省察的実践と教育学、そしてケアリング
神戸大学附属特別支援学校2021年度研究集録
1.世界の片隅の小さな教育実践
2021年度は、4年ぶりに研究協議会が開催され、本校の教育活動に関心をお持ちの方たちに集まっていただくことができた。研究協議会の目玉は、小中高それぞれ1本ずつ提示される学部別報告・提案である。この報告・提案に向けて、各学部で長い時間をかけて準備が行われる。学部ごとの研究会は春先から毎週行われ、子どもたちの様子について話し合う中で授業実践の方針を検討し、学部全体で特に焦点を当てる取り組みをきめていく。その取り組みの過程をていねいに記述しふりかえり、授業実践の質を高めるとともに、報告・提案の内容を精査していく。学部ごとの研究会の他にも、学期末に行われる全校での研究会で、精査された報告・提案を全校の教員で共有し、検討を深める。報告・提案の内容や質はもちろんだが、このようなていねいなコミュニケーションが繰り返される学校現場の姿に、私は誇りを感じる。
このような、子どもに寄り添ったていねい教育実践は、世界の片隅のあちらこちらに散らばっているのだろうと思う。こうした実践は、学校教育のメインストリームからは相対的な距離を置くメリットとデメリットをもつ。メリットは教育実践の自由度が相対的に高いということ、デメリットは世界の片隅の一事例として埋もれがちになることである。
教育の自由が比較的確保できているからこそ達成できることもある。その成果をまとめて公開することには、教育政策の発展の観点からも、また教育学の発展の観点からも大切だと思う。私自身、教育学を志す研究者として、世界の片隅の小さな教育実践と教育学とのつながりについて、思うところを書き記してみたい。
2.参加型研究の問題意識
もう30年も前になるが、私が大学院で社会教育研究を志していた頃、研究と実践との距離や関係は一大問題だった。社会教育研究者としての私が、教育実践とどのような距離を取るべきなのかということは、私自身の生き方と密接に関わる問題だった。修士論文は「社会教育実践分析論」というタイトルで、学習者−実践者−研究者という三層構造を批判的に検討する内容だった。参照した文献の中に、participatory researchに関わる先行研究群があった。今であれば「参加型研究」と訳すところだろうが、当時私は「参与研究」と訳した。
参加型研究は、主に発展途上国の住民の生活やその改善をめぐって行われる研究フィールドで行われていた。従来型の研究は、現地住民を収奪する結果招く構造をもっているという認識から生まれた研究のあり方である。現地住民が生きているコミュニティにとっての価値や合理性は、研究者が外部から持ち込む価値や合理性とは異なる場合が多い。研究は、外部の価値や合理性に基づいて、異質な価値や合理性をもつコミュニティに介入し、評価を含む判断を下すという構造をもつ。そのような構造を乗り越えるために、参加型研究は、現地住民が生きているコミュニティの価値や合理性の観点から研究活動を組織しようとする。となると、研究者が現地住民と親密になり可能な限りコミュニティの価値や合理性に寄り添おうとするか、あるいは現地住民が研究の過程に参加するか、どちらかをめざすことになる。
参加型研究は、先進国と発展途上国との力関係の反省、あるいは歴史的に捉えれば植民地主義の反省から生まれた研究のあり方であるが、この発想は社会教育研究における研究と実践との関係にも応用できると私は考えた。研究一般が持つシステム合理性が、教育実践が足場を置く生活世界の合理性を支配する構造に対して、社会教育研究は批判的な視点をもつ必要がある、というのが、私の修士論文の主張のひとつだった。
私は修士論文を書いた後、現在に至るまで、障害のある人たちの社会教育実践現場に出入りしたり、私自身がそのような実践を主導したりしてきた。その過程で常に意識してきたのは、修士論文の主題、つまり教育実践のコミュニティがもつ価値や合理性に私自身がいかに寄り添うことができるかということだった。コミュニティの内側から教育実践を捉え描くことができないか、というテーマは、私の研究活動の柱のひとつであり続けている。
3.省察的実践と普遍的で再現性のある知
そのテーマは同時に、教育実践の現場の人たちが、自分たちの視点から研究を行い、教育実践を描くことを求めることになる。現場の人たちが自律的に研究過程に参画するのであれば、外部の研究者たる私は、現場の人たちと協働するというビジョンを描くことができる。コミュニティの内部からの視点と、外部からの視点が交差することによって、より説得力のある研究が可能になるという展望が広がる。
教育実践の現場の人たちというのは、学習者でありまた教育者である。学習者が研究に参加する実践も実際に試みられてきた。例えば、知的障害者が参加する研究を構想するinclusive researchという取り組みがイギリスを中心に試行されている。
当座、本校の教育実践と関わって課題となるのは、研究過程に参画する教育者についてである。本校では既に研究という語を日常的に用い、教育実践に研究を組み込んできている。本校で用いられる研究と、参加型研究の文脈で用いられる研究、あるいは教育学の文脈で用いられる研究とは、どのような関係にあるのか、ということを整理する必要がある。
問いがあり、それを探究するところに研究が生まれる。探究するためには探究のための方法があり、また探究の成果が蓄積されることで、研究が組織化される。本校における研究の問いは、子どものありよう、子どもの発達、教育的働きかけとその結果をめぐる問いが中心である。「この子はなぜこのような行動をとるのだろうか」「この子が発達するとはどういうことなのだろうか」「この子にはどのような働きかけが必要なのだろうか」「この子にこのような働きかけをしたらどのような結果が表われるのだろうか」「この子たちが生き生きとしていられる集団はいかに形成されるのか」といった具体的な問いがあり、その問いに答えるために教員間で討議や対話を進めていく。また、実際に子どもに働きかけてその結果を観察する。討議、対話、働きかけ、観察が方法となり、研究が蓄積されていく。つまり、真摯に子どもと向き合い、悩みながら教育実践に取り組む教育者は、そのまま研究者でもあるということができるのだと思う。本校で実践と研究が不可分な状態は、行為の中で知の生成を行う省察的実践といってよい。
他方、研究には、普遍的で再現性のある知、すなわち他者が活用することができる知を求める営みという側面もある。本校で取り組まれてきた研究は、本校の「文化」として蓄積され定着しているが、蓄積されてきた知を他者にとって応用可能な形で提示するという点では、それほど重点が置かれてこなかった。学校が直接責任を持つのは目の前にいる子どもたちなのだから、それは当然のことである。
参加型研究は、普遍的で再現性のある知をめざそうとするとき、ローカルな知を無視し蔑む罪を犯してきた植民地主義的な研究に対する反省を背景としている。とすれば、本校における参加型研究は、まずは本校の教員による省察的実践と、そこから生まれている知を普遍的で再現のある知に翻訳しようとする研究者との協働をめざすということになるのだと思う。
4.省察的実践に根ざした教育学へ
さて、国立大学の附属学校の存在意義が問われる中、神戸大学の附属学校は研究機関としての位置づけを強調する方向に進んでいる。研究科の教員と附属学校の教員との共同プロジェクトも増えつつあり、附属学校における研究とは何かということが、いっそう突きつけられる状況に至っている。
私は、教育実践現場の省察的実践の延長に、普遍的で再現性のある知をめざす研究が活性化されることが、教育学にとって大切だと考えている。教育実践現場あっての教育学だからである。“プロセスの効率性や効果性についての技術的で管理的な問い”(ガート・ビースタ『よい教育とはなにか』藤井啓之、玉木博章訳、現代書館、2016年、p.12)が教育学を支配するようでは、教育学が教育実践をスポイルする結果を招く。
例えば「子どもが四則計算をできるようになること」を目的とした教育実践があったとき、現在の教育学の主流はその目的に達する効率的で効果的な方法の有効性を実証しようとする。効果が実証された方法が、普遍的で再現性のある知となる見込みを持つことができるからである。すなわち、そのような研究は成果の見通しが立ちやすく、研究費を獲得しやすい。しかし、同じ「子どもが四則計算をできるようになること」を目的とした教育実践であっても、省察的実践は、子どもの個別の状況についての省察、「四則計算をできるようになること」の意味の省察など、目的そのものについての省察に立ち返る自由を伴う。また、所期の目的が達成されても、それは一連の教育実践のほんの一部を切り取った結果でしかない。技術的で管理的な教育学は、普遍的で再現性のある知を抽出するために条件を統制する必要があり、本来教育実践現場に現れる豊かな意味を切り落とすことで成立するのである。
他方、省察的実践は、表面的な問いに内在する根源的な問いに開かれている。教育現場における教育者の省察的実践について、ドナルド・ショーンは次のように述べている。
“省察的な教師は、ドリルや練習を管理する能力を拡大するような技術以上のことをおこなう、一種の教育テクノロジーを必要とする。そうした教師がもっとも関心をもつのは、生徒が自分自身の直観的な理解について気づくことを援助する教育テクノロジーであり、またあることがらのとらえ方をめぐってさまざまなとらえ方が交錯して混乱に陥り、そしてその中から新しい理解と行為の方向、探索が進むのを支援するようなテクノロジーである。……評価については、生徒の学習の進捗を中央統制的に管理し客観化した形で計る尺度を探るといったやり方から、それぞれの教師が学習と教育と成果を、独自に質的に判断し、その展開を自分の言葉で叙述によって説明する方向へと転換が図られる。”(ドナルド・A・ショーン『省察的実践とは何か』柳沢昌一、三輪建二訳、鳳書房、2007年、pp.350-351)
本校がめざすべきなのは、省察的実践に根ざした教育学なのだと思う。ここでいう教育学というのは、教育に関わるあらゆる普遍的で再現性のある知の集積をいう。法学にも経済学にも物理学にも建築学にも医学にも、教育学が内在する。そういう広い意味での教育学である。そして、省察的実践に根ざした教育学をめざすためにこそ、外部の研究者との協働が不可欠なのだ。よい形での協働のあり方を探っていかなければならないが、それ以上に省察的実践に根ざした教育学とは何かということが追究される必要があり、またそれが理解され評価されるべきことを主張していかなければならない。
5.そしてケアリング
本年度から、本校の研究テーマにケアリングという概念が加わった。教育実践現場の省察的実践には、まさにケアリングがあふれている。再びショーンを引用しよう。
ケアリングをキーワードとする教育実践は、教育者と学習者との関係性の自由に根ざしていなければならない。それによって、学習者が自律的に伸び花開こうとしていく力を支える教育実践が可能になる。その自由が奪われたなら、教育者は与えられた枠に学習者をはめ込むだけのエージェントに堕してしまうのだ。
省察的実践としての教育実践は、世界の片隅の小さな実践である必然性がある。吹いたら消えてしまうようなケアリングの息づかいに根ざした実践だからである。その息づかいから生まれてくるものを言葉にする試みの一環に、本研究集録がある。普遍性や応用可能性や再現性などということはいったん忘れて、まずは思いも寄らぬ輝きを放つ教育実践の痕跡が現われた言葉を探し、楽しみたい。