ある研究会に招待されて行ってきた。退職・現役経営者や地域活動に携わっている人たちが中心になって進めている研究会のようだった。私が取り組んでいる実践的研究の枠組みを2時間余りにわたってお話しさせてもらった。とても興味をもってもらい、激励の言葉をたくさんもらった。
そもそもこの研究会への招待は、『物語としての発達/文化を介した教育』を読んだメンバーが私の話を聞きたいと提案したことで実現したようだった。どうやら、研究者の間で交わされる言説よりも、生身の体験から書き起こそうとしたこの本の意図が伝わったようだった。
彼らの関心の中心は、ふくれあがった身体感覚をもたない概念に惑わされている私たちの認識を省察し、本物の言葉に基づいた思考をしようということであるらしかった。彼らの代表は「自分の中にある真実(まこと)」という言葉を使っていた。研究も、対象世界の分析よりも前に、自分自身についての省察をすべきだという考えから、研究会に研究者を招待するということを実践しているようだった。
実感に基づいた本当の言葉を語るということ、私自身の認識枠組みの問い直しといったテーマは、私の実践的研究においても重要である。そのことをめぐって研究/教育/実践に取り組んでいると言っても過言ではないと思う。しかし、実感に基づいた言葉と流通する概念を駆使した言葉との間に、そんなに明確な区別はない。というよりも、流通している概念を駆使しながら実感に基づいた言葉を紡ぎ出している。また、身体感覚に基づく言葉の使用を徹底しようとすると、私のような小人は言葉を失ってしまうのではないか。
私の話の中で特に関心をもってもらったのは、「障害とは第一に非障害者がつくっている社会の障壁だ」というテーマ、「したがって障害のことを考えるということは、私自身のあり方を問い直すということだ」というテーマだった。障害学においては自明のテーマだが、一般の人たちには衝撃的なテーマであるらしい。もっとテーマ化して語ってもよいことなのだと感じた。
それにしても、大学という空間は客観性・普遍性、そして実証性に高い価値があり、私たちはそれに大きなプレッシャーを感じながら仕事をしている。身体感覚に基づく言葉を話そうとする実践、自分自身を問い返すといった実践の価値は低い。惑わされなければよいとも言えるが、組織人でもある以上、そうとばかりも言っていられない。業績を上げろと言われれば論文を書かなければならず、論文は客観性・普遍性に基づいた実証性に価値が置かれる。そうでなければ「そんな作文、何の価値があるのか」と言われる。そうした中で普段は、私のめざしていることは大学という組織の中では認められないのだという諦めの感覚をもっている。この諦念が日常化し当たり前になっていると言ってもよい。もっと言えば、ディスパワーされている。研究会で激励の言葉を聞いているうちに、そのことに気づかされた。
研究会では大学の実状のようなことは一切語らなかったが、彼らもよくわかっているようで、「大学では認められないかもしれないけど、一般人はあなたのような研究者を応援しますよ」と言ってもらった。そうなんだな、そうかもしれないな、と思う。
そういえば、今年度の授業でも同じようなテーマが浮上している。「私」自身の認識を問い直すことが、対象世界の理解という前に必要だというテーマだ。そうしたテーマをラディカルに投げかけてくる学生が複数いるからだ。これは本当に嬉しいことだ。博士論文を書いている指導学生さんも、同じだ。障害者と向き合った「私」が相手にどのようなまなざしを送るかということを現象学に基づいて把握しようとしている。研究/教育/実践それぞれの領域で、自分自身を問い返すというところから始めて世界を変えていこうという静かなムーブメントが育ってきているのかもしれない。がんばろうっと。