英国のヴィクトリア時代の後半にあって詩人、政治活動家、そしてデザイナーとして活躍したウィリアム・モリス(一八三四―一八九六年)【図一】の日本への紹介は、明治の中期ころから認められる。最初期の文献のひとつは、一八九一(明治二四)年に博文館から刊行された澁江保の『英國文學史全』で、「第二章 最近著述家」のなかの詩人の項目に「ウ井リアム、モ ー ( ママ ) リス 一八三四年生」1と、名前と生年のみが記載されている。モリスが死去した一八九六(明治二九)年には、『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し、モリスの『地上の楽園』に言及している2。さらに、一九〇〇(明治三三)年には、『太陽』において上田敏も、ラファエル前派の詩人としてのモリスに触れ、「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の徒なる歌人と自ら稱し、『地上樂園』(一八六八―七〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」3と、短く紹介することになる。この時期、さまざまな雑誌類をとおして主に詩人としてのモリスが断片的に紹介される一方で、社会主義者としてのモリスへのまとまった言及は、一八九九(明治三二)年に出版された村井知至の『社會主義』の「第六章 社會主義と美術」に負うところが大きく、そのなかで、「ジョン、ラスキンとウヰリアム、モ ー ( ママ ) リスは當代美術家の泰斗と仰がるゝ人物なり。……ラスキンは寧ろ復古主義にしてモーリスは革命主義なり、……而も現社會に對する批評に至つては二者全く其揆を一にせり」4という一文にみられるように、ジョン・ラスキンとの関係を視野に入れて、モリスの社会主義が述べられている。その後も、社会主義者としてのモリス紹介は続き、一九〇四(明治三七)年には、週刊『平民新聞』の第八号から第二三号において、社会革命後の世界を描いたモリスの『ユートピア便り』の一部が「理想郷」と題されて枯川生(堺利彦)によって訳載されている。日本へのモリス紹介は、社会主義運動への弾圧という政治的背景のもとに、事実上ここで一旦停滞し、その興隆は、その後のいわゆる「大正デモクラシー」の高揚期まで待たなければならない。しかし、その停滞期にあって、富本憲吉(一八八六―一九六三年)の「ウイリアム・モリスの話」が一九一二(明治四五)年に『美術新報』に掲載され、さらに三年遅れて、岩村透(一八七〇―一九一七年)の「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』が公刊されていることは、ともに工芸家としてのモリスに着目している点、そして、両者がかつて東京美術学校での師弟の関係にあったという点において、注目に値する。一方、「ウイリアム・モリスの話」の発表から三年後の富本は、大和の安堵村において、本格的な家庭生活と陶芸家としての新たな製作活動に専念することになるが、岩村は、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」の発表の翌年の一九一六(大正五)年に、美術学校の教授を解職されており、この点においては、際立った対照をなしている。
以上のような背景を念頭に置きながら、本稿は、日本におけるモリス紹介の停滞期にあって執筆された、岩村の「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」を取り上げ、その記述内容を吟味するとともに、あわせて、美術学校時代における岩村と富本のモリスを巡っての関係を明らかにしようとするものである。
一九〇四(明治三七)年に東京美術学校に入学すると、富本憲吉は、「学校へはあまり顔を出さず、年中、下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた。自分でやるだけでは満足せず、おそらく日本では最初のマンドリン・バンドを作った」5。富本は、マンドリンのサークルを通じての岩村透との関係を次のように描写している。
私たちのマンドリン仲間のボスというのは、岩村透という当時、美校の先生で初めてアメリカからマンドラとマンドリンを持って帰ったのだが、一人ではひけないものだから、みんなをおだてて学生にやらせたわけである6。
岩村は、一九〇四(明治三七)年五月に第三次の外遊として、アメリカに渡り、その足でイギリスとヨーロッパ大陸を旅行し、翌年帰国している。富本が「初めてアメリカからマンドラとマンドリンを持って帰った」といっているのは、そのときの外遊から岩村が持ち帰ったものを指しているのであろうか。岩村を中心にこの時期に結成されたマンドリンのサークルには、富本の二年先輩で、その後一足先に、一九〇七(明治四〇)年に渡英し、富本の英国留学の指南役を果たすことになる、南薫造も参加していた【図二】。
それでは、「マンドリン仲間のボス」としてではなく、西洋美術史を講じる、東京美術学校教授としての岩村とは、とくにモリスとの関連において、富本はどのような関係にあったのだろうか。
小野二郎は、まず、当時の日本におけるモリスへの関心の状況と、それに対する岩村の役割について、こう指摘する。
この時期、日本でのモリス関心はどうであったろう。ラファ ェ ( ママ ) ル前派の詩については明治二〇年代から流行ってきているが、その美術や芸術運動の意味は、岡倉天心などにはいちはやくその核心がとらえられていたようだが、一九〇〇年前後、岩村透がそのラフ ア ( ママ ) エル前派についてのみならず、ラスキンについて、 ウィ ( ママ ) ッスラーについて、またアール・ヌーヴォーについて論じ、一九世紀イギリス中葉以降の一種の芸術ルネサンス運動の全体的な理解が示されるまでは、断片的なそれにとどまっていたようだ7。
このように述べたあとで、続けて小野は、富本の渡英前後にあっては、いまだほとんど工芸家としてのモリスは日本へ紹介されていなかったことを、岩村が一九一五(大正四)年に出版した『美術と社會』に所収された「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」との関連で、次のように述べる。
その岩村でも、モリスについてのまとまった記述は、一九一五年(大正四年)の「ウィリアム・モリスと趣味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである。富本が渡英する一九〇八年以前では、社会主義者としての、あるいは詩人としてのモリスについての片々たる紹介があるに過ぎなかった。(一九〇四年堺利彦訳モリス『理想郷』などというものがあるが。今日の訳名でいうと『ユートピア便り』であろう。)8
そして、以上のような前置きをしたうえで、次にみられるような、美術学校における岩村と富本の関係を指摘するのである。
しかし岩村は、一九〇二年より一三年間、東京美術学校教授として美術史建築史を講じていたのだから、先の発表された論議の対象から見て、当然モリスの思想と運動について、しかもあやまたぬ文脈において紹介していたに違いない。富本が岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけられたという事実はほぼ間違いないことと思われるが、今そのことの意味は問わぬ9。
岩村の六冊の講義ノートは、一九三八(昭和一三)年に遺族により美術学校に寄贈されている10。また、一九〇三(明治三六)年の南薫造筆記の講義ノートによると、岩村は、西洋美術史を「伊太利」「フランドル(現今の白耳義)」「仏蘭西」の三部に分けて、絵画史を中心に講義していた11。これらはいずれも、富本が美術学校に入学する直前のものであり、富本が在籍したころの講義内容については正確に再現することはできないものの、少なくともそれらの資料の表題や目次からは、岩村がモリスの思想と運動をテーマとして語っていた明確な形跡は認められない。また、この少し前、白馬会絵画研究所によって一連の講話会が開催され、久米桂一郎、黒田清輝、安藤仲太郎とともに、岩村も講師を務めている。そのときの講話を収録したものが、一九〇一(明治三四)年に公刊された『美術講話』12であるが、それによると、岩村の講話のテーマは、「中世紀伊太利人が自然に對する美感に就て」「第十七世紀の和蘭土風景畫家」および「プレラフェリストの起原」であった。しかし「プレラフェリスト[ラファエル前派]の起原」においても、モリスへの言及は認められない。一方、岩村が、一九一五(大正四)年に公刊した『美術と社會』のなかの所収論文である「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」において論じている知見が、刊行以前にあって、すでに富本に植え付けられていた可能性を小野は示唆しているのであるが、この論文は、冒頭において岩村自身が若干触れているように、アーサー・コムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』13を底本として語られているものであり、原著の刊行が一九一三年であることからして、富本が学生であったときに、コムトン=リキットのモリスに関する記述内容を、講義をとおして岩村が教授することは不可能だったことになる。
西洋美術史、とくに絵画史に関する岩村の学識は確かに当時一級のものであったようであるが、どうやらこの時期、講義や講話などの公的な場においてテーマにするほどまでには、モリスの思想や作品は岩村の強い関心事になっていなかったようである。
それでは、岩村はいつの時点でモリスの思想と作品について関心をもつようになったのだろうか。岩村がイギリスの地に足を踏み入れた形跡は、おおよそ以下のようになる。
岩村の第一次外遊は、一八八八―一八九二(明治二一―二五)年で、長期のアメリカ滞在後、一八九一(明治二四)年九月にニューヨークからロンドンに渡り、翌月にはヨーロッパ大陸に足をのばしている。一九〇〇―一九〇一(明治三三―三四)年の第二次外遊は、岩村が三〇歳のときで、パリ万国博覧会の見学が主な目的であったようであるが、詳しい行程はわかっていない。富本が美術学校に入学した年である一九〇四(明治三七)年の五月には、岩村はセント・ルイス万国博覧会美術部審査官の委嘱をうけて、渡米している。これが、岩村の第三次外遊である。この年の秋、岩村はニューヨークからイギリスに向かっている。バーミンガムでは、エドワード・バーン=ジョウンズやホウルマン・ハントの作品に触れ、リヴァプールやマンチェスターでもラファエル前派の傑作を楽しみ、さらにオクスフォードでは、「ラスキン美術館に参り、同所の長マクドナルド氏の案内にて、ラスキン氏の筆、ターナーの眞筆を數十枚見物」14している。そして、一一月中旬にロンドンに入ると、一二月初旬にはパリに向かい、アテネからアレクサンドリア、カイロを経て、最終的に神戸港に着いたのは、一九〇五(明治三八)年の三月のことであった。
これだけからは、岩村とモリスの接点は明確なものとはならないが、一九〇四(明治三七)年のセント・ルイス万国博覧会には「モリス商会」が出展に加わっていたので、ここで岩村がモリスの作品に触れた可能性はある。そして、もしそこでモリスへの本格的な関心が芽生えたとするならば、アメリカ滞在に続く、その年の秋の短いイギリス旅行に、モリスの作品見学と文献渉猟が含まれていたことも想像される。しかし、上述のとおり、このときの旅行の関心は主にラファエル前派とラスキンにあり、岩村がモリス作品を見学した形跡を見出すことはできない。そしてまた、帰国後の一九〇六(明治三九)年に、四年前に刊行していた処女作『巴里の美術學生――外ニ美術談二』に続く、岩村にとっての二冊目の著作となる『藝苑雑稿』(第一集)15が上梓されることになるが、そのなかで、ジョン・ラスキンについては一節を設けて、未完として一三歳ころまでのラスキンの経歴を語っているものの、ここにもモリスへの言及はいっさい残されていない。
以上のような傍証から推量すると、富本が美術学校の学生であったころ、小野二郎が指摘するような、「富本が岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけられたという事実」は薄く、もし岩村が富本にモリスについての知見を授けていたとしたら、それは、必ずしも正規の授業をとおしてのまとまった知識ではなく、ときおり断片的に話題にのぼる程度の私的なものであった可能性の方が高い。しかも、この時期の岩村のモリスに関する知識量は、富本のそれを必ずしも大きく超えるようなものではなかったのではないだろうか16。したがってまた、モリスの存在にかかわっての適切な知識が岩村に欠如していた以上、小野がその一方で指摘しているような、「一九世紀イギリス中葉以降の一種の芸術ルネサンス運動の全体的な理解」にまで、一九〇〇(明治三三)年前後のこの時期に岩村が到達していたということについても、にわかに断定することは困難なように思われる。
確かに、富本がイギリスへ向けて出発する一九〇八(明治四一)年に、岩村は、モリスを連想させるような、「平凡美術」なる用語を使って、その重要性を次のように『方寸』において説いている。
私が今「平凡美術」と題して述べやうとするのは繪畫彫刻建築以外日常の生活に於て我々の美欲を満足させる處のものを指したのである。……平凡な美術が興らなければ繪畫彫刻等建築の美術も發達するものではない。……國民の間に平凡美術の注意を促して日常生活に於ける美欲の満足を圖りたいと思ふのである17
そして中村義一は、この「平凡美術」と題された論稿は岩村の国家主義的なものに由来することを示唆したうえで、「もっともその彼の愛国主義が……平凡美術、つまり生活美術、ウイリアム・モリス流の言い方をかりると〈 小芸術 ( レサー・アート ) 〉の主張をふくんでいたのは重要である」18と述べている。しかし、岩村は「平凡美術」という用語の典拠を明らかにしていないうえに、少なくとも内容的には、日本人の日常の行動や振る舞いに求められる美質を指し示す用語としてここで使用していることを勘案すれば、この時期岩村に、モリスの「小芸術」が念頭にあったとは、とても考えにくい。
モリス研究のために留学していた富本がイギリスから帰国した一九一〇(明治四三)年ころには、美術批評界の状況が少しずつ変化しようとしていた。そうしたなか、すでに岩村の美術批評家としての存在も、薄れつつあった。とくに若い美術家たちのあいだで、そうであった。
芋洗觀はどうか[、]岩村氏の眞劍の言説を聞きたいものだ、而し此の人に此の注文は無理かも知れぬが、せめて おひやらかし ( ・・・・・・ ) は少し止めて貰ひたい19、
この批評文が掲載された時期から判断すると、「芋洗觀」とは、岩村が一九一〇(明治四三)年第一〇巻第二号の『美術新報』に執筆した論稿「芋洗觀(九)」20のことをおそらく指しているものと思われる。また、「芋洗」とは、住んでいた麻布芋洗坂に由来する岩村の筆名でもある。岩村は、その短い論稿のなかで、保守主義的であると同時に芸術至上主義的な立場から、前半で「知識に頼る作は多く不愉快なり」を主題として述べ、後半で「美術と社会組織」について語っていたわけであるが、こうした冷笑のたぐいが誌上で公然となされること自体、もはや「彼が前時代の人間であったことを示す」21証左となるものであった。
その当時、富本は腸チフスで入院し、退院後東京を引き上げ、郷里の安堵村に帰ろうとしていた。そのときの様子を富本は、ロンドン時代以降も交友が続いていた南薫造に宛てた手紙のなかで、「森田[亀之輔]は僕の歸国を東京からの夜にげと評し、岩村[透]先生は国家のため何むとかと言はれた」22と書いている。森田亀之輔は、一九〇六(明治三九)年に美術学校を卒業し、当時、『美術新報』の常連寄稿家で、岩村もその雑誌の日常的な執筆者であると同時に、その編集に深く関与していたわけであるが、このとき富本は、このふたりの言葉を、とりわけ岩村のいう「国家」という言葉を、どのように受け止めただろうか。それはよくわからない。しかし、個人主義思想の萌芽的な時流のなかにあって、また、英国留学をとおして知り得た知見に照らして、もはやそれは富本にとって同意できるようなものではなかったのではないだろうか。
富本の岩村を見る目は一段と厳しくなっていった。一九一一(明治四四)年九月一二日には、同じく南に宛てて、こう書き記している。
東京からの手紙によるとラスキン先生を書いたバルーン[男爵]、岩村は後學を引き立てぬとかで連中大分さわいで居るとか。それで幸ひ[。]若し引き立てられたら大変と考える23。
さらに、同年の一一月一一日の日付をもつ、再び南に宛てた手紙のなかで、富本は、『讀賣新聞』に高村光太郎が書いた文章に感激する一方で、こうも岩村を酷評するのである。
讀賣新聞へ高村君が書いて居る文章は実に嬉しい。特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテイフな繪に對する感想が気に入った。アノ文章は美術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教科書にしたい様な気がする24。
一方、兒島喜久雄も、この時期の岩村の美術批評家としての、また美術学校の西洋美術史の教授としての旧い講壇的な知識が、もはや限界にまで達していた様子を、以下のように述べている。
其間に靑年學生の外國語の力は非常に進んで歐文の美術書を耽讀する者も多く、西洋美術の歴史は元より各種の雜誌を通じて其現状をも知るやうになつたので、漸く美術學校の實情を侮り岩村透の文章などは顧みなくなつた。美術關係の圖書、雜誌、複製等も之に伴つて澤山輸入されるやうになつて來た。夫が丁度日露戦争後から歐洲大戦後迄の状勢であつた25。
そうした美術批評界の状況のなかにあって、富本は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』26【図三】を訳しはじめていた27。一九一一年(明治四四)一一月三〇日付の南に宛てた書簡のなかで、「夜大抵おそく迠モリ ー ( ママ ) スの傳記を讀むで居る」28と述べている。こうして富本は、この伝記の翻訳を、「ウイリアム・モリスの話」という評伝にまとめ、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号および第五号に発表することになるのである。しかし、「[英国ではモリスの]組合運動を調べてきました」29と後年述懐している富本にとって、帰国した一九一〇(明治四三)年の年末から翌年のはじめにかけて起こった大逆事件は、大きな衝撃であったにちがいなかった。この評伝において富本は、工芸家としてのモリスにもっぱら焦点をあて、モリスの社会主義に関しては意図的に記述することを放棄したのであった30。富本は、極めて慎重であったし、現実的でもあった。
富本の「ウイリアム・モリスの話」が『美術新報』に掲載される以前に、岩村がモリスの思想と作品に強い関心を抱いていた明確な形跡は見受けられない。岩村の関心はいまだラスキンにあったらしく、『美術新報』に、一九一一(明治四四)年には「ラスキン先生とアルプス山」31を、翌年には「ラスキン先生の幽霊噺」32を執筆し、両論稿ともに一九一三(大正二)年刊行の『藝苑雑稿』(第二集)33に再掲載されているのである。どうやら、岩村が本格的にモリスに関心を示すようになるのは、乾由明が指摘するような「[『ウイリアム・モリスと趣味的社会主義』を執筆する]ずっと前から」34ではなく、富本が「ウイリアム・モリスの話」を発表したのちの、第四次外遊以降からのように思われる。
一九一四(大正三)年四月、岩村はフランスへ向けて外遊の途にのぼった。谷川寅雄の「解説」に従うと、マルセイユからパリに入り、「透は、六月、ロンドンを往訪し、熱心に各地を歴遊し、とくに、オックスフォードでのラスキン旧宅を訪ね、長年、敬慕する精神的恩師のおもかげを求めている。その地で、かれは三女芙蓉の死の報に接し、パリにいったん引き返した。パリは第 二 ( ママ ) 次ヨーロッパ大戦勃発に動揺していた。透は急いで、マルセーユ経由で、九月に帰国した」35。このとき、岩村は、これまでの研究対象であったジョン・ラスキンの大いなる思想的後継者としてのウィリアム・モリスの存在を適切にも確認したのではないだろうか。そしてまた、このときの外遊時に、おそらく岩村は、コムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』を入手したにちがいなかった。
谷川は、次のように、岩村のこの第四次外遊の目的と成果について指摘している。まず、外遊の目的について。
前回[の外遊]から九年の歳月が流れて、その間、白馬会は解散し、後身の光風会が成立、その画風はいちじるしくアカデミックに堕していき、明治末年には、その灯は小さくとも、フューザン会展などの開催にみられるような、まったく新しい、そして若い画人群が進出してきたし、つづいて二科会の誕生は、その気配を、いっそうきわだたせた。透が『芸苑雑稿』二集にもられた自己の主張との落差を感じなかったはずはない。かれは、それをヨーロッパ美術の新時代に接することで埋めようとした。そして、一カ年の休職を東京美術学校に願い出て、私費で、この外遊をくわだてたのだった36。
そして、この外遊の成果については、こう分析するのである。
この外遊をつうじて、透は、みずからの保守主義的硬化を食い止めることに成功したところもあるが、他方、若き日から抱いていたパリ幻影の崩れいくのを感じたように、老化した情念をもあらわにした。帰国した透は、すでに問題意識としてもっていた美術の周辺、美術の社会的・行政的条件などについて、もっぱら興味を向けていくのであった37。
こうした問題意識から生まれたのが、『美術と社會』であった。岩村自身、刊行にあたっての意図を、その「はしがき」のなかで、次のように説明している。
美術の問題に就て論議する人は、近頃、甚だ多くなり出したが、其大部分は、製作に就ての、審美的議論であつて、社會を相手としての美術的論議は甚だ稀である。自分は、五六年以來、專ら、社會對美術の問題に心を寄せ、種々の新聞、雜誌に寄稿して來た……。美術的作品の審美的研究は、學問的道欒としては面白い事に相違ないが、美術それ自身の盛衰にとつては、甚しい密接なる關係あるものとは信じ無い。之に反して、美術の社會的研究は、直接、美術、并に、美術家の運命に關する事であつて、今日の如き、未曾有の社會的變動に接したる時代に於ては、此方面の研究は最も肝心なる事と思ふ38。
『美術と社會』は一八編の論稿で構成されており、巻頭に所収されている「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」は、「当時、新たに書きおろしたものである。一八篇のなかには、明治末年の旧稿もあるが、大部分は、本書刊行の年に、諸誌の求めに応じて執筆したものであった」39。そうであるとするならば、ここで問題になるのは、岩村の「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」に先立って、すでに一九一二(明治四五)年に富本が、評伝「ウイリアム・モリスの話」を発表していたことの意味とその位置づけである。年譜的にいえば、岩村の『藝苑雑稿』(第二集)の出版が一九一三(大正二)年で、第四次外遊が一九一四(大正三)年、そして『美術と社會』が出版されるのが、一九一五(大正四)年なのである。もし、これらのことを時間軸に即しながら、その前後の状況に照らして総合的に判断するならば、この時期、美術批評家として焦慮のなかにあった岩村は、富本の「ウイリアム・モリスの話」を読み、それに触発されるかたちで、「ヨーロッパ美術の新時代」の先駆者としてのモリスをもってして、谷川のいう「自己の主張との落差を……埋めようとした」という仮説も、設定できないこともなさそうである。つまり、別の言葉に置き換えるならば、このとき岩村は、自己の批評基軸の新たな展望の根拠を、すでに富本が評伝として取り上げていたモリスに求め、そうすることによって、「美術的作品の審美的研究」から「美術の社會的研究」のなかへ、己の活路を何とか見出そうとし、その結果的産物として、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」は生み出されるに至ったのではないかという推論が可能かどうかという問題なのであるが、果たして、こうした推論に妥当性はあるのであろうか。
それではまず、この論文と底本とを取り巻く、背景と成り立ちについて述べなければならない。岩村は、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」を書くにあたって、コムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』【図四】を読んで、それを底本に使用した。とくに、最初の「三種の社會改革者」「モリス前半生の經歴」「社會主義者としての活動」「美術的事業の摡略」といった小見出しがつけられた部分の記述にあたっては、主として「第五部 社会改革者」と巻末に掲載されている詳細な「年譜」とが利用されているのは明白である。しかし、それに続く「モリスの社會主義」および「主義の實行=マートン、アベーの工場」については、別のテクストもあわせて参照している可能性もある。コムトン=リキットは、社会改革者(Social reformer)を人道的改革者(Humanitarian reformer)、理知的改革者(Intellectual reformer)、趣味的改革者(Æsthetic reformer)の三つの類型に分けたうえで、「ウィリアム・モリスの場合、もし類型が可能であるとするならば、三番目の類型の近年の好例としてみなすことができよう」40と述べている。三つの類型に対してここで使用している訳語は、あくまでも岩村自身のそれである。また、岩村が論文の表題に使用している「趣味的社會主義」という用語は、コムトン=リキットのテクストにはなく、この三番目の類型に属する「趣味的改革者」がその性格上もっている社会主義的思想傾向を指し示すために用いた、岩村独自の用語法であると思われる。そして、本文中に使用されている「趣味的社會改革」「趣味的社會政策」という用語についても、同様のことがいえる。
富本と岩村のそれぞれにとってのモリス像は、両論文それぞれに基調をなす底本があることからして、そのまま、エイマ・ヴァランスとアーサー・コムトン=リキットの記述内容の違いに由来していた可能性もあるが、しかしそれはそれとして、ここで注意しておかなければならないことは、いずれの原著も、刊行された時期の全般的なイギリスにおける、あるいは個人的な執筆環境における、固有のモリスへの眼差しと評価に避けがたく規定されており、しかも、両原著固有の記述内容にかかわって、富本、岩村の両者は、自らの興味の観点から恣意的な選択と判断を行ない、その結果として、このふたつの論文はそれぞれに成立しているということである。具体的にいえば、エイマ・ヴァランスの著作では、事情があって、モリスにとって不名誉となるような、私的な生活についてはいっさい触れられることはなく、もっぱら、詩人、製造業者、政治活動家としての公的生活に照明があてられていたし、アーサー・コムトン=リキットの書物の全体をとおしての主題は、詩人としてのモリスのパーソナリティー分析にあり、「社会改革者」という表題をもつ第五部に限っても、詩人モリスの社会主義理解の観点から叙述されている。その一方で、富本は、工芸家に絞ってヴァランスからの選択的記述を行なうことによって、工芸家としての自らの今後の活動の指針を得ようとしていたし、岩村についていえば、コムトン=リキットがモリスを「趣味的改革者」として類型化したことにヒントを得たうえで、美術の社会的政策の重要性にかかわって独自にその論を展開しているのである。
さらにここで注目されてよいのは、岩村が底本として利用していたコムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』は、これまでのイギリスにおけるモリス研究にあっては、ほとんど重要視されることのなかったテクストであるということである。ウィリアム・モリスおよびラファエル前派の研究者として現在英国で活躍しているジャン・マーシュも、次のように語っている。
残念ながら、モリスに関するこのコムトン=リキットの本を私はいまだ読んだことがないし、彼がどのような人物であったのかも正確には知らない。文学者としてマイナーで全く重要な人物でないことは別にしても、モリスの社会主義に関しての彼の書物や見解について、今日言及している研究者は見当たらない41。
次に、この論文の内容と評価に関して、考察しなければならないだろう。岩村は、論文「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」をとおして、どのように美術の社会的政策の重要性を説いているのであろうか。それは、「社會主義者の進轉=社會政策」という小見出しがつけられた最後の節におおよそ現われている。少し長くなるが、この節を順次要約的に引用していくと、だいたい以下のようになる。
モリスの合唱したる社會主義なるものは、過去幾十年の間に、徐々として、其進化を遂げ、……今日に於ては、世界各地の社會黨は專ら、社會的、政治的改良に就ての實行に腐心する事となり出した。此變化は道理ある移動であつて、……斯くの如くして、所謂、空想的、理知的、社會主義なるものは、漸次、實行的社會政策者と其姿を変じ來つた。…… モリスが社會主義の内には、必然、含有されるべきものと信じた趣味的社會改革は、此現時の社會政策に依て、如何に扱はれつゝあるかは、世界各國の政府、並に民間の有志が、此方面に於ける努力の現状に依て了解し得るであらう42。
岩村は、「趣味的改革者」としてのモリスに認められるような社会主義は、社会政策として必然的に進化を遂げ、その正当性のもとに、現在、世界の各地でその実行がはかられている、と述べているわけであるが、こうした分析はコムトン=リキットのテクストに存在しないだけではなく、モリスの目指した社会主義の展望とも大きく異なる、全くの岩村独自の解釈なのである。そして岩村は、さらに続けて、こうした「趣味的社會政策」が実現した事例として、「兒童の圖畫敎育、美性開發敎育の發展、手工々藝敎育の勃興、博物館、美術館、殊に、小市に於ける小美術館の増設、美術館案内講演の新設、貧民住家改良、都市建設の改善、都市設備の美的設計、劇場、娯樂場、集會場の公設、圖書館の装飾、天然公園、國有公園、都市小公園の設置、郊外生活、ガーデン、シチーの計畫」43を列挙しているが、とくにそのなかで、教育や博物館にかかわる問題についていえば、モリスその人は、『ユートピア便り』のなかでわずかながら触れてはいるものの、生涯にわたってほとんど関心を寄せることのなかったテーマであった。小都市における美術館の増設については、一九〇四(明治三七)年に訪れていたバーミンガムやリヴァプールやマンチェスターの美術館のことが岩村の念頭にあったものと思われるし、都市や公園やガーデン・シティーに関しての知識の方面では、美術学校の同僚であった大沢三之助から何か教示を受けていた可能性もある44。しかしながら、それらはいずれも岩村自身の体験と知識にかかわるもので、モリスの思想と直接関係があるものではなく、したがって、岩村が列挙した「趣味的社會政策」の成功事例も、明らかに、コムトン=リキットの記述からも、モリスの関心からも著しく遊離するものであったといわざるを得ない。そうであるにもかかわらず、岩村は、こうした「趣味的社會政策」は、「モリスの夢想したる、又、努力したる『美の民衆化』と之に依ての『民衆幸福の増進』」45に由来するものであるとの独自の所見のうえに立って、結論として、次のように「空想的、夢幻的諷刺家」たるモリスの「趣味的社會主義」を総括し、礼讃するのである。
此諷刺家、此夢幻者あつて、初めて、現時の趣味的社會政策なるもの出現したのである。凡ての實行的運動には其初發に於て、所謂夢幻者なる者を要する。偉大なる功德ほど、愈々、偉大なる空想者を要する譯である。……社會は永遠に、ウイリアム、モリスの如き、誠實にして、又、寛大なる夢想家を要求する46。
明らかに岩村は、意識的であろうと、無意識的であろうと、この論文のなかで、コムトン=リキットが類型化した「趣味的改革者」を実にうまく利用しつつ、さらには、大きくモリスの社会主義を歪曲ないしは逸脱したうえで、「趣味的社會政策」なるものの重要性を強引なまでにモリスに関連づけて展開しているのである。したがって、そうした岩村論文のもっている性格から判断すると、先に引用した「趣味的社會政策」にかかわる多数の現実化された事例を、「モリスが主張し、ヨーロッパで実現されたもの」47であるとしたうえで、「岩村の主張は、モリスの理想を踏襲していた」48とする田井淳夫の指摘も、また、「早くから日本に幾多の影響をあたえたラスキンを、モリスまで正当に追っていたのは岩村だけであった」49とする中村義一の指摘も、今後再考を要するものといわざるを得ないであろう。
最後に考察されなければならないのは、執筆の動機を巡る問題についてである。なぜこの時期、岩村は、このような内容をもつ論文を執筆しなければならなかったのだろうか。淸見陸郎は、次のような事情を示唆している。
社會對美術の問題に最大の關心を寄せた透は、多年懐抱する所の意見を實現すべく、この頃から政治界への進出を企圖するやうになつた。この目的のためには、彼の社會的位置と資質とは共に甚だ好適と云はねばならない。男爵たるが故に彼は将来貴族院議員として選出され得る見込みがあるし、幸ひに議政壇上に立ち得た暁には、彼の辯説と識見とを以てして美術上の輿論を喚起し得ない筈もないのである50。
早くも岩村は、一九〇二(明治三五)年に公刊した処女作『巴里の美術學生――外ニ美術談二』において、サウス・ケンジントン博物館の第四六回報告に記載されている統計資料をもとに、昨年度の来館者数は減じているものの、同博物館附属の美術図書館への来読者数は増加していることを指摘したうえで、次のように述べている。
こう云う風に一般の読者が美術に就ての智識が広がつて来るのは、直接に学術の為め又た間接には技術、技術家の為に莫大の利益であつて、欧米技術者社会の財政が追々豊かになつて来るのは美術教育の方法日に新まると、又た随て一般社会に美術に関する確実な智識が出来るからであろう。実に羨しき次第である51。
すでに紹介したように、岩村は、書き下ろしの「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」を巻頭に所収した、一九一五(大正四)年刊行の『美術と社會』の「はしがき」のなかで、「自分は、五六年以來、專ら、社會對美術の問題に心を寄せ、種々の新聞、雜誌に寄稿して來た」と述べているが、先の引用からも理解できるように、少なくとも博物館に関する関心についていえば、刊行の数年前から芽生えたのではなく、岩村が美術学校の教授になる一九〇二(明治三五)年ころにはすでに萌芽していたことがわかる。つまり、「美術と社会」に関する興味の一部は、疑いもなく、岩村の美術学校在職期間を通じて持続されていたと考えられるのである。したがって、岩村のこの「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」という論文が、仮に、将来の政界進出のために用意された文化政策上の一種の宣言文的性格を有したものであったとしても、それはそれとして、長年にわたる岩村の一貫した関心が反映された、そのような意味で価値をもった論文といわなければならないであろう。しかし、「趣味的社會政策」の発生の根拠をコムトン=リキットが類型化した「趣味的改革者」に属するモリスの社会主義に求めたことは、換言すれば、この論文において、己の国家主義的観点のなかにやすやすとモリスの社会主義的観点を流用したことは、日本におけるモリス思想の適切な紹介という文脈から見た場合、結果として、不正確な理解を持ち込むことになり、明らかにその部分は蛇足であったように思われる。
一九〇四(明治三七)年の第三次外遊の際に、岩村は、サウス・ケンジントン博物館52を訪れ、一八九六年から館長を務めていたサー・ケスパー・パードン・クラークと面会している。そしてそのときの訪問の様子を、美術学校校長の正木直彦に宛てて次のように書き送っている。
……ロンドンに於ては非常に歓待せられ、日々各所に招がるゝなど万事好都合に参り候。南ケンシントン美術館館長サー・パードン・クラーク氏に面会致候。…… ケンシントン教育事業実際の有様は、同美術館次長スキナー氏の案内にて詳しく説明を受けつゝ見物候。かねて聞きしよりも組織の面白さに感服致候。実にこの教育事業こそ最も羨ま敷、假令雲泥の差あり、比較にならぬ程の小仕掛にても宣敷候得ば、是非我国に於てもやつて見度感じ申候53。
このときもまた、岩村は、サウス・ケンジントン博物館へ羨望の眼差しを向けているのである。こうした博物館事業への熱い思いが岩村にとって真実なものであり、また、論文「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」における真の主題が、「日本へのモリス紹介」というよりは、むしろ「美術に関する社会政策の強調」にあったとするならば、岩村は、社会主義者のモリスを引き合いに出すのではなく、ヴィクトリア女王の夫君のアルバート公とともに一八五一年の大博覧会を推進し、その収益金をもとに一八五七年に開設されたサウス・ケンジントン博物館の初代館長に就任した、功利主義者のヘンリー・コウルを呼び出すべきだったのではないだろうか。確かに、岩村自らが「はしがき」のなかで述べている「美術的作品の審美的研究」から「美術の社會的研究」への志向は認められるものの、岩村論文の不幸は、「日本へのモリス紹介」と「美術に関する社会政策の強調」との不義なる混合として結果的に終わってしまったことにあった。
「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」が発表される前後のころ、岩村は美術学校の講義のなかでウィリアム・モリスを取り上げていたらしく、幾人かの学生たちも、モリスの存在を知るようになっていた。以下は、一九一五(大正四)年の六耀社展に関する高村豊周の回想である。
九月の末展覧会を開くと、思ったより反響があった。一番心強かったのは黒田清輝先生と岩村透先生が来てくれたことだった。……最新の知識をもっている人といえば、学者では第一に岩村透、絵で黒田清輝、久米桂一郎、藤島武二といったところで、殊に毎週学校で講義をしていたから、岩村先生の影響は実に大きいものだった54。
続けて、この展覧会において、岩村が小倉淳の葡萄唐草の更紗を「これは今までに日本に見なかったものだ。まあ日本のウィリアム・モーリスといったところだ」55と激賞し、小倉がすっかり感激してしまったことを述懐している。そして、さらに続けて、高村は当時をこう振り返るのである。
第一その時分、大正四年頃に、こういっては悪いが、工芸科の先生でウィリアム・モーリスの名前を知っている先生はいなかったのではないかと思う56。
学生たちが、岩村の講義のなかに登場するモリスをどこまで内面化していたのかはわからない。ラスキンの衣鉢を継いだ、イギリスの立派な思想家にして高名な工芸家といった程度の知識だったかもしれない。また、学校の教師や専門の工芸家のなかにあってさえも、社会主義者としてもデザイナーとしても、モリスの存在は、いまだこの時期、日本にあってはほとんど闇のなかに閉ざされていたのではないだろうか。
岩村は、第四次外遊から帰国すると、教授としての復職が認められず、休職のまま、最終的に一九一六(大正五)年三月、東京美術学校教授を解職されることになる。「彼が思想的に社會主義に同情して、敎壇に立つても往々不謹慎な言説を弄したがためと噂する者もあつた」57。しかし、岩村が社会主義者であったという形跡はない。むしろ、国家主義的で芸術至上主義的な立場にあったといえる。解職の本当の理由はほかにあったのであろう。「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」を書いたことが不要な誤解を招き、解職の口実にうまく利用されたとも考えることができる。あるいは、それとは全く逆で、大逆事件以降の、いわいる「冬の時代」の余韻が漂うなかでの「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」の執筆が直接の原因で、日頃の軽率な言動や休職の届出期間を短縮しての帰国といった理由は、単に合理性を担保するために、あとから付け加えられた可能性もある。どちらにしても、真相は闇のなかにある。こうして道半ば、失意のうちに岩村は、翌年の一九一七(大正六)年、病が重なり、四七歳という若さで死去することになる58。
第一次世界大戦が終結するころには、デモクラシーへの関心が急速に高まり、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」の発表から五年ほど途絶えていた日本におけるモリス研究は、新たな幕を開けることになった。一九二〇(大正九)年は、モリス研究の再開にふさわしく、多産な年であった。そうした新たな状況の到来のなかにあって、この年、加田哲二は、タウンシェンド夫人の『ウィリアム・モリスと共産主義の理想』59を、室伏高信が主幹する雑誌『批評』に訳載し、翌年にそれを、「新生會叢書第七篇」として、下出書店から単行本として公刊することになるのである。『ウヰリアム・モリス評傳』という訳書題をもつ、八〇頁を少し超える程度の小冊子ではあったが、これが、日本におけるモリス伝記の最初の翻訳本であった。ここには、詩人、工芸家、社会主義者としての三つのモリスの側面が記述されており、これまで別々の側面から紹介されてきた経緯を考えれば、とりあえず、この訳書をとおして、はじめてモリスの統一像が公的に提示されたことになる。加田は、その訳書の「序」のなかで、詩や絵画における才能に言及したうえで、モリスの社会主義については、こう紹介している。
この萬能の藝術家[モリス]は……中央集權的國家社會主義と議會主義とを斥け、藝術と勞働と人生とが三位一體となるやうな美しい理想社會を描くことによつて、社會主義史上に特異の地位を保持してゐる60。
さらにその後も、加速度的にモリス研究は進んでいった。一九二四(大正一三)年には、同じく加田が『ウヰリアム・モリス――藝術的社會思想家としての生涯と思想』を、そして、北野大吉が『藝術と社會』を著わしている。前者においては、「彼[モリス]の生涯を叙するに當つては、專らマッケイルのモリス傳に據り、マッケイルに次いで權威と稱せられるヴ ェ ( ママ ) ランスのモリス傳その他を參照した」61と、「序」において著者自らが述べているように、かつて富本が「ウイリアム・モリスの話」を執筆したときの底本であった、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』が一部使用されている。一方後者においては、まさに岩村が底本として用いた、コムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』が再利用されることになるのである。
すでに述べたように、コムトン=リキットは、社会改革者を三つの類型に分け、岩村は、そのひとつに「趣味的改革者」という訳語をあてた。北野は、それに対して「審美的改良家」へ訳し換え、モリスに対しては「趣味的社會主義者」ではなく、「藝術的社會主義者」という呼称を与えている。そうした違いはあるものの、「緒言」から明らかなように、北野は、岩村がすでに紹介していたコムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』を、この著作の出発点にすえたのであった。一方、書名においても大差はみられない。つまり、岩村の論文を所収したものが『美術と社會』で、北野の書名は『藝術と社會』であった。しかし、出発点と書題においては類似点がみられるものの、モリスの労働観や芸術観に対する内容把握という点においては、もはや雲泥の差が生み出されていたのである。北野のモリス理解は、次のようなものであった。
彼[モリス]はラスキンの藝術論を體得して、「藝術とは人々の勞働に於ける歡喜の表現である。」と云つた。モリスはこの一句に、幾多の重大なる意義を持たせつゝ、彼の社會批評への敎義として進んだのである。…… モリスはこの藝術の原理を、社會の原理とせんがために、社會運動の先頭に乘り出した62。
モリスは、「芸術の原理」を「社会の原理」に重ね合わせることを要求し、その理想の実現のための運動へと実践的に自己を向かわせた。「芸術の原理」が単に「芸術の原理」に止まらないところに、モリス思想の特質はあった。こうした社会主義は、ロマンティックなものというよりも、むしろ極めてラディカルなものであったといえるであろう。その意味において、明らかに岩村は、モリスの思想を矮小化していたのである。それでも、「美術と社会」の関係にいちはやく関心を寄せ、それを書題に用いてモリス論を展開したのは、岩村がはじめてであった。そして、日本にあっては、北野の『藝術と社會』が刊行されるころから、モリスの社会主義を指して、「芸術的社会主義」という固有の用語がしばしば使用されている。これもまた、岩村がコムトン=リキットの著作に着目し紹介したことに遠因があったものと思われる。確かに、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」は、モリスを借用した「岩村透の趣味的社会主義」の披瀝に終始したといえる。しかしその一方で、その後の日本におけるモリス研究に、上述のような部分において影響を与えたことも、また確かなのである。
本稿の目的は、「はじめに」においてすでに述べたように、第一次世界大戦後の「大正デモクラシー」の絶頂期を迎える少し前の、日本におけるモリス紹介のいまだ停滞期において発表された、岩村透の「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」に焦点をあて、その内容を検討するとともに、東京美術学校における岩村のかつての学生で、その三年前に「ウイリアム・モリスの話」を執筆していた富本憲吉とのモリスを巡る関係を明らかにすることにあった。考察をとおして明らかになったことは、富本が美術学校の学生であったころに、「富本が岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけられた」という従来の通説には、必ずしも根拠があるわけではない、という点がひとつであるとするならば、もうひとつは、岩村が「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」で描き出したモリス像は、底本のコムトン=リキットの著作内容からも一部逸脱し、また、社会主義者モリスの実像からも大きく遊離したものであったという点であった。
前者における指摘は、次のような展望を今後の富本研究に招来することになる。本人の回想によると、富本の英国留学の主たる目的はモリス研究にあったわけであるが63、学生時代に岩村からモリスに関する知識が教授されていないとするならば、一体どのようにして富本はモリスに関心を抱くようになり、英国留学を決意するに至ったのであろうか。今後この課題が明らかにされなければならない。そして、そうすることによって、富本のイギリスにおけるモリス研究の内容と帰国後の活動の意味は、より正確な理解へとつながっていくものと思われる。
一方、後者における指摘は、「芸術と社会」の関係についての論点を含意している。モリスは、中世社会の生産的行為にみられるような、つくる喜びとしての労働の所産を真の芸術とみなし、そうした芸術を万人が等しく手に入れる必要性を説き、そのために、その理想の実現を阻んでいる現行の資本主義体制を変革し、それに取って代わる新しい社会組織を生み出す闘いに挑んだ。もとよりモリスは、現行の体制のなかにあって、分業と機械による生産品も、また少数者のみが享受可能な造形品も、真の芸術と呼ぶことはなかった。そしてまた、労働の喜びを消失させ、人間の共同体に本来あるべき 同志愛 ( フェローシップ ) を破壊する政治経済体制と、社会的生産から切り離された個人的製作としての表現形式とを前提とする「芸術」を、あたかも宝物であるかのように安置する施設にも、関心を示すことはなかった。しかし残念なことに、岩村は、モリスの社会主義の発展形態を、「芸術」の保護や支援のための施設や制度の増強にあるものとして曲解し、受け取ってしまった。この岩村のモリスの社会主義に向けられた眼差しは、底本として利用したコムトン=リキットの著作に大きく制約されていた以上、その限界性は、当然のこととして認めなければならないだろう。しかし、岩村のモリスへの眼差しとは少し違った次元に属するが、類似した眼差しが、現在においてもなお、一部にあって機能しているということもまた、認められなければならない。たとえば、富本憲吉への眼差しである。従来の展覧会や書物において、白磁や染付とならんで色絵、金銀彩の個人作家としての富本の業績に照明があてられることはあっても、一方で富本が、英国留学からの帰国以降、モリスからの影響のもと、自らの念願として取り組んだ大衆のための量産食器の製作64に対して、必ずしも高い価値が置かれることはこれまでほとんどなかったし、さらにいえば、富本へのモリス思想の影響さえも、ある時期においては、極めて低く扱われていた65。これは単なる一例にすぎないが、なぜ、こうした眼差しの歪みが生まれるのだろうか。こうした眼差しも、実は、岩村の「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」のなかに見受けられた眼差しの歪みとどこかで通底しているように思われる。その意味において、岩村が示したモリス実像の矮小化のプロセスは、今日において「芸術と社会」を論じる際の一部の人びとが共有する富本のモリス理解にかかわる矮小化への道をいちはやく体現するものであったといえるのではないだろうか。
最後に、大逆事件から第一次世界大戦に至るまでの、つまり、社会運動における「冬の時代」と呼ばれるこの時期の、日本におけるモリス紹介という文脈に沿って、一九一二年の富本の「ウイリアム・モリスの話」と一九一五年の岩村の「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」を眺めた場合、どのようなことがいえるのだろうか。まず、共通点として挙げられることは、それまでの時期にみられた詩人や社会主義者としてのモリス紹介から離れ、双方ともに、工芸家としてのモリスに照明をあてていたことであり、同時に、底本が存在していたことである。もっとも、相違点も見受けられる。一方が、モリスの社会主義への言及を自覚的に避けて通っていたのに比して、他方は、工芸家としてのモリスに対してのみならず、たとえ一部に曲解を含んでいたとしても、社会主義者としてのモリスに対しても積極的に視線を向けていたという点である。そして、あえてもうひとつ相違点を挙げるとするならば、岩村は底本について示唆しているものの、富本はそれについていっさい明示しなかったという点である。しかし、これらの相違点を理由に、富本に比べて岩村の方がモリスの社会主義をよりよく理解していたと判断することは、必ずしも妥当ではないだろう。なぜ富本はモリスの社会主義にかかわる記述を放棄し、しかも底本の明示を避けたのであろうか。それは、富本の無理解や無頓着に由来するものではなかったのではないだろうか。逆説的な見方が許されるならば、時代の政治的社会的状況に照らして記述と明示を自制させるほどまでに、富本の社会主義理解の深度はこの時期進行していたといえなくもないのである。これもまた、富本研究における次の検討課題のひとつに加えられなければならないのではないだろうか。
本論文の執筆にあたって、貴重な助言と資料の提供をいただいた、富本憲吉記念館副館長で富本研究家の山本茂雄さんに、そして、ウィリアム・モリスおよびラファエル前派の研究者である英国のジャン・マーシュさんに、この場を借りて、心からのお礼を申し上げます。また、いつものように草稿の段階でそれを読み、適切な指摘をいただいた友人のみなさんにも、感謝します。
(二〇〇六年)
図1 53歳のウィリアム・モリス。
図2 東京美術学校のマンドリンの仲間たち。中央が岩村透、右から2番目が富本憲吉、左から2番目が南薫造。
図3 エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(初版本)のなかで〈レッド・ハウス〉の記述がはじまる頁。
図4 コムトン=リキット『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革家』の表紙。
(1)澁江保『英國文學史全』博文舘、1891年、218頁。
(2)『帝國文學』2巻12号、帝國文學會、1896年、88-95頁。
(3)上田敏「『前ラファエル社』及び近年の詩人」『太陽』第6巻第8号、臨時増刊「一九世紀」、博文舘、1900年、180頁。
(4)村井知至『社會主義』(第3版)労働新聞社、1903年、43-44頁。 この本のなかで村井知至がウィリアム・モリスに関して言及した「第六章 社會主義と美術」は、その後要約されたうえで、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」と題して、週刊『平民新聞』第4号(明治36年12月6日付)に再掲載されることになる。(『週刊平民新聞』近代史研究所、湖北社、1982年、33頁。) なお、本稿において使用したのは、1903年刊行の第3版であるが、『社會主義』は、この第3版をもって発行禁止になったようである。1899年に刊行された初版は、以下の書物において復刻、所収されている。 『社会主義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集 第Ⅳ期 キリスト教と社会・国家篇)、日本図書センター、2004年。
(5)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、193頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]
(6)同書、193-194頁。
(7)小野二郎「《レッド・ハウス》異聞」『牧神』第12号、1978年、80頁。
(8)同論文、同頁。
(9)同論文、同頁。
(10)遺族により1938(昭和13)年に、「岩村透原稿」が東京美術学校に寄贈されたが、そのなかには、西洋美術史講義のための6冊のノートが含まれており、その表題は以下のとおりである。 「欧洲中世美術史講話手記」「東京美術学校ニ於テ講述 三十二年―三十三年 復興時期 完」「東京美術学校ニ於テ講述 三十四年―三十五年 仏蘭西絵画史 完」「三十五年―三十六年 東京美術学校ニ於テ講述 英、西、普、蘭、独、絵画史稿 完」「明治三十五年―三十六年 東京美術学校ニ於テ講述 伊太利亜、仏蘭西彫刻史稿 完」「明治三十六年 独逸、英吉利彫刻史稿 完」(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』ぎょうせい、1992年、593-594頁。)
(11)大井健地「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講義(上)」『研究紀要』第1号、広島県立美術館、1994年、(1)-(19)頁。および、大井健地「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講義(下)」『研究紀要』第2号、広島県立美術館、1995年、1-23頁。
(12)白馬會繪畫研究所編『美術講話』蒿山房、1901年。
(13)Arthur Compton-Rickett, William Morris, Poet, Craftsman, Social Reformer: A Study in Personality, E. P. Dutton and Company, New York, MCMXIII (1913).
(14)淸見陸郎『岩村透と近代美術』聖文閣、1937年、198頁。
(15)岩村透『藝苑雑稿』(第一集)畫報社、1906年。
(16)富本憲吉は、東京美術学校入学以前にあってのモリス研究の様子について、次のように回想している。 「私は友人に、中央公論の嶋中雄三がおり、嶋中がしよつちゆうそういう[モリスの]ことを研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた」。富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。 ただし、中央公論の嶋中であれば、弟の嶋中雄作であり、兄の雄三は、大正、昭和期の社会運動家であった。嶋中兄弟は富本と同郷で、『平民新聞』も、嶋中兄弟に貸し与えられた可能性もある。いずれにしても、美術学校入学以前に、富本は、その当時読むことができた、数少ないモリス関連の情報をおおかた手に入れていたものと思われる。
(17)岩村透「平凡美術」『方寸』第2巻第5号、1908年、2-3頁。
(18)中村義一『近代日本美術の側面――明治洋画とイギリス美術』造形社、1976年、100頁。
(19)「方寸書架」『方寸』1911年1月号、15頁。
(20)芋洗生(岩村透)「芋洗觀(九)」『美術新報』第10巻第2号、1910年、16頁。そのなかで岩村は、社会組織と美術の関係について以下のように述べている。 「要するに、説や主義やは極端に走り易い。均衡が愉快である。美の感覺は此均衡の維持者である。新發見、新研究、新主義、新運動は、均衡を覆へす有力な要素である。……封建時代の製作を標準として觀れば、民主思想の社會は、美術の破壊者である。民主思想の産物を標準として考へれば、社會主義の行はるゝ時代は美術の破壊期であらう。……人間の存在する限り、美術は如何なる社會組織の下にも存在する。作し、多数の人間がこの天賦の權利を實行し得る状態の進むに従て、藝術は愈々發達し愈々尊重さるゝに定つて居る」。
(21)中村義一、前掲書、103頁。
(22)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、23頁。
(23)同書、35頁。
(24)同書、39頁。
(25)兒島喜久雄『希臘の鋏』道統社、1942年、146頁。
(26)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.
(27)富本憲吉が、1912(明治45)年の『美術新報』第11巻第4号および第5号に2回に分けて発表した「ウイリアム・モリスの話」の底本が、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったこと指摘した論文に、次のものがある。 中山修一「富本憲吉の『ウイリアム・モリスの話』を再読する」『表現文化研究』第5巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2005年、31-55頁。
(28)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、41頁。
(29)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。
(30)富本憲吉は、「ウイリアム・モリスの話」においてモリスの社会主義に言及しなかった理由を、後年、以下のように述懐している。 「[イギリスから]帰ってきてモリスのことを書きたかっ か ( ママ ) んですけれども、当時はソシアリストとしてのモリスのことを書いたら、いっぺんにちょっと来いといわれるものだから、それは一切抜きにして美術に関することだけを書きましたけれども」。富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。
(31)岩村透「ラスキン先生とアルプス山」『美術新報』第10巻第10号、1911年、5-10頁。
(32)迂僊生(岩村透)「ラスキン先生の幽霊噺」『美術新報』第11巻第7号、1912年、11頁。
(33)岩村透『藝苑雑稿』(第二集)畫報社、1913年。
(34)乾由明「富本憲吉――その陶芸の思想について」『富本憲吉展』(同名展覧会カタログ)朝日新聞社大阪本社企画部、1986年、173頁。
(35)宮川寅雄「解説――岩村透の生涯と業績」、宮川寅雄編『芸苑雑稿他』平凡社、1971年、302頁。 なお、この「解説――岩村透の生涯と業績」は、全文次の書物に再掲載されている。 宮川寅雄『近代美術の軌跡』中央公論社、1972年、8-39頁。
(36)同解説、301頁。
(37)同解説、302頁。
(38)岩村透『美術と社會』(趣味叢書第十二篇)趣味叢書発行所、1915年、1-2頁。
(39)宮川寅雄、前掲解説、304頁。
(40)Arthur Compton-Rickett, op. cit., p. 214.
(41)この引用は、私の質問に対するジャン・マーシュからの回答の一部である。彼女は、『ラファエル前派画集〈女〉』(河村錠一郎訳、リブロポート、1990年)、『ウィリアム・モリスの妻と娘』(中山修一、小野康男、吉村健一訳、晶文社、1993年)、『ラファエル前派の女たち』(蛭川久康訳、平凡社、1997年)などの翻訳書をとおして、その仕事が日本においてもすでに紹介されている英国の女性研究者である。
(42)岩村透、前掲書『美術と社會』、33-35頁。
(43)同書、35頁。
(44)大沢三之助は、岩村透と同じく1902(明治35)年に、東京美術学校の教授に就任している。「建築史」「建築意匠術」および「建築製図演習」の授業を担当。宮内省技師に転任する1914(大正3)年までの美術学校在職期間中、1907(明治40)年1月から1910(明治43)年10月まで海外渡航をしている。ロンドン滞在中は、富本憲吉のよき指導者としての役割を務め、帰国後の1912(明治45)年には、主としてイギリスでの研究をもとに、『建築工藝叢誌』に4回(第1期前篇第1册、第2册、第5册および第6册)に分けて、「ガーデン・シチーに就て」というタイトルで論文を発表している。また大沢は、岩村透の自邸(中渋谷と本郷)の設計者でもあった。
(45)岩村透、前掲書『美術と社會』、36頁。
(46)同書、36-37頁。
(47)田井淳夫「岩村透、近代美術史の一つの展望」『和光大学人文学部紀要』第2号、1967年、40頁。
(48)同論文、同頁。
(49)中村義一、前掲書、106頁。
(50)淸見陸郎、前掲書、356頁。
(51)芋洗生(岩村透)『巴里の美術學生――外ニ美術談二』畫報社、1902年、135-136頁。
(52)1857年に開設されたサウス・ケンジントン博物館は、新しい建物の建設にあたって1899年にヴィクトリア女王によって礎石が置かれると、そのとき女王はその建物の名称について指示し、それ以降、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と呼ばれるようになった。建物自体は1908年までに完成し、富本憲吉がロンドンに滞在していた1909年6月に開館の儀式が執り行なわれている。したがって、岩村透が訪問した1904年には、すでにこの博物館はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へと改称されていたわけであるが、従来からの慣例にしたがい、いまだ一般には、サウス・ケンジントン博物館と呼ばれていた可能性がある。また、この博物館の訳語として「サウス・ケンジントン美術館」をあてる研究者もいるが、無原則になにもかにも「美術館」の訳語をあてることは厳密性に欠けるため、本稿にあっては、museum を「博物館」、museum of art を「美術の博物館」つまり「美術館」として使い分けている。したがって、South Kensington Museum および Victoria and Albert Museum については、それぞれに「サウス・ケンジントン博物館」「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館」の訳語を使用している。ちなみに、「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館」の今日的な正式名称は、National Museum of Art and Design であり、その場合、「国立美術・デザイン博物館」という名称が適訳となるであろう。
(53)淸見陸郎、前掲書、202-203頁。
(54)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、150-151頁。
(55)同書、151頁。
(56)同書、同頁。
(57)淸見陸郎、前掲書、348頁。
(58)南薫造は、恩師である岩村透の死去に際しての追悼文のなかで、「今から思ふに[自分が東京美術学校に入学した]此の[明治]三十五年頃が教授としての先生の一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる」と述べ、また、当時のマンドリンのサークルの奔放な活動の一端を紹介したうえで、「然し能く考へれば或は[この時期が]先生の本當の黄金時代で有つたかも知れない」と回想している。(南薫造「岩村先生追想」『美術』第1巻第12号、1917年、20-21頁。)
(59)Mrs. Townshend, William Morris and the Communist Ideal, Fabian Biographical Series no. 3, The Fabian Society, 1912.
(60)タウンシェンド夫人『ウヰリアム・モリス評傳』加田哲二訳、下出書店、1921年、1-2頁。[この評伝の初出は、甲野(加田)哲二訳「モリス評傳」『批評』第22号、1920年、1-29頁。]
(61)加田哲二『ウヰリアム・モリス――藝術的社會思想家としての生涯と思想』岩波書店、1924年、3頁。 なお、この本には、本文末に「モリスに關する參考書」が加えられているが、そのなかで著者は、ヴァランスの書物については、「マッケイルに次ぐ大著述、殊にモリスの藝術主として工藝美術の方面を最も詳細に記述す」(377-378頁)と、またコムトン=リキットの書物については、「モリスの人物の研究、思想方面の研究は全く貧弱と云ふの外はない」(378頁)と記している。
(62)北野大吉『藝術と社會』更生閣、1924年、251-252頁。
(63)晩年に富本憲吉は、自らの英国留学の目的について、こう回想している。 「徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描き、卒業を目の前に控えて一九〇 九 ( ママ ) 年十月にイギリスに私費で留学しました。普通の美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは、当時ロンドンには南薫造、白滝幾之助、石橋和訓のような先輩がい、大沢三之助先生が文部省留学生としておられたので、指導してもらうに好都合のためでありましたが、実はそれよりも美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したいためでした」。文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』、前掲書、同頁。 富本にとって英国留学の主たる目的は「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したいため」であったが、卒業を目前に控え急いで渡英した背景に「徴兵の関係があった」ことにも、着目されなければならない。徴兵令は1873(明治6)年に制定されたのち、1889(明治22)年に大きな改正が行なわれ、幾つかの特例を除き国民皆兵制となっていた。富本が東京美術学校に入学した1904(明治37)年は、主戦論の前には『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期にあたる。この時期、進歩的な思想をもつ裕福な学生や若者たちにとって徴兵を逃れるひとつの手段として、一時的に国外に身を置くことが考えられていたようである。たとえば、英国留学ののちの尾竹一枝との結婚後、富本は、妻子を伴って1917(大正6)年に新宮の西村伊作の家族を訪ね、約1箇月間滞在しているが、その西村自身は、1905(明治38)年に、召集令状に対し病気を理由に不応届を出し、神戸港からシンガポールへ向け出国していた。その後1910(明治43)年には、大逆事件に関連して叔父の大石誠之助が検挙されるとともに、西村家も家宅捜査を受け、翌年に大石は処刑されている。この富本一家の西村邸滞在においては、近代的な生活や芸術について、日本における社会主義の展望について、さらにはウィリアム・モリスの思想と実践についてなどがおそらく話題や論議になったものと想像される。ただし、上に挙げた富本一家の西村邸訪問の時期は、最新の富本年譜(山本茂雄・森谷美保編集「年譜」『モダンデザインの先駆者 富本憲吉展』同名展覧会カタログ、朝日新聞社文化企画局大阪企画部、2000年、155頁)に依拠しているが、一方の西村伊作の年譜によると、富本一家の西村家滞在は、1916(大正5)年とされている。(西村伊作『我に益あり』紀元社、1960年、443頁。)
(64)富本憲吉は、生涯にわたる自己の念願としていた日用雑器の量産へ向けた挑戦をウィリアム・モリスからの影響としたうえで、晩年、次のように告白している。 「私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを広く大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた」。『私の履歴書』、前掲書、219頁。 「若いころからの私の念願であった〝手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう″という考えは、いろいろな事情で思うにまかせないが、いま、私は一つの試みをしている。それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといったような日用雑器を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである」。同書、229頁。
(65)富本憲吉が1963(昭和38)年6月に死去すると、幾つもの追悼文が新聞や雑誌を飾った。そのとき中村精は、「富本憲吉とモリス――工芸運動家としての生涯」と題された追悼文になかで、「富本氏は、ある意味においては、モリスの理想――大衆のためにいかによい工芸品をつくるかという問題を陶芸家としての生涯を通じてかかえつづけていた、とみることができよう」(中村精「富本憲吉とモリス――工芸運動家としての生涯」『民芸手帖』63号、1963年8月、18頁)と指摘し、モリスとの関連で富本の生涯を位置づけたのであった。それ以降も、富本とモリスの関係性は、幾人かの研究者や批評家にとっての、富本理解に欠かせない論点のひとつとなり、今日へと引き継がれていくことになる。 1980(昭和55)年には、「新しい思想と陶芸の出会い」と題する論文のなかで今泉篤男は、富本を「一つの思想を持った作家」として位置づけたうえで、「私自身のモリスについての不勉強を棚に上げて想定するわけではあるけれども、富本憲吉がウィリアム・モリスから学んだ思想の、陶芸家としての富本憲吉の上に投影したこととして私は三つのことを考えている」(今泉篤男「新しい思想と陶芸の出会い」、乾由明編『やきものの美 現代日本陶芸全集全14巻 第3巻富本憲吉』集英社、1980年、46頁)と述べ、「アマテュ ー ( ママ ) リズムの尊重」「模様についての示唆」「大量生産に繋がる問題」の3つの観点を富本のモリス思想からの影響として示唆していた。 1986(昭和61)年は富本の生誕100年にあたる年で、それを記念する展覧会が開催された。その展覧会カタログにおいて「富本憲吉――その陶芸の思想について」論じた乾由明は、「富本憲吉の『思想』の実体について考えるとき、まず問題となるのはウイリアム・モリスとの関係である」(乾由明「富本憲吉――その陶芸の思想について」『富本憲吉』同名展覧会カタログ、朝日新聞社大阪本社企画部、1986年、173頁)と指摘しつつ、すでに今泉が示唆していた3つの観点に触れたあとで、「モリスの思想がもっとも明確に見られるのは、[模様についての示唆よりも]むしろ大量生産にかかわる問題である」(同論文、174頁)と述べている。そしてその一方で、同論文の最後の部分では、その後の『美術新報』に掲載された、富本のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での模写について言及し、「精美な作品よりも、素朴な原始の陶器や織物が多く写されている。プリミティブな仕事のもつ剛さと品格に、すでに惹かれていたのである。富本がモリスから学んだ最大のものは、おそらくこのアマチュアリズムの仕事の豊かさであった」(同論文、181頁)と結んでいる。 この時期までの代表的な論調を見る限り、モリスの影響は、大量生産への志向を含む、富本の全生涯の活動を貫くものであったことがわかる。しかし、90年代に入ると、モリスの富本への影響は、帰国後の数年間の活動に限定されるのではないかという論調に取って代わられた感があった。 たとえば、1910年代の日本美術を再発見する目的で1995(平成7)年にひとつの貴重な展覧会が企画され、その展覧会カタログに所収された、「工芸の個人主義」という表題をもつ論文のなかで、土田真紀は、「個人作家による工芸と無名工人による工芸……全く対照的なこの二つの工芸観は、富本が『絵と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事』に気付いた[1912年の]時点では、まだ一つに交じり合っていた」(土田真紀「工芸の個人主義」『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代……光り耀く命の流れ』同名展覧会カタログ、三重県立美術館、1995年、223頁)ことを指摘する一方で、結論として、次のように推論するのである。「しかしその富本自身に1910年代初頭と末では大きなずれがみられ……モリス的工芸家から求道的陶芸家へという彼自身の生き方に関わる変貌があったように思われる。」(同論文、同頁。) 続いて1999(平成11)年には、『南薫造宛富本憲吉書簡』が大和美術史料第3集として奈良県立美術館の尽力によって編集された。この書簡について解説文を執筆した宮崎隆旨は、「まとめに代えて――ウィリアム・モリスの影響」という一節を最後に設け、以下のように述べるのである。「富本憲吉がモリスの影響が顕著にみられるのは、イギリス留学から帰国後の数年間で、それもかなり柔軟な受容であり、また当時は賞賛していたモリスの『良い趣味』のデザインは、富本がその創作に厳しい信念を確立するようになると『オリジナリティが乏しい』ものに移り、結果的には、[すでに乾由明が1986年の論文で指摘していた]独学の技術で生まれた『アマチュアリズムの仕事の豊かさ』が、陶芸家としての富本憲吉に受け継がれたと言えよう」。宮崎隆旨「南薫造宛富本憲吉書簡について」『南薫造宛富本憲吉書簡集』大和美術史料第3集、奈良県立美術館、1999年、114頁。 こうした、モリスからの影響を帰国後の一時期のものとして限定する論調は、その後さらに変位し、富本のモリスからの思想的影響は存在しなかったかのような認識さえも現われるようになった。 2000(平成12)年には、「モダンデザインの先駆者 富本憲吉展」が開催され、その展覧会カタログに収められた論文において、山田俊幸は、1912(明治45)年に『美術新報』に投稿した「ウイリアム・モリスの話」のなかで富本が述べている「大變面白いものであると考へて居りました」という文言の意味は、モリスの思想ではなく、「図案(模様)」であったと断言し、さらに山田は続けて、こうも述べている。もはやここでは、富本はモリスの思想からは無縁の存在であったかのように語られているのである。「富本にとって大事なことは、単にモリスの思想を知ることでも、また、モリスの真似をし、モリスのように仕事を行うことでもなかった。それは、さまざまなところに応用されているモリスの『模様』だったのである」。山田俊幸「モダンデザインの先駆者・富本憲吉」『モダンデザインの先駆者 富本憲吉展』同名展覧会カタログ、朝日新聞社文化企画局大阪企画部、2000年、15頁。 一方、その展覧会カタログには、森谷美保による「富本憲吉の模様観――画巻、画帖を中心に」と題された論文も掲載されていた。そのなかで森谷は、モリスからの影響とは述べていないが、富本が生涯をとおして大量生産について強い願望を抱いていたことを資料に即して指摘し、次のような適切な結論へとたどり着いている。「富本は晩年、……自分が本当に望んでいることは、自らがデザインした日常食器が安く、広く世間で使用されることだと述べていた。しかし残念なことに、現在広く一般に知られている富本の作品といえば、色絵金銀彩の名品に代表される『鑑賞陶器』である。もちろんこれらの作と、彼の大量生産品は同時に評価されるものではない。しかし富本が真剣に取り組もうとしていた『日常食器』や『量産品』と『鑑賞陶器』をともに検討することで、本当の意味での富本憲吉像が構築できるのではないだろうか」。森谷美保「富本憲吉の模様観――画巻、画帖を中心に」『モダンデザインの先駆者 富本憲吉展』同名展覧会カタログ、朝日新聞社文化企画局大阪企画部、2000年、26頁。 もっとも、その前年の1999(平成11)年には、吉竹彩子が「安い陶器」つまりは富本憲吉の日常食器の試みを主題とする秀逸の論文を発表しており、その「おわりに」のなかで、以下のように締め括っていた。「それ[釉薬や模様という装飾を取り除いた本質的な立体芸術としての白磁]に比べ、安い陶器を語る富本は、本稿で見たように感情的で説得力を持たなかった。当時は批判の対象となり、その後は試みも含めてごく最近まで取り上げられなかったのである。しかし、富本自身が雄弁に語り得なかったからこそ、安い陶器の試みや模様に我々は言葉を与えたい」。(吉竹彩子「安い陶器――1930年代における富本憲吉の日常食器の試みをめぐって」『デザイン理論』No. 38、意匠学会、1999年、56頁。 こうしたなか、2004(平成16)年から翌年にかけて、東京国立近代美術館で「人間国宝の日常のうつわ――もう一つの富本憲吉」展が開催された。ここでいう「日常のうつわ」とは、大量生産を目的につくられた陶磁器のことを意味する。しかし、展覧会カタログに所収の論文のなかで、執筆にあたった唐澤昌宏は、「イギリスで、手仕事による装飾美術を日常生活の中に生かそうとしたウィリアム・モリスの思想とその作品に触れた富本は、帰国後、図案作成を主として、木版や染織、皮工芸、家具などの仕事に大きな興味をもって取り組み、その初期から工芸家としての幅広い内容をみせる」(唐澤昌宏「富本憲吉の日常のうつわ」『人間国宝の日常のうつわ――もう一つの富本憲吉』同名展覧会カタログ、東京国立近代美術館、2004年、8頁)と述べるに止まり、今泉篤男がかつて指摘した「大量生産に繋がる問題」が、富本に与えたモリスからの影響として再度ここで言及されることはなかった。 以上に概観してきたように、富本の死去以降のこの40年のあいだにあって、モリスと富本を結ぶ関係は、さまざまな立場の研究者や批評家によって、実にさまざまな関心から論じられてきた。つまり、あえて総括するならば、意識的であろうと無意識的であろうと、自らの立場や関心に由来する眼差しに基づいてモリスと富本との結節点が選択され、それぞれがそれぞれにモリスを巡る富本像をつくり上げていた、といえそうなまでに多様な解釈がそこには存在していたのである。
【図1】J. W. Mackail, The Life of William Morris, Vol. II, Longmans, Green and Co., London, 1899.
【図2】『美術』第1巻第12号、1917年、20頁。
【図3】Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.
【図4】Arthur Compton-Rickett, William Morris, Poet, Craftsman, Social Reformer: A Study in Personality, E. P. Dutton and Company, New York, MCMXIII (1913).