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「フェロセン」という分子

東邦大学「Molecule of the Month」より転載

icon 歴史

図1. フェロセンの構造式
フェロセンは、Fe(C5H5)2という化学式で表される分子である。鉄イオン(Fe2+)が、2枚の五角形をしたC5H5-ではさまれた面白い形をしているため (図1)、サンドイッチ化合物ともよばれる (私たち日本人はつづみ型錯体と呼びたいところだが)。 この分子は60年ほど前 (1951年)に合成されたが、意図して構築された構造ではなくいわば偶然の産物である。X線構造解析によってサンドイッチ型分子であることが証明された (1954年)。炭素と金属が結合した分子は”有機金属化合物” と呼ばれ、フェロセンはその代表例である。フェロセンの発見は有機金属化学の歴史の輝くマイルストーンの一つで、有機金属化学の爆発的発展のきっかけになった。そしてフェロセンは1973年にノーベル化学賞を英独の化学者にもたらした。

icon フェロセンの性質

フェロセンはオレンジ色のごく普通の粉末である (図2)。芳香族化合物と似た反応性を示すため、化学修飾が容易でいろいろな誘導体を作ることができ (図3)、ロケット燃料の助燃剤やポリマーの添加剤など、意外なところにも使われている。
図2. フェロセンの粉末 (顕微鏡写真)
図3. フェロセンの反応例 (アセチル化)

フェロセンの大事な性質として、”酸化還元活性”がある。フェロセンを酸化すると電子を放出して+1価のカチオンになり、還元すると電子を受け取って元の中性状態に戻る性質である (図4)。つまりこの分子は”電子のいれもの”として振舞うのである。さらに面白いことに、カチオン状態では分子がスピンを持つようになり、これがこの分子を際立たせてユニークな存在にしている。このカチオンをアニオンと組み合わせるとイオン性結晶 (電荷移動錯体)が得られる。図5に[デカメチルフェロセン][TCNE]錯体の結晶中での構造を示した。なおデカメチルフェロセンは、フェロセンの水素原子をすべてメチル基に置き換えた分子のことである。これはアメリカのJ. S. Millerによって合成され、4.8 Kで磁石 (強磁性体)になることが明らかにされた有名な物質である (1986年)。以来フェロセンを用いた物質開発が盛んに行われ、基礎科学的な観点から興味が持たれてきた。
図4. フェロセンの酸化還元過程
図5. [デカメチルフェロセン][TCNE]の結晶構造

icon フェロセンを連結すると

フェロセンを二個つなぐとどうなるだろうか。それぞれのフェロセンが一個ずつ電子を放出できるので、この分子 (ビフェロセン)は1個ずつ2個までの電子の出し入れ (酸化還元)が可能となる (図6)。

図6. ビフェロセンの酸化還元過程


その結果,分子が取りえる状態の数が増えるのである。この性質を利用すると、電子状態のスイッチング機能を持った物質を開発することができる。この分子で作られた結晶の中では電子やスピンが飛び回り、温度や圧力を変えると激しい状態転換 (相転移)が起こるようになる。それに伴って、磁気的性質や力学的性質が激変し、興味深い現象が現れるようになる。例えば最近、温度によってビフェロセンのイオンの価数が+2価と+1価の間を行き来するユニークな化合物を発見した。このイオンの価数変化は自然界に従来存在していなかった全く新しい現象だが、物質設計の基本原理として普遍性を持つ概念であることがわかってきた。これは私達の研究室で行われているホットな研究の一例で、今後さらに新しい展開が開けつつある。