社会教育とは、学校教育の教育課程以外の組織的な教育のことを言います。社会教育法という法律があって、そこには、人々が実際生活に即した学びの機会を得るために、国や自治体は環境を醸成しなければならないと書いてあります。
こんなことが法律に書かれているのは、社会教育を含めた教育が、民主主義の維持発展に不可欠だと考えられているからです。人々は学びを通して、地域、社会、そして未来に参画していくというビジョンが、社会教育の概念に込められているのです。
しかし、社会教育は概念も実態も、社会のメインストリームから長く置き去りにされてきました。社会教育とは何かということを、あるいは言葉自体すら知っている人は、多くありません。そうなってしまった理由はいくつかあるだろうと思います。
社会教育が忘れ去られたものになってきた理由のひとつに、概念や実態のわかりにくさがあろうかと思います。一般的に教育といえば、黒板の前に立った大人(先生)が、何人もの子どもたち(児童・生徒)を前に教示する、というイメージが先行するのではないでしょうか。社会教育は、そういったわかりやすいイメージをもたない教育なのです。
社会教育は自己教育あるいは相互教育だと言われてきました。自分たちの力で学ぶこと、お互いに学び合うこと、これが社会教育のイメージなのです。どうですか?わかりにくいでしょう。
また、学校教育がフォーマル教育であるのに対して、社会教育はノンフォーマル教育、インフォーマル教育だという言われ方もします。フォーマル教育は、国家の制度に基づいて施設としての学校、教員、カリキュラム、教科書などが標準化されている教育です。ノンフォーマル教育というのは、そういった学校教育の制度から自由で、制度に縛られていないものの、学習が意図的に組織化されている教育です。インフォーマル教育というのは、人々が生活のいろいろな場面の中で気づかないうちに学んでいるという意味での教育です。ただし、インフォーマル教育が「教育」であるからには、単に犬も歩けば棒に当たるという形での学びであるよりも、犬が自然に棒に当たるように仕組まれているような形を想定する必要があると思います。
例えば、人々がカフェでお茶を飲みながら「最近の政治」について語り合っているというのは、十分に社会教育の場面です。たとえそれが自然発生的な話題として生まれたのだとしても、そのような話題が生まれる環境があったはずであり、その環境をどう作るか、ということが社会教育の課題になりえるからです。例えば、コミュニティをつくること、空間をつくること、雰囲気をつくること、話題のきっかけになったり話題を深めるための資料があること、などが課題になるのです。
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さて、民主主義が成熟してくると、人々の自由な学びを国や自治体が支援するという枠組みに対する批判も生まれました。代表的な批判は、松下圭一『社会教育の終焉』(筑摩書房、1987年)というものでした。官が民を「教え育てる」なんていうことは、もう時代遅れだ、というわけで、多くの人たちは「そういわれてみればそうかなあ」と思ったのだと思います。よく売れた本でした。
ちょうど『社会教育の終焉』が売れていた時代、生涯学習という言葉が日本社会に定着しました。臨時教育審議会という中曽根首相がつくった諮問機関が、日本の教育のあり方を刷新しようと議論する中で、生涯学習がキーワードになったのでした。
生涯学習の概念を説明するとき、縦の統合と横の統合という言い方をします。横の統合というのは、社会の中に散在しているたくさんの学習資源を、人々にとって使いやすいものにするという意味です。いろいろな区別によって分断されていた学習機会を平等に扱って、学習情報をまとめて提供したり、学習機会を分類したり、といったことがなされます。縦の統合というのは、人々が生まれてから死ぬまでの学びを統一的に捉えるということです。学校教育と社会教育との間にある溝も、生涯学習という概念によって埋まるかもしれない、と考えられました。
もうひとつ、生涯学習の概念を理解しようとするとき、その理念的側面を合わせて考える必要があります。生涯学習(当初は生涯教育と言っていました)という概念はもともとユネスコが、未来の教育のあり方として提示したものです。この概念を提示した理由について、ユネスコは1960年代と1970年代とで大きく説明を変えています。1960年代には、世の中の動きが早すぎるから、人間はその動きに追い付かなければならない、だから生涯学習だ、と理由づけています。ところが1970年代には、世の中には人類が乗り越えなければならない課題がたくさんあるから、生涯学習が必要だ、と理由づけています。
けれども、日本の教育政策への生涯学習の導入は、1960年代のユネスコと類似した考え方に基づいていました。加えてもうひとつ背景として述べるとすれば、当時、内需拡大を政策課題として掲げる中で、教育や情報が新しい産業としての価値をもつといった、経済政策の動向があったのだと思います。(津田英二「生涯学習社会における「学習」概念拡張の背景と意味」『社会教育学・図書館学研究』第18号、1994年3月、pp.55-64)
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社会教育が批判され、生涯学習がそれに取って代わるという動きの本質的な意味を、私は次のように理解しています。
まず、民主主義が成熟した社会では、人々は自由で自発的な学びを行い、社会をよりよいものにしていこうと行動する、という前提があります。そうした学びや行動が、民主主義社会を維持・発展させていくと考えれるわけです。
しかし、人々の自由で自発的な学びや行動は、民主主義を否定するという動きをつくることもありえます。外国人を排斥しようとする運動も、保育施設を迷惑施設として排除しようとする運動も、人々の自由で自発的な学びや行動に依存しています。人間というのは、理性的な存在でもありますが、同時に自分勝手な存在でもあります。
あくまで相対的な話ですが、生涯学習は一般的に、民主主義を維持・発展させる学びや行動も、それを阻害し否定する学びや行動も、等価にみようとします。外国人排斥につながる学習機会も、それに抵抗する学習機会も、生涯学習にとっては等価なので、両方ともサポートするか、あるいは両方とも政治行動として排除するか、どちらかになりがちです。社会教育は、本来的な理念からすれば、外国人排斥がいかに民主主義と相いれないかという思考に価値をおいて、学びを組織化したりサポートしたりします。
つまり、社会教育には、価値に対する問いがついて回るのです。根源的にいえば、「私たちはどう生きるか」「私たちはどうあるべきか」という問いが、社会教育の根柢に横たわっていなければならないのです。社会教育から生涯学習へ、という動きは、こうした価値に対する問いを相対化したのだと思います。そういう価値を問うような学習機会があってもいいよね、(=なくてもまあいいよね)、というのが生涯学習のスタンスなのではないか、というのが私の見立てです。
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民主主義、そしてその根底にある平等や人権、貧困や苦痛からの自由、人々の生き生きとした相互性、そういったことを大切にし、よりよい未来を切り開こうとする力。それが社会教育なのだ、というのが私の理解です。
したがって、社会教育は時代の要請によって重要になったり不要になったりするようなものではないのです。社会教育自体が守られるべき価値をもっているのです。ただし、それは現状の社会教育制度を守らなければならないという意味ではありません。その歴史的存在意義こそが守られなければならないのです。
社会教育を何から守るのかというと、学校教育中心の教育概念から守るということ、それから価値中立という思考停止から守るということ、もっと大ぶろしきを広げれば民主主義を危機に陥れるかもしれないさまざまな事象から守るということです。人々の自由で自発的な学びや行動を、民主主義という価値としっかり結び付けておくこと、これが社会教育に課された歴史的な使命だと、私は思うのです。