりも、むしろ日常生活において秩序や効率性、それに目的への適合をひとつの義務として考慮に入れるよう、DIAに課したことである。「デザイン」によって持ち込まれ、「美術」によって鋳込まれるものとしての「秩序」は、国家の介入と統制を意味する類似語になろうとしていた。それは、産業都市に無秩序と窮乏をもたらしていた、抑制力のない資本主義や自由主義のさまざまな動きと対立するものであった38。
DIAの創設初期の会員のなかにあった政治信条の分布は、必ずしも判明しているわけではないが、「幾人かは自由党員であり、多数は、穏健な社会主義者であり、左翼寄りのトーリー党員もいた」39。しかし、どちらにしても、彼らがモリスの政治的信条を共有する継承者であったことはいうまでもない。彼らにとって、芸術と労働が一体となった共同体の建設という信念のなかにあって、機械生産における労働はどのようにして芸術へと架橋されるべきなのだろうか。ホウルダーが示唆しているように、それは、生産手段の国家的管理という形態のなかにあって生み出されることになるであろう「秩序や効率性」に求められようとしていたのであろうか。同じくレサビーが繰り返し使用していた「機械は制御されなければならない」という命題にしても、誰によって、どのようにして、なされなければならないのであろうか。しかし、他方そのような主張は、産業資本家や保守的伝統主義者たちの目には、どのように映じていたのであろうか。こうした問題は協会創設の初期にあって極めて重大な論点となるものであったが、一方では工芸の理想の前にあって、また一方では資本の現実の前にあって、実践のうえでも、理論のうえでも、未解決のまま先送りされたようである。キャリントンが回想するところによれば、「私の知るところでは、インダストリアル・デザインや建築に対するアプローチにおいて急進的であるだけではなく、それと同様に、社会観においても急進的であると評された人たちが、事実その内部の大多数を占めていたけれども、それにもかかわらず、私が協会の政策に関与していた三〇年かそれ以上のあいだ、協会は[協会らしく厳密に非政治的でなければならないという]同じ態度を取り続けた」40のであった。
政治的立場に関してDIAの公的な顔はそうであったかもしれないが、創設者のひとりである、ドライアッド工房のハリー・ピーチその人については、彼の伝記作家のパット・カーカムが次のように明らかにしている。
ピーチが生まれた時代は、ヴィクトリア時代のイギリスを下支えしていた理論的確信が、一連の選挙制度改革の効果や一八七三年以降の「大不況」、さらにはアメリカ合衆国とドイツの力の成長のもとに、崩壊しようとしていた時代であった。英国が世界の工業生産の独占を失ったとき、自由放任主義の政策はもはや適切なものとはみなされなくなり、国家計画という考えが、フェビアン協会に引き付けられていたピーチのような中産階級の社会主義者たちに支持された。……デザイン改革についての彼の視点は、社会改革に対する彼の態度に照らして考察されるべきである。つまり、両者は共通の根をもち、一方が、もう一方の特徴をなしていたのであった41。
このピーチにみられる姿勢が、どうやら、DIAのデザイン改革者たちの平均的な政治的姿勢であったようである。しかしピーチ自身についていえば、二〇年代の後半までには、すでに政治への失望感を抱くようになっていた。そしてピーチが指揮した一九二七年のライプツィヒでの工芸博覧会にDIAが失敗すると、彼は、政治の力には期待することなく、産業主義と商業主義の残骸、つまりスクラップの山、けばけばしい広告、汚れた川への批判行動としての「環境問題」へと突き進んでいくことになるのである。これらはすべて、統制を欠いた「工場」が美しくあるべき「田園」を侵略した結果、もたらされたものであった。したがって、彼のその行動は、アーツ・アンド・クラフツの第二世代のアシュビーやレサビーのなかに、かたちこそ異なれ、同じ問題に起因する軋轢としてすでに胚胎していた、「工場」と「田園」という文化的価値の対立的揺れを再び体現するものでもあった。
七.結びに代えて
ピーチに代表される、社会改革とデザイン改革を同根とみなす態度は、アーツ・アンド・クラフツ運動同様に、高い倫理観に基づくものであり、いうまでもなくモリスの哲学に由来していた。しかし、生産の手段にかかわって手から機械への移行を避けがたいものとして受容することは、芸術家=工芸家による理想社会へ向けての実践とは質的に異なり、論議の視野が、人間にとってのあるべき機械像やあるべき産業像、さらにはあるべき文明像へと拡大することを意味していた。こうしてこの時期のデザイン改革者たちは、二〇世紀的新しい文明像を構築する立場につきながら、その一番物質的細部を構成することになる日用品に関心を集中させることにより、その漸進的、長期的変革の担い手として自らに新たな社会的役割を付与させたのであった。
彼らの新しい運動は、アーツ・アンド・クラフツの理想であった「田園生活」から離れて、「産業への接近」を試みる運動であった。そして、確かにそれは、英国におけるモダニズムの出現という文脈においては中途半端で、不明瞭で、必ずしも成功したわけではなかった。それでも、英国文化史上極めて重要な意味をもつ運動であったといえるのはなぜだろうか。その理由は、一九世紀より萌芽していた英国文化の内的緊張に直接触れる動きであったからであり、文化的葛藤が見事なまでに表象されたひとつ出来事だったからである。『イギリス文化と産業精神の衰退――一八五〇―一九八〇年』のなかで、マーティン・J・ウィーナーは、「長いあいだ、イギリス国民は『進歩』を心地よいものと感じてこなかった」と述べたうえで、「近代イギリス文化の内的緊張」を次にように分析しているのである。
……進歩対ノスタルジア、あるいは物質的成長対倫理的安定という社会的価値の対立は、結果的に、「工場」と「田園」[あるいは「機械」と「田舎」]というふたつの翼を広げた対照的な文化的象徴のなかに表現された。……これらの象徴は、少なくとも前世紀をとおして中産階級と上流階級の文化のなかに深く植え付けられることになったひとつの緊張を内包するものであった。……こうした近代イギリス文化の内的緊張は、一種のパズルのようなものである。なにゆえに、産業的前進に対する敵意が存続したのか。……なにゆえに、そうした敵意は、それほどまでにしばしば、田園神話の形成となって現われてきたのか。幾つかの答えは、一九世紀の英国社会史の固有のパタンのなかに横たわっているのである42。
これまで、大陸で進行する近代運動に照らして、この一〇年代と二〇年代の英国のデザイン改革者たちの実践と主張は、概して軽視され、場合によっては、英国のモダニズムの出現を遅らせた原因にもなっていたとみなされてきた。国際近代様式の発展史の観点に限定すれば、その主張はある意味で正しいであろう。しかし、一義的な国際的展開の観点からではなく、英国固有の文化現象として焦点をあてた場合、そこには、これまで見てきたように、独自の関心と価値に対する葛藤と対立が横たわっていたわけであり、そのことを救い出し、再配置することが、英国におけるデザインの近代運動の特質の一端を明らかにすることに通じるであろうし、さらには、近代運動崩壊以降の英国デザイン史の記述への重要な示唆を提供することになるのではないだろうか。
(二〇〇〇年)
注
(1)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 58.
(2)Ibid., p. 76.
(3)Quoted in Jan Marsh, Back to the Land: The Pastoral Impulse in Victoria England from 1880 to 1914, Quartet Books, London, 1982. p. 9.
(4)Norman Kelvin (ed.), The Collected Letters of William Morris, vol. 1, 1848-1880, Princeton University Press, New Jersey, 1984, p. 133.
(5)Lionel Lambourne, Utopian Craftsmen: The Arts and Crafts Movement from the Cotswolds to Chicago, Astragal Books, London, 1980, p. 124.[ラバーン『ユートピアン・クラフツマン――イギリス工芸運動の人々』小野悦子訳、晶文社、1985年、163頁を参照]
(6)Alan Crawford, C. R. Ashbee: Architect, Designer & Romantic Socialist, Yale University Press, New Haven and London, 1985, p. 28.
(7)Quoted in ibid., p. 28.
(8)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 230.
(9)Alan Crawford, op. cit., pp. 144-145.
(10)C. R. Ashbee, Should We Stop Teaching Art?, Batsford, London, 1911, p. 4.
(11)Alan Crawford, op. cit., p. 444, note 32.
(12)Lionel Lambourne, op. cit., p. 143.[前掲訳書、187頁を参照]
(13)Quoted in Fiona MacCarthy, A History of British Design 1830-1970 (first published in 1972 as All Things Bright and Beautiful), George Allen & Unwin, London, 1979, pp. 39-40.
(14)Quoted in ibid., p. 35.
(15)もっとも、ケルンの展覧会の当初の目的からすれば、これらは例外的な建築作品であった。See Joan Campbell, The German Werkubund: The Politics of Reform in the Applied Arts, Princeton University Press, New Jersey, 1978, pp. 73-74.
(16)'Appendix I: the Memorandum that began the DIA', in Raymond Plummer, Nothing Need Be Ugly, Design and Industries Association, 1985, p. 95.
(17)Ibid., p. 95.
(18)Peter Lane and Christopher Lane, History, BPP (Letts Educational), London, revised 1995, p. 126.
(19)Noel Carrington, Industrial Design in Britain, George Allen & Unuwin, London, 1976, p. 42.[キャリントン『英国のインダストリアル・デザイン』中山修一・織田芳人訳、晶文社、1983年、53頁を参照]
(20)Quoted in Raymond Plummer, op. cit., p. 1.
(21)Joan Cambell, op. cit., p. 92.
(22)Noel Carrington, op. cit., p. 17.[前掲訳書、14頁を参照]
(23)Ibid.[同訳書、同頁を参照]
(24)Gillian Naylor, 'Lethaby and the Math of Modernism', in Sylvia Backemeyer and Theresa Gronberg (eds.), W. R. Lethaby, 1857-1931: Architecture, Design and Education, Lund Humphries, London, 1984, p. 42.
(25)Noel Carrington, op. cit., p. 40.[前掲訳書、50頁を参照]
(26)Quoted in Theresa Gronberg, 'William Richard Lethaby and the Central School of Arts and Crafts', in Sylvia Backemeyer and Theresa Gronberg (eds.), op. cit., pp. 17-18.
(27)Nikolaus Pevsner, Studies in Art, Architecture and Design: Victorian and After, Princeton University Press, New Jersey, 1982, p. 228. (First published in the United States in 1968 as Volume 2 of Studies in Art, Architecture and Design by Walker and Co.)[ペヴスナー『美術・建築・デザインの研究Ⅱ』鈴木博之・鈴木杜幾子訳、鹿島出版会、1980年、349-350頁を参照]
(28)Quoted in Noel Carrington, op. cit., p. 41.[前掲訳書、51頁を参照]
(29)Nikolaus Pevsner, op. cit., p. 229.[前掲訳書、350頁を参照]
(30)Julian Holder, '"Design in Everyday Things": Promoting Modernism in Britain, 1912-1944', in Paul Greenhalgh (ed.), Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 125.[ホウルダー「『日用品のデザイン』――1912-44年の英国におけるモダニズムの振興」、グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一・吉村健一・梅宮弘光・速水豊訳、鹿島出版会、1997年、135頁を参照]
(31)Ibid., p. 125-126.[同訳書、同頁を参照]
(32)Ibid., p. 125.[同訳書、134頁を参照]
(33)Noel Carrington, op. cit., p. 65.[前掲訳書、88頁を参照]
(34)Fiona MacCarthy, op. cit., p. 45.
(35)Noel Carrington, op. cit., p. 71.[前掲訳書、98頁を参照]
(36)Ibid., p. 41.[同訳書、51頁を参照]
(37)See Nikolaus Pevsner, op. cit., p. 231.[前掲訳書、354頁を参照]
(38)Julian Holder, op. cit., p. 129.[前掲訳書、139-140頁を参照]
(39)Raymond Plummer, op. cit., p. 5.
(40)Noel Carrington, op. cit., p. 69.[前掲訳書、95頁を参照]
(41)Pat Kirkham, Harry Peach: Dryad and the DIA, The Design Council, London, 1986, p. 2.
(42)Martin J. Wiener, English Culture and the Decline of the Industrial Spirit, 1850-1980, Penguin Books, London, reprinted 1992, pp. 6-7.[マーティン・J・ウィナー『英国産業精神の衰退――文化史的接近』原剛訳、勁草書房、1984年、7-8頁を参照]