MINAE
INAHARA
LABORATORY
絵画作者 水谷 達 (みずたに とおる)
プロフィール
Profile
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撮影:藤本ナオ子|naok fujimoto
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稲原 美苗(Minae Inahara)
神戸大学国際人間科学部
神戸大学大学院人間発達環境学研究科 准教授
研究分野
ジェンダー理論、現象学、臨床哲学
研究テーマ
ジェンダー理論、現象学、臨床哲学を用いて、社会に潜む特権性や自明性を疑い、マイノリティの問題について多角的に探究します。
職歴
- 2016年4月 - 現在
- 神戸大学, 人間発達環境学研究科, 准教授
- 2013年4月 - 2016年3月
- 大阪大学, 文学研究科, 助教
- 2012年6月 - 2013年3月
- 東京大学, 総合文化研究科・教養学部附属「共生のための国際哲学研究センター(UTCP)」, 特任研究員
- 2012年4月 - 2013年3月
- 立教大学, 全学共通カリキュラム, 兼任講師
- 2007年5月 - 2013年3月
- 英国国立ハル大学, Centre for Research into Embodied Subjectivity (CRES), 名誉研究員
学歴
- 2004年5月 - 2007年7月
- 英国国立ハル大学 大学院, 哲学研究科, 哲学研究科 (Ph.D. Course)
- 1998年2月 - 2002年8月
- オーストラリア国立ニューカッスル大学, 大学院 人文学研究科, 社会学・人類学専攻 (Ph.D. course)
- 1997年2月 - 1998年2月
- オーストラリア国立ニューカッスル大学, 大学院 人文学研究科, 社会学・人類学専攻 (Honors degree)
- 1994年2月 - 1997年2月
- オーストラリア国立ニューカッスル大学, 人文学部, 社会学・人類学科 (Bachelor degree)
最終学位
Ph.D.(哲学)(英国国立ハル大学)
研究業績はこちら >
研究紹介
Research Introduction
研究の出発点
「哲学は,日常のなかにある問いから始まる」
私の研究の出発点には,いつも日常のなかで感じる小さな「違和感」や「生きづらさ」があります。フェミニスト現象学と臨床哲学の視点から,人々の語りに耳を傾け,共に問いを立てながら,哲学を現実にひらいていくこと――それが,私の実践であり研究です。
「このままで良いのだろうか?」「なぜ私はこんなに生きづらいのか?」 このような問いは,しばしば社会的には「個人の問題」として片づけられてしまいます。しかし,フェミニスト現象学の立場から見ると,それは個人の内面に閉じたものではなく,身体,他者との関係,環境,制度,文化といった広い社会的構造のなかで立ち上がってくる問いです。そして,そうした問いに丁寧に耳を傾けることは,「私」という存在を見つめ直すだけでなく,社会の成り立ちそのものを揺るがす可能性を持っています。
臨床哲学では,「問いを持つこと」そのものが,すでにひとつの営みとして尊重されます。問いに対してすぐに答えを出すのではなく,「分からなさ」や「曖昧さ」にとどまりながら,それを他者とともに探究する姿勢が大切にされます。私にとって哲学とは,抽象的な知識を積み上げることではなく,むしろ日常のなかで見過ごされがちな声や感覚に耳を澄まし,それを言葉にしていく行為です。
たとえば,「なぜ女の子はピンクを選ぶの?」「どうして障害があると特別なの?」といった素朴な問いの奥には,社会的な規範や構造のあり方が深く関係しています。そうした問いを自分の経験と結びつけながら掘り下げていくと,見えてくるのは,単なる個人の問題ではなく,共に生きる社会の「かたち」そのものです。
哲学は,日常の外にある特別な知の営みではありません。むしろ,日常のなかで立ち上がってくる「なぜ?」「これで良いの?」という問いにこそ,哲学の根源があります。そして私は,その問いの声に耳を傾け,ともに考え続ける営みのなかにこそ,哲学の可能性があると信じています。
私自身の経験から
「障害」として語られる身体の,もうひとつの物語
私は軽度のアテトーゼ型脳性まひという障害があります。日常生活のなかでさまざまな工夫を重ねながら過ごしていますが,運動機能の特性に加えて,構音障害――話すことがうまくいかない障害――もあります。言葉が伝わらない,あるいは伝わりづらい場面では,ただ単に「聞き返される」だけでなく,「理解されない」「待ってもらえない」といった経験が重なります。こうした出来事は,話す力や言語能力の問題というよりも,むしろ「聞く側の姿勢」や「関係性のあり方」,そして社会の側が前提としている「普通の身体」や「スムーズな会話」という規範と深く関係しています。
このような経験が,私にとっての哲学の原点となっています。身体は,単に個人の内側にあるものではなく,他者のまなざし,環境,制度,文化と交差するなかで社会的に意味づけられ,規定されていきます。見られること,話されること,距離を取られること――それらは物理的な出来事であると同時に,「他者とどう関係を結ぶか」「どのようにこの社会に存在できるか」という根本的な問いにつながっています。
私はこれまで,オーストラリアとイギリスで長年にわたり学び,暮らしてきました。両国では,障害を個人の問題ではなく社会の側の障壁に注目する「社会モデル」的な理解が広く浸透しており,合理的配慮も日常の一部として自然に実践されていました。こうした環境に身を置くことで,日本との制度的・文化的な違いに数多く気づかされました。同時に,私は「社会モデル」だけでは捉えきれない身体の経験にも注目しています。身体は,単なる「配慮を受ける対象」ではなく,知覚し,他者と関わり,世界に向かう存在です。こうした現象学的な視点――身体を通して世界と関係を結ぶという在り方――は,障害をめぐる理解をより豊かにしてくれます。現在は,障害のあるイギリス人の夫と神戸で暮らしています。共に日常を送るなかで,文化の違いや制度の限界に直面しながら,「障害当事者として,いま,ここでどう生きるか」という問いに,現象学的なまなざしで向き合い続けています。
「障害」とは何か。何が「不自由」で,何が「特別」なのか。その定義や線引きは,社会のなかでつくられたものです。だからこそ,そこからこぼれ落ちる経験の声に耳を傾け,「もうひとつの物語」として語り直すことが必要だと私は考えています。私の哲学的実践は,そうした声に意味を見出し,言葉にし,関係のなかに置き直していく試みでもあります。
現象学と「身体」から見る世界
メルロ=ポンティの思想を手がかりに
私の研究では,20世紀フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティの現象学を大切な手がかりとしています。彼は,私たちが世界をただ「見る主体」として捉えるのではなく,「身体を通して世界に開かれている存在」として捉え直そうとしました。たとえば,見ることや話すこと,歩くことといった日常の身体的営みは,単なる運動や情報処理ではなく,すでに世界との深い関係性のなかで成り立っているのだと彼は考えました。
とりわけ彼のいう「可逆性(reversibility)」という概念――たとえば,片方の手がもう一方の手に触れるとき,「触れる」と「触れられる」という感覚が同時に入り混じるように――人と人との関係や身体と世界のつながりが一方向ではなく,相互に作用し合うものであるという視点は,私自身の経験とも深く響き合います。
私は構音障害という身体的・音声的な特徴があり,話すテンポや声の出し方がいわゆる「一般的な話し方」とは異なります。この経験から,身体を通して世界に関わることの複雑さ,そして社会のなかで「正常」「標準」「普通」とされる身体のイメージが,どのように私たちの自己理解や人間関係に影響を与えているかを,現象学的な視点で問い直すことができると感じています。
また,哲学対話の実践でも,メルロ=ポンティの身体論は重要な示唆を与えてくれます。対話とは,単に言葉のやりとりではなく,声のトーン,間の取り方,表情,身振りなど,身体を通じた相互作用でもあります。沈黙やうなずき,視線の動きさえも,そこに意味が宿る。対話の場において他者と向き合うということは,まさに身体ごと世界とつながり直す経験であり,その過程で自分自身の感じ方や考え方が変容していくことがあります。
つまり,哲学対話は,身体をもった存在としての私たちが,他者との関係のなかで「感じ」「考え」「応答する」ことを通して,より深く自分と世界を捉え直す場でもあります。私は,メルロ=ポンティの現象学を手がかりにしながら,身体という入口から,人が学び変わっていくプロセスに光を当てていきたいと考えています。
哲学対話という実践
「こたえのない問い」をともに探究する場
私がもうひとつ大切にしているのが,「哲学対話」という実践です。これは,正解を出すことを目的とせず,人と人が共に問いを立て,共に考え,探究していく時間です。学校の授業のように「正しいこたえ」が用意されているわけではなく,むしろ,「こたえのない問い」や「簡単にはこたえが出ない問い」にこそ向き合い,考え続ける営みそのものが大切にされます。
たとえば,「幸せってなに?」「自分らしさとは?」「誰かと分かりあうってどういうこと?」といった問いをテーマに,子どもから高齢者まで,さまざまな背景を持つ人たちが,自分の言葉で考え,語り合える場をつくっています。この場では,意見をぶつけ合って勝ち負けを決めるのではなく,お互いの考えを聞き合いながら,自分自身の思考も深めていきます。そして,他者との違いに気づきながらも,その違いのなかにこそ新たな発見や視点があることを,対話を通して体験していきます。
私自身,構音障害があるため,話すテンポや発音が「一般的」とは異なります。けれども,だからこそ気づけることがあります。それは,「話すこと」だけが対話のすべてではない,ということです。言葉のスピードや明瞭さではなく,その人がどのように問いと向き合い,どのように他者と関わろうとしているか――その姿勢こそが,対話の根幹だと感じています。
話し方や表現の違いを否定せず,むしろその違いを豊かさとして受けとめること。ゆっくり待つこと。沈黙を恐れず,言葉以外の表現にも目を向けること。こうした対話のあり方を丁寧に積み重ねることで,誰もが安心して「問い」を語り,自分自身と他者との関係について深く探究できる場がひらかれていくと信じています。
ジェンダーを再考する
当研究室が哲学対話の場で扱うテーマのひとつに,ジェンダーやセクシュアリティに関する問いがあります。これらは単に知識として学ぶべき「社会課題」ではなく,自分自身の身体,感情,ライフスタイル,人との関係をどう捉え,どう生きるかという,極めて個人的で切実な問題でもあります。「男らしさ」「女らしさ」とは何か,「普通の恋愛」や「普通の家族」とは誰がどのように決めているのか――こうした問いを立てることは,「普通」とされてきた価値観や生き方を問い直す営みにつながります。
私たちは多くの場合,「当たり前」や「普通」とされる枠組みに無自覚に生きています。それは安心感を与えてくれる一方で,そこから少しでも外れると,自分自身を否定されたり,他者を排除してしまったりする危うさも孕んでいます。だからこそ,「普通とは何か?」という問いそのものを他者と共有し,語り合うことが重要になります。ジェンダーやセクシュアリティの問題は,誰か特定の人だけの問題ではなく,誰もが自分事として向き合うべき問いなのです。
こうした哲学対話の場では,学生や教員,市民,当事者,支援者など,異なる立場の人々が集まり,「性別ってなに?」「好きってどういうこと?」「自分らしく生きるって?」といった問いをめぐって語り合います。一人で考えてもこたえの出ない問いだからこそ,他者の声を聞き,自分の考えを言葉にすることで,見えてくるものがあります。それは,「違い」を排除するのではなく,共に考え続けることの大切さに気づくプロセスでもあります。
ジェンダーやセクシュアリティをめぐる哲学対話は,「普通」を問い直し,自分と他者との関係を改めて考える場として,日常の学びを豊かにする力を持っています。
私が企画運営している(してきた)哲学カフェの実践:
- 障害のあるお子さんを育てている(育ててきた)お母さんたちを対象とした哲学カフェ(神戸大学附属特別支援学校,大阪大学歯学部附属病院障害者歯科治療部)
- 異世代間の市民が集まる哲学カフェ(カフェフィロとの共催)
- 大学生や大学院生が企画運営する哲学カフェ
- 女性支援をしている団体のボランティアスタッフを対象にした哲学カフェ
- 障害やジェンダー,マイノリティをテーマにした哲学カフェ
- 大学・大学院の授業 (対話実践を中心にしている演習)
いずれも「哲学対話」を通して,普段見過ごされがちな「当たり前」や経験,言葉の意味を問い直し,対話的に深める実践として特色があります。
多様性とマイノリティの経験から考える
「普通」からこぼれ落ちる声に光を当てる
私の研究や実践では,ジェンダー,障害,性的指向,民族的背景など,社会のなかで「マイノリティ」とされてきた人々の経験に注目しています。こうした立場にある人たちは,社会に深く根づいた「これが普通」「こうあるべきだ」という見えない規範から外れていると見なされることが多く,そのことで孤立や生きづらさを感じやすくなります。けれども,そもそもその「普通」とは誰が決めたものなのでしょうか? そして,なぜそれが唯一の正解のように扱われているのでしょうか?
私は,マイノリティとされる人々の声のなかに,私たちの社会のあり方を問い直すための大切なヒントがあると考えています。「違う」という経験は,単に個人的な困難を意味するのではなく,社会の構造や価値観を映し出す鏡にもなります。その声を丁寧に聴き,表現し直す営みを通して,私たちは当たり前だと思っていた世界の輪郭を揺るがし,「別の見方」を手に入れることができます。
私のフィールドでは,哲学対話という手法を用いて,そうした声に耳を傾ける場をつくっています。そこでは,正解を出すことや意見を戦わせることが目的ではなく,自分の感じている違和感や問いを言葉にし,他者と分かち合うことが大切にされます。特別支援学校の在校生・卒業生の保護者を対象とした対話の場や,公民館,福祉施設などでの市民対話の取り組みもその一環です。また,ジェンダーやセクシュアリティの問題を取り上げる対話では,「普通とはなにか」「自分らしく生きるとはどういうことか」といった根源的な問いが浮かび上がります。
「普通」からこぼれ落ちた声を見えないものとして扱うのではなく,むしろそこに社会の新しい可能性があると信じて,私は哲学の言葉でそれを受け止め,可視化していきたいと考えています。
社会教育・生涯学習とのつながり
学びは「学校の外」にも広がっている
このような哲学対話の場は,学校だけでなく,地域や福祉の現場などの「学びの場」でも行っています。公民館や公的施設での市民対話,福祉施設などでのワークショップ,大学外の学習会などでは,年齢や立場の異なる人たちが,ひとつの問いをめぐって出会い直すことができます。また,特別支援学校においては,在校生や卒業生の保護者を対象にした哲学対話の取り組みも行っており,共に考え語り合う時間を通して,日々の気づきや関係の変化が生まれる場となっています。
これは,単に「教える/教わる」という二項対立した関係ではなく,お互いの経験や感じ方を大切にしながら学び合う関係を育てるものです。そうした学びは,人と人とのつながりを深め,自分の生き方を見つめ直す力にもなります。
哲学を「生きる」ために
声なき声に耳を傾け,共に世界を捉え直す
私の研究と実践には,「多様性」「マイノリティ」「身体」「対話」「エンパワメント」といったキーワードが通底しています。哲学は,特別な知識がある人だけのものではありません。むしろ,「問いを抱えている人すべて」が出発点に立てるものです。
私自身の身体と声の経験を通して,社会のなかで見過ごされがちな声をすくい上げ,共に問い直す営みをこれからも続けていきたいと思っています。
誰もが尊厳を持って生きられる社会に向けて,哲学の力をひらいていく――それが,私の願いです。一緒に探究しませんか!
書籍
Books
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フェミニスト現象学入門
経験から「普通」を問い直す
妊娠、月経、身振り、ハラスメント、トランスジェンダー、カミングアウト、女らしさ/男らしさ、人種差別、障害、老い……
この世界に生きるということはどのような経験なのか?
ボーヴォワール、メルロ=ポンティといった哲学者の議論を拡張しつつ、当事者たちの経験の記述から様々なテーマに接近し、「当たり前」と「規範」の問い直しを試みる。
フェミニスト現象学に関係する論文や海外文献を紹介した文献案内も巻末に収めた、充実の入門書。
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フェミニスト現象学
経験が響きあう場所へ
見過ごされてきた経験を言葉にする沈黙を求める社会のなかで、異なる声の共鳴を待つために乳児の育児、更年期、トランスジェンダー、アセクシュアル、男らしさ、DV、老い、占い、ファッション、ペットロス……
さまざまな当事者の経験を記述・考察し、性をめぐる「当たり前」と「規範」を問い直すフェミニスト現象学。現象学自体を共鳴の場としつつ、多様なテーマと理論、自己や他者の語りを扱った論考からその可能性を指し示す。
現象学のみならず社会学、倫理学、クィア批評など他分野の執筆者による方法論的な論考と、それに対する編者からの応答も収録。
アクセス
Access
神戸大学大学院人間環境学研究科
〒657-8501 兵庫県神戸市灘区鶴甲3-11神戸市バス36系統「鶴甲団地」行きに乗車。
「神大人間発達環境学研究科前」で下車。 バス停より徒歩すぐ。