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2018年7月3日 Stockholm

厚生労働省の仕事で1日からSwedenのStockholmに来ています。初めてのSwedenです。2日の昨日は,朝からDB Schenkerという物流会社の倉庫を視察し,自動化がどれだけ進んでいるかを見せてもらい,午後はArbetsförmedling というドイツの公共雇用安定庁とでも呼べるところ(日本のハローワークに相当)に行き,その業務内容の説明を受け,最後にEUの事務所に行き,Meploy.meという派遣会社の創業者(社長)の業務内容のプレゼンを聞きました。

 スウェーデンは労働力人口が不足していで,機械化への取り組み意欲が高いようです。スウェーデン人の失業率は4パーセントくらいで,若年失業の問題がないわけではありませんが,それほど深刻ではないようです。むしろ深刻なのは,移民(シリア難民など)であり,受け入れに寛大であった国の政策がいま揺れつつあるようです(ただし,移民問題については政治的なデリケートなイシューなので,スウェーデン人からはなかなか本音は聞き出しにくい状況でした)。スウェーデンでは,単純労働(低技能でよいJOB)は全体の5パーセントしかないと推計されており,低学歴の人たちが移民も含めてその限られた雇用のパイを奪い合うという状況にあり,そのため移民も対象に含めた教育政策により,いかにして質の高い雇用に就けるようなスキルを身につけさせるかが重要な課題となっています。Arbetsförmedlingでは,実に手厚い教育指導をしており,とくに労働市場におけるvulnerableな人たちをターゲットにしたマンツーマンの指導,他方で,そういう人たちを雇用した雇い主への助成(税の軽減,補助金など)といった政策を組み合わせたサービス提供(民間への委託もわりとフレキシブルにやっています)をしています。

 労働力人口が減少すると,機械化で対応するという話になりますが,機械化が進むと人間に残された労働は定型的な労働に限定され,しかもその量自体もどんどん減っていく(省人化)ということが予想されています。スウェーデンは,そうした現象がいち早く起きているのかもしれません。労働力人口の減少への対応には外国人(難民であっても)は,有用であったかもしれませんが,機械化により徐々にその必要がなくなったとき,建前上は外国人も平等であるという旗は絶対におろしはしないでしょうが,国民のなかには,外国人はお荷物という意識が出てきていて,それが移民排斥政党が世論調査で急進してきている背景にあると思います。今年の秋に国政選挙と地方選挙(スウェーデンでは同時にやるそうです)があるのですが,そこでこれまでの中道左派的な政策(社会民主党が中心)を維持できるのか,それとも欧州の他国のように移民排斥政党が躍進するのか,たいへん注目されます。

 実質1日の滞在で,予備知識もなく聞いた情報を組み合わせただけなので,的を射ていないかもしれませんが,私のとりあえずのスウェーデン・リポートです。レイバー・アタッシェの先崎さんには大変お世話になりました。

 自由時間がほとんどない強行日程でしたが(それでも旧市街を歩くことができて,よかったです),いつかまたStockholmに戻ってきたいという気分になりました。

 夜は日本のサッカーの試合をみて,負けたショックもありましたが,寝不足と疲れですぐ寝てしまいました。次はBrusselです。

2018年6月?日 弥永真生・宍戸常寿編『ロボット・AIと法』

 弥永真生・宍戸常寿編『ロボット・AIと法』(有斐閣)を編者の宍戸さんと著者の一人の工藤郁子さんからいただきました。御礼が遅くなり申し訳ありません。総務省の会議でよくお見かけするメンバーが数多く執筆しています。
 きちんと読んでから紹介しようと思っていましたが,ちょうど来週から他学部向けの「法学」の授業が始まり,AIのこともやろうと思っていたので,授業の前に勉強をしようと考え,読んでみました。たいへん面白かったです。私自身が関心をもっているからかもしれませんが,これからの法学は,ロボティクスやAI抜きで語ることは不可能だと思います。まだ「AI系法学者(?)」は一部だと思いますが,これからの法学の議論でロボットやAIに言及しないのは,ありえないことではないかと思っています。そういうなか,本書は,実に適切でタイムリーな入門書だと思いました。以下,簡単な感想です。
 まずAI時代と法について,てっとり早く情報を得たい人は,宍戸さんのChapter1「ロボット・AIと法をめぐる動き」を読めば,それで十分です。総論として必要な情報がすべて入っていると言っても過言ではありません。工藤さんのChapter2「ロボット・AIと法政策の国際動向」と合わせて読めば,いまロボット・AIについて,どのような法的な課題があるのかが,よくわかります。
 Chapter3以降は,各論となります。気になった点をピックアップしたいと思います。一つは,新派刑法学への言及です。Chapter3の「ロボット・AIと自己決定する個人」(大屋雄裕)は,ロボット・AIの登場で,近代の法システムが前提としていた「意思-行為-責任」という連関が揺らいでいるとし,新たな選択肢として純粋結果責任の可能性を提示しています(大屋さん自身,積極的にこれを支持しているかどうかは不明ですが)。大屋さんの『自由か,さもなくば幸福か?』(筑摩書房)でも論じられているテーマですが,自由やプライバシーのない「ハイパー・パノプティコン」社会では,純粋結果責任を基礎とする新派刑法学に基づく刑事政策がとられ,あらゆる危険が未然に徹底的に防止される「幸福な社会」が到来するのでしょうか。その問いかけは重く深いものだと思います。
 新派刑法学については,Chapter10の「AIと刑事司法」(笹倉宏紀)でも言及されています。笹倉さんは,AIによる相当な制度の予測が可能となったときに,それでも旧派理論や保安処分反対論を維持するためには,相応の理論武装を要することになる(250頁)と述べています。
 ところで,笹倉さんは,「AIによる裁判」の可能性についても検討しており,事実認定などではある程度AIは実用性があることを指摘しています。おそらく部分的にはAIを活用できるところもあるし,そうでないところもあるのでしょう。AIは「分析的視点」はもてても,「総合的視点」はもてないのかもしれません。ただ「総合的視点」とは,いったい何なのかです。「総合的」という言語化できない領域において,実は人間ならではの偏見や非合理性が混入していないかが気になります。職人の「匠の技」にもデジタル化が進んでいます。裁判官の「匠の技」だけ,例外であるとは言えないかもしれません。
 法律家がAIとロボットを論じるときの典型論点の一つが,責任論です。本書では,Chapter6の「AIと契約」(木村真生子)で契約責任が論じられています。木村さんは,基本的には人間に責任を負わせる議論を展開されています。私は,個人的には,AIに法人格を付与する議論は出てこないものかと思っているのですが。刑事責任については,Chapter9で「ロボット・AIと刑事責任」(深町晋也)のなかで,レベル4(高度運転自動化)以上の自動運転の刑事責任について検討しています。そこではAIの犯罪に対して,AIに国家が法的非難を伝達することにどれだけの意味があるのか,刑罰を与えなくてもAIに不利益処分が可能ではないかと指摘し,「AIが真の意味での我々の社会の対等なメンバーであるとの認識が共有されない限り,AIに独自の刑事責任を問うという方向性は,否定されるべきと言える」と述べています(220頁)。
 同じ自動運転について,民事責任に関しては,Chaper7で後藤元さんの「自動運転車と民事責任」が解釈論および立法論上の問題を検討しています。私は,個人的には,自動運転は,交通事故をいまよりはるかに減少させることができ,国家の富を増大させる効果があるという点で,まさに公益性が高いものなので,国庫(税金)だけで運用する補償システム(ノーフォルト保険の一種)を考えるべきではないかと思うのですが,筋は悪いのでしょうかね。また,責任論だけでなく,行政的な規制の可能性も重要です。本書では,Chapter5「ロボット・AIの行政規制」(横田明美)という章もあります。
 Chapter8の弥永さん執筆の「ロボットによる手術と法的責任」では,誰もが思い浮かぶ「ダ・ヴィンチ」などのロボット手術について,これをめぐる法的問題について包括的に論じています。個人的に興味をもったのは,「インフォームド・コンセント」のところです。企業によるデータ利用などとの関係でも問題となる「個人の同意」のありかたは,古くて新しい論点ではありますが,とくに技術の発達にともない,その面についての情報量が圧倒的に少ない一般市民にとって,この問題は重要となってきています。「ダ・ヴィンチ」的ロボットを使った手術を受けることの同意(あるいは医師が使わないとしたときの,そのことへの同意)や「危険の引受け」をともなう同意の有効要件をどう考えるかは,実務上も重要な課題でしょう(AIロボットによる情報提供・説明でよいというわけにはいかないでしょうね)。
 本書のなかで労働法と最も近いのがChapter4の「ロボット・AIは人間の尊厳を奪うか?」(山本龍彦)かもしれません。山本さんは日経新聞の経済教室などでも書かれていて,積極的に発言されています。そのエッセンスは,AIネットワーク化の進展が憲法の設けた「天井」を超えて行くことへの警告であり,とくにプライバシー権の行使を実質的に可能とするための制度的環境の整備の重要性を指摘されています。総論的にはまったく異論はないですし,これをおそらく労働問題にあてはめると,会社がもつ個人のデータに基づく予測評価の危険性(データの不確実性,誤ったプロファイリングなど)などへの配慮が必要であるという話になるのだと思います。もっとも労働関係においては,AIによる自動的処理のほうが,人事部による評価よりも危険かというと,そうはならないような気もします。欧州では,労働関係でも,先月発効されたGDPRのような個人の権利保護というアプローチがとられるでしょうし,日本もそれを参考にすべきものでしょうが,ただ現時点でより大切なのは,労働市場の流動化を高め,納得できない評価をする会社から退職するというオプションを現実的なものにする政策かなと思っています。もちろん個人のネガティブな評価が企業に共有されてどこにいっても採用されないことになっては社会的排除という人権問題となるので,現代版のブラックリスト禁止(労働基準法22条4項を参照)のような対策は必要でしょうが。
 このほか第11章の「ロボット・AIと知的財産権」(福井健策)は,AIと法的問題というテーマになると必ず出てくる知的財産権の問題を扱うものです。いろんな論点がありますが,個人的には,将来において,AIが創作した著作物をAI自身が権利をもつ可能性がないのか(前述の法人格の問題とも関係しますが)が気になります。まあ荒唐無稽な議論なのでしょうね(これが認められれば,AIのエージェントをするビジネスが出てくるかもしれませんね。AIが人間に代理権を付与することができるか,という問題も出てくるでしょうが)。
 最後の第12章の「ロボット兵器と国際法」(岩本誠吾)は,内容は難しかったですが,「LAWs」という言葉が出てきて,ちょっと反応してしまいました。さすがに「法律」とは関係なく,「Lethal Autonomous Weapon Systems」(致死性自律兵器システム)の略語でした。
 入門書と書きましたが,すでにある程度の知識がなければ,この本の面白さは味わえないでしょう。また何か具体的な結論が提示されているわけではなく,問題提起型の本です。だから安易に結論を求めたい人には向いていませんが,これからの法学の行く末をしっかり考えたいという人には,ぜひ手に取ってもらいたい本です。

2017年6月15日 小嶌典明「労働組合法を越えて」

 私が研究を始めたころ,当時,最も独創的な研究成果を発表されていたのは,小嶌典明さんでした。とくに憲法28条をめぐる解釈に正面からとりくんだ二つの業績は,いまなお輝いているように思います。一つは,日本労働研究雑誌333号の「労使自治とその法理」(1987年)です。この論文は,多数決主義の観点から,複数組合主義に疑問を提起したもので,今日でも,なおこの論点はまだ解決しているわけではありません(たとえば奥野寿「少数組合の団体交渉権について」日本労働研究雑誌573号(2008年)も参照)。これについては,私は小嶌説には反対の立場で,小嶌説は,アメリカンな香りが強い論文かなという印象をもっていました。
 もう一つが同雑誌の391号の「労働組合法を越えて」(1992年)です。当時,この論文が出たときに大きな衝撃を受けたことを覚えています。
 この論文は一体何だ???,という感じでした。最後の結論は,「憲法28条はプログラム規定だ」ということで,憲法28条の団結権から,さまざまな労働組合の法的権利を導き出そうとしてきたプロレイバー的労働法学にとって,その言い方は気にくわなかったことでしょう。しかも従属労働者の権利の牙城である憲法28条が,事業主も享有主体となるとはありえない!,ということだったでしょう。  小嶌さんの主張の骨格は,簡単にいうと,憲法28条の「勤労者」概念を見直そうよ,ということでした。戦後の農業協同組合法,中小企業等協同組合法などの立法における団体協約規定,さらに,団体交渉規定を確認しながら,「経済上の弱者がその取引において実質的平等の立場を確保するために団体交渉という方法がとられている」という立法の流れを確認し,憲法28条は,典型的な労働者以外にも,農民,漁民,中小企業者なども視野に入れて,団体交渉法制を立法化していくという壮大なプログラムをもつ規定だったのだと指摘しているのです。論文の最後は,「憲法28条がかりにプログラム規定にとどまるにしても,その少なきを補って余りある夢とロマンが,このプログラムにはある。筆者はそう信じてやまない。」で結んであります。そのとおりです。ロマンある解釈です。
 そして,このロマンを,私も含めほとんどすべての労働法研究者は共有していなかったところに問題がありました。ところが,いまこのロマンある解釈は,再び表舞台に立とうとしています(というか,そういう議論をしたいと思っています)。
 いま,フリーランスの団結,インディペンデント・コントラクターの団体は,法的にどう扱われるか,という問題が浮上しています。2011年4月12日の最高裁2判決(拙著『最新重要判例200労働法(第4版)』(弘文堂)の第138事件を参照)が,個人業務委託契約のような類型の就労者を労働組合法上の労働者と認めたことから(もともとその解釈には無理はありませんでしたが,高裁が違う判断をしていたのです),経済的に弱者である事業者の団結を,どう理論的に位置づけるべきかへの関心が高まってきました。労働法サイドでは,労働者概念の話ですが,独禁法(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律)サイドからは,事業者概念の話になります(荒木尚志「労働組合法上の労働者と独占禁止法上の事業者-労働法と経済法の交錯問題に関する一考察」菅野和夫他編『労働法が目指すべきもの』(2011年,信山社)も参照)。
 アメリカの労働法の歴史をみると,反トラスト法(独禁法)の歴史(シャーマン法,クレイトン法)と労働組合とは密接な関係があったのですが,少なくとも日本法では,憲法28条により,労働組合は承認されている(と解されている)ので,独禁法の問題は出てこないし,出てきたとしても,いわば合憲的例外とする解釈が可能だと思っています。では,協同組合はどうなのか,です。小嶌説をベースにすると,同様に合憲的例外論によることができます。そもそも,たとえば中小企業協同組合は団体協約を締結することができ,相手方は誠意をもって交渉に応じなければならないので(9条の2),まさに労働組合と同じような扱いです。小嶌論文は,憲法次元では労働組合と協同組合の違いはないとみているのです。同論文では,独禁法との関係は正面からは扱われていませんが,交渉力格差の是正による実質的平等の実現ということでいえば,自営業者の団結を独禁法の例外とすることは憲法によって根拠づけられるという論法は十分に立ちそうです。
 もっとも独禁法のほうでは,労働者は事業者ではないというところで,整理がついているようです。ただ,現実には,労働者か事業者かが明確でなくなってきており,2011年の2判決もそういう事例でした(楽団のオペラ歌手,カスタマーエンジニア)。そうなると,この二分法で白黒を無理矢理決するのではなく,より実質的にみて,独禁法の例外とすべき(広義の)勤労者の団結とはどういうものかを正面から論じる必要があるように思います。そのとき,あくまで競争法のロジックに則って,競争を制限しない,あるいは競争を促進するということから例外扱いとするのか,それとも交渉力の弱い者は例外的にカルテルを認めるという保護法的発想で対処するのかは,理論的に大きく異なるところです。小嶌説だと後者になりそうですが,競争法学者はどういうでしょうか。こうみると,これは独禁法の問題ではありますが,労働法学が乗り出して議論すべきテーマにも思えます。
 最近,労働組合法の研究者は激減していますが,私はまだまだやることがあると考えていて,院生にこのテーマで研究しないかと呼びかけているところです。「文献研究」をし,昔の優れた論文を見つけ出し,新たなインスピレーションを得るということの重要性を,若い研究者にはぜひ再確認してもらいたいです。

2017年3月3日 国際自動車事件・最高裁判決

 昨年2月に神戸労働法研究会に梶川敦子さんに報告してもらった事件の上告審判決が出ました(最高裁判所第3小法廷平成29年2月28日判決・平成27年(受)1998)。私はこれについてブログで書いていたはずですが,そのときどのように書いていたのか,もはや削除されてしまっているので見ることができないなと思っていると,実はブログのアーカイブがあって,かなりの部分は消去されずに残っていることがわかりました。以前に中央大学の佐藤博樹さんに教えてもらっていたのですが,別に過去は振り返らずということで放置していました。しかし,今回は,見てみることにしました(それにしても,過去のものは,消去や修正することができないので,これはたいへん困ったものです。これも忘れられる権利に関わる話でしょうかね)。
梶川さんに報告してもらったときのブログの内容は,次のような簡単なものでした(昨年2月のもの)。

「第119回神戸労働法研究会その2」
 「2人目は,神戸学院大学の梶川敦子さんに,国際自動車・東京高判平成27年7月16日判例集未掲載,東京地判平成27年1月28日労判1114号35頁について報告してもらいました。詳細は,ジュリストの重要判例解説に掲載されるそうなので,そちらを確認していただければと思います。
 タクシー会社の賃金で,割増賃金を支払うという規定はあるのですが,歩合給の算定のなかで,割増賃金を控除することになっているという事案でした。最終的には,割増賃金が支払われないのと同じことになるため,こうした取扱いが許されないのは当然なのですが,法律構成として,割増賃金不支給の事案とみるのか,それとも歩合給の計算方法のなかで,割増賃金を控除するという内容になっているところに問題がある事案とみるのかは,微妙に結論に関係してきます。本判決は,後者の考え方で,労基法37条に直接違反していた事案ではないとし(同条の「趣旨」に反するとした),また付加金の支払いも認めませんでした。これに対しては,素直に労基法37条違反と言ってよいのでは,という点が議論となりました。また37条違反となった場合,いったいどういう効果が発生するのかも,実は厄介な問題があります。
 もっと広い問題として,37条は強行規定とされていますが,できるだけ労使自治を尊重した解釈論も考えていくべきでしょう。時間外労働が月に60時間を超える場合(同条3項を参照)だけでなく,もっと広く労使協定などで代替休暇を導入できるようにするとか,さらにはもっとラディカルに37条を任意規定にしてしまうなどの検討も,ホワイトカラー・エグゼンプションと関連して必要なことだと思っています。」
 このコメントは,判決のことを知っている専門家向けのものなので,ここだけみるとよくわからないかもしれません。とにかく,地裁も高裁も労働者の勝訴となっていて,研究会でも,結論は妥当であるが,理由付けには疑問がありうるという議論が大半で,それを前提に上記のようなコメントになりました。
 ところで梶川さんが,その後,別冊ジュリストの平成27年度重要判例解説で書かれている内容は,この最高裁判決にも影響を及ぼしたのではないかと思えるぐらい的確なものでした。
 割増賃金の支払いについては,基本給組入れ型であっても,所定の要件(分別要件など)を充足している限り有効であり,時間外労働をしても賃金が増えないことだけを理由として労働基準法違反とか,公序違反とは言えないこと,また本件では,法律上の割増賃金が義務づけられていない法定外休日労働などに係る部分を含む「割増金」の控除部分も無効としているのは行き過ぎであることなど,原判決の問題点が指摘されていましたが,まさに最高裁もそこを取り上げて,原審破棄・差戻しとなりました。
 このように最高裁判決は,実は,会社の措置が文句なく適法であると言ってるわけではなく,高裁判決の理由づけがおかしいと言っているにすぎません。
 さらに梶川評釈では,最後に,政策論的な観点から,割増賃金の時間外労働抑制機能に対する根本的な疑問を提起しています。彼女の問題意識は,私の『労働時間制度改革』(中央経済社)にも影響を与えています(同書の「はしがき」でも言及しています)。
 私はこれからの判例評釈は,単なる解釈論だけではなく,立法政策的な問題意識をもって臨むべきだと考えています。その意味でも,タクシー会社の割増賃金に関する運用に疑問を提起しながらも,同時に労働時間規制のあり方についても鋭い問題意識をもって評釈に臨んでいる梶川さんの姿勢は,まさに模範的なものです。