2016年秋から、これまで取り組んできた「のびやかスペースあーち」でのインクルーシヴな社会づくりのプロジェクトに、学習支援と子ども食堂が加わりました。「のびやかスペースあーち」の実績と時代の趨勢を考えると、必然的にこれらのプログラムが加わったといってよいと思います。とはいえ、すでに各地で、学習支援も子ども食堂も多様な実践展開がみられ、それらの実践の意味の多義性もはっきりしてきています。なぜ「のびやかスペースあーち」で学習支援と子ども食堂なのか、ということについて、私なりの考えを述べておきたいと思います。
学習支援と子ども食堂のセットは、子どもが陥っている貧困を見かねた人たちによる自主的な活動として生まれた実践といってよいと思います。いわば草の根の活動が本質なのですが、それにマスコミ、国家、地方自治体などの権力が評価し、国民運動的な様相をみせ始めています。神戸市では、この活動に助成金を支出することとし、「のびやかスペースあーち」もこの助成を活用させていただくことになりました。権力による介入が生じてから開始した実践ですから、私たちの実践は時流に乗っかったということができますが、それゆえにこそ、実践の意味を意識的・批判的に対象化する必要があると思います。
まず、子どもの貧困の問題を、現象と構造の両面をバランスよく把握する努力が必要だと思います。どちらに偏っても本質を見失いかねません。
学習支援・子ども食堂の実践は、現象からのアプローチによるものです。つまり、顕在的・潜在的に身の回りに存在する貧困問題に直接対応しようとする実践です。貧困の原初的なアプローチが、貧困層への個別的・直接的なアプローチである点、近代初期の社会事業やセツルメント運動と重なります。近代初期にも、巨大な貧困問題があり、国民国家の統合にとってその対応が急務だった時代がありました。それらの対応は、後の時代に、社会福祉の先駆的実践として評価されるとともに、権力者、富裕層からの慈善・恩恵としての実践であったと総括されました。近代社会が成熟するにしたがって、貧困問題への対応は、貧困層への慈善・恩恵としてではなく、貧困層の権利として遂行されるべきだということになってきました。
学習支援・子ども食堂の実践が、恩恵ではなく権利保障として成り立つためには、いったん子どもの貧困の問題を構造的に把握した上で、再度実践を意味づけるというステップが必要です。子どもの貧困の問題を、子どもの権利剥奪の問題として捉えるのであれば、どのような構造のもとで剥奪が起きているのかという認識が不可欠だからです。構造の歪みを放置して、歪んだ構造のもとで起こる貧困に対応するということであれば、その対応は、歪んだ構造の中で権力や財力をもっている人たちによる、歪んだ構造に押しつぶされた人たちへの恩恵という形になるでしょう。
構造の問題は、いくつかのレベルに分けて考えることができます。ここでは、国内法の不備など、時代の要請に追いつかず放置されてしまっている制度的の問題と、世界の大きな動きの中で、貧困の拡大が必然化しているメカニズムの問題といった、2つのレベルに分けて考えようと思います。両者は、実は深く関連していると思われますので、あくまでも便宜的な分類に過ぎません。
子どもの貧困を生み出している、あるいはそれの抑止に貢献できていない制度には、例えば次のようなものがあります。
・税と社会保障による所得の再分配が十分に機能していない問題
・生活保護が、必要な人たちに行き渡っていない問題
・特に貧困な片親家庭への所得再分配が脆弱である問題
・非正規雇用の賃金水準が低すぎて、ワーキングプアーが多く生み出されている問題
・公立小・中・高において、慣行的にかかる制度外の費用負担の問題
・大学の授業料等が高額である問題
・奨学金制度が貧困である問題
などなどです。こうした問題が、親の経済的貧困から子どもの経済的貧困へと、世代を超えて貧困が連鎖していく流れをつくりだしていると言うこともできるでしょう。
これらの問題の中には、奨学金の改革、高校無償化など、改善されつつあるものもありますが、十分な問題解決からは程遠いといってよいでしょう。特に所得再分配のシステムは、他の先進国と比べて著しく脆弱だといわれていますが、その部分に対する根本的な是正に着する気配も感じられません。むしろ、消費税への依存と法人税減税、年金等の負担増加と支給低減、課税の累進の漸減、生活保護支給基準の厳格化など、いっそう所得再分配機能を弱める方向への政策が実行されてきています。こうした動向をみると、単に所得再分配がうまく機能していない、ということではなく、むしろそもそも国家による所得再分配機能を弱めようという方向に政策が流れているのではないか、と疑いたくなります。
実際に、近代国家は、少しずつ自国の貧困問題に対して無能力になってきているという議論があります。近代国家の弱体化は、グローバリズムの結果として説明されます。例えば次のような説明です。
近代国家は、国民を労働力として生産力を高めることによって利潤を生み出し、資本を蓄えてきました。生産力を高めることによって大きな利潤を生み出すことができたのは、国民に消費する力があったからでもありました。生産消費活動が国内経済のもとで拡大することで、国民の生活は豊かになっていきました。すると、国内の労働力と原料費が高騰し、また国内での消費も頭打ちになっていきます。
やがて、交通や情報技術の発展なども加わって、国内での生産・消費の循環よりも、国家間での取り引きのほうが重要性を増してきました。安価な労働力を求めて、生産の場は国内から海外へと移り、消費もまだまだ伸び代の大きい発展途上国への期待が大きくなりました。こうして、国民が労働力でありまた消費者であることによって、国家経済が成長していくというシナリオは崩れていきます。それに伴って、国家経済を下支えしてきた国家の役割も後退していきます。
さらに、世界全体に資本主義経済が浸透していくことで、世界レベルで生産過多の状態が生み出されるようになってきました。供給過剰の世界では、物を生産しても高く売れないことになります。すると、生産するよりも、株や土地などを対象に資産を運用したほうが利益を上げやすくなるという投機的な資本主義に移行していきます。物の生産から離れたお金が、世界中を駆け回るという経済になってきているというのが、グローバル経済の実態だというのです。それによって、国家という防波堤は崩れ、グローバル経済に国民の生活も左右されるということになります。投機的資本主義は、世界レベルでバブルとバブルの崩壊を定期的に繰り返し、そのたびに世界中に一握りの富裕層と膨大な数の貧困層が生み出されていくという構図が生まれます。
このような説明によれば、貧困は世界規模で広がっている問題なのです。もう少していねいに言うとすれば、近代社会において先進工業国と発展途上国との間にあった豊かさと貧困の境界は、グローバル経済に発展によって、世界中の国家や地域の内部に引かれるようになったという捉え方ができるかもしれない、ということです。少なくとも貧困問題は国境を越えた問題なのであり、国家の位置づけの低下とセットになった問題だということになります。
子どもの貧困の問題は、このような貧困の拡大を必然化させるメカニズムのもとで起きていると捉えることができるでしょう。
こうした構造的把握の可能性を念頭に置いて、子どもの貧困の現象的アプローチに戻ってみましょう。改めて、身の回りに存在する子どもの貧困に、私たちはどのようなスタンスをとることが求められるか、学習支援・子ども食堂の実践に対してどのような意味づけをすることができるか、考えてみようと思います。
まず、子どもの貧困を制度的な不備の問題として捉えるなら、学習支援・子ども食堂の実践は、貧困とたたかう現場として貧困の実態を社会に伝え、制度改善を求める役割を自らに課すことができます。そうした社会運動の役割も担う先駆的で優れた実践も、実際にあります。繰り返しになりますが、貧困を生み出す制度的不備を看過するなら、貧困への対応は対処療法でしかないということにとどまらず、恩恵的な意味をもつことになってしまいます。恩恵は、人々をエンパワメントするよりも、むしろディスパワーする機能をもちやすいといわれています。
次に、貧困が拡大しているメカニズムとの関係で学習支援・子ども食堂の実践を意味づけ直すなら、新しいコミュニティづくりが本質的な意味になるのではないかと思います。
世界に貧困が広がっているメカニズムは、物が溢れる供給過多の状態の中での労働対価としての賃金の減少、国家の機能が縮小することによる国家単位のセーフティーネットの弱体化、国境を超えた貧困の再配置を伴っていると考えられます。だとすれば、貧困は、身の回りに当たり前のように存在するようになり、制度による救済を待っている間にどんどん広がっていく、という性質をもっているかもしれないのです。個々人がさまざまにもつ脆弱性が貧困につながる蓋然性をもっていて、いったん貧困に陥ったら制度的な救済を期待することができず、世代を通して貧困から抜け出すことが難しいという社会に変化してきているのかもしれません。
もしもそうだとするならば、貧困を広げるメカニズムから私たち自身を守るために、すべきことがいくつかあります。
まずは、経済のしくみを身の回りから変更していこうと努力することです。この努力は、グローバル経済のもとでの消費活動に慣れきった私たちの生活の大改造を必須とします。人間のウェルビーイングを基準にした最低限度の消費と、それを満たすための最低限度の生産、互酬性や共有を原理に取り込んだニーズ充足にシフトしていく方法を考えなければなりません。そういったことは、国家経済のような大きな範囲と人口を単位にすることは難しいでしょう。狭い範囲の顔の見える人間関係の中での、信頼のできるやりとりに基づく経済と、それに依拠した生活が、努力すべき方向ということになるでしょう。子ども食堂には、食事と時間と場所の共有を広げたり、互酬関係を発達させたり、市場に流通しない食材を活用したりするなど、新しい経済活動の萌芽を期待できます。今後、学習支援・子ども食堂の実践が、マイクロファイナンスや地域通貨のような、顔の見える範囲での身の丈にあった経済のしくみとつながった実践に成長していけば、さらに期待がふくらむだろうと思います。
しかし同時に、こうした努力を本格的に始動するためには、生活のあり方を根本から組み直すようなよほどの覚悟が必要です。まだまだ私たちの多くはそこまで覚悟が必要な状況だとは認識していないのではないかと思います。
次に、もっと緊急性の高いこととして、国家機能の縮小によって弱体化したセーフティーネットを補うしくみを、手の届く範囲からつくっていくことです。身の回りからつくっていくべきセーフティーネットは、任意保険のような市場で購入して個々人がそれぞれ身を守るようなものだけでは足りません。それだけでは多くの貧困が取り残されるばかりでなく、利益の集中や投機が促進されることを通して、かえって貧困が広がりかねません。今必要なセーフティーネットは、やはり狭い範囲の顔の見える人間関係の中での、信頼できるやりとりに基づいたセーフティーネットということになります。広域化し、顔の見えない人たちとのやりとりを広げていくと、その分だけグローバル経済に呑み込まれるリスクが増加します。つまり、新たに創出されるべきセーフティーネットは、相互扶助のコミュニティだということです。学習支援・子ども食堂の実践が社会的に評価を得ているのは、実はこの相互扶助のコミュニティの萌芽を分かりやすい形で感じさせるものだからではないでしょうか。
相互扶助のコミュニティによる新たなセーフティーネットの創出も、容易ではないでしょう。貧困が広がれば、人々の間に不安が広がります。加えて国家機能が弱体化すれば、排外主義や犯罪の増加も懸念されます。そのような中で、信頼に根ざし他者を歓待する人間関係の網の目を増やしていくためには、さまざまな機関や個人の協働・連携と知恵がなくてはならないでしょう。学習支援・子ども食堂が、多様な機関や個人を巻き込みながら、どのような相互扶助のコミュニティが形成されていくのか、見守っていきたいと思います。
貧困を広げるメカニズムから私たち自身を守るために必要な実践は、他にもいろいろあると思います。中でも人々の学びや育ちをどう支援していくかということについては、改めてじっくり考えたいテーマです。少なくとも、学校教育に依存する時代は、とうの昔に終わっているはずです。人々の学びや育ちへの国家の介入は減少していき、その形は多様化していくのではないかと予測できます。学ぶべき内容も、近代のそれとは大きく異なるものになっていくでしょう。子どもの貧困対策として注目されている学習支援も、単に学校教育の補充という意味だけでない、新たな時代を生きる人間形成の場という意味が生まれていく可能性もあります。
さて、ここに書いたことの大半は、なかなか社会的合意を得ることが難しい内容だと思います。まだ経済成長を期待して、生産と消費のサイクルが拡大することを前提とした社会のあり方が当たり前である間は、次のステップのことは考えにくいものです。物が溢れている世界は、物の足りない世界を比較する限り、ありがたい社会なのです。そういう中では、物が溢れる世界であることが困難の原因になっているとは考えにくいものです。
私自身にも、近代の延長で世界中の人々が平等に経済成長の恩恵を受けることができるような社会を描きたい気持ちがあります。しかし、排他的な国家主義や民族主義の趨勢、テロリズムの横行、大規模な難民の国境を越えた移動、日本だけでなく多くの先進国で同時に起こっている中間層の没落、株や不動産に群がる富裕層とそれに利する各国の制度や抜け道、世界の富裕層上位62人の資産が世界人口の半分の資産とほぼ同額であるほどの格差、絶望的な額の財政赤字、優秀な国民が外国で活躍することを推奨する教育の国家戦略など、実際に世界で起こっている理解しがたい数多くのできごとは、不可逆的に進む近代社会秩序の崩壊を予感させるのに充分な衝撃です。
神戸大学という教育・研究機関が運営する「のびやかスペースあーち」で学習支援・子ども食堂を実施するということの意味について、こうした認識を前提にしながら、私の考えているところを少し控えめにまとめておきます。
まず、子どもの貧困という喫緊で深刻な社会的課題に対して大学がアクションを起こすという意味です。学生と教員がこの現実を意識し、問題に直面するといった機会をもつことは、単に対人支援のあり方について学ぶ、あるいは研究するといった意味以上の意味を持つはずですし、持たなければならないと思います。
関わる人たちが学ぶべき、考えるべきこととして重要なのが、子どもの貧困が深刻であるというのはどういう意味なのか、なぜ社会に貧困が広がっているのか、貧困が世代を超えて連鎖していく先にある社会とはどういうものなのか、といったことでしょう。私の考えるところでは、子どもの貧困が深刻なのは、現象面だけではありません。むしろ想像を絶する格差が広がりそれが定着していくというおぞましい未来像を予期させることです。脆弱性をもった個人を貧困に巻き込んでいき、それを個人の自己責任に帰す社会が、そのおぞましさの入り口だと考えています。したがって、「誰が貧困なのか」ということを探すことではなく、「どう脆弱な個人をコミュニティで守るのか」「どう貧困を防ぐのか」を考えることが肝要なのだと思います。そこには経済的貧困だけではなく、国籍、民族、文化、学歴、ジェンダー、障害、社会性、知力、体力など、さまざまな要素が絡む個々人の脆弱性への視点が必要になります。
次に、社会の動きを判断しながら、対処療法ではなく本質的なアクションを探る場という意味でありミッションです。そういう場として、学習支援と子ども食堂の実践がふさわしいのかという見極めも含めて、判断しなければなりません。実践を継続することで、どのようなコミュニティが形成され、それをどのような要素が支えるのかといったことについて、注意深く観察していかないといけないと思います。信頼、協働、互酬、共有、知恵といったことが重要な要素になるだろうと、とりあえず予想しています。そうした知見の上に、次の時代を見据えた実践や組織のあり方のモデル開発などにも視野を広げることができたらと思います。
【手軽に読める関連文献】
『季刊社会運動』(特集:子ども食堂を作ろう!)No.421、2016年
阿部彩『弱者の居場所がない社会』講談社現代新書、2011年
阿部彩『子どもの貧困U』岩波新書、2014年
湯浅誠「「こども食堂」の混乱、誤解、戸惑いを整理し、今後の展望を開く」
(http://bylines.news.yahoo.co.jp/yuasamakoto/20161016-00063123/)
広井良典『創造的福祉社会』ちくま新書、2011年
広井良典『ポスト資本主義社会』岩波新書、2015年
水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書、2014年
ハーマン・デイリー、枝廣淳子『「定常経済」は可能だ!』岩波ブックレット、2014年
森岡孝二『雇用身分社会』岩波新書、2015年