教育学や社会科学の領域で、「国家」対「国民」という二項対立図式がリアリティをもっていた時代があった。私が学生の頃、まだかすかにリアリティを感じていた。1980年代末のことだが、学費値上げ反対の集会に参加したりしては、「当局」「国家資本主義」などという言葉、集会を取り巻くいかつい男たちの姿、「あの人たちは普段何をしている人たちなのだろう?」という疑問に強く印象づけられ、教科書検定訴訟の支援運動に参加しては、構造化された体制の硬い殻を感じたりした。
同時に、私が学生だった時代は、颯爽と現れたポストモダンの潮流に、多くの学問分野が揺さぶられた時代でもあった。「国家」対「国民」という二項対立図式で世の中を捉える時代は終わったのだというパラダイムシフトに立ち会った時代だったともいえる。私たちの生を脅かす権力は、目に見える「国家」に集約されているのではないよ、私たちの中にある権力を問題にしないといけないよ、という問いかけは、私自身の研究のあり方に大きな影響を及ぼした。国民国家を前提とした議論から、国民国家の抑圧性を問題にする議論を経て、多様性や自律、協働をキーワードとして社会を把握するようになっていった。ちょうどバブル経済が弾けた時代でもあり、未来にはいずれ破滅があるという終末的な思想も感じながら、人類も社会も紆余曲折しながらも進歩・発展するのだという歴史観からも離れていった。
それから早くも20余年が過ぎた。ポストモダニズムが予告した通り、モダニズム帝国の崩壊後、「大きな物語」の成立が困難な時代が続いている。「国家」対「国民」という二項対立図式のもとで、主体として形成された「国民」が「国家」をコントロールするようになるという「大きな物語」、そのような進歩のもとで、「国民」の間にある格差がなくなっていくという「大きな物語」に基づく歴史観は、すでにその前提から崩れてしまった。そして、それに代わる「大きな物語」が生まれる手掛かりすらない。そういう時代が続いてきた。
「大きな物語」が失われたことと、私自身が実践的研究に力を注いでいることとは、もちろん無関係ではない。「大きな物語」に代わる「物語」は社会の細部にあるはずだ、したがって人々の存在とともにある「物語」に着目し、その「物語」の中から人間社会の本質を構築的に探りだそうという思想が、私にとっての実践的研究の足場にある。そうした思いをもって臨んできた実践的研究は、たくさんの試練や学びを与えてくれ、私の研究者人生を豊かにしてくれたと思っている。しかし同時に、社会の細部にある「物語」に着目すればするほど、砂漠の砂の一粒一粒を顕微鏡でのぞいている気分にもなってきた。砂漠の一粒の砂を観察しても、砂漠のことは分からないというもどかしい気分である。もちろん初めから実践的研究の問題性は知っていて、砂漠の砂の一粒一粒に宿る砂漠の全体像を観じていくのだという思いは抱き続けてきた。しかし、常に初心に立ち戻らないと、すぐに「何のための研究か」という前提を忘れてしまうという問題がつきまとってきた。
そして現代、すでにポストモダンなどという言葉さえ古めかしくなり、ポストモダニズムが予言したさまざまなことが、私たちの世界を構成するリアリティになってしまった。そうした時代において、砂の一粒一粒を顕微鏡で観察することこそが研究であり科学であると開き直る合理主義が勢力を広げ、脱イデオロギー化(ということ自体がイデオロギーなのだが)が潮流となった。砂漠の全体像を捉えようなどということは無駄であるか、危険であるか、いずれにしても避けて通るほうが無難な試みとなった。
しかしながら、興味深いことに、こうした状況に石が投げ込まれる事態が、特に東日本大震災後の社会において起こってきているように感じられる。猛威を奮う砂漠の全体像を問題にせざるをえないできごとが、私たちのリアリティを構成するようになってきたのである。"そのようなものはない、幻想だ"と宣伝されてきた「大きな物語」が、再び視界に表れきたように感じられる。もちろんそれは幸せなことではない。その猛威を克服したところで、その先に待っているものがユートピアなどではないことを、私たちは知ってしまっているからだ。モダニズムの楽天的な「大きな物語」など、私たちは持ちようがない。しかしそれでも、世界に共有されつつある「大きな物語」は、私たちの世界観に影響を与え、行動や思想を律する。
現在立ち現れようとしていると私が感じている「大きな物語」とは、さまざまなビッグイシューに通底すると広く一般に認識された構造である。
確かに、核兵器やエネルギー問題、構造的暴力を生じさせる世界システムなどは、モダニズムへの懐疑が始まって以来、とてつもなく大きな類的課題であり続けてきた。しかし、これらの課題ひとつひとつが「大きな物語」を構成することはなかった。それらの課題は、それぞれ別個に扱われるべき課題としてみなされてきた。現象を支える構造が、多くの人たちに共有される形で表れていなかった。せいぜい「私たちのライフスタイルを見直そう」というところに、ポストモダン的な構造把握が表れていたにすぎない。私自身もこうした言説を授業や散文などの機会にずいぶん繰り返してきた。
しかし、最近になって、さまざまな類的課題への対応策としての「私たちのライフスタイルを見直そう」という言説は、まやかしの匂いを放つようになってきた。もちろん、そうした言説が誤りではないのだが、同時にそれは私たちを飲み込もうとしている巨悪から目をそらす効果をもたらすのではないか、と感じられるようになってきたのである。巨悪、私にとってそれは、グローバル資本主義を象徴とする、1980年代を端緒に世界を席巻する政治・経済体制、及びそれを支える新自由主義の思想である。これを巨悪と書くのは、私がそれと正反対の極にいると自分自身をアイデンティファイしているからである。グローバル資本主義の極にいる人たちからみると、私は抵抗勢力であり、もしかするとそれこそ世界の破滅をもたらしかねない巨悪の一味かもしれない。
国家や地域の枠を取り払い、世界中の富を独占しようと日夜努力を欠かさないグローバル資本主義が、単に世界中の格差の拡大に貢献しているにとどまらず、さまざまな資源を枯渇に追い込み、戦争や原発などの人々の命にかかわる問題を金勘定の次元に引きずり下ろし、人々の命や生活を食い物にしている元凶であるという認識が、ずいぶん多くの人に共有されてきたように感じられる。それは、リーマンショックなどの騒動で露わになった拝金主義、「実体経済」などとわざわざ名づけなければならない状況、福島原発事故で人々の涙も乾かぬうちに強引に進められる原発再稼働の動き、米軍基地の辺野古移設や集団的自衛権などの安全保障をめぐる憲法再解釈の動き、人間が主体的に制御できる経済を破壊しようとするTPPをはじめとする運動など、人間の命や生活を軽視した大きな変化の背景に、グローバル資本主義があることが周知の事実となってきたことによるのだと思う。もはやこのあたりのことをくどくどと述べる必要もない。歴史を動かす抗うことのできない大きな力を共通に感じながらも、人々は、急激に進められる変化を「破滅への階段と捉える人たち」と「明るい未来のための布石だと捉える人たち」とに二分されつつある。かつての東側陣営対西側陣営のイデオロギー対立の再来を予感させる。二分された議論の間にコミュニケーションが成り立ちにくい状況が再び生じつつあるように感じられるのである。
露わになりつつある「大きな物語」を構成するのは、一方にグローバル資本主義があり、他方に抑圧された人々の命と生活を守ろうとする営みがあるという、二項対立図式である。後者の営みに根拠を置きながら、前者による浸食を防ぐという図式によって、私たちの生活や実践、そして研究を位置づける。そういう意味での二項対立図式である。ポストモダンの洗礼を受けた私たちの世代は、二項対立図式に対する懐疑を習慣化してきた。勧善懲悪なんて嘘くさい、精神と身体の二元論は諸悪の根源だ、世の中は、あるいは人間はもっと複雑にできている、そのように考える習慣が身についてきた。それゆえに、私自身も問題の所在を知りつつも、この二項対立図式を根底に据えて考えることに抵抗を持ち続けてきた。しかし、そんなことを言っている場合ではなくなってきた、という焦りが、徐々に私の中に育ってきた。
骨太の社会分析をしてきた社会科学者から、「何を今さら」という声が聞こえてきそうである。しかし、こうした現実感覚の共有は、社会科学にとっても重大だと思う。実践的研究、エスノメソジーや現象学に基づく研究に改めて意味づけがなされていく。構造と現象との関係、本質主義と相対主義との関係が問い直される。砂漠の砂一粒一粒と、砂漠全体との関係を不問に付すことができなくなってくる。あるいは、その関係を不問に付すこと自体が、ひとつのイデオロギーの表明であることが自明になってくる。かつて「そんなもの科学ではない」とされた研究実践が、やがて市民権を得て、再びその意味が弁証法的に問い直される。私が学生だった頃から現在までの間に、時代はいろいろな意味で一回りしたように感じられる。
さて、久しぶりのコメントは、ずいぶん大きな風呂敷を広げることとなった。私自身のさすらいの現在地を披露したわけであるが、私の取り組んでいる実践的研究にとってこうした思索の過程は重要である。根源的な問いに関わる過程だからである。私はなぜ、この人たちとの関わりを紡いでいこうとしているのだろうか?私はなぜ、障害の問題をめぐって社会について考えようとしているのだろうか?私はなぜ、共生やインクルージョンといった理念を大切にしようとしているのだろうか?そして、研究者としての私の営みにはどのような意味があるのだろうか?そういった問いである。