戻る

Comments No.13 津田英二研究室

省察的実践者として、今、考えること

神戸大学附属特別支援学校2019年度研究集録


この研究収録は、新型コロナウィルス感染の広がりに伴う休講措置、そして在宅勤務に切り替わった中で執筆・編集作業が行われている。巻頭に書くべきことも、この騒動以前と渦中と騒動以後とでは、大きく異なるだろう。今は渦中。渦中であることから逃げずに、書くべきことを綴っておこうと思う。



言わずもがなのことだが、教育は、個々人の内発的な成長・発達の力を助けるものであると同時に、共同体の一員として個人を形成する営みでもある。私は、神戸大学附属特別支援学校の校長として1年間本校の教育実践に親しく接してくる中で、本校がめざしているのは、前者を基点に後者につなげていこうとする実践だと捉えるようになった。つまり、個人の内発的な発達の力を育むことによって、自由な主体的な市民としての個人が共同体を形成するというビジョンをもった教育実践だということである。その意味で、本校の教育実践は民主教育論を正統に継承した実践と言えるかもしれない。

私自身学生時代に、教育学の授業で退職間際の堀尾輝久の謦咳に接し、社会教育論においても小川利夫の著書などから大きな影響を受けて、社会教育学研究者としての現在に至っている。その意味で、本校の教育実践の方向性に親近感を感じている。しかし他方、時代の移り変わりの中で、堀尾、小川らの時代と、私たちの生きる現代とでは、思考を組み立てる前提が変わってきているのではないか、とも感じてきた。

議論を避けるべきでないと思ってきた大きな変化をいくつか挙げておく。どれも後期資本主義の問題として扱われてきたことであり、「今さら」というようなことばかりである。

まず、国家と国民という関係で語られていた図式が大きく変わった。一方で、かつては国家の中の課題や国家間の課題が議論を支えていたが、今では地球規模の類的課題の比重が高くなった。他方、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を広く超えるグローバリゼーションの動きの中で、国民国家の枠が揺らぎ、国家の役割も変わってきた。

そのことと関連して、かつて人びとは、国家資本主義に対峙する「国民」として観念的に捉えられていたが、「国民」間の差異と権力構造にこそ焦点を当てる必要を感じる時代になった。また、「国民」という語の使用によって意図せず排除してしまっている人びとに対する感受性も高くなってきた。すなわち、人間の多様性とそれによる葛藤や対立という前提が、教育について考える際にも重くなった。

また、市場社会market society化は、生活構造や人間の欲求のあり方、仕事の意味まで大きく変えてしまった。商品に取り囲まれる私たちの生活環境は、商品に自発的に服従する私たちの精神構造を作り出し、国家に対峙する国民の成立根拠であった「主体」の意味を奪ってしまった。同時に、かつては主体であった人間が利用できた情報が、今では人間を徹底的に支配する自律性を得てしまった。情報は人間を操作するだけでなく、人間自体も情報の一部に組み込んでしまった。商品や情報に内面から操作・支配されているという状況をめぐって、教育観が問われてきた。

もうひとつ、少子高齢社会、人口減少社会という現実、人口知能の開発に伴う人間と機械との関係の構造変容も、現代社会が直面している本質な課題といってよい。どちらの現実も、社会の発達、発展のイメージを大きく覆し、人間存在のありよう自体にも影響を与えている。人口知能の発達が多くの仕事を奪い、人々の間の格差がさらに広がるだろうと言われている中、労働の質と量、労働の意味づけも変わってくるという見通しも語られる。今は「福祉から雇用」へというスローガンのもと、障害者雇用も順調にいっているように見えるが、そもそも雇用全体の不安定化は歯止めが効かない。雇用も頭打ちになったとき、あるいは大規模失業が常態化したとき、よい雇用こそ人生の目標とでもいうかのように育てられた子どもたちは、何を拠り所によい生をめざすことができるのか。

大きく変化する世界の中に生きる子どもたちの将来をどう描くべきか、そのために今行わなければならない教育はいかなるものなのか。そのことを考え議論する責任が、子どもの教育に携わる私たちにはあるように思う。


さて、こうした後期資本主義社会、あるいはポスト近代の特徴として描ける事柄も、新型コロナウィルスの騒動を通して見え方が変わってきたように感じている。時代が早回しで進み、未来が身近に感じられるようになる感覚である。

現在渦中の事態でいうと、コロナ騒動を通したインターネットの依存の高まりが、社会の変化を加速させている。WEB会議、オンライン授業、オンライン飲み会の経験は、案外WEBを介してできることが多いことに気付きを与え、私たちは身体のもつ制約から解放された感覚をもたせた。しかし同時に、身体が直接現れないWEBを介した人間関係の危うさ、物足りなさにも気付かされた。社会に深く入り込んだWEBは、合理的な活用が加速されるだろう。多くの職場で仕事を変化させ、学校では授業のあり方に影響を与え、私たちが大切にしてきたコミュニティも変質を余儀なくされるかもしれない。

WEB授業の導入が検討される中で、WEBと本校の授業実践との愛称の悪さを思い知った。デジタル信号を介したコミュニケーションは、全面的に言語に依存していると言えるが、知的障害児との関わりの多くは非言語的コミュニケーションに大きく依存している。本研究収録の小学部の報告にあるような、子どもの不明瞭なサインの意味を教師が解読していく実践報告は、身体が現れる中で行われる教育実践の意義を強く感じさせてくれる。早回しで進むインターネット社会は、こうした実践の意義を低減させないか、危惧されるところである。

また、この騒動がもたらしている経済的な困難は、格差をいっそう広げるだろうと言われている。これまでも世界的不況を通して富の集中が繰り返されてきたが、今回の件によってさらに雇用の不安定化が進む一方で、巨大資本の支配が強化されるかもしれない。格差の広がりの中で、人びとの生活をどのように守り、社会の正義をどのように守るのか。

感染拡大を抑制するために発動された強力な国家権力は、この先どのような影響を社会に与えていくのだろうか。グローバリゼーションへの反動として多くの国で現れていた国家主義が、具体的な力を得ていくのだろうか。あるいは国民国家の衰退という大きな流れを食い止めることはできないのか。あるいは別様の国家の形が立ち現れてくるのか。非常事態宣言発令を通して、国家が命を最優先とする再分配に舵を切るか、あるいは市場経済の維持に固執するのかという究極の選択に迫られ続けた。コロナの災禍の大きさは、再分配の選択を余儀なくしているようにみえる。命を守るための再分配は、この緊急事態限定の一過性の政策であるのか、あるいはこのできごとの記憶が制度の中に埋め込まれていくことになるのか。

資本主義社会が異なる段階に入っていく予感を感じる中、特別支援学校の教育実践は、民主教育論をどう受け継いでいくことができるのだろうか。断片的ではあるが随想しておこうと思う。



最も大きな枠組みとして、民主主義社会を発展させるという価値を守り通すかどうかということが問われてきている。新型コロナウィルスをめぐる緊急事態宣言に際して、私たちは少なからず、さらなる民主主義の後退を目の当たりにした。良質の民主主義は、時間を含めたコストをかけなければ実現しない。しかし、緊急事態は時間の節約を要求する。そのため、少数のリーダーに強大な権力を集中させ、その判断に人びとの命運が握られることになる。私たちは、リーダーの判断の的確さを批評し、ベターな判断を下すと目されたリーダーに安心感をもつことになる。

考えてみれば、私たちの地球は緊急事態に取り囲まれている。危機は新型コロナウィルスばかりではない。そうした危機に直面して、それに粘り強くコストをかけながら対決していく民主主義を手放してしまうことは、それほど荒唐無稽な未来像とは言えない。私たちは、市場社会によって主体性を奪われ、情報によって操作され、今でさえ不十分な民主主義を手放していること自体に気付かないまま、強く善良そうなリーダーに身を委ねることになってしまいかねない現代を生きているのである。

それでも私たちは、不十分で未熟な民主主義を育てていくという理念のもとで教育実践を続けていく決意を持ち続けることができるだろうか。

近代市民社会は当初、知的障害者を排除することで民主主義の理念を形成した。市民社会思想は、理性に世界を支配する役割を与え、感性に奴隷の地位を与えた。理性の力が十分でない人たちを市民と認めず、それを理由にさまざまな人たちを市民社会から排除した。後期近代社会において、排除されてきた人たちの実質的な平等が徐々に実現してきた。世界では知的障害者のさまざまな領域への参加が進んでおり、理性優位は各所で揺り動かされている。神戸大学で2019年度から実施している知的障害者に大学教育を開くプロジェクト(附属特別支援学校も連携機関のひとつ)も、この世界の潮流の中にある。社会の多くの機能が知的障害者を受け入れるとき、これまでと同じやり方というわけにはいかない。受け入れる側が、さまざまな調整をして自ら変化していくというコストが求められるのである。知的障害者を排除しない民主主義はいかなるものかという問いは、民主主義の発展の試金石とも言える。

つまりこういうことである。一方の極では、危機に囲まれ迅速な判断が求められる社会において、民主主義にかかるコストが合理化される。他方の極には、知的障害者が包摂される民主主義とはいかなるものかというコストのかかる問いをめぐる実践がある。この両極が同時並行し相克する先に、私たちの社会の未来がある。



本校の教育実践は、冒頭に述べたように、子どもの内発的な成長・発達を、長い時間をかけて見守り、育てることに力点を置く。この方向性は、知的障害者が包摂される民主主義社会をめざす実践の一部に位置づく。すなわち本校の教育実践は、コストを喜んで支払いながら民主主義を発展させる未来像に深く関わっているのである。

この方向性は、身体を伴った存在が、言語的コミュニケーションに先立って意味をもつ社会という像を喚起する。意思を表明することが困難だったり苦手だったりする人であっても、社会全体に影響を与えることができる民主主義社会は、その人の存在そのものが雄弁に何かを語るようなできる社会である。その人がそこにいるだけで、コミュニティに影響を与えるような社会である。そうした社会では、一人ひとりの人間の存在が身体を伴って現れる小さなコミュニティが基礎となるだろう。社会は、そのようなコミュニティが重層的に重なり合ってできるものとして理解される。

その人間存在が固有性を伴って現れるためには、商品と情報によって客体化される個人が、いかに固有性を回復することができるか、という問いを通らなければならない。本校の児童生徒たちの多くは、容易に失われることがなさそうな固有性を発揮している。元々持っている彼らの力であるようにも感じられるし、「あなた自身がやりたいことは何なの?」「あなた自身は何が好きなの?」ということを不断に問う教育実践の賜物であるようにも感じられる。いずれにしても、すでに本校は大切な宝物のひとつを手に入れていると思うのである。

教育実践は、社会のあり方と密接に結びついている。どのような社会を構想するかということと、どのような教育実践を志向するかということとは、連続した問いである。この研究収録には、この問いのつながりに応答するような実践記録、執筆者=教師の息遣いが随所に見られるのではないかと思う。そうであることを願っている。特別支援学校の教育実践は、社会変革の中心にいなければならない。サラマンカ宣言が述べているような、「差別的態度とたたかう学校が、地域社会を変えていく」というビジョンが共有されなければならないと思う。

つまり、本校の教育実践の方向性にとって大切なのは、本校の在学生や卒業生たちが、社会の中で存在感を現し、影響を与えることができるような社会をめざす、ということだと思う。その先にあるのは、知的障害者が包摂される、一段階発展した民主主義社会だろう。本校が誇ることのできる教育実践の蓄積も、またこれから取り組まなければならない大きな課題も、この方向性の中にあるのではないか。