中山修一著作集

著作集2 ウィリアム・モリス研究

第二部 富本憲吉の学生時代と英国留学

第三章 ロンドン生活とエジプトおよびインドへの調査旅行

はじめに

富本憲吉(一八八六―一九六三年)の英国留学へ至る経緯は、おおよそ以下のようなものであった。

すでに郡山中学校時代に富本は、友人で、のちに中央公論社の社長を務めることになる嶋中雄作を通じてウィリアム・モリス(一八三四―一八九六年)を知るとともに、自らも、「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜する週刊『平民新聞』を当時読んでいた。東京美術学校に入学してからは、モリスの作品を知るだけではなく、読んだ本からモリスの思想にさらに興味を抱くようになる。そして、徴兵の関係から早めに卒業製作を仕上げると、一番親しかった南薫造が当時ロンドンにいたこともあって、室内装飾を学ぶとともに、美術家であり社会主義者であったモリスの実際の仕事に触れるために、一九〇八(明治四一)年一二月一九日、神戸港より平野丸に乗船し、私費により英国へ向けて出立するのである。それは、二二歳の青年富本にとって実に大きな出来事となるものであった。

帰国すると富本は、一九一二(明治四五)年に、「ウイリアム・モリスの話」と題する評伝を二回に分けて『美術新報』に投稿し、いまだ日本にあってはほとんど知られていなかった工芸家としてのウィリアム・モリスの側面を紹介することになる。そして同じくこの年に、美術新報主催の第三回美術展覧会が開催され、その第三部として一室が与えられた富本は、そこに一五一点から構成された作品を展示している。このなかには、留学中に描いた大量のスケッチ類が含まれていた。この評伝「ウイリアム・モリスの話」の執筆と美術展覧会第三部への出品が、英国留学を終えた富本にとっての、いわゆる「帰朝報告」となるものであった。

帰国後の富本と意気投合することになったバーナード・リーチは、「美術新報主催第三回美術展覧会第三部富本憲吉君出品目録」(富本憲吉記念館所蔵)【図一】へ序文を寄稿し、そのなかで、次のようなことを書いている。

 ついにここに、ひとりの日本人による見事な奮闘を見ることができる。装飾的な美術の側面が十分に理解され、イギリスの樫の木彫、ペルシャのタイル、エジプトとインドの彫刻、メキシコの陶器、中国、日本、そしてヨーロッパの絵画、そのいずれのなかにも同等の美が存在することが明らかに認識されているのである。

富本の英国留学の成果は、単にモリス研究だけに止まるものではなかった。リーチが指摘しているように、世界のさまざまな工芸や装飾美術の分野へ分け隔てなく関心が向けられたことに、また同時に、図案や小芸術が、美において純正美術と同等の価値をもつものであるとの認識に到達したことに、その一方の成果があった。

そこで本稿にあっては、そうした富本の西洋的価値の相対化ともいえる成果を念頭に置きながら、一九〇九年から翌年にかけての富本の英国留学にかかわって、関連する多様な図版とともに、その実態の一端を再構成し、明確化することに主たる眼目が置かれることになる。

一.ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での多様な工芸との出会い

ロンドン滞在中の一九〇九年の九月までには、富本憲吉は、さらに次の下宿へと移動している。新しい「下宿はサウスウエストのカスカードロード二十六番地、ミセス・シェファードさんという未亡人の家で中流の上といったところ。同宿にはエンジニアで電気学者の島潟右一氏、早稲田の建築科の創始者佐藤功一氏、日本で初めて自転車らしい自転車の製造を手掛けた人で蔵前高等工業の教授をした根岸政一氏というような人がいた」。そのなかのひとりの佐藤は、それから十数年後、留学当時トミーの愛称で周りから親しまれていた富本の研究の様子を振り返り、次のように述べている。

 トミーが大英博物館を訪はずに、[ヴィクトリア・アンド・]アルバート博物館で暮したのは理由のある事だつた。なぜといふに、前者にはクラシツク藝術が多く藏されて居るのに、後者には中世紀以後のものが陳列されてあつたから。そしてゴシツク式の家具や波斯の陶器を喜んで研究したのはトミーの傾向としては當然だつた

果たして富本は、このヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でどのような作品を見て、それに感動したのであろうか。帰国後執筆された文章のなかから幾つか拾い集め、以下にその一部を再構成してみたいと思う。

南ケンジントン博物館[サウス・ケンジントンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館]の近東の陶器を列べてある室に、私の好きな箱[陳列ケース]があります。此れは一つの國民とか人種から、別の國民に模倣されて行く有樣を示した樣に思はれます。先ず最左端に支那製の荒い山水繪の靑い一色の皿を置いて、次ぎに印度で此れを模して造つたもの、最後にペルシヤで印度のものを模して造つたものらしいものを置いてあります。……その崩れて行くうちに一種の面白みを認める事が出來ます

この「近東の陶器を列べてある室」とは、「ジョージ・ソルティング氏によってこの博物館へ貸し与えられた『オリエント磁器』に関する重要なコレクションが展示されている」クロムウェル・ロードに面した建物の三階の一番東端に位置していた「一四五室」であったと思われる【図二】。続けて富本は、次のように述べている。

私は此の箱の前に立つ事が好きでした、そしてチュドルローズやホニサックルを、無暗に皿や更紗に書き散らして居る日本人の私を薄笑せずには居られませむでした。長く見て居る中には恐ろしい氣持に成つて、終ひには見えない力が私を後ろから脅かす樣な心持が致しました、餘り長く立つて見張りの巡査に何にか心配でもあるかと聞かれた事さへあります

この体験は、富本にどのような影響を与えたのであろうか。帰国後の富本は、製作にあたってオリジナリティを最も重視した工芸家のひとりとなっていく。その観点からこのときの体験を考えてみると、模倣によってオリジナリティが徐々に崩れ去っていく様を文明史的文脈から例証しているかのようなこれらの展示作品は、まさしくその後の富本が工芸家として寄って立つうえでの原点に相当するものを提示していたのではないだろうか。帰国から三年後の一九一三(大正二)年、「模様というもので大変行き詰まったことがあります」と、晩年富本は告白している。そのとき、バーナード・リーチが滞在していた箱根に赴き、そこである「決心」をすることになるのである。

 決心というのは、「模様から模様を作らない」ということです。これは簡単なようでその実、大変なむずかしいことです。しかし決心を貫きまして、それからは記憶にある古い模様を振り捨てて自分だけの道を開こうと、ありったけの力を尽しました。古い模様を写さぬはもちろん、古い模様を踏台として自分の模様を作ることはしなかった

このとき、かつてヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で体験した「見えない力が私を後ろから脅かす樣な心持」が富本の胸中に去来したかどうかは、残された資料からは明確にすることはできない。しかし、三年前のこの体験が、「模様から模様を作らない」という理念、つまりはオリジナリティ重視の精神を形成するうえで、何がしかの貴重な力となって作用していたことは否定できないのではないだろうか。

「一四五室」の二つ西隣の「一四三室」にも、富本の好みの作品があった。というのも、この展示室の北東方向の隅にある小さな窓に、一八六四年にエドワード・バーン=ジョウンズがデザインし、モリス・マーシャル・フォークナー商会が製作した《ペネロペ》のステインド・グラス・パネルがはめ込まれていたからである。富本は「『ペネロープ』[《ペネロペ》]と云ふサウスケンシントン博物館にあるのを大變好きです」と述べている。

「この展示室の西端には、日本の陶磁器が展示されており、そのなかには、一八七七年にこの博物館のために日本政府が形成したコレクションが含まれていた」。つまりこの「一四三室」の展示室は、ステインド・グラスだけではなく、中国と日本の磁器、さらには日本の陶器を含む構成から成立していたのである。富本はここで、偶然にも乾山の作品を見ることになる。

乾山 けんざん の焼き物を初めて目にしたのも、日本ではなく、この博物館であった。それは角形を二つ組み合わせた平向こう付けで、上から垂れ下がる梅一枝と詩句とを黒色で描いたものだった10

この博物館では乾山の焼き物以外にも日本の作品を展示していた。「德川頃のオリモノとか錦とか云ふ標本風に、一つの箱に列べられたものは南ケンジントン博物館で初めて見ました」11と富本は述べている。そしてそのときの感想を、こう書き記している。

……小さい標本とは云へ一々名から時代迄付けられた日本の織物を、獨逸や佛國の古い織物の中に發見して、ますます此れを味ふ度を強う致しました12

富本がこの博物館で日本の作品を見たとき、単に自尊心をくすぐられることに終始したというような形跡は、資料に残されていない。むしろそのとき富本は、異国のこの地で自文化を再発見する機会をもつとともに、ヨーロッパの工芸品のなかにあって東洋や非西洋諸国の工芸が同等のものとして展示されている手法はまさしく工芸の世界史的展開を明示するものであり、その寛大で適切な展示手法に感動しただけではなく、西洋文化を相対化する視点さえもそこからから学び取ったといえるのではないだろうか。

この博物館には、「さらに、ペルシャ陶器、インカの土器、英国の木工、染織、金工などの優品が目を奪うような美しさで並んでおり、私はすっかり、この博物館のとりこになった。そこで毎日足繁く通い、一点か二点ずつスケッチして、これが何百枚にもなった」13。「南ケンジントン博物館の列品の忘れがたいものを小さい手帖に寫した拙ないスケッチ」14と富本が呼んでいるもののなかには、【図三】の古代ペルーの瓶、【図四】のインドペルシャ期の皿、【図五】の一五世紀ドイツのタペストリーの一部、【図六】の一六世紀ペルーの帯などが含まれている。さらにまた富本は、この博物館でのスケッチを絵はがき【図七】にして、郡山中学校時代の恩師の水木要太郎に送ってもいる。こうして富本は、自らが述べているように、「この博物館のとりこ」になっていくのである。

富本がその当時通っていた中央美術・工芸学校の校長がウィリアム・リチャード・レサビーであったが、レサビーは、あるときウィリアム・モリスが自分にこう語ったことを記憶していた。

彼ら[ヘンリー・コウルたち]は、大衆のための博物館建設を口にしているが、実際のところ、サウス・ケンジントン博物館の展示物は約六名のために集められたんだよ。――私がそのひとりで、もうひとりが部屋の仲間(フィリップ・ウェブ)さ15

展示品の前で「餘り長く立つて見張りの巡査に何にか心配でもあるかと聞かれた事さへあります」と回顧している富本も、モリス同様、この博物館が自分のためにあるかのような思いに、そのとき見舞われたとしても不思議ではない。

しかし、このスケッチには、霧が大敵となっていた。富本は、ローマにいる南薫造に宛てた一九〇九年一一月二六日付の手紙のなかで、このような愚痴をこぼしている。

此處は例の霧、博物館もダメ。……水彩をやったって乾かず、博物館へ行ったって暗くて見えず、音楽も写真も女も此處シバラク、ダメだ。厭やだ厭やだ英国の冬。入道[白滝幾之助]只獨りをたよりに一週間に一度程話しては各にナグサメて居る16

【図八】は、牧野義雄がこのころ描いた水彩画《ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館》である。昼間一日この博物館でスケッチをし、水彩も思うように乾かず、夕方疲れ果てて入館口を出ると、富本の目には、このような霧に包まれたクロムウェル・ロードの情景が飛び込んできたのかもしれない。

それでも、富本がこのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館から学び得たものは、「ペルシャ陶器、インカの土器、英国の木工、染織、金工などの優品が目を奪うような美しさ」で展示されていたことによる知見の拡大、ただそれだけではなかった。

其の博物館は工藝品の研究を第一の目的で建立したとは云ひ條、工藝品の研究には大變都合の良い處です。有名なミレーの「木挽き」バアンジョンス[バーン=ジョウンズ]の「水車」コンステブル[カンスタブル]の風景畫等が、ペルシヤの陶器やエヂプトローマンの織物等と、靜かに別段變つた敬意の使ひわけをしられずに列むで、美術愛好者のために好き敎への光りをはなつて居ります17

なぜ、たとえばミレーの絵画とペルシャの陶器とが、区別されることなく同等のものとして展示されているのだろうか。富本のこうした驚きには計り知れないものがあったものと推測される。それは、日常生活に供するために無名の工人によって製作される工芸品よりも、その表現の形式において、純粋に作家の内面の投影として形づくられる純正美術を常に上位に位置づける既成概念を大きく揺り動かすことを意味するものであったからである。富本の帰国後の製作態度は、明らかに、こうした美術の表現形式における既存の秩序概念への挑戦としての側面を有しており、そのことはまた、彼のあるエッセイの題目にあるように、まさに「美を念とする陶器」18づくりへと富本を向かわせるひとつの原動力となるものでもあった。こうして、以下に認められる、図案や模様が絵画や彫刻の従属物や派生物でないという信念が、そののち富本独自の先駆的思想として展開していくのである。

繒は繒の世界、彫刻は彫刻の世界、模様も亦それ特別の世界19

こうした観念を形成するにあたっての、そのインスピレイションの源は、確かにこの博物館、そのもののなかにあった。

繒と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンジントン博物館で、その考えで列べてある列品によつて、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります20

そしてそれはまた、ウィリアム・モリスその人の哲学と実践に由来するものでもあった。次の引用は、富本の「帰朝報告」のひとつである、一九一二(明治四五)年の『美術新報』に掲載された「ウイリアム・モリスの話」の結論部分の一節である。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します21

さらには死去する前年には、おおよそ半世紀もの前に訪問した曾遊の地ロンドンのこの博物館について富本は、こうも回顧しているのである。

 ロンドンのアルバート・アンド・ビクトリア博物館[ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館]でのスケッチは、私ののちの仕事の血となり肉となった。私の焼き物や図案が新風を開いたのは、この時代のスケッチが大きな力となっていると思うが、そればかりではない。もしこの博物館を知らなかったら、私はおそらく工芸家になることはなかったと思う22

何と決然たる一工芸家の最晩年の総括であろうか。こうして昼間は博物館に通い、スケッチに精を出す一方で、「そのころ、私はロンドン市会立セントラル・スクール・オブ・アーツのステンドグラス科に入学した」23

二.中央美術・工芸学校、ヘルマン・ムテジウス、そして『ザ・ステューディオ』

富本憲吉が入学したこの中央美術・工芸学校24は、一八九六年にロンドン市議会によってリージェント・ストリートに開設されたことにその源を発している。開設された年は、ちょうどウィリアム・モリスが亡くなった年であり、モリスに影響を受けた、いわゆるアーツ・アンド・クラフツ運動の第二世代に属する建築家のウィリアム・リチャード・レサビーが、彫刻家のジョージ・フレムトンとともに共同の管理者としてこの学校の運営にかかわり、一九〇二年には、校長に任命されている。レサビーの伝記作家は、この学校での彼の功績について次のように述べている。

……彼[レサビー]の指導のもと、この学校は成長し続け、その影響力は増していった。海外での評判は、日本のような遠くから訪問者を集めるほどであった。若い人たちが勉強にやって来た――ドイツから訪れた人たちもいた。それは、疑いもなく、イギリスの建築とデザインについて調査報告をするためにドイツ大使館付けの建築家となっていたヘルマン・ムテジウスの[一九〇一年の]次の言葉によるところが大きかった。彼は、この学校のことを「ヨーロッパで最もうまく組織された現代の美術学校」と記述していたのである25

ムテジウスが、英国の建築とデザインの発展過程について調査を命じられ、本国からイギリスのドイツ大使館に派遣されたのは、一八九六年のことであり、これも偶然ではあろうが、中央美術・工芸学校が発足した時期と重なる。英国滞在中のムテジウスは、翌年の一八九七年にミュンヘンにおいて創刊された『装飾芸術』やその他のメディアを通じて、ウィリアム・モリスと第五回アーツ・アンド・クラフツ展覧会、C・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校、さらには、スコットランドの建築家のC・R・マッキントシュの作品などを積極的に本国に紹介し、その後ベルリンにもどると、一九〇四年から翌年にかけて三巻からなる『イギリスの住宅』26を刊行することになるのである。

富本が東京美術学校に入学するのが、この本が刊行された一九〇四(明治三七)年であったが、富本が英国に留学するまでの在学中にこの本を読んでいたかどうかはわからない。しかし、留学後、その成果のひとつとして一九一二(明治四五)年に「ウイリアム・モリスの話」を発表したことは、デザインにおける近代運動史の観点からすれば、ドイツにおけるムテジウスの役割に類似するような歴史的役割を、たとえその一部分であったとしても、日本において富本が担っていたものとしてみなすことができるのではないだろうか。その後ムテジウスは、周知のとおり、一九〇七年に工業製品の良質化を目的としてドイツ工作連盟の創設に尽力することになる。一方富本は、量産について次のような見解に到達していた。

 私は若い時分、英国の社会思想家でありデザイナーであるウィリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを広く大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた27

明らかにふたりには、イギリスに学び、モリスの業績を紹介し、その後、日常生活品の工業化に関心を向けていったという点において共通性が見受けられるのである。

一方、中央美術・工芸学校で学んだのは、富本が日本人として最初ではなかった。この学校には、学籍簿に相当するような記録が残されておらず、また残すことも当時は一般的ではなかったらしく、今日にあって正確に当時の日本人学生の在籍状況を把握することはできない。しかし、少なくとも一九〇〇年には牧野義雄がこの学校の夜間の人体画の教室で学んでいた。

 一九〇〇年夏、私はロンドン西北隅のケンスルライズ區に轉居し、學校も今迄のゴールドスミス校からロンドンの中央美術学校へ轉じた28

しかし、昼間勤務していた日本海軍の事務所の閉鎖に伴い、一九〇一年二月に、牧野は解雇通知を受けることになる。そのとき牧野は、中央美術・工芸学校で教えてもらっていたヘンリー・ウィルスンに苦境を説明し、相談をしている。ウィルスンは、金属や宝石細工を得意とする芸術家で、一八九六年には『アーキテクチュラル・リヴュー』の初代編集長を務め、一八九九年からこの学校に奉職し、人体画を教えていた。

ウィルスン先生は、日本人としての私のやり方をもってすれば、将来の道は開けるといって、私をとても励ましてくれた。先生は、『ザ・ステューディオ』のホウム氏に私を紹介してくださった。私はその雑誌社へ数点の作品をもっていくと、ホウム氏は受け取ってくれたものの、出版まで数箇月かかることを私に告げた29

そして、約束どおりその時が来た。チャールズ・ホウムが受け取ったスケッチが、一九〇一年一〇月号の『ザ・ステューディオ』に掲載されたのである。掲載された七点の作品うち六点は、すべてロンドンに生きる人びとの日常生活の一場面を描いたものだったが、残りの一点は、牧野が通っていた中央美術・工芸学校の人体画の授業風景であった【図九】。中央で指導しているのが、ウィルスンであろう。この紹介記事には、作品の図版だけではなく、長文の作品解説がなされていた。そして最後に、牧野の略歴がこう記されていた。

 牧野義雄が日本を離れて約一〇年が立っている。最初に彼はアメリカに行き、そこで、カリフォルニア大学附属の美術学校で学んだ。このロンドンの地では、ニュー・クロスの[ゴールドスミス・インスティテュートの]マリオット氏に師事し、また、リージェント・ストリートの中央[美術・工芸]学校では人体画を学んできた30

富本は、美術学校時代の文庫における愛読雑誌のひとつであった『ザ・ステューディオ』に掲載された、牧野のこの記事と作品を目にしただろうか。また、『ザ・ステューディオ』のオーナーが、日本をかつて訪問したことのある親日家のチャールズ・ホウムであったことを、そしてその彼が、以前にモリスがジェインと結婚するに際してフィリップ・ウェブに依頼して建設した〈レッド・ハウス〉に、その当時住んでいたことを、果たして知っていたであろうか。そうした知識があったかどうかは別にして、いずれにしてもそれから八年後の一九〇九年に、富本は、この記事の牧野の略歴において紹介されていた中央美術・工芸学校のステインド・グラス科に入学することになるのである。

三.中央美術・工芸学校でのステインド・グラスの学習

この学校は、独自の校舎が完成したのに伴い、一九〇八年にリージェント・ストリートからサウサンプトン・ロウの地【図一〇】【図一一】【図一二】へ移転している。たまたま偶然であろうが、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館もこの年に完成しており、富本憲吉にとって幸運なことに、昼間を過ごすこの博物館も、夜間に学ぶこの学校も、ともに真新しい建物であった。

富本は、入学するにあたって、一九〇八―九年度のこの学校の『概要と時間割』【図一三】を入手したものと思われる31。これには、この年度の教育スタッフ、各学科の説明、授業料、各授業のシラバス、時間割、諸規則と注意などが記載されていた。

富本が、一九〇九年の何月からどれくらいの期間、この中央美術・工芸学校に籍を置いていたのかについては、残されている資料からは必ずしも明確にすることはできない。「履歴書」では、「四月からロンドン市会立のセントラル・スクール・オブ・アーツのスティンドグラス科に入学しました」32と述べているが、一九〇九(明治四二)二月二四日付の水木要太郎に宛てたはがきには、「学校はツマラヌ様思はれ候」33と書いている。また、在籍期間については、「自伝」では「一学期でおわりました」34と述べ、一方、「履歴書」に従うと、「三ヵ月ぐらいで一通りの技術をマスターしてやめてしまった」35らしい。しかし、『概要と時間割』の「諸規則と注意」のなかには、「セッションは二つに分けられる。すなわち、一九〇八年九月二一日から一九〇九年二月六日まで、そして、一九〇九年二月八日から六月二六日まで」36と明記されており、そこから判断すると、富本の在学は、二月八日からはじまる後半の学期だったのではないかと推測される。

『概要と時間割』の記載内容によると、この学校は、女性を対象とした昼間の美術の学科があったが、それ以外は、有職者のための夜間の学科で、「建築と建設」「指し物細工と家具」「銀細工とその関連工芸」「製本」「描画、デザインおよび塑像」「刺繍とニードルワーク」「ステインド・グラス、モザイクおよび装飾絵画」の七つの学科で構成さていた。このなかから富本が「ステインド・グラス、モザイクおよび装飾絵画」の学科を選択したのは、美術学校在学中からの関心によるものであったにちがいない。一九〇七(明治四〇)年の東京勧業博覧会への出品作が《ステインド・グラス図案》であったし、一九〇八(明治四一)年の秋に卒業製作として提出した《音楽家住宅設計図案》のなかの一点もステインド・グラスのための図案だったからである。この学科は、天国に一番近い最上階の六階にあり、「ステインド・グラス製作」「モザイクと装飾絵画」「テンペラ絵画」の三つの授業から成り立っていた。開講曜日は、「ステインド・グラス製作」が火曜、水曜、木曜、「モザイクと装飾絵画」が金曜、「テンペラ絵画」が月曜で、授業時間は、いずれも夜の七時から九時三〇分までであった。富本はおそらく、「ステインド・グラス製作」の授業が開講される火曜日から木曜日までの三晩をこの学校で過ごしたのではないだろうか。「ステインド・グラス製作」を担当する教師は、G・F・ブロッドリック、A・J・ドゥルアリー、カール・パースンズの三名であった。ほかにもうひとり、この学校が設立された一八九六年から一九〇四年までこの学校でステインド・グラスとデザインを教え、その後外来講師となっていたクリストファー・W・ウォールが加わっていた。

中央美術・工芸学校が設立されてしばらくすると、一九〇四年ころから校長のレサビーは、「美的工芸の技法入門叢書」と題された各工芸分野の入門書の編集に携わることになる。執筆陣にはこの学校の教師たちも選ばれ、たとえば、クリストファー・W・ウォールは『ステインド・グラス製作』を、ヘンリー・ウィルスンは『銀細工とジュエリー』を、そしてエドワード・ジョンストンは『ライティング、イルミネイティングおよびレタリング』を著わしている【図一四】。そして、この叢書の巻頭につけられた「編者序文」のなかで、レサビーは、工芸とデザインについて自己の見解の一端を以下のように披瀝している。

過去の一〇〇年間のなかにあって、アカデミックな性格を帯びた絵画と彫刻を除くと、諸芸術の多数は、ほとんど関心をもって扱われることはなかったし、単に「外見」に関する事柄として「デザイン」をみなす傾向があった。従来のこうした「加飾」は、通常、製作における技術的プロセスについてしばしばそう多くの知識をもっていない芸術家が描いた絵を機械的に参照することによって得られていた。しかし、[ジョン・]ラスキンと[ウィリアム・]モリスが各種の工芸に対して批判的な眼差しを向けたことに端を発して、もはやこの点において工芸からデザインを分離することは不可能であり、最も広い意味において、……真のデザインは良質にとっての不可分の要素であるという考えが認められるようになってきたのである37

これらの叢書を富本が実際に読んでいたことを根拠づけるような資料は残されていないが、在学期間中のいろいろな機会をとおして、こうした校長の考えは富本にも伝わっていたものと思われる。一方富本も、帰国してほぼ半世紀が立ったのちに、陶芸にかかわって、この「美的工芸の技法入門叢書」に類する内容の原稿を書いている。それが、未定稿として『富本憲吉著作集』38に所収されている「わが陶器造り」である。

それでは、当時この学校では、それぞれの工芸実践にとってのデザインはどのように教えられていたのであろうか。たとえば、「ライティングとイルミネイション」の授業を担当していたジョンストンのデザインの教授法は、彼の『ライティング、イルミネイティングおよびレタリング』のなかにあって、当時同僚であったノエル・ルックが補足している図版説明文に従うと、おおよそ次のようなものであった。T・ビューイックの木版で、一七九一年に印刷された【図一五】のような「複雑な自然の一場面が、写本のペン描きのような平易な手段を使って表現するなかにあって、単純化されるとよい」39。このようにしてできた一例が【図一六】である。また【図一七】は、明確に単純化された過去の作例である。そして、たとえば【図一八】のような絵を「学生たちは美しい羽根ペン画へと翻案することによって自己を磨くべきである」40。富本が受講したと思われる「ステインド・グラス製作」の実習においても、おおかたこれに近いデザイン課題が学生に課せられていたものと考えられる。

さらには、レサビーやジョンストン以外では、当時この学校にはどのような教師たちが集っていたのであろうか。とくにそのなかにあって、何か富本と接点をもつような教師は含まれていなかったのであろうか。

ジョンストンのこの学校における初期の学生にエリック・ギルがいる。彼は『自伝』のなかで、こう書き残している。

……私は、ウィリアム・モリスの行なった仕事が建築家たちの心のなかで実を結びつつある一方で、W・R・レサビーに感化されたエドワード・ジョンストンの影響によって、優れた印刷物とは、幾多の優れた文字形式のなかにあって唯一のものであるということが明らかになろうとしつつあった、まさにその瞬間に遭遇したのであった41

それとは別に、一九二〇年にバーナード・リーチの誘いを受けて渡英し、リーチ・ポタリーで製作に励んでいた浜田庄司は、一九〇七年から家族とともにディッチリングの村に居を構えていたギルを訪問している。浜田二六歳のときであった。

 エリック・ギルには私は非常に感心している。……
 リーチと始めてサセックスのデイッチリングの僻村にメーレ夫人を訪ねた翌日、もう暗くなつてからギルの門を敲いたのが一番初めだつたかと記憶する。(一九二一年の秋)門を開くなり、暗闇から首に鈴をつけた牝牛が寄つて來て吃驚させられたが、やがて母屋の戸があき、ランプの光を背にして、ギル夫妻や元氣な子供達に迎へられた42

また浜田は、ギルだけではなく、ジョンストンにも会っている。「私がエドワード・ジョンストンに会ったとき、彼は、二匹のカエルについてかつて聞いたことのある、次のような日本の御伽噺を話題にした」43。ジョンストンが誰からこの「日本の御伽噺」を聞かされていたのかも興味のもたれるところであるが、それはそれとして、果たして富本は、浜田に先立ち、在学中にジョンストンのみならず、一九〇六年からこの学校で「石彫と銘刻」の授業を担当していたギルに会って、何か会話をする機会をもったであろうか。それはよくわからない。しかし、富本の美術学校時代の卒業製作は、明らかに文字デザインの実験の場となっていたし、英国滞在の写真を整理したアルバムにも、【図一九】のように、文字デザインの工夫の痕跡が認められ、その後も生涯にわたって文字への関心が失せることはなかった。一九四九(昭和二四)年の《常用文字八種図》(奈良県立美術館所蔵)のなかで、富本は「壽」の文字について、このように書いている。

文字を模様として取扱ふ事は随分以前から考へて居た事であるが、それを考へ出すと欧州中世の装飾文字や、若い頃見たカイロ市回教寺院の建物前面に大きく彫られた回教文字に唐草模様を配されたのが頭に来て、全く手も足も出なかった44

この回想のなかの「欧州中世の装飾文字」とは、この学校での見聞を指しているのかもしれない。いずれにしても、ロンドン滞在中に、そしてその後のエジプトとインドでの調査旅行中に、文字のもつ重みにかかわって、圧倒されんばかりの何か強い体験を富本がしていたことだけは、この引用からもわかるように、確かなのである。

一方富本が在籍していたとき、ウィリアム・モリスの次女のメイ・モリスが「刺繍」の授業の外来講師を務めていた。メイについては、どうだったであろうか。会っていれば、間違いなく、父親のことが話題にのぼったことであろうし、富本にとって、メイほど適切なモリス研究の先導役はいなかったであろう。しかし、たとえ面識を得る機会がなかったとしても、この学校が開催する「博物館訪問」に参加していたとすれば、引率の教師たちから、モリスの実際の作品について詳しい解説と聞くことができたにちがいなかった。というのも、いうまでもなくこの学校の教師たちは、いずれも多かれ少なかれ、モリスの思想と実践に影響を受けた工芸家だったからである。「博物館訪問」について、『概要と時間割』には以下のように記されている。

 学期をとおして授業ごとに、教師の案内によるサウス・ケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館への訪問が間違いなく行なわれるであろう45

それでは最後に、富本はこの学校の「ステインド・グラス製作」の授業では、どのようなことを学んだのであろうか。これについては、次のとおり、わずかながら富本本人が書き残しているので、それが参考になる。

昼間は相変わらず博物館通いをつづけていたので、そのスケッチを先生に見せて「実は私は東京美術学校の卒業生です」というと、先生が「君はデッサンと図案の学習はやらなくてもよいね」といってくれたので、ガラス切りと、ガラス板に絵具を塗ってカマに入れる焼き付けの技術を習った46

おそらく「ガラス切りと、ガラス板に絵具を塗ってカマに入れる焼き付けの技術」を富本に教えたのは、「カッティングとリーディング」を専門としていたA・J・ドゥルアリーだったものと思われる。そして、さらに続けて富本は、「これが私の窯業に関係した初めである」47と回想している。しかし残念なことに、窯業における処女作ともいえる、この学校で製作したステインド・グラスないしは絵ガラスの作品を日本へ富本が持ち帰った形跡を示す資料は、現在のところ残されていない。

四.ロンドン郊外への写生旅行と下宿生活

富本憲吉は、ロンドン滞在中に何度かにわたって、郊外でのスケッチ旅行を楽しんでいる。その最初のものが、イースターの休みを利用しての、南薫造と白滝幾之助とともに過ごしたウィンザーへの旅だったと思われる。そのときの様子を南は克明に日記に書き残している。以下はその抜粋である48

四十二年[一九〇九年]
三月三十一日 白瀧君とウィンザーに来る。……橋から下りて河に沿って行くと一軒手頃の宿屋がある。……河に向ひた実によい室をしめる。酒屋兼宿屋でキングスアームと云ふ。
四月一日 今日白瀧入道は倫敦に帰る。直き来るかも知れない。
四月三日 テームス河中嶋へ写生に行って帰ると主人が君の友人が来た、二人来たと云ふ。家へ這入って見ると入道と富本[憲吉]とだ。白瀧入道は大きなカンバス迄持って来た。
四月四日 三人になり天気は好いので毎日面白い。
四月七日 富[本]と船を漕ぐ。
四月九日 昼から子馬の馬車を借りて富[本]と二人でかわるがわる手綱を取り車の後ろへは[宿屋の主人の長男]エドウィンを乗せて町はずれへ出た。……田舎道を河上の方へ駆る。天気は好い。
四月十三日 倫敦に帰る。

当時この三人のあいだでは、白滝のことを入道、南のことを小僧、富本のことをトミー(富)と互いに呼びあう仲で、ともに美術学校の卒業生でもあった。富本より一三歳年上の白滝は、富本が美術学校に入学した一九〇四(明治三七)年の五月にすでにアメリカに赴き、その後イギリスに渡っていたし、三歳年長の南の方は、一九〇七年の九月にロンドンの地に足を踏み入れていた。

このときのスケッチ旅行で南が描いた作品が【図二〇】である。四月五日の南の日記には、「白鳥が[テムズ川の]流れに浮かんで露の玉の様である」と書き付けている。この英国の地での南の水彩画の評価は高く、すでに前年の五月号の『ザ・ステューディオ』誌上で紹介されていたほどであった。

ヨーロッパ画家の流派に敬服の念を抱き、現在[サウス・ウェスタン・ポリテクニックの]ボロー・ジョンスン氏の指導のもとに人体画の教室で研鑚している、若き日本人芸術家である南薫造氏によって水彩で描かれた風景画は、その扱いにおいて全くヨーロッパ的であり、日本の影響の痕跡をいっさい示していなかった49

おそらくこの記事を富本は、英国留学の希望に胸を膨らませながら、遠く離れた日本にあって読んでいたにちがいない。一方ウィンザーでの富本のスケッチがどのようなものであったのかは、わからない。その後七月には、南は英国留学に区切りをつけ、フランスへと渡ることになる。約半年間にわたるロンドンにおける両者の交流であった。

帰国後富本は、南に宛てた書簡のなかで、「三橋文造の傳」と題された自伝小説を書いていることを伝えている。以下は、今後書く予定の内容に触れた箇所の一部である。

……カーネとイルフラコム[イルフラクーム]へ行つて彼の女の父が若い同 ママ を知って誰れも居ない室へほつて置いた事から、ハンチンドン[ハンティンドン]の日本語を話せない瀬山老、その娘の鶴と云う可愛いゝ子の事などを書いて行くつもり50

「カーネ」という女性は、富本が寄宿していた家の女主人であったシェファード夫人の孫娘のことを指しているのであろう。同宿の佐藤が次のように回想しているからである。

當時同宿者のなかで一番の年少者であつた富本君はトミーと呼ばれてシエフアード夫人の御氣に入りだつた。夫人の息子にボンド君といふ中年の商人が居て、其人の娘にカーネーとビオラといふ姉妹があつた。シエフアード夫人はカーネーをトミーにめあはせたいといつて居た程トミーを愛して居つた51

したがって、このイルフラクームへの旅行には、少なくともカーネーとその父親のボンドも同行していたことになる。【図二一】は、帰国後富本が整理したアルバム(富本憲吉記念館寄託資料)のなかの一頁で、イルフラクームの風景が撮影されている。

ハンティンドン【図二二】へは、富本が出している白滝宛のはがきから判断すると、八月と一〇月の二度にわたって訪問している。【図二三】は、一〇月の訪問のときにロンドンいる白滝に宛てて富本が出した何枚かの自製絵はがきのなかの一葉である。セント・アイヴィスにある一五世紀に建造された古い橋が軽快なタッチで描かれている。この橋の中央部分の建物は教会で、イギリスに四つ現存する、橋の上に設置された中世教会のひとつであった。この時期、白滝はパリにいる南に手紙を出している。そしてそのなかで白滝は、ハンティンドンにいる富本から送られてきた自製絵はがきに触れて、こうほめたたえていた。

冨[本]ハ此間中ハンチンドンへ行ッて居た、毎日絵葉書を贈ッて呉れた。馬鹿ニ旨くなりやがッた、定めし君の方へも行ッた事だろう、明日めしを喰ひに来いと云ふ葉書が今来た、大分水彩の傑作を拵へて来たらしい、やツノイー色を出すニハほとほと感心して仕舞ふ 確ニ天才ダと思ふよ52

ロンドン郊外でのスケッチに精を出すだけではなく、下宿にあっても富本は熱心に研究に励んでいる。当時の同宿者の佐藤の回想からすでに引用で示したように、「ゴシツク式の家具や波斯の陶器を喜んで研究したのはトミーの傾向としては當然だつた」。【図二四】は、先に言及した、ロンドン時代の写真をまとめたアルバムのなかの一部分である。ここに、正面から撮影されたゴシック様式のイスを見ることができる。富本が撮影した場所は、寄宿していたシェファード夫人宅の庭先であろうか。しかし不思議なことに、この写真の左側には、一枚の写真が剥ぎ取られた形跡が残されている。富本は帰国すると『美術新報』に「椅子の話(上)(下)」を発表しているが、おそらくここにあった写真は、その原稿の図版として使用するためにそのとき剥がされたのであろう。【図二五】がその雑誌に掲載されている該当図版である。この図版は明らかに、このイスの左側面を撮ったものであり、ここから判断すると、もともとこのアルバムにおいては、正面から撮影されたものと左側面から撮影されたものとが一組となって貼り付けられていたことがわかる。おそらく富本は、このイスの外形三面図における正面図と左側面図とを念頭に置きながら、そうしたアングルから撮影し、同時にアルバムにも、その意図にしたがってレイアウトしていたものと思われる。ところで、雑誌に掲載されたこのイスについて、長谷部満彦は、次のような解説を加えている。

椅子の話の中には、大英博物館に陳列されている椅子を主に紹介しているが、彼がロンドンの下宿で使っていた椅子についてもふれ、好きな椅子の一つだと記している。写真によるとその椅子はゴシック・リヴァイヴァル様式の椅子で、E・W・ピュージン(E. W. PUGIN 1834-1875)が自宅用にデザイン(1855年)したものと同様のものである53

このイスには幾つかのヴァージョンがあり、ムクのオークを構造材に使用し、詰め物を用いた座面と前脚の金属製のキャスターがその特徴となっている。これは、ゴシック・リヴァイヴァルの中心的建築家であった父のA・W・N・ピュージンが好んだ、厳格な家具デザインの形式に影響を受けたものであるといわれている。それではこのイスについて、富本自身は「椅子の話(下)」のなかで、どのように述べているのだろうか。

 ロンドンの下宿で私が好きで使つて居た樫製の椅子は主婦が若い時分と云ふから五十年程前に買つたものだそうです、複雑な脚のくみ方、座所はスプリングなしの馬の尾の毛屑ばかりを入れたものです、飾りの金具も古い時代のものを研究して造つたあとの見えるもので好きな椅子の一つでした54

富本の下宿での研鑚ぶりを目撃したのは、必ずしも佐藤のような同宿者たちだけではなかった。ひとりの別の日本人がいた。

 私の父は富本さんよりずっと先輩の美術学校出の工芸家であった。今の言葉で言うと、工芸家兼プロダクト・デザイナーであった。明治の末年に三年程欧米を回り、ロンドンではかなり長逗留をしていたが、その時丁度富本さんもロンドンに下宿していて、時々の往来があったようである。富本さんの下宿に行くと彼はよく毛筆で線をひいていた。何で線ばかり書くのかと問うと、図案の基礎は直線であるからと言っていたと、父が語っていた事を思い出す55

この一文は、戦後、工芸史やデザイン論の分野にあって積極的な執筆活動を展開し、東京芸術大学の教授も務めることになる前田 泰次 やすじ の自著『工芸とデザイン』に所収されている論文「富本憲吉」の第一節の書き出しである。そしてここに登場する前田の父が、田中 後次 のちじ という「工芸家兼プロダクト・デザイナーであった」。田中が東京美術学校鋳金本科を卒業するのが、一八九五(明治二八)年で、その後一八九八(明治三一)から一九〇三(明治三六)年まで母校の助教授を務めている。富本のこの学校への入学はその翌年の一九〇四(明治三七)年のことであった。田中は美術学校を辞職すると、ただちに東京瓦斯会社に入社し、一九〇八(明治四一)から三年間、東京瓦斯会社の命により、また同時に農商務省海外実業練習生として欧米各国において金工および琺瑯工を学んでいる。そしてその後、東京瓦斯会社を辞職し、一九一四(大正三)年に自ら田中工場【図二六】を設立するに至るのである。

ロンドン滞在中の田中と富本のふたりが、いつ会って、どのような交流を楽しんだのかは、現時点ではまだ明らかにされていない。しかし、晩年の富本の次にみられる一文に着目したいと思う。

美術家にいたっては食器のような安価品は自分ら上等な美術品を焼くものには別個の問題としているようにみえる。しかし公衆の日常用陶器が少しでもよくなり、少なくとも堕落の一途をたどりゆくのを問題外としておいてそれでいいのだろうか。私は大いに責任を感じる。一品の高価品を焼いて国宝生まれたりと宣伝するよりは数万個の日常品が少しでもその基準を上げることに力を尽す人のいないのは実に不思議といわねばならない56

美術学校の助教授から民間会社に移り、欧米での研鑚を踏まえたうえで自らの工場を設立した田中については、残念ながらいまだにデザイン史研究の分野からの光があてられていない。しかし、直接的にも間接的にもジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、そしてハーバート・リードを論じている前田泰次のいずれの著作にも、その巻頭かあとがきにおいて、控え目にも名前が明かされることはなかったにしても、決まって父のことが触れられている。その内容から判断すると、田中は、明治末年から戦前昭和期にかけての主として琺瑯や鋳造製品の分野における、まさしく富本のいう「数万個の日常品が少しでもその基準を上げることに力を尽す人」のひとりだったようである。疑いもなく、生涯にわたって富本の胸中を占めていたのは、「今迄の工藝品と名のつくものは只に少數人のために造られたオモチヤの樣なものでないでしようか」57という鋭い批判精神であった。おそらくこのことは、田中と富本とをあい結ぶ、共通の精神だったのではないだろうか。しかしこの精神も、もとを糺せば、明らかにモリスの思想に由来するものであった。一八七七年に行なった「装飾芸術」についての講演のなかでモリスは、「小芸術は取るに足りない、機械的な、知力に欠けたものになり、……一方大芸術も、一部の有閑階級の人びとにとっての無意味な虚栄を満たす退屈な添え物、すなわち巧妙な玩具にすぎないものになっている」58と分析しているからである。いずれにしても富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのスケッチ、ロンドン郊外への写生旅行、そして中央美術・工芸学校でのステインド・グラスの技術の修得、ただそれだけに止まることなく、独り下宿にあっては、現前に広がる西欧文明を参照と批判の基軸にすえながら、日本の近代という新たな夜明けにおける工芸や図案のあるべき姿について、しばしば深く思いを巡らせていたものと思われる。富本は、ロンドン生活の比較的早い段階で、そこで受けた印象を水木要太郎に以下のように書き送っているのである。

 日本の貴さツクヅク身に感じ候 此の地にては随分ワカッタ人も此れあり候へ共、大部分、否凡ての人は皆ダメに御座候、先生等にはシブミと云ふ事簡単な事わかり申さず候。……兎に角朝の汽車で町に行き、三時迄何処かの博物館にて立ちん坊、夕飯頃汽車にて帰宅、夜は字引と云ふ事に御座候59

さて、実際に会っている田中後次は別にして、このロンドンの地で富本が偶然にも面識をもった可能性をもつ、もうひとりの日本人芸術家がいた。それが牧野義雄である。一九〇九年の七月、お気に入りのチェルシー・エンバンクメント【図二七】を散策していると、若い日本人が彼の目に止まった。そのときの様子を牧野は次のように描写している。

 昨年(一九〇九年)七月のある夕方のことだった。私がチェルシー・エンバンクメントを散歩していると、ひとりの若い日本人を見かけた。当然ながら私は立ち止まり、その同胞と話しはじめた。彼は美術の勉強のためにイギリスに来ており、いまウィルスン先生の学生だといった。この日本人の美術学生がはじめてウィルスン先生に会ったとき、先生はその学生に、その後『ロンドンの色彩』や『パリの色彩』に挿絵を描いている牧野義雄という日本人芸術家を知っているかと尋ねられた。そのときその学生は「いいえ」と答えた。すると先生は、私から買った何枚かの絵をその学生に差し出し、次のようにおっしゃった。「見てごらんなさい。これが七年前ころの牧野の作品です。熱意次第で人はこんなにもうまくやっていけるようになるとは、実にすばらしいことです。それではこれらの作品をあなたに差し上げます。もっていきなさい、そしてくじけそうになったときはいつも、これを見なさい。きっと勇気づけられると思います」60

前述のとおり、それはさかのぼること一九〇一年の春ことであったが、中央美術・工芸学校の学生だった牧野が昼間働いていた日本海軍の事務所を解職され、収入の道が断たれると、ウィルスンは牧野の作品数点を買い取って励まし、さらにそのうえに、『ザ・ステューディオ』のチャールズ・ホウムを紹介している。牧野に関する本格的な研究も、いままさに緒についたところで、現時点の研究では、チェルシー・エンバンクメントでこのとき牧野が会ったこの学生が誰であったのかは特定されていない。果たしてその学生が富本だった可能性はないであろうか。もし会っているとすれば、富本は、「ステインド・グラス製作」の授業だけではなく、ウィルスンの「人体画」の授業にも出席していたことになるし、そしてまた、牧野の作品数点をそのときウィルスンから与えられていたことになる。富本はこの作品を日本へ持ち帰ったのだろうか。これもすでに述べたように、中央美術・工芸学校の当時の学籍簿は残されておらず、そこから富本以外の日本人学生を特定することはできない61。したがって、ほかに誰か日本人がこの学校で学んでいた可能性を捨て去ることはできず、そのために、この学生を富本であるとここで断定することもできない。しかし、この学生が仮に富本でなかったとしても、富本だけではなく、白滝や南も、牧野の名前と作品については間違いなく知っていたであろう。というのも、一九〇七年に『ロンドンの色彩』が出版されると、掲載された六〇点の挿絵が一躍人気を博し、彼らがロンドンに滞在するころには、牧野はロンドンの社交界や美術界の「寵児」となっていたからである。一九一四年から外交官補としてドイツからイギリスに転任し、そののちに外務大臣となる重光葵は、イギリス着任当時にはじめて会った牧野を、こう回想している。

 その時は氏は華かなりし平時の全盛時代を忍[偲]ばしめるものがあつた。其の有名な水彩画も亦著述も皆日本式であつた。……
 彼れの立派な容皃[貌]と服装とは至る処の上流交際社会に見る事が出来た。其の赤裸々なる自然の人格者はろんどんの寵児であった62

この文脈にあっては、単に富本が牧野に会っていたかどうかという、そのこと自体のみが重要なのではない。そうではなくて、より重要なのは、南や富本のような若い画学生にとって、またあまり年齢の変わらない白滝のような美術家にとって、先にこの地に渡り活躍していた牧野をはじめとして、原撫松や石橋和訓といったような画家たちがどのような存在としてその眼差しのなかにあって位置づけられていたのかという点なのである。しかしそうした彼らの眼差しを例証できるような具体的な資料は、残念ながら現在のところ、まだ見出されていないようである。

ところで、富本は、美術学校の学生であったころ、岩村透が主宰するマンドリンのサークルに参加していた。南ともそのサークルをとおして親しくなった経緯があった。ロンドンに来てからも、南や白滝とともに、しばしば楽器の演奏を楽しみ【図二八】、また「日曜日にはアルバート・ホールのサンデー・コンサートによく出掛けた」63。佐藤は次のように、ロンドン滞在中の富本の楽器とのかかわりについて記憶していた。

暇があるとよくマンドリーヌをひいた。トミーがマンドリーヌをひくと、きつと裏の二階から[カーネーの]ピアノの音がし出すので得意だつた。その頃またギタラをひき始めたやうだつた。 白瀧 ・・ 君が來られてトミーの長椅子の一方に背をもたせてギタラを手にした姿を油でかいて居つたのを記憶する64

そうした日々も過ぎ、一九〇九年も終わりに近づこうとしていたある夜に、クリスマス・パーティーが開かれた。

 ロンドンで一度こんなことがあった。クリスマスの夜、画学生なんかが集まって余興にいろいろな芸を披露した。私にもやかましくいうので、マンドリンを借りてひいてみた。音符も借りて、これが日本では聞いたこともないものだったが、初見でどうやら一曲ひきこなした。外人でもこうはいかないと、やんやのかっさいを浴びたことだった。そのときは、とんだところで余技が役立ったと、私も内心いささか得意になったものである65

このパーティーには、南はすでにパリに赴き、いなかったものの、白滝をはじめ下宿の女主人のシェファード夫人や孫娘のカーネーとビオラも参加していたにちがいない。楽譜を富本に差し出したのは、ひょっとするとカーネーだったのではなかろうか。こうした楽しい冬の一夜を過ごしていた、ちょうどその少し前のことであろう、富本にひとつのニュースがもたらされた。それは明らかに富本にとって、願ってもない、うれしい誘いの知らせであった。

五.エジプトとインドへの調査旅行、そして帰国の航海

さっそく一一月二六日の夕方、「或る人」からの誘いの知らせについて富本憲吉は、一一月一五日に大沢三之助とともにパリを発ち、ローマに滞在することになっていた南薫造に手紙をしたため、次のように説明している。

実は此の間から或る人の随行員の様になって伊太利から獨逸、エジプト、印度と廻れそうだ。未だ決せぬが官費で行ければ行きたいと思ふて居た處。半月程の間には決定する66

この間の事情をさらに詳しく、最晩年の「履歴書」のなかで富本はこう説明している。

 明治天皇の五十年記念博覧会を明治五十年にやる計画があり、そのときの世界博覧会の建物と一流ホテルの設計を当時の農商務省が新家孝正という工博に委嘱することになった。当時の建築界の大御所伊東忠太氏の発案で、どちらも回教建築様式でやろうということになった。新家さんはアメリカを見てパリに回り、そこで私たちの指導者だった大沢三之助工博に会った。大沢氏に「若くて英語を話せ、建築を知っていて写真をうつせるものはいないか」と尋ねたところ「それなら富本が適任だ。会ってみろ」ということになったらしい。そこで新家さんはロンドンへきて私をホテルへ呼んだ67

新家 にいのみ 孝正は、「[明治]四十一年七月日本大博覧會建築に關する事務取扱を嘱託せらる、四十二年八月北米シャトル市萬国博覧會、日英博覧會、伊國トリノ市及羅馬市萬国博覧會、白國ブラツセル市萬国博覧會の會場を視察の序を以て英領印度各地の建築視察の為め出張を被命」68していたのであった。一八八二(明治一五)年に工部大学校造家学科を卒業していた新家は、一八九四(明治二七)年の帝国大学工科大学造家学校の卒業生であった大沢の先輩にあたり、大沢自身は、一九〇六(明治三九)年のほぼ一年間、美術学校において富本に「建築意匠術」等を教授していた間柄であった。ロンドンのホテルで新家に会うに先立って、その名前をおそらく富本は知っていたであろう。というのも、富本は一九〇七(明治四〇)に開催された東京勧業博覧会に《ステインド・グラス図案》を出品しているが、その作品が展示された東京勧業博覧会美術館の設計者が、この新家孝正だったからである。

新家のインドへの調査旅行へ随行することは、日頃ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でエジプトやペルシャやインドの工芸品を見て、それに感動していた富本にとって、今度はそれを実際の地において見聞する機会が与えられたことを意味し、それはまさに、時を得た絶好の誘いであった。ふたりがいつロンドンを発ったのかは、明らかではない。いずれにしても、下宿で開催されたクリスマス・パーティーの夜以降ということになり、この年の一二月末か年が明けた一九一〇年のはじめだったのではないだろうか。

それでは富本は、この調査旅行で何を見聞し、何を体験したのであろうか。以下に、帰国後に断片的に書き残している箇所を拾い上げ、その一部を紹介してみたいと思う。

「私たちはまず、ドイツ製の大きな当時最新式のレフレックス・カメラと、回教建築に関する参考書類を……買い込んだ。……[最初の滞在地の]パリではグランド・ホテルへ泊まって、オペラハウスをはじめ、あちこちの建築を見て回り、それからエジプトのカイロへ渡った。……カイロのシェファード・ホテルでは、それが目的である回教の寺院を見て回った」69。カイロでは、回教寺院の見学だけでなく、博物館へも足をのばしている。帰国後富本は、「エヂプトの感想」という小文のなかで、カイロ博物館に展示してあった「群鴨」【図二九】と「村長」【図三〇】のふたつの作品を紹介し、とくに後者については「初めて大英博物館にて此れの摸造を見たる時は餘り感心も致さず候。カイ ママ 博物館にて實物の前に立ち、只恐ろしくゾーツと後ろより水をかけられたる如き感に打たれ申し候」との体験を語り、「遠き奈良博物館にある鎌倉時代の木彫を考え合はせ申し候、……木材と云ふ材料の面白味を充分に呑み込みて製作されたる實に感伏の外御座なく候」70と、そのときその作品から受けた感動を表現している。博物館のみならず、富本の目を引くものは市街地のなかにもあった。それは【図三一】のイスで、「算盤玉をつなぎ合せた肘かけ椅子と長椅子はカイロ市で現に使用中のものです、夏暑い日本の夏の椅子として根源の研究を此處らにしてはと考へて居ります」71と述べ、ここでも富本は、日本との対比において視線を投げかけている。一方、【図三二】のように、ふたりの足は、市街地から郊外へと向かっている。「カイロ市郊外、砂丘でペルシャ風の陶片が途上に星のやうにあつた」72と、のちのちまで富本はそこで見た光景を記憶していた。富本のカイロ市滞在の印象は総じて次のようなものであった。そのときの日記には、「ヱヂプト藝術は高き高き岩山なり。山を周りて小さき花點々す、此れに摸して小さき砂丘を造り、周りに花を植ゑたりとて一日に枯れはてむ。模して得ず、考へて解し得ず、只見て己れの小さく強からざるを見得れば充分なり」73と綴られていた。

一行の調査の旅は、エジプトからインドへと続いていった。ここでも数々の貴重な体験をしている。たとえば、「印度の内地、それもヅット北のラホールでモガル頃の墓で石造の建物の小さなドームが全體に靑い少し綠がゝつた彩瓦で葺いてあるのを見ました、綠の樹の中に遠くから見ると小いハイライトが宛然夢の樣に光つて其れが半不透明の眞靑な眞珠を見る樣でした」74。そして、更紗を打っている場面にも出くわした。「廣い木綿を廣げて小さい型をコツコツ打つていく、その中に少しゆがむだのや明瞭に行かないのが出来ます、此れが暗い赤や黄、靑と云ふ樣な細かく點々と置かれる彩に交つて實に面白いものが出來ます」75。またこの地でも、富本の目はイスに向けられている。「印度の田舎で英語もロクに通じない小さな町を通つて居ると重くるしい重ね目がゴチゴチした瓦でふかれた低い屋根の下に街道に沿ふて置いてあつた土人のベンチの構造が面白いと眼に残つて居ります」76

こうして調査旅行の「二、三ヵ月間に、回教国の寺院の宮殿、墓地といったところの建築様式、モザイックとか天井のデザインなどの部分にまでレンズを向け、約五百枚写して農商務省に送った」77。しかし、明治天皇の死去に伴い、目的となっていた博覧会は中止されることになった。それでも富本は、新家に随行したこの調査旅行の意義を次のように回想している。

……目的が建築だったにしろ、回教のさまざまな装飾をつぶさに観察する機会を得て、私の将来の仕事にとって決してむだなことではなかったと考えている。特に、回教の模様は、具象的なものは糸杉以外はすべて宗教上のタブーとなっており、幾何的な模様ばかりなのである。この点からもユニークな収穫があったといえよう78

調査が終わり、ロンドンへの帰路の途中、ボンベイのタージ・マハール・パレス・ホテルから富本は、アメリカを回ってそろそろ日本へ帰着するであろう南の実家に宛てて手紙を投函している【図三三】。「写真を ママ る事三百枚、行程五千哩の印度旅行も無事すむだ。三月拾ニ日此の地発、二拾八日頃London着、……出来 ママ れば入道[白滝]と同道六月頃から欧大陸を廻って日本へも同じ船で歸ろうと考へて居る」79。そしてギリシャ沖の船中から再び南に宛てて手紙を出している。「初めて他人に使われて厭やな思ひをした歸り途、静かなGreeceの沖で此手紙をかく。……印度で色々なものを見たがhindoo[ヒンドゥー]の彫刻には一本まいった。何むとも云へぬ気持だ。例えば足の底を蚊にさゝれた時に美しい女にさゝやかれる様な、強い、柔かい実に面白いものだ」80。一九一〇年四月五日、白滝はちょうどそのころ日本へ帰着していた南に宛てて、次のような手紙を書いている。「一昨日冨が帰ッて来た。新家氏はマルセーユから直ぐ伊太利へ行く、冨はこちらへ戻ッたのである。……僕は来月十八日に當地を発して七月二日マルセーユ発の宮崎丸に乗込て八月十日神戸着の豫定ニして居る。冨も一所に廻るといふから大ニ愉快でたまらん」81。しかし、富本に一刻も早く帰国しなければならない事情がそのとき発生したようである。四月二七日付の南宛白滝書簡には、「冨急に思案変り伊国旅行を見合せ俄ニ帰朝とする事となり、弥明後日出帆の三 ママ [島]丸ニ投する事と定まり今夜は例の牛鍋にて送別の宴を張りし處なり。誠に遺憾千萬の次第なれども致方も無し」82と綴られている。富本の説明するところによれば、「家からはすぐ帰国せよとのたよりがあって、それっきり金を送ってこなくなってしまった」83らしい。

こうして、エジプトとインドへの旅行を含む約一年四箇月の英国滞在は終わり、五月一日、日本郵船の三島丸84【図三四】に富本は乗り込むことになった。「波止場までくると、若い美術学生ふうの外人を一二、三人のイギリス人が見送りに来て、ビールで乾杯している風景が目にとまった。船中で、この男に話しかけると、彼はタービー[レジー・ターヴィー]というトランスバール生まれの油画家だった。これから日本にいるバーナード・リーチのところへ行くという」85。そのとき富本は、かつてオンスロウ・ステューディオという下宿で南と白滝の「二人からリーチの話を聞いた」86ことを思い出したであろう。のちに富本はこのターヴィーとの出会いを、「因縁といふものはなかなか面白いものである。未知のリーチが糸を引いてゐるのかも知れなかつた」87と述懐している。リーチとターヴィーは、一九〇三年にロンドンのスレイド純粋美術学校のヘンリー・トンクスの教室で知りあって以来の友人同士だったのである。約一箇月半の船旅をとおして、日本のこと、リーチのこと、そして美術のことへと、ふたりの会話は途切れることなく続いていったことであろう。一方、船上での帰途の様子は、帰国後水木要太郎に書き送っている絵手紙【図三五】がうまく例証している。そこには、ロンドン港の出発からはじまり、コロンボの海、甲板でのビリヤード、香港での鸚鵡の買い物、はじめての日本(台湾海峡)、神戸関税、安堵村への帰還、そして一生のシマリをする説教までが、手際よく図解されているからである。おそらく、「一生のシマリをする説教」のなかに、富本が帰国を急がなければならなかった真の理由が隠されているのであろう。「フランスに行くとごまかしてイギリスに行った」88ことも、その理由のひとつだったのかもしれない。

一九一〇(明治四三)年六月一五日、三島丸はその航海を無事に終え、神戸港に錨を降ろした。そしてその日の夜のうちに、すでに帰朝している南に宛てて、富本は次のような文面を書きしたためた。

今日神戸で船をおりて無事大阪へついた處が細い雨が兵庫の山々に降る處なむが涙の出る程うれしかった。……神戸に着いて拾六七の小女郎、矢ガスリに高島田と云ふ風体を見て、女、らしい女と云ふ感じ ママ した。僕船の中で高村光[太郎]先生の短篇を見たが何むだか気にくわぬ。遇はない人だが腹が立ってならぬ。……雨の奈良、雨、々、雨こそ繪を作るのに最も良い材料と考へついた僕。ウレシクてならぬ89

神戸の町を歩く矢ガスリに高島田の女性たちを見たとき、ロンドンにおける富本の青春の日々は確実に終わりを告げ、六甲の山々に煙る雨だけが、初舞台へと向かうひとりの新進工芸家の足音と重なり、人知れず静かに降り続いていた。

六.結論と考察

富本憲吉の英国留学の主たる目的は、読んだ本から美術家であり社会主義者であったモリスの思想に興味を抱くようになり、その実際の仕事に触れるためであった。しかし、モリス作品を展示しているヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に実際に足を踏み入れてみると、ここにはモリス作品のみならず、世界各地の各時代の木工、金属細工、テキスタイル、陶器などの工芸品が、絵画や彫刻とともに展示されていることに気づかされた。次第に富本は、「この博物館のとりこ」になっていくのである。

本稿のまとめとして、一点目に挙げることができることは、富本が「この博物館のとりこ」になっていく、その様子についてである。ここでは、このことに関連して帰国後の富本が断片的に言及している箇所を拾い集め、再構成されている。そのなかで、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での体験をとおして、富本は、単に西洋以外の工芸に目を向ける機会を得ただけではなく、オリジナリティの重要性に気づかされていくとともに、絵画や彫刻の下位に工芸を位置づけることが通例となっていた、当時の美術の序列概念へ疑問を抱くようになっていったことを例証している。

次に、富本がステインド・グラスの技法を学んだ中央美術・工芸学校のその当時の学科構成、時間割等について、その学校が刊行した一九〇八―九年度の『概要と時間割』を手掛かりに再現し、さらには、校長のウィリアム・リチャード・レサビーのデザインに関する考えやエドワード・ジョンストンのデザインの教授法についても紹介した。一方、ドイツにおけるヘルマン・ムテジウスと日本における富本を比べた場合、英国デザインの紹介という点において、また量産への着目という点において、その役割に類似性があったことを示唆している。

三番目に、ロンドン郊外への写生旅行や下宿生活の様子について、公表されている資料のなかの幾つかのエピソードを交えながら描写し、博物館や学校以外での富本の研鑚の様子の一部を明らかにしている。そのなかにあって、田中後次との出会い、また牧野義雄との出会いの可能性についても言及している。

最後に、回教建築の調査のために新家孝正に随行し、エジプトとインドで体験した内容の一部を、富本自身が書き残している断片的な記憶から選び出し再現している。富本にとってこの調査旅行は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館での学習内容を実地において追体験する機会になるものであり、ここからも、富本の西洋文明の相対化に対する意識は強化された可能性を示唆することになる。また、その調査旅行が終わると、ただちに富本は帰国の途につくが、そのときの船に同乗したレジー・ターヴィーに触れ、これが、帰国後のバーナード・リーチとの面識をもたらす運命的出会いであったことを紹介している。

以上が、本稿において考察や言及がなされている内容のまとめであるが、本稿の執筆の過程で偶然にも遭遇したふたりの人物について、少しこの場を借りて述べておきたいと思う。

そのひとりは、田中後次である。

「ウイリアム・モリスの話」の発表から二年後の一九一四(大正三)年に、富本は、美術店田中屋内に「富本憲吉氏圖案事務所」を開設している。これは、モリス・マーシャル・フォークナー商会、のちのモリス商会の範に倣ったものであることは想像に難くないが、ほとんど具体的な活動の成果をあげないまま、自然消滅している。原因は何であったのかは定かではない。しかし私は、そのひとつに、信頼できる協同者が富本の周りにいなかったことが挙げられるのではないかと想像している。モリスの周りには、明らかにバーン=ジョウンズやフィリップ・ウェブをはじめてとして、多くの芸術家の友人たちが集っていた。それは、モリスが求めてやまなかった中世をモデルとした「フェローシップ」を体現するものでもあった。富本も確かに、こうした仕事上の協同者として、美術学校時代からロンドン滞在中をとおして真の理解者となっていた南薫造や帰国後に知り合うことになるバーナード・リーチ、さらには結婚をまじかに控えていた尾竹紅吉(一枝)のような人たちを念頭に置いていた形跡も、わずかながら残されている。しかしそれも、結果的にうまくいかなかった。富本は、一九二〇(大正九)年に執筆したある文章のなかで、前後の文脈から逸脱し、次のようなことを唐突にも述べている。

 ウィリアム・モーリスにつき私の最も関心する處は、彼れのあの結合の力、指揮の力である90

この言葉にかかわって、論証を抜きにして自由に私見を語らせていただくならば、モリスに倣った実践形態が富本にとってひとつの理想の姿であったにもかかわらず、しかしそれがいかに困難であるものかを、かつて経験した挫折を踏まえて告白しているように読める。富本における「結合の力、指揮の力」の欠如が、モリスとは根底において異なる点である。これは、社会変革の展望に向けた深度の違いとして最終的に現われてくる。しかし、この点についても、富本は断念なり、挫折を強いられたようにも思える。というのは、工芸は一部の裕福な人たちのためにあるのではなく、一般大衆のためにあるという強い信念のもとに、果敢に試みた陶器の大量生産へ向けての実践を除けば、その後の富本の社会主義は、おおかた表面上は、かつて小野二郎が示唆したように「闕語」91として進行していくことになるからである。それは、モリスにとってのイギリスにおける一八八〇年代の社会主義の隆盛期と、富本にとっての日本における一九一〇年代の「冬の時代」との違いに由来していたともいえる。事実、富本がモリスのことを社会主義者という肩書きでもって呼ぶのは、戦後からしばらく時を経た、晩年の「自伝」と「履歴書」においてなのである。もっともその一方で、そうした日英間の時代状況を超えた土俵にあって、妻一枝との思想的葛藤は日常的に存続していた。富本の一九一〇年代の苦悩は、これらのことにすべて集約されるのではないだろうか。モリスのいう中世イギリスのフェローシップと引き換えに近代日本の「個人」を、また、モリスのアーティチョーク・パタンと引き換えに在来種モティーフからの「オリジナリティ」を、さらには、モリスの社会主義実践と引き換えに「安い陶器と大量生産への展望」を、結果的にこの時期、富本が確かに手に入れようとしていたとするならば、それは、そうした相克がもたらした、それなりにふさわしい富本自身の「宿命」的な帰結を意味するものであった。いまだ個人的仮説の域を出るものではないにしても、まさしくそのことが、工芸家としての富本のみならず、ひとりの人間としての富本にとっての「近代」にかかわるひとつの大きな断面だったのである。そしてこの断面こそが、決して変質することなく、その後の生涯を貫く「初心」、つまりは富本の初々しい確信となるものだったのではないだろうか。

一方田中も、「富本憲吉氏圖案事務所」が開設された同じ年の一九一四(大正三)年に田中工場を設立している。田中自身は、この工場の経営者であると同時に、ひとりの個人工芸家としての姿も持ち合わせている。その代表作のひとつが、一九二八(昭和三)年の東京帝国大学図書館前青銅製大噴水搭である。しかし、田中の工場も不運に見舞われる。息子の前田泰次は「父の事業は経済的には成功しないで、工場は潰れてしまった」92と回顧している。また別の箇所で前田は、「警視庁の特高課の家宅捜査を受けた」93ともいっている。家宅捜査の詳細は不明であるが、富本の妻一枝が、代々木署の特高課によって身柄を一時拘束される時期と、ほぼ同じ時期だったのではないかと推測される。田中がモリス的な工場運営をしていたのかどうかはわからない。また、工場をどのような理由から閉鎖せざるを得なかったのかも、いまのところ不詳である。ただ私にとってこのことが興味深いのは、旧来の徒弟的なものづくりからは離れて、工芸における近代的な自営工場やデザイン事務所の先駆的事例として、田中工場も富本憲吉氏圖案事務所も位置づくのではないかと思われるが、大正期から戦前昭和期にあって、そのための社会的、文化的、経済的基盤はどのようなものとして存在していたのかを考察するうえで、この工場と事務所は貴重な手掛かりを与えるのではないかと考えているからである。いまひとつ興味深いのは、工芸の実践家としての田中後次と研究者としての前田泰次の親子二代にわたる工芸とのかかわり方である。一九三〇年代のヨーロッパにおけるヴァルター・グロピウスとハーバート・リードとの関係が、日本にあっては、この親子のなかで醸成されつつあったのでないかというのが、現在の私の仮説であるが、その時期、バーナード・リーチは、ステューディオ・ポターとしてデザインの近代運動から全く孤立していた感があった。一方富本は、次第にリーチから離れていく。ふたりにとって埋められない溝は、ひとつには機械、つまり量産を巡る見解の相違にあった。この時期、田中と前田の量産を巡る見解と、富本のそれとは、どのような異同があったのだろうか。このことは、日本におけるこの学問分野にとっての「近代」を考察するうえで、重要な事例となるのではないかと、いまはただ思いを巡らせている。

いまひとりは、牧野義雄である。

牧野がロンドンに上陸するのが一八九七年で、富本がロンドンを離れるのが一九一〇年である。周知のとおり、一九世紀後半は、クリストファー・ドレッサーやチャールズ・ホウム、それにアルフレッド・イーストたちが日本を訪問しただけではなく、モリスは少し横に置くとしても、工芸家や美術家のあいだで熱い眼差しが日本へ向けられ、多くの工芸品や美術品がイギリスへ流入した時期にあたる。こうした英国のジャポニスムに対して、二〇世紀の最初の一〇年間は、逆にイギリスに興味をもった日本の美術家や学生たちが海を渡った時期に相当し、その成果を母国に持ち帰っている。そうした意味において、世紀の転換は、同時に英国ジャポニスムの潮目としての側面をもっているといえる。この約一〇年間の前半は、牧野を中心に原撫松や野口米次郎の交友関係が認められ、後半は、本稿で取り上げているように白滝、南、富本らによって形成されていた人間関係が存在していた。ここで関心を引くのは、イギリスの美術や文化に対して、ふたつのグループにとって、あるいは個々人にとって、何か眼差しの違いがあったのかどうかという点であり、換言すれば、そのことは、イギリスでの彼らの成果物に質的差が認められるかどうかという視点を招来する。もうひとつは、ジャポニスムによって日本への関心がすでに形成されていたイギリスの美術界の文化的土壌にあって、こうした日本人美術家や学生たちは、どのような眼差しで受け入れられていたのかという点である。本稿においても、もっぱら富本のイギリスへ向けられた眼差しを追いかける一方で、その逆の他者の眼差しについては、ほとんど記述を放棄しているところがあるが、この分野における日英交流という文脈に視点を移すならば、富本だけではなく、この十数年間の日本人の動向とそれに対するイギリス側の反応のあり方は、極めて重要な意味をもつことになるであろう94。そのような観点において、今後の牧野研究も期待されるわけであり、この論点への再認識が本稿執筆の副産物となったことを、ここに付け加えさせていただきたいと思う。

最後にもうひとつ、本論文を脱稿するにあたって感想めいたことを書き記すことをお許しいただきたい。それは、富本憲吉の英国留学の動機を巡る論点に関してである。富本の死去以降一九八〇年代までにあっては、富本の英国留学の主たる目的がモリス研究にあったことは既知の前提として語られてきていた。しかし九〇年になると、それが揺らぎはじめ、「ウィリアム・モリスの工芸思想に共鳴してというのが表向きの理由であり、また美術学校で学んだ大沢三之助(建築学教授)や諸先輩が[ロンドンに]居たからと諸処で[富本は]語っているが、実際には親友の南薫造の後を追ってというのが主要な理由だったらしい」95という新たな解釈が現われてくることになる。私は、こうした解釈がどこか気になっていた。しかし、この「富本憲吉の学生時代と英国留学――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」を構成する三つの論文を書き終えたいま、その不安は一掃された。もし、留学に対する課題意識もなく、ただ他人のあとを追っかけていった人に、果たしてこれだけの明確で充実したロンドン生活が送れるだろうかと思うからである。また、単に南を追って渡英したのであれば、南が一九〇九年の七月にパリに渡るときに、なぜ富本はロンドンに独り残り、一緒にくっついていかなかったのであろうか。さらには、熱意を込めて切々と語りかけている、帰国後に執筆した評伝「ウイリアム・モリスの話」を、たとえエイマ・ヴァランスのモリス伝記が底本となっているとはいえ、確たる動機もなく、単に一時期英国に遊んだ人の文章として、本当に読めるであろうか。そうした点からも、「在学中に、読んだ本から……図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかった」96という富本の言葉が、決して「表向きの理由」だったのではなく、明らかに、渡英の「主要な理由」であったことをいま改めて実感している。そして今後も、多くの先達がそうしたように、それを不動の前提として富本研究を続けていきたいとも思っている。

帰国すると富本は、さまざまな工芸の分野へと進出していく。そして、一九一四(大正三)年一〇月、青踏社の社員であった尾竹紅吉(一枝)と結婚すると、翌一一月には、南に宛てて手紙を送っている。「僕もいよいよ陶器師になりにけりさ」97。帰国から四年、富本の職業選択への道のりはどのようなものだったのであろうか。次の私の関心はそこへ向けられなければならない。こうして、富本の帰国とともに、私の視線もロンドンから離れ、「旅の恥はかきすて」という不安を多々残しながらも、再び日本へと向かうことになる。

本稿を公にするにあたり、多くの方々にお礼を申し上げなければなりません。当時の中央美術・工芸学校の『概要と時間割』を探し出していただいた英国在住の友人に、まずお礼を申し上げます。この資料が入手できていなければ、富本が在学していたその当時のこの学校について多くを記述することはできませんでした。前田泰次の回想のなかにみられる「私の父」が田中後次であることを特定するにあたっては、幾人もの親しい研究者のお手をわずらわせることになりました。おかげをもちまして、田中後次の存在をはじめて知ることができました。心から感謝します。また、私の感謝の気持ちは、愚問とも思えるような内容の問い合わせに対しても、貴重な時間を割いて、適切な助言と資料を提供していただきました富本憲吉記念館、豊田市美術館、姫路市立美術館、広島県立美術館、そして碌山美術館の各機関のみなさまにも、向けられなければなりません。本当にありがとうございました。そして最後に、本稿においても多数の図版を掲載することができました。しばしば図版はテクスト以上に正確にそして雄弁に物語ってくれます。図版の掲載にあたって、版権が明確なものにつきましては、すべて複製の許可をいただきました。富本憲吉記念館と広島県立美術館の各機関、そして、お名前をここに挙げることは差し控えさせていただきますが、四名の個人版権所有者の方々からちょうだいしましたご好意に対しまして、心から感謝の意を表します。

(二〇〇七年)

第二部 第三章 図版

(1)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、199頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に連載。]

(2)佐藤碧坐「富本君のポートレー」『中央美術』第8巻第2号、1922年、98頁。

(3)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」『美術新報』第11巻第6号、1912年、10頁。

(4)Guide to the Victoria and Albert Museum, South Kensington, London: Printed for His Majesty’s Stationery Office by Eyre and Spottiswoode, LTD., 1909, p. 53.

(5)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」、前掲論文、同頁。

(6)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、74頁。口述されたのは、1956年9月12日。

(7)同書、75頁。

(8)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、20頁。

(9)Guide to the Victoria and Albert Museum, South Kensington, London: Printed for His Majesty’s Stationery Office by Eyre and Spottiswoode, LTD., 1909, p. 52.

(10)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、200頁。

(11)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」、前掲論文、12頁。

(12)同論文、同頁。

(13)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、同頁。

(14)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」、前掲論文、9頁。

(15)William Richard Rethaby, Philip Webb and his Work, Raven Oak Press, London, 1979, p. 39. (This biography first appeared as a series of articles in The Builder in 1925 and was subsequently reprinted unchanged in 1935 by the Oxford University Press.)
サウス・ケンジントン博物館を研究の場として利用していたのは、ウィリアム・モリスただひとりではなかった。フィリップ・ウェブについても、同書において、次のように述べられている。
「1859年から1861年までのウェブのスケッチ・ブックには、ステインド・グラスの細部、タイル、小物類、彩色された細部がいっぱい描かれている。彼はこの時期、サウス・ケンジントン博物館をしょっちゅう利用していた」。(Ibid., p. 39.)

(16)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、[3]頁。

(17)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」、前掲論文、同頁。

(18)富本憲吉「美を念とする陶器――手記より」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、40-50頁。

(19)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、130頁。

(20)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」、前掲論文、8頁。

(21)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、27頁。

(22)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、同頁。

(23)同書、同頁。

(24)中央美術・工芸学校(Central School of Arts and Crafts)は、工芸産業の従事者のために専門的な美術教育を提供する目的で1896年にロンドン市議会(London County Council)によってリージェント・ストリートのモーリー・ホールに設立された学校で、ウィリアム・モリスとジョン・ラスキンの教えに影響を受けたアーツ・アンド・クラフツ運動の直接的な産物でもあった。創設された1896年から1911年まで、ウィリアム・リチャード・レサビーが校長を務めている。1903年に、サウサンプトン・ロウにこの学校のための新たな敷地が購入されると、建物の建設がはじまり、1908年にこの学校はこの地に移転することになる。その後1966年に、この学校は、中央美術・デザイン学校(Central School of Art and Design)へ名称を変更し、さらに1986年には、インナー・ロンドン教育機構(Inner London Education Authority)によって設置されたロンドン・インスティテュート(London Institute)を構成するひとつの大学となり、続いて1989年に、もうひとつの構成大学であったセント・マーティンズ美術学校(St Martin’s School of Art)と合併し、中央セント・マーティンズ美術・デザイン大学(Central Saint Martins College of Art and Design)へと衣替えしている。

(25)Godfrey Rubens, William Richard Lethaby: His Life and Work 1857-1931, The Architectural Press, London, 1986, p. 194.
なお、この引用文のなかで著者のゴッドフリー・ルービンズが利用しているヘルマン・ムテジウスの文章の出典は以下のとおりである。
Hermann Muthesius, Di Krisis in Kunstgewerbe, Leipzig, 1901, p. 18.

(26)Hermann Muthesius, Das englische Haus, Wasmuth, Berlin, 1904 and 1905, 3 volumes.
この本の英語版は以下のとおりである。
Hermann Muthesius, The English House, translated by Janet Seligman, Blackwell Scientific Publications, Oxford, 1987.

(27)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、219頁。

(28)牧野義雄『滞英四十年今昔物語』改造社、1940年、9頁。

(29)Yoshio Markino, A Japanese Artist in London, Fourth Impression, Chatto & Windus, London, 1912, p. 34.[牧野義雄『霧のロンドン――日本人画家滞英記』恒松郁生訳、サイマル出版、1991年、32-33頁を参照]

(30)The Studio, Vol. 24, No. 103, October, 1901, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1995, p. 60.

(31)一九〇八(明治四一)年一月八日付のロンドンにいる南に宛てて書き送られた長文の富本の書簡のなかに、「建築図案を研究するに僕等の様なものに良き方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)」(『南薫造宛富本憲吉書簡集』大和美術史料第3集、奈良県立美術館、1999年、2頁)という一節がある。ここから推量すると、富本が日本を発つ前に、この学校の『概要と時間割』が南から送られてきていた可能性もある。もしそうであれば、富本は、後期のセッションが1909年2月8日からはじまることを知っており、その時期にあわせるように、日本を発ったものと考えられる。

(32)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、72頁。

(33)『毎日グラフ』4月25日号、毎日新聞社、1982年、12頁。

(34)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、前掲書、同頁。

(35)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、200頁。

(36)London County Council Central School of Arts and Crafts, Southampton Row, W. C., Prospectus & Time-table for the Session Beginning 21st September, 1908, p. 5.

(37)Edward Johnston, Writing & Illuminating, & Lettering, Seventeenth Impression, The Artistic Crafts Series of Technical Handbooks, Sir Isaac Pitman & Sons, Ltd., London, 1932. (first published in 1906)[ジョンストン『書字法・装飾法・文字造形』遠山由美訳、朗文堂、2005年、8頁を参照]

(38)辻本勇編『富本憲吉著作集』五月書房、1981年。

(39)Edward Johnston, op. cit., p. 227.[同訳書、151頁を参照]

(40)Ibid.[同訳書、同頁を参照]

(41)Eric Gill, Autobiography, Lund Humphries, London, 1992, p. 136.

(42)濱田庄司「ギル訪問」『工藝』第31号、1933年、37頁。

(43)Bernard Leach, Hamada: Potter, Kodanshia International Ltd, Tokyo, 1975, p. 60.

(44)『モダンデザインの先駆者 富本憲吉展』(同名展覧会カタログ)朝日新聞社、2000年、84頁。

(45)London County Council Central School of Arts and Crafts, Southampton Row, W. C., Prospectus & Time-table for the Session Beginning 21st September, 1908, p. 31.

(46)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、同頁。

(47)同書、同頁。

(48)岡本隆寛「南薫造日記について」、岡本隆寛・高木茂登編『南薫造日記・関連書簡の研究』(調査報告書)、1988年、24-25頁。

(49)The Studio, Vol. 43, No. 182, May, 1908, p. 340.

(50)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、59頁。

(51)佐藤碧坐、前掲論文、96頁。

(52)高木茂登「白瀧幾之助の南薫造宛書簡について」『研究紀要』第1号、広島県立美術館、1994年、8頁。

(53)長谷部満彦「富本憲吉の陶芸」『富本憲吉展』(同名展覧会カタログ)東京国立近代美術館、1991年、10頁。
この引用のなかで長谷部は、「椅子の話」において富本憲吉が紹介している主だったイスを「大英博物館に陳列されている椅子」であると指摘している。確かに数箇所にわたって大英博物館所蔵のイスについて言及されてはいるものの、末尾のあとがきにおいて富本は、「以上述べました椅子で特に何處にあると云はないものは皆サウスケンジントンの博物館のもので、寫眞年代の記録等大半は同館發行の家具案内記によつた事を御斷り致します」(富本憲吉「椅子の話(下)」『美術新報』第11巻第12号、1912年、18頁)と書き記しており、したがって、その大半は、大英博物館ではなく、サウス・ケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されていたイスであったことがわかる。それでは、富本が典拠した「同館發行の家具案内記」とはどのような本だったのであろうか。現時点でそれは正確にはわからないが、富本がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に通った一九〇九年ころに家具と木工に関して同博物館が刊行した本に次のものがあるので、参考までに、ここに紹介しておきたい。
Ancient & Modern Furniture and Woodwork. Vol. I. / by John Hungerford Pollen; revised by T. A. Lehfeldt. 2 nd ed., rev. London: Printed for H. M. S. O. by Wyman and Sons, 1908.
この本は、富本がロンドンに滞在する前年の一九〇八年に刊行された「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館美術入門書(Victoria and Albert Museum Art Handbooks)」の1冊である。ただし執筆者未見。
なお、これに先立つ同著者による以下の本があるが、しかし、この本の図版が「椅子の話」の図版として流用された形跡はない。
John Hungerford Pollen, Ancient and Modern Furniture & Woodwork, South Kensington Museum Art Handbooks, published for the Committee of Council on Education by Chapman and Hall, London, 1875.

(54)富本憲吉「椅子の話(下)」『美術新報』第11巻第12号、1912年、18頁。

(55)前田泰次『工芸とデザイン』芸艸堂、1978年、316頁。

(56)富本憲吉「わが陶器造り(未定稿)」、辻本勇編『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、43頁。

(57)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。

(58)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, pp. 3-4.[モリス『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、1971年、10頁を参照]

(59)『毎日グラフ』、前掲雑誌、同頁。

(60)Yoshio Markino, op. cit., p. 37-38.[牧野義雄、前掲訳書、35-36頁を参照]

(61)横山大観、田中後次、白滝幾之助、津田清楓、高村光太郎などの渡航資格が農商務省の海外実業練習生であったことからもわかるように、この時期、この資格をもつ多くの人たちが欧米の各地で産業美術の研鑚に従事している。今後、そうした人たちの足取りを丹念に追うことによって、当時中央美術・工芸学校に在籍していた日本人を特定する可能性が全くないわけではない。農商務海外実業練習生については、以下に示す貴重な研究がある。しかし、この論文なかの「海外実業練習生として海を渡った美術界関係者の渡航先と練習科目」の一覧表には、一九〇九年に中央美術・工芸学校でヘンリー・ウィルスンのもとで「人体画」を学んでいた日本人を示唆するような記述はみられない。
田島奈都子「農商務省海外実業練習生とわが国の美術界」『美術フォーラム』第9号、醍醐書房、2004年、67-73頁。
一方、農商務省海外実業練習生以外ではどうだろうか。たとえば富本憲吉は、一九〇九年七月二九日付の白滝幾之助宛の絵はがき(富本憲吉記念館所蔵)において、「柳[敬介]君御出発迄に皆様と小生宅にて夕飯喰ひたく候」と書き記していて、柳敬介がこの時期にロンドンに滞在していたことは明らかなのであるが、柳の作品を所蔵している碌山美術館から与えられた情報と資料からは、この滞在期間中に、柳が、中央美術・工芸学校でウィルスンのもとで「人体画」を学んでいた形跡は認められない。なお柳は、同年八月七日、伊予丸にてロンドンを出帆し、帰国の途についている。

(62)伊藤隆・渡邊行男編『重光葵手記』中央公論社、1986年、32頁。

(63)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、同頁。

(64)佐藤碧坐、前掲論文、96-97頁。

(65)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、194頁。
拙論「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅰ)」において、富本憲吉のロンドン上陸の時期については3つの可能性を示したうえで、「1909年1月上旬から2月上旬のあいだ」だったのではないかと推測している。この推測どおりであれば、このパーティーが開かれたのは、間違いなく1909年のクリスマスの夜ということになるが、「1908年12月14日以前」に富本がロンドンに到着した可能性が全くないというわけではなく、その場合は、このパーティーは、1909年のクリスマスの夜だけではなく、1908年のクリスマスの夜に開催された可能性も加わることになる。

(66)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、[3]頁。

(67)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、201頁。
この引用文のなかで富本憲吉は、「新家孝正という工博」および「大沢三之助工博」と記しているが、『復刻/大日本博士録 第五巻 工学博士之部』(アテネ書房、2004年、138頁および141頁)によると、実際に新家孝正と大沢三之助が工学博士会の推薦により工学博士を授与されるのは、ともに1915(大正4)年2月9日のことであり、正確には、このときの外遊の時点にあっては、双方への学位授与はいまだなされていなかったことがわかる。
死去の1年前の1962(昭和37)年2月に日本経済新聞に掲載された、富本の「私の履歴書」には、前稿「富本憲吉の英国留学以前――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」においても指摘しているように、とくに年月や数量などに関する部分に記憶違いと思われる箇所が散見される。また交友関係や、ここで指摘しているような、学位にみられるような肩書きなどについても、原稿執筆時の知見をもとに当時を跡づけている部分も見受けられ、これらの点については、他の資料との照合が不可欠となっている。そのような性格をもつ資料ではあるが、そのことを除けば、この「私の履歴書」が、富本の全生涯を語るうえでの基本となる一級の資料であることには変わりない。このことは、「自伝」と「座談会」の双方の資料についてもおおかたあてはまる。

(68)『復刻/大日本博士録 第五巻 工学博士之部』アテネ書房、2004年、137-138頁。なお本書は、『大日本博士録 第五巻』(發展社出版部、1930年)を復刻したものである。

(69)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、202頁。

(70)富本憲吉「エヂプトの感想」『建築ト装飾』第3巻第3号、1913年、26頁。

(71)富本憲吉「椅子の話(下)」、前掲論文、同頁。

(72)富本憲吉「陶片採集」『續一日一文』大阪朝日新聞社、1926年、13頁。

(73)富本憲吉「エヂプトの感想」、前掲論文、26-28頁。

(74)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」、前掲論文、11頁。

(75)同論文、13頁。

(76)富本憲吉「椅子の話(下)」、前掲論文、同頁。

(77)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、204頁。

(78)同書、同頁。

(79)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、[4]頁。

(80)同書、[6]頁。

(81)高木茂登「白瀧幾之助の南薫造宛書簡について」、前掲論文、10頁。

(82)同論文、同頁。

(83)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、同頁。

(84)日本郵船株式会社は、欧米航路に対する特定航路助成が明治42年末をもって期間満了となることを踏まえて、「明治三十九年(一九〇六年)八千五百総屯級賀茂丸型、速力一五ノットの貨客船六隻を建造することに決定」(『七〇年史』日本郵船株式会社、1956年、108頁)した。この6隻とは、欧州航路第1次新造船として明治41年から翌年にかけて建造された賀茂丸、平野丸、三島丸、宮崎丸、熱田丸(第一)、北野丸を指す。富本が乗船した三島丸は、神戸川崎で建造され、明治41年12月25日に竣工し、1等83名、2等32名、3等140名の船客設備を保有していた。

(85)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、205頁。

(86)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、1934年、63頁。

(87)同論文、64頁。

(88)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(89)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、11頁。

(90)富本憲吉「美を念とする陶器――手記より」、前掲論文、48頁。

(91)小野二郎は、富本憲吉にみられる「闕語」について、以下のように指摘している。
「アーツ・アンド・クラフツはモリスを矮小化した。リーチはさらに狭いもの、ステュディオ・ポッターの世界に閉じ込めた。楽天的に、無意識に。だが富本の陶芸作家としての自己限定に、むしろ民芸作家と距離をおいて、 個人 ・・ 陶芸作家としての自己限定に、私は何か[フィリップ・]ウェッブの『孤独』に通ずる『闕語』を感ずるのである」。(小野二郎「《レッド・ハウス》異聞」『牧神』第12号、1978年、87頁。)

(92)前田泰次『工芸概論』東京堂、1956年(3版)、1頁。

(93)前田泰次『工芸とデザイン』、前掲書、[3]頁。

(94)たとえば、牧野義雄の人気の凋落と彼の遠近法による空間表現とは、何か関係があったのであろうか。牧野の作品を見て気づくことは、その多くが透視画法によって機械的に整然と空間が構成されていることである。一方、こうした作品を描く牧野の人気は、第一次世界大戦が開始される1914年ころから陰りはじめる。それは、英国の二次元的表現における遠近法的世界観の終焉、あるいはキュビスム的世界観の登場と、何か関係するのかどうかという関心を招来するであろう。少年時代の牧野と牧野の父親との透視画法にかかわる日本での体験について、E・H・ゴンブリッチがわずかに言及している。(E・H・ゴンブリッチ『芸術と幻影』瀬戸慶久訳、岩崎美術社、1979年、364-365頁。)

(95)熊田司「ロンドンの青春:前後――白滝幾之助・南薫造・富本憲吉の留学時代を中心に」『1908/09 ロンドンの青春:前後 白滝幾之助・南薫造・富本憲吉とその周辺』(同名展覧会カタログ)ふくやま美術館、1990年、4頁。

(96)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、198頁。

(97)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、85頁。