これより私は、日本におけるウィリアム・モリス研究の足跡につきまして三つの視点からお話をさせていただきたいと思います。ひとつは、モリス研究の歴史を大きく三つの年代に区分し、それぞれの時代におけるモリス研究の一般的特質を明確にする視点です。ふたつ目は、当時の日本の社会的、文化的文脈に照らし合わせてそれぞれのモリス研究の意義を理解しようとする視点です。三番目は、可能な限り日本と英国の状況を比較することによって、双方の国におけるモリス像の異同を認識する視点です。このようなパースペクティヴと方法論を用いることによって、私は、日本においてウィリアム・モリス研究がどのように現在まで発展してきたかを検証してみたいと考えています。
一九七六年に牧野和春と品川力(補遺)によって編集されました「日本におけるウィリアム・モリスの文献」1には、一八九一年から一九七五年のあいだに日本で刊行されたウィリアム・モリスに関する文献が三一六点挙げられています。そのうち第二次世界大戦以前のものは二七二点です。したがいまして量のうえから判断しますと、戦後よりも戦前においての方が、圧倒的にモリス研究は高まりをみせていた、とみなすことができます。早くも一八九六年には、モリスの追悼文が『帝國文學』に掲載されています。そして一九〇四年には、部分訳ではありましたが、『ユートピア便り』が『理想郷』という題のもとに、社会主義者の堺利彦によって翻訳され、紹介されています2。またその後に続く、一九一〇年代の「冬の時代」と呼ばれる時代にあっても、富本憲吉によって「ウイリアム・モリスの話」が、そして岩村透によって「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」が発表され、これらの論考が、事実上日本におけるモリス研究の出発点となるものでありました3。しかし本格的にモリスが紹介され、研究されるようになるのは、やはり一九二〇年代になってからのことといえるでしょう。『芸術への希望と不安』や『地上の楽園』が翻訳されただけではなく4、何冊かのまとまりをもった研究書も出版されるに至り5、この時期をとおして、ウィリアム・モリスの思想と実践が一部の日本の知識層において受容されていきました。
こうした背景に、社会運動の勃興と大衆文化の登場があったことを見逃すことはできません。日本における一九二〇年代は、恐慌と不況が広まる一方で、独占資本と金融資本が支配的な地位を占めるようになった時代です。二〇年代のはじめ、製鉄所や造船所で激しい争議が勃発し、日本では労働運動がひとつの高揚期に達しました。一九二〇年には、それまでのさまざまな社会運動がひとつに大同団結し、日本社会主義同盟が結成されましたし、一九二二年には、第三インターナショナルの支部として日本共産党が生まれています。こうして社会主義と共産主義の思想がこの時期急速に広まっていったのです。また文化の観点からこの時代を見てみますと、新聞や雑誌の発行部数が増大し、一九二五年には東京と大阪でラジオ放送が開始されました。それだけではなく、高等教育機関が拡充したのもこの時期であり、これによって膨大な知識層が生まれ、この時代の文化の担い手となりました。二〇年代のこのような社会的、文化的状況のなかにあって、社会主義者としてのウィリアム・モリスの思想が知識層のあいだで着目されるようになっていくのです。
経済学者の大熊信行は、一九二七年に『社会思想家としてのラスキンとモリス』を出版し、その本のなかで、ジョン・ラスキンの思想をどのように受容することによって、ウィリアム・モリスは社会主義者の工芸家になったのかについて、鮮やかに描き出しています。彼は、この本の目的をこう語っているのです。
本書は、ジョン・ラスキンとウヰリアム・モリスの一面的研究です。私は『近世畫家』の著者としてのラスキンをまだよく見てゐませんし、『地上楽園』の作者としてのモリスはすこしも知りません。私が觸れたのは社会思想家としての二人です。それにしても、美術解説者としてのラスキン並びに詩人としてのモリスを研究することは、やはり必要であつたらうと存じます。しかし私にはそこまでは手がとどきませんでした。私にできたことは、社會主義の装飾美術家ウヰリアム・モリスの勞働理論が、どれほどまでジョン・ラスキンの思想に負うてゐるかゐないかといふことを明かにすることでした。……私は、美術もまた社會主義體系に包攝さるべき理想を有するとする理論は、きはめて滋味ふかいものと考へます6。
この大熊信行の言葉のなかには、重要な意味が三点隠されていると私には思われます。ひとつは、ラスキンの思想的後継者としてのモリスを強調している点です。ラスキンとモリスを一対のものとみなす視点は、戦後のしばらくのあいだまで根強く存続することになるのです。ふたつ目は、詩人としてのモリスの側面に言及されていないことです。モダニズムが重視されるに従い、復古的な象徴世界を描き出した詩やユートピア・ロマンスは、英国と同じように日本においても、この時期すでに時代遅れになろうとしていたのです。三つ目が、美術と社会の有機的関係性に基づく労働観に着目している点です。日本では当時、こうしたモリスの社会思想上の立場を指して、芸術的社会主義という独自の表現でもって呼ばれており、極めて特異な位置を占めていたものと思われます。
こうしたモリスに対する旺盛な関心は、三〇年代へと引き継がれていきました。そして、そのひとつの高まりを一九三四年の幾つかの動きに認めることができるのです。この年、モリスの生誕一〇〇年を記念して、東京の丸善で「ウィリアム・モリス」展が開催されました。主として展示物は、モリスの著作類の現物とモリスに関する出版物によって構成されていました。その展覧会カタログの「序文」のなかで、大槻憲二は、「その國賓的珍本であるところの Kelmscott Chaucer を、たとへ一日限りとは云え、出陳するの特別なる好意を示されたこと」に対して東京帝国大学図書館に感謝の意を伝える一方で、「たゞ遺憾に堪えないのは、モリスの工藝美術作品の實物が殆どなかったことである」7と述べています。このことは、ロンドンで出版された刊行物はほとんどいちはやく日本に届いていたものの、タペストリーや家具や壁紙などについては、当時はおおかた写真で見るしか方法がなかったことを意味しています。そのような理由により、この展覧会にあわせて発行されたカタログは、モリスの工芸作品ではなく、モリスの書誌によって成り立っていたのです。
モリスの生誕一〇〇年については、新聞や雑誌において大きく取り上げられましたし、『モリス記念論集』という書物も一九三四年に出版されました。この本には、たとえば、北野大吉の「モリスの人及思想」、志賀勝の「『地上楽園』のモリス」、壽岳文章の「書物工藝家としてのモリス」といった、モリス研究者による優れた論文が収められていました。壽岳文章は、「書物工藝家としてのモリス」を書くにあたって、次のような文章で書きはじめています。
ウィリャム・モリスの生誕百年を記念する我々のこゝろは、やがて、近代の社会には極めて稀にしか現はれない資性にめぐまれたこの巨人の事業を反省し回顧する我々のこゝろである。…… 工藝家としてのモリスの活動が始まつてから今日に及ぶ工藝一般の動きをふりかへつてみると、今更ながら彼の影響の大きいことに驚かされる。前世紀の終わりごろ巴里に擡頭した「新藝術」(Art Nouveau)や、同じ時代に維也納で起こつた「ゼツェッション」(Sezession)などの工藝運動が、その直接の刺戟をモリスに負うてゐるのは改めて言ふまでもない。……一九一九年に建築家グロピウス(Walter Gropius)を指導者としてワイマールに設立された「バウハウス」(Bauhaus)の工藝運動は、凡ての工藝を「建築」の中に綜合しようとした事に於いてまさにモリスの後繼者である。 ……書物工藝はモリスが晩年の熱意を打ちこんだためであるだけに、……他の工藝に見られない最も直接な影響や感化が行はわれた。……してみれば書物工藝家としてのモリスを語ることは……工藝家としてのモリスの偉大を讚仰する因縁にもなろうかと私は考へたのである8。
この文章を読むと、アール・ヌーヴォーやバウハウスに対してモリスが大きな影響を及ぼしたことや、晩年のモリスが「ケルムスコット・プレス」での印刷の仕事に多大な情熱を注ぎ込んでいたことが、すでに当時にあってよく理解されていたことがわかります。のちに壽岳文章は、それまでに発表した書物芸術に関する自分の論文をひとつにまとめ、『壽岳文章書物論集成』を出版することになるのです。
この時期日本でも、英国のアーツ・アンド・クラフツ運動と似たような運動が生まれました。それは、民藝運動と呼ばれるもので、その唱導者は柳宗悦です。彼は、一九一〇年まだ大学生であったとき、雑誌『白樺』の創刊に加わり、白樺派の同人になりました。彼らは、国家についてよりも、社会の矛盾や自我の問題に強い関心をもっていました。またその雑誌は、単に文芸雑誌というだけではなく、印象派以降の西洋美術を紹介する美術雑誌としての役割も担っていました。一九二六年、柳宗悦は日本民藝協会を設立し、浜田庄司や河井寛次郎との深い交流をとおしてその後民藝運動を展開してゆくわけですが、彼の仲間には、英国の陶芸家、バーナード・リーチも含まれていました。柳宗悦は、自分の考えは独自のものであり、ラスキンとモリスに全く依存するものではない、と主張しています9。しかし、彼がモリスと大変近い思想の持ち主であったことは確かです。彼は工藝についての自分の考えを次のように述べています。
美術文化から工藝文化への進展、そこに私は造形文化の方向を感じる。何も美術を否定するという意味においてではない。美の方向は生活との結合にあると思える。……美と生活とを結ばしめる時、そこに工藝の文化が示現され、美の健康化が見られるのである。生活に即しない美を正しい美と呼ぶことは出来ない。生活に交って美がますます美となる道がなければならない。この真理の解説こそ未来の美学が負うべき任務ではないか10。
柳宗悦は、民衆の生活に役に立つためにつくられる多くの品物を「民衆的工藝」と名づけ、「生活工藝」と呼ぶこともありました。「民藝」という言葉は、民衆の「民」と工藝の「藝」を組み合わせた言葉です。柳宗悦と彼の仲間によって展開された民藝運動は、「貴族的工藝」や「機械工藝」のなかにではなく、民衆によってつくられ、民衆の生活のなかで使われる手工藝のなかに美を見出し、そうした手工藝に基づく文化を追求したのでした。
三〇年代後半には、ウィリアム・モリスの思想は、日本の教育思想にも影響を及ぼしました。英国では、一九三四年のモリス生誕一〇〇年を記念して、ウォルサムストウ古物研究会によって、モリスをたたえる論集が出版されました。『ささやかなるウィリアム・モリス玩味』と題されたその小冊子には、モリスの娘のメイ・モリスが「序文」を書き、G・D・H・コウル、J・W・マッケイル、ハーバート・リード、バーナード・ショーなどの多くの人びとが寄稿しています。この小冊子を読んだ森戸辰男は、「我々の課題としている『教育家としてのモリス』については二八人の寄稿者の誰れによつても殆ど言及されてゐないという事實である」11との鋭い指摘を行なったうえで、モリスと教育との関係について次のような理解を示したのでした。
モリスが謂ゆる教育家でなかったといふことは、……彼が教育と全然没交渉であったことを意味するわけではない。むしろ彼は色々な側面から教育と交渉を持ってゐたのである12。
森戸辰男は、モリスが新しい社会における「教育」に関心を抱いていたことを証明するために、『ユートピア便り』のなかの次の一節を引用しています。著者のモリスはハモンド老人にこう語らせているのです。
……子どもの実にさまざまな能力や気質がどうであろうとも、因習的に適齢と考えられている年齢に達すると学校へ押し込まれ、そこにいるあいだ子どもたちは、事実に目を向けることなく、お定まりの因習的な「学習」課程に従わされる、そのようなことをあなたは予期されていました。しかしあなた、そんなやり方は、肉体的にも精神的にも人が 成長する ( ・・・・ ) という事実を無視するものでしかない、とお思いになりませんか13。
そしてさらに続けて、森戸は、『芸術への希望と不安』と『変革の兆し』のなかから教育に関するモリスの見解を選び出すことによって、モリスが将来の社会における教育の重要性を確信していたことや、モリスが機械的で偏知的な教育の対極にある自由教育を唱導していたことを明らかにするのです。こうして森戸は、モリスの著作から引用を行ないながら、彼が特異な教育家であったことを明確にするとともに、それが、芸術的社会主義者としてのモリスに起因していることを主張したのでした。
確かにウィリアム・モリスは、王立技術教育委員会での証言にみられるように、一般教育における工芸やデザインには興味をもっていませんでした14。それでも森戸がモリスの教育観に興味を覚えたのは、「社会の改革」と「教育の刷新」を一体不可分のものとしてモリスが認識していた点に由来しているのです。彼の『オウエン モリス』が出版された一九三八年ころは、日本では「学制の改革」が要請されていた時期でもありました。森戸はこの時期にあたり、民族主義的教育観にあい対する、社会主義的教育観を提示しようとしたのです。しかし当時の日本にあっては、思想や言論に対する取り締まりが一段と強化され、民主主義的で自由主義的な学問への弾圧事件も次々と起こっていました。こうして森戸の新しい進歩的な教育観は、ほとんど当時の社会に受け入れられる機会を失ってしまったのでした。
第二次世界大戦の戦中戦後のおおよそ二〇年間は、日本ではほとんどウィリアム・モリスが顧みられることはありませんでした。モダニズムが支配的なイデオロギーとなっていた当時の社会が、中世社会を理想とし、手工芸の復興を夢見たモリスの思想を必要としなかったのは、当然だったのかもしれません。それでも五〇年代には、モリスの哲学とデザイン上の実践を知るうえで貴重な翻訳書が何点か刊行されました15。とくにニコラウス・ペヴスナーの『モダン・デザインの先駆者たち』は、建築とデザインの近代運動に関心をもつ研究者たちに大きな影響を及ぼしました。すでによく知られていますように、その本のなかでペヴスナーは、近代運動の先駆者としての位置をウィリアム・モリスに与えたのでした。
……モリスからグロピウスに至る段階は、歴史的にみてひとつの単位なのである。モリスが近代様式の基礎を置き、グロピウスによってその性格が最終的に決定されたのであった16。
日本にあっては、こうしてこれよりのち、ペヴスナーによって描き出された、近代運動の父としてのウィリアム・モリス像が、建築とデザインの歴史家たちのあいだで定着することになるのです。しかし彼らの多くは、この時期、モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動よりもむしろ、ドイツ工作連盟の先駆的活動に続く、バウハウスや純粋主義といったヨーロッパ大陸における近代運動の発展に関心を寄せる傾向にありました。彼らの目には、ペヴスナーが述べているように、「モリスの芸術観は……所詮一九世紀的『歴史主義』である」17と映っていたにちがいありません。また、モリスの近代生産方式に対する嫌悪の態度も、戦後の経済復興を求める当時の日本の社会にうまく適合することは困難だったようです。しかし、そうした事情があったにもかかわらず、確かにモリスはデザイン史のうえで重要な位置を占めていました。ここで、「ラスキンとモリス――アートアンドクラフト運動」と題された、前田泰次の一九六六年の論文の一節を引用したいと思います。
近代デザインの流れを考える時、その源として、ラスキンとモリスの思想は重要な意味を持っている。ラスキンやモリスが中世の建築を尊んでいろいろと論じていることや、モリス自身のデザインに見られる古風さが、彼らを近代的という新しさとは相反するように見せるけれども、それでもなおこの二人を近代デザインの出発点と考えたいと思う18。
ラスキンとモリスを併置する前田の記述手法は、大熊信行の『社会思想家としてのラスキンとモリス』以降の伝統に従うものであり、「この二人を近代デザインの出発点」とみなす視点は、明らかにペヴスナーに負うものでありました。さらに続けて前田は次のように述べています。
機械文明からもたらされる社会の歪みはラスキンやモリスの時代で終わったわけではない。それらの歪みに対して現代の社会もなやんでいるし、それに対する批判も各所で行なわれている。これらの批判的立場の多くの理論は、ラスキンやモリスのように機械を否定はしないけれど、人間が機械の奴隷となるのを防ごうとしている。この場合の彼らの思想は多かれ少なかれ、ラスキンやモリスの影響を受けているようである。…… 現代社会の一部で根強く機械文明に対決しようとしている民芸運動……は、これまたラスキンとモリスの思想の流れの上にあるもので、彼らの理論の一発展形態である。社会が機械化されればされるほど、他の一方で旧時代の手仕事の美が尊重されよう。しかしそれにも限度があり、うっかりすると民芸趣味は大衆性から離れた一種の貴族趣味に堕すおそれがある。これは……モリスの美術工芸運動そのものが持っていた矛盾でもある19。
平等に文化を享受できることをひとつの理念とする近代社会にあって、機械文明から手工芸の世界へと逆もどりすることは、もはやすでに不可能な命題となっていました。しかしまた、その一方で機械が、人びとから労働の喜びを奪い取り、没個性の画一化した品物しか提供しない傾向をもっていたことも、確かに事実でありました。したがいまして、この時期、デザイン理論のなかにウィリアム・モリスの思想を持ち出すことは、機械がもたらす社会の歪みを批判する原理としては実に有効だったものの、復古的な貴族趣味を助長させかねない危険性もまた含んでいたのです。前田泰次は、モリスの思想のこの両義性を「アーツ・アンド・クラフツ運動そのものが持っていた矛盾」とみなしたのでした。
周知のように、英国にあっては、アーツ・アンド・クラフツ運動から別れて、デザイン・産業協会が創設されたころから、機械と美術と労働に関して、デザインの理論家や実践家のあいだで激しい論議が繰り返されてきました。手工芸ギルド・学校の中心人物であったC・R・アシュビーは、「現代文明は機械に依存している。したがって、この事実を認めないいかなる美術教育の制度も健全でありえない」と主張しました20。また、デザイン・産業協会の創設会員のひとりであったW・R・レサビーは、「新しい目的をもった新しい団体」を標榜しながらも、「機械は制御されなければならない」と繰り返し要求しました21。そして、前田泰次が「ラスキンとモリス」を執筆した時期とほぼ同じころ、王立美術大学のミッシャ・ブラックは、オーストラリアでの講演のなかで次のように断言しているのです。
一八五〇年代にウィリアム・モリスは、「すべての仕事が美術と結び付いているわけではないというのであれば、一体われわれは、どのような仕事をもてばよいのであろうか」と問うています。しかし、それは、彼が目標とした、美術の普遍的適用にしかすぎず、自らの権限において産業革命から十分に巣立ってゆけるような新たな規範ではなかったのです22。
実は、この「機械と美術」の問題は、「美術と労働」、あるいは「労働と社会」といった土壌にこれまで移し替えられ、日本においても一部のあいだで大きな論点となってきました。そしてその論点の解明のために、単に美術論やデザイン論からだけではなく、当然ながら社会科学からの接近が要請されてきたこともまた事実なのです。
第二次世界大戦が終結すると、周知のように、日本では民主化政策が推進されるようになり、その結果政党が復活し、さまざまな労働組合も結成されるに至りました。また一方では、思想や言論に対する弾圧が取り除かれるとともに、これまで絶対視されてきた権威は否定され、個人の解放や諸制度の民主化といった大きな思潮が形成されていきました。
そうした戦後の日本の政治的、社会的、思想的状況のなかにあって、一九五〇年代の後半から、経済学者の木村正身によってモリスの政策思想やユートピア思想が、一連の論文のなかで取り上げられることになるのです。彼は、一九五七年に「ウィリアム・モリス解釈の新段階」を、一九六二年に「〈ロマン的反抗〉の政策思想――ウィリアム・モリスの場合」を、そして続けて一九六三年には「ウィリアム・モリスにおけるユートピア思想の性格――労働本質観を中心に」を発表しています。
まず、最初の論文において木村は、一九五五年に出版された、E・P・トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』(残念ながら、この本の日本語版は出版されていません)をもって、「……結論はどうあろうともその論証と問題把握の仕方そのものにおいて、モリス研究の水準が画期的段階に入った」ことを指摘し、「モリスをロマン的反抗の精神に支えられた創造的な科学的社会主義実践家」とみなすトムスンの解釈に同意を示します23。そして次の論文では、社会改良家的政策思想から社会主義的政策思想へとモリスが進転するなかにあって、彼にとっての「教育」政策概念が、「『労働のよろこび』の喪失にかんする民衆の自覚と不満を増大させること」から「社会主義者をつくること」へと発展したことを、フリッチェのモリス研究を援用しながら、論証することになります24。さらに最後の論文において木村は、エドワード・ベラミの『顧みれば――二〇〇〇年から一八八七年へ』とモリスの『ユートピア便り』を比較しながら、モリスのユートピア思想と労働観について社会思想史的見地から検討を進めてゆくのです25。E・P・トムスンの見解に従いつつも、この一連の木村正身のモリス研究は、夢見がちな装飾芸術家ないしは空想的社会主義者としてこれまで形成されてきていたモリス像に修正を加え、科学的社会主義者としてのモリス像を提示したことに、大きな意義があり、日本においてもこの時期、量的には極めて少なかったものの、モリス研究は新たな段階に入っていきました。
木村のモリス研究とは別に、五〇年代から六〇年代にかけて、モリス研究にかかわって間接的ではありましたが、社会科学の分野で幾つかの貴重な収穫が見受けられました。ひとつは、G・D・H・コウルやE・J・ホブズボームの英国労働運動史に関する著作類の翻訳書が刊行されたことです26。これにより、英国労働運動史におけるウィリアム・モリスの位置がより正確に理解されるようになりました。いまひとつは、いわゆる「新左翼」の陣営に属するE・P・トムスンやレイモンド・ウィリアムズの著作の日本語版が出版されたことです27。これらの翻訳書は、よくも悪くも、旧い体質を引きずっていた当時の社会主義思想を批判する原理を提供しました。さらにもうひとつの収穫を挙げるとすれば、上記の英国労働運動史に関する成果や、「新左翼」の政治的立場からの主張を受けて、大変異例のことではありましたが、政治学の分野からの発言がみられたことです。たとえばこの時期、河合秀和は「イギリス社会主義の形成」と題された論文を発表し、そのなかで、イギリスの社会主義の形成過程におけるモリスの政治的役割を明確にしています28。このようにして、モリス研究にとっては極めて断片的な知見ではありましたが、こうした一連の社会諸科学の研究成果のなかから、これまでかえりみられることのなかった革命的社会主義者としての鮮明なモリスの実像が六〇年代をとおして新たによみがえることになるのです。
いうまでもなくウィリアム・モリスの活動分野は多岐にわたっており、したがって、しばしば彼は、詩人、デザイナー、社会運動家といった連なった三つの肩書きでもって呼ばれてきました。しかし戦前から六〇年代に至るまでの日本におけるモリス研究者たちは、おおかたどれかそのひとつの側面に照明をあてて論じてきました。たとえば、大熊信行や木村正身が興味をもったのは社会思想家としてのモリスでしたし、壽岳文章や前田泰次が焦点をあわせたのは工芸家としてのモリスであり、また森戸辰男にとっての関心は教育家としてのモリスにありました。当然ながらモリスは、詩人としての詩作活動とデザイナーとしての製作活動と社会主義者としての政治行動を一生涯のうちに分割し、使い分けたわけではありません。そうであるとすれば、そうしたモリスの三つの側面を貫いているひとつの大きな精神を見定めることが、モリスを理解するうえでどうしても必要な課題ということになります。そしてそれに応えたのが、一九七三年に出版された、小野二郎の『ウィリアム・モリス――ラディカル・デザインの思想』という本でした。その本のなかで小野は、モリスの活動の重要性をこう指摘したのでした。
……[モリスの三つの分野における]活動はいずれが附随的といえぬ重みをそれぞれもっているのである。だからそれらの肩書きが並ぶのは当然である。このことは単に彼がそのような活動分野を継起的にあるいは同時的にやってのけた多力な天才であることだけを示しているのではないだろう。それぞれの分野の業績が目ざましければ目ざましいほど、それらを貫通する……ある一つの精神の存在とその運動の形式を想定せざるを得ない29。
この小野二郎の『ウィリアム・モリス』は、それぞれの側面から別個に検討がなされてきていたこれまでのモリス研究の成果を集約し、モリスの諸活動を貫く「一つの精神の存在とその運動の形式」を想定したうえで、モリスの全体像に迫ることが意図されていたといえます。そして同時に、もうひとつの意図がその本には存在していたのではないかと私には思われます。といいますのも、この本の出版に先立ち、すでに彼はモリスの問題意識に基づいて、その当時の資本主義下の文化のありように対して旺盛な批評活動を行なっており、したがって自分の批評の基軸となっているモリスの精神そのものをより詳細にこの時期に読者に伝える必要性があったものと推測されるからです。彼はこの本の「あとがき」のなかで、「……モリスの魅力を人びとと共有したい、共有するように何かしようということと離れることはないであろう。その意味では私はモリス研究家ではなく、モリス主義者である」30と述べているのです。小野二郎の文化批評の基軸は、生産のメカニズム、労働の構造、生活環境の創造、集団の組織原理のすべてを必然的に貫通することになる、新しいひとつの原理を想定し、その視点から「生活の質」の変革を唱導することにありました。そして彼の理解によれば、「その新しい原理とは想像力の原理でなければならぬことを、その生涯の実行において示したのがモリスであった」31のです。小野二郎によってなされたモリス研究は、モリスの諸活動の基底にある精神的全体像の輪郭を動的なものとして描写することによって、単に個人の欲望の解放へと向かわせるだけにすぎない資本主義下の文化を批判するうえでの新たな視点を提示したことに、その特徴と意義があったものと思われます。
小野二郎の著作は別にして、六〇年代の終わりから七〇年代をとおしてのモリス研究の大きな特徴は、この時期に精力的にモリスの著作が翻訳され、刊行されたことです32。戦中および戦後のしばらくのあいだ、一部の限られた研究者以外からは、ほとんど忘れかけられていたモリスが、こうした一連の翻訳書をとおして改めて広くよみがえっていきました。その背景として、当時の日本の社会と文化にみられた不安定な行き詰まり状況が挙げられるかもしれません。戦後の経済の高度成長は国民の生活様式に大きな変化をもたらしました。「消費革命」と呼ばれるほどまでに、衣類や食品や家庭電化製品の消費が急速に進み、都市には高層建築が立ち並ぶようになった一方で、住宅難や交通難といった都市問題や、大気汚染や水質汚濁といった公害問題、さらには開発に伴う自然破壊が深刻な問題となり、それに対する住民運動も高まっていきました。こうした不透明な社会状況のなかにあって、人びとは「生活の質」について思いを巡らすようになり、そこにモリスとの出会いが待ち受けていたといえるかもしれません。こうしてモリスに対する関心は衰えることなく、さらに八〇年代へと引き継がれていくのです。
七〇年代がモリス自身の著作が積極的に翻訳され、受容された時期であるとしますと、八〇年代は、モリスにかかわる研究書が精力的に翻訳され、紹介された時期にあたります33。こうして英国における研究成果があまり時間を置くことなく日本語に置き換えられて紹介されることによって、この時期、とくにデザイン史の分野において、日本におけるモリス研究は新しい知見を得て、一段と発展することになりました。たとえば、『美術・建築・デザインの研究Ⅱ』のなかでニコラウス・ペヴスナーは、コウル・サークルと対比するかたちでモリスを描いていましたし、『英国のインダストリアル・デザイン』の著者のノエル・キャリントンは、アーツ・アンド・クラフツ運動から分かれて、どのようにして英国において近代運動が展開されたのかを記述していました。またレイ・ワトキンスンの『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』やリンダ・パリーの『ウィリアム・モリスのテキスタイル』の翻訳書をとおして、詳細なモリスのデザイン活動が紹介される一方で、ライオネル・ラバーンの『ユートピアン・クラフツマン』は、アーツ・アンド・クラフツ運動におけるモリスの役割についての知見を私たちに提供しました。
翻訳書の刊行をとおして英国におけるモリス研究の成果を学ぼうとする積極的な姿勢は、八〇年代の後半から今日に至るまで、さらに一層加速されていきました34。とくにフィリップ・ヘンダースンのモリスの伝記は、入手可能になった新しい資料に基づいてモリスの生涯が再構成されており、J・W・マッケイルが描写した超俗的なモリス像に代わって等身大に近いモリス像が描き出されていたという点で重要でした。また、一九九一年は「ケルムスコット・プレス」が創設されてちょうど一〇〇年目にあたり、日本においてもモリスの書物芸術に対して多くの関心が集まり、この年そのための展覧会が開かれただけではなく、一九九四年にはウィリアム・S・ピータースンの著作が翻訳され、刊行されるに至りました。さらに八〇年代以降からは、美術史や文学の分野からラファエル前派についての強い関心が寄せられるようになり、アーツ・アンド・クラフツ運動とモリスの関連性だけではなく、ラファエル前派とモリスとの関連性にも注目が集まるようになりましたし、ジャン・マーシュの『ウィリアム・モリスの妻と娘』は、モリス研究にフェミニズムという新たな視点を提供しました。
こうした精力的なモリス研究の紹介は、必然的に展覧会の開催へとつながっていきました35。一九八九年に東京と大阪で開かれた「ウィリアム・モリス」展は、一九三四年の展覧会では主としてモリスの著作物しか展示されていませんでしたので、実際のモリスの作品がまとまったかたちで日本で紹介される最初の機会となりました。また、それに先立つ一九八五年には「ラファエル前派とその時代」展が、一九九〇年には「ロセッティ」展が開かれ、ヴィクトリア時代の美術に新鮮な視線が注がれました。
それでは、八〇年代から現在に至る、翻訳と展覧会をとおしての旺盛なモリス受容は、今後日本のモリス研究者にどのような展望を用意させようとしているのでしょうか。一般的にいって八〇年代は、英国と同じように、日本においても大きく学問の枠組みが揺らぎはじめた時期にあたり、それは近代運動に対する信頼が失われたことに少なからず起因していました。おそらくこうした思想的、社会的、文化的規範の変化は、多かれ少なかれモリス研究にも波及するものと思われますし、事実、八〇年代以降にみられるモリスとラファエル前派への関心の強さ自体が、すでにそのことを物語っているのかもしれません。そこで、日本におけるモリス研究のこれからの課題につきまして、幾つかの観点から少し検討を加えてみたいと思います。
まず論議しなければならないことは、デザイン史におけるモリスの位置づけに関する問題です。これまでモリスは、アール・ヌーヴォーの開花とバウハウスの実践に貢献したという意味において、デザインにおける近代運動の先駆者としての位置が強調さられてきました。しかし七〇年代の近代運動の死と「クラフツ・リヴァイヴァル」の新たな動きを考えた場合、ペヴスナーが描いたようなヨーロッパ大陸における近代運動にとっての父としてだけではなく、一九世紀から現在に至る英国における工芸運動の先駆者としてモリスをとらえ直す視点が必要なのではないでしょうか。モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動から一九一〇年代の「オメガ・ワークショップ」、それに続くステューディオ・ポターとしてのバーナード・リーチの実践、そして七〇年代の「クラフツ・リヴァイヴァル」から最近の「グリーン・デザイン」へとつながる一連の工芸ないしは装飾芸術の運動が、思想的に関連性をもった持続的な歴史として実際に英国に存在するのかどうかは私にはまだよくわかりません。しかし近代運動の影の部分としてその歴史が見落とされていたとすれば、デザイン史家はその点に着目すべきではないでしょうか。それは、英国におけるモダニズムをより正確に理解するためにもぜひとも必要な作業であると考えます。そしてそのような歴史を記述する場合、フェミニズム、構造主義、精神分析といった今日的な方法論を用いるだけではなく、社会的、政治的、文化的文脈に照らし合わせて考察することもまた重要であると思います。といいますのも、一般的にいって、美術や工芸の研究に対してあまりにも保守的な趣味がこれまで支配し、正確な理解や解釈を妨げる要因になってきたと思われるからです。
一方モリスの詩やロマンスは、近代的なリアリズムの文学が主流になっていた時代にあっては、装飾的な要素に満ちた、逃避主義的な文学としてどちらかといえば低い評価が与えられてきました。「これまでモリスのロマンスが正当に扱われてこなかった」理由について、川端康雄は、「近代文学の語りの手法に慣らされてきた人々にとって、ロマンス固有の象徴世界とその世界を紡ぎ出す象徴主義的語法が理解し難かった」ことを指摘しています36。一般的にいって今日、モダニズムの文学では表現しえない象徴世界に多くの人たちが強い興味をもちはじめていますし、確かに今後の研究の余地が十分に残されている部分です。しかしモリスに限っていえば、モリスの文学に表われた象徴世界をひとつの単独のものとして切り離して扱うのではなく、もう一方の装飾芸術のなかにモリスが刻み込んだ視覚表現との有機的な関連性のうちに解釈を加える方が、むしろ重要であると考えられます。またそうした解釈にあたっては、モリスが社会主義を手にするうえで必要とした構想力と形式についての検討も当然含まれなければなりません。といいますのは、モリスの装飾芸術とロマンスの双方の形式は少なくとも彼にとっては同一の構造をもつものであり、それらの形式を生み出す力と社会主義を構想する力も、彼の場合には同じひとつの未分化の生命体から発されたものである、と私には理解されるからです。別の言葉でいえば、真の芸術を生み出す力と新しい社会を構築する力とは本来同じ源に由来する力であり、そのふたつの力が資本や権力などによって分離させられるのを食い止め、常につなぎあわせておくうえでの必須の装置としてロマンスの形式がモリスにとって極めて重要なものだったのではないか、と私は推測しているのです。どちらにしましても、文学形式をとおして表現されたモリスの象徴世界は、今後さらに研究者の注目を集めることになるでしょう。
ところで、今日の学問の世界を見てみますと、文学や芸術の分野では象徴世界に対する強い関心が見受けられますが、他方歴史学においては、英国同様に日本においても、人びとの歴史、あるいは統合化された歴史に対する指向が強いようです。「社会の歴史」という新しい視点から、つまりは、ヴィクトリア時代における人びとの生活という視点から、モリスの実践を再吟味することは、私も大変重要なことであると思っています。たとえば、チャールズ・ハーヴィーとジョン・プレスによって一九九一年に刊行されました『ウィリアム・モリス――ヴィクトリア時代の英国におけるデザインと事業』37のような研究が日本においても行なわれることが期待されているわけでありますが、一次資料の入手という点において、どうしても困難がつきまとうようです。社会史の隆盛とは別に、近年日本では文化経済学という新しい学問に関心が寄せられ、そのなかでしばしばラスキンとモリスが再評価されるようになりました。その唱導者である池上惇は、「……モリスとラスキンを芸術の世界から経済学の世界に復帰させることによって、現代の日本社会が直面する生活の向上への課題にも正面から応えうる」38と結論づけています。
日本人が自らの生活を問い直すとき、過去においても、また現在においても、常にそこにはモリスがいました。そしてそのことは、今後も変わることはないでしょう。いよいよ来年はモリス没後一〇〇年を迎えます。そのとき私たちはどのようなモリスと出会うことができるのでしょうか。私たちが心からモリスを求めようとすればするほど、裏切ることなく彼は私たちにほほえんでくれることでしょう。私は来年、このロンドンの地において、モリスのほほえみに出会うことをいまから楽しみにしているところです。
(一九九五年)
(1)牧野和春、品川力(補遺)「日本におけるウィリアム・モリスの文献」、『みすず』第18巻第11号、みすず書房、1976年,33-42頁。
(2)ヰリアム、モリス原著『理想郷』堺枯川抄譯、平民社、1904年。
(3)該当する論文は以下のとおりである。 富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14-20頁。富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、22-27頁。岩村透「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」『美術と社會』(趣味叢書第十二篇)趣味叢書発行所、1915年。
(4)たとえば、次のような訳書を挙げることができる。 タウンシェンド夫人『ウヰリアム・モリス評傳』加田哲二訳、下出書店、1921年。モリス『無可有郷だより』布施延雄訳、至上社、1925年。モリス『芸術のための希望と不安』(海外芸術評論叢書)大槻憲二訳、聚芳閣、1925年(『芸術の恐怖』小西書店、1923年の改題改訳)。モリス『地上楽園』(世界奇書異聞類聚10)矢口達訳、国際文献刊行会、1926年。モリス「無可有郷通信記」村山勇三訳、『世界大思想全集』50、春秋社、1929年。
(5)たとえば、次のような研究書を挙げることができる。 加田哲二『ウヰリアム・モリス』岩波書店、1924年。北野大吉『藝術と社會』更正閣、1924年。本間久雄『生活の芸術化』東京堂、1925年。大熊信行『社会思想家としてのラスキンとモリス』新潮社、1927年。
(6)大熊信行『社会思想家としてのラスキンとモリス』新潮社、1927年、1頁。
(7)大槻憲二「序文」、東京ヰリアム・モリス研究會編『モリス書誌』(ヰリアム・モリス誕生百年祭記念文獻繪畫展覧會目録)丸善、1934年。なお展覧会は、1934年4月24日から5月3日まで、同研究會によって東京日本橋の丸善で開催された。
(8)壽岳文章「書物工藝家としてのモリス」、モリス生誕百年記念協會編『モリス記念論集』川瀬日進堂書店、1934年、111-114頁。
(9)See Yuko Kikuchi, ‘The Myth of Yanagi's Originality: The Formation of Mingei Theory in its Social and Historical Context', Journal of Design History, vol. 7, no. 4, Oxford University Press, Oxford, 1994, pp. 247-266.
(10)柳宗悦『工芸文化』(改訂版)岩波書店、1985年、11頁。
(11)森戸辰男『オウエン モリス』岩波書店、1938年、144頁。
(12)同書、145頁。
(13)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXI, pp. 63-64.[モリス『ユートピアだより』松村達雄訳、岩波書店、1968年、120頁を参照]
(14)See Stuart Macdonald, The History and Philosophy of Art Education, University of London Press, London, 1970, p. 310.[マクドナルド『美術教育の歴史と哲学』中山修一・織田芳人訳、玉川大学出版部、1990年、414頁を参照]
(15)たとえば、次のような訳書を挙げることができる。 モリス『民衆の芸術』中橋一夫訳、岩波書店、1953年。ペヴスナー『モダン・デザインの展開』白石博三訳、みすず書房、1957年。リード『インダストリアル・デザイン』勝見勝・前田泰次訳、みすず書房、1957年。
(16)Nikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Design (first published by Faber & Faber in 1936 as Pioneers of the Modern Movement), Penguin Books, London, edition of 1981, p. 39.[ペヴスナー『モダン・デザインの展開』白石博三訳、みすず書房、1957年、28頁を参照]
(17)Ibid., p. 23.[同訳書、10頁を参照]
(18)前田泰次「ラスキンとモリス――アートアンドクラフト運動」、勝見勝監修『現代デザイン理論のエッセンス』(ぺりかん・エッセンス・シリーズ)ぺりかん社、1966年、16頁。
(19)同書、30-31頁。
(20)C. R. Ashbee, Should We Stop Teaching Art?, Batsford, London, 1911, p. 4.
(21)See Noel Carrington, Industrial Design in Britain, George Allen & Unwin, London, 1976, p. 41.[キャリントン『英国のインダストリアル・デザイン』中山修一・織田芳人訳、晶文社、1983年、52頁を参照]
(22)Misha Black, ‘Designers, Craftsmen and Artists' (1970), in Avril Blake (ed.), The Black Papers on Design, Pergamon Press, Oxford, 1983, pp. 200-201.[ブレイク編『デザイン論――ミッシャ・ ブラックの世界』中山修一訳、法政大学出版局、1992年、203頁を参照]
(23)木村正身「ウィリアム・モリス解釈の新段階」『香川大学経済論叢』第29巻第5号、香川大学経済研究所、1957年、1-41頁を参照。
(24)木村正身「〈ロマン的反抗〉の政策思想――ウィリアム・モリスの場合」『香川大学経済論叢』第35巻第4号、香川大学経済研究所、1962年、1-46頁を参照。
(25)木村正身「ウィリアム・モリスにおけるユートピア思想の性格――労働本質観を中心に」『研究年報』第3号、香川大学経済研究所、1963年、1-52頁を参照。
(26)該当する訳書は以下のとおりである。 コール『イギリス勞働運動史』(全3巻)林健太郎・河上民雄・嘉治元郎訳、岩波書店、1952-57年。ホブズボーム『イギリス労働史研究』鈴木幹久・永井義雄訳、ミネルヴァ書房、1968年。
(27)該当する訳書は以下のとおりである。 トムスン『新しい左翼――政治的無関心からの脱出』福田歓一・河合秀和・前田康博訳、岩波書店、1963年。ウィリアムズ『文化と社会』若松繁信・長谷川光昭訳、ミネルヴァ書房、1968年。
(28)河合秀和「イギリス社会主義の形成」、日本政治学会編『西欧世界と社会主義』岩波書店、1966年、25-54頁を参照。
(29)小野二郎『ウィリアム・モリス――ラディカル・デザインの思想』中公新書、1973年、9頁。
(30)同書、194-195頁。
(31)同書、32頁。
(32)たとえば、次のような訳書を挙げることができる。 モリス『ユートピアだより』松村達雄訳、岩波書店、1968年。モリス「ユートピア便り」『ラスキン モリス』(「世界の名著」第52巻)五島茂責任編集、中央公論社、1971年。モリス『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、1971年。モリス『ジョン・ボールの夢』生口竹郎訳、未来社、1973年。モリス『サンダリング・フラッド』(妖精文庫12)中桐雅夫訳、月刊ペン社、1978年。モリス『世界のかなたの森』(「文学のおくりもの」14)小野二郎訳、晶文社、1979年。モリス『世界のかなたの森』(メルヘン文庫)宇喜田敬介訳、東洋文化社、1980年。
(33)たとえば、次のような訳書を挙げることができる。 ペヴスナー『モダン・デザインの源泉』小野二郎訳、美術出版社、1976年。ペヴスナー『美術・建築・デザインの研究Ⅱ』鈴木博之・鈴木杜幾子訳、鹿島出版会、1980年。キャリントン『英国のインダストリアル・デザイン』中山修一・織田芳人訳、晶文社、1983年。ラバーン『ユートピアン・クラフツマン』小野悦子訳、晶文社、1985年。ワトキンソン『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』羽生正気・羽生清訳、岩崎美術社、1986年。パリー『ウィリアム・モリスのテキスタイル』多田稔・藤田治彦訳、岩崎美術社、1988年。
(34)たとえば、次のような訳書を挙げることができる。 スタンスキー『ウィリアム・モリス』草光俊雄訳、雄松堂出版、1989年。アダムズ『アーツ・アンド・クラフツ運動』中野邦子訳、美術出版社、1989年。アダムズ『ラファエル前派』高宮俊行訳、リブロポート、1989年。マーシュ『ラファエル前派〈女〉』河村錠一郎訳、リプロポート、1990年。ヘンダースン『ウィリアム・モリス伝』川端康雄・志田均・永江敦訳、晶文社、1990年。ネイラー編『ウィリアム・モリス』ウィリアム・モリス研究会訳、講談社、1990年。ピーターソン編『理想の書物』川端康雄訳、晶文社、1992年。パリーとモス『ウィリアム・モリスとアーツ・アンド・クラフツ運動』高野瑶子訳、千毯館、1992年。ポールソン『ウィリアム・モリス』小野悦子訳、美術出版社、1992年。マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年。ピーターソン『ケルムスコット・プレス』湊典子訳、平凡社、1994年。
(35)たとえば、次のような展覧会を挙げることができる。 「ウィリアム・モリス」展、伊勢丹美術館と大丸ミュージアム、1989年。「ウィリアム・モリス祭」、けやき美術館、1991年。「ケルムスコット・プレス」展、丸善、1991年。
(36)川端康雄「訳者あとがき」、ヘンダースン『ウィリアム・モリス伝』川端康雄・志田均・永江敦訳、晶文社、1990年、594頁。
(37)Charles Harvey and Jon Press, William Morris: Design and Enterprise in Victorian Britain, Manchester University Press, Manchester and New York, 1991.
(38)池上淳『生活の芸術化――ラスキン、モリス、今日』丸善、1993年、vi頁。