遠くから私が気仙沼にこだわる理由
―「ドキュメント」のひとつとして

 3.11を境に、日本の世界観は大きく変わりました。既存の世界観や根本的な価値観、そしてぼんやりとでも描かれていた近未来の予想図が根底からひっくり返りました。それに代わる新しい世界観を描こうにも、そのことさえもが非常に困難な状況が突如として訪れたのです。発端は天災でしたが、その後度重なる社会のエラーとシステムの歪みが暴かれました。「第二の戦後」というような言い方をする人もいるようです。それどころではない、敗戦でも折れなかった日本の基軸が折れてしまった、ととらえている人々もいます。放射能の問題も解決にはほど遠いようです。地域によって温度差はありますが、放射線問題に対する不安はとりのぞかれる気配は薄く、いったいいつまで続くものなのかその見通しも立ちません[注1] 。津波で被害を受けた人びと、仮設住宅に暮らす多くの人びとは、まだ日常を取り戻せてはいません。あちこちでいくつも復興の兆しは報告されていますが、まだ刻々と事態は進行しているこの段階で、「震災」全般について何かを「論じる」ことは、私にはできないように思われます。私にできるのは、そして唯一陳腐化しないで済むだろうことは、きわめて個人的な地域とそこに住む人々との関わりが、その前も後も継続的であるということを、具体的、個別的な事実にもとづいて跡づけていくことだけです。だから、私はこの小文を、「論文」という仮説や結論を求める閉じた体系のなかにまとめることは断念しました。大所高所から何かを論じることもやめました。それは、まだ、今は無理です。今はただ、誠意をもって、私にとって3.11は何だったのか、あるいはどういったものであり続けているのかを記録することが大切なことだと思い定めています。本稿はそうした意味で、ひとつの記録、文書、あるいは「ドキュメント」として提示されます。

[注1]本稿執筆中の2012年4月13日に「大飯原発再稼働」を妥当とする閣僚会議の見解が発表された。福島の問題が解決から程遠い現在、私にはまったく理解しかねる判断である。当然のこと、大阪、京都、滋賀など近隣自治体の反発があり、4月17日、京都・滋賀から「7つの提言」が政府に示された。本稿執筆時には、再稼働をもとめる政府が地元の理解を得ようとするも、地元の強い反発が報じられている。5月5日現在、泊原原発3号機の停止に伴って「原発ゼロ」となり、夏の電力需要と電力不足を見込んだ電力会社各社の動きも含め、今後の動向が注目されている。

 私の東北との縁はそれほど古くはありません。学生時代に所属していたゼミの合宿で岩手県遠野市や花巻市を訪れたことがありましたが、本格的な縁は2005年に東北学院大学教養学部に赴任してからのことです。赴任する前に、私の採用にかかわっていた津上誠先生が、車を運転して市内をくまなく案内してくれたのをよく覚えています。2005年4月から2009年9月まで、私は仙台市民として暮らしました。職場での私のミッションのひとつは、仙台近郊で学生を引率して社会調査実習を指導することでした。その年に新しくできたばかりの地域構想学科で、まず1年生向けの日帰りの実習を企画しました。じゅうぶんな土地勘もなく、不慣れなままに青葉神社や近所の二柱神社、仙台高野山、竹駒神社、東北学院大学土樋キャンパスに隣接する田町大日堂など、神社仏閣を、おもに祭礼などの行事に乗じてお邪魔しました。キャンパス内ではなく「地域」に出て学ぶ、というのが新学科の売りでしたから、候補地を探して実習の時以外にも休日には、時には学生と、時には同僚と、近場を中心にかなり手広く歩いて回りました。
当時教養学部長だった佐々木俊三先生は、「海・里・山のむすびつき」と銘打って東北学院大学教養学部開放講座の気仙沼での開催に乗り出していました。われわれ新学科の教員も数度、講師として気仙沼をお邪魔することになりました[注2] 。その主催者が、東北学院大学の後援会(気仙沼・本吉支部)の方々でした。うろ覚えですが、有名な畠山重篤氏の「森は海の恋人」をスローガンにした「牡蠣の森を慕う会」の植林運動に佐々木先生が参加した際に出た話だと記憶しています。
開放講座の開校式にあわせて唐桑半島を初めて訪れたときに私はその土地がすっかり気に入っていました。ちょうど早馬神社の祭典の日だったこともあるのでしょうが、頼んでもいないのに道案内され、気がつくと参道近くのお宅にあがりこんで、自家製の漬け物をごちそうになっていました。高速を使っても自家用車で2時間半の距離は、職場に通うのには遠すぎますが、住んでみたい、という言葉が思わず口をついて出ていました [注3]。
やがて2006年度になり、新学科の第一期生も進級して2年生向けのちょっとヘビーな実習を企画する段になりました。私は社会学の佐久間政広、金菱清両先生と組んで、「地域社会コース」というグループを組みました。いわゆる質的社会調査の実習コースです。実習の舞台として、最初の1年目は気仙沼市唐桑町、2年目は気仙沼市、3年目は松島、4年目は塩竃を選びました[注4] 。最初に唐桑と気仙沼を選んだのは、もちろん東北学院大学後援会気仙沼・本吉支部の関係があったから、その協力をあてにしてのことでした。また、私がかかわった範囲では、松島を対象とした2008年度以降合宿は張っていませんので、2006年度、2007年度の実習はとりわけ印象深いものになりました。
2006年度前期には、「津波体験館」に隣接する「国民宿舎からくわ荘」、後期には「吾妻旅館」が宿舎でした。
実習で調査するテーマはそれぞれ5人ほどのグループごと(履修希望者の人数によって左右される)に相談して事前に決めることにしていました。それぞれのグループが選んだテーマは以下の通りです。いま見るともっと錬る余地があったと思わせるタイトルもありますが、その時の指導の痕跡ですからそのままに記載します。

「『海の男』が帰る家―気仙沼市唐桑町の『唐桑御殿』」
「唐桑の女性たち」
「船から降りた男たち―遠洋漁業引退者の生活」
「宮城県気仙沼市唐桑町の民俗芸能―松圃虎舞と神止り七福神舞を中心として」(以上前期)

「カキ養殖における取引と地域のむすびつき」
「からくわ夕市の女性たち」
「夕市女性のライフコース」
「『生きている』神社と祭り―唐桑町早馬神社祭礼における持続と変容」(以上後期)

同様に2007年度には、前期は「磯村」、後期は「ビジネスinnコマツ」を宿舎にして実習を行いました。これらの宿泊施設は、学生の調査合宿にはいろいろな意味で過分なものだったかもしれませんが、宿舎の方々のご理解と、後援会の力添えがあってのことだと思います。それぞれのグループのテーマは、以下のようなものでした。

「大漁旗のみっつの顔」
「魚問屋から見る港町 気仙沼」
「早稲谷鹿踊」(以上前期)

「太鼓が持つ二つの顔」
「魚町商店街の顔」
「スローフードフェスティバルを通して見た八瀬」(以上後期)

この年には、リアスアーク美術館の学芸係長(当時)の川島秀一氏[注5] にも指導を受けました。氏とはそのときが初対面でしたが、それ以来「東北民俗の会」などで懇意にしていただいていますし、あとで触れるように一緒にアフリカへ行くなど、氏とは奇妙なご縁を結ぶことになります。
お世話になった方への報告もあって、実習では毎年、報告書を印刷しています[注6] 。2006年度のものは文章ですが、その後はパワーポイントに読み原稿を貼り付けるかたちで印刷するようにしました。文章の添削に予想外に時間がかかったせいで苦肉の策をこうじたのでしたが、文章だけのものよりも「読みやすい」と現地での評判は上々です。基本的にお世話になった方々にはお礼状とともにお送りすることにしています。ときには意外な励ましをいただいたり、おしかりを受けたりしました。
これらの実習は、学生が主体ですから、基本的に私のうかがった話が報告書に反映されていることはそれほど多くはありません。ずいぶんたくさんのことをうかがっていながら死蔵していたことを、今回しまいこんでいたフィールドノートを読み返して再認識しました。そこには、南方戦線を転戦したなまなましい体験談や、オホーツクからベーリング海峡など北方の漁で大儲けした話、昭和8年の昭和三陸地震、昭和35年のチリ沖地震、昭和53年の宮城県沖地震などでの津波の体験談などが記されています。なかにはスポーツ新聞で長嶋茂雄(全盛期の、です)の推定年収が公表されたとき、「何だ、そんなもんか」と思った、というすごい話も耳にしました。話の端々には、いくつも経験した生活や経済の大転換があらわれています。
例外的に私自身が比較的長いインタビューに同行したのは、「早稲谷鹿踊」と、「打ち囃子」でした。
前者では、議員生活が50年以上という菅原勝一氏、菅原信正氏、菅原正行氏、菅原幸男氏、菊地平八郎氏にながながお付き合いいただきました。後援会からは庄司幸男、佐藤仁一、熊谷伸一の各氏がつき添ってくださいました。ここでは、全37戸の家が5つの隣組にわかれて持ち回りで村にある甘酒地蔵尊に奉納する祭礼を運営していました。戦時中も奉納の義務は怠らなかったそうです。「鹿踊り」が伝承され、「踊り連」が組まれてから3年以内に碑を建てるのがきまりです。通常は伝承の正当的伝承者は「庭元」とよばれ、伝承者の家の庭に碑が建てられますが、早稲谷には庭に碑を持つ「庭元」はおらず、地域の鎮守である甘酒地蔵尊に碑があります。村の構成も隣組の顔ぶれも、大正時代からほとんど変わっていません。経済的な事情が変わっても維持されつづけた村の構造に驚かされました。
後者では、「小々汐打ち囃子保存会」の尾形賢治司氏はじめ、別家(べっか、分家のこと)を含め尾形氏が4名もいて、一族で伝承していたのに度肝を抜かれました。縁者にも東北学院大学に通っている方がいて、地元に根差した東北学院大学のネットワークにも驚かされました。また、「中才打ち囃子保存会」の西村清氏と佐藤良治氏も、地域で伝統をまもっていこうという気概にあふれていました。いくつかの「保存会」で議論になっていたのは、担い手の不足と伝承の範囲でした。古くは(といってもその深度にはかなり幅はあるのですが)イエの相続対象である長子のみに伝承されていた例が多いのですが、経済構造が変化することにより、都市へ人口が流出します。その結果過疎化・高齢化が顕著になってきますと、地域のなかで祭礼や芸能を担っていく人口が先細りしていくわけです。その解決策のひとつとして、メンバーシップを緩める対策がとられます。男性限定だったものを女性・子供に開放したり、長子への限定条件を外したり、あるいは(学校など)地区の構成員外にも教える場をもとめたり、という対策です。これは全国的な現象です。日本の民俗芸能や祭礼を見てゆくうえで、この問題はこれからも大いに考える必要があると考えています。
実習の最中に防災訓練の現場にたちあったこともありました。津波が確実に来ることが想定されていた訓練に驚いた覚えがあります[注7] 。

注2 「日本人にとっての、あるいは東北にとっての祭りとは」2005年10月8日、於気仙沼市地域交流センター、「東北地方の山岳信仰と日本の祭り―災因論と福因論の立場から見た―」2006年9月16日、於リアスアーク美術館。
注3 佐々木俊三、2006「『室根』という地名について」『東北学院大学教養学部論集』143、1-31頁。
注4 「海・里・山のむすびつきをめぐる総合的野外調査実習」大学教育高度化推進特別経費、平成17年~19年度教育・学習方法化以前支援経費による。
注5 神奈川大学教授を経て現在は東北大学教授。
注6 佐久間政広・金菱清・梅屋潔編『2006年度「地域構想学発展実習(地域社会コース)」報告書―唐桑に学ぶ』および『2007年度「地域構想学発展実習(地域社会コース)」報告書―気仙沼に学ぶ』参照。また、報告書刊行の努力をうっかり怠ったために起きたトラブルについては梅屋潔「私と『地域』とのおつきあい」『地域構想学研究教育報告』2011年、63-70頁、2011年に苦い経験を報告した。
注7 だから、この度の震災直後に、「防災訓練の不足」と口走ったメディアの識者のコメントには驚かされた。

 ところで、旧知の民俗学者、山田慎也氏からの誘いがあり、私と金菱先生は2006年から千葉の佐倉にある国立歴史民俗博物館(以下歴博)の共同研究班に入っていました[注8] 。その研究会では毎年、研究の成果を深めたり確認したりする調査旅行のための予算が計上されていました。初年度は山田慎也氏とも私とも縁が深い新潟県の佐渡でした。次の年はどうしよう、ということになり、私はその「巡検」[注9] を気仙沼で行うことを提案しました。これもまた、後援会気仙沼支部の方々の顔を思い浮かべたからでした。
2007年10月11日から13日、私は歴博の研究班の一員として気仙沼を訪れました[注10] 。11日にリアスアーク美術館、市内散策のうえ懇親会、12日には小鯖でオカミハン(後述)と会い、佐藤家で祀るオシラサマを、また別の家で祀られるケセランパサランを見学したのち、ワークショップ。13日には早朝魚市場を見学して当地でも崇敬者の多い御袋神社、室根神社へと遠征し、また取って返して大島にわたる、というとても欲張った予定でした。計画もすべて相談のうえ庄司幸男氏がたててくれました。
「巡検」では、実習でお世話になった方々と再会することができました。舞根の水山養殖場では、畠山重篤氏にも再びご高論をうかがいました。養殖場の脇のトイレの手洗いの水がつららになっていたのをよく覚えています。
小々汐の尾形家(屋号は「おおい」)で、はからずして「小々汐打ち囃子保存会」のインタビューをしたのが、プレハブづくりの気仙沼市議の尾形健氏の選挙事務所でした。その隣に建っていた、文化7年(1810年)建築といわれる[注11] 、茅葺きの屋根が美しい、尾形家のレプリカを展示する企画が歴博で進んでいると聞いていました。先祖代々のものだから守っていきたい、オッピーサン(「曾祖母」のこと)が「自分が生きているうちはいやだ」というので、文化財指定は断っていました。文化財指定されると生活のために手を入れることができなくなるからです。しかし、囲炉裏を使っていない現在では、茅葺き屋根は虫に荒らされてしまっています。「風待ち研究会」 [注12]の方々の助言で「登録文化財」とすれば、保存費用もある程度補助されるとのことで、考えているとのことでした。一般に茅の葺き替えは2000万円が相場だそうです。尾形家は、後援会の庄司幸男氏の親戚筋に当たり、幼少のころから出入りしていたということでした。
いわゆる宗教学でいうカミサマ(唐桑ではオカミハンと言い習わしています)にも面会することができました[注13] 。占いにはお米やお酒など準備が必要ということなので儀礼はお願いしなかったのですが、もう唐桑でも一人しかいないといわれるカミサマに会うことができました。実習では訪れることができなかったので何よりの経験になりました。
中井の佐藤家のオシラサマの衣のうち最も古いものは、元禄8年のものと推測されています。正月に衣を替えるのはオカミハンである小野寺さつき氏の役目だということでした(尾形家ではオシラサマの衣を替える際に宗教者は介在しない)。研究班のメンバーは、驚きとともにシャッターを押していました(写真1、2、3、4、5)。この佐藤家の当主は、後援会の主なメンバーのひとりで、気仙沼市会議員の佐藤仁一氏でした。佐藤仁一氏には、氏が還暦のお祝いで定義如来を訪れたときにばったりそこであったことがあります。早稲谷でも、前年実習でお邪魔した鹿踊り保存会の方々がちょうど山の神神社の祭典で集まっていて、ここでも、実習でお世話になった菅原勝一氏はじめとする方々と邂逅することができました。
10月12日、市役所のあるワンテンビルで公開ミニ・シンポジウムを行いました。一日や二日見ただけで何か意味のある話ができるわけはない、とぼやくパネラーもいましたが、とにもかくにも盛況のうちに閉会しました。
このときも宿舎となったのが「一景閣」でした。「一景閣」の近くには公園があり、かつては海だったと立札がありました。昭和になってからも津波がそこまで押し寄せたことがあるとも書かれていました。

注8 個別共同研究「身体と人格をめぐる言説と実践」(研究代表者:山田慎也)研究期間は平成18年度~平成20年度。
注9 個人的には「巡検」という言葉は、あまり好きではないし適切とも思わないが、ここでは歴博の慣用に従う。検分する、という上から目線が私たちの仕事になじまないように感じるからである。行政など権力側、体制側が住民の意見を聞いた、とアリバイ的に用いられることも多い用語だと考えている。今回の震災でもたびたびおこなわれていることだが、「ヒアリング」も同じ理由で好んで用いたことはない。英語でも、同様の非対称的権力関係に基づく用語であるという指摘については佐藤郁也『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』有斐閣、2002年、109頁を参照。
注10 参加者は以下の通り。池上良正(駒澤大学)、浮ヶ谷幸代(千葉大学)、金菱清(東北学院大学)、川添裕子(松蔭大学)、田中藤司(成城大学)、谷川章雄(早稲田大学)、田原範子(四天王寺大学)、土居浩(ものつくり大学)、長沢利明(法政大学)、山田慎也(歴博)。所属はすべて当時のもの。
注11 『御手伝帳』という書き上げが残っていたため判明したという。『第44回建築士会全国大会宮城大会』2001年10月5日、116-117頁、『宮城の古民家―宮城県民家緊急調査報告書』宮城県教育委員会、1974年。
注12 気仙沼市内を中心に残る昭和初期の建物群とそれによる景観の歴史的価値を認め、調査や建物ウォッチング、保存の推進および文化財登録などのサポートを行うNPO団体。
注13 楠正弘「宮城県の庶民信仰(一)」渡辺信夫編『宮城の研究』第7巻、民俗・方言・建築史編、清文堂出版、1983年 梅屋潔「ごみそ」『祭・民俗・行事大辞典』朝倉書店、上、2009年、680頁、梅屋潔「巫者」『祭・民俗・行事大辞典』朝倉書店、下、2009年、1536-1537頁。また、この唐桑の小野寺さつき巫女については、川村邦光『巫女の民俗学―[女の力]の近代』青弓社、1991年に詳しい。地元の観光ガイド『唐桑人物マップ』(株式会社まちづくりカンパニー、出版年など未詳)にも紹介されている。

写真1mono.JPG写真1 佐藤仁一氏と庄司幸男氏

写真2mono.JPG写真2 佐藤家のオシラサマ

写真3mono.JPG写真3 オシラサマを撮影する歴博研究班(金菱清氏撮影)

写真4mono.JPG写真4 大島から気仙沼湾を見下ろす

写真5mono.JPG写真5 歴博共同研究班気仙沼「巡検」一行

 しかし、なによりも筋違いかつ多大な尽力を仰いだのは、2010年3月22日に気仙沼ホテル観洋で行われた「水界に培われた生活知にかんする国際交流ワークショップ―気仙沼、熊野、尾鷲、アフリカ・ウガンダの漁労文化交流会―」です [注14]。トヨタ財団の研究助成金を得て、ウガンダ、アルバート湖畔で漁労を営む漁業関係者と、三重県熊野市の漁業関係者、そして、世界に冠たる漁業都市気仙沼の漁業関係者の交流会を気仙沼で行おう、という計画でした。
前年、歴博の「巡検」で田原範子四天王寺大学教授と意気投合した川島秀一氏は、乞われて、研究共同者としてエドワード・キルミラ教授(ウガンダ・マケレレ大学人文社会科学学群副学群長)や私、そして京都大学の松居和子氏とともにアルバート湖を訪れていました。アルバート湖の漁労生活を、日本の漁村を長く歩いている川島氏の目で見てもらおう、というわけです。「東北民俗の会」常任委員長でもある佐藤敏悦氏(当時東北放送報道局長)には、カメラを貸与していただきました。私は主に撮影要員として同行しました。
川島氏は、漁業のことになると目の色を変える本格派ですが、慣れない海外ということもあったのか、ウガンダの首都、カンパラにいるときには全く元気がありませんでした。体調でも悪いのではないかと周囲は心配していたのですが、湖が見え始めると俄然元気をとりもどし、アルバート湖畔に到着するやいなやカメラを持って走り出していました[注15] 。後で聞くと、以前から調査している、ラムサール条約にも登録されている福井県の三方湖のたたき網と同じ漁法なのだということでした。
この2009年の調査では、田原氏は通訳に徹し、私は撮影に徹しました。川島氏の漁業についての造詣の深さは文化を超えてアルバート湖の漁民にもつたわったようでした。漁業に疎いわれわれとは全く扱いが違い、彼らの説明も熱がこもったものとなったのも当然といえるでしょう[注16] 。
川島氏と私は、常光徹先生 [注17]が代表を務める歴博のもうひとつの共同研究でも一緒でした。どういうわけか(これも縁だったのでしょう)その「巡検」の行先も気仙沼になりました。そこで後援会の「幹事会」を開いていただき、ワークショップの打ち合わせをしました。後援会としても非常に大きな会なだけに、ずいぶんと奔走していただきましたが、どうにか開催にこぎつけることができました。
ウガンダで撮ってきた映像が会場に流され、川島秀一氏の基調講演で始まった気仙沼でのワークショップ。その場で予定がどんどん変更になりました。まず、ゲストだったはずの長島信弘先生[注18] が通訳と講演者に。私も通訳と懇親会の司会に配置換えになりました[注19] 。
「鮪立大漁唄い込み保存会」の大漁唄い込みが懇親会に花を添え、盛況のうちに終わりました [注20](写真6)。「後援会が動きやすいように」と、東北学院大学教養学部が共催としてくれ、学部長の佐々木先生が来場してくれたのはありがたいことでした。私は専任教員としては、すでに東北学院大学を退職していました。
熊野からの漁業関係者の中には、気仙沼の参加者と数十年ぶりに旧交を暖めることができた方もいました。また若い頃カシキとして金華山沖を通過し、性器を金華山に向けて晒して踊りを踊る、という儀礼を行ったという熊野漁師も参加していました。乞われてウガンダからの参加者にそれを通訳しましたが、ウガンダ人たちは期待したほどのおかしみは感じないようで、真剣に話に耳を傾けていました。
計算してみると、この7年の間に実に20回以上気仙沼を訪れています。地球上の土地で、ウガンダの村以外でこんなに頻繁に訪れた土地は他にはありません。なにがしかのご縁があったし、まだあるとしか思えません。

注14 助成番号D08-R-0256「水界に培われた生活知にかんする社会学的研究 ―ウガンダアルバート湖岸漁村と三重県熊野市漁村の国際交流による漁労文化の共有と編成」(研究代表者田原範子四天王寺大学人文社会学部教授、2008-2010年度)。ワークショップについては、下記URLを参照。 http://web.me.com/nanaafiaasantewaa/suikai/program.html[2012年5月5日参照]
注15 この模様は東北放送の夕方のニュースでも報道されました(「ウガンダの漁村を訪ねて」The News TBC、2009年10月5日放送)。また、この調査旅行については、「東北民俗の会」のメンバーから、「アフリカで東北の宝である川島氏に何かあったらどうするのか」と冗談交じりの叱責を受けました。
注16 この調査については、川島秀一「ウガンダ漁村紀行①~⑤」『三陸新報』2009年10月2日、10月20日、11月3日、11月17日、11月24日。
注17 国立歴史民俗博物館副館長、日本民俗学会会長(第28期)。
注18 一橋大学名誉教授、中部大学名誉教授。梅屋潔「アチョワ事件簿―あるいは「テソ民族誌」異聞」『アリーナ』第4号、328-346頁、2007年。
注19 松居和子氏の司会により、最終的なスピーカーは、以下の通り。川島秀一、ジェームズ・ムウェシゲ(ウガンダ・ホイマ県水産資源局課長)、久保智(熊野市水産振興課)、佐藤秀一(気仙沼市魚問屋元組合長)、イズクイク・オチリチャン(キホロ漁協)、山下寿(熊野市漁協)、片岡秀詔(熊野市漁協)、佐藤力生(水産庁)、齋藤貞子(気仙沼市、齋吉商店)、高橋義男(気仙沼市、漁業)、エドワード・キルミラ、長島信弘、白幡勝美(気仙沼市教育長)の各氏。
注20 このワークショップも東北放送と三陸新報の取材を受けニュースで報じられた(「ウガンダの漁業関係者と交流」The News TBC、2010年3月22日放送、「文化を運ぶ役割担う―気仙沼カツオ漁業基地国際交流」『三陸新報』2010年3月22日)。翌日のウガンダ人調査団の魚市場視察も続報として流された(「ウガンダの漁師が市場を見学」The News TBC、2010年3月23日)。

写真6mono.JPG写真6 国際シンポジウム懇談会で鮪立大漁唄込み保存会の面々と(田原範子氏撮影)

 3.11の第一報は、神戸の研究室で受けとった仙台在住の金菱清氏からの携帯メールでした。「とりあえず命は大丈夫です。家のなかぐちゃぐちゃ」という意味が、そのときは全くわかりませんでした。今となっては不謹慎ですが、冗談好きの彼が、冗談にもならない冗談でまたすべっただけかと思ったほどです。
神戸市灘区にある大学の研究室では、まったく揺れを感じませんでした。その後、キャンパス内のテレビが映る研究室にいた友人から「大変なことになっている」という情報が入り、ゼミの卒業生何人かに安否確認の電話をかけました。「つながったのは奇跡です。家族は皆無事、犬も無事」という声が一人から返ってきたほかは、ほとんど通じませんでした(とりわけ石巻方面の通信状態の回復は、その後ずいぶんと月日を要しました)。しかし映像を見るまでは、私はまだまだ「大変なこと」を過小評価していました。
帰宅してテレビを見ると、信じられない光景が映し出されていました。9.11がそうだったように、現実とは思えない仮想現実のようでした。津波に押し流されているのは、同僚たちと、学生たちと歩いた宮城県沿岸部でした。夜の気仙沼の街は、燃えていました。気仙沼港には重油を蓄えるタンクがいくつもあることは知っていました。道路が渋滞で消防車が動かない、とか東京都の消防がいち早く動いた、とかいう断片的な知らせに一喜一憂しました。東北学院大学時代の定宿で、歴博「巡検」でも泊まった一景閣の屋上からもヘリコプターで人が救助される映像が流れていました。仙台から大阪の往復で頻繁に行き来した仙台空港近辺の車が波でごっそり流される映像が、繰り返し流されました。その日のうちにウガンダから安否確認のメールが数通届いています。ウガンダでも大きく報道されたようでした。
16年前に阪神・淡路大震災を経験し、都市安全研究センターを擁している神戸大学の動きは遅くはありませんでした。11日当日、すでに現地を目指した研究者がいました。発災後数日のうちに休学届を提出して、早くも災害救助・復興ボランティアの先駆けとして東北に向かった学生もいたそうです。学内にはいち早く震災復興プラットフォームという名称の情報交換のネットワークが構築されました。都市安全センターや複数の学部にまたがるネットワークでした。私も何度か出席しましたが、次第に足が遠のいていきました。私の専門的知識は、その当時の被災地の役には立ちません。
それと、まだ遺体の捜索が続く現場で、捜索や瓦礫の撤去によって現場の現状が変わる前に記録しようとする専門家たちとは、残念ながら私は感覚を共有できませんでした。それはそれで大切なことだということはわかります。ただ、私はそのときは自分にできることは(少なくとも仕事とのかかわりでは)ないように感じてさびしい気持ちになりました。だから私は、しばらく私的な活動はともかく、表向きは震災にはかかわっていませんでした。そのときに校正刷りが上がっていたゲラに、何度も赤字で被災地へのお見舞いを追記として書き込んでは修正液で消しました。全容もわからず(いまなお全容などわかりっこありませんが)通り一遍の見舞いなど、意味があるとも思えませんでした。なにより、わかったような顔をしたくなかったのかもしれません。その原稿には、気仙沼の「早稲谷獅子踊」や「打ち囃子」の実習からヒントを得て思いついた、今後の研究の展開の可能性が書かれていました[注21] 。私心は全く持たなかったことを付け加えておきます。ただ、それらの民俗文化が大変な危機的状況にさらされている、ということをぼんやりと考えるだけでした。
私はどうしてもそこに暮らす/暮らしていた人びとのことが気になっていました。とりわけ気仙沼の人びとの安否が気がかりでした。グーグル・ファインダーで主に気仙沼市在住の知人の安否情報を求める毎日が続きました。直接の私の知人には亡くなった方はいませんでしたが(この災禍に直面して、それを単にエゴセントリックに「幸運にも」、と言えるメンタリティは持ち合わせておりません)、その親族まで範囲をひろげると、やはり多くの犠牲がありました。小々汐の尾形家は、葺きなおしたばかりの屋根ごと家財とともに流されました。レプリカを置くはずの歴博では、図面は保存してありましたが、神棚や盆棚の再現に苦慮していると聞いています。
5月になって気仙沼を訪れ、21日に短時間ながら後援会の方々とお会いすることができました。淡々と当時の状況を話し、廃墟のようになった町が見渡せる高台に案内してくれました。もうどこが駅かわからなくなった鹿折唐桑の駅前には、打ち上げられた漁船がそびえていました[注22] (写真7、8、9)。無事な、事前の覚悟よりは元気な姿をみて安心しましたが、一方で町の惨状には改めて驚かされました。そのときいただいたそばの味は忘れられませんが、記憶は断片的になってしまいました。私はぼうっとしていたのではないかと思います。いくつか失礼があったと、同行した妻に後から注意されました。
「電気がなかなか復旧しなかったから、ごく最近になって初めて津波の映像を見た。あの映像が他地域に流れていたのでは、われわれが助かっていないだろうと多くの人が思ったのも無理はない」という一言が印象に残っています。
仙台にも寄って父親を津波で失ったゼミの卒業生のお宅に弔問に訪れました。家族をこよなく愛したその方は、常日頃から地震と津波に警戒心を怠らず、家族に地震の時には海岸沿いのバイパスを通ってはいけないと言い聞かせていたそうです。貞観津波など、過去の資料を独自に研究したうえでのことでした。「職場で発災後、家族に一刻でも早く会いたいと、家路を急いで帰路に通ったバイパスで津波に巻き込まれたのです」遺族の言葉に、どう反応したらいいかわかりませんでした。在学中には気仙沼での合宿調査にも参加していた学生でした。
東北学院大学の非常勤講師の職にあったので、8月には集中講義に出かけました。事前に聞いていた関係者の奮闘の甲斐あって、キャンパスは機能を回復していました。街に出ても、仙台市街地近辺はすでにかなり復旧しているようでした。しかし、少し中心部を離れると、至る所に震災の爪痕は残っていました。
この折に文学部の政岡伸洋先生に久しぶりに会い、宮城県の文化財保護課が中心となって無形文化財の調査の計画が進んでいる、という話を聞きました。すでに有形文化財を対象にした「文化財レスキュー」は、神奈川大学、歴博、東北学院大学などが中心となって進んでいましたし、写真や紙媒体の資料などは、「震災復興プラットフォーム」の活動の一環として神戸大学の人文学研究科の奥村弘先生が積極的に修復に着手していましたが[注23] 、無形については、まだまだでした。この分野ならば、私も何かできるかもしれない、と密かに期待しました。尾形家のオシラサマは、茅葺の屋根が覆うように守っており、「文化財レスキュー」により発見された、とのちに聞きました。

注21  梅屋潔「佐渡ムジナと私、そして追悼レヴィ=ストロース―構造主義からの落ちこぼれの証言」『比較日本文化研究』第14号、56-74頁、2010年。
注22 全長約60メートルの「第18共徳丸」(総トン数約330トン)。福島県いわき市の「儀助漁業」所有で、震災時は定期検査で寄港していた。当時は解体予定と聞いていたが、周知のように、気仙沼市は、津波被害を象徴するモニュメントとして残す計画を持っている。10月に行われた地区の集会では震災当日、船が自宅を押しつぶす様を目撃していた住民らから反対の声が相次いだ。市議の中にも国の財源を条件にする声もある(2011年12月10日読売新聞)。なお、震災後のこの周辺の景観の変化の様子は、以下のURLで見ることができる。http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2012/0308kesennuma01/[2012年5月5日参照]
注23 2009~2012年度科学研究費補助金基盤研究(S)「大規模自然災害時の史料保全論を基礎とした地域歴史資料学の構築」(仮題番号21222002、研究代表者:奥村弘神戸大学教授)。

写真7mono.JPG写真7 第18共徳丸(2011年5月21日)

写真8mono.JPG写真8 高台から鹿折地区を見下ろす(2011年5月21日)

写真9mono.JPG写真9 魚町自宅跡で被災状況を説明する齋藤欣也氏、右は川島秀一氏(2011年5月21日)

 さまざまな対応に追われる宮城県がようやく腰を上げ、地域文化遺産復興プロジェクトを立ち上げることになりました。文化庁の「文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」の一環として被災した民俗文化財調査事業を実施することになったのです。
東北大学文学部大会議室で最初の会議が行われたのは、2011年11月3日のことでした。雛壇にいるのは高倉浩樹(東北大学東北アジア研究センター)、政岡伸洋(東北学院大学文学部)、小谷竜介(宮城県文化財保護課)、滝澤 克彦(東北大学大学院文学研究科)。フロアには、全国からあつまってきたフィールドワーカーたちがいました [注24]。それに東北大と東北学院大学の大学院生8名、学部生1名。いわゆる共同研究は全国で数多く行われていますが[注25] 、今回はそれらの研究会とも趣が異なっていました。民俗学や歴史学の有力教授の「研究室」に委託されることの多い市町村史編纂事業ともちがいます。3.11で甚大な被害を被った宮城県。その無形文化財の被災状況と復興状況の実態調査がわれわれのミッションでした。
かなり特徴のある人選だったといっていいでしょう。宮城県、あるいは東北の社会調査を過去に経験している研究者は、さほど多くありませんでした。専門もばらばらで、私を含め必ずしも今回手がかりとなる無形文化財(主に民俗芸能)を専門としていない研究者も見受けられます。林氏以外には、災害の専門家もいませんでした。これまでの現地での経験や専門性を度外視した人選であることは、誰の目にも明らかだったと思います。要するに全国からフィールドワーカーをかき集めたのだ、という印象を持ちました。論文や著書で名前だけ知っていた人物も15年ぶりぐらいに見る顔もありました。
主に高倉氏と政岡氏から、今回の事業について説明が行われました。宮城県が東北大学東アジア研究センターに委託した事業で、行政調査であること。被災地の教育委員会と事前に連絡をとること、基本的には大学院生等を随伴して調査を行う、という点が確認されました。何しろ今回は平時の調査ではありません。調査者も現場も混乱しています。起こってはならないことですが、被調査者とのトラブルになったときのことも想定してのことだということです。一人で行動することの多いフィールドワーカーは、こういった制約にはあまり慣れていません。あちらこちらから微妙な呟きが漏れていました。
運営委員会執行部から提案されたのは、配布されたリストを手がかりに教育委員会から無形文化財の保存会(保存会がある場合)などの代表を紹介してもらい、芋づる式にインフォーマントを探してゆく、という手法でした。選ばれた無形文化財は、県指定になっていないもの。指定されているものについては、県で対応できるはず、との認識からです。随伴学生とのスケジュール調整もあって、飛び込みは不可。3日間で約4、5人への聞き取りを想定しているということでした[注26] 。委託期間は11月1日から3月31日、調査開始は11月19日以降、3月末には報告書を完成しなければならない、というスケジュール的にもなかなか厳しいものでした。
配布された表では(仮に、という形で担当が決められていた)別のところに配属されていましたが、私は迷うことなく気仙沼市に調査対象地域を変更してくれるよう申し入れました。今回の調査で対象となっているのは、気仙沼市では3カ所。一つは唐桑半島の宿、本吉の小泉、そして浪板地区でした。唐桑には、東北学院大学のグループがずっと学生を連れて入っているということでした。多少の土地勘のある市内の浪板地区を希望しました。
現在手元にある報告書には、共有された調査のポイントとして以下のように記載されています。

(1) 震災前の行事の内容と保存会等の無形文化財の実施組織の構成と地域社会の実態。
(2) 彼らが震災で受けた被害、影響および、震災後の被害状況と今後の展望。震災でどのように変わったのか(変わろうとしているのか)。生業などが対象の場合、かならずしもこの構成にならない場合があるが、震災前の状況と、関係者の被災状況、現在まで続く状況を念頭に置く。
(3) 語り手がなぜその話を選んで語るのか。
(4) 時間的な制約もあり、すべてを網羅することは難しいので、無形文化財またはそれに準ずる祭礼・芸能・生業などに注目しつつも、何を軸にするのかは各調査員の判断に任せる[注27] 。

注24   赤嶺淳(名古屋市立大学大学院人間文化研究科)、植田今日子(東北学院大学教養学部)、岡田浩樹(神戸大学大学院国際文化学研究科)、金菱清(東北学院大学教養学部)、川島秀一(リアスアーク美術館)、菊地暁(京都大学人文科学研究所)、木村敏明(東北大学大学院文学研究科)、島村恭則(関西学院大学社会学部)、橋本裕之(盛岡大学文学部)、林勲男(国立民族学博物館民族社会研究部)、俵木悟(成城大学文芸学部)、藤原潤子(総合地球環境学研究所)。
注25  私と専門がちかいところでは国立民族学博物館、国立歴史民俗博物館、総合地球環境学研究所、国際日本文化研究センターなどのいわゆる大学共同利用機関法人人間文化研究機構や東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所などの共同利用・共同研究拠点で実施されることが多い。
注26 高倉浩樹「序」東北アジア研究センター編『東日本大震災に伴う被災した民俗文化財調査2011年度報告集』東北大学東北アジア研究センター、2012年、2~8頁。
注27 上掲報告書、8頁。

 私の調査は、12月28日、教育委員会への挨拶から始まりました。気仙沼に入るのは震災後二度目。調査を手伝ってくれる東北学院大学教養学部地域構想学会学生の相澤卓郎君と文化財保護課の小谷氏と市役所で待ち合わせました。面会に応じてくれた白幡教育長は、いろいろなヒントをくれました。なかでも鹿折八幡神社の氏子組織が手がかりになるのではないか、という一言は示唆に富んだものでした。この点については後に触れることになるでしょう。
今回の調査が通常の民俗調査と大きく異なるのは、3.11当日のことも質問項目のうちに想定されていることです。さらに、小谷氏は、調査が年末にかかるというこの悪状況を逆手にとって、宮城では例年12月30日ごろに行われる、正月飾りの飾り付けの実態調査もするよう、私に示唆しました。これで、私の調査テーマは、被災時の話者の体験の記録、浪板虎舞保存会の保存会としての被害状況と復興状況、そして今年、つまり被災後初めての年越しの状況、ということになりました。

…地震があったときには職場にいた。90になる母と妹の安否確認に自宅に戻った。自宅は壊れたものもなく、母も妹も無事だったが、大地震の後には津波が来る、との認識があったために、津波が来たら二階に上がっているように2人に言い置いて、職場に戻った。
公民館に戻ると避難民があつまってきていた。15時か16時になっており、次第に寒くもなっていた。津波に備えて、布団やブルーシートなど避難生活に必要と思われるものを2階の研修室に運搬し、避難民も2階以上に避難させた。ひととおりの公民館長としての仕事を終えた後、周囲に促されもして自宅へ向かったようだ。気がつくと軽トラックに乗っており、浪板橋を渡ろうとしたが海岸の方から来る車や山手から来る車で挟まれて身動きができなくなった。そのうち渋滞の間隙にわずかな隙間を通って、なんとか自宅にたどり着いた。普通は自宅まで1分程度。そのときにはすでに津波が遠くに来ていたようだ。親類が「津波が来てるぞ」と声をかけたと後で聞いたが、そのときは気がつかなかった。家につくと母が荷車を押して庭先に出ていた。妹は自転車で、母は軽トラック助手席に乗せて、荷車は荷台に乗せて山手(やまて)に逃げた。光ヶ丘の、神経科・精神科の病院があるあたりである。道沿いに上がれば高台まですぐなのだが、まさかそこまでは来ないだろうと思い、道沿いではなく病院の職員用駐車場の中を通って避難した。駐車場の突き当たりにある一軒家までたどり着いた。そこに停めて、後ろを見たら津波が来ている。堰の方が速度が速いらしく、追い抜かされた。車を乗り捨てて母親を負って山に登った。
後ろを見たら、流されてきた車と、駐車場に駐車してあった車が山になって折り重なっていた。ハザードランプが点滅したままだったり、クラクションを鳴らし続けていた。(追い抜かされた覚えはないのだが、後にその場所から公民館近辺でわかれた虎舞のおじいさんの乗った自動車が発見された。虎舞をしていた子供たちもなくなっていた。流されてきたのであろう)潮が何回か上がり下がりしたが、すでに瓦礫の山に封鎖されて来た道は戻れなかったので、身動きができず、その奥にある一件の家に4日間世話になった。2日間は出られなかったので、連絡することもできず、公民館では津波の方角に向かっていった館長が犠牲になったのではという声もあったようだ。
3日目、光ヶ丘の職員が瓦礫を除去して道が通ったので、公民館の方に連絡がつき、午前中に浪板、昼過ぎに大浦、小々汐まで安否確認に行った。瓦礫だらけで通り道もなかった。旧知の人びとの安否を確認し、2時間半かかって行ったら、暗くなるのでとって返した。光ヶ丘についた頃には、暗くなった。それが3日目。4日目は鹿折駅付近を確認してその日も終わった。5日目(15日)の朝、消防に4:30に起こされた。付近の大浦が火事になったという。世話になっていたご家庭の奥さん(看護師)が4日目にしてはじめて自動車で帰宅した。ご家庭の娘さんが嫁に行っている西中才の方に避難するという。その自動車に便乗して、母親の実家がある(山手にある)早稲谷に連れて行ってもらった。早稲谷に母と妹を預けて状況把握のためにまた鹿折に戻った。帰りは暗いトンネルを自転車で早稲谷に小一時間かかってたどり着いた。それからはそこを拠点に、数少ない軽トラックを借りて早稲谷から通って、地区の安否確認に回った。
4月ごろから公民館が鹿折小学校に間借りすることになった。そこもかなり(後に専門家が来てはかったところ床から140センチ)浸水していたし、ヘドロがいっぱいだった。建物は無事であったので、東中才の自治会長、小学校のPTAなど地域の方々が清掃してくれた。公民館では、市の支援センターからの物資を配給した。衣類や子供用品、衛生関係などの物品のニーズも調査した。毎週日曜日朝9:00から、のべ14回配給を行った。9時からだが7時にはもう行列ができていた。平均すると1回250人ほど集まっていた。最後希望の品がなくなっても鹿折の人びとからは感謝の言葉しか聞かれなかった。鹿折の人びとのマナーのよさに感銘を受けた。ボランティアのありがたさも身にしみた。
私自身は、6月まで早稲谷に身を寄せていたが、現在鹿折小学校向いにあるアパート住人が仮設に移ったため空きができ、修理完了後すぐに入居することができている。
10月9日には、復興を期して「祈念まつり」を開催し、2,200人から2,300人の人を集めた…[注28] 。


ここにあげたのは、震災から10ヶ月近くが過ぎた年の瀬、仕事納めの日に鹿折公民館で聞いた体験談です。
「危機一髪なんてもんではなかったのっさ」と、公民館長は、はっきりとした声でつけくわえました。いくつも注目すべき点があります。大地震の後の津波はこの地域の誰もが覚悟していたこと、従って来たるべき津波への備えはある程度行われていたこと [注29]、しかしそれでも、津波の規模は想像を超える大きさだったこと、自動車が想定外の状況で流されてきたこと、逃げる途中の自動車の混雑 [注30]、さらには極限状況においてお互いを支える親戚関係などです。しかし何より瞠目させられるのは、この人物が被災後職務である安否確認を続けたことでした。そして、改めて感じたのは、まだまだ先の見えない復興への長い道のりです。似たような、一瞬で生死が分かれるような体験は多くの人が体験したようでした。ひとりならず、当日、あるいはその前後数日間の記憶を失っている、と語る人にも出会いました。一部の学校などでそれを作文にして記録する作業が進んでいると聞きます[注31] 。

注28 上掲報告書、252-3頁。
注29 実際には、かなり綿密に行われていたと思われる。現在はさすがにそのような暴論は耳にしないが、震災直後にメディアなどで言われていた「訓練が不足」「予想していなかった」などというのは全くの間違った認識である。むしろ、通常の避難訓練通りに実は危険な「指定避難場所ではない」防災センターに逃げ込んで多くの方が犠牲になった釜石市鵜住居の事例は、間違った訓練が身についてしまったために起きた悲劇であろう。
注30 渋滞で足止めされ、避難ができず津波に巻き込まれた人が多い、という声は別な地域でも数多く聞かれた。これもまたひとつの現実であろう。
注31 もちろん、こうした作業が学童に与えるメンタルな影響については留意が必要だろうが、何が何でも思い出さない、触れないのがよい、とは考えられない。第18共徳丸の保存の問題ともあわせ、このあたりはもっと精密な議論が必要なので、別稿を用意したい。ただ一言しておくと、現在の共徳丸を見て不快感情を訴えるのは、直接被災した経験者であるが、この種のモニュメントは(そして震災にまつわる一連のドキュメントも)、経験したものよりはむしろ経験していない次世代以降のために構想されるべきものである点を忘れてはならないだろう。

 浪板虎舞が奉納される旧鹿折村の村社、鹿折八幡神社の氏子の範囲は広大です。3.11の津波ではその大部分が浸水しました。高台にある鹿折八幡の境内は無事でしたが、社務所の数十センチ下まで浸水したそうです。新築の社務所には、床上浸水して行き場を失った近隣住民が逃げ込み、数日間避難所となりました。
東・西中才、浪板、蔵底、東八幡前から大浦、小々汐、梶ヶ浦(二ノ浜)、鶴ヶ浦(三ノ浜)(総称してシカハマ(四ヶ浜))」までふくみます。そのうち、例大祭、「八幡様のオサガリ」で神輿を担ぐロクシャク(陸尺) [注32]を出すのは中才、浪板、蔵底、東八幡の4地区。現在はこの順番で毎年地区の持ち回りで執り行っています。この当番のことを地域ではトーメー(当前か)と呼んでいます。氏子ではあるがロクシャクは出さない地域が、主に漁業を生業にしていたシカハマで、これらの村は神輿が海上渡御する際の船をあつらえることになっています。神輿は三ノ浜まで順次オヤド(休憩所)で休憩を取りながら巡行したあと、鶴ヶ浦から船に乗せられて海上に出る。これを八幡様の「オサガリ」とも「ハマサガリ」ともいいます。海上では、「お神明さん」(五十鈴神社)の前を通って海上で三回まわり、対岸の鹿折の岸壁に着け、鹿折地区を北上して神社に戻ることになります。通常は総計18カ所のオヤドがもうけられ、氏子の家の庭などで酒肴が準備されます。接待を担当する旧家には、かつて用いた宝桶(ほうげ)という専用の器が残っています。こうした役割が村の中での格付け、序列となってもいたと伝えられています。地域に神輿が巡幸する際には、氏子たちは家の前で八幡様の掛け軸をかけて拝んだりするそうです。飯綱神社、須賀神社の脇には常設の集会所があり、そこに神輿が入って直会が行われるときには、ロクシャクの担当であるなしにかかわらず、地域の氏子たちが参加する習わしです。
湾内の人はみな鹿折八幡神社の氏子ですが、各地区にそれぞれある神社の氏子でもあるということです。たとえば、浪板には飯綱神社[注33] 、須賀神社があり、大浦には厳島神社と熊野神社、小々汐には金比羅、山の神、二ノ浜にも金比羅、山の神、三ノ浜には、御嶽神社があります。浪板は、行政区としては浪板1、2と分けられており、浪板1の住民は飯綱神社の、浪板2の住民は須賀神社の氏子崇敬者であるということです。
浪板は「オリンピックの年がトーメー」で、その次の年は蔵底と呼ばれる新浜1、2丁目あたりの新興の町場、次の年は東八幡あたり、そしてその次の年は、西中才と東中才が担当するという順番です。
浪板虎舞保存会の役員で震災の犠牲者となったのは、前幹事長で顧問、会計兼副会長(規約上自治会長は保存会副会長を兼ねることになっている)夫妻。浪板1地区では6名、浪板2地区では17人、計23名が犠牲になりました。
保存会の幹事長、小野寺優一氏によると、「今年(2012年)担当の浪板は大丈夫だが、今回蔵底は大打撃を受けているので、ロクシャクのローテーションが崩れる可能性は否定できない」。
浪板がトーメーの時には、八幡神社の前夜祭に虎舞を奉納し、神輿渡御の際には鶴が浦から船で出てこの折りに神輿の後ろには太鼓がついてうちばやしを行い、虎を舳先で振るそうです。虎舞は、もともとは海上安全・大漁祈願のための舞で、家内安全、商売繁盛のために舞うものでした。結婚式や船おろし、新年会などめでたい席に招かれて披露されます。保存会会員からは会費も徴収しますが、その際のご祝儀が主な資金源です。
浪板地区に伝わる浪板虎舞には、もともとは、カトク(家督)つまり長男しか関わることはできませんでした。しかし、大学にいったり、就職したりで浪板を離れる人も多く、担い手の確保がかねてから課題でした。昭和41年に保存会ができて規約が制定され、「火曜の会」という集まりもありましたが休眠状態でした。平成14年ごろから活性化を訴える声が大きくなり、火曜日夜7:00から毎週笛太鼓の練習をするようになり、現在の火曜の会が実体を伴ったものとなりました。そのころから女性も太鼓を叩くようになり、平成16年ごろには熱心な女性会員が集まるようになりました。
震災が起こって、大部分が仮設住宅での生活を余儀なくされていますが、浪板の216戸は、いまも戸籍もそのままだし、したがって規約上も全員が浪板虎舞保存会の会員であるということです。今後仮にどこかに住所を移したとしても、当人およびその子孫は虎舞の活動から排除するつもりはないそうで、将来的にはもともと叩いていたが疎遠になっていった人たちも含めて、「準会員」のようなことも構想しているとのことです。幹事長は復興の向こう、保存会の未来の繁栄を見つめていました。
今年(2011年)、八幡様のオサガリは、震災の影響で行われませんでした。
2012年の初舞は1月15日に飯綱神社に奉納することになっているとのことでした [注34]。初舞は、1月の第3日曜日ときまっています。須賀神社の縁日は10月15日。この折には須賀神社に奉納してから飯綱神社で舞うことになっています。飯綱神社は商売の神であり、須賀神社は不動明王を祀っています。昭和48年(1973年)には大阪万博に招かれたこともある浪板虎舞は招かれればどこへ行っても披露します。今年の6月4日には横浜の山下公園で震災後初の虎舞を披露しています。

注32  葬式の時にもお骨を抱く者もロクシャクと呼ぶ。
注33 『気仙沼市史』Ⅶ、524-5頁には、「無格社 飯綱神社、明治42(1909)年9月30日八幡神社ニ合祀」とある。明治39年(1906)の勅令の影響であろう。須賀神社については記載無し。
注34 私は大学入試センター試験のため、初舞に立ち会うことはできなかった。小谷氏と相澤君の調査報告については、上掲報告書267-269頁参照。

 頭を悩ませたのは、「お年とり」についての聞き取りでした。八幡神社のお祭りも中止になっており、町並みを見ると年始どころではない感じもしました。実際、仮設に間借りしている方のなかには、「今年は一切無し」と宣言する方もいました。本来は母屋には三つ揃えの松、7本のしめ縄を飾り、離れには二段の松に5本のしめ縄、水回りには3本の輪、また井戸、風呂、離れの水道、トイレ、自転車、自動車、耕耘機、臼、若水迎えの桶など10数カ所に正月飾りをするのだそうです。それぞれの施設や機械など、すべて水の中に飲み込まれてしまいました。「井戸はまだ使える」とのことですが、現状を語るのがいかにも残念そうでした。
そんななか、約二名の方が、「お年とり」の取材にこたえてくださいました。
一人は、虎舞保存会会長の昆野文男氏でした。調査を手伝ってくれていた相澤卓郎君と縁続きだということも幸いしました。
昆野氏は、「日渡水産」社長です。「日渡」は、屋号。震災当時は、工場で加工する原料を運搬中で、街中にいたといいます。工場では鰹節やなまり節を製造し、イカの塩辛の下処理をしていました。4棟あった水産加工業の工場は、すべて駄目になってしまいました。再建のめどは立っていません。自宅にも津波で軽トラックや乗用車の車両が戸板を壊して流れ込み、泥だらけになりましたが、半壊で、現在でもそこに住むことができています。代々大切にしている「鍾馗さま」 [注35]の掛け軸のすぐ下まで浸水しましたが、神棚や掛け軸は無事でした。すでに八幡神社から七房のついた注連縄、スカシ、網、星の玉7枚セットが届けられていました。何を貼るのかは、その家によって少しずつ違っているそうです(たとえば「日渡」では竈神を刷った「玉紙」を貼るが、「おおい」では貼らない)。12月1日にお祓いを受け、総代役が鹿折八幡神社から受領してきたものです。家も神棚も残ったので、例年に近い「お年とり」と正月行事を行う予定だということです。
「日渡」は、昆野さんで16代目だということです。もとは海苔や牡蠣、コウナゴ漁などをしていましたが、1960年のチリ沖地震の津波を機に船を売却、工場をはじめたそうです。2月に創業50年を記念して社員一同歌津でお祝いしたばかりでした。比較的山に近いところに居を構えていたのも、そのときの教訓だったのかもしれません。
一方で、今回大きな被害を受けた地域のほとんどは、かつて塩田だった地域を埋め立ててできた商店街だったという声も耳にしました。一部では地域ぐるみの高台移転を決定した地域もあるそうですが、地域によっては困難に直面しているようです。コンセンサスを得ることが難しいこと、所有者の意向ももちろんですが、候補となる地域に遺跡が発見される事例も後を絶たないようです。太古の日本人の土地利用から考えると、当然ともいえることですが、われわれはずいぶん長い間そのことを見過ごしてきました。仙台市では、埋め立て造成した住宅地が地震で甚大な被害を受けました。津波のことだけ考えると、大きな見落としもありそうな気もします。
29日の夕方立ち寄った市内のジャスコはお年とりの準備をする人々で賑わっていました。ほっとしました。
その晩、頼りの後援会幹事長、庄司幸男氏のおかげで、小々汐の尾形健氏にも連絡がつきました。
尾形氏も属する小々汐打ちばやし保存会は、中心的な叩き手であった70代の尾形賢治氏を失いました。一度高台に避難しましたが、船の様子を見に降りて行って第二波にさらわれてしまったそうです。小々汐は54世帯のうち、9名が死亡。太鼓はすべて津波で流失しましたが、そのことをインターネットで告知したところ、全国から締め太鼓が寄付されてあつまってきたといいます。11月20日の浦島小学校のさざなみ祭りで震災後はじめてお披露目をしましたが、次はいつになるかわからないとのことです。もともと打ち囃子は、小々汐にある金毘羅さんに奉納するものでした。おととし保存会発足30年を迎えました。現在では叩き手が小々汐だけではまかなえないので、浦島小学校の子供たちも叩き手となっており、30数名の構成員がいます。震災前には、8月第一土曜日のみなとまつりでのうちばやし大競演(1,000ほどの太鼓が叩かれる)、鹿折のかもめ通りのかもめ祭り(8月)、鹿折の老人ホームや小々汐の夏祭り、秋の浦島小学校の学芸会である。今年はこれらすべての行事は震災の影響で行われていません。
翌朝10:30に小々汐の屋敷あとに来るようにとのことでした。行ってみると、すでに尾形一家はそろっていました。リアスアーク美術館の川島氏も歴博の小池淳一氏、成城大学の加藤秀雄氏もやってきました。
現在はアパート住まいで、そこには市販の注連縄を下げるだけですが、屋敷跡にはたくさんの神が祀られていて、毎年30日にはお参りする習わしです。
家族で二手に分かれて、明神さん、お天王さん(通称イワクラさん)、金毘羅さん、三峰神社(通称オクマンサマ)、井戸神様、そして土蔵跡、計5か所のお参りをしました。
今年は、注連縄と幣束をあわせて簡略化したものをそれぞれ適当な場所にガムテープで接着し、依り代としました。巾着から米を三回ずつ撒き(「オハネリ」という)、二礼二拍一礼をしました。四方に向けて拝んでいましたが、あとで聞くと、個別の神を拝むときにも、それぞれすべての神の方角を拝んでいるとのことでした(写真10)。
金毘羅さんの石鳥居は津波で破壊され、明神さん、三峰神社の木の鳥居はいずれも震災後の山火事で焼失していました。これらの神様は、何軒もの別家(分家)をもつ「おおい」だけで祀っているのではないけれど、元の通りに修復するのは、別当であり「おおい」である自分の責任だと、尾形氏は話していました。
尾形氏は市会議員で、地震のときには、予算委員会の最中でした。帰った議員もいましたが、しばらくは役所にいたそうです。家族にその日のうちに会いたいと思い、夜9時ごろになって瓦礫だらけの町を避けつつ、大船渡線の線路づたいに鹿折唐桑駅方面に向かいました。現在船が打ち上げられているあたりが駅ですが、あたり一面火の海でした。浪板から先には行けず、自宅のあるはずの小々汐までは辿りつけませんでした。焚き火をしていた家があり、おじいさんとおばあさんと近所の男性がいました。途中で海水の水たまりにはまったりしていて体も濡れていたのでひどく寒く、その焚火に当たって一晩過ごしたそうです。毛布にくるまっていたおじいさんは、その夜に息を引き取りました。頼まれて行った心臓マッサージも功を奏さなかったそうです。現在でも、そのおばあさんと男性がいったい誰だったのか、確認はとれていません。早朝6時ごろに出発し、5つ山を越えて小々汐の裏手から夕方避難所となっていた浦島小学校に辿りついたときには17時を過ぎていました。そこで津波に追いやられて避難してきていた家族と対面することができました。避難所にはストーブが一台しかなく、とにかく寒かったということです。当初は270名ほどの避難民が暮らしていましたが、1週間内外で自衛隊や米軍のヘリコプターがピストン輸送してそこからバスでK-Wave(気仙沼総合体育館)、気仙沼中学校や市民会館などの避難所に移送され、30名程度が残されました。4月末に閉鎖されるまで尾形一家は浦島小学校にいました。そこから議会に通ったのです。5月1日に市内に所有するアパートに空きができたので、現在はそこに住んでいます[注36] 。
行政の対応の遅れなどが報道で批判されることがありますが、地方自治体の議員や職員も被災していることを、別の安全な場所から論じる人はともすれば忘れてしまいます。避難生活を続けながらの復興は、想像を絶する困難だろうと思います。

注35 昆野文男氏の祖母が幼少のころ旅の六部がこの家に鍾馗様の掛け軸があることを言い当て、それが守り神であると述べたといういわれがある。
注36  上掲報告書、261-264頁。

写真10mono.JPG写真10 津波で破壊された金比羅さんにお参りする(2011年12月30日)

 最近では、深刻な被害にあった地域の民俗芸能が、別の地域に招かれて披露する、という報道をよく目にします。虎舞もはやくから遠征に取り組んでいますし、先日も静岡で東松島の大曲浜獅子舞が披露されたとか。獅子頭は運よくがれきの下から発見されたそうです。津波の被害が著しい地域の民俗文化の担い手からは津波で全部流されたけれど、身についた芸能は残っていた、という感想も耳にしました。哲学的、人類学的、そして社会学的な身体論が説くところを身をもって実感したに違いありません。
浪板にせよ、少々汐にせよ、歴史的にも文化的にも独特なかたちでコミュニティを形成してきています。それは時には何度も見舞われた津波など災害への対策も含めて、長い時間をかけてつちかわれたものです。それ自体が深遠な構造をもった無形文化であるといっていいでしょう。そのつながりは、本稿で多少触れた氏子組織や民俗芸能をはじめとして、本稿では十分に描くことができなかった本家分家関係、そしてシンルイとエンルイを細かく区別する親戚づきあいなど、外部からは簡単に了解できるものではありません。ましてや上からおしつけられる都市計画などのような、物理的なパズルのようなものでどうにかなるものだとも思えません。私は、この生き生きとした組織が、この時代のこの地域の環境設定を見極めて、自ら立ちあがるものだと信じて遠くから気仙沼の現状を日々見守っていくつもりです。
この過程をもっと積極的に見届けることができるように、同僚の岡田浩樹氏と協議して、この3月に神戸大学に事業計画を提出し、幸運にも採択されました。ほぼこれまでの方法論をなぞったものですが、ひとまず別動隊としての機動力も確保しました。一律一回2泊3日という原則をまもれず、特例を認めてもらって3泊4日の調査を重ねたことと、神戸からの旅費が予算を圧迫していたことで気が咎めていました。宮城県の無形民俗文化の調査も継続して東北大学東北アジア研究センターに委託することになったようですから、またしばらくの間は、気仙沼、そして東北の復興をこの目で見届けることができそうです。この地区の被害についての外形的な情報は、書籍、新聞、雑誌、あるいはテレビなどメディアを通じてもはやあふれているといっていいほどです[注37] 。しかし、地元でも当事者たちの間で今なお、「いったい何が起こったのか」を問い続ける毎日が続いています。
こぎれいにまとまっていなくても、主観的であっても、充分な分析がほどこされていなくてもいい(そんなことは不可能です)。今欲しいのは、また今蓄積しなければならないのは、細かい個別の具体的事例です。その体験や出来事をできるだけ早くすくいあげ、記録することが重要であるということは、今になっていえることですが、それに気づき、実行した例は多くはありません。この事例に関しては、「サルベージ」が非常に重要です[注38] 。躊躇することが多かったこともまた事実だと思います[注39] 。被災地の多くの人々はまだ日常を取り戻してはいないし、大震災はまだ、継続中です。いまわれわれにできるのは、総括ではありません。まだその時期ではないのです。今の段階でわれわれにできるのは、語り部として将来検討するに足る、信頼できるドキュメント[注40] と後に再解釈可能なモニュメントを残すことです。ここでいうモニュメントは、単なる震災モニュメントを意図しているのではありません。ミシェル・フーコーが、「知の考古学」を構想したときにその手掛かりとした、ある時代の人間の言説がきざみこまれたモニュマン、そしてレヴィ=ストロースがオーストラリア先住民のチューリンガをとりあげて「物的に現在化された過去」と感嘆したような、そうした時間と世代を超えた検討に足る何かでなければなりません[注41] 。
また、何よりも当事者が自ら語り部となり、語ることのできるアリーナをつくることが大切だと思います。語る言葉を持っている者には、語る責務もあるように思われます。私はいろいろな運命のいたずらで東北を離れましたが、遠くからでも、そうした事業にかかわりたいと思っています。その関わり合いのなかでは、どうしても気仙沼にこだわるつもりです。その理由は、本稿を読んでいただいた方には、個別の具体例として十分に伝わったと思うのですが。

注37  特に一般の撮影した動画が災害記録のなかで占める役割の大きさが今回の災害では際立った点が指摘できる。
注38 通常人類学では、「サルベージ人類学」は近代化およびグローバル化により失われつつある民俗や文化をすくいあげようとする懐古趣味の立場として批判の対象になることが多い。
注39 金菱清編『3・11慟哭の記録―71人が体験した大津波・原発・巨大地震』新曜社、2012年、東北大学震災体験記録プロジェクト編、『聞き書き震災体験 東北大学90人が語る3.11』新泉社、2012年、赤坂憲雄編『鎮魂と再生』藤原書店、2012年などは数少ない例外である。とりわけ人文社会系のフィールドワーカーが現地入りを躊躇した理由として、プライバシーとデリカシーの問題は無視できない。当事者が中心となるものが多いのは、こうした背景によるものだろう。一方で躊躇するどころか、デリカシーをあまりに欠いた研究者の存在も指摘しないわけにはいかない。私はとある建築を専門とする研究者が、「被災地に早く行くべきだ。行かないとすべて片付けられてしまう。それでは遅いんです」と主張するのを聞いた。まだ遺体を捜索している段階であまりにも人間性に欠ける発言である。また別のところでは、満潮時に家屋に浸水するのを防ごうと玄関前に積み上げた土嚢を見て、「なんということをしたのだ」と怒鳴りつけたと聞いた。地盤沈下によって上昇した水位を測ろうとした専門家だそうである。この現地の生活をデータとしか考えない専門家のエピソードは、噂であるから誇張はあるにせよ、ありそうな話ではある。
注40 アメリカの原子力規制委員会(NRC)が開示したドキュメントと日本政府が事後にさかのぼって作成した福島原発関係の議事録を比較すると、この重要性はどれだけ強調してもしすぎにはならないだろう。また、できるだけ仮名を用いずに実名表記を原則にした本稿の方針も固有名詞と具体性を重視しているからである。他者の名誉を毀損しないよう配慮するのは当然としても、訴追の可能性をおそれて最初から仮名、匿名にするのはドキュメントの理念からすると先回りしすぎであろう。事実を記述するときに匿名のまま曖昧にするわけにはいかない。たとえばはからずして訴訟になったとしてもそのやりとり自体が重要なドキュメントでもある。
注41 M・フーコー『知の考古学』中村雄二郎訳、河出書房新社、1970年、15頁、クロード・レヴィ=ストロース「再び見出された時」『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、1976年、260-293頁。



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宮城県における東日本大震災で被災した無形民俗文化財調査成果データベースLinkIcon