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Comments No.6 津田英二研究室

実践的研究は現象の多義性に向かう(2014年9月)

実践的研究というと、「実践に役立つ研究」あるいはその逆に「研究に役立つ実践」をイメージする人が多いと思います。実践から研究に矢印が向いているか、研究から実践に矢印が向いているかの違いはありますが、この2つの捉え方は、「実践をフィールドとして何かを実証する研究」と捉えている点で共通しているように思います。

実践的研究のフィールドを標榜する「のびやかスペースあーち」を創設して9年が経ちましたが、私が志してきた実践的研究は、そうしたものではありませんでした。狭義の実証研究は、現象の多義性を捨象します。逆に実践現場は常に多義的です。多義的な世界から一面的な意味を切り取る過程には、イデオロギーが介在します。研究者が実践に関与する以上、そのことを肝に銘じ、自分が無意識に持っているイデオロギーに自覚的でなければならないと思います。

例えば、障害学は「障害」には「個人モデル」あるいは「医療モデル」と「社会モデル」という対立的な理解があるというように捉えます。前者は「障害」を障害者が抱える個人的な問題であるとし、治療によって問題解決すべきものと捉えるとします。後者は「障害」は社会の問題であり、障害者を抑圧する社会を変革することによって問題解決すべきものと捉えると考えます。この二分法を提示されれば、多くの人は後者に依拠していると自分を位置付けるでしょう。私もこれまで書いた文章で、「障害の社会モデル」を説明要素として自分の立場を表明してきました。

しかし、実践現場では、この「障害の社会モデル」でさえもイデオロギーにすぎないという現実を突きつけられます。つまり、「障害の社会モデル」という捉え方では、目の前に起こっていることを十分に理解したり説明したりできないという事態が起こるのです。「障害の社会モデル」という枠組みをもって現象に入り込むと、新しく見えてくるものもあって有益ですが、その枠組みにこだわってばかりいると、どこかで現象と乖離してしまうのです。

「特定の働きかけによって問題行動を矯正しようとする科学」は、「障害の個人モデル」あるいは「医療モデル」に親和的だと思います。ある人に「問題行動」がある場合、無条件にその「問題行動」が問題だとするのは、問題をその人個人の問題に定位することになるからです。「障害の社会モデル」に依拠すれば、「問題行動」の問題は、まずその行動を問題だと感じる社会の問題だということになるでしょう。ところが、障害児の保護者がこうした「科学」に関心を寄せ、それを子育てに応用しようとすることを、「障害の個人モデル」あるいは「医療モデル」だと断じる気にはなれないのです。確かに保護者の中には、そうした「科学」を信奉し、他の可能性を排除するような態度をとる人もいます。はっきり言いますが、そうした依存を創出する「科学」はすでに「科学」ではありません。依存の責任は、それを信奉する保護者にあるのではなく、そうした宗教的な関係の生起を許す研究者や研究を取り巻く環境にあります。ただ、私がこれまで実践現場で出会ってきた保護者は、いかなる「科学」であっても信じ切るような人たちではありませんでした。そうした「科学」を自らの生活の中に取り込み、生かそうとする主体でした。「そのやり方はうちの子に合っている」けど、そのやり方を支えている世界観にまで染まっているわけではないように感じられます。「問題行動」を矯正できるものならしたいけど、それ以前に「問題行動」に対する社会の冷たい視線や態度に不満を感じているようです。つまり、実践現場では「科学」でさえ多義性の海に埋没しているのです。「問題行動」の矯正の仕方を模索する保護者を、「障害の社会モデル」という観念を持ち出して理解しようとすることに、限界を感じるようになりました。こうしたことが、実践的研究に取り組むことで得た、私の最大の気付きだったかもしれません。

実践に入り込み、私自身が実践の一部になればなるほど、私にとって実践的研究とは、この多義性の海の中に身を置くということになっていきました。狭義の実証研究は、多義性を無視しないと成り立ちません。統計的実証研究などが良い例です。障害児の保護者たちに、「個人モデル」あるいは「医療モデル」的に障害を捉えているか、「社会モデル」的に障害を捉えるかという質問に答えてもらい、一方の捉え方のほうが有意に多かったといったような分析を行います。それぞれの人が主体として、その時々において概念操作を行っているのだとすれば、そもそも質問がナンセンスだろうし、まして二分法で捉えた概念のいずれかが優位であるといった結論を出すのは、社会的現実の意味をやせ衰えさせるような行為なのではないかと感じるようになりました。

こうした批判意識をもつことになった私が、実践現場に身を置いて得たことは、自分をいかに柔らかくすることができるか、自分の偏った立場や観念をいかに反省的に捉えなおすことができるかといった構えだったように思います。「こうも言えるけど、ああも言える」といった言説は、実践にも研究にもあまり役に立ちません。ですから、私にとって実践的研究は、「役に立つ研究」という一般的イメージから離れ、現象を深く捉えようとする基礎研究のようなイメージになってきています。

このように振り返ってみると、私のめざしている実践的研究の方向性がはっきりします。社会的現実の中にある多義性を、できる限り多義的なまま提示するような研究です。ただ、実践現場において多様な意味は並列に行儀よく並んでいるわけではありません。意味どうしが対立し傷つけあい、反乱を起こします。主体が、その場その場にふさわしく概念を操作し、意味を創出しているのだとすれば、当然です。人はそうやって活き活きと生き、学び、成長しているのです。