呪詛と祝福(※)の民族誌―わたしの研究紹介

 アメリカの文化人類学者クリフォード・ギアツ(Clifford Geertz:1926 - 2006)は、人類学について知るためには、人類学の「専門家が何をしているのか考えてみることだ」という主旨の発言をしたことがあります。そのひそみにならって、私が何をしているのかを手がかりに私の専攻する人類学について書いていきたいと思います。私は人類学に出会ったころから一貫して呪いや祟りの問題に関心を寄せてきました。呪いや祟り、と聞いてなぜそれが学問の対象になるのか疑問に思う人もいると思います。私はそれには、人が住んでいる地域や社会というのは客観的な尺度では測りきれない、情念や意味に満ちている、その情念の中でも鍵になるのが、しかも深刻なのがこのような観念で語られる問題なのだ、と答えることにしています。
 神社や仏閣にちなむ地名は各地にあります。天神や天満しかり、八幡なども有名なものです。あちこちの天神は、天満宮を勧請して祀った、誰かあるいは、ある集団の意図と無縁ではありえません。北野天満宮が菅原道真の怨霊であり、祟神であることを考えると、過去に雷で被害を受けた地域かも知れない、というような憶測も可能です。さらには、こうした聖地は、神社になるよりもずっと前から特別視されていた可能性もあります。最近、中沢新一氏が『アースダイバー』(講談社、2005年)という著作で試みた研究方法を敷衍して考えると、そういった場所の地形などから見ても、かなり前から祭祀装置が置かれていた可能性があるところが少なくありません。
 また、こういった情念による空間の意味づけや世界観は、ときに(本当はいつもある程度は)まったく関係なさそうな部分に影響することがあります。日本に限りません。アンダマン沖の津波が起こったときに、被害を受けた人々を移住させようと、別な土地に住宅を建設しました。地域によっては、移住に猛烈な反感を示しましたが、ある地域ではすんなり移住が成功しました。すんなり移住した人々は、海難死者の霊の祟りを恐れていた、ということです。反感を示した地域は、むしろ先祖代々の土地への愛着があり、津波の被害者の祟りは気にしなかった、というよりそういう考え方がなかった、というわけです。

 私がこれまで取り組んできた研究分野である社会人類学は、基本的に特定地域に出かけ、そこに住む人々の日常生活にある程度入り込みながら行うフィールドワークをその基本としています。そのなかでも、私はここ10年来「呪詛と祝福の民族誌」が自分のライフワークだと自覚するようになってきました。両者は社会的に正が負かの評価が違っているだけで表裏一体のものです。例えば、とある神社に大漁祈願するため参拝したりそのお礼参りをしたりすることは社会的に正当なホワイト・マジックですが、その同じ神社に五寸釘を打ち付け、自分の商売敵や恋敵を追い落とそうとしたならばブラック・マジック、つまり呪いになります。
 学び始めたころ、機会を見つけてあちこちに出かけました。中でも印象に残っているのは年中行事や儀礼・祭礼の類でした。1900年ごろから1996年頃までに、訪れた場所とイベントは、越後浦佐「毘沙門堂裸押合大祭」、愛知県東栄町月の「花祭り」、豊橋市「安久美神戸神明社祭礼鬼祭り」、長野県飯田市千代・野池区の「たいしょうこうじん」「事の神送り」、長野県下諏訪町諏訪大社「お舟祭り」、富士吉田市の小室浅間神社「流鏑馬神事」、埼玉県本庄市普寛霊場の修験「春季大祭」、和歌山県牟婁郡古座の「河内祭り」、茨城県鹿島神宮例祭、岩手県遠野市のオシラサマ、千葉船橋市の「三山七年祭」などです。これらはみなホワイト・マジックの儀礼でした。豊作や大漁、無病息災を祈願したり、あるいはそれらを「祝福」したり。いわば地域文化の「光」のあたる部分です。 
 その後、大学教師になってからもあちこちに出かけています。ずっと文献だけで知っていた沖縄・久高島にもようやく足を運ぶことができ、本土とは違ったインスピレーションを得ることができました。しかし、生活に根差した民俗や文化に触れることができたのは何といっても東北です。オシラサマは、前任校(東北学院大学)に赴任してからゼミ合宿などで数回見に行くことになりました。柳田國男『遠野物語』で有名な遠野は、下北の恐山例大祭とならんで私のゼミの合宿には格好の場所でした。その後、遠野祭りのほか、いくつかの地元のお祭りにも参加させていただきました。各地に残るうちばやし、虎舞や鹿踊りなどの地元に密着した民俗芸能や儀礼やイベントが私の教育研究を牽引してくれました。こうしたお祭りのなかで、当初あまり関心がなかった高齢化などの問題に目を開かれたり、生まれ育った地域に愛着を持つ人びとの生き様を感じることができたのはしあわせなことだった、と思います。このようにあちらこちらを歩くことで、比較の参照点がもうけられ、地域の独自性が初めてわかってきます。よく言われることですが、地域の活性化のために尽力する人々の多くが、一度その地域から出て外で暮らした経験を持つ人だったり、場合によっては移住してきたよそ者だったり、という現象は偶然ではありません。このことは、ある問題に対する対処方法も、しばしば全く離れた別の地域からヒントを得ることができる、ということも示唆していると考えています。他地域との比較があって初めてその地域が意味を持つのだろう、と愚考します。

 一方で1990年に新潟県の佐渡市で村落調査を始めました。ここで私はブラック・マジックに憑かれることになります。1995年までの調査で行ったのはいわゆる「憑きもの」研究だったのですが、いわゆる「もち筋」がないのがこの地域の特徴でした。狐・人狐・狸・犬神・ゴンボダネ・オサキなど、何らかの動物霊(最近稀には什器、テレビなど)が人に憑依するのが憑きものですが、その憑依体質が親から子へ継承される、という考え方は全くありませんでした。また、憑依するムジナ(頓知坊とも)は、恐ろしい存在ですが、ある意味では至って素直で、簡単に憑いたり落ちたりし、ご馳走さえ供えればその霊力を呪いにまで提供してしまうのです。実際の録音をそのまま書き起こすと、次のようになります。

A:…おれがこのバアサン憎いと、どっかの山の神さん*にあのパアサン痛うしてやってくれー病気をこしょうてやってくれーとかっちゅうて、願うと、そのきくんだ、根が馬鹿だから[…]ものほしいから、きくの
B:そうすると、なんだ、イノラれるとそこのイノラれた婆さんがいろいろ病人みてえんなって、えれえめにであうんだ、そうするとこんどはまた信仰する人におねげえしてといてもらうんら[…]
A:そうしるとこういうもんあげてくれー、その、こういう崇りだから、て、あげるとそのもともとのとおりになるわけなんら、だからその山の神さんちゃ馬鹿らー
B:オソゲエもんにしとるんらよ
A:ああん、そういうんら
B:おっかねえもんにしとるんらよ、憑きゃあ憑いたっちゅうし、頼みゃあおめえならおめえこのひとならこのひと悩まして病人にしるんらよ[…]ヨゲな神さんら
〔1993年9月18日黒森地区にて採録した録音記録〕
*ムジナに対する敬称。これに対してトンチボと呼ぶとムジナは腹を立ててタタリを成すという。

村はずれの小さな祠に秘密裏に赴き、ムジナにご馳走をあげて(油揚げや日本酒も欠かせません)、誰それが憎いから殺してくれ、と頼むのです。こうした行為を実際に行ったという噂は多いのですが、噂を集めていくと具体的に実名が出るのは二例に限られていました。ノートの親族関係図を繰ると両名とも先妻の男の子がいる後妻でした。自分が後妻で、先妻の子が後継ぎのため、血縁関係のある娘夫婦があとを継げなくなったことが引き金となったという説明になっています。この村では、アシイレ婚とかアシフミ婚とか呼ばれる、結婚後嫁ぎ先の一員になるまで時間がかかる結婚制度が採用されており、相続は通常長男相続です。したがって、先妻の男の子がいる後妻というのは、この社会でもっとも不安定な、剥奪されたポジションにいるわけです。だからこそ、葛藤は通常起こるように家単位とはならず、個人単位で、しかも呪いが顕著になるのです。

…おもてひろういわれんだけものう、ショウヤのいえから、山田さんがヨメさんもろたんだ…ところがのう、その山田さんの兄貴は先生しとるわけだ、とうちゃん、もう定年なったけもな、嫁さんもろたあとに嫁さんと二人で、嫁さん百姓嫌からのう、新潟へいったわけ、で、新潟でのう、嫁さんはどこも勤めりゃせんけものう、子ども育てたりなんかして、お勝手したり、掃除、洗濯、お勝手、そんなことしよるんだしのう…そうしたところがな、二十年も三十年もいっとるんだしのう、嫁に行ったところの親のもんがのう、おとこ親がのう、わが娘はオッサンと一緒になってよそへ出とるんだけも、よそへオッサンとオバサンと出とるのをアイダチ(夫婦養子)家へ入れて、そして、そのアイダチに相続人になってもらう、てゆうたがさ、そとへ…その兄貴は新潟へいっとるから、いつ戻ってくるか戻ってこないかわからんし、そういうものは、そのまあ、おいてさ、…娘婿にカカル(相続する)つもりだったんだ、…そいでその、娘婿にカカットルわけだ、そいたらこんだ、腹が立つっちゅうてなあ、その、人をイマウっちゅうだなあ、イマウっちゅうことは人をイノリ殺す、イノリ殺すんだなあ、ムジナをのう、ムジナに、なんだ、ご馳走たくさんあげてさ、してその、ゴッツォウたくさんして、こういうもんをイノリ殺してくれ、って拝むわけだなあ、拝んでその、…ムジナの神さんだ、…ゴッツォウいっぺえことあげて、ムジナを頼んで、殺そうとしたんだいなあ、おそろしいわなあ、あのバアが…後妻なんだ、あのバアが…病気んなってのう、そういうわるいことするもんは罰があたるんだなあ…大切なカカリゴ(後継人となる子)が死んだもん〔1993年9月18日、K地区における録音〕

 要約しますと、長男が新潟で働いていて帰ってこないため、その父が後継ぎを娘婿夫婦に決めたことに憤ってムジナに御馳走を捧げて呪いをかけた、という話です。
 もちろん、呪いは極秘裏に行われるわけですから、本当のところはわかりません。しかし、こうした噂が頻繁に口に上るという事実は、この社会的ポジションについての地域の人々の見解をあらわしているものだと思うのです。私は、超自然的な力にすがって呪いを行使しても仕方がない、と思われる立場が制度上存在しているところに地域文化の「闇」や悩みの部分を見たような気がしました。
 じつは、ここでは社会調査上の重要な教訓も得ています。最初の2年ぐらいは、ムジナ憑きや化かされた話をたくさん(数百例も)集めてそれなりに充実してはいたのですが、満足のいく分析枠組みは得られませんでした。論文のもとになる骨組みができたのは、当初は関係がないと(愚かにも)思っていた結婚の習慣や親族関係に目を配るようになってからなのです。そうした意味では私は現在も(得手不得手はあっても)社会人類学はトータリティを志向する分野でなければならず、一時増殖した「何とか人類学」ではだめだと思っています。
 社会人類学における呪い研究は(「妖術・邪術研究」という用語が一般的ですが、最近はオカルトということばもよく用いられます)、イギリスの植民地化に伴うアフリカ研究を中心として飛躍的に進展してきました。そこでどうしてもアフリカで現地調査をする必要を感じていたので、1997年から今まで、東アフリカ、ウガンダ共和国でフィールドワークを続けています。ウガンダに惹かれた理由は、1971年からのイディ・アミン(Al-Hajji Field Marshal Dr. Idi Amin Dada, VC, DSO, MC c.1925-2003)大統領政権(1971-79)以降この国の治安が乱れ、学術調査も30年ほど空白になっていたからです。そこでも村に住み込み(主な民族はアドラ民族Jopadhola)、呪いや祟りの観念に注目して調査を続けています(もちろん言語や経済、慣習法、親族組織など様々なことを調べます)。最初の研究課題は、「問題飲酒」の研究でした。「アルコール依存症」に代えてその社会が問題視する飲酒様式をこう呼ぶ人たちがいます。アフリカでは、深刻な病気は(エイズやエボラまで!)呪いや祟りと結びつけて考えられますが、この場合にもそうでした。お酒がやめられないのは呪いの結果だというわけです。しかも犠牲になるのは大概英語のよくできる、村の中ではエリートでした。展開するきっかけをつかみ損ねてあまり進捗していなかったこの研究も、2007年になってようやく一本の論文にまとめることができました 。つまり約10年かかったことになります。
 縁があって国際協力事業団(現在は機構)の専門家となり、ウガンダで「貧困」の原因となる要因を追求する仕事をしました。「貧困」の要素についての地味な聞き書きを行い、データベースにしました。残念ながら生のデータなので扱いが難しく、いまでもその処理は行われていないようです。しかし、なによりも開発援助業界を内部からフィールドワークすることができ、そこにある有形無形の問題を認識することができたのは収穫でした。データベースは焦点を絞った議論としていつかかたちにしたいものですが、いろいろな障碍があって実現しそうにありません。なにかきっかけがつかめれば開発援助の民族誌を書いてみたいものです。ここにもやはりいろいろなかたちで「闇」が潜んでいました。
 人間は、人智をつくした後には現在でも呪いや祈願などに頼るものだ、というのが実感です。ロケット打ち上げの成功祈願に研究費をつぎ込んでしまったロケット工学者もいるといいます。近代科学の先端をゆく人々でも、やはり気になるのですね。

 2000年から取り組んでいるテーマは、アミン大統領に殺害された調査地出身の大臣の事例です。ウガンダに限らないのですが、脱植民地化によって出現したエリートは、しばしば呪いや祟りの噂の対象になります。逆にエリートが身を守るために呪術を使ったり、呪術師を引き連れていることもあります。彼も例外ではありません。曰く、予言者をいつも連れていたから出世できたのだ、とか、彼が結局死んだのは、彼の父が昔死なせた誰かの死霊(ティポtipo)が彼らに付き纏っていて祟ったからだ、とか。
 彼らは、埋葬のときと、死後10年ぐらいたって行われるルンベと呼ばれる葬送儀礼のとき、そして呪詛をかけるとき、雨乞いのとき、よく歌を歌いながら踊ります。そのときに歌われる歌の歌詞にも、死んだ彼に対するまなざしが今なお注がれていることがわかります。

…アミン・ダダ、オボス=オフンビ、ヘイ、ヘイ/何も起こりはしなかった、まったく/オボス=オフンビ、アミン・ダダ、ヘイ、ヘイ/何も起こりはしなかった、まったく/①ただこの地域がだめになっただけ/②彼は兵舎を持ってきた/③お前は盗賊を連れてきた/お父さん、それだけさ/他に何も起こってはいない/④アミン・ダダとオボス=オフンビ、ただこの地域がだめになっただけ/オチョラ・オンドア、ヘイヘイ/私たちのために建ててくれた/⑤私たちはいつもあなたのことを考える/⑥あなたをいとおしむ/お父さん/オチョラ・オンドア/あなたのことを考える/お父さん/ヘイ、ヘイ/オチョラ・オンドア/お父さん/あなたを思う/オボス=オフンビ、アミン・ダダ、ヘイ、ヘイ/お父さん/何も起こりはしなかった、まったく/結構なことだよ/⑦お前は土地を奪った/父よ/とても上手にね/オボス=オフンビ、アミン・ダダ、ヘイ、へイ/お父さん/何も起こりはしなかった、まったく/結構なことだ/⑧お前は土地と父親のことで努力した/誰もお前ほど努力しやしない/そうしたのはお前/ヘイ/お父さん/オボス=オフンビ、ヘイ/⑩お前はパドラの本を書いた/ヘイ/お父さん/それはよいことだ/オボス=オフンビ、ヘイ/⑪本を書いてくれてありがとう/兄弟よ/ヘイ/お父さん/何も起こりはしない、何も起こりはしない/オチョラ・オンドア/ヘイ/お父さん/⑫病院を立ててくれた/あなたを私たちはいつも思い出す/オチョラ・オンドア/ヘイ/ありがとう/お父さん/⑬この地域を発展させてくれた/⑭ムランダに診療所を建てた/誇りに思います/ヘイ/お父さん/⑮キソコにも診療所を建てた/オチョラ/あなたが建てた/お父さん/感謝します/⑯ナゴンゲラの診療所をありがとう/ヘイ/わが兄弟オチョラそしてジョパドラすべて/オチョラは生まれ変わるだろう/トロロの街はすべてあなたがつくった…/オボス=オフンビ/ヘイ/アミン・ダダ/何も動きはしなかった/お父さん/バラックが来てわれわれは搾取された/何も起こりはしなかった…〔2004年9月13日、グワラグワラ村にて;ブシア地区近隣から来た楽団による演奏〕

 歌詞を見てみましょう。「アミン・ダダ」と「オボス=オフンビ」によってこの地域がだめになった(①、④)、その具体的内容として盗賊と言い換えられている「兵舎」(ルボンギ兵舎)の誘致が問題視されています(②、③)。続いて、「オチョラ・オンドア」によって診療所がムランダ、キソコ、ナゴンゲラに設けられ地域が発展したこと(⑫、⑬、⑭、⑮、⑯)、それによって地域の人びとが彼を慕い続けていることが確認されます(⑤、⑥など随所)。また、事実としてオボス=オフンビ」がパドラについての本を書いたことに言及し(⑩、⑪)、今となっては噂以上の証拠を手に入れるのは困難でしょうが、「オボス=オフンビ」が土地を「上手に」奪ったこと(⑦)が問題視されています。「父親のことで努力した」こと(⑧)というのは、わかりにくいですが、オボス=オフンビは父親の墓をわかっているだけで二度立て替えています。その都度大きなものになり最終的には5メートルもの巨大なものになりました。また、1971年には父の名を冠した「セム・K・オフンビ記念チャペル」を建造し、時の大主教エリカ・サビティや大統領アミンを招いて盛大な式典まで開いています。

…その体はトマト/その体は腐ってその体が土にかえるのもあっという間/その体はトマト/その体は腐ってその体が土にかえるのもあっという間/満足するまで食べたなら 腐るのも早くなる/酔っ払うまで飲んだなら 飲んだなら 腐るのも早くなる/もしあなたが鶏をしめていくらか隣人に分け与えたならば そのひとがあなたを悼みもしようが…
〔1972年ごろ大流行。 “del ”(体)の繰り返される歌詞。その「身体」への呪詛。具体的なレトリック。後述の「オボス=オフンビ」のことであることは周知の事実。〕

…オボス=オフンビ、おまえはすべての金が自分のものだとうぬぼれている/でもおまえが最初に土になった/おまえは土になり、すべてあとに残された/オボス=オフンビ、おまえはあらゆる富は自分のものだといった/でも最初に土に帰ってしまった/おまえは最初に墓に入ってあとにすべて残された/オボス=オフンビ、おまえは、その土地は自分のものだといった!/おまえは逝ってしまい、すべてがあとに残された/オボス=オフンビ、おまえは人々の土地を奪うために努力した/多くは無駄におわり、土地はそのまま残された/白い豆はキャッサバにかけるとうまい✕ 6/白い豆はキャッサバにかけるとうまい✕ 6/オボス=オフンビよ、おまえも白い豆を味わうといい/キャッサバにかけた白い豆はとてもうまいから…〔註:キャッサバと白い豆は、土になってしまったオボス=オフンビを喩えたもの〕

…ウウウウィ!ウウウウィ!ウウウウィ!ウィ!ウィ!ウィ!/オボスの妻はルグバラのせいで泣き叫んだ/悲しみのあまり彼女は泣いた/ルグバラが夫を殺してしまったから/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが私の夫を殺してしまった!/オボスの妻は泣く「夫は蛇と一緒にいるのよ」/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが私の夫を殺してしまった!/オボス=オフンビの妻は亡骸のそばで泣いた!/オボスの妻は泣いた/ルグバラが怒って私の夫を殺してしまった!/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが怒って私の夫を殺した!/オボスの妻はルグバラのせいで泣き叫んだ/悲しみのあまり彼女は泣いた/ルグバラが夫を殺してしまったから/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが怒って私の夫を殺してしまった!/オボスの妻は夫を悼んでニョレ語で泣いた「彼は私の夫を殺してしまったのです」/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラがとうとう私の夫を殺してしまった!/弔問客のだれもが、私がこれからどうしたらいいかと聞くだろう!/ウォー!ウィー!大切な妹よ!/「ねたみぶかい人たちはいつも他人が栄えるのを見ると足を引っ張るものだ」/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが私の夫を殺してしまった!/私はこれからどうしたらいいの、兄弟たちよ、姉妹たちよ、彼女は叫んだ/ほんとうにこれからどうしたらいいの?/だれか助けてと太鼓が打ち鳴らされる〔が、誰も助けには来ない〕/蛇が夫を殺した!/ルグバラ!ルグバラ!/彼女は泣く、ウォー!ウィー!ウォー!ウィー!ウウウウィ!ウウウウィ!ウィ!ウィ!ウィ!/ルグバラがとうとう私の夫を殺してしまった!/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!ルグバラが私の夫を殺してしまった!…

…おいおい雄牛が立ち去ったぞ/オボス=オフンビのことだ、エー/お前は意味もなくうぬぼれている。もうニウェー(聞き取りにくいほどの小さな音の擬態語)という音を立てることさえないのに…〔1977年に流行〕

 詳しい細部についての説明は省きますが、彼は鼻もちならないセルフィッシュな男で、周りの人々の土地をうまくだまし取った悪人、というイメージが歌いこまれています。残された妻の悲嘆すら歌いこまれたこれらの歌は、公然と他人を批判することが(呪詛を招くため)許されていない当地では強烈なインパクトをもって響きます。ある老人が言うのには、もともと、フンボfumbo(ロングドラム)を打ち鳴らすことも、歌うことも、踊ることも、霊界と交流する、あるいは霊になろうとする営みだった、といいます。この歌には、アイロニーと呪いの香りがします。
 これ以外にも彼の死因については、死霊の祟りなどの噂が後を絶ちません。暴君アミンに殺されたことはだれしも知っているのですから、私たちなら呪いや祟りをもちださないところですが、彼らの解釈は、そういった力が発動した結果であることは自明である、というところから始まるようです。

 調査地では、そんな歌や噂を録音して現地語のままで書き起こし、英訳をつけるという作業を助手たちと続けています。人々の言葉は、いつも示唆的で、多くのことを考えさせられます。病や不幸が深刻であればあるほど、呪いや祟りが持ち出されます。そういった事態に直面すると、いかにそうなったかを説明することはできてもなぜそうなったかを説明することができないのが人間です。だからといって問題を放置して平気なほど、図太くはできていません。そこに文化の闇から呪いや祟りが登場することになります。どうも、生まれてきた理由さえわからないわれわれ人類の悩みは、お互い尽きないようです。
 この「光」と「闇」のコントラストで、はじめは異なった論理のように見えたものが、最近ようやくあちこちで繋がって体系だって見えてきたような気がしています。単に差異を強調するのではなく、また日の当たる部分を口当たりの良い表現で記述するだけでもなく、彼らと私たちの共通の悩みのありかにまで通じる可能性のある民族誌(=ある民族文化について体系だって書かれた報告書)を書くことが、これからの大きな課題です。
 アフリカの諸社会については、日本で入手できる情報はまだ少ないですし、しばしばおおいに偏っています。紛争や飢えや貧困、HIVなどが彼らの社会で大きな問題になっているのは事実ですが、それ以外の面も同じ同時代人としての関心から学ぶ意欲をもつ学生をともに学ぶ仲間として歓迎したいと考えています。また、文字に残っていないために軽視あるいは無視されがちなプレ・コロニアルなアフリカの歴史や、現在のアフリカ諸社会に大きな影響を与えた植民地化と独立の歴史も、自分たちの日々と無関係なものとしてではなく、現在のわたしたちの生活とつながっている、という想像力を養ってもらいたいと思います。講義などでは民族誌的記述に加え、時に映像や画像を紹介して、アフリカ諸社会の現実をできるだけゆがめずにとらえ、ともに考えてゆきたいと心がけています。

※ 「呪詛と祝福」は、直接的には長島信弘(一橋大学名誉教授・中部大学名誉教授)の論文の表題から採っている(長島信弘「呪詛と祝福―ケニア・テソ族のイカマリニャン・クランを中心に」『一橋論叢』85(6)、729-746、1981年)。パリ、アニュワなどナイル系民族の間で長く調査を行ってきた栗本英世大阪大学教授によれば、「人間は死ぬときにどちらかを残す」という(残念ながら私の調査地のアドラでは、ここまで明確な考えは聞いたことがないが、歴史的にはありそうなことであり、構造的には支持されるように思われる)。

私と「フィールド」―自己紹介のかわりに


 文化人類学、社会人類学を専攻する私が地域とのかかわりについて何がしかのことを述べるとすれば、それは第一義的にフィールド(調査地)とのかかわり、おつきあいについて述べることであり、それにほとんど尽きると思われる。私はこれまで呪いや祟りをキーワードに文化を読み解く試みをしてきた。こう書くとひどく好事家的な研究をしてきたように思われるかもしれない。しかし、ある意味ではそれは的を射ていない。呪いや祟りなど、暗い概念の背後にはその地域に暮らす人々の深い苦しみや悩みが集約している。別の言い方をすれば、呪いや祟りの観念があるときは表面的には衰えるように見えながら、姿を変えて生き残るのは、人間が多くの解決不能な問題に取り囲まれて、それでも、インスタントに解答を求める存在であることによっているのではないかという一応の見通しを持っている。呪いや祟りに限らず、こうした社会の内奥部に踏み込もうとするとき、誤解にもとづくものにせよ、一度は必ず地域の人の一部と紛争状態(どのような形であれ、また程度の違いはあれ)を経験する、というのが私の経験則である。しかしながらそれはあるときは時間をかけて、あるいはあるときは可能な手続きを模索しながら、真摯に対応すれば、以前よりもより良好な信頼関係が生まれるきっかけとなることもまた経験則としてある。今日は具体的な事例としてそれらを紹介する。ただ、この作業は一時的にであれ、かなりしんどいことは確かなので、実習などの教育活動のなかでどの程度学生諸君に見せたり(あるいは見せないか)、体験させるのか(あるいはさせないか)は今後の課題として残っている。


 私は、はじめから呪いばかりを追っていたのではない。私は1990年ごろから、当時所属していたゼミの合宿などで、各地を見て回った。当時すでに文化人類学で身を立てる決意をひそかにしていたので、正規の合宿よりも早く現地に行って話を聞いたり、別な機会に合宿で訪れた場所を訪れたりしていた。そのうちもっとも地域の人々と深く交流したのは和歌山の古座だった。古座には、7年間通い、2001年にも行ってきた。翌年には、正月の大漁祈願に京都に漁協の代表たちが行った帰りに大阪に寄ってくれた。古座の祭りは、オキット(沖の人)と呼ばれる漁師と、オカド(陸人)と呼ばれるおもに水産加工業などを生業とする人々とがそれぞれ別の青年団をもち、それぞれが同じ祭りで別の機能をもっているという興味深い祭りだった。オキット側は神の船と当屋船をつかさどり祭りの厳粛な側面を維持するが、オカド側は祭りだから「チョウケル」(ふざける)ものだとして獅子舞をまわしながら酒をあおる。両者は、ともに同じ祭りを行い、表面的にはオキットを立ててはいるが、緊張関係が絶えずある。何年か前に、獅子舞の際、調子に乗って漁師方の青年団の詰め所となっている会館の注連縄を切った事件があり、怒った漁師(酒飲みであるオカドを馬鹿にしている)が獅子頭を窓の外へ投げ捨てて破壊するという事件もあったそうだ。あるとき、大変なトラブルがあった。私たち(もう一人の引率者は現在国立歴史民俗博物館研究部の山田慎也)が連れて行った後輩(女性)が、あまりに「チョウケル」オカドを見かねて、怒鳴りつけたというのだ。保守的な漁村で、しかも自分たちが取り仕切る祭りの期間に、年下の女性に怒鳴られる、ということは、彼らにとって耐え難いことだったことは容易に想像できる。そのとき私はオキットのほうの詰め所の会館にいて知らなかったが、連絡がありあわてて宿舎に戻った。オカド側の会長が怒り心頭で待っていた。私たちは、まず怒らせたことを引率者として謝罪し、経緯を説明することを後輩に求めた。ところが、怖いのか、後輩は黙ったままだ。30分ほどたったろうか、埒が明かないと見てとった会長はオカドの詰め所の会館に引き上げた。祭りは今も進行中だ。いつまでも責任者が会館を留守にしているわけにはいかなかったのだ。
次の日、私はオキット側の長老と、会長に相談した。当時の会長はまだ若手で(といっても40後半)血気盛んだったから「なあにい!」とオカド側に怒鳴り込みそうな気配である。
冷静な長老の助言で、私たちは祭りの後に謝罪することにした。祭りの最中はこじれた際に間が悪い、というのが、長老の判断だった。謝罪し(気まずかったが)、「毎年来るが何も書いたものを持ってきていない」という会長の言葉ではっとした。実際には、その2年前まで毎年実習で来ていた慶應義塾大学のゼミとは別のグループなのだが、それでも向こうから見れば同じ「慶應」、こちらの対応の甘さを反省した。前年の参加者を含めて(エッセイめいたものもあったが)あわてて報告書もどきの冊子をつくり、数ヵ月後に持っていった。現在では彼らとの関係は良好で、山田慎也は修士論文も博士論文も古座の葬式を題材に書いた。
もうひとつのトラブルは、全くの行き違いである。漁師方の青年団からヒアリングの際教育委員会に、船の漕ぎ手の不足が訴えられた。これを教育長は何を取り違えたのか、「慶應の連中がいる」と考え、正式にわれわれを招いたのだ(もちろんわれわれに櫓が漕げるわけはない)。宿泊施設として消防会館が開放され、布団も借りてくれた、のはありがたかったのだが、夏の古座は暑い。消防会館には風呂はないのだ。歩いて20分ほどのところに銭湯があるが、祭りの準備、祭りの次第に張りついているうち、銭湯は閉まってしまう。前年まで泊っていたアット・ホームな宿のおかみさんの好意で、もらい湯に行ったりしたこともあった。青年団にしてみれば、なぜ消防会館にわれわれが住みついているのか不可解だったらしく、若干不穏な空気が流れた。これも根気よく説明することで難を逃れた。


古座勇進会のメンバーと 1990年ごろ


 同じころ、新潟県佐渡市ですこし本格的な調査をすることになった(1990-1995、1999に短期の追調査)。調査といっても今思えばカメラは「写るんです」しか持っていなかったし、資金は乏しかったから、テープレコーダを使い始めたのは比較的後になってからだった。今にして思えば、これはよかったと思っている。佐渡の老婆のなかには、名刺を出すと警戒して丁寧にインタビューを断られたりして、最初からテープレコーダを持ち出したら、どんなことになっていたかわからない。(後に行ったウガンダのムピジでも女性はなかなかインタビューに答えてくれない。下手なことを言うと、夫に殴られるからだそうだ。船橋では、逆に名刺が威力をを発揮した。祭りだったから、男性にしか話を聞かなかったような記憶もある。地域はいろいろだし、ジェンダーによる反応の違いもあるから、なにげない生活を観察するには様子見が肝心であることを学んだ)。
最初は呪いや化かされた事例を集めているだけだったが、それではなかなか社会についての分析が立体化しない。基本に立ち返って親族組織を調べ始めて、急になにか「わかった」ような気がした。この社会での呪いは、アシフミ婚によって社会の隙間に落ち込んでいる妻のうちのとりわけ後妻が、先妻の子が生存していることによって血縁による身分保障が揺らいでいることによるあえぎのようなものだ、という分析をしてみた。それが梅屋[1994]である。現在でも首尾一貫しているという点では、これよりも自ら納得のいくものは書けていない。
このフィールドワークの最中にも、ちょっとした事件があった。ある後妻がムジナの力を使って先妻の子を呪い殺した、という話を聞き、録音していたときのことである。その息子さん(仮にSさんとする)が部屋に入ってきて、「この話は公になったら困るんですよ、ばあも、名前を出さずに、あのもんが、とかいう言い方をせんなん」といった。私は、一瞬たじろいだが、仮名や記号なら公表してもいいという許可をとりつけて何とかはじめ論文として、のちに共著書として出版し、教育委員会、郷土史家、そして苦言を呈した人にも、お世話になった人には全員送った。そののち、見学に行った後輩の話では、話を聞こうとすると私の書いた印刷物を出して、「これにみんな(!)書いてある」といわれることが多かったという。その話を聞いてほっとした。1999年に再訪した際には、Sさんを除き、話を聞いたほとんどの方は亡くなっていた。Sさんとは、現在に至るまで年賀状のやり取りが続いている。教育委員会でも重要な資料として大切にしてくださっていると聞く。郷土史家の主宰する『郷土研究佐渡』誌にも寄稿を依頼されるという光栄に浴したが、迂闊にもそのままになっている。


1995年ごろ 鈴木正崇教授と


 呪いや祟りの概念―つまり不幸や死をどのように説明するかという文化的装置にその地域の悩みが集約しているというビジョンを持つようになった私は、人類学でその研究の古典が集中しているアフリカの本格的調査を開始しようとその道の権威のいる一橋大学博士課程に進学した。幸い日本学術振興会の特別研究員に採用されたので、ウガンダでの現地調査を開始することができた。
1997年から始めたウガンダでの調査は、初手から調査許可取得に苦労した。ウガンダでは、ウガンダ国内の研究機関に在籍し、Uganda National Council for Sciences and Technologyの調査許可をとり、紹介の手紙を書いてもらい、最後に大統領執務室の了解をとりつけないと正式な許可は下りない。
「多くの場合、帰国するころ正式な許可が下りる…」とはあとで聞いた話。そのときは「1週間」というマケレレ社会調査研究所の秘書官の言葉を信じて1週間後から約2週間、毎日通った。ところが、まだ、まだ、まだ…。ある時、マケレレの丘のふもとにあるワンデゲヤという下町で昼食後のビールを飲んでいると、日の高いうちからジンを飲んでべろべろになっている紳士がいる。きれいに折り目の入ったカウンダ・スーツを着た紳士曰く「中国人か?」「いや日本人」「なぜ日本人がこんなところにいる?」私はウガンダ東部のジョパドラ族の村に住み込んで調査をしたいこと、調査許可を待っていること、もう3週間にもなるのに何の進展もないので困っていることなどを話した。すると彼は、ポケットから氏名と私書箱の彫られたスタンプを取り出すと、私が文献カードに使っていたカードにぽん、と押した。Professor Walumbe (MBChB,MD,FRC…), Mulago Hospital…名門ムラゴ病院の教授だったのだ。「ムラゴのOwor教授を訪ねなさい。彼はその地域の出身だから」と彼は言った。
何回か空振りした後に、私はマケレレの丘の、Vice Chancellor公邸(当時学長は大統領と決まっていた)の隣の古い建物(旧Vice Chancellor公邸)にOwor教授を訪ねた。話はとんとん拍子に進み、木曜日に教授夫妻とともにトロロ県グワラグワラ村に向かうことが決まった。なにやら施設を持っており(後に現地NGOと判明)しかし、私はまだ不安だった。調査許可あるいはletterなしでは、逮捕されても文句は言えない。そう教授に告げると、教授は笑って「心配要らない」といった。
二日後、突如として調査許可が下りた。教授はUganda National Council for Sciences and TechnologyのVice Chairmanだったのだ。良くも悪くも人脈社会であることを思い知らされた一件だった。
村に着くと、レンガ造りの建物のなかから、着飾ったひとびとが歓声をあげながら飛び出して出迎えてくれた。そこにはTOCIDAという名前の現地NGOがあり、有機農法とアダルト・リタラシー、そして演劇による衛生やエイズ対策などの知識の普及を目指していた。教授の妻はその現地NGOの議長だったのだ。
それから、私は1999年まで、途中病気と事務処理のための一時帰国を挟んで、その村にいた。しかし、依然として機材は質素なものだった。簡単な写真機を持っていることがわかると、撮影しろ、といって盛装して現れる人も後を絶たず、録音用のウォークマンをラジカセ代わりに借りに来る若者が引きもきらなかった。二個持っていたウォークマンのうちの一つはこうして壊れ(借りた若者が壊れたウォークマンを平然と返しに来た。こういったケースでは彼らはまず謝らない。いや、私は未だにジョパドラ人、いや東アフリカで出会った人々がI am sorryと言うのを聞いたことがない)、首都のマーケットでsonyならぬsunyといういかがわしい偽のウォークマンを貸し出し用に購入した。
さて呪いよりも祟りよりも、具体的な死と病の現実のほうがよほど目に見えて頻繁だし、劇的だった。ほとんど2週間に一度は村の誰かが死ぬ。ほとんどは、エイズである。ケニアから巡回診察に来ていた外務省の医務官は、私の話を聞き、「そんな率ではやがてその村は滅びてしまう」といった。    
ウガンダは、その感染率をひた隠しにする東アフリカ諸国のなかでは例外的にエイズ患者の推計数を早くから公開し、その撲滅につとめてきた。都市のエリートに関してはそれなりに成功をおさめてはいる。しかし、村落の撲滅についてはお手上げ、というのが正直なところだ。
エイズ予防の知識を普及しようとするあるジョパドラの若者と話していて、はたと気付いた。長老が政治的権力をもつこの地域で、長老の前でセックスの話をすることはタブーである。したがって長老にエイズ予防にコンドームを使え、などとは、若輩者は口が裂けてもいえない。しかも、かりに長老自身がコンドームを使おうと思ったところで一体誰がコンドームを入手すればいいというのか。長老は自分で買い物をしたりはしない。たいがい子供にさせるのだが、子供に「コンドーム」を買って来い、などとは長老は言えない。また若者が買ってきて渡したりしたら、この上もない失礼に当たるのだ。
このような解決不能な価値観や社会規範の絡み合いも、フィールドワークの副産物で気づいたものである。


人が死ぬと太鼓の音が鳴り、ヒーッ、ヒーッと叫び声が聞こえる。一体何回の葬式に出たのか、数え切れないほどだ。朝と夜に、女たちはバナナの葉でつくった衣類を着て遺体の寝かされた小屋の外で踊る。杖やパンガ(草を刈る長い刃物)を振りかざし威嚇するようなそぶりを見せるものもいる。
ある日のこと、いつものように何度目かの葬式に参列していた。儀礼がなかば間で過ぎたころ、私は奇妙なことに気づいた。現地語が良くわからない時期だったので理解に時間を要したが、どうも「カメラをもってこい」としきりに言っているようなのである。私は参列のため不謹慎にならないよう、あえてカメラは置いてきたのだが。
カメラを持って帰ると、男たちは私を小屋の中に招き入れた。遺体の前で「撮れ」とジェスチュアをする。すると、それまで蝿にたかられないように顔の前を布であおっていた娘が、ふっと体をひらき、私に道を明けた。言われるままに私はシャッターを切った。それが初めての遺体撮影だった。数週間後、遺族が写真を取りに来た。それ以来私は、葬式には必ず呼ばれるようになった。デスマスクを残すという習慣が西洋にあるところを見ると、これもさして驚くにあたらないのかもしれない。それから数え切れない遺体を撮影した。帰国後、噂を聞いた葬儀屋さんの業界誌から遺体の写真の掲載を前提とした原稿執筆依頼があったそれが、梅屋[1998a, b]である。
エイズ以外にもさまざまな病気を見たし、マラリアなどは何度も体験した(43,4度熱が出た。脳も含むたんぱく質は凝固寸前だったろうと思う)。誰かが、「アフリカでは、病名がつくうちはまだまし」といったがその通りだと思う。一度は知己の中年男が私の前で体中の穴という穴から血を噴出してそのまま死んだこともある。


 1999年3月、私の日本学術振興会特別研究員としての資格は自動的に失効した。前年末、N教授から誘いがあり、N教授のJICAのプロジェクトについて説明を受けた。「ウガンダ農村社会における貧困撲滅戦略の構築と農村の総合的発展に係る研究協力」というものだった。1月から2月の半ばまで、乞われてカタクウィ県というところでN教授の私設助手をつとめた。今思えば、これは、プロジェクト・リーダーとしてのN教授の採用試験だったようである。ところでこのカタクウィでの経験は忘れられないものである。ジョパドラと違い、人懐こく、行動的でおどろくほど、もうほとんどわがままといっていいほど自信に溢れた彼らのパーソナリティは、今思い出しても笑ってしまう。N教授が町にランドクルーザーで買い物に行く(JICAなので運転手つきである)。N教授がどんな計画を立てていても決してその通りには行かない。出発が近づくと、教授には挨拶もなく、定員精一杯の人がすでに車に乗っている。教授が途中で人をひろおうとしていても、そんなことは彼らの関心外である。
そこは、打ち続く内戦で故郷を失った人たちの国内難民のキャンプだった。どんどん敷地はブッシュの中に広がり、孤独な単身の住む小屋が乱立する。お互いの不信感からか、妖術(意図しない呪い)、邪術(意図的な呪い)の告発が、native courtに絶えず申し立てられる。折に触れ内戦の激しかったころの話を聞くと、ひどいものだった。
週に一度、日曜日にはソロチの町からトラックが何十台もやってきた。村のはずれに市場が立つのだ。それぞれ入札(のようなもの)でとりしきる業者がいて、あらゆる品物が並ぶ。
ちょうど乾季だったから隣の牧畜民カリモジョンも来ていて、独特の雰囲気を醸し出していた。カリモジョンは乾季にはこの地で牛に牧草と水を与え、自分たちのホームランドでもそれが可能な雨季になると、牛と、時には女を、さらっていくのである。カラシニコフを持っており、写真を撮ったら何をされるかもしれないのでやめた(事実、カラモジャ地方でも当地でも殺された人が何人もいる。都市やそれに近い村落のひとびととは対照的に、東アフリカ牧畜民は一般に写真を撮られると激怒する)。
ある夜、小屋から出ると国軍の装甲車と数十名の軍人が休憩していた。怖いもの知らずで話を聞きに行くが当然「機密」。翌日、村の長老は、カラモジャとの境界の治安維持に行くのだろうといっていた。
教授は、牛をつがいで用意し、牛耕用とさらに子牛を生ませて増やすことでこの地域の状況を改善し、プロジェクト援助の鍵と考えているようであったが、JICA上層部には理解されなかった。「牛」というのが、文化人類学を知らない経済出身の上層部には突飛過ぎたようだった。ただ、教授も、牛プロジェクトが受け入れられても、カリモジョン問題(つまり治安)が解決しないことにはこの地域の発展はむずかしいと考えていた(なんとその翌年、政府はカラモジャを空爆。多くのカリモジョンが犠牲になった。)。
私自身はここでは、街でのwhole sale priceと村での小売価格の差額、それぞれの店の品揃えなどを村の全ての商店(キオスク)を対象に調査した。
ここでは、現地のかやぶきの小屋に住んだが、過ごしやすさはグワラグワラのレンガの家より数段上だった。


1998年 アチョワにて


 さて、1999年9月に研修を終えて専門家として着任した。私は、ウガンダ中央部の旧ガンダ地区のムピジMpigi県の担当だった。そこは、常識的にはガンダ人が住んでいるはずだった。私はガンダ語は挨拶くらいしかできないから、通訳兼助手に仕事を手伝ってもらった(というより彼らにやってもらった)。このあたりから、私の欲求不満は募り始める。人類学は現地語主義である。得手、不得手はあっても、初めに現地語を勉強する期間は肯定的に確保できる。ここではそれは無理である。また、いろいろな行事があって首都に呼び寄せられたり、さまざまな外務省関係の視察についてまわることを要請される(アテンドという)。
それにもうひとつ、開発プロジェクトをここで行ううえで非常に難しい問題が発覚した。助手が兼ねてから「彼はガンダ語が下手だ」とつぶやくのを聞いておやっと思っていたのだが、ガンダ人の村、と思っていたのは間違いで、選択した村の総人口(うち人頭税を払っているのは10%)のうち80%は、ルアンダ、ブルンディ、コンゴなどからの難民だったのである。コーヒー・プランテーションが良かった時代(1970年代ごろまで)に出稼ぎに来て、賃金の変わりに小さな土地と、小屋と、鶏をもらって住み着いた家族がいる。また、ルワンダ・ブルンディの内戦やコンゴ動乱で国外逃亡した難民がいる。
確かにムセヴェニ大統領は憲法改正し、1995年から、難民も市民と同等の権利を教授できるように法改正した。しかし、こういった周辺地域ではそういったことが浸透するのは、ずっと先、あるいは、ないまま別の政権が誕生するかもしれないのだ。
事実、難民たちは憲法改正も知らなかったし、知ってもひどく否定的だった。「富めるものが貧しいものにその格差を快く是正するように動くことはない」と雨漏りのするあずまやに住むある人は言った。確かに、富める人が、おおきな不満をまだ抱えているうちは、それは全くその通りなのだろう。いずれにせよ、間違いのない受益者が20%というのは、巨大プロジェクトを立ち上げるには、状況が悪すぎた。
このようなことを考えると「植民地主義」の歴史は打ち消しがたいものとして俄然重みを帯びてくる。ウガンダは、少なくとも、貨幣や植民地化された都市、あるいは近代的紛争さえなければ、飢え死にすることはない土地である。彼らが苦しんでいるのはいずれも植民地時代の、つまり近代の産物、税金と学校の費用、そしてそれを得るために綿花やコーヒーなど換金作物に圧迫される自分たちの食料を育てる畑の現状なのである。
とはいえ、時間を巻き戻すことはできない。われわれはその時代の地域としかつきあえない。そこでできることは、開発援助というだけでいいことをしているかのような認識をもつのではなく、近代へ、われわれも巻きこまれ、あるときは他者を巻き込んだという歴史認識を踏まえて、対象の地域を真摯にみつめ、それらが主体的に構築されてゆくありようを見据えることだと思う。何かができるとすれば、それらの様態を解きほぐしてからではあるまいか…。


 そんなことで悩んでいたら、体に悩みがうつったのか、病気で早期帰国した。幸い、帰国してすぐに出した笹川科学助成金に当たって、またウガンダへ。その調査で、私は新しい問題に取り組み始めた。実は無知で知らなかったのだが、ジョパドラのことばで唯一とも言えるジョパドラの民族誌を書いた人物は、アミン政権の大臣だったというのだ。しかも、彼は、アミンに殺害された、というのがもっぱらの噂である。この計画には、近隣の人びともことのほか好意的である。そこで、彼の事跡を調べると同時に、病のカテゴリーや、呪いの観念について調査する日々が始まった。こうした問題を扱うと、広域の調査もせざるを得なくなる。高くついたが車で移動し調査すると、見えてくる地域差がたくさんあった。とりわけ、国連の代表や、ウガンダ・ルアンダ・ブルンディ・ザイールのArchbishopまでつとめた人物が引退して洋服屋さんや自分の経営するレストランの前でぼーっと座っているという事実は、私を驚かせた。
あるとき、インターネット・カフェの電話回線が不調で、新聞の支局に電話線を借りに行った。インターネット・カフェの店主のすすめである。そこで、ウガンダなまりではない英語をしゃべる青年(といっても私より3つほど上だが)に出会った。なんと彼は私の調べている大臣の息子だった。1996年に亡命先のアメリカから戻ってきたという。
彼に、計画を話し、了承を得た。ここまでは順風満帆だった。表に出なかったアミンの片腕、ジョパドラの悲劇のヒーロー、私はこうした物語が通用すると思っていた。
誤算だった。調査を進めるにつれ、その大臣の闇の面が可視化されてくるようになったのである。
ここで詳述は控える。死んだ大臣の義理の兄に当たる人物が亡くなったとき、人づてに私に手紙が届けられた。私は動揺してしまった。故人には、昨年調べたことを簡単にまとめたAbstractのコピーを郵送してあった。それを見た大臣の実弟が激怒しているのだ。
内容はどうあれ、他人の気持ちを損ねる、というのは残念なことだ。私はウガンダ風に鶏を持ってマケレレ大学のジョパドラ出身の旧知の講師と挨拶に行き、事なきを得た。その和解の過程で、家族会議等の場でなき大臣の息子は、大臣の正統後継者として、一貫して私の味方をしてくれたそうである。
また、さらにラッキーなことに、その故大臣の弟は、いまや私の大家のProf.Oworの学生だったことがあった。もちろん、Prof.Oworは、うまくとりなしてくれた。
しかし、問題が再燃しないためにも、私は現在自分はcompilerとなり、彼ら(故人の弟と息子)に著者となってもらい、まず大臣の伝記を出そうと思っている。その過程で、議論し、想定される葛藤を経て、何とか妥協点を生み出そうと思っている。


 次の年(2002年)、カタクウィが反政府軍LRAに一時的に占拠された。反政府軍は、(昔のポル・ポトのような)オカルト的な信仰を背景にしており、私の知己数名を含む推計約300人を殺害していった。それは数ヵ月後に国軍によって制圧されたが、私の親友の妻は子供を残し、国軍の兵により連れ去られてしまった。私は、ここではフィールドワークを離れて、義援金と食料を持って一日だけカタクウィに出かけた。村は荒廃し、あちこちに弾のあとがあった。その次の年も、その次も、調査の合間を縫って、わずかなお金と食料をカタクウィに運んでいった。たぶん、自己満足にしかならないと思うけれど。
***
ジョパドラには、息子がいる。私より年上で、(55歳くらいか?)いわゆる擬制的オヤコ関係というものである。彼は私が来ると、子供のようにおねだりをする。だいたいは私にとって孫になる彼の娘たちの学費である。私もそのために貯金しようと思うから不思議なものである。
やや冗長になったが、私のフィールドとのおつきあいは、いまのところ以上のように語りうるように思われる。
要するに私の言いたいのは、地域の人びとの内奥まで踏み込もうと思ったら必ず何がしかの葛藤が起きるということと、それでもなお、投げ出さずに真摯にそれと向き合うことで、それよりよりよい、より強い関係が構築されるのだ、という経験則である。そして、どういうわけか、行動の方向性さえ決まっていれば人脈は、不思議と、必ずつながるのである。

参照文献
梅屋 潔 1994, 「邪な祈り―新潟県佐渡島における呪詛」『民族學研究』第59巻1号、54-65頁
梅屋 潔 1998a, 「人が死ぬわけ《死んだものとのつきあい方―ウガンダ・ジョパドラの場合(上)》」『Sogi(葬儀)』44号、73-76頁、表現社
梅屋 潔 1998b, 「葬式の意味《死んだものとのつきあい方―ウガンダ・ジョパドラの場合(下)》」『Sogi(葬儀)』45号、73-76頁、表現社

※この文章は、2005年7月13日、東北学院大学教養学部地域構想学談話会で「私とフィールドとのおつきあい―自己紹介に代えて」と題して発表し、のちに、「私と「地域」とのおつきあい」として『地域構想学研究教育報告』第1号(63-70頁、2011年9月)に掲載されたものをもとにしていますが、一部異同があります。ここからの引用はご遠慮ください。

遠くから私が気仙沼にこだわる理由
        ―「ドキュメント」のひとつとして


 3.11を境に、日本の世界観は大きく変わりました。既存の世界観や根本的な価値観、そしてぼんやりとでも描かれていた近未来の予想図が根底からひっくり返りました。それに代わる新しい世界観を描こうにも、そのことさえもが非常に困難な状況が突如として訪れたのです。発端は天災でしたが、その後度重なる社会のエラーとシステムの歪みが暴かれました。「第二の戦後」というような言い方をする人もいるようです。それどころではない、敗戦でも折れなかった日本の基軸が折れてしまった、ととらえている人々もいます。放射能の問題も解決にはほど遠いようです。地域によって温度差はありますが、放射線問題に対する不安はとりのぞかれる気配は薄く、いったいいつまで続くものなのかその見通しも立ちません[注1] 。津波で被害を受けた人びと、仮設住宅に暮らす多くの人びとは、まだ日常を取り戻せてはいません。あちこちでいくつも復興の兆しは報告されていますが、まだ刻々と事態は進行しているこの段階で、「震災」全般について何かを「論じる」ことは、私にはできないように思われます。私にできるのは、そして唯一陳腐化しないで済むだろうことは、きわめて個人的な地域とそこに住む人々との関わりが、その前も後も継続的であるということを、具体的、個別的な事実にもとづいて跡づけていくことだけです。だから、私はこの小文を、「論文」という仮説や結論を求める閉じた体系のなかにまとめることは断念しました。大所高所から何かを論じることもやめました。それは、まだ、今は無理です。今はただ、誠意をもって、私にとって3.11は何だったのか、あるいはどういったものであり続けているのかを記録することが大切なことだと思い定めています。本稿はそうした意味で、ひとつの記録、文書、あるいは「ドキュメント」として提示されます。

[注1]本稿執筆中の2012年4月13日に「大飯原発再稼働」を妥当とする閣僚会議の見解が発表された。福島の問題が解決から程遠い現在、私にはまったく理解しかねる判断である。当然のこと、大阪、京都、滋賀など近隣自治体の反発があり、4月17日、京都・滋賀から「7つの提言」が政府に示された。本稿執筆時には、再稼働をもとめる政府が地元の理解を得ようとするも、地元の強い反発が報じられている。5月5日現在、泊原原発3号機の停止に伴って「原発ゼロ」となり、夏の電力需要と電力不足を見込んだ電力会社各社の動きも含め、今後の動向が注目されている。


 私の東北との縁はそれほど古くはありません。学生時代に所属していたゼミの合宿で岩手県遠野市や花巻市を訪れたことがありましたが、本格的な縁は2005年に東北学院大学教養学部に赴任してからのことです。赴任する前に、私の採用にかかわっていた津上誠先生が、車を運転して市内をくまなく案内してくれたのをよく覚えています。2005年4月から2009年9月まで、私は仙台市民として暮らしました。職場での私のミッションのひとつは、仙台近郊で学生を引率して社会調査実習を指導することでした。その年に新しくできたばかりの地域構想学科で、まず1年生向けの日帰りの実習を企画しました。じゅうぶんな土地勘もなく、不慣れなままに青葉神社や近所の二柱神社、仙台高野山、竹駒神社、東北学院大学土樋キャンパスに隣接する田町大日堂など、神社仏閣を、おもに祭礼などの行事に乗じてお邪魔しました。キャンパス内ではなく「地域」に出て学ぶ、というのが新学科の売りでしたから、候補地を探して実習の時以外にも休日には、時には学生と、時には同僚と、近場を中心にかなり手広く歩いて回りました。
当時教養学部長だった佐々木俊三先生は、「海・里・山のむすびつき」と銘打って東北学院大学教養学部開放講座の気仙沼での開催に乗り出していました。われわれ新学科の教員も数度、講師として気仙沼をお邪魔することになりました[注2] 。その主催者が、東北学院大学の後援会(気仙沼・本吉支部)の方々でした。うろ覚えですが、有名な畠山重篤氏の「森は海の恋人」をスローガンにした「牡蠣の森を慕う会」の植林運動に佐々木先生が参加した際に出た話だと記憶しています。
開放講座の開校式にあわせて唐桑半島を初めて訪れたときに私はその土地がすっかり気に入っていました。ちょうど早馬神社の祭典の日だったこともあるのでしょうが、頼んでもいないのに道案内され、気がつくと参道近くのお宅にあがりこんで、自家製の漬け物をごちそうになっていました。高速を使っても自家用車で2時間半の距離は、職場に通うのには遠すぎますが、住んでみたい、という言葉が思わず口をついて出ていました [注3]。
やがて2006年度になり、新学科の第一期生も進級して2年生向けのちょっとヘビーな実習を企画する段になりました。私は社会学の佐久間政広、金菱清両先生と組んで、「地域社会コース」というグループを組みました。いわゆる質的社会調査の実習コースです。実習の舞台として、最初の1年目は気仙沼市唐桑町、2年目は気仙沼市、3年目は松島、4年目は塩竃を選びました[注4] 。最初に唐桑と気仙沼を選んだのは、もちろん東北学院大学後援会気仙沼・本吉支部の関係があったから、その協力をあてにしてのことでした。また、私がかかわった範囲では、松島を対象とした2008年度以降合宿は張っていませんので、2006年度、2007年度の実習はとりわけ印象深いものになりました。
2006年度前期には、「津波体験館」に隣接する「国民宿舎からくわ荘」、後期には「吾妻旅館」が宿舎でした。
実習で調査するテーマはそれぞれ5人ほどのグループごと(履修希望者の人数によって左右される)に相談して事前に決めることにしていました。それぞれのグループが選んだテーマは以下の通りです。いま見るともっと錬る余地があったと思わせるタイトルもありますが、その時の指導の痕跡ですからそのままに記載します。

「『海の男』が帰る家―気仙沼市唐桑町の『唐桑御殿』」
「唐桑の女性たち」
「船から降りた男たち―遠洋漁業引退者の生活」
「宮城県気仙沼市唐桑町の民俗芸能―松圃虎舞と神止り七福神舞を中心として」(以上前期)

「カキ養殖における取引と地域のむすびつき」
「からくわ夕市の女性たち」
「夕市女性のライフコース」
「『生きている』神社と祭り―唐桑町早馬神社祭礼における持続と変容」(以上後期)

同様に2007年度には、前期は「磯村」、後期は「ビジネスinnコマツ」を宿舎にして実習を行いました。これらの宿泊施設は、学生の調査合宿にはいろいろな意味で過分なものだったかもしれませんが、宿舎の方々のご理解と、後援会の力添えがあってのことだと思います。それぞれのグループのテーマは、以下のようなものでした。

「大漁旗のみっつの顔」
「魚問屋から見る港町 気仙沼」
「早稲谷鹿踊」(以上前期)

「太鼓が持つ二つの顔」
「魚町商店街の顔」
「スローフードフェスティバルを通して見た八瀬」(以上後期)

この年には、リアスアーク美術館の学芸係長(当時)の川島秀一氏[注5] にも指導を受けました。氏とはそのときが初対面でしたが、それ以来「東北民俗の会」などで懇意にしていただいていますし、あとで触れるように一緒にアフリカへ行くなど、氏とは奇妙なご縁を結ぶことになります。
お世話になった方への報告もあって、実習では毎年、報告書を印刷しています[注6] 。2006年度のものは文章ですが、その後はパワーポイントに読み原稿を貼り付けるかたちで印刷するようにしました。文章の添削に予想外に時間がかかったせいで苦肉の策をこうじたのでしたが、文章だけのものよりも「読みやすい」と現地での評判は上々です。基本的にお世話になった方々にはお礼状とともにお送りすることにしています。ときには意外な励ましをいただいたり、おしかりを受けたりしました。
これらの実習は、学生が主体ですから、基本的に私のうかがった話が報告書に反映されていることはそれほど多くはありません。ずいぶんたくさんのことをうかがっていながら死蔵していたことを、今回しまいこんでいたフィールドノートを読み返して再認識しました。そこには、南方戦線を転戦したなまなましい体験談や、オホーツクからベーリング海峡など北方の漁で大儲けした話、昭和8年の昭和三陸地震、昭和35年のチリ沖地震、昭和53年の宮城県沖地震などでの津波の体験談などが記されています。なかにはスポーツ新聞で長嶋茂雄(全盛期の、です)の推定年収が公表されたとき、「何だ、そんなもんか」と思った、というすごい話も耳にしました。話の端々には、いくつも経験した生活や経済の大転換があらわれています。
例外的に私自身が比較的長いインタビューに同行したのは、「早稲谷鹿踊」と、「打ち囃子」でした。
前者では、議員生活が50年以上という菅原勝一氏、菅原信正氏、菅原正行氏、菅原幸男氏、菊地平八郎氏にながながお付き合いいただきました。後援会からは庄司幸男、佐藤仁一、熊谷伸一の各氏がつき添ってくださいました。ここでは、全37戸の家が5つの隣組にわかれて持ち回りで村にある甘酒地蔵尊に奉納する祭礼を運営していました。戦時中も奉納の義務は怠らなかったそうです。「鹿踊り」が伝承され、「踊り連」が組まれてから3年以内に碑を建てるのがきまりです。通常は伝承の正当的伝承者は「庭元」とよばれ、伝承者の家の庭に碑が建てられますが、早稲谷には庭に碑を持つ「庭元」はおらず、地域の鎮守である甘酒地蔵尊に碑があります。村の構成も隣組の顔ぶれも、大正時代からほとんど変わっていません。経済的な事情が変わっても維持されつづけた村の構造に驚かされました。
後者では、「小々汐打ち囃子保存会」の尾形賢治司氏はじめ、別家(べっか、分家のこと)を含め尾形氏が4名もいて、一族で伝承していたのに度肝を抜かれました。縁者にも東北学院大学に通っている方がいて、地元に根差した東北学院大学のネットワークにも驚かされました。また、「中才打ち囃子保存会」の西村清氏と佐藤良治氏も、地域で伝統をまもっていこうという気概にあふれていました。いくつかの「保存会」で議論になっていたのは、担い手の不足と伝承の範囲でした。古くは(といってもその深度にはかなり幅はあるのですが)イエの相続対象である長子のみに伝承されていた例が多いのですが、経済構造が変化することにより、都市へ人口が流出します。その結果過疎化・高齢化が顕著になってきますと、地域のなかで祭礼や芸能を担っていく人口が先細りしていくわけです。その解決策のひとつとして、メンバーシップを緩める対策がとられます。男性限定だったものを女性・子供に開放したり、長子への限定条件を外したり、あるいは(学校など)地区の構成員外にも教える場をもとめたり、という対策です。これは全国的な現象です。日本の民俗芸能や祭礼を見てゆくうえで、この問題はこれからも大いに考える必要があると考えています。
実習の最中に防災訓練の現場にたちあったこともありました。津波が確実に来ることが想定されていた訓練に驚いた覚えがあります[注7] 。

注2 「日本人にとっての、あるいは東北にとっての祭りとは」2005年10月8日、於気仙沼市地域交流センター、「東北地方の山岳信仰と日本の祭り―災因論と福因論の立場から見た―」2006年9月16日、於リアスアーク美術館。
注3 佐々木俊三、2006「『室根』という地名について」『東北学院大学教養学部論集』143、1-31頁。
注4 「海・里・山のむすびつきをめぐる総合的野外調査実習」大学教育高度化推進特別経費、平成17年~19年度教育・学習方法化以前支援経費による。
注5 神奈川大学教授を経て現在は東北大学教授。
注6 佐久間政広・金菱清・梅屋潔編『2006年度「地域構想学発展実習(地域社会コース)」報告書―唐桑に学ぶ』および『2007年度「地域構想学発展実習(地域社会コース)」報告書―気仙沼に学ぶ』参照。また、報告書刊行の努力をうっかり怠ったために起きたトラブルについては梅屋潔「私と『地域』とのおつきあい」『地域構想学研究教育報告』2011年、63-70頁、2011年に苦い経験を報告した。
注7 だから、この度の震災直後に、「防災訓練の不足」と口走ったメディアの識者のコメントには驚かされた。


 ところで、旧知の民俗学者、山田慎也氏からの誘いがあり、私と金菱先生は2006年から千葉の佐倉にある国立歴史民俗博物館(以下歴博)の共同研究班に入っていました[注8] 。その研究会では毎年、研究の成果を深めたり確認したりする調査旅行のための予算が計上されていました。初年度は山田慎也氏とも私とも縁が深い新潟県の佐渡でした。次の年はどうしよう、ということになり、私はその「巡検」[注9] を気仙沼で行うことを提案しました。これもまた、後援会気仙沼支部の方々の顔を思い浮かべたからでした。
2007年10月11日から13日、私は歴博の研究班の一員として気仙沼を訪れました[注10] 。11日にリアスアーク美術館、市内散策のうえ懇親会、12日には小鯖でオカミハン(後述)と会い、佐藤家で祀るオシラサマを、また別の家で祀られるケセランパサランを見学したのち、ワークショップ。13日には早朝魚市場を見学して当地でも崇敬者の多い御袋神社、室根神社へと遠征し、また取って返して大島にわたる、というとても欲張った予定でした。計画もすべて相談のうえ庄司幸男氏がたててくれました。
「巡検」では、実習でお世話になった方々と再会することができました。舞根の水山養殖場では、畠山重篤氏にも再びご高論をうかがいました。養殖場の脇のトイレの手洗いの水がつららになっていたのをよく覚えています。
小々汐の尾形家(屋号は「おおい」)で、はからずして「小々汐打ち囃子保存会」のインタビューをしたのが、プレハブづくりの気仙沼市議の尾形健氏の選挙事務所でした。その隣に建っていた、文化7年(1810年)建築といわれる[注11] 、茅葺きの屋根が美しい、尾形家のレプリカを展示する企画が歴博で進んでいると聞いていました。先祖代々のものだから守っていきたい、オッピーサン(「曾祖母」のこと)が「自分が生きているうちはいやだ」というので、文化財指定は断っていました。文化財指定されると生活のために手を入れることができなくなるからです。しかし、囲炉裏を使っていない現在では、茅葺き屋根は虫に荒らされてしまっています。「風待ち研究会」 [注12]の方々の助言で「登録文化財」とすれば、保存費用もある程度補助されるとのことで、考えているとのことでした。一般に茅の葺き替えは2000万円が相場だそうです。尾形家は、後援会の庄司幸男氏の親戚筋に当たり、幼少のころから出入りしていたということでした。
いわゆる宗教学でいうカミサマ(唐桑ではオカミハンと言い習わしています)にも面会することができました[注13] 。占いにはお米やお酒など準備が必要ということなので儀礼はお願いしなかったのですが、もう唐桑でも一人しかいないといわれるカミサマに会うことができました。実習では訪れることができなかったので何よりの経験になりました。
中井の佐藤家のオシラサマの衣のうち最も古いものは、元禄8年のものと推測されています。正月に衣を替えるのはオカミハンである小野寺さつき氏の役目だということでした(尾形家ではオシラサマの衣を替える際に宗教者は介在しない)。研究班のメンバーは、驚きとともにシャッターを押していました(写真1、2、3、4、5)。この佐藤家の当主は、後援会の主なメンバーのひとりで、気仙沼市会議員の佐藤仁一氏でした。佐藤仁一氏には、氏が還暦のお祝いで定義如来を訪れたときにばったりそこであったことがあります。早稲谷でも、前年実習でお邪魔した鹿踊り保存会の方々がちょうど山の神神社の祭典で集まっていて、ここでも、実習でお世話になった菅原勝一氏はじめとする方々と邂逅することができました。
10月12日、市役所のあるワンテンビルで公開ミニ・シンポジウムを行いました。一日や二日見ただけで何か意味のある話ができるわけはない、とぼやくパネラーもいましたが、とにもかくにも盛況のうちに閉会しました。
このときも宿舎となったのが「一景閣」でした。「一景閣」の近くには公園があり、かつては海だったと立札がありました。昭和になってからも津波がそこまで押し寄せたことがあるとも書かれていました。

注8 個別共同研究「身体と人格をめぐる言説と実践」(研究代表者:山田慎也)研究期間は平成18年度~平成20年度。
注9 個人的には「巡検」という言葉は、あまり好きではないし適切とも思わないが、ここでは歴博の慣用に従う。検分する、という上から目線が私たちの仕事になじまないように感じるからである。行政など権力側、体制側が住民の意見を聞いた、とアリバイ的に用いられることも多い用語だと考えている。今回の震災でもたびたびおこなわれていることだが、「ヒアリング」も同じ理由で好んで用いたことはない。英語でも、同様の非対称的権力関係に基づく用語であるという指摘については佐藤郁也『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』有斐閣、2002年、109頁を参照。
注10 参加者は以下の通り。池上良正(駒澤大学)、浮ヶ谷幸代(千葉大学)、金菱清(東北学院大学)、川添裕子(松蔭大学)、田中藤司(成城大学)、谷川章雄(早稲田大学)、田原範子(四天王寺大学)、土居浩(ものつくり大学)、長沢利明(法政大学)、山田慎也(歴博)。所属はすべて当時のもの。
注11 『御手伝帳』という書き上げが残っていたため判明したという。『第44回建築士会全国大会宮城大会』2001年10月5日、116-117頁、『宮城の古民家―宮城県民家緊急調査報告書』宮城県教育委員会、1974年。
注12 気仙沼市内を中心に残る昭和初期の建物群とそれによる景観の歴史的価値を認め、調査や建物ウォッチング、保存の推進および文化財登録などのサポートを行うNPO団体。
注13 楠正弘「宮城県の庶民信仰(一)」渡辺信夫編『宮城の研究』第7巻、民俗・方言・建築史編、清文堂出版、1983年 梅屋潔「ごみそ」『祭・民俗・行事大辞典』朝倉書店、上、2009年、680頁、梅屋潔「巫者」『祭・民俗・行事大辞典』朝倉書店、下、2009年、1536-1537頁。また、この唐桑の小野寺さつき巫女については、川村邦光『巫女の民俗学―[女の力]の近代』青弓社、1991年に詳しい。地元の観光ガイド『唐桑人物マップ』(株式会社まちづくりカンパニー、出版年など未詳)にも紹介されている。


写真1 佐藤仁一氏と庄司幸男氏

写真2 佐藤家のオシラサマ

写真3 オシラサマを撮影する歴博研究班(金菱清氏撮影)

写真4 大島から気仙沼湾を見下ろす

写真5 歴博共同研究班気仙沼「巡検」一行


 しかし、なによりも筋違いかつ多大な尽力を仰いだのは、2010年3月22日に気仙沼ホテル観洋で行われた「水界に培われた生活知にかんする国際交流ワークショップ―気仙沼、熊野、尾鷲、アフリカ・ウガンダの漁労文化交流会―」です [注14]。トヨタ財団の研究助成金を得て、ウガンダ、アルバート湖畔で漁労を営む漁業関係者と、三重県熊野市の漁業関係者、そして、世界に冠たる漁業都市気仙沼の漁業関係者の交流会を気仙沼で行おう、という計画でした。
前年、歴博の「巡検」で田原範子四天王寺大学教授と意気投合した川島秀一氏は、乞われて、研究共同者としてエドワード・キルミラ教授(ウガンダ・マケレレ大学人文社会科学学群副学群長)や私、そして京都大学の松居和子氏とともにアルバート湖を訪れていました。アルバート湖の漁労生活を、日本の漁村を長く歩いている川島氏の目で見てもらおう、というわけです。「東北民俗の会」常任委員長でもある佐藤敏悦氏(当時東北放送報道局長)には、カメラを貸与していただきました。私は主に撮影要員として同行しました。
川島氏は、漁業のことになると目の色を変える本格派ですが、慣れない海外ということもあったのか、ウガンダの首都、カンパラにいるときには全く元気がありませんでした。体調でも悪いのではないかと周囲は心配していたのですが、湖が見え始めると俄然元気をとりもどし、アルバート湖畔に到着するやいなやカメラを持って走り出していました[注15] 。後で聞くと、以前から調査している、ラムサール条約にも登録されている福井県の三方湖のたたき網と同じ漁法なのだということでした。
この2009年の調査では、田原氏は通訳に徹し、私は撮影に徹しました。川島氏の漁業についての造詣の深さは文化を超えてアルバート湖の漁民にもつたわったようでした。漁業に疎いわれわれとは全く扱いが違い、彼らの説明も熱がこもったものとなったのも当然といえるでしょう[注16] 。
川島氏と私は、常光徹先生 [注17]が代表を務める歴博のもうひとつの共同研究でも一緒でした。どういうわけか(これも縁だったのでしょう)その「巡検」の行先も気仙沼になりました。そこで後援会の「幹事会」を開いていただき、ワークショップの打ち合わせをしました。後援会としても非常に大きな会なだけに、ずいぶんと奔走していただきましたが、どうにか開催にこぎつけることができました。
ウガンダで撮ってきた映像が会場に流され、川島秀一氏の基調講演で始まった気仙沼でのワークショップ。その場で予定がどんどん変更になりました。まず、ゲストだったはずの長島信弘先生[注18] が通訳と講演者に。私も通訳と懇親会の司会に配置換えになりました[注19] 。
「鮪立大漁唄い込み保存会」の大漁唄い込みが懇親会に花を添え、盛況のうちに終わりました [注20](写真6)。「後援会が動きやすいように」と、東北学院大学教養学部が共催としてくれ、学部長の佐々木先生が来場してくれたのはありがたいことでした。私は専任教員としては、すでに東北学院大学を退職していました。
熊野からの漁業関係者の中には、気仙沼の参加者と数十年ぶりに旧交を暖めることができた方もいました。また若い頃カシキとして金華山沖を通過し、性器を金華山に向けて晒して踊りを踊る、という儀礼を行ったという熊野漁師も参加していました。乞われてウガンダからの参加者にそれを通訳しましたが、ウガンダ人たちは期待したほどのおかしみは感じないようで、真剣に話に耳を傾けていました。
計算してみると、この7年の間に実に20回以上気仙沼を訪れています。地球上の土地で、ウガンダの村以外でこんなに頻繁に訪れた土地は他にはありません。なにがしかのご縁があったし、まだあるとしか思えません。

注14 助成番号D08-R-0256「水界に培われた生活知にかんする社会学的研究 ―ウガンダアルバート湖岸漁村と三重県熊野市漁村の国際交流による漁労文化の共有と編成」(研究代表者田原範子四天王寺大学人文社会学部教授、2008-2010年度)。ワークショップについては、下記URLを参照。 http://web.me.com/nanaafiaasantewaa/suikai/program.html[2012年5月5日参照]
注15 この模様は東北放送の夕方のニュースでも報道されました(「ウガンダの漁村を訪ねて」The News TBC、2009年10月5日放送)。また、この調査旅行については、「東北民俗の会」のメンバーから、「アフリカで東北の宝である川島氏に何かあったらどうするのか」と冗談交じりの叱責を受けました。
注16 この調査については、川島秀一「ウガンダ漁村紀行①~⑤」『三陸新報』2009年10月2日、10月20日、11月3日、11月17日、11月24日。
注17 国立歴史民俗博物館副館長、日本民俗学会会長(第28期)。
注18 一橋大学名誉教授、中部大学名誉教授。梅屋潔「アチョワ事件簿―あるいは「テソ民族誌」異聞」『アリーナ』第4号、328-346頁、2007年。
注19 松居和子氏の司会により、最終的なスピーカーは、以下の通り。川島秀一、ジェームズ・ムウェシゲ(ウガンダ・ホイマ県水産資源局課長)、久保智(熊野市水産振興課)、佐藤秀一(気仙沼市魚問屋元組合長)、イズクイク・オチリチャン(キホロ漁協)、山下寿(熊野市漁協)、片岡秀詔(熊野市漁協)、佐藤力生(水産庁)、齋藤貞子(気仙沼市、齋吉商店)、高橋義男(気仙沼市、漁業)、エドワード・キルミラ、長島信弘、白幡勝美(気仙沼市教育長)の各氏。
注20 このワークショップも東北放送と三陸新報の取材を受けニュースで報じられた(「ウガンダの漁業関係者と交流」The News TBC、2010年3月22日放送、「文化を運ぶ役割担う―気仙沼カツオ漁業基地国際交流」『三陸新報』2010年3月22日)。翌日のウガンダ人調査団の魚市場視察も続報として流された(「ウガンダの漁師が市場を見学」The News TBC、2010年3月23日)。


写真6 国際シンポジウム懇談会で鮪立大漁唄込み保存会の面々と(田原範子氏撮影)


 3.11の第一報は、神戸の研究室で受けとった仙台在住の金菱清氏からの携帯メールでした。「とりあえず命は大丈夫です。家のなかぐちゃぐちゃ」という意味が、そのときは全くわかりませんでした。今となっては不謹慎ですが、冗談好きの彼が、冗談にもならない冗談でまたすべっただけかと思ったほどです。
神戸市灘区にある大学の研究室では、まったく揺れを感じませんでした。その後、キャンパス内のテレビが映る研究室にいた友人から「大変なことになっている」という情報が入り、ゼミの卒業生何人かに安否確認の電話をかけました。「つながったのは奇跡です。家族は皆無事、犬も無事」という声が一人から返ってきたほかは、ほとんど通じませんでした(とりわけ石巻方面の通信状態の回復は、その後ずいぶんと月日を要しました)。しかし映像を見るまでは、私はまだまだ「大変なこと」を過小評価していました。
帰宅してテレビを見ると、信じられない光景が映し出されていました。9.11がそうだったように、現実とは思えない仮想現実のようでした。津波に押し流されているのは、同僚たちと、学生たちと歩いた宮城県沿岸部でした。夜の気仙沼の街は、燃えていました。気仙沼港には重油を蓄えるタンクがいくつもあることは知っていました。道路が渋滞で消防車が動かない、とか東京都の消防がいち早く動いた、とかいう断片的な知らせに一喜一憂しました。東北学院大学時代の定宿で、歴博「巡検」でも泊まった一景閣の屋上からもヘリコプターで人が救助される映像が流れていました。仙台から大阪の往復で頻繁に行き来した仙台空港近辺の車が波でごっそり流される映像が、繰り返し流されました。その日のうちにウガンダから安否確認のメールが数通届いています。ウガンダでも大きく報道されたようでした。
16年前に阪神・淡路大震災を経験し、都市安全研究センターを擁している神戸大学の動きは遅くはありませんでした。11日当日、すでに現地を目指した研究者がいました。発災後数日のうちに休学届を提出して、早くも災害救助・復興ボランティアの先駆けとして東北に向かった学生もいたそうです。学内にはいち早く震災復興プラットフォームという名称の情報交換のネットワークが構築されました。都市安全センターや複数の学部にまたがるネットワークでした。私も何度か出席しましたが、次第に足が遠のいていきました。私の専門的知識は、その当時の被災地の役には立ちません。
それと、まだ遺体の捜索が続く現場で、捜索や瓦礫の撤去によって現場の現状が変わる前に記録しようとする専門家たちとは、残念ながら私は感覚を共有できませんでした。それはそれで大切なことだということはわかります。ただ、私はそのときは自分にできることは(少なくとも仕事とのかかわりでは)ないように感じてさびしい気持ちになりました。だから私は、しばらく私的な活動はともかく、表向きは震災にはかかわっていませんでした。そのときに校正刷りが上がっていたゲラに、何度も赤字で被災地へのお見舞いを追記として書き込んでは修正液で消しました。全容もわからず(いまなお全容などわかりっこありませんが)通り一遍の見舞いなど、意味があるとも思えませんでした。なにより、わかったような顔をしたくなかったのかもしれません。その原稿には、気仙沼の「早稲谷獅子踊」や「打ち囃子」の実習からヒントを得て思いついた、今後の研究の展開の可能性が書かれていました[注21] 。私心は全く持たなかったことを付け加えておきます。ただ、それらの民俗文化が大変な危機的状況にさらされている、ということをぼんやりと考えるだけでした。
私はどうしてもそこに暮らす/暮らしていた人びとのことが気になっていました。とりわけ気仙沼の人びとの安否が気がかりでした。グーグル・ファインダーで主に気仙沼市在住の知人の安否情報を求める毎日が続きました。直接の私の知人には亡くなった方はいませんでしたが(この災禍に直面して、それを単にエゴセントリックに「幸運にも」、と言えるメンタリティは持ち合わせておりません)、その親族まで範囲をひろげると、やはり多くの犠牲がありました。小々汐の尾形家は、葺きなおしたばかりの屋根ごと家財とともに流されました。レプリカを置くはずの歴博では、図面は保存してありましたが、神棚や盆棚の再現に苦慮していると聞いています。
5月になって気仙沼を訪れ、21日に短時間ながら後援会の方々とお会いすることができました。淡々と当時の状況を話し、廃墟のようになった町が見渡せる高台に案内してくれました。もうどこが駅かわからなくなった鹿折唐桑の駅前には、打ち上げられた漁船がそびえていました[注22] (写真7、8、9)。無事な、事前の覚悟よりは元気な姿をみて安心しましたが、一方で町の惨状には改めて驚かされました。そのときいただいたそばの味は忘れられませんが、記憶は断片的になってしまいました。私はぼうっとしていたのではないかと思います。いくつか失礼があったと、同行した妻に後から注意されました。
「電気がなかなか復旧しなかったから、ごく最近になって初めて津波の映像を見た。あの映像が他地域に流れていたのでは、われわれが助かっていないだろうと多くの人が思ったのも無理はない」という一言が印象に残っています。
仙台にも寄って父親を津波で失ったゼミの卒業生のお宅に弔問に訪れました。家族をこよなく愛したその方は、常日頃から地震と津波に警戒心を怠らず、家族に地震の時には海岸沿いのバイパスを通ってはいけないと言い聞かせていたそうです。貞観津波など、過去の資料を独自に研究したうえでのことでした。「職場で発災後、家族に一刻でも早く会いたいと、家路を急いで帰路に通ったバイパスで津波に巻き込まれたのです」遺族の言葉に、どう反応したらいいかわかりませんでした。在学中には気仙沼での合宿調査にも参加していた学生でした。
東北学院大学の非常勤講師の職にあったので、8月には集中講義に出かけました。事前に聞いていた関係者の奮闘の甲斐あって、キャンパスは機能を回復していました。街に出ても、仙台市街地近辺はすでにかなり復旧しているようでした。しかし、少し中心部を離れると、至る所に震災の爪痕は残っていました。
この折に文学部の政岡伸洋先生に久しぶりに会い、宮城県の文化財保護課が中心となって無形文化財の調査の計画が進んでいる、という話を聞きました。すでに有形文化財を対象にした「文化財レスキュー」は、神奈川大学、歴博、東北学院大学などが中心となって進んでいましたし、写真や紙媒体の資料などは、「震災復興プラットフォーム」の活動の一環として神戸大学の人文学研究科の奥村弘先生が積極的に修復に着手していましたが[注23] 、無形については、まだまだでした。この分野ならば、私も何かできるかもしれない、と密かに期待しました。尾形家のオシラサマは、茅葺の屋根が覆うように守っており、「文化財レスキュー」により発見された、とのちに聞きました。

注21  梅屋潔「佐渡ムジナと私、そして追悼レヴィ=ストロース―構造主義からの落ちこぼれの証言」『比較日本文化研究』第14号、56-74頁、2010年。
注22 全長約60メートルの「第18共徳丸」(総トン数約330トン)。福島県いわき市の「儀助漁業」所有で、震災時は定期検査で寄港していた。当時は解体予定と聞いていたが、周知のように、気仙沼市は、津波被害を象徴するモニュメントとして残す計画を持っている。10月に行われた地区の集会では震災当日、船が自宅を押しつぶす様を目撃していた住民らから反対の声が相次いだ。市議の中にも国の財源を条件にする声もある(2011年12月10日読売新聞)。なお、震災後のこの周辺の景観の変化の様子は、以下のURLで見ることができる。http://photo.sankei.jp.msn.com/panorama/data/2012/0308kesennuma01/[2012年5月5日参照]
注23 2009~2012年度科学研究費補助金基盤研究(S)「大規模自然災害時の史料保全論を基礎とした地域歴史資料学の構築」(仮題番号21222002、研究代表者:奥村弘神戸大学教授)。


写真7 第18共徳丸(2011年5月21日)

写真8 高台から鹿折地区を見下ろす(2011年5月21日)

写真9 魚町自宅跡で被災状況を説明する齋藤欣也氏、右は川島秀一氏(2011年5月21日)


 さまざまな対応に追われる宮城県がようやく腰を上げ、地域文化遺産復興プロジェクトを立ち上げることになりました。文化庁の「文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」の一環として被災した民俗文化財調査事業を実施することになったのです。
東北大学文学部大会議室で最初の会議が行われたのは、2011年11月3日のことでした。雛壇にいるのは高倉浩樹(東北大学東北アジア研究センター)、政岡伸洋(東北学院大学文学部)、小谷竜介(宮城県文化財保護課)、滝澤 克彦(東北大学大学院文学研究科)。フロアには、全国からあつまってきたフィールドワーカーたちがいました [注24]。それに東北大と東北学院大学の大学院生8名、学部生1名。いわゆる共同研究は全国で数多く行われていますが[注25] 、今回はそれらの研究会とも趣が異なっていました。民俗学や歴史学の有力教授の「研究室」に委託されることの多い市町村史編纂事業ともちがいます。3.11で甚大な被害を被った宮城県。その無形文化財の被災状況と復興状況の実態調査がわれわれのミッションでした。
かなり特徴のある人選だったといっていいでしょう。宮城県、あるいは東北の社会調査を過去に経験している研究者は、さほど多くありませんでした。専門もばらばらで、私を含め必ずしも今回手がかりとなる無形文化財(主に民俗芸能)を専門としていない研究者も見受けられます。林氏以外には、災害の専門家もいませんでした。これまでの現地での経験や専門性を度外視した人選であることは、誰の目にも明らかだったと思います。要するに全国からフィールドワーカーをかき集めたのだ、という印象を持ちました。論文や著書で名前だけ知っていた人物も15年ぶりぐらいに見る顔もありました。
主に高倉氏と政岡氏から、今回の事業について説明が行われました。宮城県が東北大学東アジア研究センターに委託した事業で、行政調査であること。被災地の教育委員会と事前に連絡をとること、基本的には大学院生等を随伴して調査を行う、という点が確認されました。何しろ今回は平時の調査ではありません。調査者も現場も混乱しています。起こってはならないことですが、被調査者とのトラブルになったときのことも想定してのことだということです。一人で行動することの多いフィールドワーカーは、こういった制約にはあまり慣れていません。あちらこちらから微妙な呟きが漏れていました。
運営委員会執行部から提案されたのは、配布されたリストを手がかりに教育委員会から無形文化財の保存会(保存会がある場合)などの代表を紹介してもらい、芋づる式にインフォーマントを探してゆく、という手法でした。選ばれた無形文化財は、県指定になっていないもの。指定されているものについては、県で対応できるはず、との認識からです。随伴学生とのスケジュール調整もあって、飛び込みは不可。3日間で約4、5人への聞き取りを想定しているということでした[注26] 。委託期間は11月1日から3月31日、調査開始は11月19日以降、3月末には報告書を完成しなければならない、というスケジュール的にもなかなか厳しいものでした。
配布された表では(仮に、という形で担当が決められていた)別のところに配属されていましたが、私は迷うことなく気仙沼市に調査対象地域を変更してくれるよう申し入れました。今回の調査で対象となっているのは、気仙沼市では3カ所。一つは唐桑半島の宿、本吉の小泉、そして浪板地区でした。唐桑には、東北学院大学のグループがずっと学生を連れて入っているということでした。多少の土地勘のある市内の浪板地区を希望しました。
現在手元にある報告書には、共有された調査のポイントとして以下のように記載されています。

(1) 震災前の行事の内容と保存会等の無形文化財の実施組織の構成と地域社会の実態。
(2) 彼らが震災で受けた被害、影響および、震災後の被害状況と今後の展望。震災でどのように変わったのか(変わろうとしているのか)。生業などが対象の場合、かならずしもこの構成にならない場合があるが、震災前の状況と、関係者の被災状況、現在まで続く状況を念頭に置く。
(3) 語り手がなぜその話を選んで語るのか。
(4) 時間的な制約もあり、すべてを網羅することは難しいので、無形文化財またはそれに準ずる祭礼・芸能・生業などに注目しつつも、何を軸にするのかは各調査員の判断に任せる[注27] 。

注24   赤嶺淳(名古屋市立大学大学院人間文化研究科)、植田今日子(東北学院大学教養学部)、岡田浩樹(神戸大学大学院国際文化学研究科)、金菱清(東北学院大学教養学部)、川島秀一(リアスアーク美術館)、菊地暁(京都大学人文科学研究所)、木村敏明(東北大学大学院文学研究科)、島村恭則(関西学院大学社会学部)、橋本裕之(盛岡大学文学部)、林勲男(国立民族学博物館民族社会研究部)、俵木悟(成城大学文芸学部)、藤原潤子(総合地球環境学研究所)。
注25  私と専門がちかいところでは国立民族学博物館、国立歴史民俗博物館、総合地球環境学研究所、国際日本文化研究センターなどのいわゆる大学共同利用機関法人人間文化研究機構や東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所などの共同利用・共同研究拠点で実施されることが多い。
注26 高倉浩樹「序」東北アジア研究センター編『東日本大震災に伴う被災した民俗文化財調査2011年度報告集』東北大学東北アジア研究センター、2012年、2~8頁。
注27 上掲報告書、8頁。


 私の調査は、12月28日、教育委員会への挨拶から始まりました。気仙沼に入るのは震災後二度目。調査を手伝ってくれる東北学院大学教養学部地域構想学会学生の相澤卓郎君と文化財保護課の小谷氏と市役所で待ち合わせました。面会に応じてくれた白幡教育長は、いろいろなヒントをくれました。なかでも鹿折八幡神社の氏子組織が手がかりになるのではないか、という一言は示唆に富んだものでした。この点については後に触れることになるでしょう。
今回の調査が通常の民俗調査と大きく異なるのは、3.11当日のことも質問項目のうちに想定されていることです。さらに、小谷氏は、調査が年末にかかるというこの悪状況を逆手にとって、宮城では例年12月30日ごろに行われる、正月飾りの飾り付けの実態調査もするよう、私に示唆しました。これで、私の調査テーマは、被災時の話者の体験の記録、浪板虎舞保存会の保存会としての被害状況と復興状況、そして今年、つまり被災後初めての年越しの状況、ということになりました。

…地震があったときには職場にいた。90になる母と妹の安否確認に自宅に戻った。自宅は壊れたものもなく、母も妹も無事だったが、大地震の後には津波が来る、との認識があったために、津波が来たら二階に上がっているように2人に言い置いて、職場に戻った。
公民館に戻ると避難民があつまってきていた。15時か16時になっており、次第に寒くもなっていた。津波に備えて、布団やブルーシートなど避難生活に必要と思われるものを2階の研修室に運搬し、避難民も2階以上に避難させた。ひととおりの公民館長としての仕事を終えた後、周囲に促されもして自宅へ向かったようだ。気がつくと軽トラックに乗っており、浪板橋を渡ろうとしたが海岸の方から来る車や山手から来る車で挟まれて身動きができなくなった。そのうち渋滞の間隙にわずかな隙間を通って、なんとか自宅にたどり着いた。普通は自宅まで1分程度。そのときにはすでに津波が遠くに来ていたようだ。親類が「津波が来てるぞ」と声をかけたと後で聞いたが、そのときは気がつかなかった。家につくと母が荷車を押して庭先に出ていた。妹は自転車で、母は軽トラック助手席に乗せて、荷車は荷台に乗せて山手(やまて)に逃げた。光ヶ丘の、神経科・精神科の病院があるあたりである。道沿いに上がれば高台まですぐなのだが、まさかそこまでは来ないだろうと思い、道沿いではなく病院の職員用駐車場の中を通って避難した。駐車場の突き当たりにある一軒家までたどり着いた。そこに停めて、後ろを見たら津波が来ている。堰の方が速度が速いらしく、追い抜かされた。車を乗り捨てて母親を負って山に登った。
後ろを見たら、流されてきた車と、駐車場に駐車してあった車が山になって折り重なっていた。ハザードランプが点滅したままだったり、クラクションを鳴らし続けていた。(追い抜かされた覚えはないのだが、後にその場所から公民館近辺でわかれた虎舞のおじいさんの乗った自動車が発見された。虎舞をしていた子供たちもなくなっていた。流されてきたのであろう)潮が何回か上がり下がりしたが、すでに瓦礫の山に封鎖されて来た道は戻れなかったので、身動きができず、その奥にある一件の家に4日間世話になった。2日間は出られなかったので、連絡することもできず、公民館では津波の方角に向かっていった館長が犠牲になったのではという声もあったようだ。
3日目、光ヶ丘の職員が瓦礫を除去して道が通ったので、公民館の方に連絡がつき、午前中に浪板、昼過ぎに大浦、小々汐まで安否確認に行った。瓦礫だらけで通り道もなかった。旧知の人びとの安否を確認し、2時間半かかって行ったら、暗くなるのでとって返した。光ヶ丘についた頃には、暗くなった。それが3日目。4日目は鹿折駅付近を確認してその日も終わった。5日目(15日)の朝、消防に4:30に起こされた。付近の大浦が火事になったという。世話になっていたご家庭の奥さん(看護師)が4日目にしてはじめて自動車で帰宅した。ご家庭の娘さんが嫁に行っている西中才の方に避難するという。その自動車に便乗して、母親の実家がある(山手にある)早稲谷に連れて行ってもらった。早稲谷に母と妹を預けて状況把握のためにまた鹿折に戻った。帰りは暗いトンネルを自転車で早稲谷に小一時間かかってたどり着いた。それからはそこを拠点に、数少ない軽トラックを借りて早稲谷から通って、地区の安否確認に回った。
4月ごろから公民館が鹿折小学校に間借りすることになった。そこもかなり(後に専門家が来てはかったところ床から140センチ)浸水していたし、ヘドロがいっぱいだった。建物は無事であったので、東中才の自治会長、小学校のPTAなど地域の方々が清掃してくれた。公民館では、市の支援センターからの物資を配給した。衣類や子供用品、衛生関係などの物品のニーズも調査した。毎週日曜日朝9:00から、のべ14回配給を行った。9時からだが7時にはもう行列ができていた。平均すると1回250人ほど集まっていた。最後希望の品がなくなっても鹿折の人びとからは感謝の言葉しか聞かれなかった。鹿折の人びとのマナーのよさに感銘を受けた。ボランティアのありがたさも身にしみた。
私自身は、6月まで早稲谷に身を寄せていたが、現在鹿折小学校向いにあるアパート住人が仮設に移ったため空きができ、修理完了後すぐに入居することができている。
10月9日には、復興を期して「祈念まつり」を開催し、2,200人から2,300人の人を集めた…[注28] 。

ここにあげたのは、震災から10ヶ月近くが過ぎた年の瀬、仕事納めの日に鹿折公民館で聞いた体験談です。
「危機一髪なんてもんではなかったのっさ」と、公民館長は、はっきりとした声でつけくわえました。いくつも注目すべき点があります。大地震の後の津波はこの地域の誰もが覚悟していたこと、従って来たるべき津波への備えはある程度行われていたこと [注29]、しかしそれでも、津波の規模は想像を超える大きさだったこと、自動車が想定外の状況で流されてきたこと、逃げる途中の自動車の混雑 [注30]、さらには極限状況においてお互いを支える親戚関係などです。しかし何より瞠目させられるのは、この人物が被災後職務である安否確認を続けたことでした。そして、改めて感じたのは、まだまだ先の見えない復興への長い道のりです。似たような、一瞬で生死が分かれるような体験は多くの人が体験したようでした。ひとりならず、当日、あるいはその前後数日間の記憶を失っている、と語る人にも出会いました。一部の学校などでそれを作文にして記録する作業が進んでいると聞きます[注31] 。

注28 上掲報告書、252-3頁。
注29 実際には、かなり綿密に行われていたと思われる。現在はさすがにそのような暴論は耳にしないが、震災直後にメディアなどで言われていた「訓練が不足」「予想していなかった」などというのは全くの間違った認識である。むしろ、通常の避難訓練通りに実は危険な「指定避難場所ではない」防災センターに逃げ込んで多くの方が犠牲になった釜石市鵜住居の事例は、間違った訓練が身についてしまったために起きた悲劇であろう。
注30 渋滞で足止めされ、避難ができず津波に巻き込まれた人が多い、という声は別な地域でも数多く聞かれた。これもまたひとつの現実であろう。
注31 もちろん、こうした作業が学童に与えるメンタルな影響については留意が必要だろうが、何が何でも思い出さない、触れないのがよい、とは考えられない。第18共徳丸の保存の問題ともあわせ、このあたりはもっと精密な議論が必要なので、別稿を用意したい。ただ一言しておくと、現在の共徳丸を見て不快感情を訴えるのは、直接被災した経験者であるが、この種のモニュメントは(そして震災にまつわる一連のドキュメントも)、経験したものよりはむしろ経験していない次世代以降のために構想されるべきものである点を忘れてはならないだろう。


 浪板虎舞が奉納される旧鹿折村の村社、鹿折八幡神社の氏子の範囲は広大です。3.11の津波ではその大部分が浸水しました。高台にある鹿折八幡の境内は無事でしたが、社務所の数十センチ下まで浸水したそうです。新築の社務所には、床上浸水して行き場を失った近隣住民が逃げ込み、数日間避難所となりました。
東・西中才、浪板、蔵底、東八幡前から大浦、小々汐、梶ヶ浦(二ノ浜)、鶴ヶ浦(三ノ浜)(総称してシカハマ(四ヶ浜))」までふくみます。そのうち、例大祭、「八幡様のオサガリ」で神輿を担ぐロクシャク(陸尺) [注32]を出すのは中才、浪板、蔵底、東八幡の4地区。現在はこの順番で毎年地区の持ち回りで執り行っています。この当番のことを地域ではトーメー(当前か)と呼んでいます。氏子ではあるがロクシャクは出さない地域が、主に漁業を生業にしていたシカハマで、これらの村は神輿が海上渡御する際の船をあつらえることになっています。神輿は三ノ浜まで順次オヤド(休憩所)で休憩を取りながら巡行したあと、鶴ヶ浦から船に乗せられて海上に出る。これを八幡様の「オサガリ」とも「ハマサガリ」ともいいます。海上では、「お神明さん」(五十鈴神社)の前を通って海上で三回まわり、対岸の鹿折の岸壁に着け、鹿折地区を北上して神社に戻ることになります。通常は総計18カ所のオヤドがもうけられ、氏子の家の庭などで酒肴が準備されます。接待を担当する旧家には、かつて用いた宝桶(ほうげ)という専用の器が残っています。こうした役割が村の中での格付け、序列となってもいたと伝えられています。地域に神輿が巡幸する際には、氏子たちは家の前で八幡様の掛け軸をかけて拝んだりするそうです。飯綱神社、須賀神社の脇には常設の集会所があり、そこに神輿が入って直会が行われるときには、ロクシャクの担当であるなしにかかわらず、地域の氏子たちが参加する習わしです。
湾内の人はみな鹿折八幡神社の氏子ですが、各地区にそれぞれある神社の氏子でもあるということです。たとえば、浪板には飯綱神社[注33] 、須賀神社があり、大浦には厳島神社と熊野神社、小々汐には金比羅、山の神、二ノ浜にも金比羅、山の神、三ノ浜には、御嶽神社があります。浪板は、行政区としては浪板1、2と分けられており、浪板1の住民は飯綱神社の、浪板2の住民は須賀神社の氏子崇敬者であるということです。
浪板は「オリンピックの年がトーメー」で、その次の年は蔵底と呼ばれる新浜1、2丁目あたりの新興の町場、次の年は東八幡あたり、そしてその次の年は、西中才と東中才が担当するという順番です。
浪板虎舞保存会の役員で震災の犠牲者となったのは、前幹事長で顧問、会計兼副会長(規約上自治会長は保存会副会長を兼ねることになっている)夫妻。浪板1地区では6名、浪板2地区では17人、計23名が犠牲になりました。
保存会の幹事長、小野寺優一氏によると、「今年(2012年)担当の浪板は大丈夫だが、今回蔵底は大打撃を受けているので、ロクシャクのローテーションが崩れる可能性は否定できない」。
浪板がトーメーの時には、八幡神社の前夜祭に虎舞を奉納し、神輿渡御の際には鶴が浦から船で出てこの折りに神輿の後ろには太鼓がついてうちばやしを行い、虎を舳先で振るそうです。虎舞は、もともとは海上安全・大漁祈願のための舞で、家内安全、商売繁盛のために舞うものでした。結婚式や船おろし、新年会などめでたい席に招かれて披露されます。保存会会員からは会費も徴収しますが、その際のご祝儀が主な資金源です。
浪板地区に伝わる浪板虎舞には、もともとは、カトク(家督)つまり長男しか関わることはできませんでした。しかし、大学にいったり、就職したりで浪板を離れる人も多く、担い手の確保がかねてから課題でした。昭和41年に保存会ができて規約が制定され、「火曜の会」という集まりもありましたが休眠状態でした。平成14年ごろから活性化を訴える声が大きくなり、火曜日夜7:00から毎週笛太鼓の練習をするようになり、現在の火曜の会が実体を伴ったものとなりました。そのころから女性も太鼓を叩くようになり、平成16年ごろには熱心な女性会員が集まるようになりました。
震災が起こって、大部分が仮設住宅での生活を余儀なくされていますが、浪板の216戸は、いまも戸籍もそのままだし、したがって規約上も全員が浪板虎舞保存会の会員であるということです。今後仮にどこかに住所を移したとしても、当人およびその子孫は虎舞の活動から排除するつもりはないそうで、将来的にはもともと叩いていたが疎遠になっていった人たちも含めて、「準会員」のようなことも構想しているとのことです。幹事長は復興の向こう、保存会の未来の繁栄を見つめていました。
今年(2011年)、八幡様のオサガリは、震災の影響で行われませんでした。
2012年の初舞は1月15日に飯綱神社に奉納することになっているとのことでした [注34]。初舞は、1月の第3日曜日ときまっています。須賀神社の縁日は10月15日。この折には須賀神社に奉納してから飯綱神社で舞うことになっています。飯綱神社は商売の神であり、須賀神社は不動明王を祀っています。昭和48年(1973年)には大阪万博に招かれたこともある浪板虎舞は招かれればどこへ行っても披露します。今年の6月4日には横浜の山下公園で震災後初の虎舞を披露しています。

注32  葬式の時にもお骨を抱く者もロクシャクと呼ぶ。
注33 『気仙沼市史』Ⅶ、524-5頁には、「無格社 飯綱神社、明治42(1909)年9月30日八幡神社ニ合祀」とある。明治39年(1906)の勅令の影響であろう。須賀神社については記載無し。
注34 私は大学入試センター試験のため、初舞に立ち会うことはできなかった。小谷氏と相澤君の調査報告については、上掲報告書267-269頁参照。


 頭を悩ませたのは、「お年とり」についての聞き取りでした。八幡神社のお祭りも中止になっており、町並みを見ると年始どころではない感じもしました。実際、仮設に間借りしている方のなかには、「今年は一切無し」と宣言する方もいました。本来は母屋には三つ揃えの松、7本のしめ縄を飾り、離れには二段の松に5本のしめ縄、水回りには3本の輪、また井戸、風呂、離れの水道、トイレ、自転車、自動車、耕耘機、臼、若水迎えの桶など10数カ所に正月飾りをするのだそうです。それぞれの施設や機械など、すべて水の中に飲み込まれてしまいました。「井戸はまだ使える」とのことですが、現状を語るのがいかにも残念そうでした。
そんななか、約二名の方が、「お年とり」の取材にこたえてくださいました。
一人は、虎舞保存会会長の昆野文男氏でした。調査を手伝ってくれていた相澤卓郎君と縁続きだということも幸いしました。
昆野氏は、「日渡水産」社長です。「日渡」は、屋号。震災当時は、工場で加工する原料を運搬中で、街中にいたといいます。工場では鰹節やなまり節を製造し、イカの塩辛の下処理をしていました。4棟あった水産加工業の工場は、すべて駄目になってしまいました。再建のめどは立っていません。自宅にも津波で軽トラックや乗用車の車両が戸板を壊して流れ込み、泥だらけになりましたが、半壊で、現在でもそこに住むことができています。代々大切にしている「鍾馗さま」 [注35]の掛け軸のすぐ下まで浸水しましたが、神棚や掛け軸は無事でした。すでに八幡神社から七房のついた注連縄、スカシ、網、星の玉7枚セットが届けられていました。何を貼るのかは、その家によって少しずつ違っているそうです(たとえば「日渡」では竈神を刷った「玉紙」を貼るが、「おおい」では貼らない)。12月1日にお祓いを受け、総代役が鹿折八幡神社から受領してきたものです。家も神棚も残ったので、例年に近い「お年とり」と正月行事を行う予定だということです。
「日渡」は、昆野さんで16代目だということです。もとは海苔や牡蠣、コウナゴ漁などをしていましたが、1960年のチリ沖地震の津波を機に船を売却、工場をはじめたそうです。2月に創業50年を記念して社員一同歌津でお祝いしたばかりでした。比較的山に近いところに居を構えていたのも、そのときの教訓だったのかもしれません。
一方で、今回大きな被害を受けた地域のほとんどは、かつて塩田だった地域を埋め立ててできた商店街だったという声も耳にしました。一部では地域ぐるみの高台移転を決定した地域もあるそうですが、地域によっては困難に直面しているようです。コンセンサスを得ることが難しいこと、所有者の意向ももちろんですが、候補となる地域に遺跡が発見される事例も後を絶たないようです。太古の日本人の土地利用から考えると、当然ともいえることですが、われわれはずいぶん長い間そのことを見過ごしてきました。仙台市では、埋め立て造成した住宅地が地震で甚大な被害を受けました。津波のことだけ考えると、大きな見落としもありそうな気もします。
29日の夕方立ち寄った市内のジャスコはお年とりの準備をする人々で賑わっていました。ほっとしました。
その晩、頼りの後援会幹事長、庄司幸男氏のおかげで、小々汐の尾形健氏にも連絡がつきました。
尾形氏も属する小々汐打ちばやし保存会は、中心的な叩き手であった70代の尾形賢治氏を失いました。一度高台に避難しましたが、船の様子を見に降りて行って第二波にさらわれてしまったそうです。小々汐は54世帯のうち、9名が死亡。太鼓はすべて津波で流失しましたが、そのことをインターネットで告知したところ、全国から締め太鼓が寄付されてあつまってきたといいます。11月20日の浦島小学校のさざなみ祭りで震災後はじめてお披露目をしましたが、次はいつになるかわからないとのことです。もともと打ち囃子は、小々汐にある金毘羅さんに奉納するものでした。おととし保存会発足30年を迎えました。現在では叩き手が小々汐だけではまかなえないので、浦島小学校の子供たちも叩き手となっており、30数名の構成員がいます。震災前には、8月第一土曜日のみなとまつりでのうちばやし大競演(1,000ほどの太鼓が叩かれる)、鹿折のかもめ通りのかもめ祭り(8月)、鹿折の老人ホームや小々汐の夏祭り、秋の浦島小学校の学芸会である。今年はこれらすべての行事は震災の影響で行われていません。
翌朝10:30に小々汐の屋敷あとに来るようにとのことでした。行ってみると、すでに尾形一家はそろっていました。リアスアーク美術館の川島氏も歴博の小池淳一氏、成城大学の加藤秀雄氏もやってきました。
現在はアパート住まいで、そこには市販の注連縄を下げるだけですが、屋敷跡にはたくさんの神が祀られていて、毎年30日にはお参りする習わしです。
家族で二手に分かれて、明神さん、お天王さん(通称イワクラさん)、金毘羅さん、三峰神社(通称オクマンサマ)、井戸神様、そして土蔵跡、計5か所のお参りをしました。
今年は、注連縄と幣束をあわせて簡略化したものをそれぞれ適当な場所にガムテープで接着し、依り代としました。巾着から米を三回ずつ撒き(「オハネリ」という)、二礼二拍一礼をしました。四方に向けて拝んでいましたが、あとで聞くと、個別の神を拝むときにも、それぞれすべての神の方角を拝んでいるとのことでした(写真10)。
金毘羅さんの石鳥居は津波で破壊され、明神さん、三峰神社の木の鳥居はいずれも震災後の山火事で焼失していました。これらの神様は、何軒もの別家(分家)をもつ「おおい」だけで祀っているのではないけれど、元の通りに修復するのは、別当であり「おおい」である自分の責任だと、尾形氏は話していました。
尾形氏は市会議員で、地震のときには、予算委員会の最中でした。帰った議員もいましたが、しばらくは役所にいたそうです。家族にその日のうちに会いたいと思い、夜9時ごろになって瓦礫だらけの町を避けつつ、大船渡線の線路づたいに鹿折唐桑駅方面に向かいました。現在船が打ち上げられているあたりが駅ですが、あたり一面火の海でした。浪板から先には行けず、自宅のあるはずの小々汐までは辿りつけませんでした。焚き火をしていた家があり、おじいさんとおばあさんと近所の男性がいました。途中で海水の水たまりにはまったりしていて体も濡れていたのでひどく寒く、その焚火に当たって一晩過ごしたそうです。毛布にくるまっていたおじいさんは、その夜に息を引き取りました。頼まれて行った心臓マッサージも功を奏さなかったそうです。現在でも、そのおばあさんと男性がいったい誰だったのか、確認はとれていません。早朝6時ごろに出発し、5つ山を越えて小々汐の裏手から夕方避難所となっていた浦島小学校に辿りついたときには17時を過ぎていました。そこで津波に追いやられて避難してきていた家族と対面することができました。避難所にはストーブが一台しかなく、とにかく寒かったということです。当初は270名ほどの避難民が暮らしていましたが、1週間内外で自衛隊や米軍のヘリコプターがピストン輸送してそこからバスでK-Wave(気仙沼総合体育館)、気仙沼中学校や市民会館などの避難所に移送され、30名程度が残されました。4月末に閉鎖されるまで尾形一家は浦島小学校にいました。そこから議会に通ったのです。5月1日に市内に所有するアパートに空きができたので、現在はそこに住んでいます[注36] 。
行政の対応の遅れなどが報道で批判されることがありますが、地方自治体の議員や職員も被災していることを、別の安全な場所から論じる人はともすれば忘れてしまいます。避難生活を続けながらの復興は、想像を絶する困難だろうと思います。

注35 昆野文男氏の祖母が幼少のころ旅の六部がこの家に鍾馗様の掛け軸があることを言い当て、それが守り神であると述べたといういわれがある。
注36  上掲報告書、261-264頁。


写真10 津波で破壊された金比羅さんにお参りする(2011年12月30日)


 最近では、深刻な被害にあった地域の民俗芸能が、別の地域に招かれて披露する、という報道をよく目にします。虎舞もはやくから遠征に取り組んでいますし、先日も静岡で東松島の大曲浜獅子舞が披露されたとか。獅子頭は運よくがれきの下から発見されたそうです。津波の被害が著しい地域の民俗文化の担い手からは津波で全部流されたけれど、身についた芸能は残っていた、という感想も耳にしました。哲学的、人類学的、そして社会学的な身体論が説くところを身をもって実感したに違いありません。
浪板にせよ、少々汐にせよ、歴史的にも文化的にも独特なかたちでコミュニティを形成してきています。それは時には何度も見舞われた津波など災害への対策も含めて、長い時間をかけてつちかわれたものです。それ自体が深遠な構造をもった無形文化であるといっていいでしょう。そのつながりは、本稿で多少触れた氏子組織や民俗芸能をはじめとして、本稿では十分に描くことができなかった本家分家関係、そしてシンルイとエンルイを細かく区別する親戚づきあいなど、外部からは簡単に了解できるものではありません。ましてや上からおしつけられる都市計画などのような、物理的なパズルのようなものでどうにかなるものだとも思えません。私は、この生き生きとした組織が、この時代のこの地域の環境設定を見極めて、自ら立ちあがるものだと信じて遠くから気仙沼の現状を日々見守っていくつもりです。
この過程をもっと積極的に見届けることができるように、同僚の岡田浩樹氏と協議して、この3月に神戸大学に事業計画を提出し、幸運にも採択されました。ほぼこれまでの方法論をなぞったものですが、ひとまず別動隊としての機動力も確保しました。一律一回2泊3日という原則をまもれず、特例を認めてもらって3泊4日の調査を重ねたことと、神戸からの旅費が予算を圧迫していたことで気が咎めていました。宮城県の無形民俗文化の調査も継続して東北大学東北アジア研究センターに委託することになったようですから、またしばらくの間は、気仙沼、そして東北の復興をこの目で見届けることができそうです。この地区の被害についての外形的な情報は、書籍、新聞、雑誌、あるいはテレビなどメディアを通じてもはやあふれているといっていいほどです[注37] 。しかし、地元でも当事者たちの間で今なお、「いったい何が起こったのか」を問い続ける毎日が続いています。
こぎれいにまとまっていなくても、主観的であっても、充分な分析がほどこされていなくてもいい(そんなことは不可能です)。今欲しいのは、また今蓄積しなければならないのは、細かい個別の具体的事例です。その体験や出来事をできるだけ早くすくいあげ、記録することが重要であるということは、今になっていえることですが、それに気づき、実行した例は多くはありません。この事例に関しては、「サルベージ」が非常に重要です[注38] 。躊躇することが多かったこともまた事実だと思います[注39] 。被災地の多くの人々はまだ日常を取り戻してはいないし、大震災はまだ、継続中です。いまわれわれにできるのは、総括ではありません。まだその時期ではないのです。今の段階でわれわれにできるのは、語り部として将来検討するに足る、信頼できるドキュメント[注40] と後に再解釈可能なモニュメントを残すことです。ここでいうモニュメントは、単なる震災モニュメントを意図しているのではありません。ミシェル・フーコーが、「知の考古学」を構想したときにその手掛かりとした、ある時代の人間の言説がきざみこまれたモニュマン、そしてレヴィ=ストロースがオーストラリア先住民のチューリンガをとりあげて「物的に現在化された過去」と感嘆したような、そうした時間と世代を超えた検討に足る何かでなければなりません[注41] 。
また、何よりも当事者が自ら語り部となり、語ることのできるアリーナをつくることが大切だと思います。語る言葉を持っている者には、語る責務もあるように思われます。私はいろいろな運命のいたずらで東北を離れましたが、遠くからでも、そうした事業にかかわりたいと思っています。その関わり合いのなかでは、どうしても気仙沼にこだわるつもりです。その理由は、本稿を読んでいただいた方には、個別の具体例として十分に伝わったと思うのですが。

注37  特に一般の撮影した動画が災害記録のなかで占める役割の大きさが今回の災害では際立った点が指摘できる。
注38 通常人類学では、「サルベージ人類学」は近代化およびグローバル化により失われつつある民俗や文化をすくいあげようとする懐古趣味の立場として批判の対象になることが多い。
注39 金菱清編『3・11慟哭の記録―71人が体験した大津波・原発・巨大地震』新曜社、2012年、東北大学震災体験記録プロジェクト編、『聞き書き震災体験 東北大学90人が語る3.11』新泉社、2012年、赤坂憲雄編『鎮魂と再生』藤原書店、2012年などは数少ない例外である。とりわけ人文社会系のフィールドワーカーが現地入りを躊躇した理由として、プライバシーとデリカシーの問題は無視できない。当事者が中心となるものが多いのは、こうした背景によるものだろう。一方で躊躇するどころか、デリカシーをあまりに欠いた研究者の存在も指摘しないわけにはいかない。私はとある建築を専門とする研究者が、「被災地に早く行くべきだ。行かないとすべて片付けられてしまう。それでは遅いんです」と主張するのを聞いた。まだ遺体を捜索している段階であまりにも人間性に欠ける発言である。また別のところでは、満潮時に家屋に浸水するのを防ごうと玄関前に積み上げた土嚢を見て、「なんということをしたのだ」と怒鳴りつけたと聞いた。地盤沈下によって上昇した水位を測ろうとした専門家だそうである。この現地の生活をデータとしか考えない専門家のエピソードは、噂であるから誇張はあるにせよ、ありそうな話ではある。
注40 アメリカの原子力規制委員会(NRC)が開示したドキュメントと日本政府が事後にさかのぼって作成した福島原発関係の議事録を比較すると、この重要性はどれだけ強調してもしすぎにはならないだろう。また、できるだけ仮名を用いずに実名表記を原則にした本稿の方針も固有名詞と具体性を重視しているからである。他者の名誉を毀損しないよう配慮するのは当然としても、訴追の可能性をおそれて最初から仮名、匿名にするのはドキュメントの理念からすると先回りしすぎであろう。事実を記述するときに匿名のまま曖昧にするわけにはいかない。たとえばはからずして訴訟になったとしてもそのやりとり自体が重要なドキュメントでもある。
注41 M・フーコー『知の考古学』中村雄二郎訳、河出書房新社、1970年、15頁、クロード・レヴィ=ストロース「再び見出された時」『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、1976年、260-293頁。




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宮城県における東日本大震災で被災した無形民俗文化財調査成果データベースLinkIcon