研究テーマ3.
テラヘルツ電磁波による凝縮相の低振動スペクトル
テラヘルツ時間領域分光の分子科学への応用
テラヘルツ帯とは、人によって定義は若干異なるかもしれないが、ここでは、数cm-1から200 cm-1程度の低波数領域を指す[1,2]。1THzは、約33 cm-1に相当し、1 THzの電磁波の周期は1 psであるため、この振動数領域のスペクトルには、時間領域でいうと、ピコ秒およびサブピコ秒の時間領域のダイナミクスに関する情報が含まれることになる。液体や高分子等の分子系について、この振動数領域に特徴的なスペクトルを持つ運動としては、以下のものが考えられる。
1) 分子内の大振幅振動。例えば、ベンゼン環に結合したメチル基やニトロ基が回転する振動は比較的低振動にその共鳴振動数を持つ。しかし、多くの場合、これらの運動の赤外活性度は小さい。レチナールなど、共役二重結合を持つ分子では、二重結合周りでの回転運動が可能であり、これも一つの大振幅振動である[3]。
2) 分子間振動。安息香酸などではカルボニル基による水素結合により二量体を形成することができる。このような錯体では、その分子間振動による吸収がテラヘルツ帯に表れる。分子内振動の3N-6則を考えれば、分子間振動として6個の振動モードが考えられる。これはもちろん分子間振動と分子内振動が明確に分けることができる理想的な場合である。安息香酸二量体の場合は、その対称性から6個の振動モードのうち3個がラマン活性、残りの3個が赤外活性である[1]。また、ヘキサメチルベンゼンとテトラシアノエチレンのような電荷移動錯体においても分子間振動は当然存在する[4]。
3) ライブレーション運動。日本語では衝振運動と訳されることがある。液体中では、分子と分子の間には必ず隙間があるので、ある程度、分子はその隙間の中で自由に動くことができるであろう。分子の重心をほとんど動かさず、やじろべえのように分子が「揺れる」ことが想像される。水分子のような小さな分子では、この運動の振動数は数百cm-1にいたる。また、分子構造が異方的であれば、どの方向に揺れるかによってスペクトルの周波数帯や形状は異なる[5]。
4) 回転緩和。回転緩和時間tRは、通常、流体力学的取り扱いによるStokes-Einstein-Debye理論により解釈される。
tR = CVh/kBT
ここで、hは流体の粘度、Tは温度、Vは回転体の体積である。Cは回転体と流体の接触面に関する境界条件である。この式を用いてナフタレンやアントラセンのサイズを持つ通常の分子が、水などの粘性の高くない溶媒中での回転緩和の時間を求めると100 ps前後の大きさとなる。これは振動数領域ではTHzより小さい、GHz, MHzの領域に特徴的なスペクトル成分を持ち、THzに表れるのはこのスペクトルの「裾野」ということになる。しかし、上でも述べたように、液体中では、分子と分子の間に隙間が存在するため、分子の回転運動を詳細に見れば、他の分子に衝突するまでの初期の段階では、Newton力学に従う運動を分子はすると考えられる。この運動のことを慣性運動と呼ぶ。この慣性運動を記述する時間相関関数は、指数関数ではなく、ガウス型の時間依存性を示す[6-9]。また、分子の形が扁平形や葉巻形など、異方性が高い場合は、回転緩和にも異方性が表れ、Stokes- Einstein-Debye理論で予測される値よりも速い運動が観測されることがある。このように通常、回転緩和はTHz帯より低い振動領域にそのスペクトル成分を持つが、THz帯に表れる速い運動も存在する。
5)高分子の低振動モード、構造揺らぎ。一般に高分子は低振動領域に基準振動を持つ。例えば、グリシンを6個つなげたオリゴマー((Gly)6)の構造最適化を行い、基準振動解析を行なえば、50cm-1以下に振動モードが複数個、存在する。また、このような高分子、またはオリゴマーを媒質中にいれ、分子動力学シミュレーションを行い、全系の双極子モーメントの時間相関関数から遠赤外吸収スペクトルを計算するか、または速度の自己相関関数から状態密度を求めれば、テラヘルツ帯に幅の広いスペクトル成分が存在することがわかる。これは基準振動というよりは、高分子の熱揺らぎによるダイナミクスを反映している[10,11]。
6)会合性液体の集団運動。水素結合により特徴的なネットワーク構造を形成する水やアルコールでは、そのネットワークの構造揺らぎが上で述べた高分子の構造揺らぎのように、熱揺らぎを起こすため、そのスペクトル成分がTHz帯に表れる。ただ、高分子と大きく異なる点は、水素結合性液体のネットワーク構造では、水素結合の解裂、生成がサブピコ秒、ピコ秒の時間スケールで起こるため、その影響もTHz帯には含まれると考えられるため、理論的な取り扱いははなはだ複雑なものになるであろう。
以上のように、テラヘルツ帯に表れるスペクトル成分の多くは、弱い分子間相互作用によるものである。生体分子の機能発現の機構では、分子間相互作用を多点で作用させ、それらの熱的な生成・解裂により、例えば、タンパク質の大きな構造変化などを引き起こす。また、自己会合や自己組織化なども弱い非共有結合を多点で作用させることによりそれを可能にしている。これは、強い共有結合の解裂、生成を伴う化学反応とは大きく異なるものである。このようにテラヘルツ帯のスペクトルの解析は、「非共有結合の化学の基本」と呼ぶことができ、生体高分子の構造安定性や機能発現の解明、また自己組織化によるナノ材料の開発など、基盤的な情報を与えることができると考えられる。
このTHz帯の分光は古くから遠赤外分光と呼ばれ長い歴史がある[1]。にもかかわらず、このエネルギー帯が「未踏の領域」と呼ばれてきた。その理由としては、(1)光源および検出器の能力が十分でなく、精度の高いスペクトル測定が困難であった,(2)分子間相互作用や液体分子の集団運動など、理論的に解析する手法が未成熟であり、たとえスペクトルが得られたとしてもそれから微視的な情報を得ることが困難であった。ここ20年、上記の二点について大きな進展があり、精度の高いTHzスペクトル測定と高度な理論的解析が可能となった。我々の研究室では以上の経緯をふまえ、凝縮相におけるテラヘルツ分光を推進し、非共有結合の化学の基礎となる研究を展開している。
参考文献
- Moller, K. D.; Rothschild, W. G., Far-Infrared Spectroscopy, Wiley-Interscience: New York, 1971.
- Sakai, K. (Ed.) Terahertz Optoelectronics, Springer: Berlin, 2005.
- M. Walter, B. Fischer, M. Schall, H. Helm, and P. Uhd Jepsen, Chem. Phys. Lett. 332, 389 (2000).
- K. Yamamoto, Md. H. Kabir, M. Hayashi, and K. Tominaga, Phys. Chem. Chem. Phys. 7, 1945 (2005).
- M. Cho, G. R. Fleming, S. Saito, l. Ohmine, and R. M. Stratt, J. Chem. Phys. 100 , 6672 (1994).
- A. Oka and K. Tominaga, J. Non-Crystalline Solids 352, No.42-49, 4606 (2006).
- P. Dutta and K. Tominaga, J. Mol. Liq. 147, 45 (2009).
- P. Dutta and K. Tominaga, Mol. Phys. 107, 1845 (2009).
- P. Dutta and K. Tominaga, J. Phys. Chem. A, 113, 8235 (2009).
- K. Yamamoto, K. Tominaga, H. Sasakawa, A. Tamura, H. Murakami, H. Ohtake, and N. Sarukura, Bull. Chem. Soc. Jpn. 75, 1083 (2002).
- K. Yamamoto, K. Tominaga, H. Sasakawa, A. Tamura, H. Murakami, H. Ohtake, and N. Sarukura, Biophys. J. 89, L22 (2005).