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呪詛と祝福(※)の民族誌―わたしの研究紹介

 アメリカの文化人類学者クリフォード・ギアツ(Clifford Geertz:1926 - 2006)は、人類学について知るためには、人類学の「専門家が何をしているのか考えてみることだ」という主旨の発言をしたことがあります。そのひそみにならって、私が何をしているのかを手がかりに私の専攻する人類学について書いていきたいと思います。私は人類学に出会ったころから一貫して呪いや祟りの問題に関心を寄せてきました。呪いや祟り、と聞いてなぜそれが学問の対象になるのか疑問に思う人もいると思います。私はそれには、人が住んでいる地域や社会というのは客観的な尺度では測りきれない、情念や意味に満ちている、その情念の中でも鍵になるのが、しかも深刻なのがこのような観念で語られる問題なのだ、と答えることにしています。
 神社や仏閣にちなむ地名は各地にあります。天神や天満しかり、八幡なども有名なものです。あちこちの天神は、天満宮を勧請して祀った、誰かあるいは、ある集団の意図と無縁ではありえません。北野天満宮が菅原道真の怨霊であり、祟神であることを考えると、過去に雷で被害を受けた地域かも知れない、というような憶測も可能です。さらには、こうした聖地は、神社になるよりもずっと前から特別視されていた可能性もあります。最近、中沢新一氏が『アースダイバー』(講談社、2005年)という著作で試みた研究方法を敷衍して考えると、そういった場所の地形などから見ても、かなり前から祭祀装置が置かれていた可能性があるところが少なくありません。
 また、こういった情念による空間の意味づけや世界観は、ときに(本当はいつもある程度は)まったく関係なさそうな部分に影響することがあります。日本に限りません。アンダマン沖の津波が起こったときに、被害を受けた人々を移住させようと、別な土地に住宅を建設しました。地域によっては、移住に猛烈な反感を示しましたが、ある地域ではすんなり移住が成功しました。すんなり移住した人々は、海難死者の霊の祟りを恐れていた、ということです。反感を示した地域は、むしろ先祖代々の土地への愛着があり、津波の被害者の祟りは気にしなかった、というよりそういう考え方がなかった、というわけです。

 私がこれまで取り組んできた研究分野である社会人類学は、基本的に特定地域に出かけ、そこに住む人々の日常生活にある程度入り込みながら行うフィールドワークをその基本としています。そのなかでも、私はここ10年来「呪詛と祝福の民族誌」が自分のライフワークだと自覚するようになってきました。両者は社会的に正が負かの評価が違っているだけで表裏一体のものです。例えば、とある神社に大漁祈願するため参拝したりそのお礼参りをしたりすることは社会的に正当なホワイト・マジックですが、その同じ神社に五寸釘を打ち付け、自分の商売敵や恋敵を追い落とそうとしたならばブラック・マジック、つまり呪いになります。
 学び始めたころ、機会を見つけてあちこちに出かけました。中でも印象に残っているのは年中行事や儀礼・祭礼の類でした。1900年ごろから1996年頃までに、訪れた場所とイベントは、越後浦佐「毘沙門堂裸押合大祭」、愛知県東栄町月の「花祭り」、豊橋市「安久美神戸神明社祭礼鬼祭り」、長野県飯田市千代・野池区の「たいしょうこうじん」「事の神送り」、長野県下諏訪町諏訪大社「お舟祭り」、富士吉田市の小室浅間神社「流鏑馬神事」、埼玉県本庄市普寛霊場の修験「春季大祭」、和歌山県牟婁郡古座の「河内祭り」、茨城県鹿島神宮例祭、岩手県遠野市のオシラサマ、千葉船橋市の「三山七年祭」などです。これらはみなホワイト・マジックの儀礼でした。豊作や大漁、無病息災を祈願したり、あるいはそれらを「祝福」したり。いわば地域文化の「光」のあたる部分です。 
 その後、大学教師になってからもあちこちに出かけています。ずっと文献だけで知っていた沖縄・久高島にもようやく足を運ぶことができ、本土とは違ったインスピレーションを得ることができました。しかし、生活に根差した民俗や文化に触れることができたのは何といっても東北です。オシラサマは、前任校(東北学院大学)に赴任してからゼミ合宿などで数回見に行くことになりました。柳田國男『遠野物語』で有名な遠野は、下北の恐山例大祭とならんで私のゼミの合宿には格好の場所でした。その後、遠野祭りのほか、いくつかの地元のお祭りにも参加させていただきました。各地に残るうちばやし、虎舞や鹿踊りなどの地元に密着した民俗芸能や儀礼やイベントが私の教育研究を牽引してくれました。こうしたお祭りのなかで、当初あまり関心がなかった高齢化などの問題に目を開かれたり、生まれ育った地域に愛着を持つ人びとの生き様を感じることができたのはしあわせなことだった、と思います。このようにあちらこちらを歩くことで、比較の参照点がもうけられ、地域の独自性が初めてわかってきます。よく言われることですが、地域の活性化のために尽力する人々の多くが、一度その地域から出て外で暮らした経験を持つ人だったり、場合によっては移住してきたよそ者だったり、という現象は偶然ではありません。このことは、ある問題に対する対処方法も、しばしば全く離れた別の地域からヒントを得ることができる、ということも示唆していると考えています。他地域との比較があって初めてその地域が意味を持つのだろう、と愚考します。

 一方で1990年に新潟県の佐渡市で村落調査を始めました。ここで私はブラック・マジックに憑かれることになります。1995年までの調査で行ったのはいわゆる「憑きもの」研究だったのですが、いわゆる「もち筋」がないのがこの地域の特徴でした。狐・人狐・狸・犬神・ゴンボダネ・オサキなど、何らかの動物霊(最近稀には什器、テレビなど)が人に憑依するのが憑きものですが、その憑依体質が親から子へ継承される、という考え方は全くありませんでした。また、憑依するムジナ(頓知坊とも)は、恐ろしい存在ですが、ある意味では至って素直で、簡単に憑いたり落ちたりし、ご馳走さえ供えればその霊力を呪いにまで提供してしまうのです。実際の録音をそのまま書き起こすと、次のようになります。

A:…おれがこのバアサン憎いと、どっかの山の神さん*にあのパアサン痛うしてやってくれー病気をこしょうてやってくれーとかっちゅうて、願うと、そのきくんだ、根が馬鹿だから[…]ものほしいから、きくの
B:そうすると、なんだ、イノラれるとそこのイノラれた婆さんがいろいろ病人みてえんなって、えれえめにであうんだ、そうするとこんどはまた信仰する人におねげえしてといてもらうんら[…]
A:そうしるとこういうもんあげてくれー、その、こういう崇りだから、て、あげるとそのもともとのとおりになるわけなんら、だからその山の神さんちゃ馬鹿らー
B:オソゲエもんにしとるんらよ
A:ああん、そういうんら
B:おっかねえもんにしとるんらよ、憑きゃあ憑いたっちゅうし、頼みゃあおめえならおめえこのひとならこのひと悩まして病人にしるんらよ[…]ヨゲな神さんら
〔1993年9月18日黒森地区にて採録した録音記録〕
*ムジナに対する敬称。これに対してトンチボと呼ぶとムジナは腹を立ててタタリを成すという。

村はずれの小さな祠に秘密裏に赴き、ムジナにご馳走をあげて(油揚げや日本酒も欠かせません)、誰それが憎いから殺してくれ、と頼むのです。こうした行為を実際に行ったという噂は多いのですが、噂を集めていくと具体的に実名が出るのは二例に限られていました。ノートの親族関係図を繰ると両名とも先妻の男の子がいる後妻でした。自分が後妻で、先妻の子が後継ぎのため、血縁関係のある娘夫婦があとを継げなくなったことが引き金となったという説明になっています。この村では、アシイレ婚とかアシフミ婚とか呼ばれる、結婚後嫁ぎ先の一員になるまで時間がかかる結婚制度が採用されており、相続は通常長男相続です。したがって、先妻の男の子がいる後妻というのは、この社会でもっとも不安定な、剥奪されたポジションにいるわけです。だからこそ、葛藤は通常起こるように家単位とはならず、個人単位で、しかも呪いが顕著になるのです。

…おもてひろういわれんだけものう、ショウヤのいえから、山田さんがヨメさんもろたんだ…ところがのう、その山田さんの兄貴は先生しとるわけだ、とうちゃん、もう定年なったけもな、嫁さんもろたあとに嫁さんと二人で、嫁さん百姓嫌からのう、新潟へいったわけ、で、新潟でのう、嫁さんはどこも勤めりゃせんけものう、子ども育てたりなんかして、お勝手したり、掃除、洗濯、お勝手、そんなことしよるんだしのう…そうしたところがな、二十年も三十年もいっとるんだしのう、嫁に行ったところの親のもんがのう、おとこ親がのう、わが娘はオッサンと一緒になってよそへ出とるんだけも、よそへオッサンとオバサンと出とるのをアイダチ(夫婦養子)家へ入れて、そして、そのアイダチに相続人になってもらう、てゆうたがさ、そとへ…その兄貴は新潟へいっとるから、いつ戻ってくるか戻ってこないかわからんし、そういうものは、そのまあ、おいてさ、…娘婿にカカル(相続する)つもりだったんだ、…そいでその、娘婿にカカットルわけだ、そいたらこんだ、腹が立つっちゅうてなあ、その、人をイマウっちゅうだなあ、イマウっちゅうことは人をイノリ殺す、イノリ殺すんだなあ、ムジナをのう、ムジナに、なんだ、ご馳走たくさんあげてさ、してその、ゴッツォウたくさんして、こういうもんをイノリ殺してくれ、って拝むわけだなあ、拝んでその、…ムジナの神さんだ、…ゴッツォウいっぺえことあげて、ムジナを頼んで、殺そうとしたんだいなあ、おそろしいわなあ、あのバアが…後妻なんだ、あのバアが…病気んなってのう、そういうわるいことするもんは罰があたるんだなあ…大切なカカリゴ(後継人となる子)が死んだもん〔1993年9月18日、K地区における録音〕


 要約しますと、長男が新潟で働いていて帰ってこないため、その父が後継ぎを娘婿夫婦に決めたことに憤ってムジナに御馳走を捧げて呪いをかけた、という話です。
 もちろん、呪いは極秘裏に行われるわけですから、本当のところはわかりません。しかし、こうした噂が頻繁に口に上るという事実は、この社会的ポジションについての地域の人々の見解をあらわしているものだと思うのです。私は、超自然的な力にすがって呪いを行使しても仕方がない、と思われる立場が制度上存在しているところに地域文化の「闇」や悩みの部分を見たような気がしました。
 じつは、ここでは社会調査上の重要な教訓も得ています。最初の2年ぐらいは、ムジナ憑きや化かされた話をたくさん(数百例も)集めてそれなりに充実してはいたのですが、満足のいく分析枠組みは得られませんでした。論文のもとになる骨組みができたのは、当初は関係がないと(愚かにも)思っていた結婚の習慣や親族関係に目を配るようになってからなのです。そうした意味では私は現在も(得手不得手はあっても)社会人類学はトータリティを志向する分野でなければならず、一時増殖した「何とか人類学」ではだめだと思っています。
 社会人類学における呪い研究は(「妖術・邪術研究」という用語が一般的ですが、最近はオカルトということばもよく用いられます)、イギリスの植民地化に伴うアフリカ研究を中心として飛躍的に進展してきました。そこでどうしてもアフリカで現地調査をする必要を感じていたので、1997年から今まで、東アフリカ、ウガンダ共和国でフィールドワークを続けています。ウガンダに惹かれた理由は、1971年からのイディ・アミン(Al-Hajji Field Marshal Dr. Idi Amin Dada, VC, DSO, MC c.1925-2003)大統領政権(1971-79)以降この国の治安が乱れ、学術調査も30年ほど空白になっていたからです。そこでも村に住み込み(主な民族はアドラ民族Jopadhola)、呪いや祟りの観念に注目して調査を続けています(もちろん言語や経済、慣習法、親族組織など様々なことを調べます)。最初の研究課題は、「問題飲酒」の研究でした。「アルコール依存症」に代えてその社会が問題視する飲酒様式をこう呼ぶ人たちがいます。アフリカでは、深刻な病気は(エイズやエボラまで!)呪いや祟りと結びつけて考えられますが、この場合にもそうでした。お酒がやめられないのは呪いの結果だというわけです。しかも犠牲になるのは大概英語のよくできる、村の中ではエリートでした。展開するきっかけをつかみ損ねてあまり進捗していなかったこの研究も、2007年になってようやく一本の論文にまとめることができました 。つまり約10年かかったことになります。
 縁があって国際協力事業団(現在は機構)の専門家となり、ウガンダで「貧困」の原因となる要因を追求する仕事をしました。「貧困」の要素についての地味な聞き書きを行い、データベースにしました。残念ながら生のデータなので扱いが難しく、いまでもその処理は行われていないようです。しかし、なによりも開発援助業界を内部からフィールドワークすることができ、そこにある有形無形の問題を認識することができたのは収穫でした。データベースは焦点を絞った議論としていつかかたちにしたいものですが、いろいろな障碍があって実現しそうにありません。なにかきっかけがつかめれば開発援助の民族誌を書いてみたいものです。ここにもやはりいろいろなかたちで「闇」が潜んでいました。
 人間は、人智をつくした後には現在でも呪いや祈願などに頼るものだ、というのが実感です。ロケット打ち上げの成功祈願に研究費をつぎ込んでしまったロケット工学者もいるといいます。近代科学の先端をゆく人々でも、やはり気になるのですね。

 2000年から取り組んでいるテーマは、アミン大統領に殺害された調査地出身の大臣の事例です。ウガンダに限らないのですが、脱植民地化によって出現したエリートは、しばしば呪いや祟りの噂の対象になります。逆にエリートが身を守るために呪術を使ったり、呪術師を引き連れていることもあります。彼も例外ではありません。曰く、予言者をいつも連れていたから出世できたのだ、とか、彼が結局死んだのは、彼の父が昔死なせた誰かの死霊(ティポtipo)が彼らに付き纏っていて祟ったからだ、とか。
 彼らは、埋葬のときと、死後10年ぐらいたって行われるルンベと呼ばれる葬送儀礼のとき、そして呪詛をかけるとき、雨乞いのとき、よく歌を歌いながら踊ります。そのときに歌われる歌の歌詞にも、死んだ彼に対するまなざしが今なお注がれていることがわかります。

【A】
…アミン・ダダ、オボス=オフンビ、ヘイ、ヘイ/何も起こりはしなかった、まったく/オボス=オフンビ、アミン・ダダ、ヘイ、ヘイ/何も起こりはしなかった、まったく/①ただこの地域がだめになっただけ/②彼は兵舎を持ってきた/③お前は盗賊を連れてきた/お父さん、それだけさ/他に何も起こってはいない/④アミン・ダダとオボス=オフンビ、ただこの地域がだめになっただけ/オチョラ・オンドア、ヘイヘイ/私たちのために建ててくれた/⑤私たちはいつもあなたのことを考える/⑥あなたをいとおしむ/お父さん/オチョラ・オンドア/あなたのことを考える/お父さん/ヘイ、ヘイ/オチョラ・オンドア/お父さん/あなたを思う/オボス=オフンビ、アミン・ダダ、ヘイ、ヘイ/お父さん/何も起こりはしなかった、まったく/結構なことだよ/⑦お前は土地を奪った/父よ/とても上手にね/オボス=オフンビ、アミン・ダダ、ヘイ、へイ/お父さん/何も起こりはしなかった、まったく/結構なことだ/⑧お前は土地と父親のことで努力した/誰もお前ほど努力しやしない/そうしたのはお前/ヘイ/お父さん/オボス=オフンビ、ヘイ/⑩お前はパドラの本を書いた/ヘイ/お父さん/それはよいことだ/オボス=オフンビ、ヘイ/⑪本を書いてくれてありがとう/兄弟よ/ヘイ/お父さん/何も起こりはしない、何も起こりはしない/オチョラ・オンドア/ヘイ/お父さん/⑫病院を立ててくれた/あなたを私たちはいつも思い出す/オチョラ・オンドア/ヘイ/ありがとう/お父さん/⑬この地域を発展させてくれた/⑭ムランダに診療所を建てた/誇りに思います/ヘイ/お父さん/⑮キソコにも診療所を建てた/オチョラ/あなたが建てた/お父さん/感謝します/⑯ナゴンゲラの診療所をありがとう/ヘイ/わが兄弟オチョラそしてジョパドラすべて/オチョラは生まれ変わるだろう/トロロの街はすべてあなたがつくった…/オボス=オフンビ/ヘイ/アミン・ダダ/何も動きはしなかった/お父さん/バラックが来てわれわれは搾取された/何も起こりはしなかった…〔2004年9月13日、グワラグワラ村にて;ブシア地区近隣から来た楽団による演奏〕

 歌詞を見てみましょう。「アミン・ダダ」と「オボス=オフンビ」によってこの地域がだめになった(①、④)、その具体的内容として盗賊と言い換えられている「兵舎」(ルボンギ兵舎)の誘致が問題視されています(②、③)。続いて、「オチョラ・オンドア」によって診療所がムランダ、キソコ、ナゴンゲラに設けられ地域が発展したこと(⑫、⑬、⑭、⑮、⑯)、それによって地域の人びとが彼を慕い続けていることが確認されます(⑤、⑥など随所)。また、事実としてオボス=オフンビ」がパドラについての本を書いたことに言及し(⑩、⑪)、今となっては噂以上の証拠を手に入れるのは困難でしょうが、「オボス=オフンビ」が土地を「上手に」奪ったこと(⑦)が問題視されています。「父親のことで努力した」こと(⑧)というのは、わかりにくいですが、オボス=オフンビは父親の墓をわかっているだけで二度立て替えています。その都度大きなものになり最終的には5メートルもの巨大なものになりました。また、1971年には父の名を冠した「セム・K・オフンビ記念チャペル」を建造し、時の大主教エリカ・サビティや大統領アミンを招いて盛大な式典まで開いています。

【B】
…その体はトマト/その体は腐ってその体が土にかえるのもあっという間/その体はトマト/その体は腐ってその体が土にかえるのもあっという間/満足するまで食べたなら 腐るのも早くなる/酔っ払うまで飲んだなら 飲んだなら 腐るのも早くなる/もしあなたが鶏をしめていくらか隣人に分け与えたならば そのひとがあなたを悼みもしようが…
〔1972年ごろ大流行。 “del ”(体)の繰り返される歌詞。その「身体」への呪詛。具体的なレトリック。後述の「オボス=オフンビ」のことであることは周知の事実。〕
【C】
…オボス=オフンビ、おまえはすべての金が自分のものだとうぬぼれている/でもおまえが最初に土になった/おまえは土になり、すべてあとに残された/オボス=オフンビ、おまえはあらゆる富は自分のものだといった/でも最初に土に帰ってしまった/おまえは最初に墓に入ってあとにすべて残された/オボス=オフンビ、おまえは、その土地は自分のものだといった!/おまえは逝ってしまい、すべてがあとに残された/オボス=オフンビ、おまえは人々の土地を奪うために努力した/多くは無駄におわり、土地はそのまま残された/白い豆はキャッサバにかけるとうまい✕ 6/白い豆はキャッサバにかけるとうまい✕ 6/オボス=オフンビよ、おまえも白い豆を味わうといい/キャッサバにかけた白い豆はとてもうまいから…〔註:キャッサバと白い豆は、土になってしまったオボス=オフンビを喩えたもの〕
【D】
…ウウウウィ!ウウウウィ!ウウウウィ!ウィ!ウィ!ウィ!/オボスの妻はルグバラのせいで泣き叫んだ/悲しみのあまり彼女は泣いた/ルグバラが夫を殺してしまったから/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが私の夫を殺してしまった!/オボスの妻は泣く「夫は蛇と一緒にいるのよ」/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが私の夫を殺してしまった!/オボス=オフンビの妻は亡骸のそばで泣いた!/オボスの妻は泣いた/ルグバラが怒って私の夫を殺してしまった!/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが怒って私の夫を殺した!/オボスの妻はルグバラのせいで泣き叫んだ/悲しみのあまり彼女は泣いた/ルグバラが夫を殺してしまったから/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが怒って私の夫を殺してしまった!/オボスの妻は夫を悼んでニョレ語で泣いた「彼は私の夫を殺してしまったのです」/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラがとうとう私の夫を殺してしまった!/弔問客のだれもが、私がこれからどうしたらいいかと聞くだろう!/ウォー!ウィー!大切な妹よ!/「ねたみぶかい人たちはいつも他人が栄えるのを見ると足を引っ張るものだ」/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!/ルグバラが私の夫を殺してしまった!/私はこれからどうしたらいいの、兄弟たちよ、姉妹たちよ、彼女は叫んだ/ほんとうにこれからどうしたらいいの?/だれか助けてと太鼓が打ち鳴らされる〔が、誰も助けには来ない〕/蛇が夫を殺した!/ルグバラ!ルグバラ!/彼女は泣く、ウォー!ウィー!ウォー!ウィー!ウウウウィ!ウウウウィ!ウィ!ウィ!ウィ!/ルグバラがとうとう私の夫を殺してしまった!/エーエ!エーエ!エーエ!エーア!ルグバラが私の夫を殺してしまった!…
【E】
…おいおい雄牛が立ち去ったぞ/オボス=オフンビのことだ、エー/お前は意味もなくうぬぼれている。もうニウェー(聞き取りにくいほどの小さな音の擬態語)という音を立てることさえないのに…〔1977年に流行〕

 詳しい細部についての説明は省きますが、彼は鼻もちならないセルフィッシュな男で、周りの人々の土地をうまくだまし取った悪人、というイメージが歌いこまれています。残された妻の悲嘆すら歌いこまれたこれらの歌は、公然と他人を批判することが(呪詛を招くため)許されていない当地では強烈なインパクトをもって響きます。ある老人が言うのには、もともと、フンボfumbo(ロングドラム)を打ち鳴らすことも、歌うことも、踊ることも、霊界と交流する、あるいは霊になろうとする営みだった、といいます。この歌には、アイロニーと呪いの香りがします。
 これ以外にも彼の死因については、死霊の祟りなどの噂が後を絶ちません。暴君アミンに殺されたことはだれしも知っているのですから、私たちなら呪いや祟りをもちださないところですが、彼らの解釈は、そういった力が発動した結果であることは自明である、というところから始まるようです。

 調査地では、そんな歌や噂を録音して現地語のままで書き起こし、英訳をつけるという作業を助手たちと続けています。人々の言葉は、いつも示唆的で、多くのことを考えさせられます。病や不幸が深刻であればあるほど、呪いや祟りが持ち出されます。そういった事態に直面すると、いかにそうなったかを説明することはできてもなぜそうなったかを説明することができないのが人間です。だからといって問題を放置して平気なほど、図太くはできていません。そこに文化の闇から呪いや祟りが登場することになります。どうも、生まれてきた理由さえわからないわれわれ人類の悩みは、お互い尽きないようです。
 この「光」と「闇」のコントラストで、はじめは異なった論理のように見えたものが、最近ようやくあちこちで繋がって体系だって見えてきたような気がしています。単に差異を強調するのではなく、また日の当たる部分を口当たりの良い表現で記述するだけでもなく、彼らと私たちの共通の悩みのありかにまで通じる可能性のある民族誌(=ある民族文化について体系だって書かれた報告書)を書くことが、これからの大きな課題です。
 アフリカの諸社会については、日本で入手できる情報はまだ少ないですし、しばしばおおいに偏っています。紛争や飢えや貧困、HIVなどが彼らの社会で大きな問題になっているのは事実ですが、それ以外の面も同じ同時代人としての関心から学ぶ意欲をもつ学生をともに学ぶ仲間として歓迎したいと考えています。また、文字に残っていないために軽視あるいは無視されがちなプレ・コロニアルなアフリカの歴史や、現在のアフリカ諸社会に大きな影響を与えた植民地化と独立の歴史も、自分たちの日々と無関係なものとしてではなく、現在のわたしたちの生活とつながっている、という想像力を養ってもらいたいと思います。講義などでは民族誌的記述に加え、時に映像や画像を紹介して、アフリカ諸社会の現実をできるだけゆがめずにとらえ、ともに考えてゆきたいと心がけています。

※ 「呪詛と祝福」は、直接的には長島信弘(一橋大学名誉教授・中部大学名誉教授)の論文の表題から採っている(長島信弘「呪詛と祝福―ケニア・テソ族のイカマリニャン・クランを中心に」『一橋論叢』85(6)、729-746、1981年)。パリ、アニュワなどナイル系民族の間で長く調査を行ってきた栗本英世大阪大学教授によれば、「人間は死ぬときにどちらかを残す」という(残念ながら私の調査地のアドラでは、ここまで明確な考えは聞いたことがないが、歴史的にはありそうなことであり、構造的には支持されるように思われる)。

私と「フィールド」―自己紹介のかわりに

 文化人類学、社会人類学を専攻する私が地域とのかかわりについて何がしかのことを述べるとすれば、それは第一義的にフィールド(調査地)とのかかわり、おつきあいについて述べることであり、それにほとんど尽きると思われる。私はこれまで呪いや祟りをキーワードに文化を読み解く試みをしてきた。こう書くとひどく好事家的な研究をしてきたように思われるかもしれない。しかし、ある意味ではそれは的を射ていない。呪いや祟りなど、暗い概念の背後にはその地域に暮らす人々の深い苦しみや悩みが集約している。別の言い方をすれば、呪いや祟りの観念があるときは表面的には衰えるように見えながら、姿を変えて生き残るのは、人間が多くの解決不能な問題に取り囲まれて、それでも、インスタントに解答を求める存在であることによっているのではないかという一応の見通しを持っている。呪いや祟りに限らず、こうした社会の内奥部に踏み込もうとするとき、誤解にもとづくものにせよ、一度は必ず地域の人の一部と紛争状態(どのような形であれ、また程度の違いはあれ)を経験する、というのが私の経験則である。しかしながらそれはあるときは時間をかけて、あるいはあるときは可能な手続きを模索しながら、真摯に対応すれば、以前よりもより良好な信頼関係が生まれるきっかけとなることもまた経験則としてある。今日は具体的な事例としてそれらを紹介する。ただ、この作業は一時的にであれ、かなりしんどいことは確かなので、実習などの教育活動のなかでどの程度学生諸君に見せたり(あるいは見せないか)、体験させるのか(あるいはさせないか)は今後の課題として残っている。

 私は、はじめから呪いばかりを追っていたのではない。私は1990年ごろから、当時所属していたゼミの合宿などで、各地を見て回った。当時すでに文化人類学で身を立てる決意をひそかにしていたので、正規の合宿よりも早く現地に行って話を聞いたり、別な機会に合宿で訪れた場所を訪れたりしていた。そのうちもっとも地域の人々と深く交流したのは和歌山の古座だった。古座には、7年間通い、2001年にも行ってきた。翌年には、正月の大漁祈願に京都に漁協の代表たちが行った帰りに大阪に寄ってくれた。古座の祭りは、オキット(沖の人)と呼ばれる漁師と、オカド(陸人)と呼ばれるおもに水産加工業などを生業とする人々とがそれぞれ別の青年団をもち、それぞれが同じ祭りで別の機能をもっているという興味深い祭りだった。オキット側は神の船と当屋船をつかさどり祭りの厳粛な側面を維持するが、オカド側は祭りだから「チョウケル」(ふざける)ものだとして獅子舞をまわしながら酒をあおる。両者は、ともに同じ祭りを行い、表面的にはオキットを立ててはいるが、緊張関係が絶えずある。何年か前に、獅子舞の際、調子に乗って漁師方の青年団の詰め所となっている会館の注連縄を切った事件があり、怒った漁師(酒飲みであるオカドを馬鹿にしている)が獅子頭を窓の外へ投げ捨てて破壊するという事件もあったそうだ。あるとき、大変なトラブルがあった。私たち(もう一人の引率者は現在国立歴史民俗博物館研究部の山田慎也)が連れて行った後輩(女性)が、あまりに「チョウケル」オカドを見かねて、怒鳴りつけたというのだ。保守的な漁村で、しかも自分たちが取り仕切る祭りの期間に、年下の女性に怒鳴られる、ということは、彼らにとって耐え難いことだったことは容易に想像できる。そのとき私はオキットのほうの詰め所の会館にいて知らなかったが、連絡がありあわてて宿舎に戻った。オカド側の会長が怒り心頭で待っていた。私たちは、まず怒らせたことを引率者として謝罪し、経緯を説明することを後輩に求めた。ところが、怖いのか、後輩は黙ったままだ。30分ほどたったろうか、埒が明かないと見てとった会長はオカドの詰め所の会館に引き上げた。祭りは今も進行中だ。いつまでも責任者が会館を留守にしているわけにはいかなかったのだ。
次の日、私はオキット側の長老と、会長に相談した。当時の会長はまだ若手で(といっても40後半)血気盛んだったから「なあにい!」とオカド側に怒鳴り込みそうな気配である。
冷静な長老の助言で、私たちは祭りの後に謝罪することにした。祭りの最中はこじれた際に間が悪い、というのが、長老の判断だった。謝罪し(気まずかったが)、「毎年来るが何も書いたものを持ってきていない」という会長の言葉ではっとした。実際には、その2年前まで毎年実習で来ていた慶應義塾大学のゼミとは別のグループなのだが、それでも向こうから見れば同じ「慶應」、こちらの対応の甘さを反省した。前年の参加者を含めて(エッセイめいたものもあったが)あわてて報告書もどきの冊子をつくり、数ヵ月後に持っていった。現在では彼らとの関係は良好で、山田慎也は修士論文も博士論文も古座の葬式を題材に書いた。
もうひとつのトラブルは、全くの行き違いである。漁師方の青年団からヒアリングの際教育委員会に、船の漕ぎ手の不足が訴えられた。これを教育長は何を取り違えたのか、「慶應の連中がいる」と考え、正式にわれわれを招いたのだ(もちろんわれわれに櫓が漕げるわけはない)。宿泊施設として消防会館が開放され、布団も借りてくれた、のはありがたかったのだが、夏の古座は暑い。消防会館には風呂はないのだ。歩いて20分ほどのところに銭湯があるが、祭りの準備、祭りの次第に張りついているうち、銭湯は閉まってしまう。前年まで泊っていたアット・ホームな宿のおかみさんの好意で、もらい湯に行ったりしたこともあった。青年団にしてみれば、なぜ消防会館にわれわれが住みついているのか不可解だったらしく、若干不穏な空気が流れた。これも根気よく説明することで難を逃れた。

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古座勇進会のメンバーと 1990年ごろ

 同じころ、新潟県佐渡市ですこし本格的な調査をすることになった(1990-1995、1999に短期の追調査)。調査といっても今思えばカメラは「写るんです」しか持っていなかったし、資金は乏しかったから、テープレコーダを使い始めたのは比較的後になってからだった。今にして思えば、これはよかったと思っている。佐渡の老婆のなかには、名刺を出すと警戒して丁寧にインタビューを断られたりして、最初からテープレコーダを持ち出したら、どんなことになっていたかわからない。(後に行ったウガンダのムピジでも女性はなかなかインタビューに答えてくれない。下手なことを言うと、夫に殴られるからだそうだ。船橋では、逆に名刺が威力をを発揮した。祭りだったから、男性にしか話を聞かなかったような記憶もある。地域はいろいろだし、ジェンダーによる反応の違いもあるから、なにげない生活を観察するには様子見が肝心であることを学んだ)。
最初は呪いや化かされた事例を集めているだけだったが、それではなかなか社会についての分析が立体化しない。基本に立ち返って親族組織を調べ始めて、急になにか「わかった」ような気がした。この社会での呪いは、アシフミ婚によって社会の隙間に落ち込んでいる妻のうちのとりわけ後妻が、先妻の子が生存していることによって血縁による身分保障が揺らいでいることによるあえぎのようなものだ、という分析をしてみた。それが梅屋[1994]である。現在でも首尾一貫しているという点では、これよりも自ら納得のいくものは書けていない。
このフィールドワークの最中にも、ちょっとした事件があった。ある後妻がムジナの力を使って先妻の子を呪い殺した、という話を聞き、録音していたときのことである。その息子さん(仮にSさんとする)が部屋に入ってきて、「この話は公になったら困るんですよ、ばあも、名前を出さずに、あのもんが、とかいう言い方をせんなん」といった。私は、一瞬たじろいだが、仮名や記号なら公表してもいいという許可をとりつけて何とかはじめ論文として、のちに共著書として出版し、教育委員会、郷土史家、そして苦言を呈した人にも、お世話になった人には全員送った。そののち、見学に行った後輩の話では、話を聞こうとすると私の書いた印刷物を出して、「これにみんな(!)書いてある」といわれることが多かったという。その話を聞いてほっとした。1999年に再訪した際には、Sさんを除き、話を聞いたほとんどの方は亡くなっていた。Sさんとは、現在に至るまで年賀状のやり取りが続いている。教育委員会でも重要な資料として大切にしてくださっていると聞く。郷土史家の主宰する『郷土研究佐渡』誌にも寄稿を依頼されるという光栄に浴したが、迂闊にもそのままになっている。

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1995年ごろ 鈴木正崇教授と

 呪いや祟りの概念―つまり不幸や死をどのように説明するかという文化的装置にその地域の悩みが集約しているというビジョンを持つようになった私は、人類学でその研究の古典が集中しているアフリカの本格的調査を開始しようとその道の権威のいる一橋大学博士課程に進学した。幸い日本学術振興会の特別研究員に採用されたので、ウガンダでの現地調査を開始することができた。
1997年から始めたウガンダでの調査は、初手から調査許可取得に苦労した。ウガンダでは、ウガンダ国内の研究機関に在籍し、Uganda National Council for Sciences and Technologyの調査許可をとり、紹介の手紙を書いてもらい、最後に大統領執務室の了解をとりつけないと正式な許可は下りない。
「多くの場合、帰国するころ正式な許可が下りる…」とはあとで聞いた話。そのときは「1週間」というマケレレ社会調査研究所の秘書官の言葉を信じて1週間後から約2週間、毎日通った。ところが、まだ、まだ、まだ…。ある時、マケレレの丘のふもとにあるワンデゲヤという下町で昼食後のビールを飲んでいると、日の高いうちからジンを飲んでべろべろになっている紳士がいる。きれいに折り目の入ったカウンダ・スーツを着た紳士曰く「中国人か?」「いや日本人」「なぜ日本人がこんなところにいる?」私はウガンダ東部のジョパドラ族の村に住み込んで調査をしたいこと、調査許可を待っていること、もう3週間にもなるのに何の進展もないので困っていることなどを話した。すると彼は、ポケットから氏名と私書箱の彫られたスタンプを取り出すと、私が文献カードに使っていたカードにぽん、と押した。Professor Walumbe (MBChB,MD,FRC…), Mulago Hospital…名門ムラゴ病院の教授だったのだ。「ムラゴのOwor教授を訪ねなさい。彼はその地域の出身だから」と彼は言った。
何回か空振りした後に、私はマケレレの丘の、Vice Chancellor公邸(当時学長は大統領と決まっていた)の隣の古い建物(旧Vice Chancellor公邸)にOwor教授を訪ねた。話はとんとん拍子に進み、木曜日に教授夫妻とともにトロロ県グワラグワラ村に向かうことが決まった。なにやら施設を持っており(後に現地NGOと判明)しかし、私はまだ不安だった。調査許可あるいはletterなしでは、逮捕されても文句は言えない。そう教授に告げると、教授は笑って「心配要らない」といった。
二日後、突如として調査許可が下りた。教授はUganda National Council for Sciences and TechnologyのVice Chairmanだったのだ。良くも悪くも人脈社会であることを思い知らされた一件だった。
村に着くと、レンガ造りの建物のなかから、着飾ったひとびとが歓声をあげながら飛び出して出迎えてくれた。そこにはTOCIDAという名前の現地NGOがあり、有機農法とアダルト・リタラシー、そして演劇による衛生やエイズ対策などの知識の普及を目指していた。教授の妻はその現地NGOの議長だったのだ。
それから、私は1999年まで、途中病気と事務処理のための一時帰国を挟んで、その村にいた。しかし、依然として機材は質素なものだった。簡単な写真機を持っていることがわかると、撮影しろ、といって盛装して現れる人も後を絶たず、録音用のウォークマンをラジカセ代わりに借りに来る若者が引きもきらなかった。二個持っていたウォークマンのうちの一つはこうして壊れ(借りた若者が壊れたウォークマンを平然と返しに来た。こういったケースでは彼らはまず謝らない。いや、私は未だにジョパドラ人、いや東アフリカで出会った人々がI am sorryと言うのを聞いたことがない)、首都のマーケットでsonyならぬsunyといういかがわしい偽のウォークマンを貸し出し用に購入した。
さて呪いよりも祟りよりも、具体的な死と病の現実のほうがよほど目に見えて頻繁だし、劇的だった。ほとんど2週間に一度は村の誰かが死ぬ。ほとんどは、エイズである。ケニアから巡回診察に来ていた外務省の医務官は、私の話を聞き、「そんな率ではやがてその村は滅びてしまう」といった。    
ウガンダは、その感染率をひた隠しにする東アフリカ諸国のなかでは例外的にエイズ患者の推計数を早くから公開し、その撲滅につとめてきた。都市のエリートに関してはそれなりに成功をおさめてはいる。しかし、村落の撲滅についてはお手上げ、というのが正直なところだ。
エイズ予防の知識を普及しようとするあるジョパドラの若者と話していて、はたと気付いた。長老が政治的権力をもつこの地域で、長老の前でセックスの話をすることはタブーである。したがって長老にエイズ予防にコンドームを使え、などとは、若輩者は口が裂けてもいえない。しかも、かりに長老自身がコンドームを使おうと思ったところで一体誰がコンドームを入手すればいいというのか。長老は自分で買い物をしたりはしない。たいがい子供にさせるのだが、子供に「コンドーム」を買って来い、などとは長老は言えない。また若者が買ってきて渡したりしたら、この上もない失礼に当たるのだ。
このような解決不能な価値観や社会規範の絡み合いも、フィールドワークの副産物で気づいたものである。

人が死ぬと太鼓の音が鳴り、ヒーッ、ヒーッと叫び声が聞こえる。一体何回の葬式に出たのか、数え切れないほどだ。朝と夜に、女たちはバナナの葉でつくった衣類を着て遺体の寝かされた小屋の外で踊る。杖やパンガ(草を刈る長い刃物)を振りかざし威嚇するようなそぶりを見せるものもいる。
ある日のこと、いつものように何度目かの葬式に参列していた。儀礼がなかば間で過ぎたころ、私は奇妙なことに気づいた。現地語が良くわからない時期だったので理解に時間を要したが、どうも「カメラをもってこい」としきりに言っているようなのである。私は参列のため不謹慎にならないよう、あえてカメラは置いてきたのだが。
カメラを持って帰ると、男たちは私を小屋の中に招き入れた。遺体の前で「撮れ」とジェスチュアをする。すると、それまで蝿にたかられないように顔の前を布であおっていた娘が、ふっと体をひらき、私に道を明けた。言われるままに私はシャッターを切った。それが初めての遺体撮影だった。数週間後、遺族が写真を取りに来た。それ以来私は、葬式には必ず呼ばれるようになった。デスマスクを残すという習慣が西洋にあるところを見ると、これもさして驚くにあたらないのかもしれない。それから数え切れない遺体を撮影した。帰国後、噂を聞いた葬儀屋さんの業界誌から遺体の写真の掲載を前提とした原稿執筆依頼があったそれが、梅屋[1998a, b]である。
エイズ以外にもさまざまな病気を見たし、マラリアなどは何度も体験した(43,4度熱が出た。脳も含むたんぱく質は凝固寸前だったろうと思う)。誰かが、「アフリカでは、病名がつくうちはまだまし」といったがその通りだと思う。一度は知己の中年男が私の前で体中の穴という穴から血を噴出してそのまま死んだこともある。

 1999年3月、私の日本学術振興会特別研究員としての資格は自動的に失効した。前年末、N教授から誘いがあり、N教授のJICAのプロジェクトについて説明を受けた。「ウガンダ農村社会における貧困撲滅戦略の構築と農村の総合的発展に係る研究協力」というものだった。1月から2月の半ばまで、乞われてカタクウィ県というところでN教授の私設助手をつとめた。今思えば、これは、プロジェクト・リーダーとしてのN教授の採用試験だったようである。ところでこのカタクウィでの経験は忘れられないものである。ジョパドラと違い、人懐こく、行動的でおどろくほど、もうほとんどわがままといっていいほど自信に溢れた彼らのパーソナリティは、今思い出しても笑ってしまう。N教授が町にランドクルーザーで買い物に行く(JICAなので運転手つきである)。N教授がどんな計画を立てていても決してその通りには行かない。出発が近づくと、教授には挨拶もなく、定員精一杯の人がすでに車に乗っている。教授が途中で人をひろおうとしていても、そんなことは彼らの関心外である。
そこは、打ち続く内戦で故郷を失った人たちの国内難民のキャンプだった。どんどん敷地はブッシュの中に広がり、孤独な単身の住む小屋が乱立する。お互いの不信感からか、妖術(意図しない呪い)、邪術(意図的な呪い)の告発が、native courtに絶えず申し立てられる。折に触れ内戦の激しかったころの話を聞くと、ひどいものだった。
週に一度、日曜日にはソロチの町からトラックが何十台もやってきた。村のはずれに市場が立つのだ。それぞれ入札(のようなもの)でとりしきる業者がいて、あらゆる品物が並ぶ。
ちょうど乾季だったから隣の牧畜民カリモジョンも来ていて、独特の雰囲気を醸し出していた。カリモジョンは乾季にはこの地で牛に牧草と水を与え、自分たちのホームランドでもそれが可能な雨季になると、牛と、時には女を、さらっていくのである。カラシニコフを持っており、写真を撮ったら何をされるかもしれないのでやめた(事実、カラモジャ地方でも当地でも殺された人が何人もいる。都市やそれに近い村落のひとびととは対照的に、東アフリカ牧畜民は一般に写真を撮られると激怒する)。
ある夜、小屋から出ると国軍の装甲車と数十名の軍人が休憩していた。怖いもの知らずで話を聞きに行くが当然「機密」。翌日、村の長老は、カラモジャとの境界の治安維持に行くのだろうといっていた。
教授は、牛をつがいで用意し、牛耕用とさらに子牛を生ませて増やすことでこの地域の状況を改善し、プロジェクト援助の鍵と考えているようであったが、JICA上層部には理解されなかった。「牛」というのが、文化人類学を知らない経済出身の上層部には突飛過ぎたようだった。ただ、教授も、牛プロジェクトが受け入れられても、カリモジョン問題(つまり治安)が解決しないことにはこの地域の発展はむずかしいと考えていた(なんとその翌年、政府はカラモジャを空爆。多くのカリモジョンが犠牲になった。)。
私自身はここでは、街でのwhole sale priceと村での小売価格の差額、それぞれの店の品揃えなどを村の全ての商店(キオスク)を対象に調査した。
ここでは、現地のかやぶきの小屋に住んだが、過ごしやすさはグワラグワラのレンガの家より数段上だった。

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1998年 アチョワにて

 さて、1999年9月に研修を終えて専門家として着任した。私は、ウガンダ中央部の旧ガンダ地区のムピジMpigi県の担当だった。そこは、常識的にはガンダ人が住んでいるはずだった。私はガンダ語は挨拶くらいしかできないから、通訳兼助手に仕事を手伝ってもらった(というより彼らにやってもらった)。このあたりから、私の欲求不満は募り始める。人類学は現地語主義である。得手、不得手はあっても、初めに現地語を勉強する期間は肯定的に確保できる。ここではそれは無理である。また、いろいろな行事があって首都に呼び寄せられたり、さまざまな外務省関係の視察についてまわることを要請される(アテンドという)。
それにもうひとつ、開発プロジェクトをここで行ううえで非常に難しい問題が発覚した。助手が兼ねてから「彼はガンダ語が下手だ」とつぶやくのを聞いておやっと思っていたのだが、ガンダ人の村、と思っていたのは間違いで、選択した村の総人口(うち人頭税を払っているのは10%)のうち80%は、ルアンダ、ブルンディ、コンゴなどからの難民だったのである。コーヒー・プランテーションが良かった時代(1970年代ごろまで)に出稼ぎに来て、賃金の変わりに小さな土地と、小屋と、鶏をもらって住み着いた家族がいる。また、ルワンダ・ブルンディの内戦やコンゴ動乱で国外逃亡した難民がいる。
確かにムセヴェニ大統領は憲法改正し、1995年から、難民も市民と同等の権利を教授できるように法改正した。しかし、こういった周辺地域ではそういったことが浸透するのは、ずっと先、あるいは、ないまま別の政権が誕生するかもしれないのだ。
事実、難民たちは憲法改正も知らなかったし、知ってもひどく否定的だった。「富めるものが貧しいものにその格差を快く是正するように動くことはない」と雨漏りのするあずまやに住むある人は言った。確かに、富める人が、おおきな不満をまだ抱えているうちは、それは全くその通りなのだろう。いずれにせよ、間違いのない受益者が20%というのは、巨大プロジェクトを立ち上げるには、状況が悪すぎた。
このようなことを考えると「植民地主義」の歴史は打ち消しがたいものとして俄然重みを帯びてくる。ウガンダは、少なくとも、貨幣や植民地化された都市、あるいは近代的紛争さえなければ、飢え死にすることはない土地である。彼らが苦しんでいるのはいずれも植民地時代の、つまり近代の産物、税金と学校の費用、そしてそれを得るために綿花やコーヒーなど換金作物に圧迫される自分たちの食料を育てる畑の現状なのである。
とはいえ、時間を巻き戻すことはできない。われわれはその時代の地域としかつきあえない。そこでできることは、開発援助というだけでいいことをしているかのような認識をもつのではなく、近代へ、われわれも巻きこまれ、あるときは他者を巻き込んだという歴史認識を踏まえて、対象の地域を真摯にみつめ、それらが主体的に構築されてゆくありようを見据えることだと思う。何かができるとすれば、それらの様態を解きほぐしてからではあるまいか…。

 そんなことで悩んでいたら、体に悩みがうつったのか、病気で早期帰国した。幸い、帰国してすぐに出した笹川科学助成金に当たって、またウガンダへ。その調査で、私は新しい問題に取り組み始めた。実は無知で知らなかったのだが、ジョパドラのことばで唯一とも言えるジョパドラの民族誌を書いた人物は、アミン政権の大臣だったというのだ。しかも、彼は、アミンに殺害された、というのがもっぱらの噂である。この計画には、近隣の人びともことのほか好意的である。そこで、彼の事跡を調べると同時に、病のカテゴリーや、呪いの観念について調査する日々が始まった。こうした問題を扱うと、広域の調査もせざるを得なくなる。高くついたが車で移動し調査すると、見えてくる地域差がたくさんあった。とりわけ、国連の代表や、ウガンダ・ルアンダ・ブルンディ・ザイールのArchbishopまでつとめた人物が引退して洋服屋さんや自分の経営するレストランの前でぼーっと座っているという事実は、私を驚かせた。
あるとき、インターネット・カフェの電話回線が不調で、新聞の支局に電話線を借りに行った。インターネット・カフェの店主のすすめである。そこで、ウガンダなまりではない英語をしゃべる青年(といっても私より3つほど上だが)に出会った。なんと彼は私の調べている大臣の息子だった。1996年に亡命先のアメリカから戻ってきたという。
彼に、計画を話し、了承を得た。ここまでは順風満帆だった。表に出なかったアミンの片腕、ジョパドラの悲劇のヒーロー、私はこうした物語が通用すると思っていた。
誤算だった。調査を進めるにつれ、その大臣の闇の面が可視化されてくるようになったのである。
ここで詳述は控える。死んだ大臣の義理の兄に当たる人物が亡くなったとき、人づてに私に手紙が届けられた。私は動揺してしまった。故人には、昨年調べたことを簡単にまとめたAbstractのコピーを郵送してあった。それを見た大臣の実弟が激怒しているのだ。
内容はどうあれ、他人の気持ちを損ねる、というのは残念なことだ。私はウガンダ風に鶏を持ってマケレレ大学のジョパドラ出身の旧知の講師と挨拶に行き、事なきを得た。その和解の過程で、家族会議等の場でなき大臣の息子は、大臣の正統後継者として、一貫して私の味方をしてくれたそうである。
また、さらにラッキーなことに、その故大臣の弟は、いまや私の大家のProf.Oworの学生だったことがあった。もちろん、Prof.Oworは、うまくとりなしてくれた。
しかし、問題が再燃しないためにも、私は現在自分はcompilerとなり、彼ら(故人の弟と息子)に著者となってもらい、まず大臣の伝記を出そうと思っている。その過程で、議論し、想定される葛藤を経て、何とか妥協点を生み出そうと思っている。

 次の年(2002年)、カタクウィが反政府軍LRAに一時的に占拠された。反政府軍は、(昔のポル・ポトのような)オカルト的な信仰を背景にしており、私の知己数名を含む推計約300人を殺害していった。それは数ヵ月後に国軍によって制圧されたが、私の親友の妻は子供を残し、国軍の兵により連れ去られてしまった。私は、ここではフィールドワークを離れて、義援金と食料を持って一日だけカタクウィに出かけた。村は荒廃し、あちこちに弾のあとがあった。その次の年も、その次も、調査の合間を縫って、わずかなお金と食料をカタクウィに運んでいった。たぶん、自己満足にしかならないと思うけれど。
***
ジョパドラには、息子がいる。私より年上で、(55歳くらいか?)いわゆる擬制的オヤコ関係というものである。彼は私が来ると、子供のようにおねだりをする。だいたいは私にとって孫になる彼の娘たちの学費である。私もそのために貯金しようと思うから不思議なものである。
やや冗長になったが、私のフィールドとのおつきあいは、いまのところ以上のように語りうるように思われる。
要するに私の言いたいのは、地域の人びとの内奥まで踏み込もうと思ったら必ず何がしかの葛藤が起きるということと、それでもなお、投げ出さずに真摯にそれと向き合うことで、それよりよりよい、より強い関係が構築されるのだ、という経験則である。そして、どういうわけか、行動の方向性さえ決まっていれば人脈は、不思議と、必ずつながるのである。

参照文献
梅屋 潔 1994, 「邪な祈り―新潟県佐渡島における呪詛」『民族學研究』第59巻1号、54-65頁
梅屋 潔 1998a, 「人が死ぬわけ《死んだものとのつきあい方―ウガンダ・ジョパドラの場合(上)》」『Sogi(葬儀)』44号、73-76頁、表現社
梅屋 潔 1998b, 「葬式の意味《死んだものとのつきあい方―ウガンダ・ジョパドラの場合(下)》」『Sogi(葬儀)』45号、73-76頁、表現社

※この文章は、2005年7月13日、東北学院大学教養学部地域構想学談話会で「私とフィールドとのおつきあい―自己紹介に代えて」と題して発表し、のちに、「私と「地域」とのおつきあい」として『地域構想学研究教育報告』第1号(63-70頁、2011年9月)に掲載されたものをもとにしていますが、一部異同があります。ここからの引用はご遠慮ください。

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