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Comments No.7 津田英二研究室

コミュニティからみえる専門性について(2014年9月)

これまで私は、専門性の問題について語るとき、専門性幻想が引き起こす依存に焦点を当ててきた。人間が専門的知識や技術を使いこなす主体である間はよいが、その二者の立場はよほど気をつけないとすぐに逆転する。私たちの生きる時代では、専門的な知識や技術が人間を支配するという問題は、それらを使って人間が豊かになるということよりも切実な問題なのではないか、と感じる。

しかし、専門性自体を否定しているのかというと、そうではない。人間が主体として使いこなせる専門性については、大いに語る必要がある。その際に最も基底にあるのは、専門性を必要とする現場と、専門性が生み出される現場との関係の問題だと思う。この2つの現場の間にある距離を、まずは問題にしたい。専門性が、問題が起こっている現場とは別の次元で抽象化され、肥大化していくことの是非である。

学生にとっても専門性は大きな問題である。学生の視点からは、専門性は資格取得とも結びついている。資格を取得することが専門性をもつことだと勘違いしている学生もいる。そういう傾向は危険だ。出発点のところから人間を支配する専門性を指向しているのだから。大学のカリキュラムを作成するときにも、学生にどういった専門性を身につけさせるのかということを強く意識しないといけない。資格取得ができるカリキュラムは、必然的に看板になっていく。

学生には、専門性を必要としている現場を経験して、そこから生まれる問題意識に動機づけられて、問題解決のための専門性を磨いていくといった王道を歩いてほしい。私たちの行っている実践的研究は、学生たちに、そういった現場を提供するという意味をもっている。

さて、そうした実践的研究の現場では、専門性をめぐる政治が繰り広げられることが多い。「あーち居場所づくり」ではここ数回、終了後のミーティングで熱のこもった議論が繰り広げられる。論点は多岐にわたるが、専門性の問題に関連する話題が多い。例えば、「あーち居場所づくり」のボランティアは、どこまで関わる子どもの育ちや安全に責任をもつべきかといったテーマがある。ボランティアの中には、「役に立ちたい」という思いが強い人もいれば、ボランティアはサービスを提供しなければならないという観念とたたかっている人もいる。議論は対立する場面も多い。「さまざまな人によるさまざまな関わりが子どもにとっても望ましい」という結論に落ち着いていくことが多いのだが、何かモヤモヤが残る。モヤモヤの原因は、「それでは私たちは何を求めて活動をしているのか」という、そもそもの問題を呼び起こすところにあるように思う。

「あーち居場所づくり」にやってくる人たちが持ち込んでくる多様な課題に接しながら、何かの専門性を持とうと決意するのであれば、その動機には、持ち込まれた課題の解決のために役に立ちたいという思いが含まれる。自分が社会や他者の役に立つことは、その主体の精神的な健康のためにも望ましい。自己効力感は自尊心をもたらす。しかしその一方で、「あーち居場所づくり」は、「すること」ではなく「であること」が存在理由の基盤であるコミュニティをめざしてきた。つまり、何かができること、役に立つことが、メンバーシップの条件ではない。誰であってもただそこにいることの価値を追求してきた。その観点から考えると、ボランティアの人であっても、まずは「役に立ちたい」「役に立たなければ自分の存在意義が見失われる」という強迫観念から自由になってもらいたい。つまり、学生を含めたすべての人に、自分が自分であるというだけで価値があるという実感をもった上で、「役に立ちたい」という思いを抱いてほしい。自分に価値があると思えないからこそ「役に立ちたい」という強迫観念をもつ場合もあるのだから、ジレンマなのだけれど……。

その上で、「あーち居場所づくり」に来る人たちには、自分の追求すべき専門性を明確にしていってほしいと思う。その専門性は、既成の専門性の枠組みに収まるものであるかもしれないし、その反対に既存の専門性に対抗する専門性だったり、そもそも誰にも気づかれないような地味な専門性だったりするかもしれない。例えば、「あーち居場所づくり」を障害児教育、臨床心理、障害者福祉といった既成の専門性を高める足場にしていった人がいる。その一方で、既成の専門性の枠組みへの批判意識を高めた人もいる。そういう人は、モデルコースが準備されていないので、苦しい道を歩む場合が多い。でも、新しい道を歩む人はたいてい苦しい。遠い将来になるかもしれないが、ちゃんと新しい専門性を手に入れてほしいと思う。

私自身の専門性ということを考えてみると、覚束ないというのも事実である。シンポジウムや講演会などで、○○の専門家などと紹介されると、とても恥ずかしい気持ちになる。専門家などと呼ばれるような年齢でもないし、まして追究してきたことさえ疑問だらけだし、信念を持って真偽を判断できることもほとんどない。そんなとき、専門家なんて、なりたくてなれるものではなくて、求道していくうちに何となくそれらしくなっていくようなものなのではないかと感じる。真の意味での、つまり問題が発生する現場に役立つという意味での専門性なんて、覚束ないものだし、謙虚でなければならないものだと思う。それでも、私は追究できる何か新しいことをもっていること、何かを追究できる立場に置かれていることを幸せだと思う。

専門性をもつということは、追究すべき問題意識をもちつづけ、あれこれもがくこと。それがアルファでありオメガであるように思う。