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Comments No.14 津田英二研究室

省察的実践者としての教育者は何を記述できるか

神戸大学附属特別支援学校2020年度研究集録

1.哲学的問いに開かれていく記述

 教育という営みを記述するのは難しい。教育は価値の実現をめざす営みであるが、その営みによって価値が実現したかどうか捉えることは容易ならざるものだからである。典型的には、テストの点数が高くなるという価値をめざし、実際に教育によってそれが実現するということがあれば、容易に教育について語ったつもりになることができよう。しかし、そのような場面があったとしてもそれは教育現場で起こる現象の表層でしかないし、子どもそれぞれの実状を無視し、テストの点数が高くなることを疑いない価値として受け入れ、そのことの意味を省察する機会さえないような教育現場は、教育現場の名に値するかどうかも怪しい。

 昨年度の研究集録の冒頭では、教員が省察的実践者であることについて書いた。今回は、その省察的実践者が教育実践について記述することの意味について思念をめぐらせてみようと思う。このような青臭い記述は研究集録の巻頭にふさわしくないかもしれないが、本校の校長を2年してみて考えたことの一端をエッセイ風に記しておくことに多少の意味はあると思うので、ご寛恕いただきたい。

 さて、本研究集録では、本校の教員たちが丹精込めて取り組んだ教育実践についての記述が並んでいる。各記述の構成は概ね、どのような子どもたちがいて、その子どもたちに対する教育的働きかけはいかにあるべきかを問い、その働きかけのねらいを定めて教育実践が遂行していき、その結果何かしらの変化が起こる、といった一連の過程の記述になっている。

 一見すると、教育界を席巻しているPDCAサイクルの枠に収まってしまう過程の記述にもみえる。しかし、本研究集録で書かれている実践の記述は、PDCAのような計画的思考に従属する記述とは似て非なるものだと思う。なぜかと言えば、省察的実践者は一連の過程の各所においてその前提を問うからである。遂行過程の中であっても、子どもの捉え方やそれに応じた働きかけの是非といった前提自体が問い返されるから、計画されたことを機械的に実行しその結果を最初の尺度で評価するような態度とはまるで異なる。

 省察的実践者が教育実践の記述を突き詰めると、哲学的問いに開かれていくはずだ。この子どもの行為は何に由来しているのか、その行為をどう評価するべきなのか、私は世間の常識に安易に依拠して子どもを評価しているのではないか、私はこの子どもにどうなってほしいと願っているのか、そのように願う私は何者なのか、等々。普段は割り切ってしまっているようなことでも、実践をふりかえり対話し記述することを通して、素通りできない問いになることも多いのではないか。もちろん教育実践による成果を上げなければならないという強迫のない教育現場はないだろうから、記述が表層的になってしまうこともあるに違いない。しかし、本研究集録には、実践の過程でいちいち立ち止まって問いを追究した痕跡がいくつもみられるはずである。私は、そういった単線的には進まない記述の追求が省察的実践としての価値を生み、質の高い実践研究につながるのだと考えている。そのような記述の中にこそ、教育実践の本質が現れてくると思うからである。

 

2.人間を評価するシステムの中で

 学校は、人間を評価することから逃れがたい宿命を負っている。多くの教育現場で教員たちは、その宿命に押しつぶされないようにハスに構え、これがすべてではないからと自分にも子どもにも言い聞かせながら子どもを評価してきたのだろう。本校では、教員たちはたいへんな労力をかけながら一人一人に向き合い、推敲に推敲を重ねた記述によって評価を行なっている。人が人を評価するのは容易なことではないということを形にしたような評価を行なう。50人ばかりの子どもたちに対する評価を行なわなければならない時期、30人ほどの教員の顔にそれぞれ疲労の色が表われる。

 評価に対して真摯に向き合った結果、そのような年中行事が繰り広げられるわけだが、このことと省察的実践とは深くつながっている。先述のような哲学的問いが、通知表に刻む文字を通しても浮かび上がる。それにしても、特別支援学校でなければこのような取り組みはできない。30人なり40人の子どもを1名の教員が評価するようなシステムでは、迷いながら記述式で子どもを評価するなどということはできっこない。したがって、このような評価のあり方は特別支援学校の特殊性を象徴しているということもできるが、しかし、通常学校の教育のほうに人が人を評価することの困難に向き合うことができない異常さがあるということもできる。本校における子どもの評価は、学校教育のありようの根源にスポットを当てているということもできるのではないかと思う。

 当然のことながら、教員が子どもの通知表に書き込む記述と、本研究集録の実践記録とは連続しているはずである。通知表の記述、そして実践記録の記述を通して、子どもたちのありようや授業の取り組みなどについての問いを深め、迷い、仲間の教員と対話する。それ自体が教育実践の重要な一部であり、実践の質に関わる営みでもある。

 私は子どもたちの評価に一切関与していないので、本校の教員の代弁をすることはできない。しかし、たまたま私は、今年度3回実施された「テーマ別研究会」で、音楽の授業について本校教員が少人数で語り合う場に参加させてもらった。そこで教員たちが何について考え、悩み、対話しようとしているかということを、そこはかとなく感じ取った。そのわずかな経験を手がかりにして、評価を宿命づけられた学校教育現場に立つ省察的実践者の省察の意味を考えてみたい。

 

3.音楽の授業は何のためにあるのか

 何よりも私が感じたのは、教員たちの関心の中心に、音楽の授業を何のために行なうのか、という問いに対する信念や迷いがあるということであった。この問いはすぐに私自身の問いにもなった。授業実践者の信念も語られ、私自身それに共感したり反発したりもして、心がざわついた。

 音楽の授業を何のために行なうのかという問いは、音楽とは私自身にとって何だろうという問いにダイレクトにつながっている。この問いに向き合うことなしには、子どもたちにとって音楽とは何だろうと問う準備が整わない。つまり、学習指導要領に書かれていることなどといった外的な規範を手がかりにしても、音楽の授業を語ることにはならないと思ったのである。

 外的な規範の中には、一般に流通しているよい音楽、美しい音楽、上手な演奏といった価値観も含まれる。よいと思う、美しいと思う、上手だと思う感覚に対して省察を加えることなしには、音楽の授業について語ることはできないと感じた。例えば、音楽の授業の記録画像をみながら、担当教員は、子どもの内的な音の受け取りやイメージの洞察を通して着眼点を語る。私自身の音楽についての固定観念をそうとう柔らかくしておかないと、そうした語りの意味は伝わってこないと思った。しかし振り返ってみると、内的なイメージの生成と、その生成されたイメージの他者との共有は、音楽の根幹に位置する。つまり、音楽の授業について省察することを通して、私自身、音楽を通した他者とのイメージの共有ができる身体的構えがあるか、ということを問われたのだということもできる。

 正直に言えば、私自身、音楽には腕にある程度の覚えがある。サックスやらクラリネットやらと戯れて楽しんできた人生がある。それだけに、音楽について深く考えてきたし、音楽について語れば何時間でも生き生きと語る余分な自信もある。つまり自分なりの内的な音楽観があり、その音楽観についての言語化もある程度できていると思うのだが、それだからこそ音楽観の剛構造が、他者の音楽を聴き取り読み取る力や身体的な構えを奪っているかもしれない、とも感じた。何年も昔、パリの街角で、ロマ族のストリートミュージシャンに合わせてオカリナを吹いたところ、まったく内的イメージを共有できず困った感覚を思い出した。音楽は言語に比べてグローバルなコミュニケーション手段だとはいえ、私自身の観念や身体のありようによっては、まったく他者とつながることができないのだ。

 音楽の授業は何のためにあるのか、という根源的な問いに開かれていることによって、私たち自身の音楽観が問われ、それを通して子どもにとっての音やイメージの体験を洞察することができる、そのような省察の機会は省察的実践者にとって決定的に重要なのではないだろうか。そのような省察の機会は、外的な規範としての音楽を子どもに押しつけることが音楽の授業であるという観念を相対化する。

 

4.授業を通して子どもの内的な経験を追う

 音楽の授業の中で子どもたちが経験している内的なイメージと、そのイメージの他者との共有を読み取ろうとすることは容易ではないはずだ。何年もの間の毎日の教育実践の中で、朧気に読み取れたと感じた子どもの内面像が、徐々に核心に近づいたかと思ったらまた崩れ、といった繰り返しをしているのだと思う。

 そうして形成された子どもの内面像を手がかりに、子どもの行為を意味づける。教員たちからその意味づけを聞いていると、謎解きのようでおもしろい。ほとんど授業に落ち着いて参加することのない子どもが、自分の仕事かのように教員のピアノ譜の整理をする。そこにどのような彼の内的な世界が広がっているのかということが、彼の9年にわたる学校生活史の延長で語られる。

 また、固まっているのか白けているのか、ともかく席には座っているものの音楽の授業に参加しているとは思えない虚ろな表情の子どもたちに困りながらも、その子どもたち一人一人の様子の違いから彼らの内面を探ろうとする。授業で楽しむことを拒否している子どももいれば、内面では授業に参加しているものの表現につながらない子どももいる。一見同じような虚ろな表情の中にも差異を見いだしていけば、子どもへの働きかけも変わってくる。

 教員が自らの表現をしなければ、そういう子どもたちの内面は動かないし、表現を引き出すこともできない。だから、教員は子どもに働きかけようとする前に、自分自身が音楽をしっかり味わい表現することが大切なのだと主張される。かと思うと、子どもの表現を引き出そうとする教員の働きかけが、子どもの内面への侵襲となり子どもを傷つけることにもなりえるのではないか、という迷いもこっそり吐露される。

 おそらく多くの学校の音楽授業の現場でこのような葛藤が繰り広げられることは少ないのではないだろうか。子どもの内面で起こる音楽の経験に着眼するという手間のかかる過程は、なかなかできるものではない。必然的に外的な規範としての音楽を子どもに教え込むことが、音楽の授業の中心になる。音楽会では、決まった音以外の音を出してしまう子どものリコーダーのエッジをテープで塞いでしまう話とか、吹奏楽のコンクールでは、顧問の先生が一定水準に達しない子どもの出場を禁止してしまう話とか、私も子育てをしている中で何度も聞いた。そんなつまらない音楽観の元で音楽教育などしないでほしいと思ったことを思い出した。

 外的な規範としての音楽ではなく、内的な経験としての音楽に着眼し、その世界を豊かにしていこうとする試みは、必然的に省察的実践を要請する。虚ろな表情で座っている子どもの内面で経験されている音楽の世界を知るなど、容易なことではない。ああでもないこうでもないと議論して、仮説を立ててみたり、前提が掘り崩されたりしながら探っていくものに違いないし、また教員自身の観念や身体のありようが問い直される。

 

5.省察的実践と記述

 そういった葛藤の過程を背景に、本研究集録があるし、また通知表の記述がある。サラッと時系列に整理して記述して終わり、とはならない。子どもの捉え方が変化していくのだとしたら、実践のメタレベルの前提が動くわけである。実践の構造全体が変化するのだから、記述は複線化しややこしくなる。そうすると、散漫な印象を受ける文章になってしまいやすい。ダイナミズムこそがおもしろさなのに、そのダイナミズムを描くことが難しい。ここに悩みの種のひとつがある。

 例えば昨年度の研究集録(No.46)に「Kの思いは何かを探り、本人の主体性をはぐくむ生活づくり」という文章が掲載されている(pp.88-92)。Kくんに対するたくさんの問いが書かれており、その問いをめぐる実践の歴史が描かれている。「どうしてKくんは突然怒り出すんだろう?」「どうしてKくんは女子を泣かせてニヤニヤ笑うんだろう?」「学校に来たら寝てしまうKくんにどう働きかけたらいいんだろう?」「Kくんはどうして肝腎なところで力を発揮しないんだろう」……。そんな問いに悩みながら取り組んできた軌跡を読み取ることができる。そのひとつひとつの問いに挑む過程は、きっとドラマチックなものだったのだろうと思う。例えば次の記述から読者はどのような意味を見いだすだろうか。

 

“どの活動も「ねとく」という姿が見られるようになった。担任はどうしたらKが目的意識を持って活動に取り組めるのか悩んでいたが、中学部では、Kが「ねとく」と言うことが本人の主張と捉えて、受け止め、尊重するようにした。教師が布団を敷いてお膳立てをしてしまうのではなく、自分で布団を運んで、更衣室で布団を敷いて寝るようにさせることで「自分で自分の思いを叶える」ようにした。”(p.90

 

 Kくんが学校に来て寝てしまうという事態に対して、教員たちは意味転換をして、働きかけの構造を変えている。「学校では寝ない」という規範、さらには起きていなければ教育実践は成り立たないという前提を超越して、学校で寝ることを自ら選択するという状況を作り、自分の思いを能動的に実現することを経験する教育実践にしてしまっているのである。

 「そんなの教育実践ではない」という外からの評価、教員それぞれの内的な葛藤があったに相違ない。しかし、教員の価値観を大きく転換してでも、そのような取り組みにしなければならなかった必然があったわけだし、そのように開き直ってしまえば、そこで得られるものに集中することもできる。また現在、起きて活動しているKくんの成長のその後を見て、改めてあのときの教員の「開き直り」がKくんにもたらしたものを感じ取ることもできている。

 この幾分淡泊な短い記述の中にも、たくさんのドラマを読み取ることができるし、深い考察に向かう種が散りばめられていると思う。省察的実践のダイナミズムを記述しようとするときのヒントは、このあたりにあるのではないだろうか。つまり、前提を大きく変えたポイントに着眼して、その変更に至った必然的な過程や、その変更によって生み出された葛藤や結果を描いていくという方向である。

 子どもたちの内面を洞察しようとして、教員自身が揺り動かされ、葛藤し対話し、教育実践として形にしていくという過程のダイナミズムは、教育現場が豊かでなければ生じないし、描けない。効率性を重視する圧力は、このすべての過程をノイズにしてしまう。

 現在、研究集録のあり方についての検討を進めているし、また附属学校を研究機関のひとつとして位置づける模索も行なわれているところであるが、豊かな実践現場からしか発信することができないメッセージがあるに違いない。それを結晶化させたような記述を磨き、積み重ねていくことが、本校の未来につながっていくような気がしている。