中山修一著作集

著作集24 残思余考――隠者の風花余情(上)

第一部 山野に生きる(日記編)

第二編 二〇二五(令和七)年――喜寿を生きる

一.初夢(年賀状)

謹んで新春の御祝詞を申し上げます

私が研究の対象としているウィリアム・モリスは、一九世紀の英国において、詩人、デザイナー、政治活動家、経営者、環境保護運動家として活躍した多才の人物です。没後彼の娘が、全二四巻の「ウィリアム・モリス著作集」を編み、続けて補遺として二巻を追加して世に送り出しました。

昨年私は、ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」を一五巻から二四巻に再編し、この春には、それに二巻を加えて全二六巻にすることを計画しています。内容や質は、モリスの足元にも及ぶわけではありませんが、おこがましくも、せめて巻数だけでも、敬愛するモリス先生に近づきたいと思っているのです。

記念すべき二〇三四年三月二四日のモリス生誕二百年の日が迫ってきています。何とか健康を維持しながらこの阿蘇の山野に隠棲し、この日をめどに、現在執筆中の巻や本文未着手の巻のすべてを書き終え、全巻完結したいと考えています。これが私にとっての今年の見果てぬ初夢となりました。

穏やかなお正月をお迎えのことと思います。

本年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。

二〇二五(令和七)年 元旦

二.情報と報道に関して

私は、この山野に暮らしはじめて、新聞も取らず、災害時以外は日常テレビも見ず、加えて、ソーシャル・メディアにはほとんど関心を寄せず、あたかも世捨て人であるかのような生活をしています。最近では、新聞もテレビも若者から見放されて、「オールド・メディア」と呼ばれているそうです。また、すでにマスコミは、「マスゴミ(大量のごみ)」という蔑称が与えられるまでになっています。メディアが発する情報や報道に対して私個人が接してきたこれまでの経験からすれば、それは、「知りたいことを伝える」新聞のような書斎的言論、「見たいことを見せる」テレビのようなお茶の間的動画、そしていまや、「思ったことを語る」SNSのような井戸端的世間話、このように推移してきたように感じられます。換言すればこれは、エリート的知識の占有、大衆的関心の共有、そして私的見解の拡散、そうした発信と受信にかかわる変化の推移といえるかもしれません。いま日本や世界で起こっている出来事の真実を知り、それを分析し、それに基づき自身の行動規範とするためには、私たちは、どのような情報や報道を生み出し、それをどのように受け取るのか、その仕組みが、問われているような気がします。単に回顧的に過去にもどることはもはやできないでしょう、かといって、このまま安易に未来を待つことも、同じくできないでしょう。情報や報道にかかわる発信と受信の新たな仕組みづくりがいま必要とされているように思われます。そして、そこで一番大切にされなければならないことは、人権を巡る取り扱いではないでしょうか。何人たりともが安心して生きるためには、人権無視も名誉棄損も、絶対に許されてはならないと信じるからです。(一月)

三.夜明けが早くなる

お正月から一箇月が過ぎようとするこの時期、夜明けが早くなったことを感じます。まだ薄暗いうちに書斎の雨戸を開け、窓を通して朝の陽ざしを楽しむことが日課となっているのですが、樹々のあいだから直線状に射しこむ朝日が、少し力強いものになってきたように感じられます。こうして一歩一歩春に近づいてゆくのでしょう。

毎年この時期になると、こうした感じがこころに湧いてきます。しかし今年は、ことさらその感覚が強く、自分でも不思議な思いに駆られています。思うに、どうやらそれは、自分の加齢と関係があるようです。つまり、春を待つ潜在的思いが、年をとるにつれ、いままで以上に高まっていて、それが、少しの陽ざしの早まりに、素早く対応しているようなのです。裏を返せば、それほどまでに現状の冬のつらさが、老いた体に重くのしかかるように感じはじめてきたということかもしれません。

少し前までは、雪に覆われれば、車を坂の下に置くと、家とのあいだの約一キロを、防寒着を着て、長靴を履いて、杖をついてでも町まで行き、買物をしたり、銀行や郵便局に行ったり、コインランドリーで洗濯物の乾燥をしたり、温泉を楽しんだりしていたのですが、膝を骨折したこともあり、いまやそれだけの体力も気力も、段々と衰え、雪が積もっているあいだ家のなかに引きこもることが多くなったように思います。どうやら、冬景色も、こころを喜ばせる季節の風物詩ではなく、次第に、できれば避けて通りたい、苦痛の単なる「気象状況」になりつつあるのです。

どうやら、そうした心情が、敏感に、夜明けが早くなる一日一日の変化をとらえているようです。冬越しの大変さをしみじみと感じる年になりました。これもまた、健全な「衰退」の一環として受け入れなければならないのでしょう。(一月)

四.「血尿」が出る

血尿がでました。最初少し動転しました。原因は何だろう。大病の兆候か。

三回続けて出ました。しかし、それ以降は、通常の尿にもどったように感じました。一体、この血尿は何だったのでしょうか。私はかつてロンドンで暮らしていたとき、急に横腹が痛くなり、尿路結石を患い、入院のうえ、尿管から膀胱に落とした石を内視鏡で爆破して、尿として排出した経験がありました。そのとき、粉々に砕かれた石が尿道を通る際に摩擦により傷つけ、数日間、血尿となって現われました。この経験からして、この日の血尿も、本当に小さな石が尿道を通過した際の結果的現象ではないかと直感しました。

最初は驚きあわてて、病院に行こうか、膀胱がんではないかと、心配したのですが、もうこの年齢になると、いつ何が起こっても不思議はなく、しかも、がんで死ぬのが、長期の療養による家族の負担も少なく、最もいい最期であると聞いていましたので、それであればそれもよし、と腹をくくり、いまは、自己による経過観察をしています。

血尿の日、こんなことが頭に浮かびました。いま私は、高群逸枝を書いているのですが、彼女は、いっさいの来客を断って書斎にこもり、一日に一〇時間、勉強に専念したと書いています。すると体調に異変が生じ、経血が逆流して鼻血となって外に出たこともあったといいます。私の場合は、一日およそ五時間の勉強ですので、逸枝さんの半分です。しかし、雪に閉じこめられて家で過ごすことが多くなるこの時期は、一〇時間くらい机に向かうことがあります。そこで私も、過剰な勉強が血尿を招いたのではないかと思った次第です。

まあ、これは、逸枝さんだから絵になる話であって、私のような魯鈍な人間にはあてはまりません。それに思いが至って、自分で笑い転げてしまいました。血尿が、いい気分転換になりました。(二月)

五.「つらら」が現われる

この時期、雪が降り、庭や道に、ウッドデッキに積もります。予報によりますと、今年の寒波は、「最強最長」とのことです。例年ですとこの時期は、大雪、あるいはドカ雪が一瞬にして降り積もるのですが、しかし今年は、通例の様子とは違っていて、中程度の雪が、積もっては融け、融けてはまた積もるという具合に、長期化しています。この間、外の温度は、日中も氷点下です。

確かに昼間の気温は氷点下二、三度の低温なのですが、それでも、太陽が出て陽ざしがあれば、積もった雪は融け始めます。屋根に積もった雪が日光に照らされて融けてゆき、軒下に滴り落ちますと、外気は氷点下ですので、落ちるしずくがそのままの状態で凍り、垂れ下がることになります。こうして氷の棒ができます。これが「つらら」です。

小さいころに「つらら」を経験したことはありましたが、それ以降の東京や神戸での暮らしでは、縁遠い存在になっていました。いまこの年齢になって、再び「つらら」と再会しています。気温が上がりはじめると、軒下に何本も垂れる氷の棒は融け出し、一滴一滴、しずくとなって落下してゆきます。何か、自然が泣いているような光景です。春へと向かう合図かもしれません。(二月)

六.著作集が二四巻から二六巻へ

私は、今年の年賀状におきまして、「昨年私は、ウェブサイトで公開しています『中山修一著作集』を一五巻から二四巻に再編し、この春には、それに二巻を加えて全二六巻にすることを計画しています」と書きました。その計画が現実のものとなり、いまここに更新することができました。この二六巻が、私の著作集の最終形態となります。内訳は、「デザイン史・デザイン論」が八巻、「ウィリアム・モリス研究」が六巻、「富本憲吉・富本一枝研究」が五巻、「火の国の女研究」が二巻、そして「肥後大阿蘇に生きる」が五巻、となります。加えて、別巻1として「主題別著述総覧」を、別巻2として「外部機関提供のデジタル・リソース」を用意しました。

そしてまた、私は年賀状に、次の一文を書いています。「記念すべき二〇三四年三月二四日のモリス生誕二百年の日が迫ってきています。何とか健康を維持しながらこの阿蘇の山野に隠棲し、この日をめどに、現在執筆中の巻や本文未着手の巻のすべてを書き終え、全巻完結したいと考えています」。さあ、この日まで、残り九年です。この四月に大学に入学する新入生が、研究者を目指そうとすれば、学部四年、博士前期課程(修士課程)二年、博士後期課程三年の計九年を、勉学に費やすことになります。私も大学新一年生になったつもりで、必死に本と机を友として学問にいそしみ、九年後には著作集の全巻を完結するや、研究者としてやっと独り立ちしたという、その晴れがましい思いを胸に旅立ちたいと思います。(二月)

七.ネズミ三匹を捕獲

台所と隣り合わせの寝室の壁から、夜になると小動物の足音のような物音が聞こえてくるようになりました。おそらくハツカネズミが歩き回っている音です。それから数日後、朝起きてみると、サイドテーブルに置いてあったクッキーがかじられている光景に出くわしました。これまでの経験から、間違いなくこれは、ネズミの仕業です。どこにいるのか、居場所を突き止める必要があります。すると、システム・キッチンと壁とのあいだに小さい隙間があり、その隙間から出た床の上に、フンらしきものが数粒散乱していました。ここが、ネズミの移動経路のようです。そこで、その床の上に、粘着シートでできたネズミ捕り(およそ二〇センチ四方)を置き、シートの隙間よりの箇所に、好物であるにちがいない、かじられたクッキーをのせました。こうして外出して数時間後に帰宅して、そっと見にゆくと、何とそこに二匹のネズミが強力な粘着シートの上で、息絶え絶えの状態で横たわっていました。それを処分したあと、もう少しいそうだったので、同じように、今度は、半分に切ったアンパンをのせて、新しい粘着シートを置いてみました。すると翌朝、そこに一匹の獲物がかかっていました。また、新しいものを置いていますが、変化はありません。壁からの物音も聞こえなくなりました。これでもって、一件落着であればいいのですが……。いつもながら殺生するのには、こころが痛みます。(三月)

八.休暇村南阿蘇の日帰り温泉を楽しむ

これまで私は、お隣りの南阿蘇村にある「四季の森温泉」に通っていました。同じ村にある「瑠璃温泉」が売りに出され休業に入ると、「四季の森温泉」に客が流れ、混雑するようになりました。そうしたなか、「休暇村南阿蘇」が日帰り湯をはじめたことが、話題に上り始めました。さっそく私も試しに行ってみました。家から近いこともあって、それ以降、こちらの温泉を利用しています。

行く曜日は、いつもどおり、だいたい月、水、金の週の三日です。買い物やコインランドリー、役場や銀行などの街中での用事をすませ、一一時ころに駐車場に車を止めて、それから三〇分くらい隣接する野草園のなかをウォーキングし、一一時三〇分の温泉の入館時間にあわせてチェックインします。高森町民は五〇〇円で、町民でない人は八〇〇円です。「四季の森」に比べて浴室が広々としており、ホテルだけあってアメニティ・グッズも充実しています。根子岳を目の前に眺めることができる露天風呂があり、清潔でくつろげるサウナもついていて、とても快適です。

数年前に「高森温泉館」が廃館となり、つい最近も「月回り温泉」もなくなり、高森町からすべての温泉がなくなりました。そこへきて、「休暇村南阿蘇」の立ち寄り湯がはじまったわけです。しかし、お客は少なく、いつも閑散としています。毎日、一一時三〇分から三時までの宿泊客が利用しない短い合間の開館ですので、それが影響しているのかもしれません。営業的にはどうかわかりませんが、私のような、ゆっくり温泉を楽しみたい地元民にとっては、ありがたい憩いの場となっています。(三月)

九.トイレのタンクに水が溜まりにくい

二月の後半、強い寒波が長期間居座りました。外の最低気温は、いつもマイナス六度から八度まで下がり、日中も氷点下の日が続きました。まさに、冷蔵庫のなかにいるような環境です。しかし、書斎はエアコンと電気ヒーター、食堂兼居間はエアコンとガスヒーターのおかげで、設定した二〇度が維持され、快適です。

そうしたある日、トイレのタンクに水が溜まりにくくなりました。前に一度そうした現象があり、そのときは、水の出口の所についているフィルターの汚れを除去することで解決しました。それで今度もそうしてみました。しかし、うまくゆきません。全く出ないわけではないのですが、つららから滴り落ちるしずくのようなもので、一滴一滴しか出ず、タンクに溜まるのに時間を要すのです。これでは、短い時間を置いて次に使う場合に支障をきたします。

そこで考え付いたのが、水道管のどこかで凍結が発生しているのではないか、という仮説でした。であれば、暖かくなるまで待つしか解決の方法はありません。完全停止しているわけではないので、気長に様子を見ながら、それでも水の出が悪ければ、業者を呼ぶしかないと思い、そのままにしていました。

それから一、二週間が立ちました。流したあと、水の流れ出る音が聞こえてきました。ということは、水の出がよくなったことを意味します。タンクのふたを開けて、のぞいてみると、間違いなく以前より、多くの量の水が流れ出ています。凍結が原因だったのか、そうではなくて、何かのきっかけによる自然回復だったのか、それははっきりとはわかりませんが、いまや少し、暖かさを感じるようになってきたことは確かです。このまま、後戻りすることなく、春へ向かうといいのですが、これもまた様子見といったところです。(三月)

一〇.泌尿器科へ行く

二月のある日、続けて三回ほど血尿が出ました。それから一箇月ほど立った日に、また血尿が出ました。これは何かのサインかもしれないと思い、四月に入り、隣り村にある病院を訪ねました。この病院では週に一回、非常勤の泌尿器科医の先生が診療に当たられています。

この間の経緯を話したあと、さっそく尿検査と残尿測定、それにCT撮影をしました。結果は、膀胱に二センチくらいの大きさの腫瘍があるとのことでした。そして、確認すると、膀胱にできる腫瘍は悪性の場合がほとんどということでした。つまり、がんができているらしいのです。

この病院は、これ以上の検査と手術に必要な人材と設備が整っていません。そこで、熊本市内にある規模の大きい病院で再検査することを勧められ、予約を入れてもらいました。果たしてどんな検査結果が出るのでしょうか。

実は私は、定年の一年前に前立腺がんが見つかり、神戸大学医学部の附属病院で全摘出の手術を受けています。それで、がんの告知は、二度目になります。人は、いつかはその時を迎えるのでしょうが、それがいまや現実のものになろうとしているのです。しかし、余分なことは考えず、すべては結果を待って、残りの人生の処し方を考えようと思っています。(四月)

一一.柳川の川下りを楽しむ

この地区に住む高校の同窓生が集まって、柳川の川下りを楽しみに出かけました。これまでは、サクラの下での酒宴でしたが、去年の春から、少し遠出するようになりました。今年の「柳川川下りの旅」は、去年の「A列車で行く天草旅行」に続くものになりました。

私は、はじめての体験でしたので、とても楽しみにしていました。しかし前日夜半から雨になり、天候が心配でしたが、夜が明けると、小雨になり、予定どおり小型バスに乗り込み、さっそくビールを開けて、歓談がはじまりました。伝統的に、こうした行事には伴侶を同伴される方が多く、この会の特徴となっています。今回は、総勢一五名が参加しました。

柳川に着くころには、完全に雨も上がり、絶好の行楽日和になりました。川下りの舟は、われわれ一行の貸し切りでした。まだ両岸にはサクラが残っており、酒とつまみで、さらに会話が盛り上がりました。一時間ほどの、船頭さんの案内による、舟遊びでした。ちょうど途中で、和装の花婿と花嫁を乗せた舟に出合いました。船頭さんの話によると、この一団は、「御花」という名の由緒ある料亭での披露宴へ向かうところであるとのことでした。

私たちの舟も、「御花」に着きました。「御花」は、立花家を呼び習わす名前で、屋敷と敷地は、戦国時代に活躍した藩祖立花宗茂の時代にさかのぼるとのことでした。ここで、昼食として「ウナギのせいろ蒸し」をいただきました。もう柳川には天然のウナギはいないそうですが、しかし、久しぶりの美味を堪能しました。

庭園は、松濤園と呼ばれる、松と石で構成された実に立派なものです。残念ながらこの日は、結婚披露宴のために貸し切りとなっていて、窓越しに眺めるだけで、中に入って散策することはできませんでした。しかし、明治時代に建築された「西洋館」には足を踏み入れることができ、そこで雛飾りや「さげもん」を見ることができました。

「御花」を出た一行は、歩いて北原白秋の生家跡と記念館を訪ねました。白秋の生家が造り酒屋であったことをはじめて知りました。一時間くらいの見学でした。その後、再びバスに乗り込み、帰路につきました。(四月)

一二.熊本市内の病院で膀胱がんの検査を受ける

四月の二四日、済生会熊本病院で、採血、採尿、心電図、腹部エコーの検査後、医師の診察を受けました。エコー検査の結果、膀胱腫瘍(膀胱がん)の疑いがあるということで、ただちに膀胱鏡検査を受けることになりました。これは、尿道からファイバースコープ(内視鏡)を挿入し、膀胱内を観察する検査です。これにより腫瘍の存在が確認されました。そして、五月一六日からの二泊三日で、TURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)による手術が行なわれることが決定されました。

翌二五日、造影CT検査を受けました。これは、ヨード造影剤を静脈内に投与し、X線とコンピューターを使用して、体内の病変を調べる検査です。続く、二八日にMRI検査が行なわれ、その後に、CTとMRIの検査結果についての説明が医師からありました。

結果は、個数はたぶん一個で約三センチの大きさ、場所は膀胱の上部、上皮にできた表在性のがんで、おそらく筋肉層への浸潤はなく、また、他の臓器への転移も見当たらなく、最終的なステージと五年生存率については、TURBTの手術後に正確に判明するということでした。ただ、私の場合は、一回のTURBTではすべてを切除することができないことが予想され、そのため、約一箇月後に二回目のTURBTを実施することが示唆されました。また、この手術により根治が期待されるものの、表在性膀胱がんの場合は、術後二年で二割から五割の確率で再発する可能性があり、定期の経過観察が必要であることも示唆されました。

これを聞いた私は、それまでにネットで調べた情報と照らし合わせて、私のがんはステージⅠで、五年生存率は七〇パーセントではないかと、自分なりに判断しました。これは、私と同じ症状にある人が一〇〇人いるとすれば、そのうちの三〇人は五年を待たずして死亡することを意味します。この程度で収まったことをよしとするのか、いまは複雑な思いです。次は、五月九日に麻酔科の医師の説明を受け、その一週間後の一六日にいよいよ施術となります。(四月)

一三.手術入院前夜

いよいよ明日、済生会熊本病院に手術入院をします。

入院に際して、今週は毎日検温をしたり、かかりつけの病院から処方された薬の一部を止めて、済生会からの薬を飲んだり、昨日と今日は、下剤の服用もしました。明日早朝の坐薬で、薬の管理も終わります。入院用具の準備もほぼ完了しました。血尿もなく、排尿痛もなく、体に違和感はなく、病院に行くのが不思議な感じがします。日ごろは土日もなく、毎日五時間勉強をしていますので、この二泊三日で、ゆっくり休養をしたいと考えています。そのためパソコンはもっていきません。

人は自分の死に方の選択はできませんが、がんによる死が一番いいと、友だちもかかりつけの医師もいいます。心筋梗塞は、あっという間の出来事になりますし、脳梗塞は、言語や身体に障害が残ります。がんの場合ですと、その時が来るまである程度時間があり、食べたいものも食べ、会いたい人にも会え、子どもにも自分の思いを伝えることができます。そのことを考えると、自分は幸運であると思っています。

これから二回の手術を受け、それから、おそらく三箇月間隔の経過観察が続くものと思います。まさしく「闘病」という生活に入るわけです。何とか五年間は生存したいという目標をしっかりもって闘っていこうと思っています。五年生きれば、私は八一歳になり、男性の平均寿命に到達し、早くもなく、若くもなく、自分も周りもそれが受け入れやすくなるだろうと思うからです。ただ、著作集は完結するにはまだこれから九年が必要ですので、一部未完に終わることになりますが、あまり欲張ってもいけませんので、これくらいがちょうどいいのかもしれません。

普段は四時就寝ですが、明日からの病院生活を考えて、今日は八時に夕食をとり、そのあとベッドに入るつもりです。明日は完全絶食です。一〇時からは水分補給も禁じられています。六時に起きて坐薬を入れ、少し勉強をして、一〇時半ころに家を出て、途中熊本市立図書館(東部公民館図書室)に寄って借りている一〇冊の本の返却と再借用の手続きをして、受付時間の一二時三〇分までに着くように病院に向かいます。(五月)

一四.手術入院

膀胱がんにおけるTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)の手術には、ふたつの目的があります。ひとつは、膀胱内部の腫瘍を切除するという治療目的です。もうひとつは、切除した腫瘍の悪性度を病理学的に調べるという検査目的です。つまり、治療と検査を兼ねてこの手術は行なわれます。

別室で、体温や血圧を計ったり、特別の靴下に履き替えたり、そしてパジャマに着替えると、職員に案内されて中央手術室に入りました。廊下を挟んで左右の両側に、番号が付いた手術室が長く並んでいました。十何室かあったように記憶します。私が入室したのは、七番の番号が付いた手術室でした。麻酔は、全身麻酔ではなく、下半身だけの脊椎くも膜下麻酔であることを事前に告げられていました。手術用のベッドに横になると、すぐにも意識がなくなり、手術の様子は全くわからないまま終了しました。すこし意識がもどったときは、すでに手術は終わり、そこから入院用の病室に運ばれました。

到着すると、すぐに抗がん剤をカテーテルの管を通して注入されました。支柱(点滴スタンド)には、上に点滴と生理食塩液、下に尿袋(尿道留置カテーテル)がぶら下がっていたような記憶がうっすらと残っています。先生は、「切る」とか「切除する」とかという言葉はほとんど使われず、「削る」という表現をされます。おそらくこの手術は、電気メスで腫瘍を「削る」感覚で取り除くのではないかと想像されます。当初二泊三日の入院が予定されていましたが、先生の説明によりますと、広範囲に「削った」ので、入院を二日間延ばして、様子を見たいとのことでした。

手術当夜は、都合がつかず、二人部屋で一夜を明かしました。痛みがある場合は鎮痛剤を処方するとのことでしたので、覚悟はしていたのですが、耐えられないほどの痛みはなく、結局、痛み止めを使うことはありませんでした。

翌日、希望していた個室に移りました。窓からは、遠く私の住まいのある阿蘇が望めます。シャワーもついていて、さっそく利用しました。三度の食事もすべて完食し、大きなトラブルに襲われることもなく、無事四泊五日の入院が終わりました。カテーテルの管が取れたのは、退院前日でした。

次は、六月九日の外来受診のときに、病理検査の結果が告げられることになります。はじめてここで、ステージ幾つかが判明し、今後の治療方針が明らかになります。私の素人判断では、ステージⅠ、二度目の手術入院後、三箇月おきの経過観察になるのではないかと思っていますし、またその程度で止まってほしいと願っています。果たしてどうなりますか――。六月九日の受診までは、とりあえず体のことは忘れ、いままでどおりの生活と仕事に集中したいと思います。(五月)

一五.変化、それとも異常現象

この数年、この季節に感じることは、この森において、鳥の鳴き声がほとんどしなくなったことです。以前は、春から秋にかけて、いろんな鳥の鳴き声がこだまして、こころに安らぎを与えてくれていました。鳴き声が減少したということは、鳥がいなくなったからではないかと思います。私の散歩コースは、休暇村南阿蘇に隣接する野草園を一周することですが、この時期、望遠レンズをつけた大型のカメラをもった人たちとすれ違います。どうも手持ち無沙汰です。聞くと、やはり、被写体となる鳥がいないということでした。

夏の虫や蝶が姿を消したのは、もう一〇年以上になります。それまでは、夏になると、夜、網戸にいろんな種類の虫や蝶が集まってきていました。しかし、いまはもう、そうした生き物を目にすることはありません。

虫や蝶に加えて、鳥までもいなくなりつつあります。気温や湿度、日照時間や降雨量などと関係があるのでしょうか。

その一方で、ものの値段が高騰しています。コメに至っては、わずかなあいだに、二倍以上の価格に跳ね上がりました。食料品だけでなく生活用品も、またガソリンやガスや電気の料金も高止まりしています。これは、単なる変化ではすまされません。明らかに異常事態です。この現象も、虫や蝶や鳥がいなくなる現象も、根底では、ともに私たち人間の「異常」に由来しているように思われます。人間はいつから、どのような理由で、「異常」に陥ったのでしょうか。もう回復は望めないのでしょうか。(五月)

一六.診断の確定と今後の治療

病院から無事帰宅して、夕食を食べ、就寝したのが七時でした。いつもより三時間の遅れです。何度かトイレには行きましたが、今朝起きたのが七時。何と一二時間の睡眠でした。体調は良好です。全く心配はいりません。

昨日の診療の際に、前回の手術で採取した腫瘍組織の病理検査の結果についての説明がありました。以下にそれを箇条書きにします。

 
・私の膀胱にできた腫瘍は、膀胱内部の上皮にできた筋層非浸潤性がんだそうです。ステージⅠになります。これまでは、「腫瘍」という取り扱いでしたが、これで、正式に「がん」として診断が確定したことになります。それはつまり、これから治療に入ることを意味します。
 
・治療の進め方は、まず、来月の七月一〇日に、前回と同じTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)を受けます。前回の取り残しを切除するためです。一応二泊三日の予定ですが、出血が多いときなどには、前回と同じく主治医の判断で入院が延びることもあります。
 
・この手術のあと、一週間に一度、六週間にわたって、BCGを膀胱内に注入します。膀胱がんの特徴は、再発の可能性が高いことにあり、この治療は、がん細胞を死滅させ、再発やステージの進展を予防する目的で行なわれるものです。しかしながら、この治療には、人によっては激しい副作用(血尿、排尿痛、排尿困難、発熱等)が伴い、途中で別の治療に変更することもあるそうです。
 
・BCG注入の治療のあとは、二、三箇月おきに来院して、内視鏡で膀胱内を観察し、再発が確認できれば、そのつどTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)により切除することになります。これをとりあえず二年間続けることになるとのことでした。しかし、この切除手術を繰り返すと膀胱の機能に悪影響を与え、結果として、尿路の変更、つまりは膀胱の全摘出による人工膀胱への切り替えをしなければならない事態へと発展する可能性もあるとのことでした。
 
・五年生存率についてお聞きしましたが、明快な答えは返ってきませんでした。ネットで調べる限り、七〇%か八〇%ではないかと推定されます。この数値は、私の同じ状態の患者が一〇〇人いれば、その内の二〇人から三〇人は、五年以内に死亡することを意味します。
 

主治医によれば、以上が、この状態のがんに対する最良の標準的な治療方法だそうで、私もそれに同意しました。これから、いよいよがんとの闘いがはじまります。

主治医から受けた説明で印象的だったのは、かなりの確率で再発するため、何とかそれがステージの進展や他器官への転移につながらないことが最も重要である、ということでした。ステージⅡおよびⅢに進展すれば、つまり、筋層浸潤性がんが発生すれば、膀胱を全摘出し、それに代わって人工の膀胱を装着することになりますし、他の臓器への転移が認められるステージⅣになれば、もはや膀胱の摘出もなされず、全身の抗がん治療となり、まさしく終末期の医療に入ることになるのです。

私は、ステージⅠであったことにとりあえず安堵しました。何とかあと九年生きて、著作集全巻を完結する見通しが少し見えてきからです。しかし、これからの治療の過程で、望まない状況に進むことも、一方で十分考えられます。少しずつ様子を見ながら、そのときそのときで最善の対応をとるしかありません。楽観もせず、悲観もせず、現状をしっかり認識したうえで、一日一日、充実した勉強と、山での自然の生活を楽しみたいと考えています。(六月)

一七.みなみ阿蘇・野の花コンサートの開催

今年も、みなみ阿蘇・野の花コンサートが開催されました。八回目になります。このコンサートは、一九八一(昭和五六)年から二〇一四(平成二六)年まで三四回にわたって開催されてきた「はなしのぶコンサート」を継承するものです。これまでは、阿蘇野草園の屋外を会場に催されていましたが、今年から、お隣りの休暇村南阿蘇の「テラスハウス」での開催になりました。この時期は雨が多く、演奏者にとってはこの方がいいのかもしれません。しかし観客は、持参した敷物やイスを使っての野外からの鑑賞となります。私もイスと傘を用意しました。ときおり小雨が降りましたが、予定どおり、最後まで進行してゆきました。

出演したのは、地元の高森高校SPO吹奏楽団と南阿蘇中学校吹奏楽部、熊本市内の尚絅中学校・高等学校のギターマンドリン部などの団体でした。これが第一部で、午後からの第二部では、熊本県立鹿本農業高校の生徒や東海大学の学生らによる野草を守る取り組みの報告、加えて阿蘇野草園観察会が予定されていました。私自身は、第一部だけの参加でしたが、その幕間を利用して、「ハナシノブについて」と題して専門家による短い講話がありました。ハナシノブは、茎が三〇センチから五〇センチほどまっすぐに伸び先端に薄紫の小さな花を咲かせる、この土地にしか自生しない、いまや絶滅危惧種に指定されている、貴重な植物です。講話によりますと、これまでにハナシノブを絶滅に向かわせていた要因としては、「盗掘」「原野の縮小」「交雑」の三点が考えられていましたが、近年はそれに加えて、「気候の温暖化現象」の脅威を見逃すことができないとのことでした。昨年のこの土地の気温は、前年までの平均気温を二度上回っており、わずか一度の上昇であっても、植物の生息には大きな危険因子となっているようです。この日は、「テラスハウス」のステージに上がる階段に一〇体のハナシノブの鉢植えが並べられていました。

大自然のなかに響き渡る吹奏楽やマンドリンの美しい音色を聞きながら、他方で、ハナシノブの息苦しさを訴える声に耳を傾けながら、梅雨の日のひとときが、今年もまた、過ぎてゆきました。(六月)

一八.娘の来熊

去年に続けて、仕事の関係でこの時期、神戸に住む娘が熊本に来ました。私の山の家に二泊しました。話題はどうしても、私のがんのことになります。まだ私にがんが発生する数年前から、先を見越して、不測の事態に際しての対応について、ふたりの子どもに伝えていたのですが、いまや、それがやや現実のものとなり、この滞在のおりに、改訂版「私の今後について」をつくり、その内容を娘に伝えました。シンガポールに駐在する息子には、例年一時帰国する年末年始に伝えたいと思っています。

ひとり暮らしの老人が増えているといいます。私もその仲間です。一番気をもむのは、最期に際して、子どもたちに迷惑や負担をかけたくないという思いの扱いです。最後の入院、葬儀、家や家財の処分、どれをとっても、大変重たい対応を強いることになります。これから、がんとの闘いがはじまります。事態の変化に伴って、「私の今後について」の文章も書き換えてゆくことになります。いよいよ私の人生も、終わりに近づいてきています。これがいまの実感です。(六月)

一九.図書館での珍事

熊本市内にある図書館に行きました。一〇冊借りていた資料のうちの三冊を返却し、残りの七冊を再借用、加えて、新たに三冊を借りる手続きをしました。新規借用の三冊は、これから書庫に行き取りそろえておくので、退館するときに受け取ってはどうかということになり、私はその提案に従い、閲覧室で別の資料に目を通すことにしました。二、三時間が過ぎ、予定していた資料の閲覧が終わりました。そこで再び窓口へ行き、頼んでおいた図書を受け取ろうとしました。すると、司書の人が数人集まって、何やらひそひそ話がはじまりました。どうやら、何か問題が発生したようです。コミュニケーションが途絶え、虚無的な時間が流れてゆきました。

結論が出たのでしょう、ひとりの司書の方がカウンターから出てきて、私に話しかけました。その説明によると、私が借用の手続きをした三冊を、間違って別の来館者に渡し、その来館者はすでに館外に出てしまったようです。そこで、これからその人に連絡をとり、指定場所まで受け取りにいき、返却が確認されたら私に連絡するので、いましばらく待ってほしいということでした。

なぜ担当者は本人確認をしないまま、渡してしまったのでしょうか。また、来館者は、内容確認をしないまま、受け取ってしまったのでしょうか。一瞬、キツネにつままれたような話の内容でしたが、人間のミスは、えてしてそのようなものであると、これまた不思議にも魔法にかかったように、怒りも笑いも何もなく、感情が停止したまま、その状況を受け入れてしまったのでした。(六月)

二〇.町による備蓄米の配給

次のようなことが、新聞紙上で報道されました。

熊本県高森町は、コメの不足や価格高騰への対応を求める町民の要望を受け、民間からコメを仕入れ町内の子ども食堂や子育て世帯などに無償で配布する緊急支援事業を始める。配布は七月上旬を予定。町によると、今回の米価高騰を受けて自治体が現物配布方針を打ち出すのは熊本県で初めてという。

JA系の熊本パールライス(菊陽町)から、政府備蓄米(二〇二三年度)を五キロ当たり三、四〇二円で計一〇トン購入する。配布先は子ども食堂四箇所、中高生の下宿五箇所、一八歳以下の子どもがいる三五六世帯、六五歳以上の単身高齢者の七一九世帯、精米したコメを食堂には九〇キロ、下宿は子ども一人当たり一〇キロ、子育て世帯は一〇キロ、高齢者世帯は五キロ配る。

配布は高森町内のコメ販売店三箇所に委託。対象者は、町が発行する引換券を販売店に持ち込む。引換券は高齢者には町が郵送。子育て世帯は世帯主が町の公式LINE(ライン)を通して申し込み、電子チケットを受け取る。余ったコメは学校給食で活用する。

以上が、新聞が報道したおおまかな内容です。

それからしばらくして、町役場からお米の引換券が送られてきました。(七月)

二一.セカンドTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)

予定されていた七月一〇日、二度目のTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)を受けました。前回と全く同じ内容の手術ですので、幾分気持ちに余裕がありました。手術が終わり病室に運ばれました。主治医から、内視鏡で見る限り、がんの組織はすべて切除したことが告げられました。二泊三日の入院中、前回のように体調や気分に大きな陰りがあるようなことはありませんでした。事前に医師から聞いていたのですが、二度目とあって、免疫力が形成されていたのかもしれません。翌日には、点滴も、尿道留置カテーテルも取れました。痛みはなかったものの、血尿が続いていましたので、止血剤を服用することになりました。退院予定の朝になってもまだ完全に普通の尿の色にもどっていなかったのですが、私の希望もあって、主治医の許可が出ることになりました。私の思いのなかにあって、あと一日か二日で改善することが、前回の経験から感じられていたからです。

予感どおり、退院して自宅に帰って翌日には、血尿が止まりました。しかし、頻尿と尿漏れの解消までには、まだ時間を必要とする状態でした。退院から三日後、予定どおり病院から現状確認の電話がありました。血尿改善の話をすると、「それはよかったですね」という返事が返ってきました。次は、今回の手術で採取した細胞の病理検査の結果を聞くために、八月四日に病院に行きます。そしてそのとき、今後の薬物治療についての説明があるものと思われます。やっとふたつ目の山を越えました。しかし、まだ闘いは続きます。(七月)