中山修一著作集

著作集10 研究断章――日中のデザイン史

第二編 月份牌――中国近代のカレンダー・ポスター(于暁妮との共著論文)

第一章 月份牌の出現を巡って――一八七五-七六年

第一節 月份牌の起源に関する諸説と新発見

その当否は別にして、現在中国の広告研究者のあいだで「 月份牌 ユェフンパイ 」、あるいは「老月份牌」と呼ばれるものは、一九四九年の中華人民共和国建国以前に製作された商業広告ポスターのことを指すのが一般的で、なかでも、一九三〇年代以降に製作された、チャイナドレスを着る女性をモティーフとした「美女図」が月份牌の典型的なイメージとされる。しかし、月份牌という言葉の本来の意味は、「暦を表示する札」、つまりカレンダーのことなのである。商業広告のイメージがあまりに強すぎるため、今日ではこうした本来の意味はほとんどの研究者たちのあいだでさえも忘れ去られている。そのため月份牌の起源や初期の状態については、きわめて曖昧かつ簡単にしかこれまで語られず、また、カレンダーとしての月份牌についての研究はほとんど皆無に等しい状況が続いてきた。したがって、この第一章では、カレンダーとしての月份牌の出現とその初期の社会的役割を明らかにすることを目的とする。

年画史研究者の 王樹村 ワン シュウツゥン は、一九五九年の『美術研究』(中央美術学院)のなかの「記“滬景開彩図・中西月份牌”」と題された論文において、「月份牌」という名称が最初に出現するのは、一八九六年に鴻福來票行が発行した「滬景開彩図」という題名をもつ作品のなかに記載されていた「中西月份牌」【図七】であったと主張し、「月份牌」という名称は、これを起点にその後広く一般化していったと指摘した。以下が、その該当箇所の引用である。

 月份牌画のはじまりは、最初に上海四馬路鴻福来呂宋大票行が行なった宝くじの贈呈品としての「滬景開彩図、中西月份牌」というものからである。この図が出現した以降、「月份牌画」の名称が使われるようになった。その後、これより変化したカラー石版印刷の新たな形式の年画も「月份牌式年画」と呼ばれることになった

鴻福來票行とは、上海にあった「鴻福來」という名の宝くじ売り場であり、「滬景開彩図」とは、「上海の景色と宝くじの抽選会の様子を描いた図」という意味である。また「中西月份牌」とは、中国暦と西洋暦の合暦という意味をもつ。王の説は、その後この分野の研究者にたびたび引用され、月份牌の起源に関する不動の説として最近に至るまで引き継がれていった。

たとえば、一九九七年に至っても、 宋家麟 ソン ジャリン 編の『老月份牌』に所収されている「我看老月份牌」において著者の 陳士 チェン シ は、月份牌の起源に関する王の説を、そのままのかたちで用いて、次のように紹介している。

我が国の著名な年画研究家の王樹村先生の考証によると、「月份牌」という言葉が一番早く出てきたのは、清時代の光緒二十二年(一八九六年)である。当時繁栄していた上海の四馬路にある鴻福来呂宋大票行が「滬景開彩図、中西月份牌」という絵によるカードを宝くじと一緒に贈呈したことにはじまる。この図が出現してから、「月份牌」という名称がいまに至るまで使われることになった

さらに王の影響は、二〇〇八年までにも及ぶ。『美女月份牌』に所収されている解説文「我看月份牌」のなかで著者の 張錫昌 ジャン シチャン は、上に引用した陳士の言葉を全くそのままそっくり使用して、月份牌の起源について語っているのである

このように、今日に至るまで、王の説は強い影響力をもっているのであるが、しかし実際は、張錫昌の文章(二〇〇八年)に先立って、二〇〇二年には 張偉 ジャン ウェイ によって、王が主張する一八九六年以前に、すでに月份牌が存在していたことが明らかにされていたのである。張偉は、月份牌の起源は『点石斎画報』の創刊と密接な関係があることをまず述べたうえで、最初の月份牌は、申報館が点石斎石印書局に委託して製作がなされ、一八八四年二月二日の『申報』の景品として贈呈されたものであるとの見解を示した。以下が、このことについての張の主張箇所である。

最初の月份牌は、一八八四年に申報館が印刷し、お正月のときにプレゼントとして読者に贈呈されたものである……一八八四年の『点石斎画報』の創刊は、中国におけるニュース画報の様式と、描画における上海様式(海派)との形成をリードすることになった。同じくこの年に申報館が石版月份牌の印刷を開始し、そのことは、知らず知らずのうちに中国美術のもうひとつの先端に立つことになった

そして張は、上記内容の証拠資料として、一八八四年一月二五日の『申報』のなかの次の広告の文言を挙げるのである。

 月分牌を差し上げます。申報館主人より。
 当館は、点石斎[石印書局]に依頼し、華洋の月分牌[中国と西洋の合暦]を特別に製作しました。来年一月の初六日付の新聞に挟んで無料で贈呈します。この「牌」は、特別に加工され、字には赤と緑の二色が使われています。中国暦が赤い字、西洋暦が緑の字になっており、二色が交互に表われて模様のような感じになっています。中国暦の二四の節句を月の下に配しています。西洋の日曜日も行と行のあいだに記されているので、調べるのにとても便利です。厚くて白い外国紙に印刷し、牌の周りには縁の飾りも印刷されており、とてもきれいです。お好みで、壁に掛けても書氈に挟んでもとても美しいです。どうぞお楽しみに

『点石斎画報』とは、一八八四年五月八日に『申報』の発行元である申報館によって創刊された単色石版印刷による画報であり、一号八頁で構成されていた。これが中国最初の画報であり、用いられた石版印刷は、当時はまだ最先端の印刷技術であった。張は、そうした技術が月份牌を印刷するための土壌となり、その技術を有する点石斎石印書局で一八八四年に印刷され、申報館から発行された月份牌が、月份牌の起源であると主張しているのである。このように、張が指摘する最初の月份牌とは、上に引用した一八八四年一月二五日の『申報』の広告のなかで文字によって描写されている「月份牌」のことであって、実際のこの「月份牌」の画像がどのようなものであったのかを、現時点で知ることはもはやできないのではないだろうか。というのも、新聞や雑誌などの印刷物の図版としてだけでなく、実物としてもまた、現存していないものと思われるからである。

この張の説は、王の説を確かに覆すものである。だが、 鄭立君 ヂェン リジュン は、張が主張する一八八四年よりもさらに溯る一八七六年を月份牌の起源として挙げている。鄭は、二〇〇七年に上梓した『場景與図像――二〇世紀的中国招貼芸術』のなかで、月份牌の発行についての中国大陸における最初の文献記録が、一八七六年一月三日(光緒元年十二月初七日)の『申報』に掲載された海利号(会社名)の月份牌の広告【図八】であることを主張しているのである。鄭が月份牌の最初の記録として掲げるその広告とは、次のような内容のものであった。

 中国と西洋の月份牌。
 当店は光緒二年の中国暦と西洋暦併記の月份牌を印刷し発売しております。そのなかにイギリス、アメリカ、およびフランスの船会社の書簡を運ぶ船の出入港日が記載されており、それは英語から訳されて、正確に記されています。また色刷りなので、とても見やすいです。価格も良心的ですので、どうぞご愛顧を。以上お知らせまで。
 十二月初七日 棋盤街 海利号 啓

中国暦と西洋暦を併記した月份牌の販売を告示するこの広告は、確かに張の挙げる一八八四年の広告よりも先立つものである。しかしながら、私は調査を通じて、『申報』にはじめて月份牌という言葉が出現したのは、鄭が示した一八七六年一月三日の広告ではなく、そのおよそ一年前の一八七五年一月二九日に掲載された広告であることを発見した【図九】。この広告こそ、『申報』に掲載された月份牌についての最初の記録にほかならない。それは、次のような内容を有するものであった。

 値引きして販売します。
 新しくできたイギリス、フランス、アメリカ三箇国の会社の蒸気船の出入港の期日が付いた月份牌を発売中です。一枚、一五〇文。
 瓊記洋行内印字房 謹啓

この広告は、瓊記洋行という会社が出した広告である。瓊記洋行は、茶の貿易を行なっていたアメリカ資本の商社である。「印字房」は、印刷室、または印刷工場を意味する言葉であると思われる。したがって、この広告は、この商社自らが印刷工場を有し、その会社の所在地である上海で月份牌が印刷されていたことを示している。またこの広告から、この印刷工場は、点石斎石印書局よりも一〇年ほど早く操業していたことがわかるし、このことによって、月份牌の出現を点石斎石印書局と結び付ける張偉の主張にとっての根拠は、この時点で、消滅することになるであろう。

また一方で、この月份牌が蒸気船の出入港の期日を示した印刷物であった以上、事の起こりからすれば、明らかに月份牌は年画とは全く関係がなかったことも、明らかであろう。そのような意味において、月份牌の起源を年画に求めようとする王樹村の主張が適切でないのは、明白である。というのも、年画と呼ばれるものは、縁起や繁栄や幸福、あるいは魔除けや神様を象徴する物語の一部を絵として描いたものを指すことが一般的であるからである。

それ以上に重要なのは、一八七五年には月份牌という印刷物がすでに中国で印刷されていたことである。これは、月份牌の起源を「一八九六年」とする王樹村の説よりも、また「一八八四年」とする張偉の説10よりも、さらには「一八七六年」とする鄭立君の説11よりも早い年なのである。つまり、『申報』を根拠資料とする限り、最初の月份牌に関する記述は「一八七五年」であり、実際の月份牌の出現の時期も、ほぼこれと同時期であったであろうと推量できるのである。

第二節 合暦としての月份牌の原型

以上の第一節において述べたことからもわかるように、『申報』において「月份牌」という文字が最初に登場するのは、私が発見した「一八七五年」の広告であった。次に登場するのが、鄭立君の主張に見られる翌年の「一八七六年」の広告においてである。つまり、一八七〇年代の『申報』に認められる月份牌は、この二件の広告のみにおいてであった。

それでは、これらのふたつの広告に登場する最初期の月份牌は、どのような目的でもってこの時期に製作されたのであろうか。改めてそのふたつの広告を以下に引用し、その記載内容を比較してみたいと思う。

 値引きして販売します。
 新しくできたイギリス、フランス、アメリカ三箇国の会社の蒸気船の出入港の期日が付いた月份牌を発売中です。一枚、一五〇文。
 瓊記洋行内印字房 謹啓。
 [一八七五年一月二九日付の『申報』に掲載された広告]

 中国と西洋の月份牌。
 当店は光緒二年の中国暦と西洋暦併記の月份牌を印刷し発売しております。そのなかにイギリス、アメリカ、およびフランスの船会社の書簡を運ぶ船の出入港日が記載されており、それは英語から訳されて、正確に記されています。また色刷りなので、とても見やすいです。価格も良心的ですので、どうぞご愛顧を。以上お知らせまで。
 十二月初七日 棋盤街 海利号 啓。
 [一八七六年一月三日付の『申報』に掲載された広告]

最初期の月份牌は、一八七五年の広告に見られるように、イギリス、フランス、アメリカの三箇国の会社の蒸気船が、いつ上海の港に出入港するのかを示したものに加えて、「月份牌」という名称から推量して暦(カレンダー)が記載されて構成されていたものと思われる。もっともこの広告には、その「月份牌」(暦つまりカレンダー)が中国暦なのか西洋暦なのか、あるいは合暦なのかは明示されていないので、そのことは判然としない。

しかし、進んで翌年(一八七六年)の広告には、この月份牌には、イギリス、アメリカ、フランスの書簡を運ぶ船の出入港日の記載に加えて、中国暦と西洋暦が併記されていることが明示されている。したがって、このことから判断すれば、前年(一八七五年)の月份牌も、確かに「華英」という文字は「月份牌」の頭に付けられていないものの、中国暦と西洋暦が併記された合暦だった可能性が高いのではないだろうか。

こうして『申報』に表われた広告を見る限り、このふたつ記述内容をもって月份牌の原型として認めることができるであろう。

第三節 合暦出現の背景

それではなぜ、この時期に合暦が必要になったのであろうか。

南京条約によって開港された上海は、一八六〇年代になるとすでに広東を抜いて、中国最大の貿易港となっていた12。一八七二年に 李鴻章 リ ホンジャン により輪船招商局が設立され、中国の船舶がやっと運航を開始したものの、すでにこの時期までには、上海の内外航路にあって、イギリスとアメリカの会社を中心とした多国間競争がはじまっていた。

当時、イギリスの海運業界には「三大会社」が存在していた。ひとつ目の大英輪船公司(Peninsular & Oriental Navigation Co.)は、一八三七年にロンドンで創立され、一八四五年に上海-香港航路を開いている。ふたつ目の太古洋行(Butterfield & Swire)は一八六六年に設立され、中国航業公司(China Navigation & Co.)を経営し、東方の各港に向かう中国の内陸河船を運航することになる。同公司の営業能力は、招商局の数倍以上であった。三つ目の怡和洋行(Jardine, Matheson & Co. Ltd.)は、印度中国航業公司(Indo China Steam Navigation Co.)を運営し、一八七五年に設立された同公司はロンドンに本社が置かれ、インド以外に、中国の各港と内陸河川までにも手を広げていた13

このほかに、アメリカ資本の会社である旗昌輪船公司(Shanghai Steam Navigation Co.)は、一八六二年から一八七七年のあいだ、長江の航路を独占していた14。フランス資本の法蘭西火輪公司(Service Maritimes Des Messageries Imperiales)は、フランス政府の支持を受けて中仏の直行航路を開き、イギリスと生糸貿易の利益を奪い合った。そして、日本郵船会社も一八七四年に創立されて、上海-横浜、上海-神戸線を寡占的に運営し、上海経由の日本-ヨーロッパ線も有していた。また、ドイツ、イタリア諸国の小郵船会社も多数存在し、一八六〇年までに上海の主要商社が所有している船舶だけでも九九隻、容積二〇、八五二トンを超えていた15

これらの汽船は、中国の内外航路で貨物や旅客、それに郵便物を運んでいた。激しい競争により各会社は運賃の大幅な値引きを行ない、船は大いに利用されるようになった。その結果、開港前の上海において主要な交通手段となっていた中国の人力船である「沙船」の数は激減した16 朱伯康 ジュ ボカン 祝慈寿 ジュ ツシュウ は、「抗戦[一九三七年]前の中国では、すべての領海と内陸河川航路のあらゆるところに外国汽船の勢力があった。それに比べて、中国[自身]の航業は、取るに足りないほど小規模であった」と記している17

前述の一八七五年と一八七六年の広告に認められる、出入港日が記載されたカレンダーは、このような社会的文化的背景のなかから出現したと考えてよいだろう。つまり、海運業と貿易業の発展に伴い、外国船舶の上海港への出入りの正確な日程表が、この時期までに必要とされるようになったのである。ところが、そこには大きな幾つかの問題が含まれていた。たとえば、船名や寄港地の名称などの用語や言葉に関して英語から中国語へ翻訳しなければならない問題があったのは、いうまでもないことであったであろうが、それ以上に重要な問題が存在していた。ひとつは、西洋暦の中国暦への変換であり、もうひとつは、算用数字の漢数字への置き換えの問題であった。

ひとつ目の問題――西洋暦から中国暦への変換。

一般的に中国においては、伝統的な暦を陰暦と呼び、西洋のグレゴリオ暦が入ってくると、陰暦のことを華暦、グレゴリオ暦のことを陽暦(ある場合には西暦)と呼ぶようになる。中国において陽暦が正式に使われるようになるのは、中華民国の建国(一九一二年)以降のことである。それ以前にあっては、日常生活においては伝統的な陰暦が使用されていた。

一方、この時期の『申報』を見ると、年月の表示は、創刊時から陰暦と陽暦が併記されている。皇帝の年号(同治)と干支(乙亥)、そして陰暦の日付(十二月初七日)が、それぞれ目立つ位置に縦書きにされ、それに対して、その日に対応する陽暦の日付と曜日(中国語では「曜日」を「礼拝」と表示する)が、目立たない場所に小さく横書きで表記されている。このように『申報』においては、文字の大きさや記載場所には差があるものの、確かに双方の暦が表記されていたのである。これは、『申報』が商業新聞だったことに由来していたのかもしれない。それでも、当時の一般的な中国人の日常の時間感覚のなかにあっては、いまだ陰暦が主導的地位を占めていたものと思われる。

当時、イギリスやアメリカやフランスなどの海外の船舶の出入港に関する日程表あるいは時刻表の原本は、当然ながら陽暦で記されていたに違いない。そこで、こうした暦を巡る中国固有の事態のなかにあって、陽暦を陰暦へと変換する必要性が生じたものと思われる。それゆえに、一八七五年と一八七六年の月份牌には、出入港日の日程に加えて、中国暦(陰暦)と西洋暦(陽暦)の合暦が記載されていたのであろう。つまり、明らかに月份牌は、外国船舶の運航にかかわって陽暦から陰暦への変換という役割を担って、この時期に出現したのであった。

もうひとつの問題は、アラビア数字の漢数字への置き換えの必要性であった。

上述の一八七六年の広告のなかには、「英語から訳されて、正確に記載されています」という文言を認めることができる。この文言は、この月份牌においては、用語や言葉の翻訳、そして暦の翻訳(変換)だけでなく、さらには、数字の翻訳が正確になされているということを示しているのではないだろうか。このことは、単に「January」「February」といった月名を「一月」「二月」に訳したことを意味しているだけではなく、アラビア数字を中国数字に変換するという、実質的な数字の置き換えを指しているものと思われる。

数字そのものを計算(筆算)に用いる西洋数学と異なり、計算を筆算ではなく算盤と暗算で行なう中国数学においては、数字は計算のためにあるのではなく、計算の結果を記録する符号として使われるものであった。そのために、アラビア数字のように計算に便利な記数法は、いまだその当時、全く受け入れられていなかった。同時期の『申報』においても、日付や時間の表示はすべて中国数字(たとえば、一、二、三など)、あるいは漢字(たとえば、壹、貮、参など)で記載されていた。この状況は、長いあいだ変わらなかった。たとえば、一八八四年一〇月一六日の『申報』に掲載された呂宋島(ルソン島)宝くじの広告のなかに、次のような一文を見出すことができる。

……券[宝くじ]に書かれた年月番号[数字]と、宝くじの合わせ番号の数字がすべて洋文のため、お客様にわからない恐れがありますので、本社では毎月、[その両方の番号を]中国語に訳し、当月の当たり番号と一緒に印刷して発表しています18

ここでわかることは、当時の中国にあっては、西洋のアラビア数字は「洋文」、つまりは、意味不明の外国語だったことである。

言語研究者の 馮志偉 フォン ジウェイ によると、書き言葉にアラビア数字を使うことを提案したのは、 朱文熊 ジュ ウェンション であった19。朱が一九〇六年に出版した『江蘇新字母』のなかでは、すべての数字にアラビア数字が使われている。その後、一九〇八年に 劉孟楊 リュウ モンヤン は、『中国音標字書』において、アラビア数字を中国語で使う際の基準について論じた。しかし、中国語の縦書きの習慣により、アラビア数字が広く使われることはすぐには実現しなかった。アラビア数字の使用が徐々に普及しはじめるのは、一九五〇年代以降、中国書籍が横書きに改められてからのことである。

したがって、一八七〇年代の中国人にとっては、1234567890のアラビア数字は、英語と同じ外国語であり、そのために翻訳が必要とされたのであった。つまり、一八七六年の広告のなかで言及されている、「英語から訳されて、正確に記載されています」という文言に隠された、もうひとつの意味は、アラビア数字が中国数字(ないしは漢字)に訳されているという意味であったに違いない。こうして一八七五年と一八七六年の『申報』の広告で触れられていた月份牌は、暦の変換を助けるために合暦が記載されていただけでなく、船舶運航の日程表や時刻表にかかわってアラビア数字が中国数字(ないしは漢字)に変換されて記載されていたものと思われる。

以上のことからわかることは、船舶の出入港の日程を正確に書き表わした、単色か多色かは不明ながらも「色刷り」の印刷物が、当時の上海の海運業や貿易業の発展過程において必要とされるようになり、そのために、その印刷物には、西洋暦(陽暦)から中国暦(陰暦)へ容易に変換できるように、双方の暦が記載され、さらには、アラビア数字もまた、中国数字(ないしは漢字)に訳されて記載され、「一枚につき一五〇文」ないしは「良心的」な価格で販売された、ということである。おそらくは実作はどこにももはや残されていないものと思われるものの、これが、いまになっては想像することさえ困難な事象として受け止められることになるかもしれないが、間違いなく、一八七〇年代半ばにおける最初期の月份牌の実像だったのである。

第四節 最初期の月份牌の印刷技法

それでは、一八七〇年代半ばころの最初期の月份牌は、どのような印刷技法を使って製作されていたのであろうか。

賀聖鼐 ヘ シィンナイ の「三十五年来中国之印刷術」によると、中国ではじめて石版印刷技術が用いられたのは、光緒二年(一八七六年)、上海徐家匯土山湾印刷所においてであった。しかし、同論文によれば、その印刷物はキリスト教の宣伝用品に限られており20、さらに石版印刷技術を書籍などの印刷物に用いたのは点石斎石印書局が最初であった21。つまりそのことは、石版印刷が商業用に用いられるのは、点石斎石印書局22が設立される一八七九年以降のことであったことを意味する。そうであるならば、それよりも早い一八七五年の瓊記洋行と一八七六年の海利号の『申報』のなかのふたつの広告に記載された月份牌は、石版印刷によってつくられた可能性は低く、そのことは、最初期の月份牌が、石版印刷以外の印刷技法によって製作された可能性を示唆することになる。

それでは、石版印刷以外の印刷技術としては、どのような印刷技術の可能性が考えられるのであろうか。

確かに、その後の一八九〇年代における『申報』に掲載された月份牌に関する広告のなかには、銅版画による月份牌が存在していたことが書かれている。その広告は、一八九三年一月二九日の『申報』に掲載されたもので、以下のように記載されている。

 銅版多色月份牌を贈呈します。上海楽善堂老舗薬局。
 当店では、十数年以来、毎年お正月のときに銅版多色月份牌を贈呈するのが、すでに恒例となっており、各界の称賛をいただいています。いままた工費を惜しまず、癸巳十九年(一八九三年)の合暦[西洋と中国暦の合同暦]を製作しました。ただいま上海に届きました。十二月の十一日(一八九三年一月二八日)から当店で商品を購買されたお客様ひとりにつき一枚を贈呈いたします。お知らせまで23

これは、上海の薬屋である上海楽善堂老舗薬局が出した広告である。明らかにこの広告は、一八九三年という時期にあって、銅版画による多色月份牌が存在していたことを示すものである。このことを念頭に置いて、中国において商業印刷に石版印刷が適用されるのが、点石斎石印書局が設立される一八七九年以降であるとする賀聖鼐の見解に従うならば、一八七九年以前の広告、たとえば、一八七五年の瓊記洋行と一八七六年の海利号のような広告に記述された月份牌は、ほぼ間違いなく、石版印刷ではなく、この引用において述べられているような、たとえば、銅版画のような印刷技術によって印刷されていたことになる。しかし、別のこの時期の『申報』の広告を見ると、月份牌が、銅版画だけではなく、鉛版画や木版画によっても刷られていたことが示されている。以下は、一八八八年一一月二〇日の『申報』の広告である。

 多色月份牌を卸し売りします。
 当店は、名家の書画、西洋の銅版、鉛版、木版、および中外の文字の製版印刷を専門としています。新しい多色刷りで「八獣百子図」と「西廂」の物語の全場面を描いた月份牌を卸し売りします。値段は良心的です。上海新北門内黒橋浜にお越しください。
  高梅庭 ガオ メイティン  啓24

この広告は、この店が、名家の書画を「西洋の銅版、鉛版、木版」で印刷することができること、中国と西洋の文字を使うことができること、「八獣百子図」と「西廂」を内容とする月份牌を卸し売りしていることを示すものであるが、必ずしもこのときの月份牌が、銅版、鉛版、木版のいずれの技法で印刷されたのかについては明確に示されてはいない。しかしながら、この広告は、印刷技術として、銅版画以外に、鉛版画や木版画もまた、月份牌の印刷技術として利用されていた可能性を示しているといえるのではないだろうか。

以上に述べてきたことから、最初期の月份牌の印刷技術についてまとめると、石版によって印刷されるのは、賀の研究に従うならば、一八七九年以降ということになり、また、少なくとも一八八八年の時点までは、銅版、鉛版および木版によって月份牌が印刷されていた可能性が残されており、そのうちの銅版による印刷は、少なくとも一八九三年の時点までは、月份牌の印刷技術として存続していたということになるであろう。それを踏まえるならば、一八七〇年代半ばの最初期の月份牌は、石版の可能性は低く、銅版、鉛版、ないしは木版の技法を使って印刷されていたと思われるのである。

(1)王樹村「記“滬景開彩図・中西月份牌”」『美術研究』1959年第2号、57頁。  同じこの雑誌のなかで、歩及は、「解放前的“月份牌”年画資料」という論文において、月份牌という名称は、1885年ころすでに天津にある年画製作で有名な桃花塢という村で使われていたことを指摘している。しかし、彼のこの主張は、その後の研究者に注目されることはほとんどなかった。

(2)陳士「我看老月份牌」、宋家麟編『老月份牌』上海画報出版社、1997年、4頁。

(3)張錫昌「我看月份牌」、張錫昌編『美女月份牌』上海錦繍文章出版社、2008年、3頁。

(4)張偉『滬涜旧影』上海辞書出版社、2002年、15頁と65頁。

(5)1884年1月25日付『申報』。

(6)鄭立君『場景与図像――20世紀中国招貼芸術』重慶大学出版社、2007年。

(7)1876年1月3日付『申報』。

(8)1875年1月29日付『申報』。

(9)王樹村「記“滬景開彩図・中西月份牌”」『美術研究』1959年第2号、57頁。

(10)張偉『滬涜旧影』上海辞書出版社、2002年、15頁。

(11)鄭立君『場景与図像――20世紀的中国招貼芸術』重慶大学出版社、2007年、16-23頁。 

(12)1875年1月29日付『申報』。

(13)1876年1月3日付『申報』。

(14)陳正書『晩清経済』(熊月之主編「上海通史」第4巻)、上海人民出版社、1999年、300頁。

(15)朱伯康・祝慈寿『中国経済史綱』商務印書館、1946年、220-221頁。この書物は、「民国叢書」編輯委員会編『民国叢書』第1編35巻経済(上海書店、1990年)に所収されており、本論文の執筆に際しては、こちらの1990年刊行の復刻版を用いた。

(16)陳正書『晩清経済』(熊月之主編『上海通史』第4巻)、上海人民出版社、1999年、300頁。

(17)聶宝昌主編『中国近代航運史資料』第1輯、上海人民出版社、1983年、16頁。

(18)1884年10月16日付『申報』。

(19)http://www.yukexue.org/jianti/forum/viewtopic.php?t=224(2009年10月15日現在)における馮志偉「漢語書写形式的改革是歴史的必然和時代的需要」。

(20)賀聖鼐「三十五年来中国之印刷術」商務印書館編『最近三十五年之中国教育』1931年版(『民国叢書』編輯委員会編『民国叢書』第2編45巻文化・教育・体育類、上海書店、1990年に再録)、187頁を参照。

(21)同上、188頁を参照。

(22)点石斎石印書局は、『申報』の創刊者のアーニスト・メイジャーにより1879年に設立された。点石斎石印書局は、技師として土山湾印刷所の邱子昂を招いた。最初の印刷物は、皇帝や西太后の命令に関する『聖諭詳解』という本であった。

(23)1893年1月29日付『申報』。この日付は中国暦によれば「光緒十八年十二月十二日」であり、このことは、お正月前に、西洋と中国暦の合同暦である月份牌が贈呈されていたことを示している。 

(24)1888年11月20日付『申報』。