専門知識を生かしながら実践活動に関わることも大切だと考えています。社会科学では、社会と直接の関係をもち、あるべき将来を見据えながら現実との緊張関係の中でもがきつつ思考することが大切だと思っています。
国際協力・フェアトレード
開発研究の延長として20余年間、フェアトレードを中心とする国際協力活動に関わってきました。
PEPUP

特定非営利活動法人国際教養教育交流協会(NPO法人AICC)

国内外の子ども青年らの国際協力を推進する活動を応援しています。
アジア社会
東南アジア、東アジアのみならず、広くグローバル・サウスの問題、さらにはグローバル社会の抱える問題について関心を持っています。
アジア女性自立プロジェクト(AWEP)

内外のアジア女性の自立を支援する活動に取り組んでいます。
理事をしています。
その他の活動
専門と直接関わらないかもしれませんが、さまざまな社会活動に関わっていく事が大切だと考えています。
認定NPO法人「まなびと」

多様な人々の学びの場を創る認定NPO法人「まなびと」の監事をしています。
神戸市中央区を主たる拠点として、子ども・留学生・大学生などを対象とした居場所づくり/多様な価値観に触れる学び場づくり/地域の人たちが広く交流できる環境づくりを行っている団体です。
シンポジオン

学生社会人を問わずテーマを決めてあれやこれやと意見交換をする「シンポジオン」を不定期に開催しています。様々な立場、思いの参加者が一つのテーマを巡り、自由に討論する中で、なにがしかの気づきを得ることが目的です。世にいう「哲学カフェ」の類ですが、古代ギリシア時代の「シンポジオン」=饗宴、共食、飲食をしながらおしゃべり、の気楽な精神でしています。
シンポジオン「ほんとの自分」 2024年2月14日
Ink Caféにおいて「シンポジオン」を開催しました。“ほんとの自分”をテーマとして、14人の参加者が議論をしました。「人から期待される自分像」と「なりたい自分」、「すべきこと」と「したいこと」のバランスのとりかたによって、それを窮屈に感じたり解放感に浸れたりします。人はだれしも、他者に左右されず自由でありたいと願いつつも、他者の目なくして自分の認識はできず、自分自身のしたいと思っていることさえ他者によって与えられた選択肢の中から選んでいるに過ぎないかもしれない存在です。こんなことを具体的な状況の中で考えてみると、「自分」とは単純な存在ではありません。キルケゴールが『死に至る病』で「絶望」概念を持ち出して論じたのと似たような問題を、参加者がそれぞれ自身の言葉で語ってくれました。自身のこれからの選択に少しでも参考になったとしたら、うれしいことです。

シンポジオン「私のミッション」 2023年8月6日
8月6日(日)に”私のミッション“をテーマに「シンポジオン」(おしゃべり会)を開催しました。学生院生社会人、多世代の多彩な参加者がそれぞれの思いを語りました。自分のミッション(任務、使命)をどのように設定するのか、そもそもミッションを持つ必要があるのか、等々さまざまな論点が出ました。各人のミッションが明確になればよいという思いで設定したテーマではありましたが、結果として参加者の混迷が深まったかもしれません。しかし、様々な立場や観点からあれこれと意見交換し考えるきっかとするのが「シンポジオン」の狙いですから、その意味では充実した会でした。

神戸大学教職員組合
以下の記事は、組合広報誌などに掲載されていて気になったエッセイです。
【発達科学部ニュース 2005年度第2号(2005年1月12日発行)掲載】
特別寄稿:幸あれ、神戸大学人!
此の神戸大学にはしばしば食漁りで世話になっているばかりか、人間様の生態を縷々観察させてもらい、その面白きこと、生きる喜びさえ与えてもらったものと感謝の念は絶えない。
まずもって面白きは学生共。昼夜の別なく、いつ会っても挨拶は「おはようございまぁす」。別れるときは、同輩に対してだろうが教授先生に対してだろうが「お疲れさまぁ」。バイト先で覚えるのか、水商売や芸能界で使う言葉を当然のごと口にする。一言で申せば、何とやらのひとつ覚えで、人様のコミュニケーションや言葉使いは、対する相手と状況によって変わるものだという料簡が頓とない。牛津大洒落者学生ニコラスさん顔負けのご立派さである。周りへの気配り、人への感謝表明なぞ期待すべくもない。わしら猪のように山の厳しい掟の下、気遣い要する集団生活に身を置くものからすれば、嗚呼、お気楽な人生よと、羨ましい限りである。
然し、学生共を責めてはいけない。学生共を教えるという先生君子連中のご立派さはそれに輪をかけている。実に面白い。法人化の、競争原理の、業績主義の、効率の、と世間が騒げば、皆して流れに身をゆだねる。道理も論理も、はたまた合意の仁義もありゃしない。ああぁ川の流れのようにこの身をまぁかせていたい~。流れに棹さすはお調子者、流れに抗するは愚か者と昔から決まっている。流石、学者先生方は飲み込みが早い。六甲川底の巻貝にそそくさともぐりこみ、時々顔を出しては隣の様子をうかがいつつ、皆してごろんごろんと「海外に開かれたる神戸港」のヘドロをめざして転がっていく。ぼんやりとした不安を抱えながら、蜘蛛の糸が下りてくるのを持っている。然し、そんなものは下りて来やしない。仮令おりてきても途中でぷつんと切れるのが相場だ。
今の大学で学問のあり方云々を問いたるは、もはや訓詁学者か「改革」に対する自爆テロリスト。どんなご仁も如何なる状況でも、一旦できた規則に異を唱えてはいけない。求められるは、論文の数(内容不問!)、受賞の数(ソ連顔負け勲章社会!)、マスコミ露出度(まさに芸は身を助く!)、それに学生人気(お客様は神様です)。暇にまかせて法則を発見したメンデル坊主も詭弁を弄して世人をまどわすマルクスおやじも六甲の坂より一気に転げ落としてしまえ。ご安心召され、近ごろ「曲学阿世」は「ちょいと曲げて世に阿るを学ぶ」と読む時代らしい。
学問の根本をさて措き、「技術創造立国日本」への貢献に奮闘して、思考に封印をした斯くも立派な先生君子に教わる学生共が、自ら状況判断する能力を身につけることは、駱駝が針穴を通るより難しい。
然し嘆息はご無用。世間は旨く出来ている。どんな「うつけ」の後にも必ずそれに輪をかけた「大うつけ」が続き、さらにその後には「極うつけ」が続く。大うつけが出ればうつけは「正常」、極うつけが出れば大うつけも「正当」となる。これを「うつけ浄化の法則」と言うらしい。従って、自分の後には輪をかけたうつけ者が出現すること必定、以てわが身を清めて呉れるので、自らの行いに一片の恥も呵責も感じる必要は無い。権威と不安と欲望にまかせて、惑うことなく存分に「改革」に邁進すべし。
愈々人間世界も面白くなってきた。ご立派な君子先生の集うこの神戸大学の行く末、いかなるやらん、全く以て楽しみである。然し危惧されるのはわしの寿命である。わしら猪の寿命は二十年といわれておる。既に十年を生きてきたので、残り十年。「兵どもが夢のあと」、いや失礼、花咲き乱れる「はらいそ」を見届けられるや否や。・・・専門教育重視、教養部解体、四文字学部の流行、近くは履修単位キャップ制、・・・どれも十年ともたなかったことから察するに、どうやらいけそうである。わしも山では熊にいびられ、狸にはからかわれて、世を儚んでいたが、近ごろ神戸大学の行く末を見てみたいという強い衝動を持つに至った。好きな酒も控え、少しばかり養生をしてあと十年は生きようと決した。
生きる喜びを与えてくれた神戸大学には深謝深謝、言葉も無い。
最後にお礼といっては何だが、君子先生方に捧げる歌を作ってみた。
さわぐほど こうべをたれる 大学人
生き残りかけ 道理こそかけ
神戸大学人に、幸あれかし、あぁこりゃこりゃ。
道 程
はなから高太郎
僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる…。
親分から道を作る指示が下った。皆、指示に従い、道の敷設にいそしんだ。異を唱える者は無視され、立ち退きを迫られ反対した者は排除された。工事がどんどん進んだ頃、ある者がふと呟いた。「この道はどこにつながるのだろう?」…誰も答えられなかった。工事に励む者の手も止まりがちになる。工事を指示した親分は言った。「この道がどこにつながるのかみんなで考えてみよう。」…工事が終了して、この道がどこにもつながっていないことが判明した。親分はまた言った。「折角作ったのだから野原にならないように道を有効活用しよう」。居住地としても、広場としても、結局使い勝手は悪かった。やがて道は壊され、今度はそこに鉄道が敷かれる計画が上がってきた。
起死回生を期してもがく行き詰まった状況でよくあるパターンである。「道」を別の言葉で置き換えてみるとわかり易いかもしれない。学部改組、部局再編、非正規雇用化、クオーター制、全学生PC必携化、教員ポイント制、大学統合…。「親分」の読み替えは誰が適切だろう。政府、文部科学省、財務省、それとも、…。
僕の後ろにも道ができなかったらちょっと残念だな。
【2018年度 月刊しょききょく5月号(2018年5月)掲載】
「夢、自由や!」
猫目宝石
夢を見た。週末に家族とドライブをして久しぶりにすがすがしい思いで花見を楽しんでいる自分。かなわぬ夢に終わった。週末は泥のように寝た。
▼また夢を見た。金曜日、定時に仕事を終わらせ旧友と飲み会で盛り上がる自分。はかない夢と相成った。金曜の夜は午後9時まで職場を離れられなかった。
▼あいも変わらず夢を見た。週末にはとりあえず家でゆっくりしてくつろいでいる自分。実現せぬ夢に終わった。土曜というのに夜中の11時過ぎまで職場にいた。
▼飽きもせずまた夢を見た。暖かい布団の上でぐっすり寝ている自分。かなえられても罰は当たらない夢だと思った。しかし今日も夜中に職場の机わきの床で仮眠をとった。
▼夢は下降線をたどる。次の夢は何だろう…。夏目漱石は「夢十夜」で人生と芸術を語った。がんじがらめの俺もせめて夢くらいは自由に見たい。そして叫びたい。「“夢、自由“や!」
今の大学ではこんな話があながち冗談、作り話でないところが恐ろしい。大学当局はぜひとも職場・職員の現状をご自身の目と耳で確かめてほしい。
【2018年度 月刊しょききょく8月号(2018年8月)掲載】
落書「公明正大なる教育の大計」
過日、東京霞が関を訪ひし折、文科省の門前に、朱にて大書きにしたる落書をみつけし。 近ごろ面白き文章にて、拙者も大学の再生に尽くしてみんと発奮した次第。備忘を兼ねて書き写す(神戸垂蔵、記す)。 ▼親しき者あり、大学を建てんとするに聞き及び、ほんの友誼のしるしとて、あらゆる便宜を命じたり。我は法規も超える一国宰相、勝手次第の英断は公平政治の始めなり。 ▼妻に親しき者あり、学校を建てんとすると聞き及び、値引き九割にて土地を譲るべく命じし後の痛快さ。国有資産の扱いは我が掌のうちにあり。平和好みの天子さえ、廃することも易きわざ。民主制度の与えたる我が統べる力能は、キム委員長にも負けはせぬ。 ▼垂範率先文科大臣、子らの将来考えすぎて、疲れ癒しに風俗まがいのヨガ通い。勤務時間中にも拘わらず公用車にて乗りつけて、世間の非難にめげもせず、教育論ずる「ますらを」は、日本男児の鑑なり。 『修身』寓話の筆頭候補。▼誉れも高き学術政策局長、補助金支給と引き換えに、息子の裏口入学迫りたり。我が子を思う親心、山より高く海より深し。家族疎遠の世の中で、これほど熱き愛情は、誰もが示せるものでなし。子らに確と伝えたき、変わらぬ伝統、日本の美。 ▼皆で揶揄する「天下り」、不見識も極まれり。彼らの纏へる羽衣は無縫、無謬の清らかさ。役所勤めで磨きたる叡智と果断に曇りなし。深き慈愛と無欲もて、遍く地下人照らしたる、その光明のありがたき。両手を合わせて拝みたし。 ▼かくも高邁政治家と高潔極まる役人に、導き引かれる大学人、ご維新以来の果報者。競争、効率、業績主義、外部資金にグローバル化、命ぜられるままを淡々と、精進するに如くはなし。 ▼巷間騒げる愚昧の衆。忖度世界に入り込めば、咲き乱れたるバラの園、甘美な香りに蜜の味。バラに隠れた棘あれど、蜂には鋭き針あれど、ちくりと刺されるその痛み、時も過ぐれば無きが如し。旨味を知らぬ無能の徒、喚く嫉みに一理もなし。 ▼不満を抱く大学人、精進の末の極楽を確と心に刻み込み、与えられたる運命に惑うことなく日々励め。政府も役所も一心に、白く優しき手を伸べて、花ある君には、いざ報いん。 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
【2018年度 月刊しょききょく9月号(2018年9月)掲載】
大学講義の英語化
英語恐怖症教員
世の中、グローバル人材養成ばやりである。「グローバル人材」なるものが一体何なのかについての合意はほとんどないまま、文科省文書、学内文書では課題発見能力、問題解決力、異文化理解などのキーワードが踊る。しかしこんなものは「グローバル」という形容詞を冠しなくても大学教育として本来目指されるべきものではなかったのだろうかと唖然とする。実質的には「国際社会で活躍できること」=「英語が話せること」がグローバル人材の要になっている。
神戸大学でも「授業の英語化50%以上」が中期目標にある。できるだけ英語で講義をせよと言われ、気の弱い私は語学の専門でもないのに取り組んでみた。英語で講義をした後、学生との質疑応答、討論。学生の質問や発言の意図が皆目不明。その語学力から察するに講義した内容の理解度は50%以下だろう。学生からすればわからないことを聞かされ、いきなり外国語で議論せよと言われてもしょせん無理な話、時間の無駄。大学としては教育レベル50%以上の低下。話す側の教員の英語力もおぼつかないので教育レベル80%低下が妥当な計算かもしれない。現況のまま授業英語化50%を実行すれば、教育内容は従来レベルの20%となる実情をも受け入れる覚悟が必要だ。
明治政府が近代制度を整備した頃、一部に日本の公用語をフランス語や英語にするという愚かな議論があった。今の政府もするならそこまで徹底したらいい。ただし30年後に経済規模、軍事力において中国が世界のトップになるのは確実。やがてPax Sinica(中国覇権)の時代が来るだろうことを見越して、日本の公用語を時代遅れの英語ならぬ、中国語にするというくらいの先見性は持った方がよいだろう。
とはいえ、英語教育そのものを否定するつもりはないしむしろ必要と感じている。しかし制度として取り組むなら徹底的に現実味のあるものを考えなければならない。「単位の実質化」などという形式化されたつじつま合わせ作業よりも、「能力育成の実質化」に本気に取り組む方が一層有意義に思われる。
「百年の大計は人を樹うるに如くはなし」 2018.8
【2018年度 月刊しょききょく10月号(2018年10月)掲載】
人生前向きにいこう
白髪三千丈爺
こんなショッキングな経験をした。
その分野の勉強をするには必ず読まなければならないという定番著作を購入した。ところが本棚を見て驚いた。すでに1冊購入していたのだ。ページを繰ってさらに驚いた。線が引いてある。すべてのページに目を通した形跡がある。紛れもなく自分の書き込みだが、読んだ記憶がない。気を取り直して記憶に定着させるためにノートをとることとした。また愕然とした。ノートも作ってあった。こんなことが実は2度もあった。
学生がゼミの際に私の誕生日だといってケーキを用意してくれた。あまりの嬉しさに心からお礼を述べた。「こんなことしてもらったのは教員になって初めてです。嬉しい限りです」。学生の反応、「……、先生!去年もしたんですけど」。返す言葉を失った。
まあ悪いことばかりでもあるまい。こんな自分から教訓を得ることができた。人誰しもどうにも対処のできない欠陥がある。自分の非を他人にまで押し広げるのは失礼かもしれないが、反面、自分と同じかと思えば人様の非にもずいぶんと寛容になれた気がする。善しとしよう。いっそ、もの忘れをしてしまうことに感謝しよう!いつでも何度でも「新鮮さ」と「感動」を味わう喜びを獲得できたのだ。人生前向きが一番!
【2018年度 月刊しょききょく11月号(2018年11月)掲載】
夜も寝られませんの―六甲奴のひとりごと
私、最近夜も寝られませんの。少し前に世界大学ランキングというものが発表になりましたでしょ。東大が42位だのアジアのトップは清華大学だので話題になりました。神戸大学は601から800位の間ということらしいんですの。はっきりした数字がないというのは、ある順位以下はもうどうでもいいと言われているようで、ほんに失礼ですこと。世界には大学が沢山おありでしょうから、601-800位の順位が高いのか低いのは見当がつきません。そもそも順位の高いのがよいことかどうかも私のような人間にはわかりませんの。そんなことより、私が気をもんでおりますのは、神戸大学学長先生や執行部の方々のことですの。たしか今の学長先生が就任なさった時に神戸大学は日本国内序列10位以内、世界ランキング200位以内を目指すと公言なさいました。何をもってその順位を割り出すのかはちょっと脇に措くといたしましても、いったん掲げた目標に対しては責任を持たされるというのが最近の風潮になってますことが問題だと思いますの。個人の話ならできなくたって、あぁだめだったとか、次にがんばろう、とため息一つついてお終いでよろしいんですけれども、大学の話になるとそんな訳には参りません。特に近頃文部科学省のお偉い方々は、大学が自分で目標を決めてそれを達成するようご指導なさり、できなければ大目玉を落とすということらしいんですの。しかも目標は単純に数字で表わさなきゃならないんですって。教員数、獲得資金額、論文本数、若手教員率、留学生数、…。数字にすればサボり具合いが私のような単純な人間にも一目瞭然っていうのがミソなんでしょうね。ですから執行部先生方はご自分でおあげになった数字に縛られて、各部局の職場にも一人ひとりの教員にも、ぎりぎりとおやりになっているということらしいんです。それだけ下に対して厳しくしてらっしゃる訳ですから、学長先生や執行部の方々も自らおっしゃったことには責任を以て掲げた数字は何としても達成しなければ、つじつまが合いませんことですし、そうでなきゃ下の者は納得しないどころか、信頼を失ってしまいますわ。それよりも何よりも、他人に厳しく自分に甘いというのは人としてほんとに恥ずかしいことですから、よもやそんな陋劣なことを人士先生方はなさらないはずですわ。それにしましても国内10位、世界200位以内という数字はとっても高い目標ですから、在任期間中にどうやってそれを達成するのでしょう、と気をもんでおりますの。学長先生のビジョンということになっていますが、もちろん副学長・理事の先生方含めて執行部もお認めになった上での公表だったはずですから、執行部総意不退転の決意で出された数値に相違ありません。こんな数値を達成する方法は凡人の私など妙案一つ思い浮かばず初めからお手上げと思ってしまいますんですけれど、そこはやはりお偉い先生方、最後には皆をあっと驚かせる秘策をお隠しになっているに相違ありません。
そんなこんなで私は学長先生のご在任中に大目標が達成されるかどうかヤキモキしてますの。加えて、おかしなことですけど反対に、どんな奇抜な方策で一気に国内10位、世界200位内の順位を駆け上がるのか楽しみで楽しみで、それを考えるだけでドキドキして、毎晩私は寝られませんの。早く妙策をご披露、実行なさって、安眠させていただきたいものですわ。
でもほんのことを申せば、数字なんかうっちゃっておいて、みんな自由にやったらよろしいのにと思ってますの。だって、人様から命令されることほどやる気を削ぐことはございませんし、逆に自分で好きなことをする時ほど一生懸命になることはないんですもの。そんなことはみなさんのあそびを見てたらよくわかってのことよ。ひい旦那にふうさん、みいさん、そしてみなさん、やなことは忘れて明るく私の三味でも楽しんでいただきたいですわ。私はいつでも応援してますのよ。ととちちてれてつ、とてつてしゃん。(2018.10)
【2018年度 月刊しょききょく1月号(2019年1月)掲載】
人間動物園
絶滅危惧種保存会会員
昔の大学人は多彩だった。某教授は4月最初の新年生向け講義でいきなり「歴史的発展段階説にてらして東欧地域の原蓄過程を位置づければ…」と何の前提もなく学術用語を頻用し教育的配慮など微塵もなかった。大学とはエライところだとのけぞった反面、知的刺激の宝庫だと感じた。ある教授は年間30回の「○○概論」で(当時はほとんど通年講義だった)一思想家の一作品についてのみ嬉々として語り続けた。自分の話に酔いしれ時々歯をむき出しにして笑う様はなんだか猿を連想させた。またある先生は大火災のあった翌日教室に入るなり黒板にラテン語詩をさらさらと書き「ノストラダムスは昨日の火事を500年も前に予言をしていた」とのたまう。正気かどうか疑ったが、蓬髪に黒メガネ、くたびれた背広にゴム長をはいて教壇に立つ姿には異様な説得力があった。奇行の伝わる先生も多かった。飲めば暴言を吐きちらし果てには必ず人事不省に陥る酩酊教授。翌日の学生の話題はどこの駅のベンチで彼が夜を明かしたのか。ある先生は駐車でもめた相手の顔を感情に任せて殴り軽傷を負わせた。この狼藉先生、専門が刑法というからふるっている。定期試験で開始時間30分を過ぎても担当教授が現れない。心配した学生が手分けして探したところ先生はまだ自宅でご就寝。第一声が「今日、何かあった?」。芸術の先生は制作実習でモデルでもないのに自ら一糸まとわぬ姿となり、人の作品にケチをつけながら学生間を動き回る。女子学生がいようがお構いなしの破天荒。
かつて大学は、欲望のタガを外し好きなことをさせたら人はこうなるのかと思わせる「人間実験場」「人間博物館」だった。「人間動物園」といったほうが適切かもしれない。かといって彼らが奇人変人だけで終わっていたわけではない。多くの著作をものして世間的にはその分野で第一人者と認められた者が多かった。また学生から慕われる者も少なくなかった。そうしてみると奔放で型にはまらない思考行動や多様性が学問的教育的生産性を生んでいたともいえる。
翻って昨今の大学を見るに多様性や寛容性のかけらも感じられない。大学人は次々に課される規則とルール、説明責任、目標と評価に縛られ順応するのに精いっぱい。学生の要求におもねり世間には波風を立てないようにびくびくしている。大学人は動物的本能や個性、独自の発想をそぎ落とされ調教されて、それでいて研究においては「独自性」を発揮せよ、教育においては「自由で創造性ある人材」を育成せよと矛盾した課題を担わされる。昔の大学がすべてよかったなどというつもりはないが、今の大学はなにか根本的に大事なものを置き去りにして、目先のことばかりを追及し、結局手に入れたいものを入れられないでいる徒手空拳の極であるような気がしてならない。「人間動物園」は学生にとっても楽しく、学びの意欲を掻き立てる空間だったとつくづく思う。
【2018年度 月刊しょききょく2月号(2019年2月)掲載】
穴があったら入りたい ― 六甲奴の詫びごと
いやですわ、穴があったら入りたい。先日「ひとりごと」と題して学長先生を応援申し上げましたでしょ。ところがとんだ勘違いで学長先生にはほんに失礼いたしましたこと。私ったら神戸大学の目標が「国内10位、世界200位」と申しましたが全くの間違いでした。お年始ご挨拶で学長先生が大学順位について改めて述べられました。4年前に掲げられた目標は「国内5位以内、世界100位以内」というとってもとっても高いものでしたの。「国内10位、世界200位」でも雲の上の数字のように感じておりましたのに、学長先生の目指されているのはその雲を更に突き抜けて仙女嫦娥様にも達せんとするそれはそれは高いものでしたの。お歴々ご列席のおめでたい場で学長先生直々に私の勘違いをご訂正なさり私は恥ずかしくて頬が火照るやら、足も震えるやらでもう大変でしたの。学長先生にはほんに申し訳なく叩頭九拝してお詫びいたしますわ。でも今回、学長先生のお志の高さから二つのことを学ばせていただきましたの。
一つは掲げる目標は高くなくちゃいけないってことですの。世界で優勝した「なでしこジャパン」佐々木則夫元監督も言ってました、金メダルを目指さなければ絶対に金は取れないって。ちょっと前に襟を立てて気取った女人政治家が技術開発を巡って「2位じゃだめですか」って息巻いて叩かれたこともありましたわね。とにかく上を目指してそれを公言することですわ。そんなことで思い出しました、私の謡のお師匠さんがおっしゃってたこと。美(うま)しの国日本には昔から言霊信仰ってのがあるんですって。「敷島の大和の国は言霊の 助くる国ぞ ま幸(さき)くありこそ」マンニョーの歌だっていつも聞かされてました。ずっと「満尿」という変わった名のお坊さんの作だと思ってましたら、最近「万葉集」の句だってことを知りましたの。お恥ずかしいですわ。そういえば明治生まれの私の大伯母様は「昨日」のことを「きのう」でなく「きにょう」と言ってました。その類ですわ。話が少しそれましたわね、ご免あそばせ。それで学長先生はこうした言霊信仰という高尚哲学に基いてとても高い数字をおあげになっていることにやっと気づいた次第ですの。言わなきゃ始まらない、言えば現実になる、素晴らしことですわ。魂を引き寄せるには言葉として口に出さなきゃいけませんから、大学の先生方全てに毎朝ご唱和いただきたいと思ってますの。「国内5位、世界100位!」「国内5位、世界100位!」。まちがっても「酷な誤意、悉皆薄意!」なんて言ってはダメですわ。「読書百遍、意おのずから通ず」「唱和百遍、事おのずから成る」、それのみを信ずることですわ。
もう一つの教訓はとにかく記録や文書で残すってことですの。今回私の記憶は全くあてになんなかった訳ですからやはり何でも文書に残すことが大切だって強く感じましたの。最近は大学でも提出文書や報告書、エビデンスというのがしきりと増えたと伺います。大抵の先生方は、くだらないものが増えたから適当にしてるっておっしゃいますわ。でも言ったこと、したことは何でも文字や数字にしておく、とにかく文書やファイル、記録にして後で確認できるようにすることが大事ですわ。つまらぬことも残す、残せることをする、残せないことはしない、ないこともあるかのように残す…、なんだかよく分かりませんけれど、とにかく残すに越したことはなさそうですわ。後になってあんなことを言った、こんな目標を出してる、ってあげ足を取られることをご心配になる方もいます。でも大丈夫ですわ。都合が悪い内容はどんどん書き換えたり、廃棄したらよろしいのよ。これは財務省管財局でも厚労省勤労統計課でもご自由にしていることでお役所の決まりなんですもの。文科省だって雇ってもいない障害者数を適当に書いて報告しているんですもの、とにかく内容なんてどうでもいいってことの範ですわ。あとで指摘されたら「記録はない」「記憶もない」とおっしゃればもうそれでおしまい。時々なんだか頭を下げたり職をおやめになる方がいますけど、ほんに肝のすわってないこと。政府のお決まりなんですから勝手なことをしちゃいけませんわ。安倍首相の掲げた「再生チャレンジ政策」ってそうゆうことですのよ。不都合な過去は全て洗い流して新たに挑戦するってことですの。素晴らしいわ。私も殿方とのことでは消したい過去が一つや二つではないんですもの、ふふふ。後でしつこく問い質す人がいたら便利な呪文を唱えることですわ。何でしたっけ…、そうそう「丁寧に説明します」。あとはだんまりを決め込むか、関係のないことをまくしたてるっていうお手本を首相自ら何度もお示しになって勇気づけられますこと。私、だぁい好き。
そんなこんなで学長先生の高いお志を取り違えてほんに申し訳ないと思っていますの。と同時にありがたい教えに気づかせていただき衷心より感謝いたしますわ。やっぱり頼れるひいさんですこと。応援してますわ。(2019.1)
【2018年度 月刊しょききょく3月号(2019年3月)掲載】
バガヴァッドの教え
煩悩居士
ヒンドゥー教聖典の一つ『バガヴァッド・ギーター』に次のようなくだりがある。戦に臨んだアルジュナは敵陣に父、兄弟、友人の姿を見出して怯み、聖バガヴァッドに救いを求めた。その応え「…あなたは自己の義務(ダルマ)を考慮しても、慄くべきではない。…苦楽、得失、勝敗を平等同一のものとみて、戦いに専念せよ。そうすれば罪業を得ることはない」(第2章)。要するに敵が家族親族だろうが戦いである以上容赦なく戦って義務を果たせ、戦の向こうにある真理を見極めよという。宗教聖典にしてこの苛烈さはどうだろう。その背景には不生不滅、万物無常、永劫真理の存在といった世界観があるのだろうが、長らく納得がいかなかった。
しかし最近になって少しわかってきたような気がする。望もうと望むまいと人にはなんらかの役割、仕事が与えられる。ことに望まざる任務はつらい。その任務内容が自分の意に染まぬことであっても、それが個人の利害、趣味嗜好を超えた義務である以上、果たさざるを得ないからである。その際、信念や魂まで売る必要はないが、与えられた条件の中でもがきながらも義務を全うすることが求められる。
学内行政を振り返るに、かつての組合活動の同志、学問的真理を極めようとした同僚が、大学行政の中枢に関わり運営を担うケースが増えてきた。彼らはこれまでとは異なる義務任務を負う立ち場に立たされるわけである。その苦悩たるや計り知れぬものがある。逆に、教職員組合としても、要求や交渉においてかつての同志・同僚に対し批判の刃を向けるのは忍びない。しかしそうはいっても人情と配慮だけでは大学がどこに流されていくのかわからない。ここはそれぞれ与えられた義務任務、立場に徹しながら、その背景にある共通の「真理」を見据えてお互い正面からぶつかり合うのが正しいのかもしれない。
そうした悟りが双方に暗黙ながらも合意されていればよいが、果たして現実世界はどうだろう。もう一度『バガヴァッド・ギーター』を読み返してみようか。
【神戸大学教職員組合 発達科学部支部ニュース 2019年度第2号】
研究は数字である!
計算不如意
ひとつの妖怪があらわれている、数字という妖怪が。
思考や理性に基づく判断は時代錯誤であり、客観的数字のみが判断基準である。そもそも数字、統計は世の中を管理するためにある。Statistics(統計学)はState(国家)と-tics(方法、術)の合成語であり、国家が徴税と徴兵のために人々を類別し管理動員する手法だったことは周知の事実。
真実を見極め、真理を探究するはずの大学にもこの数字と統計の魔術が浸透しているとはおめでたい。論文数、引用数、インパクトファクター、研究資金獲得額…。数値が大きいほど良い、とされる。論文の内容や意義については不問。逆にこれら数値の上がらない者は不適格者の烙印を押される。生涯1冊の本もまとめなかった記号論泰斗ソシュールなど今の大学では生き残れないどころか、秀逸な論理を開陳する機会さえ与えられなかっただろう。
昨今大学では論文作成作業人としての「研究者」はいても、広い教養をもち自ら思弁、判断する「学者」が少なくなった、…と社会学者河合栄太郎が嘆いたのは80年も前の話。同様の事態が今では河合の想像もつかないほど低いレベルで進行している。実際、自分の専門以外のことを知らない大学人が多い。そのことを恥とも思わぬばかりか、自己の研究推進にとっては無用と割り切っている。数字にまかせた判断は、内容、内実に基づく思弁の放棄であり、さらにいえば内容評価能力を持ち合わせていないこと、判断することの意義すら理解していないことの自己表明でもあるにもかかわらず、むしろそれを誇っているのだから魔術浸透も髄に達している。ソシュールがいれば、シニフィエ(記号内容)=「研究」とシニフィアン(記号表現)=「数字」のとんでもないずれを大いに笑うだろう。数値競争をあおってきた政府と社会の招いた結果である。
経済成長政策を批判し「参加型開発」手法を唱えたチェンバースが素晴らしい詩を作っている。
経済学者は思うようになった、測れないものは現実でない。
真実は常に量である、数を数えろ、数字のみが語る!
近年、主語は「経済学者」でなく「大学人」一般でよいだろう。今の大学組織で生き残るのは数値競争の勝者であり、彼らが大学運営を担っている。真理だの理性、教養だの数値化できない魍魎にとらわれている茫洋として優柔不断な人間は容赦なく斬捨てられる。
Statisticsを振り回す大学と学問の行き着く先は国家State、またその背景にあるグローバル競争社会への従属に外ならない。人は行き着くところまで行き着かなければ気がつかないほどに愚かである。大学人にはせめてそれに気づいた時に、事態を泰然自若と受け止めるくらいの矜持を保ってほしいと願うばかりである。
【神戸大学教職員組合 発達科学部支部ニュース 2019年度第3号 GSP特集号】
GSPについて
太田和宏
昨年4月以来GSP室長を仰せつかっています。室長として個人的に思うところがないわけではありませんが、9名のGSPオフィス専属教職員の日々の奮闘ぶりを前にして私など何の愚痴も言えた立場にはありません。今回は室長としてではなくGSPに深く関わる一組合員として、皆さんに現状をお知らせしてGSPについて一緒に考えていただきたいと思い、慣れない文章を書いて投稿することとしました。
覚悟と関与
お伝えしたいことは、GSPを維持していくには程度の差はあれ学部構成員全てにこれまで以上の覚悟と実質的協力が求められる、というその一点です。GSPは新学部国際人間科学部の中核カリキュラムとして位置づけられ運営されています。発足前にほとんどの構成員が反対したことも記憶に新しいところです。新学部の是非を議論していた教授会に武田学長と水谷副学長が直接来て説明を行いました。日頃教授会で発言しない人も含めて多くの方が疑問をぶつけたにもかかわらず、学長、副学長は何一つまともな回答をせず(というより武田学長はだんまりをきめこみ水谷副学長がひとり対応していました)、「困難はありますが皆さんの高い能力をもってすればできるはずです」という中学生でも納得しない浮薄な結語が水谷副学長の口から吐かれた瞬間に新学部、GSPの運命が決まりました。「本部としてできるだけのことをします」という空証文付きでした。
そして来年4年目の完成年度を前にして、文科省の縛りから解放された後の組織およびカリキュラムのありかたが今まさに議論されているところです。GSPは新学部の「看板プログラム」として定着し、完成年度以降も従来通り必修科目として継続される方向で進んでいるようです。私はGSPを運営する室長という立場にありますのでここで必修科目としての継続の是非について述べるつもりはありません。ただ、危惧されますのは学部構成員の間でほとんど議論もなく、いわば惰性で継続が選択されようとしている現状です。GSPを履修した学生の多くが海外に出たことによって視野を広げ、成長していますので、喜ばしい教育的成果をもたらしていると私は捉えています。私自身、神戸大学発達科学部に赴任して20余年、ほぼ毎年のようにアジア諸国に学生を連れて行ってますので海外プログラムの持つ教育的効果も理解しているつもりです。その点ではGSPには大きな意味があると思っています。
問題は学部を取りまく客観的条件が徐々に変化していることです。完成年度以降はさらに大きく変わると思われれます。それを考慮せずしてGSPを考えることは様々な点において非常に危険ではないかと思われます。細かい問題を上げればきりがありませんので、ここでは大きく財政と人員の二つの点から問題を指摘したいと思います。
財政的問題① GSP 運営経費
まず財政です。新学部発足以来いわゆる「祝い金」として学長裁量経費から毎年数千万円の予算が学部(正確には関連両研究科)に特別に配分されてきました。その4割前後がGSP経費として使途されています。学部発足4年目でこの「祝い金」は一旦打ち切られます。その後どうなるのかは本部との交渉次第のようです。「0にはしない」との情報が漏れ伝わっていますが、喜んではいられません。むしろそこまで厳しく削られると取るべきだと私は考えています。GSP運営費の大部分は専属事務職員4名の人件費と海外国内プログラムの引率経費が占めています。つまりGSPの運営上、削減することが難しい支出です。今後、本部から学部への予算配分の多寡にかかわず捻出しないければならない経費です。「祝い金」に頼れないとするならば、既存財源から優先して支出するしかありません。つまり現在の学部(研究科)通常経費、しかも徐々に削減傾向にある運営費交付金のなにがしかを削りGSPにまわすことが求められるかもしれません。
本部肝いりで構成員の大反対を押し切って作られた新学部およびGSPに対して予算を大幅に削るなどという不条理はよもやないだろう、と思うのは甘い見方です。本部の学部への諸措置をめぐって、国際交流担当副学長、国際部長、国際企画課長等々のお歴々と意見交換をする機会がありました。「学部発足時に水谷理事が“新学部のためにできるだけのことをする”と言われたことをご存知か」と問いましところ誰一人として反応をしませんでした。そんなことは聞いていない、そんな空証文に何の意味もない、という姿勢です。担当者が変われば前任者の約束事など無に等しいものです。さらに言えば国際化を謳う神戸大学が実際にどのような国際戦略を持っているのかというのもさっぱり伝わってきません。そもそも神戸大学本部の誰も何ら具体的な国際化構想と戦略を持っていないように思われます。ましてや国際人間科学部の GSP を大学全体の国際化戦略の中でどう位置づけるのかなどという構想はさらさらありません。専ら本部関係者の頭にあるのは、中期計画目標の数値をどうやって達成するか、どこで予算を削れるかといった近視眼的な発想のみではないかと日ごろのやり取りから感じられます。かつてのソ連末期計画経済を遂行する官僚制の実態に酷似しています。本部の方々にこそ、「課題発見能力」、「問題解決能力」、「リーダーシップ」を身に着けさせるGSPを必修化するべきだと思っています。
財政的問題② 学生負担
学生への財政支援も徐々に削られています。学生支援機構海外渡航奨学金JASSOや神戸大学基金に関して、海外プログラムを必修科目 としている本学部には優先配分してほしいという要望にも大学本部は首を縦に振りません。逆にこれまで大学が全額負担をしてきた海外渡航時の安全確認システムOSMMAへの加入経費を2020年度から学生負担にすることを決定しています。私が耳を疑ったのは「自分の身の安全に関わることなのだから学生自身が払う受益者負担はあたりまえだ」という発言が本部担当職員からあったことです。思わず私は机をたたいて反論しましたが、先方はどこ吹く風といった表情です。「予算がないから仕方ない」の一点張りです。 O SMMA の学生負担で浮くほんの 60 0 万円程度の金額と引き換えに神戸大学は教育の基本理念を放棄しようとしています。受益者負担論は年間経費数百万円もかかる医学部学生を他学部と同じ学費で教育している現状とも全く整合性がありません。このように今まで措置してきた予算をひとつひとつ削減、消滅させているのが現状です。学生は渡航に係る諸経費を基本的に全学自己負担することになるわけですから、これはつきつめれば、 GSP は学生(あるいは家計支持者)に多大な負担をかけるプログラムだというだけでなく、神戸大学国際人間科学部は GSP を通じて海外渡航に要する財政的負担の できない人を排除する組織になることを意味します。国立大学(法人)としての存在意義にも関わる問題ではないでしょうか。
ことほど左様に本部には国際プログラムを看板に掲げる本学部に対して特別な措置を施す姿勢は微塵もありません。それどころか掛けた梯子をひとつひとつ外しているのが実態です。その反面、GSPをやめることはまかりならん、と本部は考えているようです。なぜなら神戸大学の中期計画目標で掲げている学生海外送り出し年間1200人という数値を達成するには、国際人間科学部の380人(一学年定員)という数が欠かせないからです。GSPの必修化をはずし選択制にすれば、感覚的な憶測となりますが海外渡航をする学生は3分の1から半分は減るのではないでしょうか。本部としては大痛手になるわけです。
ともあれ本部肝いりで作られたGSPといえども本部からの特別配慮は期待できず、今後は従来あった財政措置も十分にはされないと考えたほうがよいとも思われます。私たちはさながら第二次大戦で兵站補給もなく糧食現地調達を強いられた大日本帝国皇軍兵士です。東南アジア、南洋戦線で兵士のほとんどは餓死しました。
人員問題① オフィス体制
第二の問題は人員です。これは GSP オフィスの人員の問題と、プログラムに関わる学部教員の問題の二つに分けて考えられます。まずGSPオフィスは事務補佐員4名と、コーディネーター教員5名の計9名のスタッフによって運営されています。200以上の海外渡航プログラム・国内プログラムの運営、渡航手続き、関連授業の運営、学生対応等で毎日てんてこまいです。もちろんオフィスの中で改善しなければならない問題もたくさんありますが、全般として業務量過多です。しかも9名すべてが任期付き非常勤・非正規という身分です(最近教員1名の任期が解除されました)。働く者として不安定な条件に置かれているということだけでなく、常勤スタッフが誰一人おらず業務命令系統も明確でない不安定な組織で運営しているわけです。さらにGSPオフィスはどこにも属さない学部の「外局」のような存在であるため、多くの学部構成員や他の事務係員との接点がほとんどない離れ小島となっています。学部の「看板プログラム」がこうした不安定な組織、不安定な教職員による「外局」で運営されているというのはとても正常とは考えられません。ただ、こうした体制は学部・GSP発足時の突貫工事による結果ですので、ある面致し方なかったことだと思います(GSP創設に尽力された西谷前室長、岡田章宏前学部長、小紫事務部長ほか関係者には頭が下がります)。しかし今後長期にわたりこのプログラムを継続的に学部に定着させるならば人事面を含めた組織的改革を行い「正常化」をはかることは不可避と思われます。それは当然のことながら他の構成員、事務組織にさまざま影響を与えずにはおかないでしょう。つまり多くの方にとって決して他人ごととしては済まされない問題となります。
人員問題② 学部構成員の関わり
人員の二つ目はこのプログラムに関わる学部構成員についてで す。多くの海外プログラム、国内プログラムがありますが、その引率や運営に関わる教員は学部構成員のおおよそ5分の1程度です。5分の1の人員で実質的に運営されているのであればいいのではないかとも言えますが、それほど単純ではありません。GSP始動にあわせて新しくプログラムを企画運営してくださった教員もいて大変ありがたく思います。しかし、実際に運営してみたら大変だからもうやめたい、渡航経費が保証されなければ引率できない、という方々でてきています。多くの学生が参加する複数プログラムを運営している先生が退職されるというケースもこれからいくつか続きます。一方、そうした減少を補充するほど新規プログラムが増えているわけではありません。そうなると年間380人の学生渡航を保証するには、運営引率教員を要しない語学留学や外部業者に委託する研修プログラムを増やさざるを得なくなります。それは「専門性を活かした海外学修」をうたうGSPの根幹理念を覆すことにもなります。結果として、とにかくどんな形でもいいから海外に送り出す、という安直なプログラムに堕すでしょう。となれば何のために学部がこれほどの時間と労力を使ってこんなことをするのかという話にも なりましょう。一方で、学部構成員の先生方の専門分野や研究活動を見渡してみますと、GSPプログラムに関われるポテンシャルをお持ちの方は実はまだまだたくさんおられます。これから中長期的にGSPを維持するとすれば現教員のより多くの方に新しく関わっていただく必要が出てくるでしょう。さらに人員問題の1点目で指摘したオフィスの業務過剰問題の解消と関連して、より多くの学部構成員の方々にGSPに関する学生指導、授業担当の協力もこれまで以上に求められることになるでしょう。GSP科目最後のステップである「リフレクション」を今年 度はじめて実施しました。約200名の学生が受講した今年でさえその運営では実際困難がありました。350名以上の受講生が見込まれる来年度は今年度のやり方では立ち行かないことが目に見えています。より多くの教員の協力が不可欠です。
このようにGSPへの理解度、思い入れの違いに関わらず学部構成員の実質的協力なしにはGSPは運営できないという点も考えなければなりません。
以上、財政面と人員の二つの点からGSPの現状と継続に関わる論点をのべました。これからのGSPは多くの学部構成員のさらなる理解と協力(時には犠牲?)なしにはその運営が困難だというのがお伝えしたかったことです。GSP必修のありかたを惰性ではなくその内実を理解したうえで判断されることがより賢明ではないかと思われます。
以上はすべて日頃GSP業務に触れる一組合員としての個人的見解と分析です。指摘した論点、予想が外れているかもしれません。むしろこんなシナリオは外れてほしいと願っています。またここでは解決の方向性についてはほとんど具体的に述べておりません。これは組合員さらには学部構成員諸氏の議論に俟ちたいと思います。
【2019年度 月刊しょききょく7月号(2019年7月)掲載】
鳥の観察
神戸・鳥の会 会員
無趣味の無粋を卒業しようと思いたち「神戸・鳥の会」に入会した。いきなり双眼鏡ならぬ「色眼鏡」という単眼鏡を渡された。色付けされたレンズでのぞくと鳥の実態と本性がよりよく見えるのだという。面白い鳥がたくさんいるというので案内されたのがなんと神戸大学の敷地でまず驚いた。灯台下暗しとはこのことだ。
最初に見つけたのはクジャク。尾の飾り羽を広げた様は実に美しく近寄りがたい。七色に輝く扇、常日頃は畳み込まれ、求愛、威嚇など大事な時にのみ広げられる。実際、他の鳥を支配する力を持っている。個体によっては頭に立派な冠羽を頂き得意満面である。しかし、実のところ自由に空を飛ぶという鳥本来の機能が退化してしまっているのは誠に残念である。餌の豊富にある本部キャンパスをねぐらとする。次に目に留まったのはサギ。屋上から端然と下を睥睨する姿にはほれぼれする。胸に流し様の飾り羽をひらひらと風にたなびかせるアオサギなどは人を寄せ付けぬ冷厳ささえ漂わす。サギの端然とするは格好気取りためのみならずむしろ川や池の獲物を虎視眈々見定めることに因する。そして狙った魚は必ず獲得する。常に単独で戦略的に行動するため、うまい餌がないとなれば何の執着もなくすぐさまどこかへ飛び去ってしまう。どのキャンパスにも1羽や2羽は必ず見つけられる。お次はカラス。上から下まで真っ黒なのでどちらかといえば見苦しい。貪欲でやや攻撃的なため周りから疎まれることも多いが当の本人に悪気はない。知能指数は高いとされるものの、浮かぶ雲を目印に餌を埋めて隠す行動に見られる如く、どこか大事なところが抜けている。それ故、一見周りが不快と思う行為も腹黒さから出るのではなく、むしろ逆に本人なりの良心から発していることが多い。どの学部キャンパスにも一定個体数見受けられる。
しかし大学で一番多く見かけるのはハトである。平和の象徴として持て囃され一見癒しと安らぎを与える存在かにみえるが、日本では古来、軍神八幡の神使だったように力の象徴でもある。そこいらじゅうに糞をまき散らし迷惑行為に及ぶことも珍しくない。集団行動を好む一方、縄張り意識が強く自分の領域に他の種や個体が近づこうものなら、形相を変えて執拗に追い払う。が、餌を与えんとする者が近づけば、遠慮も衒いもなく媚を売って食べ続ける。ハトはやはり平和の象徴の如く人畜無害で、軍神の使いの如く攻撃的な存在である。
当たり前のように見えて意外に数の減ってしまったのはスズメ。顔をよく観察すれば、きりっと結んだ嘴、頬には紅ならぬ黒をひき、茶の頭髪はいつも撫でつけられ整端としている。清冽な印象さえ与える。古来、文人、画人が好んで描いてきたのも肯ける。体が小さく他の種から攻撃され易いため集団で行動するのは理にかなっている。仲間内では気を許して宜しくやっている。元来攻撃的ではないけれど、昔はより大きな集団を作って事あればクジャクにも挑みその存在は一目置かれていた。が、近年少々力を減じている。集団をまとめる親分がなかなか出てこない。神戸大学ではこのスズメ集団がまだある程度の力を保っているけれど、あろうことか全国の大学キャンパスでスズメ集団が消滅する傾向にあるのは残念至極。
これらはすべて「野鳥」と思っていたところどうも飼い主がいるらしい。飼い主は「蚊棲むヶ関」という鳥好みの餌が豊富そうな場に住んでいるものの鳥の実態をあまり把握していない。近年与える餌量を減らすものだから鳥たちの間では「トリ合い」が激しくなっている。
鳥には鳴き声がある。クジャクは滅多に声を発しないが大事な時には冠を立てて「ギャーギャー」とうるさい。「カー、カー」と聞こえるカラスはよく耳を澄ますと「ガぁォゥ、ガぁォゥ」と鳴いている。「我王、我王」とはさもありなん。ハトは少しこもった声で「クルックー、クルックー」「ホーホー、ポッポー」と鳴く。これは「来る苦、駆る苦」「方々、放つぽれ」のなまったものらしく「どんな苦も駆逐してやる」「気に食わぬ奴はほっぽりだせ」の意らしい。スズメは「チュンチュン」はなく「チッチッ」である。目端が利くだけに面白くないことが多くいつも舌打ちをしているのである。サギは孤高の存在なので学内では鳴かずに黙して利を取る。どの鳥も最近は共通してバタバタしている。羽を、である。
神戸大学キャンパスに棲息する鳥の生態観察は実に興が尽きない。この「色眼鏡」はもう手放せない。趣味は持つものだ。
【2019年度 月刊しょききょく9月号(2019年9月)掲載】
大学悲哀物語
無宿渡世人
べらんめぇ、万年ヒラ希望の俺様に管理の役が回ってきちまったぜ。大学の人材不足も極まれりってもんだ。毎日、厄介なことばかり起きやがらぁ。特に労務管理にゃあお手上げだ。職場職員はみながみな任期付き非常勤ときてらぁ。彼女らの境遇は不安定で気の毒にゃぁちげぇねぇ。だがよ、まとめる側の俺にとってもとんでもねぇ話さ。新しいやり方を提案すりゃぁ「引継ぎもない中せっかく自分で作り上げたやり方を変えないでほしい」「私の任期はあと〇か月。新しいやり方を押し付けないで」。じゃああんた自身で新しい改善方法を提案するってのはどうでぇと下手に持ち掛けりゃぁ奴さん「私は非常勤。そんな責任まで負いたくない」とくらぁ。そんなら俺が指示するようにやっておくんなと求めりゃぁ「じゃあ辞めます。どうせ昇給もないんですから」。どっちが親分でどっちが子分だかわかりゃしねぇ。まったく参るぜ。
だけどよ、非常勤の彼女らにしたら全く道理だぜ。雇いは5年でお終い、勤務評価による昇給昇進もなし、となりゃぁ面倒なこたぁしたくねぇと思うが人情ってもんよ。業務改善したって報償があるわけじゃなし無駄骨にならぁ。任期満了が近づきゃぁ次の職探すのに気がせいて職場のごたごたなんどにゃ関わりたくねぇ。そりゃぁそうだぜ。彼女らは全く正しい。みんな感心するほどに責任感もって仕事をやっているさ。それに大抵の者は文句も言わず黙っていらぁ。けどよ、みんな胸の奥底で考えてるこたぁ、はっきりモノ申すご仁らと同じに決まってらぁ。俺が彼女らの立場にあったら、もっとでけぇ声であばれてやるってもんだ、ムシロ旗でも振ってよ。痛快だぜ。
だが困るのは仕事と組織よ。うめぇこと回さなきゃぁなんねぇんだが、こうした手合いの非常勤ばかりじゃ先を見通して継続的運営やら成果に責任を持つなんてこたぁ土台おぼつかねぇ話よ。給金をちょいとけちったばかりに組織や業務成果の大本を失うたぁ、とんだ笑い草だぜ。なんだか知んねぇけどよ、労務方針を決めてるお偉方も一遍体験してみりゃいいんだ。時間給、任期付き、昇給・将来保証なしって立場を。どんな気持ちになるかってことよ。逆に成果を上げるにゃあどんな労務管理がよりうめぇやり方かってことがもうちとわからぁな。やっぱ職場ってぇのはよ、働くもんの心意気ってのが一等大事だぜ。
まぁどうでもいいけどよ、俺ぁ早くこの管理からずらかりてぇぜ。俺ぁ、風にまかせて旅がらす、星空まとう草枕、人の情けを頂戴し、徒為徒食の渡世人。こんな奴(やっこ)に任負わせ、見当違いの昼行燈。お偉方に頼んます、お上ばかりを拝まずに、耳そばだてよ足元の、職場のうめき、虫の声。おきやがれ、ってんだ。
六甲奴の英雄譚
ちょっとコロナさん、お宅さんのおかげでみんなほんに迷惑してますのよ。うちのお座敷にも閑古鳥が居ついてしまいました。「三密」だめ言われてお客さんらが「宴に臨んで密密に飲む、意は怖る致死して帰らざることを」そんな心境に陥ってますの。孟郊さんたらいう人が折角「二密」に抑えてうたってくれてますのに、お客さんみな勘違いしていますんですの。詮ないことでわ。それで、日々くさくさ過ごすうち、新聞いうもんに目ぇ通すようになりましたんですの。そしたら最近、稀代の英雄に出会えまして、その喜びを皆さんと分かちあいたい思いまして筆をとりましたことですの。外でもありません、安倍首相の事ですの。安倍首相はおじい様、大叔父様が宰相、お父君は名外相というサラブレッド家系にありならが、私ら庶民の心を知悉なさる稀代の政治家や思うてますの。
先日、鶴よりも首を長くして待っていましたアベノマスクが届きましたでしょ。まずは配布のタイミングに感心しましたことよ。新型コロナも徐々に収まり、緊急事態宣言が各所で解除された後、心配された感染拡大も起きず、そろそろ街にみな繰り出そうと思う中での配達でした。コロナもほぼおさまっていますので、マスクしてお出かけするにはもってこいです。ほんにタイミングは絶妙としか言えませんわ。そこまで見越して手配された安倍首相の慧眼に感心することしきりでございますことよ。
またこのマスク、つけ心地が抜群によろしんですの。小さいとかなんとか揶揄されてますけど、実際つけてみますと、鼻と頬の間、両脇の部分にとっても大きな隙間があくものですから通気性がほんに宜しく、呼吸しやすいんですの。時々マスクのままジョギングをして意識を失ったとか、自転車をこいで倒れたとか耳にしますけれど、アベノマスクであればもう安心、通気性抜群ですのでそんな心配全くございませんことよ。まるで着用していないかの如く外の空気も自由に入ってきますから安心です。マスクの「小ささ」の秘密はここに隠されてましたのよ。庶民のマスクのつけ心地にまで気配りできる首相はいまだかつてなかったのではないかしら。
そんな首相の心遣いがうれしくってうれしくって、さっそくアベノマスクをして三宮の街に出てみましたの。最近は色、形、素材、さまざまなマスクがあるのに驚きましたこと。しかし、予想外でしたの。市民のみなさんも私同様アベノマスクに感謝し喜んで着用し「コロナに負けずかんばりましょう」って連帯の気持ちを確かめようって、ただその為に街に繰り出していると思ったんですの。ところがです、1時間ほど歩いて見かけたアベノマスク着用者はなんとゼロでしたのよ。やっと一人見つけた、と思いましたら鏡に映った自分の姿で、却って恥ずかしいくらいでしたわ。折角、ひっ迫する国家財政から私たち国民のことを親身に思って、神戸大学への年間運営費交付金の倍以上に相当する466億円という貴重な予算を支出して作ってくだすったマスクですのに、多くの国民が首相の深い慈しみの心を理解していないことが首相に気の毒で気の毒で申し訳ありませんわ。市民を代表し、秋の稲穂よりも深く頭を下げてお詫び申し上げますわ。
ロケット計画(陸上配備迎撃ミサイルシステム・イージスアショアいうらしいです)を中止したのも英断中の英断ですわ。コスト面、安全面を考慮して白紙撤回なされたらしいんですの。国土防衛という重要方針の撤回をこんな短期間にした首相はこれまでにいませんし、世界の指導者を見渡してもそうそういるものではございません。日本の安全が脅かされる、設置は緊急を要するとさんざに説明をして1兆円を超える予算で配備すると堂々主張なさったにもかかわらず、「設置場所が却って攻撃対象になる」、「落下物が住宅に落ちる」という市民の不安をよくよくお汲み上げなさり、またトランプの武器売り込み商法に借金をさらに重ねるのはまっぴらという庶民感情をもよくご理解なさってのご決断ですわ。国防、軍事課題で一旦決めた方針を短期間にやすやすと覆すというのは国際政治世界ではありえませんことですし、むしろ戦略性も先見性もないと侮蔑されるのが通例と思いますんですけれど、そんな世間体よりも日本国民、庶民の安心を専一第一に慮って政策を変更する勇気は、さすが「積極的平和主義」に裏打ちされた安倍首相の信念から出たものと、おもわず落涙しましたわ。一片の曇りもなき人類平和の鏡ですこと。1941年日米開戦を決定した東条英機首相は自ら街を歩き庶民のゴミ箱の中まで点検したという立派な政治家と伝え聞いてますが、安倍首相は彼に劣らず庶民の心のわかる英邁な指導者に外なりませんわ。
黒川検事長の定年延長の件にしたって立派なものです。多くの批判をうけてこれも取り下げをお命じになりました。素晴らしいことですわ。黒川検事長も有能な方には違いないのでしょうけれども、あまりにも政治と癒着しすぎた、とはマスコミだけでなく検察庁OBも口をそろえて指摘するのですから真実なのでしょう。首相によりますと「官僚が勝手に決めた人事」らしいんですの。そんな勝手はいけませんわ。政治家の顔色ばかり窺う忖度官僚は見下げたものですけれども、英邁なる安倍首相の意に染まぬことを勝手にされたのでは、民主主義法治国家の名を惜しむ安倍首相のメンツが立ちませんわ。国民市民の意見に耳を傾け、情実人事や利益誘導とは無縁、議場での汚いヤジなどは絶対許さず、常に開かれた民主主義的手続きをゆるがせにしない公明正大の権化安倍首相ならではのご決断ですわ。検事長定年延長の取り下げは当たり前のことではあるんですけれど、その当たり前ができない昨今の政治を正そうと奮闘する安倍首相は文字通り現代の英雄英傑以外の何物でもありません、感心しますわ。50年後には、私欲私心なく身を挺して美しい日本を作った偉人に列せられるに相違ありません。
そうそう、河井克行前法相・案里参議員夫妻の逮捕って事件もありましたわね。第二次安倍政権で辞任した閣僚は9名もいます、今の森法務大臣も中学生の学級会だったら級友からのリコール間違いなしの名答弁をする方ですわ。安倍首相は揃いも揃ってこうした問題人物、無責任者を大臣に任命している、なんて世間では批判してますわ。ことに法を司る法務大臣、検事長などは清廉潔白、公明正大、人格高邁たるべきというのが理由ですわ。でもそれは私ら凡人の発想というものですわ。安倍首相は国民のためにあえて世間様が非難する方々をそうした重職につけているに決まっていますわ。世の中、なんでも規則規則ゆうてましたら、ぎすぎすして通る話も通らないことようさんあります。四角いものも見様によっては丸うなるという考えが大事や思いますの。あるお客さんが言うてはりました。トポロジーいう眼鏡をかけるとドーナツもマグカップもおんなじなんですって、驚きますわね。それで、豪傑安倍首相ご自身は明鏡止水の如く潔癖な方ですけど、私ら庶民に対しては、規則は規則として、お目こぼしもせねばうまくいかないってわかっているものですから、法の番人たる重職には賭けマージャンに手を出すとか、有権者についついお金を配ってしまう人、ああともうんとも自分で意見の述べられない者など、俗人堕落の代表みたいな人といいましょうか、法のトポロジーみたような人をあえて当てているに違いありませんわ。英雄は凡人の考えなど全てお見通しの上でその先を見ているものです。生死の境をくぐってきた伊藤博文公や井上馨公ら明治の元勲はみんなそんなでした。長州の血をひく安倍首相はそんな気概を今に引き継いでらっしゃる、やっぱり大豪傑ですわ。
私らは稀代の英雄安倍首相と同時代に生きる栄を与えられ、ほんに幸せですこと。アベノマスクは何度も何度も洗ってありがたく使い、周りの房のみとなった連隊旗を命賭して守った皇軍兵士の如く、布が擦り切れ口や鼻がはみ出しても使い切って見せますわ。
歴史的英雄はたいてい非業の最期を遂げるものです。博文公しかり東条首相しかり。安倍首相も華々しい最期を迎えてこそご自身の英雄豪傑譚を完結できますことよ。よもやこの時代、命まで取られることはございませんから、安倍首相もどうやって桜の如くパッとお散りになるか、それをすでに考えているに違いありません。その時、私は自粛要請があろうが、緊急事態だろうがお仲間を引き連れて「お花見」に堂々と出かけようと決していますのよ。それが英雄への忠誠というものですから。2020.6
【神戸大学教職員組合 発達科学部支部ニュース 2021年度第1号】
東京五輪の書
宮本むさくるし
コロナの先行きも対策方針も全く見えぬ中、東京五輪が強行開催された。全く無責任な話にて、拙者、開催には大きに反対したし、今でもその心は変わらぬ。ただ、一旦競技が始まり連日報道さるればスポーツ好きの拙者も血が騒ぎ、見ぬわけにはいかぬ。不覚にも連日テレビにかじりつくことと相成った。
五輪報道で気づいたことがある。勝者を称えるのは常の事として、今回は敗者のストーリー、戦った者同士の握手や抱擁、友情を異様なほどに「美しい!」「これぞスポーツマンシップ!」と熱く礼賛する記事、SNSが目立ったことである。13の年より始めて六十余回の果し合いすべてに勝ち、生き伸びてきた拙者にすれば、勝負は互いの命のやり取りにて相手との友情はあり得ぬ。然るに、スポーツは相手を殺める訳ではない。勝つことを目標とし、そこにいたるまでに各人の努力や曲折が必ずある。目標が達せられずともその過程を評価することは至極正当である。かく思いを致せば負けた人の涙、競技者同士の称え合いに注目する風潮は歓迎すべきである。
翻って五輪を見る者、評する者、報道する者の心境を考えてみるに、競技、競技者の中に勝者の栄光のみならず、そこにまで至らぬ者への眼差しに悲壮なまでの必死さが感ぜられる。その背景やいかに。人々は現実の厳しい生活の中で勝者たれる者はほんの一握りのみにて、圧倒的多数は敗者たらざるを得ぬ現実を思い知らされてしまったことと関係するに相違ない。多くにとって敗者は自分である。敗者ゆえ生を断念するという法はなく、敗者ながらむしろ必死に生き伸びねばならぬ。かような現実が広がる中、勝者のみを称える英雄譚だけでは心躍らされぬ。時代遅れでもある。敗者にもストーリーがある。勝者は敗者の痛みを分かち合うべきである。さらに申せば、敗者を生まぬ状況や、あらまほし。過酷な現実の中でかような心境を多くが抱いている中での今回の五輪報道とや言はめ。
翻って大学はいかに。大学こそ世の流行に流されぬ不易の要として泰然として理を論ずべき存在である。然るに、1990年代の大学改革以来、大学は時の権力に追従し、いまだに優勝劣敗の競争と容赦なき選別を奉じている。幼少時より調教の如く厳しいトレーニングを課し、ドーピングやホルモン注射も見境なく使用して金メダル量産を目指した旧ソ連体制と変わる所がない。
五輪報道から垣間見える風潮からするに、大学は世間から既に二歩も三歩も取り残されている感は否めぬ。世間はもはや絶対勝者の礼賛なぞ求めてはおらず、敗者への配慮、多数者の共存をこそ求めている。はた大学はここで世間の流行に乗るべきか、不易を掲げ勝者英雄譚を語り続けるべきか。我が心の師、宮本武蔵の言葉が思案の一助となるやもしれぬ。
「…小身なる者は心に大なる事を残らず知り、大身なる者は心に小さき事を能く知りて、大身も小身も心を直にして、我が身のひいきにせざる様に、心を持つこと肝要也。」
(『五輪書』水の巻) 21 8.10
【神戸大学教職員組合 発達科学部支部ニュースレター 2022年度第1号】
枯れ木に花を咲かせましょ
花咲じじい
とんでもない世になってきた。普通に暮らしていると明日の身も知れない世知辛い社会。かねてより「人生五十年」を過ぎた余生の身の振りを考えねばと思っていたところ、どうも準備を急がねばならない雰囲気。いろいろ模索している。滅多に役立たない虚実談論に脳みそを絞るような研究職は不健康極まりないことを漸く悟り、今では専ら肉体を使った道に魅力を感じる。演歌をききながら全国を巡る長距離トラック運転手は夢のまた夢として、山村での農夫なら土や鳥らとゆったり過ごせるかしらん、寺社境内の掃除夫をしながら門前小僧として経を覚えるのも面白ろかろ、と胸膨らます。今、実際に修行に励んでいるのが庭木剪定、つまり庭師の道。園丁とでもいえば多少趣もあろうか。
剪定は木の枝を剪ること、それに尽きる。しかしその単純作業を通じて自然の摂理やら樹木の生態をよくよく学ぶことができそれがまた悦しい。
庭木は藪から棒に剪ればよいわけではない。樹形を整え花を沢山咲かせるのが腕の見せ所。しかし外見のみを重視して、表面ばかり刈り込んでいると、中で枝が混み合い通風を妨げ、病害虫発生の原因となる。中枝をすいてやり、風通しを良くして日の光が枝間に入るようにしてやることで木の健康が保たれる。
木は全体として生きていても、必ず枝や幹が部分的に徐々に枯れていく。枯れ枝を放置すると、それが他の枝の生長を妨げたり、害虫が入り込む素地を与え、木の体力を奪う。枯れ枝は除いてやらなければいけない。剪定を適切にすることで新枝が育ち、花芽を増やすことができる。俗に「桜剪るばか、梅剪らぬばか」というがそれは間違い。「桜」も適切に剪らぬと樹形がくずれ虫もつき、花の咲き具合にも影響する。
咲く花を散らさじと思ふ 御吉野は心あるべき春の山風 豊臣秀吉
戦いに明け暮れた天下人の心さえ和ませた桜は色よい花を多くつけさせるために剪定する。「桜」は剪り方に工夫を要する。
「梅」は新枝にしか花芽がつかない。古枝、枯れ枝を積極的に処理する。梅は花の色香のみならず樹形の風雅を楽しむ庭木の筆頭。梅は画に描いても歌にしても心躍らせる樹木。
梅の花夢に語らくみやびたる 花と我れ思ふ酒に浮かべこそ 大伴旅人
実が育てば梅酒、梅干しづくりの楽しみも増える。ちなみに鶴1キャンパスA棟正面玄関に植えてある紅白梅一対は誠に残念。誰も手入れをしないものだから、枯れ枝だらけで新枝が育たない。必然、花数も少ない。枝は伸び放題で、白梅などは天頂を衝く梅木にはあるまじき勇ましい立ち枝を冠して、その樹形たるや風流の趣には程遠い。
元気よすぎる枝も困りもの。出る杭の如く勢いよく伸びる枝はまわりの栄養分をも独り占めするため、他の枝葉の育ちを阻害する。「徒長枝」という。木全体の健康と樹形を保つためには早めに除去せねばならない。「つつじ」などの徒長枝をほおっておくと手のつけられないほどに樹形も崩れていく。
竜田川いはねのつつじ影みえて なお水くくる春のくれなゐ 藤原定家
生命力強い「つつじ」は華やかな色で春を飾る庭木の主役。しかし威勢良すぎる若枝をちやほや育てては結果としては全体のバランスを崩す。
「松」は寒さにも雪にも負けぬ緑でとこしなえなる生命力の象徴。
風吹けば黄葉散りつつすくなくも 吾の松原清くあらなくに 万葉集
しかし手入れは難しい。先端にのみ新しい枝や葉がつき枝の中途から新芽が出ることはほとんどない。先に先にと一途に伸びていく。これはつまり枝がどちらに伸びてどんな樹形を作るのか少なくとも数年先を読んで矯めてやらないと威容ある姿にはならないということ。途中で樹形の方針転換するのはかなり難しい。春には新芽を一つ一つ手で摘む「芽刈り」をしないと松ぼっくりができる。松ぼっくりは子供にとっては楽しい遊び具でも庭木としては手入れを怠った証拠。それを許す庭師は大失態。ヤニが多く出るので手や服、道具も汚れる。おまけに三寸大の大毛虫に出会うことも珍しくない。要するに手間がかかる。逆に手をかければ神々しいまでの美しい樹形に育つので、家の顔に当たる門かぶせに使われるほど珍重される。
老木がダメだと単純にいえない。木は幹や枝の中心部から老化し、中空となったり半身が枯死する。とはいえ生きている部分があればそこから芽をふき花が咲く。むしろそうした半枯れ状態で見事な花をつけるのを風流とみる節もある。
老い木ぞと人は見るともいかでなほ 花咲き出でて君にみなれむ 落窪物語
盆栽などはその極致。小さな鉢にはちきれんばかりの力強い枝葉を誇るのも見事。一方、これはどの部分が生きているのかしらんと思わせる枯れ幹の先にスッと立った細枝が見事な花をいくつもつけるものなど生命の神秘ささえ感じさせる。
樹木からは様々学ばされる。見てくればかり気にしていると全体としては不健全となる、元気すぎるものを除くことで全体が活性化する、先々を見越してこまめに手入れをすれば美しいものが出来る、老古木にも生命力と趣がある。
…庭木のことを観察してきたつもりが、どこぞの組織執行部に学んでほしいことばかり。美しく健康な庭木を保つのに必要なのが目利き庭師の腕前だとすれば、健全で快適な組織を作るのに必要なものは何だろう。
とまれ私ゃどんな枯れ木に花を咲かしょか思案の最中、修行中。それより以前に、枯れ枝のごと除去さりゃしまいか不安の暗中、模索中。もがきもがもがいて世間を渡り、たどり着きたや安楽浄土。下天のうちを比ぶれば夢幻のごとき五十年、せめてなりたや花咲かじじい。合掌。
【神戸大学教職員組合 発達科学部支部ニュースレター 2022年7月1日号掲載】
オンライン人間考
デジタル難民
コロナ禍による社会の緊急対応体制も徐々に平常に戻りつつある。「新常態」を形成しつつあるといった方が正確かもしれない。大学もオンライン遠隔授業体制から、対面を主とする教育環境に戻りつつある。
現在の3年生など入学式は取りやめ(2年次に実施)、初年度4月から全面オンライン開講、キャンパス生活も実質皆無の状態が2年ほど続いた。この学年はクラブ、サークルに属していない比率が異常に高い。下宿を解約して実家から授業をうけてよいかと相談してくる地方出身学生もいた。
昨年4月に2週間だけ対面授業が復活した。が、新株の急拡大で早々にまたオンラインに切り替わった。学生の間では「奇跡の2週間」と呼ばれている。誰の責任でもないとはいえ、学生生活の楽しく有意義な諸機会の半分近くを喪失したことは、お気の毒としか言いようがない。
この4月から晴れて神戸大学でもほぼ対面講義、通常キャンパスライフが復活してきた。長らくオンライン生活を強いられた学生らは嬉々として教室に集った。「対面講義だと集中して授業をきける」「他人と同じ空間に座っているだけでワクワクする」「友達と無駄話ができて楽しい」云々。微笑ましい感想に心和んだ。
しかし、しばらくするとどうも様相が変わってきた。学生から聞かれる声。「90分間も集中力が続かない」「教授の話す速度が遅すぎてイライラする。1.5倍速、せめて1.3倍速で話してほしい」「オンデマンドであれば難解な部分を繰り返し聞いて確認できたのに教室では1回の説明で過ぎてしまいついていけない」「わざわざ大学にまで出かけるのが面倒くさい」「オンラインなら寝間着で授業受けられたのに、対面だと化粧もしないといけないので本当に面倒」「すぐ隣に人が座っているだけで圧を感じる」…。同じ状況に対する意見がこうも変わってしまうかと思うほどにネガティブ評価が並ぶ。近頃の若い者はどうなっているのやら、この世代が社会に出たときに会社勤めができるのかしらん、とおやじ目線で心配をしてしまう。
しかしさらにじっくり観察をしてみると、これは決してZ世代のわがままな言動だと片づけられる問題でもないことに気づく。大学教員も似たり寄ったりだ。大学に出るのは面倒なので出張先に居ると称して自宅から会議にオンライン参加する。オンライン教授会で音声ミュートをし忘れた人の学生とのなにやら楽しい会話が筒抜けになっている。そもそもオンラインでつなぎながら会議内容などサッパリ聞いちゃいない。
さらに言えば、オンライン化の前から大学教員の勝手気儘は常態だった。提出書類を期限通り出さない、規則外れの無理難題を堂々と主張する。片や文科省、大学本部等お上から言われたお達しとなれば、無思慮に低頭して受け入れる。それでいていつも抜け道を探る…。なんのことはない、本質的にはZ世代と大学教員に変わるところがない。どちらも動物的本能に近い情念と欲望に素直に従って生きようとする姿である。企業でオンライン勤務をする卒業生に話を聞いてもそれほど違いはない。
コロナ禍とオンライン化は、欲望に依拠する「情念的生活」と物事を律しようとする「理性的生活」のバランスに変化をもたらしたに過ぎない。欲望を満たすためのより便利なツールと環境を与えられ、社会との融合性や他者との共存条件への関心が希薄になる。人間は本質的に快楽を求める存在だとすれば、それが全面的に悪いことだとは両断できない。一方、状況によって情念と理性のバランスが容易に変化してしまう事態は深刻に受けておかなければならない。なぜなら、条件によっては人間がとんでもない情念生活に傾き、欲望を満たすため他者を傷つけることが許されてしまう状況を生んでしまうかもしれないからだ。社会的差別、少数者排除、暴力が欧米、日本を含む多くの社会で蔓延していることと無縁ではない。
感染状況が落ち着いてきた今だからこそ、コロナに関わる一連の現象を一過性の異常事態としてやり過ごしてしまうのではなく、表出した問題や課題をひとつひとつ丹念に検討してことがより賢い未来の作り方につながるのではないか。
【神戸大学教職員組合 発達科学部支部ニュースレター 2024年度第1号】
岡目八目酔狂譚
道楽佞人
いやぁ今夜はこんなに美味い酒をたくさん頂戴して、どうも気が大きくなってきちまいました。私のような30余年事務の末席を汚してきた者の話を、偉い先生方が聞いてくださるってんで恐れ入谷の鬼子母神、これぁ正気じゃあ舌が回らねぇと思い、ついつい盃を重ねちまいました。
なに、私ゃこれまで規則に従い業務をこなし、上に言われるがままに仕事をしてきた人間でっさぁ。大事なことは事務方でなく先生方がお決めになるので、新しいやり方や制度が、これはちょいと違うんじゃないかと思ってもそれを胸の奥底にしまい込んで文句も言わずにやってきたつもりです。自分で何かを決断するとか、自身で創意を凝らすなんということとは一切無縁の人生でっさぁ。しかし面白いもんで、こういうのを岡目八目と申すんでっしゃろか、はたで見ていると一所懸命やっている人よりも大事な所がよぉく見えてくるもんっす。まぁ自分が年を取って多少、人様のことが分かってきた所もあるんでござんしょう。どんな偉い先生方でも存外ご自身のことはおわかりになってない。いえ、批判しているんじゃありません、人は皆そうと違いますか。私なんざ、自分がどんな人間か、どういう存在かなんて、棺桶に半分足を突っ込むようなこの年になっても、皆目見当もつきませんで、そんな観察はもうとうの昔にあきらめたような人間でっさぁ。だからこれから私の口から出てくる話も、くだらぬ人間の思い込みと出まかせと思ってお聞きなすっていただかなけれぁ、困りますよ。
大学民主主義 まずは大学てぇ組織はほんと奇天烈でっさぁ。自由とか民主主義とか高邁なことのたまってますが、一般常識では考えられないこと沢山ありますよ。一等感じますのは、組織運営の継続性とは無縁の世界ということ。学長がほぼ6年に1回変わりますが、新学長はたいてい前職の路線を引き継がない。前に決めたこともチャラにする。こんなことは民間企業では考えられんこってす。新しいことをするのはいいんですよ。しかし前にやっていたことをひっくり返すようなことをすりゃあ企業だったら従来のお得意さんや顧客を失い倒産ですわ。国政だって大統領や首相が数年にいっぺん変わって新しい政策などしまっさぁ。けど法律や制度っちゅうもんがありまっからそれを大っぴらに破るわけにはいきやせん。やっぱり一定の縛りがありますわなぁ。ところがです。大学は縛りなんざ一つもない。前に取り組んでいたこと、決めたこと、盆をひっくり返すようにチャラにする。それでみんな平然としてるんですから、すごい組織でっさぁ。まあ民主主義っちゅうのは所詮こんなもんかもしれせんなぁ。
発達科学部悲話 まぁでも、わっしのような人間が言わでも、先生方はよくご存じですわね。ほとんどの人が望みもせぬのに、発達科学部が本部の意向で「大学が責任を持つ」との一声でむりやり国際人間科学部に改組されました。皆さん不満を持ちながらもお上の決めたことと諦め、いやなものを受け入れなすった。えらいもんです、ほんとに。ところが学長が変わった途端に「この学部は何をやっているのかわからない」「金食い虫のGSPを縮小しろ」「新学部だからといって特別に予算的措置する必要なし」と言いたい放題。いえ、私しゃ何もえらそうなこと言う立場にゃないですからもちろん黙ってますけど、したくもない組織改組をさせられ、何をしている所だかわからないと批判され、終いにゃ梯子まで外されちまうんですから、そりゃあ発達の先生方は気の毒だと感じるばかりでっさぁ。しかもですよ、こう言っちゃ身も蓋もないか知りやせんが、本部執行部先生方が明確な理念や方針をもって、長期的とまではいかないまでもせいぜい10年先をみてものを考え構想しているならまだいいですがね、実際にはほとんどの方がそうじゃない。文科省から言われているから仕方がないとか、この条件下ではこの選択しかないと、知恵も絞らず視野狭窄に陥って、挙句の果ては自分の任期を大過なく過ごしたい、くらいのミミズの目ン玉ほどの責任感しか持ちわせちゃいないような始末でっさぁ。責任をとると豪語してもみんな退職したら実際そんなものは取りようのあるはずがありませんやね。
哀しい大学人 先生方を馬鹿にしてるのとちゃいますよ。むしろ気の毒だ思っているんです。執行部にまで上る先生方は研究実績をおさめてきた立派な方々だろう思うんです。ただ研究能力と組織運営能力は全く別物ですわな。研究一筋できた方ほど組織運営の経験を積んだり、物事を自分の頭で考えて判断する訓練を受けることと無縁の人が多いでっさぁ。それがいきなり、さあどうすると言われても大抵の人は出来っこありませんわね。運動もしたことない人がいきなりプロ野球チームを任され、さあ勝たせろ、といわれる様なもんです。さらに哀しいかな先生方の性(さが)いうんでしょうか、困った時に困ったと相談するとか、人様の知恵を拝借しようとか、自分と異なる意見とどう折り合いをつけようか、と言うことにはならねぇんです。研究で成功した人は自分が何でもできる、自分はいつも正しいとついつい勘違いなすっている方が多い。だからいろんな人の意見を聞いて、調整しながらものごとを進めるということが少ない。理念も経験もない方々がいきなり教職員学生合わせて2万人の大組織の命運を担わされるわけですから土台無理な話でっさぁ。執行部先生方は慣れぬことをさせられ、その上、無能だなどと批判をお受けになって、心底お気の毒だと思いまっせ。冗談じゃありませんよ。
おっと、いけねえ。今日はこんな一般論を話すつもりじゃなかったです。だめっすね、ちょいと酔いが回りすぎちまいました。まぁでも、もう少しお話しするには口を潤さずにはいきますまい。ちょっと失礼、…あぁ今夜は特別、美味え。なんでござましょう、わっしのようなもんが先生方に講釈をたれるなんざ、ほんとあってはならない失礼な話ですが、こんなことは天神地祇寄り集まっても金輪際ありえねぇ機会ですから、もう少し言わせていただきやしょか。
国際人間科学部改編 それで、です。本題は過去のことじゃあねぇんです。またぞろでてきた組織改組の動きでっさぁ。神戸大学を「国際」「グローバル」と銘打って売り出すことはよいとして、現学長がずっと指摘しとられるのは、大学として国際戦略を一本化できんのかということでっさぁ。つまり学部教育では内実のようわからん国際人間科学部――失礼!これは私の考えとはちゃいますよ――がグローバル人材育成としてGSPをやっている。一方全学的にはGCP(グローバル・チャレンジ・プログラム)でグローバル人材教育をしている。これを統一せぇっちゅう話でっさぁ。大学院では国際文化学研究科(国文)と国際協力研究科(GSICS)と似たような国際系部局が併存している。しかもGSICSは学部教育を持たないからこの際、整理をしたほうがええやろ、と。国文・GSICS統合大学院を作るなら、ついでにその下に新しい学部を作ったほうがすっきりする。そのためには国際人間学部に終止符を打って国文系と発達系とに二分しようという話も耳にしまっさぁ。現学長という人物は無理なごり押しも多い反面、ある種、合理主義者でもあり、歴代学長先生を観察してきたわっしからしても「やり手」じゃないかと僭越ながら思うとります。学部プログラム統一、国際系研究科統合という発想はなんら無茶な論理でもない。むしろ合理的経営者でなら手をつけたくなる点ちゃいますか。ただ問題は、それぞれの組織はそれぞれの条件と経緯を背負っているっちゅうことです。物事、頭で描いた通りにそう簡単には行きますまいよ。
細かいことを申し上げりゃあきりないですが、いくら何でも発足間もない国際人間科学部を解体、改組するというのはよっぽどの覚悟がないとやれんとちゃいますかな。2017年に「時代の要請に応え新しいグローバル人材養成学部を新設しました!」と打ち上げたものを、10年たたずしてやっぱりやめたでは神戸大学としての見識も疑われましょう。常識的にはそこに真摯な理念も洞察も感じられませんわな。むしろ朝令暮改、万年組織変更大学、こうべたれ大学、と世間や受験生の笑いものになること必定でっさぁ。とはいえもう既に、国際人間科学部の核であるGSPの縮小を徐々に進めてまっしゃろ。関連単位数を減らす、海外に行かなくてもよい、参加プログラム数削減する、ということを始めてますんで、実際には学部の存在基盤を自ら削っとるわけですわ。重荷から解放されてよかった言わはる方多いですが、組織のレゾンデートルたらいうもの放棄するわけですから今後、組織が安泰っちゅうことはありえまへんやろな。
賽は投げられた! 最新情報では、国文・GSICS統合を検討することが6月全学部局長会議で報告され、続いて両部局教授会でも同趣旨の説明があったとか。発達系大学院の7月教授会でも報告されましやろ。実は1年以上も前から関係者の定期検討会が進んでいたらしく、この時点で公表したというのは既に具体的プランが出来上がっているか、一気呵成に進める決断をしたかのどちらかとちゃいますか、憶測ですけど。これまで大事な問題は、表に出たときには8割がた決まっているのというのが実態ですからね。二部局統合に関して、人間発達環境学研究科は部外者ですから関係ないようにみえますが、問題は学部です。国文とGSICSが大学院を統合したら、当然学部も一緒にという話になる。そりゃそうですわな、一つの懸案は学部を持たないGSICSをどうするかっちゅう問題でっからGSICSも学部に関わらなけりゃ話にならない。
GSICSを加えた3研究科で国際人間科学部を支えるのも一案でしょうが、今もっぱら耳にするのは、国際人間科学部から発達系3学科を切り離し、国文・GSICS統合新研究科で運営するという案でっさぁ。発達系の先生方は、いやでいやで国際人間科学部への改組を飲まれたですから、この発達独立案を大方の先生が歓迎されるやもしれません。発達科学部復活!万歳!
新生「発達科学部」の可能性 しかしですよ、そんなに世間は甘くないんとちゃいますか。内部でどんな議論があったにせよ表向きには発達科学部を「発展」させる形でつくった国際人間科学部なわけですから、以前の「未発展」組織に先祖がえりなどしてはそれこそ見識が問われましょう。それにどうやって文科省に説明するのだっしゃろ。さらに発達系3学科で独立学部が実現するにしても、その際には教員ポイント、学生定員の削減その他、当然のことながら新組織として本部に差し出すものを用意せにゃぁならんでしょう。いえなに、私ゃ改組反対を申し仕上げている訳じゃございません。むしろ改組をするならそれもいいじゃないかと門外漢ながら見ていまっさぁ。ただ、やはりそこには学部の先生らの真剣な議論と覚悟が必要だろうと思うんです。こうしたい、ああしたいという要望は誰しもお持ち。しかし問題は学内ポリティックス、文科省の「指導」を考えるとさほど単純じゃないいうことなんでっさぁ。やるなら大いにやらはったらえぇ。ただそこでは知恵を絞ること、ある種の覚悟、戦略が必要だと思うとります。
おっとっと、もひとつ重要情報を忘れてました。六甲台お山の三学部はどうも国文GSICS統合構想にご立腹の様子。そりゃそうですわね。1992年GSICS創設時に「六甲台」が貸した教員ポストが今回統合で他部局に持ってかれちまうことになったら、そりゃ合点が行きますまいよ。お腹立ちも当然です。この要素は今後バカにできない関門となるんとちゃいますかな。
最後は理念 一等最初に申し上げましたように、執行部先生方は考えているようで考えてはらん。正確に言えば、各部局の具体的状況や意向の詳細など見てはらない。組織改編、制度変更が大学として成就すれば、執行部はそれを「お手柄」「お土産」として文科省からめでたき覚えを得て、自身の任期が明ければ、あとは野となれ山となれでおしまいですが、残された先生方はその運営に責任を負わされるわけですから大変です。進むも地獄、戻るも地獄の無限連鎖でっさぁ。そんな中でも、いやそんな中だからこそ、よくよくお考えなすって、何が大事なのかよぉく見極めて声をおあげなさらんといかんではないかと思うとります。こっちを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこっちが立たぬ中で、何を大切にして何を目指すのかゆうことに尽きやしませんかね。
いやいや調子に乗って、八方だらけ言い散らし、失礼千万なる言葉を並べたてました。お気に障った段には酔いどれの戯言とご寛恕願いましょ。なんだか酔っぱらっちまいまして、ことばもわっしの生まれた北海道、若い頃過ごした東京、そして関西の言葉が混じっちまして失礼しやした。それにここで縷々述べましたことは仕事をしながら小耳にはさんだ噂ばかりですんで、まったく事実無根かもしれません。むしろ私もそう願うとりますよ。ですんで「こんな嘘八百ならべよって」などと非難されてはお門違い。第一、ごく一部のご仁らで密密に大事な話を進めなさるもんだから当然のこと尾ひれがついて面白おかしく話が広がっとるんですわ。密密に進めてきたご仁らに問題があるんでしって、わっしの責任じゃありませんやね。お偉い先生方は脳を別のところに使ってらっしゃるので、そういうことがお分かりにならない方が多い。それに酔狂に説教を垂れことほど無粋なことはありませんやね。わっしの戯言はすべてご愛嬌ということでご容赦願いまっさぁ。
いやあ酔いに任せてぺらぺらやりましたら気が晴れた様でもあり、逆に胸クソ悪くなった様でもありすっきりしませんなぁ。それじゃ、先生、そろそろ河岸をかえてもう一杯いきましょか。もっとおもろい話お聞かせしましょ、えへへへ。 (2024年7月)