晩年、富本は、自らの英国留学の目的を次のように語っている。
徴兵の関係があったので卒業制作を急いで描き、卒業を目の前に控えて一九〇 九 ( ママ ) 年 十 ( ママ ) 月にイギリスに私費で留学しました。普通の美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは、当時ロンドンには南薫造、白滝幾之助、石橋和訓のような先輩がい、大沢三之助先生が文部省留学生としておられたので、指導してもらうに好都合のためでありましたが、実はそれよりも美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したいためでした1。
ここから読み取れるのは、主たる富本の英国留学の目的が「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したい」という強い願望に起因していたことである。そこでまず、戦前昭和期までの日本におけるモリス紹介の全体像を概観しておきたいと思う。
ウィリアム・モリスは、周知のように、一八三四年三月二四日にロンドン北東郊外のウォルサムストウにある〈エルム・ハウス〉において、父ウィリアム、母エマの三番目の子として生まれた。そして一九三四(昭和九)年には、生誕百年を記念して、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で「ウィリアム・モリス」展が開催され、一方日本にあっては、日本橋の丸善において、ヰリアム・モリス誕生百年祭記念「文獻繪畫展覧會」が開かれた。
さらにこの年には、川瀬日進堂書店から『モリス記念論集』が刊行された。そのなかに所収された論文「文獻より見たる日本に於けるモリス」において執筆者の富田文雄は、明治期から昭和初期までのモリスを紹介した文献にかかわって、社会主義者、詩人、工芸家の三つの側面から詳述したうえで、以下のように、その特徴を要約している。
扨て以上を通じて見ます時、大體次の二つのことが言ひ得るのではないかと考へるのであります。即ちその一つは、日本に於てはモリスの社會思想に關聯した方面の紹介が最も盛に行はれたこと、次が文學方面であるがこれとても思想上の取扱ひが主となつてゐる樣であり、そして最後が工藝美術の方面でこの方面は最も盛に行はるべくして而も最も振つてゐない事實、今一つのことは、何れの方面を見てみても時代から見て大正時代の後半に於て最も盛に紹介されたことの二つであります。そしてこの二つの事實は結局日本に於けるモリスの紹介は主として世界に於けるかのデモクラシー思潮氾濫の波に乘つて行はれたものであることを物語るものであると考へるのであります2。
そして富田は、日本で紹介された個々のモリス文献について、専載本を一〇点、半専載本を五点、雑載本をその程度によって三ないしは一点としたうえで、グラフにまとめている【図1】。この統計資料からわかることは、明治二〇年代の中頃から文献をとおしてモリス紹介が行なわれるようになり、初期の小さなピークが日露戦争の開戦前後に起こるも衰退し、さらにその後、いわゆる社会主義運動の「冬の時代」を経たのち、一九二〇(大正九)年から一九二五(大正一四)年にかけての期間に再び大規模なうねりが隆起していることである。そしてまた、このグラフから、この期間の紹介の中心が、社会主義思想家としてのモリスの側面にあったことも、理解できる。これが、一九三四(昭和九)年までの日本におけるモリス紹介のおおかたの全体像であった。
富本憲吉が東京美術学校に入学するのが、日露戦争開戦直後の一九〇四(明治三七)年の四月である。おりしもこの時期は、日本におけるモリス紹介の初期の小さなピークを迎えたときにあたる。それでは、そのときまでにあって具体的にはどのようにモリスは日本へ紹介されていたのであろうか。
牧野和春と品川力(補遺)による「日本におけるウィリアム・モリス文献」のなかには、一九〇四(明治三七)年以前のモリス紹介の文献として、書籍と雑誌をあわせて、一八点が挙げられている3。それに依拠しながら代表的な事例を紹介するとすれば、おおむね以下のようになる。
最初の文献は、一八九一(明治二四)年に博文館から刊行された澁江保の『英國文學史全』【図2】で、「第二章 最近著述家」のなかの詩人の項目に「ウ井リアム、モーリス 一八三四年生」4という、名前と生年のみの記載が認められる。
そしてモリスが死去した一八九六(明治二九)年には、『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し、次のように報じている。執筆者名は「B S」のイニシャルのみである5。
老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃、思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲報に接せんとは。長く病床にありしウ井リヤム、モリス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開きし程もなく、俄然病革りて去る十月三日彼は六十三歳を一期として此世を辭し、同六日遂にクルムスコット墓地に永眠の客となりぬという。彩筆を揮て文壇に闊歩すると四十年、ロセッテ、ス井ンバルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず、まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり、或は過去の實物保存の為め、また將來社會民福の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ、其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し、併せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶるところあるべし6。
ここからこの追悼文は、「地上の楽園」を中心としたモリスの詩の解説が賛美の基調でもってはじめられるわけであるが、注目されてよいのは、上で引用した書き出しの文のなかにあって、わずかながらも、モリスが工芸家や社会主義者であったことも連想させるような記述がなされていることである。
さらに一九〇〇(明治三三)年には、『太陽』において上田敏も、ラファエル前派の詩人としてのモリスに言及し、「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の徒なる歌人と自ら稱し、『地上樂園』(一八六八―七〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」7と、短く紹介している。
『帝國文學』や『太陽』以外においても、この時期、『早稻田文學』『國民之友』『明星』などの雑誌をとおして断片的に紹介された形跡はあるものの、とりわけ社会主義者としてのまとまったモリス紹介は、一八九九(明治三二)年に出版された『社會主義』においてがおそらくはじめてであった。著者の村井知至は、「第六章 社會主義と美術」のなかで、社会主義者へと向かったウィリアム・モリスの経緯を、ジョン・ラスキンと関連づけながら次のように描写していた。
ジヨン、ラスキンとウ井リアム、モリスとは當代美術家の秦斗にして、殊にモリスは美術家にして詩人なり、……モリスも亦ラスキンの感化を受けたる一人にして、彼と同じき高貴なる精神を持し、己れの位置名譽をも顧みず、常に職工の服を着し、白晝ロンドンの街頭に立ち、勞働者を集めて其社會論を演説せり、……ラスキンは寧ろ復古主義にしてモリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至つては二者全く其揆を一にせり、彼等は等しく現今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に於ては到底美術の隆興を見る可はず、……今日の社会制度を改革せざる可らずと主張せり、如此にして彼等は遂に社会主義の制度を以て、其理想となすに至れり、……モリスは社会主義者の同盟の首領として、死に抵る迄運動を怠らざりき8、
こうした社会主義者としてのモリスは、その後、週刊『平民新聞』の紙面を通じて、さらに紹介されていくことになる。
周知のように、週刊『平民新聞』とは、幸徳秋水や堺利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日に創刊号が刊行され、創刊一周年を記念して第五三号に「共産黨宣言」を訳載すると、しばしば発行禁止にあい、一九〇五(明治三八年)一月二九日の第六四号をもって廃刊に追い込まれた、日本における社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした新聞である。発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面にはエミール・ゾラ、右壁にはカール・マルクス、本棚の上にはウィリアム・モ ー ( ママ ) リスの肖像が飾られていた」9。この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事【図3】においてであった。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載したものであった10。おそらくその間、この本は発行禁止になっていたものと思われる。それに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載をとおして、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載されたモリスの「ユートピア便り」が、はじめて日本に紹介されることになる。それは、「理想郷」と題され、枯川生(堺利彦)による抄訳であった。そして連載後、ただちにその抄訳は単行本としてまとめられ、「平民文庫菊版五銭本」の一冊に加えられるのである11【図4】。
したがって、美術学校入学以前にあって文献をとおして富本が知りえた可能性のあるモリスは、おおよそ、上述のような雑誌類によって紹介されていた主として詩人としてのモリス、さらには単行本や『平民新聞』のなかにあって記載されていた社会主義者としてのモリスということになる。しかしそれは、いまだ断片的なモリスについての情報にとどまっていただけではなく、とくに工芸家としてのモリスについてはほとんど紹介がなされておらず、全体的なモリス像の紹介という点からは程遠いものであった。しかも、モリスのような社会主義思想家の紹介は、この時期からさらなる官憲の圧迫の対象となり、その後のいわゆる「大正デモクラシー」の高まりを迎えるまで、衰退の途を余儀なくされるのである。
最晩年の一九六一(昭和三六)年に、富本憲吉の「作陶五十年展」を記念して日本橋の「ざくろ」で座談会が開かれた。そのなかで、「……[英国へ]行く前からモリスを研究するつもりで」という、英国留学とモリス研究についての質問に答えて、富本はこう述べている。
そうです。私は友達に、中央公論の嶋中 雄三 ( ママ ) がおり、嶋中がし よつ ( ママ ) ち ゆ ( ママ ) うそういうことを研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた。それにモリスのものは美術学校時代に知っていたし、そこへも つ ( ママ ) てきていちばん親しか つ ( ママ ) た南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行くとごまかしてイギリスに行った12。
富本と同郷の嶋中雄三は、大正、昭和期の社会運動家で、のちに東京市会議員などを務める人物であり、富本とは六歳年上にあたる。しかし、中央公論社に一九一二(大正元)年に入社し、その後社長を務めることになるのは弟の嶋中雄作であり、上で引用した「中央公論の嶋中雄三」という富本の記憶には混乱がみられる。一八八七(明治二〇)年二月の生まれである雄作は、したがって一八八六(明治一九)年六月生まれの富本と同学年だった可能性があるものの、富本は郡山中学校、雄作は畝傍中学校に当時在籍しており、中学校時代にふたりのあいだでどのような交流があり、とりわけモリスがどのようなかたちで話題になっていたのかはわからない。しかし、雄作は兄雄三の影響のもとに、中央公論社入社以前から社会運動、とりわけ女性の権利拡張に関心をもっていた可能性もあり13、嶋中兄弟のそうした政治的社会的関心を通じて、富本も、社会主義やモリスについての知見を得ていたのであろう。双方が中学校時代を過ごした奈良県での週刊『平民新聞』の購読数は、おおよそ二四部であった14。当時富本家で購読されていたことを示す資料は残されていない。したがって、富本が「中学時代に読んでいた」という『平民新聞』も、嶋中兄弟によって貸し与えられたものだったのかもしれない。
富本がモリスを知ったのは、こうした『平民新聞』に掲載されたモリスの紹介記事や翻訳の連載物をとおしてであった。とくに「理想郷」は社会革命後の新世界を扱っていた。この物語の語り手(語り手はモリスその人と考えてよいだろう)は、革命後に生まれるであろう新しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦わされた夜、疲れ果てて眠りにつき、翌朝目が覚めてみると、すでに遠い昔に革命は成功裏に終わり、理想的な共産主義の社会にいる自分を見出した。語り手が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働、汚染される自然、苦痛にあえぐ生活からは想像もつかない、全く新しい世界がそこには広がり、労働と生の喜びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んでいた。これを読んだとき、富本には、モリスが描き出していた革命後の理想社会はどのようなものとして映じたのであろうか。それはわからない。しかし、社会が変化することの可能性、そして、それを成し遂げるにあたっての時代に抗う力の生成、さらにはその一方で、そうした行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在、これらについては、少なくとも理解できていたであろう。こうして富本は、この時期、確かにモリスの社会主義の一端に触れることになるのである。それはちょうど、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期であり、一七歳の青年富本が郡山中学校の卒業を控え、美術学校への入学を模索しようとしていた、まさにそのときのことであった。
富本憲吉の美術学校へ向けての志望の動機は、決して明確なものではなかった。
当時、私は石彫りに心を動かし、自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあったので、なんとなく美校を志した15。
周りの反対はあったものの、富本は、一九〇四(明治三七)年四月から仮入学生として美術学校に籍を置くことになる16。しかし、専門的な分野については、富本にとって全くの未知の世界であった。
中學校を出ると直ぐ無我夢中で美術學校へ入つた私は一切模樣とは如何なるものかと云ふ事を(極々幼稚な程度でゝも)知らなかつた。同じ室の生徒等がウンゲンと云ふ一種の方法を得意げに話して居たのを聞いた事がある。……當時は非常に耳新らしく、そう云ふ新語や上級生のする事を一生懸命で眞似たものである17。
この時期、美術学校は、学生たちにとって必ずしも居心地のよいものではなかった。富本の二年先輩にあたる、西洋画科に在籍していた南薫造は、その当時の実技の授業について、日記のなかでこう不満を漏らしている。
学校では球だの角柱だの[の]画でつまらんものであった。
学校で彫刻とか云ふのをやった。土で変なことをするのである。皆なも左官らしいとか云ふて居た。僕も大ひに不満であった18。
そうした学生からの不満はその後も続いた。富本より遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に入学した、光雲を父に、光太郎を兄にもつ高村豊周が後年回顧するところによると、その当時のその学校の様子は、以下のようなものであった。
学校では二十一、二の青年の生活に、およそ縁のないクラシックな物ばかり作っている。たとえば、一年の時に作った筆筒は、自分の欲望から生まれたデザインでは決してない。クラシックな物ばかり載っている本を見て、こんな物をこしらえればよいのだろうと、見よう見真似のデザインをして先生の所へ持っていくと、何がいいのかわからないがいいと言うからそれを作る。……しかし私たちは、ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい。するとこの筆立は、一体誰のために作るのだろうという疑問が起ってくる19。
富本自身も、美術学校の学生だったころの自分の製作に対する姿勢を振り返り、暗澹たる思いにかられている。
学生時代の事を思いおこすと先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る。……全体見たあとで好きな少し衣を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様と考へ[て]居た事もある。……人も自分も随分平氣でそれをやった。近頃は一切そむな事が模様を造る人々にやられて居ないか、先づ自分を考へるとタマラなく恥かしい20。
過去の作例に縛られた製作。雑誌や本からの模倣。教師の前にあっての受身的な態度。使用者不在の製作物。こうしたことに対する疑問や不満は、言葉では表わせない何か鬱積する気持ちを富本にもたらしたことであろう。
入学すると富本は、「学校へはあまり顔を出さず、年中、下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた。自分でやるだけでは満足せず、おそらく日本では最初のマンドリン・バンドを作った」21。美術学校での教育は、富本の興味を強くかきたてるようなものではなかった。しかし、そのとき結成された、マンドリンのサークルでの人的交流は、その後の富本に大きな意味をもたらすことになる。それは、南薫造と知り合い、深い友情を形成することができたことに由来する。南は富本の二年前に入学し、その後一足先に、一九〇七(明治四〇)年に渡英する。そして南は、富本の英国留学の指南役を果たすことになるのである。
マンドリンのサークルの中心人物は、岩村透であった。嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴い、一八九九(明治三二)年に岩村は、「西洋美術史」の授業を美術学校から嘱託されている。そして、パリ万国博覧会見学のための解嘱をはさんで、一九〇二(明治三五)年からは同学校の教授の職にあった。
一九一七(大正六)年の岩村の死去に際して、南は追悼文を『美術』に寄稿し、そのなかで当時のマンドリンのサークルについて、こう回想している。
自分等は今日でも音樂と云ふ一つの不思議な夢想界を作つて自ら樂しんで居るが[岩村透]先生は又たこの音樂に就ては非常な夢想家だつた。それで先生を發頭人として音樂の會合が學校の中に拵えられた。日が暮れても有象無象が蝋燭の下に集まつて、時の過ぎるのも知らずコールブンゲンの敎則本を睨み附けてお隣りの動物園と競爭で吐鳴つた。當時先生はマンドリンに凝つて居られたので器樂部の方ではマンドリンをやる事になつた、今日の如く樂器が容易に手に入らないので漸やく五六人しかやる事が出來なかつた22、
この数人で構成されたサークルのなかに、南とともに富本も加わっていたのである。それでは、教室にあっての岩村は、どのような教師だったのであろうか。南は、同じくこの追悼文のなかで、西洋美術史の教授としての岩村を、次のように追想している。
先生を初めて知つたのは自分が上野の學校へ這入つた時で明治三十五年であつたと思ふ。今から思ふにこの三十五年頃が敎授としての先生の一番油の乘つて居た時では無いかと考へられる。美術學校も無論まだ本館が焼けない以前で、あの古い小さな敎室で世界の事柄は何んでも飲み込んでしまつて居ると云ふ調子で美術史の講義をせられる時は、實に二時間が誠に早やく立つて仕舞ひ、其の痛快な先生一流の論法には全く魅せられて片唾を飲んだものだつた23。
岩村は、学生を魅了してやまない名講義の主であったようである。そして、南や富本が学生であったころまでに、すでに『巴里の美術学生――外ニ美術談二』(畫報社、一九〇二年)と『芸苑雑稿』第一集(畫報社、一九〇六年)の二冊を著わしていた。その後、第四次の外遊から帰国すると、一九一五(大正四)年には、岩村にとってのはじめてのモリス論となる「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』(趣味叢書第一二篇)24を、すでに南が趣味叢書第七篇として『畫室にて』を刊行していた趣味叢書発行所から出版することになるのである。
ところで小野二郎は、この岩村の論文「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」に着目し、次のように、モリスを巡る岩村と富本の関係について述べている。
その岩村でも、モリスについてのまとまった記述は、一九一五年(大正四年)の「ウイリアム・モリスと趣味的社会主義」(『美術と社会』)が始めてである。…… しかし岩村は、一九〇二年より一三年間、東京美術学校教授として美術史建築史を講じていたのだから、先の発表された論議の対象から見て、当然モリスの思想と運動について、しかもあやまたぬ文脈において紹介していたに違いない。富本が岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけられたという事実はほぼ間違いないことと思われるが、今そのことの意味は問わぬ25。
小野は、富本が学生だったころに、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」において論じられている知見が、すでに富本に植え付けられていた可能性を示唆しているのであるが、しかし、この論文は、その冒頭において岩村自身が若干触れているように、アーサー・コムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改良家』26を底本として語られているものであり、原著の刊行が一九一三年であることからして、コムトン=リキットのモリスに関する記述内容を、講義をとおして岩村が富本に教授することは不可能だったことになる。また、それまでの岩村の著述のなかにもモリスに言及した形跡は残されておらず、したがって、もし、岩村の口からモリスに関する話題が提供されていたとしても、必ずしもそれは正規の授業をとおしてのまとまった知識ではなく、ときおり断片的に話にのぼる程度の私的なものであった可能性の方が高い27。
それでは、西洋美術史の教授である岩村からモリスに関する知識を授けられていなかったとすれば、富本は学生のときに一体どの教師からモリスを学ぶ機会を得たのであろうか。
渡辺俊夫と菊池裕子は、大沢三之助を挙げて、次のように指摘している。
東京美術学校建築主任教授であった大沢三之助は、一九〇六年から一九 〇九 ( ママ ) 年までの滞欧中にハムステッド・ガーデン・シティを訪れている。ハワードの思想を通じてラスキンの中世主義の理想に触れた大沢は、一九一二年に「ガーデン・シチーに就て」という論文を発表している。その中で、大沢は、人間生活にとっての自然で健康的な環境を考慮することが「都市計画」において重要であることを力説している。大沢の教えた学生の一人富本憲吉も中世主義者となり、モリス崇拝者となった。富本が設計した《音楽家住宅》は、卒業制作であった。多くのイギリス本家の田園都市の住宅の場合同様、これもイギリスの伝統的なコテージに由来するハーフティンバー造りのコテージ様式のものである28。
ここで、富本が美術学校に在籍していた時期(一九〇四年四月から一九〇八年一一月まで)を中心に、大沢の動向に触れてみたいと思う。
大沢は、一八九四(明治二七)年七月に帝国大学工科大学造家学科卒業後、大学院へ進学、翌年一二月に一年志願兵として入営し、さらに翌年、将校試験に及第すると、一八九七(明治三〇)年三月に陸軍歩兵少尉として任官している。大沢の美術学校とのかかわりは、この時期、「建築製図」と「構造大意」の授業が嘱託されたことにはじまる。この後入隊のために一時解嘱された期間もあったが、一九〇二(明治三五)年に、同学校の教授に任命され、「建築史」「建築意匠術」および「建築製図演習」を担当することになる。しかし、日露戦争の開戦に伴い、一九〇四(明治三七)年七月には召集令に接し、近衛後備歩兵第四連隊へ入営する。召集が解除されたのは、翌年の一〇月のことであった。そして、文部省からの被命のもと一九〇七(明治四〇)年一月から一九一〇(明治四三)年一〇月まで、建築装飾の研究のためアメリカ、イギリス、フランス、イタリアへ海外渡航することになる。大沢の留学期間中、図案科の「建築学」の授業は、東京帝国大学工科大学助教授の関野貞に嘱託された。ロンドン滞在中の大沢は、富本のよき指導者としての役割を務め、帰国後の一九一二(明治四五)年には、主としてイギリスでの研究をもとに、『建築工藝叢誌』に四回に分けて、「ガーデン・シチーに就て」というタイトルで論文を発表する。そして、一九一四(大正三)年に宮内省技師に転出するのである29。
こうした略歴から判断すると、建築について大沢が富本に教授することができたのは、一九〇五(明治三八)年の一一月から一九〇六(明治三九)年をとおしてのわずか約一年二箇月だったことになる。この時期までに、ラスキンの中世主義やモリスの思想や実践について、大沢がどこまで把握していたのかを示す資料は見当たらない。また一方で、すでに述べたように、この時期までに刊行されていた雑誌や書物を通じての富本のモリス理解は確かに進んでいたとしても、富本自身が自らを「中世主義者」とか「モリス崇拝者」と呼ぶようなことはなかった。そのような傍証から推量すると、この時期大沢の教えを受けて「富本憲吉も中世主義者となり、モリス崇拝者となった」とする渡辺と菊池の指摘を現時点で受け入れるのは、困難なように思えるし、また、富本が卒業製作に入るときには、すでに大沢は洋行の途に上っており、そのような経緯からしても、富本の卒業製作に大沢の直接的な影響があったとは、考えにくいのではないかと思われる。
さらに、最近の論調に目を向けると、松原龍一は、展覧会カタログ所収の論文「富本憲吉の軌跡」のなかで「美術学校では、大沢[三之助]や岡田[信一郎]からウィリアム・モリスの話は聞いて興味をもっていた富本ではあるが、一九〇八(明治四一)年一一月、ウィリアム・モリスの工芸思想を実地に見聞し、さらに西洋建築を見るために、卒業制作《音楽家住宅設計図案》を早く完成し私費で渡英したのであった」30と述べ、モリスに関する知見を富本に授け、英国留学を促した可能性のある教師のひとりとして、大沢とともに岡田信一郎を示唆している。岡田は、一八八三(明治一六)年の生まれで、富本よりも三歳年長であった。東京帝国大学工科大学を卒業すると、翌年の一九〇七(明治四〇)年に、つまり二四歳のときに、「日本建築学」および「特別建築意匠」の授業と「図案科生徒製図監督」が美術学校から嘱託さている。しかし、嘱託されたのちから富本が英国へ出立するまでのおおよそ一年と七箇月のあいだに、岡田が何か学術的な文章を発表した形跡はなく、したがって、この時期の岡田の学問上の関心を明確にすることはできない。岡田の最初の発言は、嘱託として三年が経過した一九一〇(明治四三)年の「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」31をテーマにとった討論会においてであり、同年には、「建築と現代思潮」32と題された論説も発表しているが、少なくともそれらのなかにはモリスへの言及は認められない。したがって、仮に岡田が富本にモリスについて話をしていたとしても、それは、富本の知識を大きく超えるような、岡田独自の研究成果に基づく、まとまりをもったモリス論に類するものではなかったのではないだろうか。
高村豊周は、後年学生時代を振り返り、「大正四年頃に、こういっては悪いが、工芸科の先生でウィリアム・モ ー ( ママ ) リスの名前を知っている先生はいなかったのではないかと思う」33と述べている。一方、富本の書き残したもののなかにも、川端玉章の日本画の授業についての回顧談はあるものの、それ以外の教師たちの授業についての具体的な記述はいっさい存在しない。そのように見ていくと、学生時代の富本に、「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したい」という思いをかきたたせ、英国留学を決意させるほどまでに強い影響力をもった教師たちは、当時富本の周りにはいなかったと判断するのが自然なように思われるし、いや、ただそれだけではなく、帰国後の南薫造に宛てた複数の書簡から推し量ると、疑いもなく卒業後の富本は、彼らに対して強烈な反感さえもちあわせるようになっていたのであった34。
れでも富本は、彼の記憶違いでなければ、これもすでに引用により紹介したように、確かに「モリスのものは美術学校時代に知っていた」。それでは、どのようにして学生時代に、富本は「モリスのもの」を知るに至ったのであろうか、そのことが明らかにされなければならない。
富本の学生時代は、「先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る」ことが学生たちのあいだで日常化していたようである。富本は、こうした外国雑誌からの参照について、別の箇所でさらに詳しく、以下のように述懐している。
……此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云ふ題が出たとして、そう云ふ種類のものならば大抵ステユデオかアール、エ、デコラシヨンを借りてコーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來得る限り早く、……パラパラと只書物を操る。……コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾も見つかると、透き寫しするに最も良く出來た蠟引きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである。……寫した小さな紙片を敎室なり下宿なりに持ち歸つて茶碗の把手を入れかえ、模樣の一部を故意に或は無理に入れかえて、先ず下圖が出來上がつたものと心得て居た。…… 色々な模樣を誰れは帳面にして幾冊持つて居る、彼れは大きい袋に幾つ持つて居る、それが我々仲間の模樣の出る根源、又その人の偉さにも非常に關係ある樣に考へて居た。……學校の文庫にある雜誌と云はず繪はがき帖と云はず、光澤紙に摺られた寫眞版に紙を敷いて鉛筆で上から線を引いた樣な跡が一面にある。此れが作品の尊嚴を贖がした惡む可き鉛筆又はペン先きの跡である。 當時は此れを唯一の勉強方法と考へて、未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り切りで寫しに寫した。又何う云ふ書物に如何な模樣があるか、今度文庫で如何な模樣の書物を買つたとか云ふ事さえ仲間は非常に秘密にした35。
富本が学生だったころの図案の実技教育はおおよそ以上のようなものであったらしく、「先生の新らしく作られた模樣を見た事もなければ……盛むに運動や雜談に油を賣つた學校に居た間の五年間の貴重な時間」36は、空しくもこうして過ぎ去っていったのである。そして富本は、この「記憶より」と題された一文を次のように締め括るのである。「此の告白に類する模樣學習の記憶を書いた理由は、前にも書いた樣に今ではソウ云ふ不心得な圖案家及び學生は一人も居ない事を信ずると云ふ事である。只ソウ信じておきたい」37。この文章が書かれたのは、一九一四(大正三)年で、絶望にも近い苦悩の末に、「模様から模様を造らない」という製作理念へ、換言すれば、過去の参照の拒絶という強い決意へ富本が到達した時期に相当する。ここで富本は、偽ることなく学生時代の学習方法を告白することによって、決然とそれを否定し、模様製作の新たな領域、つまりは、個性や独創性という未知の領域へ分け入ろうとしているのである。確かにこの時期、富本は、旧い体制と価値観からの脱却を果敢にも試みようとしていた。まさしくそれは、富本にとっての「近代の陣痛」と呼べるものであった。おそらく、富本の目には旧弊とも珍奇とも映る美術学校時代の教育実態に関する告白と、そのときの教師たちに向けられた帰国後の富本書簡にみられる罵声に近い反感とは、そのような意味において表裏をなすものであったのではなかろうか。したがって、これもまた、日本の工芸教育における旧来の徒弟制度から近代的な学校制度への移行期の早い段階に認められうる「陣痛」の一場面として理解することも可能なのかもしれない。
さて、それはそれとして、本稿で後述することになる、東京勧業博覧会への富本の出品作や卒業製作についての検討に際しても、その背景として、こうした外国雑誌からの転写による製作過程を念頭に置かなければならないのはいうまでもないが、その前に本題にもどって、ここで検討されなければならないのは、そうした学校の文庫(今日にいうところの図書館)に所蔵されていた外国雑誌をとおして、富本は「モリスのもの」を知りえたのではないかという論点なのである。それでは、当時の美術学校では、富本が挙げている「ステユデオかアール、エ、デコラシヨン」のような外国雑誌の購入の様子はどのようなものであったのであろうか。
明治三〇年代半ばの学生用の参考書、とりわけ外国雑誌は、ある教師の紹介するところによると、以下のようなものであった。
誌類にて最も有名なるは、佛の Gazette des Beaux-Arts. Revue de L’art Ancien et Moderne 及び Art et Decoration(前二雜誌各々一年分代價凡そ卅圓毎月一回發行)英の Art journal. Magazine of Art. International Studio(各金八圓より十二圓位迄孰れも月一回發行)獨の Kunst und Decoration. Moderne Kunst 及び伊の L’Arte Italiana. Enporium. 等に御座候。此外圖畫敎育家、又畫學生向け雜誌としては、米の Art Amateur.(月一回一年凡そ十圓)Art Interchange.(凡そ前同樣)Masters in Art(一ケ年凡そ三圓)及び英の Artist なぞ御座候38。
おそらくこうした外国雑誌が、富本が学生であったころにも、文庫において購入されていたものと思われる。そのなかで、富本がのちに書き残した文章にも唯一『ザ・ステューディオ』への言及が認められ、この雑誌が、学生時代のみならず、それ以降にあっても富本にとって欠かすことのできない、英国の美術やデザインに関する主たる情報源となっていたようである39。
富本が「モリスのもの」といっているのは、おそらく「モリスの作品」を意味しているのであろう。それでは富本が、創刊された一八九三年から英国へ向けて日本を離れるまでにあって『ザ・ステューディオ』に掲載されていたウィリアム・モリスに関する作品の図版とは、一体どのようなものであったのであろうか。それをまとめたものが【表1】である。図版が掲載された記事数は、総計一〇点で、図版は延べにして二八点となる。このなかには、単にモリスのデザインだけではなく、モリス商会によって製造されたものや、室内の一部にモリス作品ないしはモリス商会の製造品が使用されている施工例の図版も含まれている。富本のいう「モリスのもの」という言葉を、『ザ・ステューディオ』のなかの「モリスの作品」に限定して考えた場合、これがそのすべてであった。極めて少数としかいいようがない。
それでは、『ザ・ステューディオ』のような外国雑誌以外で、この時期、富本がモリスに関する情報を手に入れる機会はなかったのであろうか。また、美術に対する関心は別にして、当時の富本の社会へ向けられた関心はどのようなところにあったのであろうか。郡山中学校に在籍していたころに読んでいた週刊『平民新聞』は、富本が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年一月二九日付の第六四号をもって、官憲の弾圧により廃刊へと追い込まれた。この号は、全頁赤刷で、一面トップに「終刊の辭」が掲げられ、その一部は次のようなものであった。
嗚呼 ( ああ ) 平民新聞 ( へいみんしんぶん ) は 如此 ( かくのごとく ) にして 生 ( い ) き、 如此 ( かくのごとく ) にして 死 ( し ) す、 又 ( また ) 憾 ( うら ) み 無 ( なか ) る 可 ( べ ) き 也 ( なり ) 、 否 ( い ) な 平民新聞 ( へいみんしんぶん ) の 名 ( な ) は 惜 ( お ) しからざるに 非 ( あら ) ず、 社会主義運動 ( しやくわいしゆぎうんどう ) は 更 ( さら ) に 之 ( これ ) よりも 重 ( おも ) きを 奈可 ( いかん ) せん、 盖 ( けだ ) して 聞 ( き ) く 蝮蛇 ( ふくだ ) 手 ( て ) を 螫 ( さ ) せば、 荘士 ( そうし ) 腕 ( わん ) を 解 ( と ) くと、 今 ( いま ) は 断 ( だん ) ずべきの 秋也 ( ときなり ) 、 故 ( ゆえ ) に 吾人 ( ごじん ) は 涙 ( なみだ ) を 揮 ( ふる ) ふて 茲 ( こゝ ) に 廃刊 ( はいかん ) を 宣言 ( せんげん ) す40
一年前にこの新聞を通じてモリスの社会主義に触れたのが富本であった。その廃刊に接し、富本はどのような思いを抱いたのであろうか。おそらく、中学校時代にこの新聞を一緒に読んだ嶋中雄作と、そのとき何か連絡を取りあったかもしれない。もっとも、その証拠となるものはない。しかし、少なくとも何らかのかたちでふたりの交友は、中学校卒業以降も続いていたものと思われる。嶋中は、一九一二(大正元)年九月に早稲田大学を卒業し、中央公論社に入社した。一方、のちに富本の妻となる、当時青踏社の社員であった尾竹紅吉(一枝)は、それに先立つ同年の一月に、『白樺』に掲載された南薫造と富本の「私信徃復」41を読み、単身安堵村にはじめて富本を訪ねている。そして、一年後の一九一三(大正二)年の『中央公論』一月号に「藝娼妓の群に對して」42を寄稿するのである。もしかすると、紅吉を中央公論社の嶋中に紹介したのは、富本だったのかもしれない。その一方で嶋中は、同年の七月、婦人の自覚と解放が叫ばれる状況のなかで平塚らいてうなどが起こした青鞜社の動きに注目し、主幹に就任したばかりの瀧田樗陰に進言して、『中央公論』夏季臨時増刊として『婦人問題号』の刊行へと漕ぎ着けている。これが、そののちの『婦人公論』の創刊へとつながる出発点となるものであった。翌一九一四(大正三)年一〇月に、富本と一枝は結婚した。そしてその後も、富本と妻一枝の文章が『中央公論』と『婦人公論』に三〇年代までをとおしてしばしば掲載されていくのである。これは、この間、政治や社会に対する関心が、問題意識に程度の差こそあったとしても、三人のあいだで何がしか共有されていたことを意味するのではないだろうか。
「日本社会主義唯一の機関新聞」を標榜していた週刊『平民新聞』が廃刊の道を選ばなければならなくなったとき、嶋中に会って、そのことについて論じあったかどうかは別にしても、その当時の富本の政治的信条は、明らかに、一枚の自製絵はがき【図5】に表われており、そこから推し量ることができる。この絵はがきは、一九〇五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩師の水木要太郎に宛てて出されたものである。中央に「亡国の会」という文字が並び、その下の三つの帽子に矢が貫通している。この自製絵はがきがはじめて一般に公開されたときのキャプションには、「亡国の会 陸軍・海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と官僚への露骨な反感」43と書き記されている。この年、八月に日露講和会議が開始されると、合意内容に国民の不満は高まるも、陸海軍の凱旋がはじまると、一転して市中は異様な昂揚感に沸き返った。富本のこの自製絵はがきは、ちょうどこの時期に出されている。この間、美術学校では、六月はじめには一日臨時休業して日本海海戦の祝捷会を開き、東郷平八郎大将に感謝状を贈呈することを満場一致で可決しているし、一〇月末に大沢三之助大尉が解隊され、教授職に復帰すると、その暮れには、凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅川楼で開かれている44。富本の目に、この年の一連の出来事がどのように映っていたのかは、水木に宛てた一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている。
そうした社会問題に関心を抱いていた富本にとって、『ザ・ステューディオ』をとおして美術学校の文庫で出会った工芸家モリスと、『平民新聞』などを通じて中学校時代からすでに知っていた社会主義者モリスとは、そのとき、どのようなかたちでつながったのだろうか。極めて興味のあるところであるが、それはわからない。その当時までに入手できていたと思われる知識の範囲と量から判断すると、おそらく富本にとって、モリスというひとりの人間のうちに詩と社会主義と美術とが一体となっていることの意味は、謎に包まれたままで、この時期、正確に理解することはできなかったのではないだろうか。あるいはそのこと自体が、実は、富本に想像力をかきたたせることになり、モリスへの強い関心のもとに、英国への留学を決意させる誘因となったともいえなくはない。しかしそれにしても、当時の富本のモリスに関する知識の範囲は狭すぎるだけではなく、量的にもあまりにも少なすぎ、一般的にいって、留学を決意するに至るにふさわしいものではなかったようにも思われる。それでは、何かほかに特別の知識をこの時期に手に入れていた可能性は残されていないのであろうか。
まず、ひとつ考えられるのは、この時期、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(初版は一八九七年にロンドンにおいて刊行)45を入手し、それを読んだ可能性の有無である。英国から帰国すると富本は、一九一二(明治四五)年に、二回に分けて『美術新報』に評伝「ウイリアム・モリスの話」を発表することになるが、そのときの底本に使われたのが、このヴァランスの書物であった。しかし、富本がこの本を入手したのが、美術学校に在籍していたときなのか、ロンドンに滞在していたときなのか、それとも帰国後なのか、それを確定する資料がなかった。もし、美術学校に在籍していたときにこの本を入手し読んでいたとすれば、どうだろう。美術家であるモリス、社会主義者であるモリス、そして詩人であるモリスの全体像は、この時期、しっかりと富本に把握されていたことになる。そしてもし、そうした仮説が設定されうるとするならば、その書物に触れた結果、「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したい」という強い思いのもとに、富本は英国留学を決意することになったとする説明の合理性は、明らかに一段と高まっていくことになる。もちろんその場合は、「 モリスのもの ( ・・・・・・ ) は美術学校時代に知っていた」(以下、同様に傍点は執筆者)という富本の言葉は、「 図版をとおして ( ・・・・・・・ ) モリスのもの ( ・・・・・・ ) は美術学校時代に知っていた」という意味内容に単に置き換えられるだけではなく、「 モリスについて ( ・・・・・・・ ) 書かれたもの ( ・・・・・・ ) は美術学校時代に知っていた」ことを含意するものとしてさらに読み替えられる必要性も出てくるであろうし、同じく、「夜大抵おそく迠モ ー ( ママ ) リスの傳記を 讀むで ( ・・・ ) 居る」46という、『美術新報』への投稿を前にして、富本が南薫造に書き送っている手紙のなかの文言は、「夜大抵おそく迠モーリスの傳記を 讀み返して ( ・・・・・ ) 居る」という意味を含むものとして再解釈されなければならないことになる。確かに、美術学校在籍中にヴァランスの『ウィリアム・モリス』を富本が読んだことを立証するにふさわしい明確な根拠を、現時点で利用可能な資料のなかに見出すことはできない。それでも、「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したい」という、英国留学の動機にかかわる富本自身の述懐に対してより積極的な裏づけをここで担保しようとするならば、この時期にこの本を富本が読んでいたと推断したとしても、とくに大きな障害は残らないのでないだろうか。なぜならば、最晩年に富本は、自分のイギリス留学の経緯を回顧して、こう述べているからである。
留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、……在学中に、読んだ本から英国の画家 フィ ( ママ ) スラーや図案家で社会主義者のウイリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある47。
富本のいう「在学中に、読んだ本」、これがまさしく、ヴァランスの『ウィリアム・モリス』だった可能性はないだろうか。もしそうであったとするならば、当時の富本の社会問題への関心と照らしあわせると、「図案家で社会主義者であるウイリアム・モリスの思想」は極めて鮮烈な印象を美術学生である富本に刻印したことになる。ヴァランスはその本の第一二章の「社会主義」のなかで、いみじくも、次のようなことを述べていたのである。
彼の芸術と彼の社会主義は、モリスの考えによれば、一方が一方にとって不可欠なものとして結び付くものであった。いやむしろ、単にひとつの事柄のふたつの側面にしかすぎなかった48。
モリスの考えるところによれば、社会主義を欠いた芸術もなければ、芸術を欠いた社会主義もなく、両者はまさしく、コインの裏表のような一体化された関係のうちに認められうる存在であった。もし富本がこの時期にヴァランスのこの書物を手にしていたとするならば、そのなかにみられる、こうした芸術と社会主義にかかわる記述が、間違いなく富本の目にとまったであろう。しかし、富本の在学期間中までにヴァランスのこの書物が文庫に購入された記録は残されておらず、一方、残されている記録によれば、二冊のモリス関連の書籍がそのときまでに購入されていたのであった49。
ここで注目されてよいのは、そのうち一冊の『装飾芸術の巨匠たち』のなかで、ルイス・F・デイが「ウィリアム・モリスと彼の芸術」と題した論文をとおして、モリスの主要作品について図版とともに詳しく紹介していたことである。明らかにここでの紹介は、図版の豊富さと適切さという点において、『ザ・ステューディオ』の記事やヴァランスの書物における紹介を凌ぐものであった。しかもこの論文においても、モリスの社会主義の輪郭について言及されている。果たして富本は、この論文を文庫で読んでいたであろうか。これを特定する資料も、残念ながら現時点で見出すことはできない。それにもかかわらず、英国留学の動機にかかわって、「在学中に、読んだ本から英国の……図案家で社会主義者のウイリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある」という最晩年の富本の述懐に記憶違いがないとする前提に立つならば、このデイの「ウィリアム・モリスと彼の芸術」という論文も、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』という書物と同様に、「在学中に、読んだ本」のなかに加えることができるであろうし、それが、誘因となって、図版だけでは満足できず「モリスの実際の仕事」を見るために、富本は英国留学へ向けての関心を形成していったとする推断の可能性も排除することはできないのではないだろうか。
さらに加えてもうひとつ注目されてよいのは、もう一方の書籍『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』である。これには、六つの講演録が所収されているが、そのうちのふたつが、モリスの「パタン・デザイニングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)なのである。前者は一八八二年の二月にロンドンにおいて、後者は同年の一月にバーミンガムにおいて講演されたものである。講演録であるために、図版は存在しないが、この「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」は、現在においてもモリスのデザイン思想を理解するうえでの極めて重要なテクストとなっている。当時文庫に収蔵されていたこの書籍を富本が実際に読んだかどうかを根拠だてることは、『装飾芸術の巨匠たち』の場合と同様にできない。しかし、読んでいたとするならば、週刊『平民新聞』に掲載されたモリスの「理想郷」が翻訳によって成り立っていたことを考え合わせると、モリスの実際の文章に直接触れる機会を、富本ははじめてここでもったことになる。
富本のいう「在学中に、読んだ本」とは、したがって、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』、「ウィリアム・モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠たち』、および、「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの書物のすべてであったか、そのうちの、一冊か二冊だったかの可能性が、現時点で残されることになるであろう。
こうして富本が、モリス関連の書物や雑誌を読み、また、軍人や官僚への反感を募らせながらも、一方で、「未だ題の出ない先きへ先きへと二日も三日も文庫に座り切りで[外国雑誌の図版を]寫しに寫した」、まさにそのころであろうか、学生のあいだから短歌や俳句などの文芸に対する熱が高まり、五年前に発足していたものの、休眠状態にあった校友会文学部が再興され、その第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二〇日に、上田敏と夏目漱石を招いて開催された。上田敏は、すでに『太陽』において、ラファエル前派の詩人としてモリスに言及していたし、夏目漱石は、『我輩は猫である』の発表以降、すでに小説家としての名声を博し、ちょうどこの時期、東京帝国大学と第一高等学校へ辞表を提出し、朝日新聞の紙上に「入社の辞」を公表するのを間近に控えていた。おそらく富本も、このふたりの講師に関心をもち、この講演会に出席したものと思われる。ふたりの講演内容を実際に再現することは困難であるが、漱石に関しては、その講演速記に大幅に手が加えられ、五月四日から二七回に分けて朝日新聞に連載された「文藝の哲學的基礎」から、ある程度読み取ることは可能である。このなかに、理想と技巧に触れた箇所があるが、もしこの箇所が実際の講演で述べられていたとすれば、おそらく富本は、とりわけこの部分に強い関心を抱いたのではないだろうか。漱石は、理想と技巧について、こう指摘しているのである。
……文藝は感覺的な或物を通じて、ある理想をあらはすものであります。だからして其の第一義を云へばある理想が感覺的にあらはれて來なければ、存在の意義が薄くなる譯であります。此理想を感覺的にする方便として始めて技巧の價値が出てくるものと存じます。此の理想のない技巧家を稱して、所謂市氣匠氣のある藝術家と云ふのだらうと考へます。市氣匠氣のある繪畫が何故下品かと云ふと、其畫面に何等の理想があらはれて居らんからである。或はあらはれて居ても淺薄で、猍小で、卑俗で、毫も人生に觸れて居らんからであります50。
富本は、生涯にわたって、職工と美術家を区別した。「たとえば、絵具をこしらえるとか、その絵具を巧くくっつけるとか、きれいな色を出すとかいうのは職工の仕事です。その絵具を使って立派なものを創作するのが美術家の仕事であります」51。こうした考えを富本に用意させることになった出来事のひとつが、ひょっとすると、この若き日に聴いた漱石の講演だったのかもしれない。あるいは富本は、漱石のいう「理想」を、そのとき関心を抱いていた社会主義と結び付けて考えたかもしれない。
富本はその後、漱石との面会の機会を得ることになる。そのときの思い出を富本は、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)の教授を務めていた晩年に、学生たちに語っている52。富本が漱石を訪問した時期はいつだったのだろうか。そしてそのとき、どのようなことが話題にのぼったのであろうか。漱石は、この講演会の約半年前から、毎週木曜日の午後三時から「木曜会」と称して自宅の「漱石山房」を開放し、若い文学者や学生たちと一緒に文芸や美術などを話題にした歓談を楽しんでいた。したがって、漱石の講演を聴いた富本が、その感激を胸に、ただちに単身「木曜会」に出席したという仮説も、全く考えられないことではないが、それを跡づける証拠はなく、利用できる周辺の資料から総合的に判断すると、訪問の時期は、富本が『美術新報』に「ウイリアム・モリスの話」を発表した一九一二(明治四五)年の前後のころと考えるのが、妥当なように思われる。もしそうであれば、漱石と富本の歓談は、双方に共通するイギリス生活の話題からはじまって、モリスのことへと発展していった可能性もある。もっとも漱石自身は、美術学校での講演の翌月に刊行された、東京帝国大学での講義の記録である『文學論』のなかでは、前任者のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と異なり、モリスに関しては「Wm. Morris」という名前のみしか言及しておらず、それを考えると、モリスについての関心はそれほど大きいものではなかったにちがいない53。しかし、富本を漱石に紹介したのは、橋口五葉のあとを継いで漱石の著作の装丁をまかされると同時に、漱石に絵の個人指導をすることになる津田青楓だったのではないかと推量され、もしそれが正しければ、そうした装丁談義の文脈のなかにあって、モリスが顔を出していた可能性もある。というのも、漱石にとっての二冊目の著書となる、短編集『漾虚集』の装丁にかかわって、江藤淳が次のようなことを述べているからである。
扉と目次、カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは橋口五葉、挿絵を描いたのは中村不折で、漱石はその出来栄えに大層満足であった。いうまでもなく、『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたのは漱石自身の意図で、彼はこの本をその頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに試みられていたような、文学と視覚芸術との交流の場にしたいと思っていたのである54。
『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は、実際には、モリスが亡くなってすでに一〇年が経った時期であり、したがって、「その頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試みられていた」とする江藤の指摘は、内容は別にしても、時期については明らかに誤認なのではあるが、しかし、江藤が述べているように、このころからモリスの例に倣って漱石の装丁への関心が高まっていたとするならば、そしてまた、その翌年の講演の場所が美術学校であったということを考慮に入れるならば、確かにその形跡は「文藝の哲學的基礎」には残されていないものの、その講演のなかでモリスの本づくりについて触れられることが仮にあったとしても、何ら不思議ではなかったし、さらには、その後の「漱石山房」での歓談のなかにモリスが話題として登場していたとしても、それはそれとして、これもまた、とくに不思議なことではなかった。なぜならば、ちょうどその時期、津田と同じく富本の関心も、書籍装丁の仕事へと向かいはじめており55、漱石の関心と直接つながるものだったからである。あるいはまた、時期が重なっていることを考え合わせると、逆に、漱石との会話をとおして、富本の書籍装丁への関心はこのとき一段と高まったのかもしれない。
漱石が美術学校で「文藝の哲學的基礎」と題として講演したちょうど一箇月前の一九〇七(明治四〇)年三月二〇日から、上野公園内に設けられた三つの会場で東京府の主催による勧業博覧会が開催された。漱石は、朝日新聞入社後の第一作として、この年の六月から『虞美人草』を連載し、そのなかに、夜のイルミネイションに照らし出されたこの博覧会の情景を巧みに取り入れることになる。一方富本にとっては、この博覧会が、いわゆる処女作の公開の場となった。展示会場の「東京勧業博覧會美術館は、第一號館の東に位し、面積七百四坪あり、工學士新家孝正氏の設計にして、ローマン、レナイサンス式の建築」であった56【図6】。「中央より南半分を日本畫陳列場とし、北半分の東を西洋畫及圖案部、西を彫刻物其他の陳列場」57にあてられた。したがって、このときの富本の出品作品である《ステーヘンドグラツス圖案》【図7】は、この美術館の北半分の東側に陳列されたことになる。
この博覧会の出品部門は一九部門に分かれ、第二部(美術および美術工芸)と第三部(建築図案および工芸図案)の監査は、このふたつの部門をとおして、便宜上第一科の東洋画から第一二科の工芸図案に分けて行なわれた。全体としての監査数は一、九九〇点、そのうち合格数は八四三点であり、第一一科の建築図案に限れば、監査数、合格数ともに五点で、第一二科に限れば、監査数一九九点、合格数は一四一点であった。美術学校校長の正木直彦が両部門全体の審査部長を務め、第一一科の審査の主任を塚本靖が、第一二科の主任を福地復一が担当した58。塚本は、渡欧のために解嘱される一八九九(明治三二)年まで、美術学校で「用器畫法」「建築装飾術」および「建築装飾史」の嘱託教員を務めた人物で、一方福地は、「……明治二十九年本校[東京美術学校]図案科初代教授となったが、校長岡倉覚三と対立して辞職し、同三〇年に帝国図案社を設立して各種図案の注文に応じ、……[一九〇〇年のパリ万国博覧会からの帰国の]翌三四年三月には彼は風月堂米津常次郎とともに、パリから持ち帰った美術品、工芸品、諸種の印刷物の展覧会を開き、アール・ヌーヴォーを紹介した」59人物であった。もっとも、富本の作品が何か賞を受けた形跡は、『東京勧業博覧会審査全書』には残されていない。
さてそれでは、富本は、出品作である《ステーヘンドグラツス圖案》をどのようにして製作したのであろうか。後年富本は、自分が美術学校時代に受けた教育を振り返り、次のように述懐している。
……私は半年ほどのうちに入学はしたがいやになった。その気持ちを今から推して考えてみると、教える人がその実技を一度も経験したことのない図案家という人であり、その教えることが実技から遊離浮動していたことが原因であったらしい。……それで知らないことを堂々とよくも教えたと思う60。
この引用からもまたわかるように、富本は、学生時代の教育に少なからぬ不満や反感を抱いていた。したがって、この博覧会へ出品を決意したときも、学外への出品であったにもかかわらず、製作へ向けての指導を教師たちに仰ぐようなことはなく、独力で完成させようとしたのではないかと推測される。そこで富本は、授業での課題製作のときと同じような要領で、何度も文庫に足を運び、自分の作品の図案に取り入れるのにふさわしい図版を探し出すために、必死に外国雑誌に目を通したものと思われる。そして最終的に選択されたものが、『ザ・ステューディオ』のなかのエドワード・F・ストレインジの「リヴァプール美術学校のニードルワーク」61において使用されていた図版【図8】と、同じく『ザ・ステューディオ』のなかのJ・テイラーの「グラスゴウの美術家・デザイナー――E・A・テイラーの仕事」62において使用されていた図版【図9】であったにちがいなかった。前者の作品は、フローレンス・レイヴァロックの《アップリケと刺繍によるハンド・スクリーン》である。「ハンド・スクリーン」とは、うちわのことであり、製作者はリヴァプール美術学校の女子学生であった。当時、ロンドンにあった王立ニードルワーク学校を別にすれば、地方にあっては、このニードルワークの分野では、校長のF・V・バレッジの指導のもとにリヴァプール美術学校が優れた教育成果をあげていた。後者の作品は、E・A・テイラーの《ステインド・グラスの窓のためのデザイン》である。製作者のテイラーは、一八七四年の生まれで、おそらくグラスゴウ美術学校で学び、C・R・マッキントシュの友人でもあった。一九〇一年のグラスゴウ国際博覧会では、グラスゴウの家具製作会社が展示に使う居間のデザインを手がけ、翌年のトリノ博覧会では家具やステインド・グラスを出品している。今日、控え目で繊細な彼のデザインは、マッキントシュの手法の完成版としてみなされている。
富本はまず、《アップリケと刺繍によるハンド・スクリーン》の図版の上に紙を置き、手前の女性を引き写し、写し取られた女性を、《ステインド・グラスの窓のためのデザイン》のなかの女性のイメージへと少しずつ手を加えていき、さらに、右上の余白に ‘GATHER Ye ROSES WHILE Ye MAY’ の文字列を二行に分けて配置することによって、基本となる構図を完成させたのではないかと考えられる。次に富本は、このヴァースの意味にふさわしく、女性の左手にバラの花をもたせ、女性の身体の律動的な動きにあわせて、新たに孔雀らしき尾の長い二羽の鳥を一体化させながら、うら若き美しい乙女を象徴する作品へと、さらに全体と細部とを調整し、ステインド・グラスにふさわしい最終的な図案をつくり上げていったものと思われる。
明らかに、この作品に使用されているヴァースは、一七世紀に活躍したイギリスの詩人、ロバート・へリックの韻文「乙女らに――時のある間に花を摘め」からの引用であり、その第一連は下に示すとおりである63。
Gather ye rosebuds while ye may, Old Time is still a-flying: And this same flower that smiles to-day, To-morrow will be dying. (Robert Herrick, “To the Virgins, to Make Much of Time”) 時のある間(ま)にバラの花を摘むがよい、 時はたえず流れ行き、 今日ほほえんでいる花も 明日には枯れてしまうのだから。 (へリック「乙女らに――時のある間に花を摘め」)
ここでひとつの疑問が発生する。それでは富本は、どのようにしてへリックの詩を見出したのであろうか。おそらく詩集なり書物なりを参照したと思われるが、それが何であったのかを特定することはできない。しかし、E・A・テイラーの別の作品に、ステインド・グラスの窓のための水彩画《時のある 間 ( ま ) にバラのつぼみを摘むがよい》(寸法は一五・七×一五・八センチメートル。製作年については、この作品を所蔵しているグラスゴウ博物館群のファイルには記載されていないが、一九〇四年ころと推定されている。)【図10】があり、それには、バラの花に囲まれた乙女の左右に ‘GATHER YE ROSEBUDS WHILE YE MAY’ のヴァースがふたつに分割され、配置されている。この作品は、『ザ・ステューディオ』で紹介された形跡はなく、もし富本がこの作品を別の外国雑誌なり、資料なりで見ていたとすれば、そこから引用した可能性もある。
富本の作品のなかに認められるこのヴァースについて、さらに次の二点を指摘しておかなければならない。ひとつは、原文の ‘ROSEBUDS’(バラのつぼみ)から ‘BUD’(つぼみ)が抜け落ち、単に ‘ROSES’ となっていることである。富本にとって何か特別の意味があったのかもしれないが、表記上の単純なミスの可能性もある。あるいは、予定していたスペースに、うまく配置することができなかったために、やむを得ず、部分的な削除が行なわれたのかもしれない。もうひとつは、‘WHILE’ の文字に関してである。そのなかの ‘LE’ の処理の仕方、つまり ‘L’ のもっているスペースに ‘E’ を入れ込むような手法は、マッキントシュの手法として一般的によく知られていたが、マッキントシュだけに限らず、文字に精通し、スペーシングを意識した人びとのあいだにあっても当時広く見受けられた用法であった。富本は、『ザ・ステューディオ』などの英字雑誌のなかにもしばしば現われていた、こうしたアルファベットの文字表現の細部に対して、あるいは文字そのものの図案化へ向かう当時の傾向に対して、注意深い視線を向けていたことになる。そして、そうした観察と影響は、その後、たとえば、卒業製作の作品のなかで使用される文字や、英国留学を前にしてロンドンにいる南薫造に宛てて出された書簡の封筒の表書き【図11】などに、さらに引き継がれていくことになるのである64。
いまひとつの疑問は、乙女の前後に配置されている二羽の鳥についてであるが、これを描くために富本が典拠した図案は何だったのであろうか。その鳥が孔雀であれば、その当時ヨーロッパで流行していた代表的な装飾モティーフのひとつであり、一九〇〇年のパリ万国博覧会以降、美術学校のなかでもアール・ヌーヴォーに対する熱気が漂っていた65こととあわせて勘案すると、意外にも身近なところにそのインスピレイションの源はあったのかもしれない。ただ、鳥の顔の表情に限っていえば、あたかも、七世紀末期の『リンデスファーンの福音書』や八世紀後半の『ケルズの書』のなかに描かれている素朴で単純化された鳥の目の動きを彷彿させるような図案となっている。
こうして富本の東京勧業博覧会への出品作は、他人の作品から主たるインスピレイションを得て、どうにか形をなすことになったわけであるが、しかし、この作品の製作をとおして、結果的に富本は、その後の製作上の伏線となる、ステインド・グラスに対する関心、作品の一部に文字を使用する手法に対する興味、そしてさらには、うちわを利用した作品への共感といったものへの手がかりを自らの力で引き出すことになったのではないだろか。それこそが、あえていえば、この時期の富本にとっての確かな成果となるものであった。
この東京勧業博覧会には、マンドリンのサークルを通じて友情を育んでいた南薫造も出品していた。《花園》と題された小品で、生い茂る草木に囲まれた、ふたつの煙突をもつ古い一軒の家を描いたものだった【図12】。この作品の出品に先立って、南は、自分のヨーロッパ留学について思いを巡らせはじめていた。岡本隆寛によると、「……[南は]美校時代の日記に卒業を間近にひかえた明治三九年一二月に、学友と一緒に正木校長、黒田清輝、岩村透を訪ね留学先について相談したことを記している」66。したがって、この作品は、留学を控えた南の準備作品ともいえるもので、ここに描かれている情景は、すでにヨーロッパの片田舎に対する南の憧れが反映されているのかもしれない。博覧会の会期は七月三一日までであったが、もう夏休みに入っていたのであろう、南は安堵村の富本を訪ねている。「古びた北の 六畳 ( ママ ) 」67で、ふたりは語りあった。話題は、ヨーロッパのこと、美術の行く末、そして帰国後の将来などなど、おそらく尽きることがなかったであろう。そして南は、七月二四日、横浜港から博多丸に乗り込み、イギリスへ向けて出航することになるのである。残された富本の胸の内は、どのようなものであったであろうか。文庫に入って外国雑誌をせっせと引き写すだけの図案学習、手本として実作を示すことのない教師たち、社会主義への官憲による弾圧、日露戦争後の凱旋に酔いしれる国民、いずれをとっても、富本には不満だっただろう。そして何よりも、中学校時代から関心を抱いていたウィリアム・モリスの存在が気にかかっていた。富本の英国留学への関心も、こうして徐々に高まっていったものと想像される。
それに加えて、すでに引用によって紹介したように、卒業製作を早く提出して海外へ留学しようとした背景として、「徴兵の関係があったので」と富本は述べており、このことについても、注意を払わなければならない。
徴兵令は一八七三(明治六)年に制定されたのち、一八八三(明治一六)年の改正を経て、一八八九(明治二二)年には本格的な大改正が行なわれ、一段と厳しい国民皆兵制となっていた。しかし、この改正徴兵令にも、若干の徴集の延期や猶予(事実上の兵役免除)は残されていた。「第三章 免役延期及猶予」の第十七条から第二十二条までがそれに相当する68。特定の階層に属する若者たちのあいだでみられた、そうした免役条項をうまく利用して徴兵を避けようとする試みは、当時決してめずらしいことではなかったようである。たとえば、漱石は、一八九二(明治二五)年に、徴兵を避けるために「分家届」を出し、「北海道後志国岩内郡吹上町一七 浅岡方」に籍を移し、北海道平民になっている69。また、富本より二歳年上で、一九二一(大正一〇)年に文化学院を設立することになる西村伊作は、日露戦争時、召集令状に対して病気と偽り「不応届」を出すと、神戸からシンガポールへ渡航している70。その後にあっては、一九一〇(明治四三)年に、「大逆事件」に関連して西村家は家宅捜索を受け、叔父の大石誠之助は、翌年処刑されている。富本一家が新宮の西村家に約一箇月間滞在し、交流を深めるのは、一九一七(大正六)年のことであった。
本人が述懐しているとおり、富本の心になかにも、徴兵を免れたいと思う気持ちがあった。そしてこの理由が、外国留学を家族に説得するうえでの最も有効な材料になったのではないだろうか。さらにいえば、「美術家としてのモリス」は別にしても、「社会主義者としてのモリス」を研究するという渡航目的は、どう見ても、家族に理解してもらえるものではなかったであろう。そのために、「社会主義者としてのモリス」も「イギリス」も、あえて伏せたうえで、美術家の留学先として当時一般的であった「フランス」を持ち出し、家族の了解を得ようとしたのではないだろうか。富本が、「フランスに行くとごまかしてイギリスに行った」と述べていることには、おそらく、そのような富本固有の事情が関係していたものと思われる。いずれにしても、どの国に行こうとも、富本にとって海外へ留学をするということと、徴兵を逃れるということとは、表裏をなすものであった。おそらく南薫造にも、そのことはあてはまったのではないだろうか71。
南が日本を立った夏以降、富本も自分の英国留学を真剣に考えるようになっていた。しかし、南と違って、教師たちに相談した形跡はない。そしてついに、自分の思いを家族に切り出す時期が来た。それは、その年の冬休みに安堵村の実家に帰省していたときのことであった。そのときの帰省の主な目的は、妹の問題を話しあうためであった。おそらく、結婚の問題だったのではないだろうか。以下の複数箇所の引用はすべて、一九〇八(明治四一)年一月八日付の富本が南に宛てて書き送った長文の書簡からの抜粋である72。
僕は此の冬妹の話や何かで歸国した。火桶を囲むで幾度相談したって話がマトマラヌ。かへって問題外の僕の方が早くカタヅイた。祖母存生中に外国へ二年三年なる可く早く歸る約束で留学する事をゆるされた。
意外にも、すんなりと留学の話は家族の同意を得ることができた。よほどうれしかったのであろう。思いは、すぐさまロンドンに住む南のもとへと飛ぶ。
何うなるか知れぬが来年夏あたりストリートとかコートとか云はなければ話の通ぜぬ地球の一隅で君と手を握り合う事が出来るか。?
そして、古い八畳間に寝転がり、高い天井を見詰めていると、いまロンドンで南は何をしているのかが頭に浮かぶ。そして続けて、自分のロンドン生活について次のような具体的な質問をしている。
次の便でたづね度き事は、(失礼なれど) 一ケ月何程の金かゝり候哉、 建築図案を研究するに僕等の様なものに良き方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後) 細かき事は畧して二ツだけ教えて呉れ給え。
最後に富本は、この書簡を次の一首で締め括るのである。
漫ろ歩き三笠に月のうた歌ひ 仲麻呂思ひ君思ふ夜や。
こうして富本は、英国留学の願いが叶い、冬休みが終わると再び上京し、学校へもどることになった。この書簡のなかには、「夜だけ語学に費やす心算で拾一日に東京へ上る」と記されている。
ちょうどこのころ富本は、東京勧業博覧会へ出品した《ステインド・グラス図案》に続く、学生時代の二作目となる製作に取り組んでいる。それは、松村豊吉編集になる『翠薫遺稿』の装丁であった。「 翠薫 ( すいたい ) 」とは、遠山正蔵の雅号で、「今村勤三の慫慂を受け、同[明治]三十六年の[奈良]県会議員選挙に出て当選、県会議員として、竜田の名勝保存など地域の文化振興に意を注いだ」73文人肌の政治家であった。
ところで、富本憲吉の父の豊吉は、一八九七(明治三〇)年三月に死去し、憲吉は一〇歳にして家督を継いでいる。そのとき、憲吉の後見人として富本家から依頼を受けた人物が、遠山正蔵であった。「この人は明治九年(一八九六)生まれ、憲吉より一〇歳年長だが、当時まだ二〇歳そこそこの青年である。実をいうと、彼も生後間もなく父を亡くしており、憲吉の父親豊吉が、この遠山正蔵の後見人となって育てたいきさつがある」74。
また、富本は一八九九(明治三二)年に郡山中学校に入学しているが、そのときの教頭が、水木要太郎であった。水木家略年譜によると、水木は、一八八七(明治二〇)年に東京高等師範学校を卒業すると、幾つかの学校の教員を歴任したのち、三〇歳になる一八九五(明治二八)年に、奈良県尋常中学校(郡山中学校)の教諭に着任し、同年には、奈良の地方史に関するふたつの著作を著わしていた75。水木は、博学多才で、多芸多趣味の人であったらしく、その周りには、水木を慕う若者たちが集まるようになった。遠山は、それを「不得要領會」と称し、水木宛に会則を送っているが、そのなかで、その会員として「岩井、今村、松村、富本、遠山」の名前が挙げられている76。
この『翠薫遺稿』は、遠山が亡くなった一周年祭にあわせて、水木との相談のうえで、私家版として一九〇八(明治四一)年一月に発行された。ちょうど富本が海外留学の問題を抱え安堵村に帰省していた時期と重なる。「不得要領會」の会員であった松村豊吉が編集を務め、その装丁の仕事が、会員でもあり、美術学校の学生でもあった富本に依頼されたものと思われる。
この表紙のデザインが【図13】である。編者の村松は、その「はしがき」の末尾に、この本の装丁にかかわって四つの箇条書きを付け加えている。そのなかで、まず、「表装意匠は富本憲吉氏の考案になれり」と述べ、表紙についの説明として、「エジプト人は死に對して雄大無窮の感を抱くより石材に死せり人の名と紋所を彫するを選む」を書き記したうえで、石工がいま彫っているのが遠山氏の紋所であり、その上の横列の文字が、「エジプト文字で遠山なる語」を示していると解説している77。富本は、ピラミッド内部の石室に想を得て、横たわる死者の傍らで石工が壁面に向かって家紋を彫り刻んでいる場面を図案化したものと思われるが、すでに彫られている「エジプト文字で遠山なる語」は、どれほど正確なものだったのであろうか。これについて、山本茂雄は、次のように述べている。
[大阪の]千里で大英博物館展を見る。「ヒエログリフ入門」を館内売店で購入。……これによって長年の宿題を解くことが出来た。 題と云うのは、[富本]憲吉先生の本の装丁の第一号である筈の「翠薫遺稿」に使用してある……エジプト文字が、憲吉先生ので、云う如く正しく「遠山」を表記しているのかどうかと云う点である。憲吉先生一流の洒落で、それらしくデタラメを並べられたのではないかと云う疑いが晴れずにいた。結論的にはデタラメをではなかったが、誤った表記になっていた。…… しかし、美術学校在学中の先生が、エジプトに強い関心を持ち、ヒエログリフの知識も聞きかじっておられたことが想像できる78。
確かに、東京勧業博覧会へ出品したときの作品にも、旺盛な文字への関心が見受けられたが、この作品では、アルファベットから、エジプト文字へと関心が移り、その広がりを見せている。一方で、さらに想起しなければならないことは、富本が美術学校を選択した動機が、すでに引用によって示したように、「石彫りに心を動かし、自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあった」ということである。この作品のモティーフを見ると、石を彫ることへの関心が、入学以来、持続していたようにも思われる。英国留学から帰国すると、富本は、さらに今度は、焼き物と同時に木版画や装丁にも強い興味を示すことになるが、「石を彫る」ことから「版木を彫る」ことへと転じながらも、この間、「彫る」ことへの関心が一貫して維持されていたと考えられなくもない。また、書籍の装丁という意味においては、すでに山本が指摘しているように、この作品が、富本にとっての事実上の第一作となるものであった。この作品は木版画ではない。しかし、あえて推量のもとにこの作品を解釈することが許されるならば、土を「加える」ことによって成り立つ焼き物と、石を「彫る」ことに類似して、版木を「彫る」ことによって成立する木版画とは、方向性を異にする製作方法であるように考えられるが、そうした問題に対するおもしろさについても、この作品の製作を発端として、徐々に富本の造形感覚のなかにあって、この時期、萌芽しようとしていたのではないだろうか。
さらにここで指摘されなければならないことは、この作品が、当時のヨーロッパ文化とは異なる、別の文化への関心を体現しているということである。『ザ・ステューディオ』などの外国雑誌をとおして日常的に目に触れていた文化だけではなく、それ以外の文化に対しても、富本の目は確かに開かれており、その後にあっても持続的に引き継がれていく。それを考えると、そうしたもうひとつの異文化への眼差しも、同じくこの時期に、富本の視野のなかにあって、芽生えはじめようとしていたといえるかもしれない。それにしても、どのようにして富本は当時、エジプト文字に関心をもつようになったのだろうか。その経緯や理由は、いまのところ謎のままとなっているし、さらには、その二年後に、実際に富本がエジプトの地に足を踏み入れることになろうとは、そのとき誰が予想しえたであろうか。
おそらく富本は、この『翠薫遺稿』の仕事を終えると、予定どおり一月一一日に上京したであろう。上京すると、夜は、英語の勉強に費やしたものと思われる。そうするうちに、夏休みも終わり、卒業製作の時期を迎えた。富本の回想するところによると、「私たちの美術学校時代には卒業制作期というものがあった。つまり卒業前年の九月から翌年三月までは学科をやらず、制作にかかりきるわけである。……そこで、[図案科に属する]建築部の私は、夏休み、家に帰ると、さっそくアトリエ付き小住宅の設計にかかり、九月、学校へ行って下図を先生に見せた。担任は岡田信一郎先生で、……この先生に作図を示して『これで卒業させてくれますか』と聞くと、『よろしい。ちゃんと仕上げたら卒業させよう』といってくれた。これをもとに私はだれよりも早くどんどん制作を進めて行った。そして十月にはワットマン全紙(畳一枚よりは少し小さい)に十何枚も室内や細部の図面を描きあげた。……卒業制作を急いだのは、実は、かねて私費で海外留学のもくろみがあったからである」79。こうして富本の卒業製作は、人より早く卒業を前にして完成した。
この作品は、東京藝術大学大学美術館で公表されている限りでは、富本のいう「十何枚」から構成されていたのではなく、家屋全体の外観が描かれた透視図【図14】、一階平面図 (SHEET 2)【図15】、二階平面図 (SHEET 3)【16】、四方向からのそれぞれの立面図 (SHEET 4-7)、断面図 (SHEET 8)【図17】、そして詳細図としての、一階ホール (HALL) の窓に使用するステインド・グラス案 (SHEET 9)【図18】の合計九点から構成されており、そのすべてに、英文で《DESIGN FOR A COTTAGE》の表題と「1909」という製作年が記載されている。縮尺は、一階平面図 (SHEET 2) から断面図 (SHEET 8) までがすべて五〇分の一で、ステインド・グラス案 (SHEET 9) が二分の一となっている。間取りの特徴として、実際には富本のいう「アトリエ付き小住宅」とは異なり、一階の居間 (DRAWING RM) に連続させて、舞台 (STAGE) のついた音楽室 (MUSIC RM) が設けられていることを挙げることができる。そして、それに関連して壁面にも富本らしい特徴を見出すことができる。一階ホールの玄関 (PORCH) 側壁面の下部に暖炉 (INGLE) が備えられているが、断面図 (SHEET 8) をよく見ると、音楽家の家にふさわしく、この暖炉の上部パネルに、ひとりの男性がマンドリンのような楽器を抱きかかえて座っている場面が描かれており、この壁面パネルに描かれた、横に長い一枚の装飾用の絵が、富本の作品をさらに特徴づけているのである【図19】。
以上が、簡単なこの作品の概要と特徴であるが、さらに個別に幾つかの点を指摘することができる。
まず、この作品の表題についてである。これまでこの作品は、《音楽家住宅》とか、《音楽家住宅設計図案》などと、異なった幾つかの名称で呼ばれてきた。おそらくこの住宅が音楽室をもっていることが理由となって、そのように呼ばれてきたものと思われる。しかし、富本の作品のなかには《DESIGN FOR A COTTAGE》の表題しか書き残されていない。富本の学年の卒業式は、富本が卒業製作を提出し渡英した翌年の三月二七日に構内会議室において開催され、あわせて成績品展覧会が縦覧された。そのときの「卒業生姓名及卒業製作」を再録した『東京芸術大学百年史』のなかには、「音樂家在宅設計圖按 本科 富本憲吉」と記載されている80。このことから判断すると、渡航前に富本自らが学校へ題目届を提出したのか、その後の提出の時期に誰かが代わりに提出したのかはわからないが、いずれにしても、届けられた題目は《音樂家在宅設計圖按》だったことになる。しかし、同じく『東京芸術大学百年史』のなかに記されている、図案科同期卒業生の寺尾熈一の作品名は《畫家住宅設計圖按》となっており、「在宅」は「住宅」の単純な誤記の可能性もあり、その場合は、《音樂家住宅設計圖按》が正式名称だったことになるだろうし、一方、あくまでも作品のなかに記載されている表題に忠実であろうとするならば、《DESIGN FOR A COTTAGE》が、とくに英語で表記を行なおうとする場合、正式な作品名となるのではないだろうか。また、実際にこの作品が製作され完成したのは、一九〇八(明治四一)年の秋のことであった。作品のなかに製作年として「1909」の文字が認められるのは、卒業式が行なわれる実際の卒業年である、翌年の西暦年をあらかじめ書き記したものと思われる。
次に検討しなければならないのは、この住宅が音楽家のための住宅であったということである。前述のとおり、富本はマンドリンのサークルに属していた。おそらくそのことが、このテーマを選んだひとつの大きな理由だったのではないだろうか。すでに紹介したように、富本は「学校へはあまり顔を出さず、年中、下宿にとじこもってマンドリンをひいてばかりいた」。このことをここで想起するならば、暖炉の上部パネルに描かれた、楽器を抱えた、一見孤独そうにも見える男性は、富本その人を表わしているのかもしれない。とはいえ、こうした芸術家の住宅をテーマにした設計は、必ずしも富本個人のみに帰属するような特殊なものではなかった。
この時期イギリスにあっては、「田園への回帰」や「簡素な生活」が、とくに工芸家たちのあいだでひとつの生活信条となっており、アーツ・アンド・クラフツの新しい実践形態になろうとしていた。たとえば、一八九三年には、アーネスト・ジムスンがバーンズリー兄弟とともにコッツウォウルズに移り住んで家具製作を再開しているし、一九〇二年には、C・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校が、総勢約一五〇人のギルド員とその家族とともにイースト・エンドからチッピング・キャムデンへ移転し、遅れて一九〇七年には、エリック・ギルが自分の工房をロンドンからディッチリングの村へと移動するのである。
したがって、こうした田園生活を愛する建築家や工芸家たちの信条の高まりを受けて、『ザ・ステューディオ』においてもまた、当時この種のテーマに関連する記事が頻繁に掲載されることになる。‘Cottage’ ‘Suburban House’ ‘Village Architecture’ ‘Domestic Architecture’ ‘Picturesque Cottage’ ‘Country House’ ‘Week-End Cottage’ ‘Country Cottage’ に関する記事までをも含めるとその数は膨大なものになるが、美的な住宅や芸術家のための家に限定したとしても、たとえば、J・B・ギブスンが執筆した「美的な住宅」81、C・F・A・ヴォイジーがデザインした「芸術家のコテッジ」の紹介記事82、さらにはM・H・ベイリー・スコットの執筆による「芸術家の家」83などが、この雑誌のなかに散見され、おそらく富本も、いつものように文庫に入り、頻出するこうした記事と図面が掲載された頁をめくりながら、参照すべきものを食い入るようにして探し求めていたのではないだろうか。明らかに富本だけでなく、イギリスの美術やデザインの動向に関心をもつ、当時の美術学校の多くの学生たちにとっても、この『ザ・ステューディオ』が貴重な情報源としての役割を果たしていたであろうし、彼らは、それを栄養分として自らの製作に反映させていったものと思われる。
三番目に指摘されてよいのは、一階平面図 (SHEET 2) にみられる細部の表現についてである。富本の一階平面図を見ると、樋を伝わって流れ落ちる雨水を貯めるために戸外に設置された ‘TANK’ の位置までもが正確に描かれている。平面図にこのことまでをも記載することは、当時は必ずしも絶対的必要要件ではなく、むしろ例外的であったようである。そうであるとすれば、それは、旺盛な富本の細部への関心と注意力を物語っているのではないだろうか。それと同様のことが、玄関から入ったホール左手の暖炉についてもいえる。暖炉を設置すること自体は決してめずらしいことではなかったが、一般には、これは、‘Fireplace’ という名称で呼ばれていたようであるし、あえて、平面図のなかにその名称を記入しなければならないものでもなかったらしい。しかし富本は、それを ‘INGLE’ という名称でもって表記している。正式には ‘INGLENOOK’ であろうが、この表記は、富本が幅広く英文資料を渉猟し、そのなかから用例を探し出し、自分の作品に転用したものではないかと思われる。富本の細部に対する関心と注意力は、このようなところにも、その痕跡をとどめていると見ることができるであろう。この ‘INGLENOOK’ については、大沢三之助が、帰国後の一九一二(明治四五)年に発表する「ガーデン・シチーに就て」という論文をとおして、その後詳しく紹介することになる84。
さらに四つ目として、富本の作品にみられる文字の表現についても、若干ここで触れておきたい。建物全体のデザインは、マッキントシュの影響の痕跡はほとんど認められず、あえていうならば、むしろベイリー・スコットの作風に近いものを感じさせる。一方、この卒業製作に表われている文字のデザインが、全体としてマッキントシュの手法や、レイモンド・アンウィンやC・F・A・ヴォイジーなどのような建築家の表現に幾分近似しているように思われることは、富本が東京勧業博覧会に出品した作品《ステインド・グラス図案》を分析した際にすでに指摘したが、ここでは個々の文字表現について、その特徴のあらましを簡単に述べてみたいと思う。
ひとつの特徴は、前述のとおり、富本の卒業製作は計九点の図面と図案から構成されているが、一枚目の透視図で外観が描かれた作品のなかの文字については、カッパープレート体の文字が使用されており、残りの八枚 (SHEET 2からSHEET 9) を見ると、SHEET ナンバーの表示と表題《DESIGN FOR A COTTAGE》に使用されている文字には、その当時の建築図面にしばしば見受けられるような、ローマン体を変形してアウトライン化した文字が用いられていることである。もうひとつの特徴は、これは一例に過ぎないが、‘DESIGNED ■ DRAWN BY K・TOMIMOTO’【図20】のなかの、‘S’ ‘N’ ‘E’ に関する細部の文字が、あえていえば、いわゆるグラスゴウ流儀に倣ってデザインされていることである。そして三番目の特徴として、本来、■の部分には、‘AND’ ないしは ‘&’ が使われるべきところであるが、この箇所に、富本独自のデザイン化された一種のモノグラム(ないしは、マークと呼ばれるもの)が挿入されていることを挙げなければならない。もっとも、モノグラムやマークそれ自体については、当時のひとつの流行でもあり、『ザ・ステューディオ』のなかにあっても紹介されていた経緯はある。しかし、いずれにしても、この九点から構成される富本の卒業製作には、多様な文字やモノグラムにかかわる習作が含まれており、総じていえば、まさしく富本にとってこの卒業製作は、文字デザインの実験の場ともなっているのである。帰国後の富本の作品には、しばしば、アルファベットを含めて文字が表現の重要な要素として用いられることになるが、図案化を含め文字そのものに対する富本の並々ならぬ関心が、すでにこの時期から芽生えていたといえるのではないだろうか。
最後に、一階ホールの窓に用いることが想定されてつくられたステインド・グラス案 (SHEET 9) について。いうまでもなくこの作品は、ステインド・グラスのための図案としては、前作の《ステインド・グラス図案》に続く、富本にとっての二作目にあたる。しかし、主題はもはや人物から船へと変化している。全体の透視図から判断すると、富本の作品にみられるこの一軒のコテッジは、自然に恵まれた、とあるイギリスの郊外か田舎の、美しい山々と広々とした緑の草牧に囲まれた敷地に建設されることが想定されているように見える。一方、ステインド・グラス案を見ると、大海原を一杯に風を受けて走る帆船がモティーフとして選ばれている。大海の帆船をモティーフにしたデザインは、この時期、ウィリアム・ダ・モーガンのタイルにしばしば適応されているし、また『ザ・ステューディオ』のなかにも、そうした帆船に想を得たステインド・グラスのための図案が確かに認められる。しかし、それはそれとして、富本はこの作品をとおして、山と海を対比させようとしたのではないだろうか。論証を抜きにして、連想を伴った自由な解釈がここで許されるならば、果たしてこうした一種の詩的な解釈に妥当性があるかどうかは別にして、具体的にいえば、設定されている敷地は、富本の生まれ育った自然の美しい大和の安堵村がイギリスの地に置き換えられたかのように見えるし、一方帆船は、まさしくこれからイギリスへ向けて航海しようとしている富本自身を乗せた、荒波を突き進む一艘の船をイメージしているかのようにさえ思えてくる。
それはそれとして、すでに引用により示したように、最晩年に富本は自分の英国留学の目的について、「図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかった」一方で、「室内装飾を勉強することだった」と述懐している。おそらく、卒業製作であるこの《音楽家住宅設計図案》や前作の《ステインド・グラス図案》と『翠薫遺稿』の装丁の実製作をとおして、「室内装飾」への関心が一段と高まり、このことが、富本を英国にかりたてるひとつの誘因になったものと思われる。
かくして富本の英国留学の準備はすべてあい整った。すでに本稿の冒頭で紹介したように、富本が、「普通の美術家と違い留学地をロンドンに選んだのは、当時ロンドンには南薫造、白滝幾之助、石橋和訓のような先輩がい、大沢三之助先生が文部省留学生としておられたので、指導してもらうに好都合のため」であった。それでは、美術学校時代から深い友情で結ばれていた南薫造は別にすると、ここに名前が挙がっている白滝幾之助、石橋和訓、大沢三之助の三人は、富本が日本を離れる時点までにあって、どのようなかたちでロンドンの地に足を踏み入れていたのであろうか。
富本より一三歳年上の白滝は、美術学校卒業から数年がたった一九〇四(明治三七)年五月に、渡米の途についている。そして自らが出品していたセント・ルイス万国博覧会を見学すると、ニューヨークへ移り、そこで苦学しながら絵の勉強を行なう。イギリスに渡るのは、一九〇六(明治三九)年の秋のことであり、その後パリにおいて画業に励み、再びロンドンにもどるのが、一九〇八(明治四〇)年のはじめのころであったった。このとき白滝は一時高村光太郎と同宿しているが、ここから、白滝と南のロンドンでの交友がはじまることになる。石橋は、美術学校の卒業生ではない。富本よりちょうど一〇歳年長で、富本が美術学校に入る前年の一九〇三(明治三六)年に渡英している。南は一九〇七年(明治四〇)年九月にロンドンに着いているので、石橋と南の交流も、それ以降のこととなる。石橋は、文部省主催の美術展覧会である、いわゆる「文展」に一九〇八(明治四一)年と翌年にイギリスから出品し受賞している。一方大沢は、一九〇七年(明治四〇)年一月に米国渡航の途に上ると、同年三月に渡英し、翌年八月には、ロンドンで開催された第三回万国美術会議に出席している。したがって、南の到着以前にすでに大沢はロンドンにいたことになる。
以上が、富本が渡英する以前の白滝、石橋、大沢の足取りである。これから判断すると、白滝と石橋については、渡航する以前から日本で富本が面識をもっていたのかどうかは疑わしく、ロンドンに着いてはじめて会った可能性の方が高い。大沢についても、富本がこの間大沢と手紙のやり取りをしていた形跡は残されておらず、大沢がロンドンにいることは、南からの書簡で聞かされていたかもしれないが、しかし、それもよくわからない。そのように考えると、南を別にすれば、「当時ロンドンには南薫造、白滝幾之助、石橋和訓のような先輩がい、大沢三之助先生が文部省留学生としておられたので、指導してもらうに好都合のため」という富本の回顧談に出てくる人間関係についての記述内容は、出発の時点で十分に富本に掌握されていた事柄ではなく、実際には、ロンドン到着以降に結果的に生じた人間関係のように思われてくる。もしそのことが正しければ、渡英に先立ち、富本が本当に頼りにしていた人間は、南薫造ただひとりだったということになる。
いよいよ英国に向けての出発の日が近づいてきた。一九〇八(明治四一)年一一月一六日に、友人たちが集まり富本を送る別れの宴が開かれた。席上、ロンドンにいる南に宛て、全員で似顔絵つきの寄せ書きをしている。以下はそのときの富本の文章である。
拾一月拾六日。 此週土曜にいよいよ東京をたつと云うので、アチラでも酒コチラでも馳走、大モテ。昨年君がやつた通りの事を繰りかえして居る。 今日、森田、蒲生、井上、寺尾、僕、五人相會して豚を喰ふ。 談 ( ハナシ ) が君の事に及むだ。皆君の知って居る人だ。 サヨナラ85。
このなかで富本は「此週土曜にいよいよ東京をたつ」といっているが、残念ながら、正確にはいつ横浜なり、神戸なりを出航したのかを特定できる資料を見出すことはできない86。したがって、シベリア鉄道を使った陸路だった可能性も全くないわけではない。いずれにしても、こうしてこの時期、つまり一九〇八(明治四一)年の一一月末か、場合によってはその翌月に、富本は、「美術家であり、社会主義者であるウイリアム・モリスの仕事に接したい」という思いを胸に秘め、無二の親友であった南薫造を頼りに、ロンドンに向けて旅立っていったのであった。
第一章 図版
(1)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。
(2)富田文雄「文獻から見たる日本に於けるモリス」『モリス記念論集』川瀬日進堂書店、1934年、196-197頁。
(3)牧野和春、品川力(補遺)「日本におけるウィリアム・モリス文献」『みすず』第18巻第11号、みすず書房、1976年、33および39頁。
(4)澁江保『英國文學史全』博文舘、1891年、218頁。
(5)のちに新村出は、この追悼文の執筆者である「B S」が島文次郎であったことを、以下のように回想している。 「自分がモリスの名聲と業績の一面とを初めて知つたのは、其の死が傳へられた明治二十九年すなはち西暦一八九六年の秋のことでありました。丁度私が東京帝國大學の文科に進んだ歳のことでありました。『帝國文学』といふ赤門の雜誌の上に今の島文次郎博士が新文學士で S.B. ( ママ ) の名を以てモリスの死を紹介されたのでありました。」(新村出「モリスを憶ふ」『モリス記念論集』川瀬日進堂書店、1934年、11頁。)
(6)『帝國文學』第2巻第12号、帝國文學會、1896年、88-89頁。
(7)上田敏「『前ラファエル社』及び近年の詩人」『太陽』第6巻第8号、臨時増刊「一九世紀」、博文舘、1900年、180頁。
(8)村井知至『社會主義』(第3版)労働新聞社、1903年、43-44頁。 なお、本稿において使用したのは、1903年刊行の第3版であるが、『社會主義』は、この第3版をもって発行禁止になったようである。1899年に刊行された初版は、以下の書物において復刻、所収されている。 『社会主義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集 第Ⅳ期 キリスト教と社会・国家篇)日本図書センター、2004年。
(9)日本近代史研究会編『画報 日本の近代の歴史 6』三省堂、1979年、136-137頁。
(10)この記事は、二重かぎ括弧で括られており、記事のあとに、次のような注釈が加えられている。 「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主義』中に記せし所を摘載せしもの也、以てウヰリアム、モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、33頁。)
(11)ヰリアム、モリス原著『理想郷』堺枯川抄譯、平民社、1904年。 そのなかの広告文で、『理想郷』については、べラミーの『百年後の新社會』と比較して、次のように書かれている。 「此書は英國井リアム、モリス氏の名著『ニュース、フロム、ノーホエア』を抄譯したるものであります。[同じく平民文庫菊版五銭本の]べラミーの『新社會』は經濟的で、組織的で、社會主義的でありますが、モリスの『理想郷』は詩的で、美的で、無政府主義的であります。此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣として我等の眼前に浮かぶであらう。卅七年一二月初版二千部發行」
(12)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。
(13)嶋中雄作の中央公論社への入社前後の動向は以下のとおりである。 「嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた。畝傍中學を經て早稻田大學哲學科に學び、この年[大正元年]の九月卒業したばかりである。學生時代には、島村抱月にもつとも傾倒し、したがって自然主義文學運動には深い興味を有つていたごとくであつた。當時聲名高かつた中央公論社であつたから、大きな期待をもつて入社したのであるが、入つてみるとその組織は家内企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた。……明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は、いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが、大正期に入ると、澎湃として個人主義思想が擡頭してきた。特に婦人問題が重視せられて、婦人の自覺と解放が叫ばれた。これに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥などの『靑鞜社』の運動であった。嶋中はこの動きに注視し、[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめて、これを『婦人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)。」(『中央公論社七〇年史』中央公論社、1955年、13-14頁。)
(14)『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新聞直接讀者統計表」には、読者数が府県別に掲載されており、それによると、富本憲吉が暮らしていた奈良県は「八」と記されている。そしてこの統計表には、「右は直接の讀者のみです、この直接讀者に約二倍せる、各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられている。これから判断すると、奈良県は、直接の読者が8名、売捌所を通じての読者が約16名、合計約24名ということになる。(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、283頁。)
(15)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、191頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]
(16)東京美術学校は、1900(明治33)年に入学規定を改正し、新たに仮入学制度を設け、翌年から実施している。 「仮入学制度は、明治二十五年以来本校入学志願者中の中学校卒業者に対しては実技試験のみを課してきたところが実技力不足で不合格となる例が多かったので、その救済措置として設けられたもので、希望者は三月中旬から四月初旬までの間に当該中学校長の卒業証明書および卒業試験点数の証明書を添えて願書を提出し、許可された者は四月中旬より約三ケ月間毛筆画と木炭画、彫塑の実技授業を受けたのちに実技試験を受け、合格者は九月の新学期より予備の課程へ入学することとなった。」(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』ぎょうせい、1992年、76頁。) 富本の仮入学に関していえば、1904(明治37)年4月の仮入学生は、公立中学校卒業生70名、府県知事の推薦による師範学校卒業生7名、香川県工芸学校卒業生2名の計79名であった。同年9月、富本は同学校の「豫備ノ課程」への入学が正式に許可されている。(同書、250および262頁を参照。) なお、同書(166-167頁)によると、「本校における授業の概要が正式に公表されたのは明治三十五年十二月発行の『東京美術学校一覧 従明治三十五年 至明治三十六年』においてであり、それ以前にはこのような記録は無い。以下、その全文を掲載する」としたうえで、「各科授業要旨」には、「本校ハ僅ニ五ケ年ヲ以テ卒業スル規定ナルヲ以テ玆ニ卒業ト稱スル」との、修業年限についての記述があり、「豫備ノ課程」については、「甲乙ノ二種ニ分チ甲種ヲ日本畫科、西洋畫科、圖按科、漆工科ノ志望者トシ乙種ヲ彫刻科、彫金科、鍛金科、鑄金科ノ志望者トシ其實技ハ甲種ニハ繪畫及志望科ノ實技ヲ、乙種ニハ繪畫及彫塑ヲ課シ並ニ志望科ノ實技ヲ各其敎室ニ就キテ學修セシム」と規定されている。そして「圖按科」を規定した箇所には「第四年ニ至リテ卒業製作ヲナラサシムルコト他科ニ同ジ」という文言が添えられている。 以上の記述内容を総合すると、富本が在籍していた当時の東京美術学校の教育課程にあっては、学生は、最初仮入学生として4月からの数箇月を過ごし、「假入學及競爭試験に合格」した者が、9月に正規の新入学生として「豫備ノ課程」(おそらく1年間だったものと思われる)へ迎えられ、その後、志望する各科での専門科目の学習を3年経たうえで、本科4年目の最終学年で卒業製作に取り組んでいたものと思われる。修業年限は5年であった。富本が籍を置いた科は、「圖按科」であったが、「豫備ノ課程」の在籍中から、志望する「圖按科」の実技を一部受講していたものと思われる。
(17)富本憲吉「記憶より」『藝美』1年4号、1914年、8頁。
(18)大井健地「南薫造筆記の岩村透『西洋美術史』講義(上)」『研究紀要』第1号、広島県立美術館、1994年、(1)頁。
(19)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、93頁。
(20)宮崎隆旨「南薫造に宛てた富本憲吉の書簡から」『近代陶芸の巨匠 富本憲吉展――色絵・金銀彩の世界』(同名展覧会カタログ)奈良県立美術館、1992年、11頁。
(21)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、193頁。
(22)南薫造「岩村先生追想」『美術』第1巻第11号、1917年、20-21頁。
(23)同文、20頁。
(24)岩村透『美術と社會』(趣味叢書第十二篇)趣味叢書発行所、1915年。 なお、本書の巻頭に所収されている「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」が脱稿されたのは、1915(大正4)年11月。(同書、37頁を参照。)
(25)小野二郎「《レッド・ハウス》異聞」『牧神』第12号、1978年、80頁。
(26)Arthur Compton-Rickett, William Morris, Poet, Craftsman, Social Reformer: A Study in Personality, E. P. Dutton and Company, New York, MCMXIII (1913).
(27)富本憲吉が美術学校の学生であったころに、「富本が岩村からモリスについての知識と興味とを植えつけられた」という従来の通説には、必ずしも根拠があるわけではないことについては、以下の拙論においてすでに論証した。 中山修一「岩村透の『ウイリアム、モリスと趣味的社會主義』を再読する」『デザイン史学』第4号、デザイン史学研究会、2006年、63-79頁。
(28)渡辺俊夫・菊池裕子「ラスキンと日本――1890-1940年、自然の美・生活の美」水沢勉訳、渡辺俊夫監修『自然の美・生活の美――ジョン・ラスキンと近代日本展 (Ruskin in Japan 1890-1940: Nature for Art, Art for Life)』(同名展覧会カタログ)自然の美・生活の美展実行委員会、1997年、88頁。
(29)大沢三之助の略歴を記述するに際しては、主として下記の二著を参照した。齟齬がみられる箇所については、前後の関係に照らして、より信頼性のあると思われる方を優先して採用した。 『復刻/大日本博士録 第五巻 工学博士之部』アテネ書房、2004年、140-141頁。なお本書は、『大日本博士録 第五巻』(發展社出版部、1930年)を復刻したものである。 『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』ぎょうせい、1992年、26、196、256、315、362および404頁。
(30)松原龍一「富本憲吉の軌跡」『富本憲吉展』(京都国立近代美術館・朝日新聞編集の同名展覧会カタログ)朝日新聞社、2006年、13頁。 ただし、この論文には、注が存在せず、また、本文中で「[富本は]美術学校では、大沢や岡田からウィリアム・モリスの話は聞いて興味をもっていた」と記述されている箇所の前後においても、それを根拠づける説明はなされていない。 また、山田俊幸も「富本憲吉のデザイン空間」において、富本とモリスに関連して当時の東京美術学校の教師たちについて言及しているが、この論文も上で挙げた松原論文と同じく、注が存在せず、また、本文中の言及箇所の前後にあっても、それを実証するにふさわしい論述がなされていないので、それを手がかりに、言及されている内容の妥当性を再検証することは困難になっている。そこで、富本とモリスを巡っての当時の教師たちに関する最近の論稿のもうひとつの事例として、以下にその当該箇所を引用するにとどめておきたい。 「美術学校でも、[東京帝国大学の]建てる教育よりも一般的な建築をめぐる『美的教養の思想』が語られていたものと思われる。……[富本憲吉が美術学校に入学した]明治37年当時、すでに『美的教養の思想』は、ラスキン等の哲学的思想家を中心にして日本では語られていた。富本もまた当然その環境のなかにいた。東京帝国大学ではなく、東京美術学校だということは、より積極的にそれらを知る環境にあったということでもある。そこで自ずと、ラスキン流の総合芸術としての建築を知り、生活空間をも思慮に入れたデザイン空間ということを、自然体で学んでいたにちがいない。やがて、モリスを受け入れる準備はここでできていたものと思われる。当時、東京美術学校には、そうした教養を与えるに足る、[西洋画の]和田英作、[西洋画の]岡田三郎助、[西洋美術史の]岩村透という人材が教師側にいたことは[富本にとって]幸いだった。」(山田俊幸「富本憲吉のデザイン空間」『富本憲吉のデザイン空間』同名展覧会カタログ、松下電工汐留ミュージアム、2006年、10頁。) なお、日本におけるジョン・ラスキンの受容過程についは、以下の書物において詳しく論じられている。 渡辺俊夫監修『自然の美・生活の美――ジョン・ラスキンと近代日本展 (Ruskin in Japan 1890-1940: Nature for Art, Art for Life)』、前掲書。
(31)「1910 我国将来の建築様式を如何にすべきや――関野貞ほか」、藤井正一郎・山口廣編著『日本建築宣言文』彰国社、1973年、33-48頁。および、岡田信一郎「我國將來の建築樣式を如何にすべきや」『建築雜誌』282号、1910年、278-283頁。
(32)岡田信一郎「建築と現代思潮」『建築雜誌』280号、1910年、183-197頁。
(33)高村豊周、前掲書、151頁。
(34)たとえば、西洋美術史の教授の岩村透(男爵)に対しては、1911(明治44)年11月11日付の南薫造宛の書簡において、富本憲吉はこう酷評している。 「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章は実に嬉しい。特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテイフな繪に對する感想が気に入った。アノ文章は美術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教科書にしたい様な気がする。」(『南薫造宛富本憲吉書簡集』大和美術史料第3集、奈良県立美術館、1999年、39頁。) また、図案科の「教授」についても、1911(明治44)年1月24日付の同じく南薫造に宛てた書簡において、次のように心の内をさらけ出している。 「昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木造建築全部灰となった。原因は今未だ解らないが僕等が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は焼けた。外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あるのに敬愛すべき建築物が先き へ ( ママ ) 焼けて厭やな奴は世にハビコル。アゝ――。」(同書、12頁。) なお、この時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇田実、嘱託は岡田信一郎と関野貞であった。具体的に名前を挙げて大沢および古宇田を批判する記述は、その後の南薫造宛富本書簡にも認められる。(同書、16、33および41頁を参照。) ただし、この時期に富本がどうしてこれほどまでに美術学校時代の教師たちに批判的であったのか、その理由や内容を示す明確な資料は残されていない。したがって、書簡にみられる表現を、真意から離れた、富本独自のパーソナリティーに由来する一種のレトリックとして解釈する可能性の余地が全くないわけではない。しかし、そうした解釈の含みがわずかに残されているにしても、彼らに対して富本が、たとえ恩師といえども、少なくとも当時、決して好感をもっていなかったことだけは、上に引用したふたつの南薫造宛富本書簡から十分に明らかであろう。
(35)富本憲吉「記憶より」、前掲文、9-10頁。
(36)同文、10頁。
(37)同文、同頁。
(38)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』、前掲書、236頁。
(39)たとえば、次の箇所で富本憲吉は、『ザ・ステューディオ』について言及している。 「或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた。矢張り第一に[バーナード・]リーチのものを見る。今の自分とは遠い氣がする。恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ。リーチは矢張り英國人だった。」(富本憲吉『窯辺雜記』生活文化研究會、1925年、116頁。)
(40)『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、517頁。
(41)南薫造「私信徃復」『白樺』1912年1月、65-68頁。
(42)尾竹紅吉「藝娼妓の群に對して」『中央公論』1月号、1913年、186-189頁。
(43)『毎日グラフ』4月25日号、毎日新聞社、1982年、7頁。
(44)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』、前掲書、309、315および333頁。
(45)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897. なお、以下の『ザ・ステューディオ』において、この本についての書評が掲載されている。 The Studio, Vol. 12, No. 57, December, 1897, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1995, pp. 204-206.
(46)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、41頁。
(47)『私の履歴書』(文化人6)、前掲書、198頁。
(48)Vallance, op. cit., p. 305.
(49)東京芸術大学附属図書館へ依頼した調査の結果、富本憲吉が東京美術学校に在籍していた時期までに、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life) が文庫において購入されていた記録は残されていないことが明らかになっている。このことは、もし富本が在学期間中にヴァランスのこの本を読んでいたとすれば、自ら購入したか、嶋中雄作のような友人に貸し与えられていたことを意味するであろう。 なお、富本が在学中までに文庫において購入されていた、ウィリアム・モリスに関連する書物は、以下の2冊(所収論文数は3編)であり、購入年月の記録は、ともに1902(明治35)年2月となっている。これは、富本が美術学校に入学する2年前の時期にあたる。 William Morris, ‘The History of Pattern Designing’, Lectures on Art, Delivered in Support of the Society for the Protection of Ancient Buildings, Macmillan, London, 1882, pp. 127-173. William Morris, ‘The Lesser Arts of Life’, Ibid., pp. 174-232. Lewis F. Day, ‘William Morris and his Art’, Great Masters of Decorative Art, The Art Journal Office, London, 1900, pp. 1-31.
(50)「文藝の哲學的基礎」『漱石全集第十三巻 評論 雜篇』夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)、1936年、98-99頁。 漱石はまた、この論文の執筆にあたっての事情を次のように述べている。 「東京美術學校文學會の開會式に一場の講演を依頼された余は、朝日新聞社員として、同紙に自説を發表すべしと云う條件で引き受けた上、面倒ながら其速記を[校長である正木直彦]會長に依頼した。……偖速記を前へ置いて遣り出して見ると、至る處に布衍の必要を生じて、遂には原稿の約二倍位長いものにして仕舞つた。……この事情のもとに成れる左の長篇は、講演として速記の體裁を具ふるにも關はらず、實は講演者たる余が特に余が社の為めに新に起草したる論文と見て差支なからうと思ふ。……余の文藝に關する所信の大要を述べて、余の立脚点と抱負とを明かにするは、社員たる余の天下公衆に對する義務だらうと信ずる。」(同書、32-33頁。)
(51)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』、前掲書、79頁。
(52)柳原睦夫「わが作品を墓と思われたし」『週刊 人間国宝』1号(工芸技術 陶芸1)朝日新聞東京本社、2006年、18頁。 このなかで、柳原は、自分が京都市立美術大学の学生だったころ、富本本人から聞かされた漱石との出会いの場面について、次のように回想している。 「富本先生は夏目漱石の知遇を得ています。イギリス留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません。漱石の思い出話は、リアリティーがあり秀逸のものです。先生は煎茶好きで、仕事の手を休めては、『おい茶にしよう』と声がかかります。この日のお茶うけは、当時貴重な羊羹でした。漱石の話はここから始まるわけです。『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や。僕に一切れ羊羹をくれて、残りは全部自分で食べよった。あんなことをしたら胃病になるわなあ』。まるで昨日の出来ごとのようです。」
(53)1907年に大倉書店から出版された『文學論』は、1903年9月から1905年6月までの2年に及ぶ東京帝国大学における夏目漱石の講義録である。そのなかにおけるウィリアム・モリスへの言及箇所は以下のとおりである。 『漱石全集第八巻 文學論 文學評論』夏目漱石刊行會(代表 岩波茂雄)、1918年、499頁。 また、ラフカディオ・ハーンは、1896年から1903年まで東京帝国大学でヴィクトリア時代の英国詩を主題として講義を行なっているが、その講義録である以下の書物のなかで、ハーンは、ひとつの章を設けて、ウィリアム・モリスについて論じている。 『ラフカディオ・ハーン著作集 第八巻 詩の鑑賞』(第2版)篠原一士・加藤光也訳、恒文社、1993年、322-368頁。
(54)江藤淳「解説」、夏目漱石『倫敦搭 幻影の盾 他五篇』(岩波文庫)岩波書店、1995年、237-238頁。
(55)富本憲吉の装丁による、木下杢太郎の『和泉家染物店』が刊行されるのが、1912年である。それ以降、書籍や雑誌の装丁は、富本のライフ・ワークとなる。また、京都府立図書館楼上において「津田青楓作品展」が開催されるのも1912年のことであり、そのとき、富本をはじめ、藤島武二、南薫造、高村光太郎たちが賛助出品している。(『美術新報』第11巻第7号、1912年、32頁。) 津田、富本ともに、1910(明治43)年に帰国している。そのことから判断すると、ふたりの出会いは、帰国後から「津田青楓作品展」までのあいだであったと思われるし、たぶん津田の紹介のもとに富本が漱石に会うのも、おそらく、この作品展開催の前後の時期だったのではないだろうか。 一方津田は、夏目漱石の著作の装丁を手がけるようになった経緯を、後年次のように語っている。 「明治四四年に私は上京して、職をもとめてあるいたが、画をかきながら生活のできる適当な職がなく困っていた。そのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』の装釘をやってくれということになり、それを手はじめに[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるようになった。そのうち漱石も、私にやらしてくれるようになった。……漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思ったのか、それとも私が困っていたから、稼がせてやろうという気があったのかも知れない。何れにしても三重吉が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を世間に発表するいい動機になった。」(津田青楓『漱石と十弟子』朋文堂新社、1967年、298頁。) しかし、この本のなかには、津田が富本を漱石に紹介したことを裏づけるような記述は存在しない。
(56)『東京勸業博覧會美術館出品圖録』の口絵につけられた説明文の一節。なお、本書には奥付が欠落しており、したがって、編者名、刊行年月日、出版社名を特定することができない。これについては、同書巻頭に所収の「美術館出品圖録序」の末尾に「明治四十年三月 東京府知事男爵千家尊福」と記載されており、そこから推し量るしかない。なお、口絵は、「東京勸業博覧會美術館外景」。富本憲吉の作品《ステーヘンドグラツス圖案》は「圖案之部」の77頁に、南薫造の作品《花園》は「西洋畫之部」の71頁に掲載されている。
(57)東京市史編纂係編『東京勧業博覧会案内』裳華房、1907年、19頁。
(58)『東京勸業博覧會審査全書』興道舘本部、1908年、171-175頁。 この本は、3つの『東京勸業博覧會審査報告』を合本したもので、そのうち、第二部(美術および美術工芸)および第三部(建築図案および工芸図案)の監査結果が所収された報告書は、以下のとおりである。 『東京勸業博覧會審査報告』巻壹、東京府廳、1908年。
(59)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』、前掲書、123頁。
(60)富本憲吉「わが陶器造り(未定稿)」、辻本勇編『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、30頁。
(61)Edward F. Strange, ‘Needlework at the Liverpool School of Art’, The Studio, Vol. 33, No. 140, November, 1904, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1997, pp. 147-151.
(62)J. Taylor, ‘A Glasgow Artist and Designer: The Work of E. A. Taylor’, The Studio, Vol. 33, No. 141, December, 1904, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1997, pp. 217-226.
(63)外山滋比古ほか編『英語名句事典』大修館書店、1984年、327頁。
(64)東京勧業博覧会出品作品以降の富本憲吉の文字表現への『ザ・ステューディオ』の影響のうち、卒業製作の作品に用いられている文字表現に限っていえば、土田真紀が、次のような示唆に富んだ指摘をすでにしている。 「アーツ・アンド・クラフツのコテージ建築を思わせる『音楽家住宅』設計案は、美術学校で学んだ成果というより、イギリス留学に向けての準備制作といった感じを与える。タイポグラフィーにはスコットランドの建築家マッキントッシュの影響も窺われる。恐らく雑誌『ステュディオ』などを通じてインスピレーションを得たものと思われるが、世紀末ヨーロッパの建築家にとって重要な主題であった『芸術家のための家』というモティーフを取り上げているのは、富本の留学の行方を暗示するものとして興味深い。」(土田真紀「工芸の個人主義」『20世紀日本美術再見[Ⅰ]――1910年代……光り耀く命の流れ』同名展覧会カタログ、三重県立美術館、1995年、217頁。)
(65)当時の東京美術学校におけるアール・ヌーヴォーに向けられた関心の背景は、おおよそ以下のとおりである。 「……[パリ万国博覧会が開催された一九〇〇年]当時のパリはアール・ヌーヴォーの全盛時代であり、博覧会場にはそうした製品が示威的に展示されていたから、低迷を続けていた自国の図案ないし工芸との対比においてその新鮮さは日本の美術家の心を揺さぶるに十分の迫力をもっていた。それ以前は純粋美術と応用美術を故意に区分し、応用美術を見下していた美術家も図案への関心を強め、彼らが帰国するや明治三十四年頃から各種の図案団体が生まれ、各地で図案の懸賞募集が盛んに行われるようになった。それまでの日本の工芸は、応用美術という語が示すように概ね絵画を工芸図案に応用して精巧なものを作り上げることに終始し、また本校の図案科においては、本来は創造のための古典研究であるべき筈のものが往々にして古典からの借用となり、それが新鮮味のある図案の制作を妨げていたが、ここに漸くにして図案革新への気運が生じたのであった。」(『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』、前掲書、121-122頁。)
(66)岡本隆寛「南薫造日記について」、岡本隆寛・高木茂登編『南薫造日記・関連書簡の研究』(調査報告書)、1988年、3頁。 この論文のなかで、続けて岡本は次のように述べている。「[教師たちとの相談の結果]ここでは、ベルギーかフランスがよかろうと薦められ、南自身はベルギーに行くことにしようと書き残している。しかし、その後の日記に留学先をイギリスに変更したことについては何も記していない。」(同論文、3頁。) このことから推量すると、南薫造は、富本憲吉が近い将来イギリスに来ることを見越して、留学先をベルギーからイギリスに変更した可能性も全く考えられないわけではない。この場合、すでにこの時点で富本の英国留学の思いは、ある程度固まっていたことになる。
(67)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、1頁。
(68)松下芳男『徴兵令制定史』内外書房、1943年、543-544頁。
(69)小田切進「略年譜」『新潮日本文学アルバム2 夏目漱石』新潮社、1993年、105頁。
(70)西村伊作『我に益あり』紀元社、1960年、147-148頁。
(71)有島任生馬は南薫造に宛てた明治43年5月21日付のはがきのなかで、「昨日田舎の徴兵検査から帰った 国家に不要人物とせられた これで尚ほ家庭からも不要の人物となさるれば申分なし」(高木茂登「南薫造宛書簡について」、岡本隆寛・高木茂登編、同書、37頁)と述べ、続いて6月11日付の書簡では、「僕は徴兵第二乙種だった モー大丈夫国家に有用な材でハなくなった君の方はドーなった 田舎なら君も大丈夫と考へて居る徴兵なんて聞いたより恐るに足らぬものだ」(同書、同頁)とも述べている。これは、有島が洋行後の兵役免除の適用を受けたことを意味し、南の場合はどうであったのかを問い尋ねているのではないかと考えられる。
(72)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、2-3頁。
(73)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、20-21頁。
(74)同書、20頁。
(75)『収集家一〇〇年の軌跡――水木コレクションのすべて』(同名展覧会カタログ)国立歴史民俗博物館、1998年、106頁。
(76)松村豊吉編『翠薫遺稿』(私家版)、1908年、24-25頁。
(77)同書、3頁。
(78)山本茂雄「富本憲吉記念館日誌抄 メモランダム」『あざみ』第2号、富本憲吉研究会、1992年、32-33頁。
(79)『私の履歴書』、前掲書、197-198頁。
(80)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』、前掲書、448頁。
(81)J. B. Gibson, ‘Artistic Houses’, The Studio, Vol. 1, No. 6, September, 1893, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1995, pp. 215-226.
(82)‘An Artist’s Cottage Designed by C. F. A. Voysey’, The Studio, Vol. 9, No. 19, October, 1894, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1995, pp. 34.
(83)M. H. Baillie Scott, ‘An Artist’s House’, The Studio, Vol. 9, No. 43, October, 1896, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1995, pp. 28-37.
(84)大沢三之助「ガーデン、シチーに就て(四)」『建築工藝叢誌』(第一期前篇第六册)、1912年、20-21頁。
(85)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、6頁。
(86)現在富本憲吉記念館には、一枚の写真はがきが残されている。写真は、いすに座る富本憲吉を横から撮ったもので、表には、「渡英の記念として」という文字と、水木要太郎の宛名と、明治41年12月14日の日付が書き記されている。住所の記載はないので、おそらく封筒に入れられて投函されたものと思われる。もしこれが、出発前に日本から出されたものであれば、このときまで、まだ富本は日本にいたことになるし、ロンドンで投函されたものであれば、すでにこのときロンドンに到着していたことになる。もちろん、船上から出された可能性を否定することもできない。これは、富本がいつ日本を発ち、いつロンドンに着いたのかを判断するうえでの手がかりを与える貴重な資料であることには間違いないが、しかしいまのところ、これだけでは、消印のついた封筒が存在しないために、決定的な証拠資料となりえていない。